記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

個性は価値だと思う。

いくらニートで引きこもっていようが、いくら教育水準が低かろうが、いくら教養がなく一日中エロいことしかしてなくたって、いくら社会的善を追い求めようが、いくら自己の快楽にひた走ろうが、それはその人だけの個性である。いくら、同じマンションの隣で生まれ育っても、もしくは双子で同じ家で生まれ育ってもどんな似たような体験をしても、同じ経験をすることなどありえないから、個人は個性だ。

今のところ、個性というと、自分をうまく表現したり、人の意見に流されず自分の考えを押し通したりするようなときに「個性」というが、僕はそう思わない。みんなに個性がある。というか個性があるから個人が成り立つと言える。

いま世間でいう「個性」とは、社会を変えるとか、アート性を持つみたいな努力前提がある。そうではなく、個性とは、誰もがもつ性質なのである。

そうした個性を価値とみなせる社会が本当にいい。

アーレントが言っている活動とはこういう個性を表現しあい価値化していく活動だ。自分を試行錯誤し表現し、認められれば価値となる。現代と違うのは、大きな流れとして個性が定義されるのではなく、表現を通じて、みんなが違う中で、それでも共感を得るものが価値なのである。

こういう個性を価値化することは実存的に追い求めるものだから、これを社会的に実現したい。

今日は比較的現実的なことを考えたい。

人間は誰しもが幸せや快楽を求める。

それを人工的に作れないか?誰もがそう思うだろう。

フロー理論とは、そういう幸せな体験を研究し、再現できる可能性を探究する。

flow


フロー体験については以下を見てほしい。
(参考http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。

みなさんはフロー体験をしたことがあるだろうか?ランニングハイみたいな感じだろうか。

語学、特に発音練習などは身体を使って集中して取り組むスポーツに近い。語学でもフロー体験を味あわせてあげることが語学へさらに情熱を注ぐ契機になるのではないか。

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08

 

日本語を教える傍ら、僕自身中国語を学んでいる。

一人でカフェとか飯食ったりするとき、移動のときとかちょっとした時間に語学したいときがある。今の時代、アプリとか本にしてもスマホで見れるから「いつでもどこでも」勉強できるといえる。

しかし!

この、
  1. スマホを取り出す
  2. ロック解除
  3. アプリ起動
  4. 起動待ち
  5. 学習内容選択

というステップがめんどう。 こんな些細なことが我慢ならないのだ。
とくに4の起動画面の1,2秒は萎える。

このステップをいくらか解消するために動作を早くするために頑張る、というのは努力の方向が違っている。 

一発で全部解決する方法がある。

それは、教材を覚えてしまうのだ。
脳内に入れて持ち歩くのだ!

0d5593fb.png


一番味気ないがシンプルなのは、
短い文章を暗記し、それを繰り返し読む。発音をセルフチェックできるくらいの知識が必要である。

それに特化した学習法を開発しようかな〜


頑張りましょう。

 

友人でこういう人がいる。30歳で某大手メーカー勤務。以前中国に二年間駐在していたので、日本に帰っても語学を続けている。マンツーマンの先生をプライベートでつけている。毎週1回で5千円くらい払っている。

これを見ると、民間で切磋琢磨したサービスのほうが全然いいと思うが、実際彼は素人に5千円払っている。それに授業内容も一貫していないし、具体的な目標もない。彼は語学をしているようで、語学をしていない。でもお金は払っている。

真理はどこにあるか分からないが、週一回女の子とカフェで勉強の名目で会って話せることなど複合的な要因が彼を語学に駆り立てる。

こういう生徒をターゲットにすべきか?

もし語学でこういう生徒もターゲットにするなら、サービス内容を「最効率的語学」から変えなくてはならないだろう。

逆に「最効率的語学」だったらこういうおいしい客は来ない。

サービスを提供するなら集中が必要だ。

前にも書いたが、目的によって提供する語学内容は変わる。全部は初期のスタートアップじゃカバーできない。まずはターゲティングだ。

たた、サービスをターゲットごとに分化しても、ビッグデータとして生徒の行動を分析することは必要だ。

55523dcd.jpg



語学している人のほとんどは何が目的なのか分かってないでやっている人が多い。

語学に限らず実は大体の行動がそうなのだけど、語学は特にそうだ。

c5a299f1.jpg




漠然と語学力を高めたい、というのは目的がないのに等しい。だらだら美人講師と毎週カフェで2時間やったところで意味ない。

だから、シュリーマンみたいに「ガチで語学が必要」な人以外、語学する必要ない!!

と、ラジカルな話はしない。

やっぱり、僕らはある程度嫌々な状態で知識を増やし、能力を高めなくてはならない。

なぜか?

いやいやで学ぶ中で基礎ができて、その土台から何かに興味を持つ可能性があるからだ。

義務教育で嫌々に英語をやってきていたとしても、やはりやっているだけに英語が目に付けば読んでみたりするし、実践で使いたいと思うだろう。仮に成績がよかったら、大して望んでいなくても「留学してみるか」となるかもしれない。こうしてどんどん可能性は拡がってゆく。

特に、今の時代は全世界的にグローバル社会へのトレンドがある。国家を超えた社会のマージ。日本も隣国の超大国中国との付き合いは増える。通訳を介さないでのコミュニケーションは超重要。

なんでもかんでも楽しんで行うことは大切だ。でも、現実を見れば社会は「荒野」である。嫌なことでも我慢して自分の能力を高めることは一日1時間でも継続してやるべきだ。中国語学習はその中でもあなたの可能性を最も開いてくれる一つの契機となる。 


今の時代はどういう流れの中にあるか。これまでは幼少期に形成された全知全能の自我を、人間社会で生きる中で、押し殺さなければならなかった。そしてめげずに頑張ったものだけが過去の自我から一貫性をもった安定した自我を築くことができる。今後、われわれの多くが一般的に自我を安定させることができる社会になる。


これは言い方を変えると、これまで人はその人に合わない型か合わないゲームで勝負させてこられた。人と違うことしてていい、何やってってもいいよやる気があれば、という社会になっていく。もちろん、やる気がなくても生きていられるようにしたいけど、やる気があればハッピーでいられるようにするのが先決。


お金で売ると一般的な尺度で判断されることになる。結局、ものを売るには<世界>に置くわけだから、全ての人が対象になる。でもその商品に価値を見出してくれる人に認知されるにはマーケティングコストがかかる。その人に「分かる」形で表現しなくてはいけないし、その人に届けないとだめだからだ。


以上、メモ。

外国語を学んでいる人のほとんどが、「必要に迫られていない」状況で勉強しているのではないか?
c5a299f1.jpg




例えば、将来的に就職や昇級するため、大学受験のため、留学のためなど「理性的に」或いは「言語的に」思考した結果として、自己の欲望をコントロールし勉強しようとしている。

ありきたりな話であるが、結局「どうしても語学が必要な状況」に追い込まれないと勉強しない。

この説明を人間の実存の本質から竹田青嗣は著書『現象学は思考の原理である』で展開している。ハイデガーの実存の構造分析から夏休みの宿題を期日ぎりぎりまでやらないことの理由を解明している。

ハイデガーが「情状性」と「了解」を人間実存の中心概念として捉えるのは、人間存在がいわゆる「意識」や「主観」といった概念に収まりきらないことを現象学的な内省により見抜いていたから。ハイデガーでは人間の行為は単なる意識的な「思惟」や「判断」の結果ではない。先に述べたような「情状性」の到来が「主体」を内的に触発して一定の目標や目的を作り出す(了解)という構造が本質的に存在する。

たとえば、ふつう生徒は宿題を提出せよと言われて宿題を提出するが、少し考えてみると、宿題をするという行為は、理性の判断によってという以上に、じつは「気分」がこれを規定していることが分かる。ある生徒は、明日の宿題の提出を言われていても宿題をやるとは限らないし、ある生徒は、どれほど事情があって時間がなくても宿題をしないでいくのは耐えがたいと考え、あえて学校を休もうとまでします。このような行為を説明するのは、人間を押している「気分=情動」ということ。

頭でどれほど宿題をすべきと理解していても、不安な気分によって動かされなければ人は宿題をしないですませることができる。逆に、宿題が必ずしも必須のことでないと分かっていても、不安に押されると人はそうしないではいられない。人間の<身体性>を「情動」−「行為」という図式で考えれば、「行為」を根本的に押すのは「情動」であり、単なる「理解」や「判断」ではない。…人間を可能性としての<身体>として駆り立てているのはいわば意識を超えた非知なるものとして到来してくる情動(欲望、感情)なのだ。(222−223)

結局、理性で「語学する意義を理解して」外国語を学んでも、身につかない。

ではどうすればいいか?

どうしても「情動」が勉強を促すような状況に身を置くことだ。

留学はどうだろうか?外国に行ってしまえば、たしかに生活する上で外国語が必要となるので情動に押されて勉強に向かおうだろう。ただし、アメリカとか中国などに留学しても、大都市は日本人が多いし、国際都市なので言葉が不自由でも生きていけるようになっているので、環境の選び方は重要である。

仕事はどうか?駐在で外国で仕事をする、現地採用で仕事をするというパターンがあるだろう。仕事は生きていくために不可欠なことであれば(例えば、人に養ってもらっていながら働いている人は不可欠ではない)外国語学習は「やらなくては本当にまずい」必要なものとなるだろう。しかし、これも環境が重要で、周りに日本語をしゃべれる人が多かったりするといくらでも妥協できてしまう。

いずれにしても、理性的にその必要を認識して勉強するのは無理がある。仮に無理をして頑張って語学できたとしても、実際それが役立つ機会も少ないであろう。昇給のためにTOEIC頑張った人が、英語で仕事を得られることなどほぼない。

語学をやるならその動機が重要。理性的に考えず、たんに「面白いから」というのでもいい。何ごとも気分に押されてからでないとできない。


われわれは日々いろいろな経験により、何かを学び、自由意志で沢山の選択肢から選び取って行為している。いろいろな経験というのは外部情報に発する。人とのコミュニケーションであったり、テレビやインターネット、本などのメディア、街の様子や自然の景色やあらゆる外部情報である。

その「いろいろな経験」の結果、「ある行為」が生まれる。ここに因果関係があるとすれば、沢山の人間のあらゆるこうした経験と行為のビッグデータを蓄積すれば「経験」と「行為」の因果関係が明確になり、為政者はそれを利用してある「行為」を量産できる。例えば、5歳までの子供の頃に親戚たちと週に1回以上接していて、小学校で生徒会に入っていて、高校でラグビーをやっていて、などの結果、30代で「社会貢献活動」という行為を行うなど。

さらに、これよりもっともっと細かいこと、生まれてから894日目に何を目にする、とか。もちろんそれを認識する主体の分子構造なども。そこまでコントロールされたら、われわれが自由意志で行為しているように見えても、既に決められたレールの上を決まりに沿って歩んでいるにすぎない。

自分たちは複雑なリアルな「今、ここ」の持続を生きているように感じているが、その行動はいとも簡単に操作されてしまうのだ。

催眠術とか見ればそれが分かる。トランプの選挙だって、大衆をどう動かすかという経験的な知を使って、どのボタンを押せばどうなるかということの繰り返しで票を取ったようなものであろう。経済的、技術的な問題で全人口の各々への働きかけ(どういう体験をさせるか)というのはまだ実現していないが、もし一人ひとりにまでがっつり働きかけることができるようになれば社会は完全に操作されるかもしれない。

その鍵がビッグデータなのだろう。例えば、僕の学歴や職歴はもちろん、普段の行動を一秒単位で記録されれば何を食べたかどんな仕事をしたか、どんな会話をしたかなどの情報も取られ、それが「どう投票に結びついたか」など他のサンプルとくらべて分析すればどういう過去の経験がその「投票」に影響したかがすぐ分かるだろう。あとは次のときに同じような手法で動員すればいいのだ。

d40f7896.jpg




ただ、おもしろのは、僕はそれが動員されたと気づかないことだ。北風と太陽ではないが、僕が普段目にするメディアなどに何気なく情報を紛れ込ませ、着々と投票の意思決定への準備がなされる。こうなると、「現時点」での状況との境目がよくわからなくなる。今だってそういう情報はそこまで精緻ではないがたくさんある。僕が昨年投票した決定だって、そういう情報に基いているのだ。そうなると、結局は、意識的に「動員された」「強制された」と感づかなければ社会的には許さなければならない。

今後、このような動員に抗うには、相当な主体的な情報収集が求められる。でも、その仮に主体的に情報を集めているようでももうすべてが動員のために息の掛かったメディアになっていたらどうなるか。1984の世界とは違う。なぜなら、監視されていること自体を知らないからだ。自由に振る舞っているつもりでも、全部ビッグデータとして取られ、その分析をもとにした働きかけがなされる。

さて、語学サービスを提供する側もこれと同じことなのだ。私は今日本語を外国人に教えている。語学を教えようとすると結局、その人の過去を全て理解しその人がどんな感受性を持っているのか理解する必要がある。そしてその生徒にコミュニケーションで働きかけ特定の刺激を与えて、彼らの意識状態をコントロールする、というのが基本構造。

ちょっと考えてみてほしい。そもそも、英語を学びたいと思っている日本人にとって、既に申し分のない環境がある。作文や音読をすればネイティブから無料ですぐに添削されるサービスもあるし、youtubeやpodcastなどに勉強の素材はいくらでもある。ちょっとお金を払えば至れり尽くせりのサービスがあるのに、やらない。なぜか。結局必要ないことなのだ。 そういう感受性や過去を持っていないから。だから、こっちがそういうのが「必要」な物語にしてあげないといけない。物語を創ってあげる。そうして、特定の刺激を一定期間与えることで語学を真面目にする人間を作っていくことになる。

語学といっても、その人の総合的な「人間」の分析がかかせない。社内のTOEIC対策の人は真剣に英語をやることはない。彼を真面目にさせるには、外国に行かせたり、興味持ちそうな映画を見せたり長期的な仕掛けが必要なのだ。安い!超効率的!というような語学プログラムを与えても北風に過ぎず、彼に英語は身につかない。 

(ちなみに語学はおいておいて、あらゆる商品やサービス、さらには政府の政策に至るまで人間に働きかけるすべての行為の基本構造は同じだ。こうなると、というか、そう考えると行き着く先は、完全に人生をコントロールされた社会。むしろマルクスが描いた理想的な共産主義社会なのではないか。)

ちょっと逸脱したので、現実的に考えて、ビッグデータはどのように語学に活用できるか?
 
効率的な学習
生徒が間違えやすいところを分析して補強
うまいところを抽出して伸ばす
継続率アップ
ドロップしやすいところで施策
根本的にその人が語学を必要な物語を作らせる

などか。

「語学」拘っているうちは上達見込めない。本当にその外国語が必要な物語を作ることが必要。実はそこでデータが役立つかもしれない。

fad


ちなみに例えば、オンライン英会話だったら生徒からどんなデータを取れるだろうか?
 
  • 生徒が音読した音声データ
  • 生徒があるテーマについて書いた作文 
  • 30分の直接スカイプレッスン中での発音や発言

もっと広く人間性を理解するにはfacebookなどから情報を取らせてもらうこともできるだろう。

  • 仕事内容
  • 経歴
  • 育ち
  • 学歴
  • これまでやってきた活動
  • スポーツ
  • 趣味
  • 友達
でも仮にそうして集めたデータをもとに超効率的なカリキュラムができたとしよう。例えばある生徒はrの発音がダメ、過去分詞が分かっていない、とか。その人にあった超効率的な勉強法や、継続できるような励ましや情報提供をすれば目標は達成できるかもしれない。そしたら、すぐにプログラムを卒業してしまう。

会社にとっては損害ではないか?

たしかにそうだ。もしビッグデータをとって、語学がある人に必要と判明したとしてあっさり解決してしまったらLTVは小さい。ある人は中国駐在のために中国語を学ばなければいけないとしよう、こちらはその人を分析して最高効率の語学サービスを提供。その人は半年で必要なレベルに到達。語学提供者は半年分の授業料しか得られない。

ではどうすればいいか?

語学を手段ではなく目的にしてしまえばいいのだ。語学する喜びを提供すればいい。結局語学の先にはその言語のネイティブとの交流がある。

そのネイティブとの交流の場を与えてあげればいいのだ。また、それを物語に位置づけてあげなければならない。そこは難しいところだ。

ただ、そもそも外国人と交流する中で、自分のことを語ることは自我の強化に繋がる。外国人に自分の国から地域の話、過去や未来のことを語る中で自分の方向性が見えてくる。こうした機会を提供することが実は最大の価値なのかもしれない。

「現代の魔法使い」と呼ばれる落合陽一 (30)筑波大准教授・学長補佐の新刊『日本再興戦略』が注目を集めている。今後の世界の中で日本が再興するにはどんな戦略が必要なのか。落合陽一氏が、テクノロジー、政治、教育、会社・仕事・コミュニティなどの切り口から、この国のグランドデザインを描く。

IMG_4829

早速買って読んでみたが、本書で、外国語学習についての落合氏の見解が述べられている。みなさん知っての通り、日本人は(2008年から)小学校の高学年から(それまでは中学校から)英語を学び始めますが、実際に英語を使ってコミュニケーションするのが苦手です。そこで、自動翻訳の精度が高まっているという傾向のもと、そもそも「英語を学ぶこと」について落合氏は以下のように意見を述べています。

英語だけがしゃべれて何もできない人が増えるだけです。「グローバル人材に必要なのは英語」と一時期よく言われましたが、グーグル翻訳がこれだけ進化した時代に、同じことを言えるのでしょうか。

先日も教育関連のカンファレンスで中学生向けに講演をしたのですが、そのとき、みんなが「英語を勉強する」と言うので僕は違和感を抱きました。そこで、生徒さんに「何のために英語を勉強するの?英語を学んでどうしても海外の人に伝えたいことがあるの?」と聞いてみたのですが、とくに答えは返ってきませんでした。

発信する内容もないのに、英語を学んでも意味はありません。(…)英語だけできて中身のない人を雇うくらいなら、プロの同時通訳に任せたほうが正確ですし、仕事は断然早く進みます。

(…)

僕は、高校受験のときは英語を勉強しましたが、TOEFLの勉強をしたり、英会話のための勉強をしたことは一度もありません。それでも、ツールとして、英語はわかるし、書けるし、話せます。それは、僕自身が生産者として、英語の論文をたくさん読んで、書いて、英語でしゃべっているからです。重要なのは、英語そのものではなくて、発信すべき内容があるかどうかなのです。(59−61)

これは、日本語学習者にも言えることだと思います。

重要なのは、「日本語」そのものではなくて、発信すべき「内容」があるかどうかです。

落合氏がここで言っているのは要するに外国語を「使う」予定があるのか、ということです。もちろん、何かを発信だけでなく日本語の文章を読んだり、人とコミュニケーションしたり、映画やドラマを字幕なしに観賞する、などの「使用」です。

そして、「使用」において、一般的に言われる言語の形式的な「正しさ」は重要ではありません。細かい文法や表現の間違いや、単語の誤用などは表面的な問題に過ぎません。JLPTのN1やビジネス日本語能力テストなどを取っても大して意味がありません。

なので、今、日本語を学習している人はまず、日本語を使って何がしたいかを冷静になって考えるべきでしょう。もし、ただ漠然と日本語学科に受かったからなどの理由で学んでいるのであれば、もしかしたら学習をやめて別の興味のあることをやったほうがいいかもしれません。

しかし、人はそもそもどうしたら何かしたいというモチベーションが生まれるのでしょうか?様々な生き方がある現代においては多くの人が明確に何をしたいか言うことができないのではないでしょうか。落合氏はこれに対して、本書でそれなりに答えています。それについてはまた別の機会に考えてみたいと思います。

ネイティブレベルの「発音」を身につけたい、と思う日本語学習者は多いだろう。ネイティブレベルは様々な観点から定義することができるだろうが、簡単に言えば「一般的な日本人が会話していて外国人だと気づかない(=日本人だと思う)」ということ。
※もちろん、ネイティブレベルを目指す必要はない。それなりの発音ができればコミュニケーションは困らないし、自分独自の発音でいい、というのも一つのスタンスである。

native-level

しかし、一般的には臨界期説という言語能力を獲得することが可能な期間が存在し、大人になってからはネイティブのような言語能力(特に発音)を習得することは不可能だと思われているようだ。

早稲田大学教授の戸田貴子は臨界期とネイティブレベルの発音について詳細に調査を設計し、その結果から「臨界期を過ぎて学習を開始した場合でも学習次第でネイティブレベルの発音習得は可能である」と結論している。今回の調査では、英語母語話者についてはこの結論を導けず、中国語母語話者と韓国語母語話者に限定された結論となった。具体的な調査結果を見ると、日本語学習開始が18歳と19歳の二名の中国語母語話者がネイティブレベルの発音を習得していた。

これは中国語母語話者にとって大きな希望である。いわゆる言語習得の「臨界期」を過ぎてからでも、努力しだいでネイティブ並の日本語の発音を習得できる可能性が開けているのだ!

さらに戸田は、実際にネイティブレベルの発音を身に着けた「発音の達人」に対してフォローアップ・インタビューを行い、彼らの学習に以下のような特徴を見出している。

1)音声的側面に焦点を当て、メタ言語として日本語音韻を学習していること
2)発音に対する意識化がなされていること
3)豊富なリソース(例:テレビ、ラジオ、ドラマ)を活用していること
4)音声化した発音学習方法(例:シャドーイング、音読)を実践し、継続していること
5)学習初期にインプット洪水を経験していること
6)音声に関心があり、自ら高い到達目標を設定していることである。

もちろん、これらの特徴は共通していたが、それらを実行すれば誰でもネイティブレベルの発音を習得できるわけではない。しかし、臨界期を過ぎて学習を開始しても中国語母語話者はネイティブ並の発音を習得できる可能性があり、さらにそれを実現した学習者の共通項目も明らかになっていることは中国語母語話者にとって一つの希望である。何をすればネイティブレベルの発音を身につけられるかの見通しがつくからである。

今後これらの6つの項目について別途、詳しく紹介していきたい。

■参考
戸田貴子「臨界期を過ぎて学習を開始した日本語学習者にネイティブレベルの発音習得は可能か」、第二言語における発音習得プロセスの実証的研究、2006年。
戸田貴子「「発音の達人」とはどのような学習者か-フォローアップ・インタビューからわかること」、第二言語における発音習得プロセスの実証的研究、2006年

↑このページのトップヘ