記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

人間の生を、カオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、と捉えるのはポストモダンの基本的な図式である。人間は環境世界との適合関係が壊れているので、そのカオス的な状況から逃れるために、文化の秩序(象徴秩序)が必要になる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』の中で、人間の生は「絶えず習慣を更新しながら、サリエンシーに慣れ続ける過程」と書かれている。


 
どういうことか。サリエンシーとは「精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激」のことであり、それゆえ、人間は生まれたときは、世界に存在するいかなる事物にもいかなる出来事にも慣れていないので、この世に存在するすべてはサリエンシーであると考えることができる。

「世界はサリエンシーなのだから、それに対する慣れを構成する過程には終わりがない」ので「生きるとは、したがって、相対的に安定した予測モデルを作り続ける過程」であるという。これはヘーゲルの『精神現象学』でいうところの意識が絶対知へ成長する過程と似ている。

いかなる経験もサリエントであるので、傷跡として残る。阿頼耶識のようなものだ。そしてその程度により、容易には慣れることのできないサリエンシーを経験した場合、トラウマとなる可能性をもっている。われわれは絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている。言いかえれば、新たなサリエンシーをパターン化してパターンをより多く持ちどんなサリエンシーも容易にパターン化できることを目指しているともいえる。

さて、これを基に「僕らはどう生きるべきか?」について考えてみよう。

まず再確認すると、僕らの目指すべきは「安定した予測モデルを作る」ことだ。そしてこれには果てがないから、人生とはそのようなモデルを作り続ける過程、だとされる。

ただ、これでは人間の「知性」の話しかしていない。人間は何かに惹かれるというエロス性を持つ。それは、フロイト的に言えば、最初に作られた自我=物語である全知全能に回帰したいというベクトルである。

そうすると、改めわれわれがどこへ向かっているのか確認しよう。

  1. 多様な刺激を自分に容易に取り込めるようなモデル作り
  2. 全知全能への回帰
人は誰でも全知全能になりたい。基本的には強い生きるベクトルがある。しかし、全知全能へ回帰するには人間社会において他者から承認を得る必要がある。自由気ままに振る舞っても何も咎められたり、後ろめたさを感じないような状態。往々にして、僕らは幼少期に他者とぶつかる。そして、好きなことをやると仲間はずれにされたりいじめられたりする。ここで僕らの予測モデルの原型が作られてしまう。人と違うと叩かれるというようなことが怖くなる。

そして、(自分が行く可能性のある)どんな環境に行き、どんな人と会っても「いつもと同じように」行動できるような予測モデルを作る。それは、幼少期に作られた原型をより強固にするということ。こうなってくると、全知全能へのベクトルは抑え込まれしまう。今の日本の多くの人はそういう状態。いや、世界的に人間社会で他者と接する必要のある環境ではどこでもそうだ。

では、今何が求められているのか?

それは、
個人をエンパワーメントすることだ。

全知全能へ近づかせる、あるいはその可能性を見させる
相互承認を根付かせる

これらに関することが今の時代において求められている。
 

われわれはたしかに無意識的に制御され、数多くの行動をしている。しかし、意識があるときは文字通り意識があるわけで、何かしたらを言語的に志向しながら行為をしている。

だれもが意識上では、自分の物語を暗黙的に了解している。どこの出身で、どういう親に育てられてどういう学校に行ってどういう職業について、どういう趣味がある、とか。

そして、自分が行為を行う上でも前提となる方向性があるはずである。何か行為をする際の基準というか、善の了解と言ってもいい。

L


人は種の保存と個体保存に衝き動かされた動物なので、突き詰めれば何ごとも「自分」のためだが、社会のなかで生きる「人間」であるわれわれはその上に幻想を築いている。

人それぞれどこに力点があるかは異なる。
大きく分けて4つ。
  1. 「自分」が気持ちいいこと、ポジティブな感情を抱けることに重点があるもの。
  2. 周囲の顔見知りレベルのため、彼らを幸せにしたい、承認されたい、ということに重点があるもの。
  3. もう少し広く、顔が見えなくても組織や業界などの仲間に重点があるもの。
  4. 国民全体、さらには広い地域や地球規模の人類の未来に重点があるもの。
あなたはどこに力点があるだろうか?

この重点が違う人とは基本的に話が噛み合いずらいので要注意。そして共通了解できなくてもめげずに頑張ってほしい。

ちなみに僕は、4である。 

なぜfacebookやInstagramにしょっちゅうリア充写真を投稿している人を見ると「ムカつく」のか?自分の赤ちゃんの写真を毎日アップするもの、仕事での集いの写真をアップするもの、業界の重鎮との写真をアップするもの、昇進や褒められたことをいちいちアップするもの。

一般的には、「他人のことはどうだっていいじゃん」「それをうざがっている君自身に問題あるんじゃない?」などジェントルマンな返し来そうだが、深く考えてみたい。

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それは、一言で言えば「浅ましい人間に自分を重ね合わせる苛立ち」。或いは、「各自が自我の安定のために承認という椅子取りゲームをしているから」である。だから、限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは自分の物語の安定を邪魔するものとして「うざい」のである。

詳しく説明しよう。

まず、そもそも「なぜ、SNSにリア充自慢をするのか」?

前に書いた記事を引用する。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?


一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。  

人は、自我を安定させることを至上目的としているので、その安定のために人の承認が必要。SNSは手っ取り早く他者からの承認を得ることができる道具だ。同僚とみんなで楽しくわいわいしている写真をアップすれば「楽しく仕事をしてる良い人生」という物語を他者に共有し、「いいね」を貰えればそれが他者からも認められ、物語は強められる。自分はこの物語を生きているという確信が強まり、自我が安定し現実に密着する。

では何故、こうして横目で他人が自我=物語を安定させているところを見ると、ムカつくのか?

二つ考えられる。まずは、その人への憐れみの共感である。結局、SNS上での「いいね」承認は脆い。みんな適当に「いいね」しているので、物語は大して強化されない。物語は、直接的なリアルな人々との交流、深い語りの中での交わりで強化されるものなのである。にも関わらず安易にSNSで承認を求める浅はかな人間に、むなしいことだと分かっていてもそのように簡単に物語を固めたい自分を重ねて苛立ってしまうのであろう。

もう一つは、限られた承認の椅子取りゲームで厚かましく椅子をどんどん取っていく他者への憤りなのかもしれない。誰もが認められたと思っていても、人々が与える承認には限りがあると思われる。限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは「自分の物語の安定」の機会奪い、邪魔するものとして「うざい」と感じてしまう。

というわけで、何故SNSのリア充自慢がうざいのかを考察してきた。しかし、この行為自体、その人にとっては合理的なものなのである。本当に自分の物語の中で重要なものであればSNSで共有し、直接は会えない人々にも知ってもらい自分の物語への確信を強めていくことは実存的に価値あることだ。

われわれは一人ひとり自分の世界を生きている。歴史や社会という文脈の中に生まれ、他者と共同する価値観や感受性はあるが、それでも固有性を持つ。フェティシズムや世界像は誰ひとりとして同じではない。

今の時代はまだ、こうした一人ひとりの個性が十分に発揮できない。人それぞれ何かしらその人だけの固有があるということは、他の人が知らないということだ。他の人が知らない世界について知っている。外国語の翻訳のような高度なことでなくてよい。地元のラーメン屋について詳しいとか、ニート生活5年がどういうものか、とかどんなに小さなこと、無価値に見えることでもいいのだ。

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さて、以下、筑波大学助教授の落合陽一さんとホリエモンの対談内容。いずれみんなが好きなことをして生きるという未来の話。

落合:いずれ、みんながエンターテイナーやアーティストになる。「そんなの自分には無理だ、エンターテイナーにはなれないよ」と思う人も多いだろうけど……。

堀江:絶対なれる! 俺、ヒモデブニート(※注)に「芸人を名乗れ」というミッションを与えたの。彼はいま「ヒモデブニート芸人」と名乗っている。そうしただけで、なんかバリューが上がった気がするでしょ?

【※注:堀江氏が運営するているHIU(堀江貴文イノベーション大学校。会員制のコミュニケーションサロン)の会員の通称“彷徨うヒモデブニート”氏のこと。仕事もなくてぶらぶらしてた不器用な若者】

落合:いつでもテレビに出られますね(笑)。 たしかに、誰にでも何か才能があるはずなんですよ。大学で学生と話していても、最初は何もやりたいことがないと言うんですが、半年ぐらいすると「実は音楽が好きで」とか言い出す。そこから独自のテーマが見つかったりするんです。自分ひとりぐらいならそれで食っていける。

堀江:知り合いに「アイスマン福留」という人がいます。40歳近くまで職を転々としてきたんだけど、最終的に落ち着いた仕事は「コンビニアイス評論家」。アイスマニアというだけなんだけど、けっこうテレビに出ているからね。

落合:たとえば商社などに勤めていたら、「芸人」になれる人は大勢いると思いますよ。接着剤の営業だけ10年やっていたという人もいる。そんな人は「接着剤芸人」になれますよね。

堀江:ミニマムな暮らしさえ受け入れれば、それでやっていける社会に変わったんです。肉を焼くのがものすごく得意なら「バーベキュー芸人」でいい。100人のコミュニティに1人くらいなら、たぶん成り立ちますよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/12856473/

一人一宇宙であることを誇りに、自分だけが詳しいこと語ろう。

羽生名人、イチロー、錦織圭はみんな分かりやすい1つの領域にコミットできた。もちろんそこには悪戦苦闘があったはずで、継続した意志には敬服せざるをえない。でも、みんながみんなそういう登る山にコミットできるわけではない。

社会的にみれば何もできなかった人々は無数にいる。こういう人たちに何とか価値を見出すことは社会的に重要である。もちろん、僕らはみんな生存するために努力がまだ必要な時代にいる。社会的に無能な人間は、積極的に自分の経験が何か社会に貢献できるかを見出し、発信していくべきだ。

これからは、自分の好きなことをやるだけで、それが社会的に認められ、物語として承認される時代になる。今までは、業界や職種により一般的な世の中の「視点」が存在していた。しかし、これからは技術革新など環境の変化で誰もがWINWINになれる。

人はみな固有の経験をして育ち、自分だけの感受性を磨き、世界像を作る。これまではその物語を妥協して、社会一般に合わせる必要があった。それが就職である。しかし、これからはその物語をそのまま発展させて自分独自の物語を歩むことができる。これまでであれば誰からも承認されず、自我(物語)は安定する機会がなかったが、これからは今だに残る大きな物語(先の世間の視点)が解体され、個々の物語に重心が移っていく。

フロイト的に言えば、われわれはみな、幼少期の全知全能に回帰したいと願う。しかし、現実世界では同じようにそうしたベクトルを持つ他者と利害調整をし、現実法則に従う必要がある。今後は、こうした調整がもっと寛容になる。互いに承認の椅子取りゲームをしなくても、本来持つ感受性に沿って人を評価し、自分を発揮しているだけで、全知全能への回帰への欲望をまとめることができる。

こういう時代への移行には何をすればいいか?

一人ひとりが、包み隠さず自分を表現し発信することが大切だ。ニートだろうが、犯罪者だろうが何でもいい。自分の固有の経験をもっと発信すべき。僕らは同じ人間という生物の身体を共有しているのだ。誰かしらの共感を得るはず、徐々にそこから物語を固めていけばいいのだ。

youtubeやブログからはじまり、今ではライブ中継やオンライン決済も簡単にできる。 どんどん個人がエンパワーメントされている。自分固有の能力を提供し、それを糧に生きていけるのだ。全世界で個人レベルでのクラウドソーシングは増々増えていくであろう。繰り返しになるが、われわれがすべきは自分の固有の経験や能力を明確化し、発信することである。

天才をどう作るか?

という議論、以下のYOUTUBEのグロービスの動画で観られる。

スピーカー:茂木健一郎 脳科学者 
聴き手:國領二郎 慶應義塾大学 教授 

という如何にも面白そうな布陣。

天才をどう作るか?

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このテーマを考えてみたい。

まず、「天才をどう作るか」という議論ができているこの時点で既に「天才=◯◯」という前提があることに注目すべきである。恐らくはLeonardo da Vinciとか、あるいは抽象的に「日本を良くするためにリーダーシップ取れる人」「破壊的イノベーションできる人」とか。 

これを突き詰めると、

「世界は◯◯のようになってほしい」という前提があり、その「ライン」で「その方向に凄い貢献できる人」がここで「天才」と呼ばれている。 


ん?


もしも、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがあれば、それに必要な知識やスキルを与えればいいのではないか?旧帝国大学が官僚人材を作ったように。

問題の根本は、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがないことだ。だから、そのラインで「凄い」人がどんな人か想像できず、育ていることができないのだ。

むしろそうしたビジョンを与えてくれる人、世界に流れを作ってくれる人が「天才」と言われる。

だから、そもそも僕らが分からないものを教えてくれるのが天才なのだが、その天才を作ろうとするのが背理だと分かる。

じゃあ錦織圭のような天才はどうなる?テニス界における天才であれば「テニスがうまい」という具体的なラインがあるにも関わらず、僕らは狙ってこうした天才を作ることができない。

これも実は同じこと。

「テニスがうまい」ということが複雑すぎて定義できないのだ。だからそれを目掛けた教育も存在しない。こういう筋肉があればいい。こういうスイングであればいい、という単純なものではない。

結局、天才は勝手に出てくる。

だから待っていればいい。

僕らがやるべきはある程度「定義できる優秀な人材」をしっかり教育を作って「定義できるよいこと」を着々と実現することなのではないか。


 

落合陽一氏の『魔法の世紀』を読んだ。「ニーチェを読んでないやつとは話せない」でお馴染みの落合信彦氏の息子ということで前々から注目していた落合陽一氏なのだが、先日の「スマホで朝ナマ」に出演していたのを観てさらに興味を持ち本書を読んだ。

魔法の世紀
落合陽一
PLANETS
2015-11-27

 
クロード・シャノン、アイバン・サザランドやマーシャル・マクルーハンなど微妙に聞いたことのある科学者や文明批評家のオンパレードで「ふむふむなるほどね」の連続であった。ただの空想や個人的な体験ではなく現実での議論を抑えつつ自分の主張を行っているところは、さすが博士。

こうした細かい話は読み物として面白いので是非読んでいただくとして、やはりいちばん気になるのは落合氏自身が今後の世界がどうなることを前提に何に取り組んでいるかということ。一部だけコメントさせていただきたい。

まず、「情報が情報世界から染み出していく」ということについて。

「おそらく最終的に想定されるのは、物理世界のモノの一つ一つが、インターネット空間の情報と対応していく未来です。また逆にこれは全ての情報空間が物理空間に表出し新たな自然を作り出していく未来も示唆しています。情報空間が物理空間で表出し新たな自然を作り出していく未来にほかなりません。

そのとき、私たちの意識のフォーカスは何らかの象徴的機械から、それを取り巻く環境全体へと発散していくでしょう。そして、その物理空間は環境インターフェイスそのものとして機能することになります。これを僕は、「情報が情報世界から染み出していく」と表現しています。」56−57

地球上だけでなく宇宙全体の素粒子状態を情報空間が捉えているということなのであろうか。それは不確定性原理により不可能なのではないか。不確実性のないスケールでの話なのだろうか。もしこれが可能なのであれば、どこでもドアの思考実験でお馴染みのA地点の山田くんの素粒子状態を消去して、B地点で再現することもできる。そこまで行かないにせよ例えば、キッチンが私の行動に合わせて買い出しや料理をしてくれるみたいなレベルなのだろうか。

ポストモダンのおいて我々人間の「生」はカオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、という基本的な図式で描かれる。われわれは世界という複雑なカオスをどうにかしてパターン化し秩序化する存在であるが、本書の議論ではこうしたカオスをコンピュータが情報空間で全て秩序化することを想定しているのであろうか。

さらにこうも言っている。
「コンピュータが導入されることで、あらゆる体験は多次元になっていくでしょう。そこでは、あらゆる物質がコントロールできるようになり、あらゆる体験がデザインされていきます」(203)
 
であれば、われわれが生まれてからのあらゆる体験もデザインされる時代がくるのだろうか。

そのときに気になるのは、「情報空間が物理空間で表出し新たな自然を作り出す」意志はどこから出てくるのであろうか。人間は、パターン認識の知性と自己複製というベクトルを持つ生命の側面があるが、もし情報空間が物理空間に働きかけるようになるなら何かしらのベクトルが必要になる。そこはどのように設計されるのであろうか。

仮にまずは「不労・不老」を目指すようなものであった場合、これはいつか実現する。そうなれば世界はまさに楽園となる。何もしなくてもずっと生きていられる世界。誰もが夢見る世界である。

しかし、それでいいのだろうか?その先には何があるか。

落合氏は何かのメディアで「コンピュータになりたい」みたいな発言をしていたが、それが答えになるのかもしれない。それはある意味、脊髄反射で世界を生きるようなものであり「意識がなくなる」ことを意味しているのではないか。われわれは、今、ありありとした質感のある世界を、喜怒哀楽のある物語で生きている。しかしそれは、フロイト的に言えば、エスという全知全能回帰の原則と、現実世界で他者との利害調整の原則のぶつかり合いの中で起きる。

もしそれがなくなってしまい、あらゆることが予定調和で進むようなコンピュータの世界になってしまえば、僕らの物語的な生=意識的な生はなくなってしまうだろう。 

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この問題は実はマトリックスで地味に扱われいた。モーフィアスが序盤で「仮想現実世界(マトリックス)はあえて楽園ではなく、普通の世界にしている」と語っている。コンピュータが世界を支配しだした頃の仮想空間(マトリックス)は不老不労で何でも願いが叶う楽園のような場所で、何も努力しなくても生きていける世界だった。あまり詳しく書かれていないが、人間はそれでは満足できなかったらしく、現代のような各個人が試行錯誤しながら波乱万丈の生を歩む世界に戻したのだ。これは何の問題のない世界では意識が不要となり、消滅してしまったことを示唆しているのではないか。

とはいえ、ここまで先の世界を今憂いてもしょうがない。

落合氏の活動の目的についてこう書いている。

「ともかく「魔法の世紀」の最終到達点は、コンピュータ科学という名の統一言語で、知能・物質・空間・時間を含む、この世界のありとあらゆる存在と現象が記述され、互いに感応し合うことです。僕の活動の目的は、コンピュータの記述範囲を拡げることで場と場、モノとモノが相互作用する可能性を切り開いていくことにあります。」295

要は、今述べたようないろいろな可能性のある世界に少しでも近づき、実際にわれわれが生きている内に実体験しよう、ということだろうか。

機会があれば他の著書も拝読し理解を深めたいと思う。

魔法の世紀
落合陽一
PLANETS
2015-11-27

 

昨日(2017/3/21)の夜にライブ配信されてた「スマホで“朝生”」がおもしろかった。興味深かったポイントだけ備忘のために記録。基本全部、落合陽一かホリエモンの主張であった。(→)は僕のコメント。
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  1. 効果的な学習は、論文をサーベイして発表、批評にさらされ改善、修正を繰り返すこと
  2.  われわれが目指すべきは、 モチベーションを殺さずお互い自分のモチベーションに基づいてどんどん進んでいける社会 →それが何故いい社会だと言えるか?僕の考えでは、人は自分の物語を生きることが「実存的によいこと」だ、という前提的な見取図が必要だと思う
  3. その社会とはこうもいえる。起業家には二種類いる:勝ち組になりたい的。新しい世界がみたい的。後者が増えるのがよい社会
  4. 脊髄反射で意思決定できれば脳はいらない →それは動物と同じになる。人間は効率的に生きることを追求すると、「意識」がなくなるのではないか?今は沢山の情報をいろんな時間軸をもとに総合判断するための「意識」があるが、それが不要になるということか。社会は、各個体である個人が刺激に一義的に反応できるようになるまで、進化する(一見退化にみえるが)
  5. 国民国家に金が渡るより、1%の頭いい大富豪に富が集まるほうがいい。頭いい人はほぼ社会に本質的によいことを行うが、国民国家は雑音多すぎて社会に利が還元されない
  6. 宇宙だと有機的な身体は脆いので、僕らは将来的にコンピュータになる
  7. 人間の身体は有機物で、物理的に不確実性があるから突然変異などあるが、電流使うコンピュータならそういうの起こらない
  8. 社会で蓄えられた知識を次世代に一瞬で身につけられるようにすれば新たに学び直す必要なくなる。遺伝子で伝えられるものはわずかしかない。→仮に効率よく学んだとしても、また次の可能性が現われるから人間の根本的な実存的な在り方は変わらないのではないのか?
  9. 「コミュニケーション能力の再分配」が必要。今の時代ものは余っている。貧困や孤独の問題はコミュニケーション能力で解決できる
  10. 「モチベーション格差」が問題の本質。均質的な教育、他人と同じことがいいことみたいに教育されると、モチベーションが生まれない。 →社会設計する上で超重要。僕らはやっぱり実存的によい生き方をしたい。それは生き生きと物語を生きている状態だ。それはモチベーションによって生まれる。

以上。殴り書きでした。

3月12日(日)01:00 〜 03:00、AmebaTVで生放送された「ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT」、期待通り面白かった。茂木氏の果敢な問題提起と村本氏の建設的な仕切りにより視聴者に色々考えさせる機会を与えたのではないか?

こちらで観れるようなのでまだの方は是非。

事の発端は、脳科学者の茂木健一郎氏が「政治風刺のない日本のお笑いはオワコンだ」という趣旨のツイートや発言がインターネット上を中心に炎上したこと。お笑い芸人のウーマンラッシュアワー村本大輔氏が、「茂木は全然分かってない」「日本の笑いは世界で通じない」など根拠なしの一方的なネット上の反応に疑問を呈し、直接茂木氏を自分の番組に呼んで議論をした。いろいろな意見を採り入れるために日本でお笑い芸人として活動する外国人芸人も参加。

57
 

キャストは以下の通り。

ウーマンラッシュアワー村本大輔
茂木健一郎
いるかパンチ ステファン
タイムボムニック
ちなみに、アラサーの僕個人は以前、日本のお笑いが好きであったが最近は興味を失っている。中学と高校時代は「爆笑オンエアバトル」と「ガキの使い」を毎週録画して繰り返し観て、友達と漫才までしていた。ただ、大学に入り、仕事をしたり留学したり、政治経済や教養などにも触れるようになると日本のお笑いへの興味がなくなっていった。(それでもダウンタウンとさまぁ〜ずだけはDVDやネットでたまに観ていた)また、アメリカに1年、オーストラリアに1年住んでいたこともあり、欧米のコメディも多少知っているしデイビッドレターマンのlate showには憧れ、英語の勉強も兼ねよく観ていた。

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今回の「土曜The NIGHT」を観ていろいろなことを考えたが、全部は書ききれないので一点だけ!

今回の番組のポイントは端的に「日本のお笑い」が世界的に見てどうか?ということに集約されるが、そのためにはどの視点で「評価」するかが鍵となる。それは即ちグローバル社会のトレンドということになるのだが、そこを議論がなかったので、ここで捕捉したい。

茂木氏が(ある意味)知識人代表みたいな立場で参加していたのだから、もっとこういう「そもそも論」から話してほしかった。特に脳科学者として、「人間とは何か」「われわれはどこへ向かっているのか」「幸せとは」などそこを掘り下げてほしかった。村本氏はかなり中立的にいろんな話を聞こうとしていただけにもったいない。

なので僕がその辺りについてちょっと書いてみたい。かなり大雑把な議論で実証的な根拠も書いていないが、大体の方向性だけでも伝えたい。

まずは、われわれ一人ひとりが各々持っている感受性や価値観とはどのようなものなのか?について。

われわれの感受性や価値観、と言われるような個性は経験的に編み上げられる。基本的に人間は自己保存と種の保存のために方向づけ(ベクトル)されており、その生物が言語能力を持ちあらゆるものを対象化し各自が世界像を作っていく。多様な経験の中でベクトルはさまざまに複雑に変様し個性として人々の感受性や価値観は変わってくる。

また、人間は特定の風土的な影響を受け、万人の万人に対する戦いを防ぐために社会を築きそれを発展させてきた。一見理不尽と思える日本の上下関係や、村八分もこういう流れの中で生まれてきたものである。

そこから何が言えるか?

まず、「アメリカの政治風刺的なコメディ」と「日本のお笑い」も各々その背景がある、ということ。アメリカは自由や平等を理念して建国された特殊な国であり、国民が一丸となってこの理念にコミットしている。意外であるが、つい最近まであからさまな黒人差別もあり今でも差別はあるが、基本的にそういうものをなくしていくという「多様な社会を容認する方向」に進んでいる。

一方、日本は島国であり各地で自然発生的にムラが生まれ、それが何となく中国の影響でひとまとまりになったが全体がビシバシと統制されていたわけではなく、自然発生的な村社会が並立するような感じ。抽象的な言い方をすれば、欧米はやはりプラトン的に理念先行で超越的なものを措定し、それに与るものとして現実があるが、日本人はそう考えずに目の前のものをそれとして受け入れる。海に囲まれ外からの攻められることもほとんどなく、静的な長期的な社会が生まれる。中国などまさに逆で、内乱を抑え、外的から国を守るため統一されたからビシバシ権力を振るって社会を統治しないと国が崩壊する。

アメリカも中国に似ていて、自由平等を実現するために統治権力が強い(もちろん中国とその権力の使い方の方向は違うが)。 しかし、過去の歴史の教訓で「権力の暴走」には人一倍敏感なのである。憲法修正第二条では銃の所有が認められているが、これは統治権力の転覆の可能性を保つものである。

さらに、今回の話題である「アメリカの政治風刺のコメディ」も、「偉そうに高尚なこと言って、贅沢な暮らししている統治権力側の人間」への牽制という背景がある。絶対的に正しいことを言っているっぽい統治権力ですら、ただの人間だし間違っている可能性も充分ある。みんな平等な人間なんだぜ、っていう了解に引き戻すための努力だといえる。

翻って日本のお笑いはどうだろう?そんな背景は全くなさそうだ。権力がビシバシ統治して庶民が脅かされるという経験も特にしていない日本人。庶民が日常の中で生活を豊かにするため、楽しむために発生した「お笑い」。だからいつまでたっても中学校の休み時間のノリが続いているのである。傍から見たら、平和ボケと思われてもしょうがない。

村本氏はこう言う。日常で疲れているときとか凹んでいるときに、「自民党がどうとか原発問題など政治風刺的なコメディ」を観てももっと疲れるだけで、「日本のような目の前の日常を面白くみせるお笑い」のほうがいい、と。全くその通りだろう。結局、背景が違って生まれてきたのだから、消費される状況も異なって当然なのだ。

だから今まで二つともそれぞれの社会で存続してきたのである。それについては善悪はない。ただただ「その風土、社会の歴史でそうなっている」ということしかできない。

では、なぜ今これが問題になるのか?

それは端的に、社会が変わってきたからだ。

米最大のシンクタンクである外交問題評議会のリチャード・ハース会長が、フォーリン・アフェアーズ誌最新号に「世界秩序2・0」と題する一文で述べている。

1648年のウェストファリア条約で規定された国家主権を基本とする国際秩序に疑問を呈した。国家間の紛争や不安定を、主権尊重や勢力均衡を唱えて収めようとしても不可能な観光客、テロリスト、難民、電子メール、疾病、ドル、温室効果ガスなどを国際化した社会が招いてしまったので、従来の秩序1・0に代わり、「2・0」が必要だとの指摘である。http://www.sankei.com/column/news/161229/clm1612290006-n3.html
 

詳細は不明だが、社会同士が交わってしまい1つの国家だけでは対処できない国際的な問題が頻発していることが世界秩序を変えている。既にインターネットを通じて、世界中の情報を個人でも得ることができるし、海外に行くことも簡単だ。社会同士が深く交わるようになってしまったのだ。

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では何が言えるか?
ここでグローバルな「善悪の基準」が生まれてくる。

今、世界はグローバル社会へ向かっている。多様性を維持しながらあらゆる社会がマージされていく。これは自由と平等というリベラル的な価値の体現。この流れに抗うのは不可能に近い。世界中の情報が瞬時に入ってくるし世界中どこでも行けてどこでも住めてしまう世界では、もうそれを止めることはできない。

こうなってくると、多様な人間たち、人種の坩堝をうまく共存させる必要が出てくる。そこでは「自由と平等」ということしか全員から賛同を得ることができないので、世界は必然的にこちらの方向に進む。

そう、「自由と平等」という理念に基づいてマージしていく必要が深刻になってきた。ここで善悪の基準が明確になる。

そこでアメリカと日本はどういう位置付けになるか?アメリカは既に理念から社会を作ってきた数百年の歴史がある。一方、日本は外国とほとんど交わらず長期的な関係を土台にした社会を作ってきた。これまでであれば、「環境が違ったのだから違ってて当たり前」であったが昨今のようなグローバル社会においては理念先行型が「善」とされる。

日本はまだまだその善悪基準に染まっていない。ただ、グローバルにはそういうトレンドがある。日本も安全保障や移民、原発の問題など抜本的な改革が必要になってきている。これまでのようになあなあではいけない。

強い統治権力のもとにビシバシ行動していかなくてはならなくなってきている。

そうなってくると、この権力の暴走のためにさまざまな仕組みが必要なのである。特に「デュー・プロセス(英語: due process)」など直接的に権力を抑制しなくてはならなくなる。その一環として政治風刺のお笑いが必要になってくるのだ。茂木氏はけっこう前から日本のお笑い芸人について辛辣なコメントをしていたが、今回明確に発言したのはやはりこの流れが強まってきたことが背景にあるのではないか。

ダウンタウンや明石家さんまが今更、政治経済や教養を学んで権力批判をすることはないだろうし、うまくいかないだろう。観たくもないし。だから、そういうことをできる人が出てくればいい。島田紳助はダウンタウンの漫才を観てその才能を見せつけられ漫才を辞めた。

今の芸人に限らず若者は、お笑い界の重鎮など気にしないで自分が面白い(社会のためになる)と思う政治風刺的な笑いをやってもいいのだ。それを見た大御所がそれについていけないと思ったら潔く席を譲るだろう。村本氏を観ているとそういう可能性を感じた。

フロー体験とは、主客未分の超気持ちいい体験と思ってもらえばいい。

flow



フロー体験については以下を見てほしい。
(参考http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。

みなさんはフロー体験をしたことがあるだろうか?ランニングハイみたいな感じだろうか。

フロー体験って結局なんなのだろう?本質的に。

考えてみた。

それは宮台真司風に言えばこうなる。

絶えず再現前化の働きを示すエクリチュールのなかであるいは絶えず内部イメージを更新するシステムのなかで二元論から逃れて一元論に回帰することは圧倒的に不可能だが、一時的にその一元論的世界に触れること。

そう、それがフロー体験。

ではないか?

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08

  

出家するということは、世間からの情報と完全に断絶するということだ。

人はそれまで周りの人間やさらにはSNSで物語を承認されることでどうにか現実に適応していた。しかし、その承認獲得活動に嫌気が差し、人は出家する。世間から承認を得るのは難しい。変動の激しい社会に自分の物語を合わせるは努力が必要だ。

その競争から離脱し、そういう変動のない環境で自分の物語を固めていこうとするのが出家の本質であろう。

しかし、いくら社会からの承認競争を逃れても、物語という言語的世界を維持しないと人間は終焉する。ではどうするのか。人間として生きるのをやめ、一元的な世界を動物のように生きるのか。それとも、過去の社会の記憶を抑圧し、坊さん社会からの承認で上書きするのであろうか。

いずれにせよ、根本的な解決でないのは間違いない。

とある知人が出家したと聞いて、そんなことを考えた。
 shukke

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