記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

人と人とを比べる尺度はない。脳内で考え、感情として現れる何かは数値に置き換えられない。もしかしたら体内で、外部からの情報が読み込まれ脳内で処理する際に分泌される液の量などで測ることもできるかも。

比べても所詮、動物であり欲の塊と片付けるのはマクロ的過ぎる。

前置きはこれぐらいにして、所謂、すごい人とはどういう人か。
考えた結果結論はこうだ。

人間力=すごさ= 共感、尊敬の深さ × それらを抱く人の数

である。

誰しも人に共感、尊敬の念を抱くだろう。
私の場合、DTの松本の笑いや思考に9の共感があるとしよう。
彼に対する強い共感が彼を認知する人の中で4としたなら、
彼の人間力は36になる。

ビルゲイツはどうか?
彼に深く共感、尊敬する人はもちろん多いが、日本人のほとんどは
世界一の富を築いた天才くらいにしか思っていなく、心底尊敬してる人は
少ないのではないか。もちろん彼の周りで彼をよく知る人ほど尊敬や共感の
度合いは深まる。
ゆえに彼のすごさは
3×50 + 9×300 =2850
松本の何十倍なのはまず認知されてる市場が大きいからだ。世界的に活躍する
ということの重みが分かる。

しかしコアに走って高い人間力を得るものもいる。
というか、これが松本やん。

そんな感じで、説明不足ですが、これ意外と成立していると思う。
自分が将来、人間力を高める際にどちらになりたいのか、両方なのか
計画を立てる際に役立つ。

ちなみにエリートのIバンカーはどうだろうか?
彼の周りからの尊敬度はかなり高いだろう。友達でいたら一目おくだろう。それだ。
しかしほんの何十人か百人の話で、市場の大きな芸人の下っ端にも下に位置するかもしれない。

まあ満足は人それぞれだけど、この式から導かれる数の高い人は、比例的に
自分の満足度も高いはずだろう。

もちろん、Iバンカーは金を持ち、プライベートも芸能人と比べてあるので、私生活の
充実が満足感をさらにあげるだろう。

その他にもいろいろな要素を考慮する必要があるのはいうまでもない。

人々は何故海外へ行くのだろうか。

これはビジネスは抜きにして考える。
根本的な理由は何なのか。

私は考えてみた。

答えは人間は飽きやすいというものだった。

ずっと同じ部屋に閉じこもっていたら外に出たい。
ずっと同じ友達といたら他の友達と遊びたい。
ずっと同じ大学だとつまらないから他の大学に行ってみたい。

それの延長上が海外へ行くということである。

さらに人によっては今いる環境と違えば違うほど楽しみに変わる人がいる。
友達を外国人にしたり、海外へ行ってしまう人。

しかし、これではアメリカに憧れアメリカに移住する集団を説明できない。
彼らには違う説明がいる。

人間には生まれつき方向性がある。性格や外見は自分ではコントロールできない
欲に向く。それらを満たすために、生まれた環境が合わない人々がいる。
彼らはより自分に合った環境へ移動するだろう。

長期で外国に行く人は単純に新しいものに触れ合いたいという動機だけではないだろう。このような自分自身の理想と合致した何かを求めているはずである。

日本を地球に例えると分かりやすくなる。

都会を離れ田舎で静かに暮らしたい人もいる。年中心地よい気候の中で暮らしたい人もいる。人の暖かさを感じる田舎へ行く人もいる。

人は自分の感情が総合して最も満たされる土地に向かうのだ。

人は理由を聞いたり答えたりするであろうが、究極的な答えをいうのであれば
人間の存在意義に関わってくる。

しかし、そこまで求めると人間の脳ではたどり着けないと前に書いたとおり。

ではどこまでいうかというと、人生で求めるものや自分が本能的に快楽を味わえることまで繋げる必要がある。例えば友人と大学で会ったとしよう。

どこいくの?
授業
なんで
授業をうけるため
なんで
それらを積み重ねて卒業するため または授業内容が自分の興味内容であり、聞くことにより
欲求を満たすことができるから
なんで
その後就職に役立つから
なんで
いい職業に就けば、金も稼げるし、もてるし、社会に貢献できるから
なんで
それらにより感情が満たされよりハッピーを感じることができるから
なんで
人間とは生きている意義を知らず、脳内ですべてを判断する動物であり、
外的環境から自分の身に起きたこととの関係を脳内で作り出し、
勝手に解釈する。その解釈は自分しだいであるが、基本的な常識は無視されないので
自分勝手に都合よく解釈してハッピーを味わうことはできない。
自分が努力(嫌なことや楽しいことを我慢)して確実に認識されるのがハッピーであるため
その程度により短期的な欲求を絶つことがある。
そのような大きな欲求を手に入れるためいい職業につきたい。

このように答えることになる。

私は人間は感情を満たすことを望んでいると思う。これらには持続力がある。
幸せを定義するなら、私は「感情を継続して満たし続けてくれる力。この感情を共有するとそれらはさらに強くなる。」とする。

人間は日々感情の変化を求めている。感情を常に満たされたいのである。高級なレストランに行きたいのはそこで感じる雰囲気やおいしい料理により自分の感情が満たされるからである。幸せな家族を持ちたいのは日々安堵感に満たされながら、気の合う奥さんと楽しく過ごし得られる感情の満たしである。

 人間は日々感情を心の底から満たされるために行動している。心の底からとは偽りなく本当の意味でということ。例えばいきなり10億円手に入れて自由に暮らせと言われてもある程度の遊びをしたら空虚感に襲われることであろう。だから自分の努力を注いだ結果として結果を得ることにより人間の感情は心の底から満たされる。

 人生とは幸せをつかみ、その幸せの効力がきれ、さらなる大きな力を持つ幸せを追い求めるものだ。人間の生きている本当の意味は人間の思考からでは解けない。

それでは夢とは何か。簡単なことだ。永遠に続く幸せである。ということは「永遠に感情を満たしてくれる力のあるもの」。そう、まさに夢なのだ。

ビルゲイツが世界一の企業を作ると夢みたとしよう。今彼は永遠の幸せを得たと言えるだろうか。


最後にもう一つ付け加えるが、先の理由の例であるが、
人は行動を取るときいちいち長期的な目標など意識していないだろう。
そのときの一番自分の主観的満足を満たしてくれる選択が必ずしも、長期目標と一致しない。

例えば、弁護士を目指す学生が今勉強をするか飲み会に行くか選択がある場合、
彼の長期目標でいれば勉強を選択すべきだが主観的な満足がどっちを選択するかは彼の主観次第。

今回はいろいろな視点から仕事を捉えてみた。

客観的にみた仕事

仕事とは世の中の商品やサービスを手に入れる環境を支える作業であると同時にその環境からそれらを買う力(金)を手に入れることができる。

われわれが日々、健康で安全な食事を購入したり、趣味をする環境を作ったり、仲間と一緒に遊び楽しめる環境があるのは世界中の人々がそれらを供給しているからである。

就職するまではそれらをただ受け取り、自らが供給者として参加するために沢山学ぶ必要がある。

世の中のことが一通りわかってきたころに供給者として仕事をはじめる。それらは商品やサービスとして需要者に行き届く。と同時に自分も需要者としてこれらを受け取ることができる。

仕事とは世の中の供給を増やし社会を豊かにする。

享受するだけでは不公平であり、みな働く準備ができたら社会に貢献するため仕事をしなくてはいけないという暗黙の掟がある。


主観的にみた仕事

ただ、人間は思考のなかで日々の感情に動かされている。

その中では仕事の中で過ごす時間は大きくなり、その人の人生といわれるものの大きな部分をなす。人々は仕事をもったら同じ環境に通うことになり、その環境がそれらの人々を作っていく。

思考の中では仕事とはその人の人生の大半を過ごす環境。

仕事をしなくては生きていけない。仕事をして社会に貢献したと見なされ、また実際貢献して需要者から金をもらう。それらを自分の感情を満たす使い方をする。なくなってはまた働く。

この視点から見ると2つのタイプがある。

まず仕事ははっきりとお金のためと考え、自分にとっては嫌なこととして仕事をして、お金をもらいそれで感情を満たす者。

もうひとつは仕事とは人生の大半を過ごす部分であるから、それを理解して、もしくは理解せずに感情を満たすひとつのツールとして使う者。この場合、感情を満たす力を与えてくれる環境。

人間が平和に生きていく上で定めたルールの下で社会の発展に貢献する義務。また生きていく上で重要な金を得るために必要なこと。

もし人間は仕事をしなくても生きていけたらどうなるか?最初のころは何もしなくても開放感に浸ることができるが、そのうちもの足りなくなり、空虚感に襲われるだろう。人間は感情を下げてから上げることの繰り返しで満たされていく。なぜ空虚感に襲われるかについてもうひとつ考えられることがあるのは、何もしていないと同じ環境にいる人間が少なくて共有できる感情がないからではないだろうか。

 だれもが何もしないで過ごすことは物理的に不可能。なぜなら供給者がいなくなるから。しかしもしそうなったら何をするだろうか、みんな観光地にいったり映画にいったりカラオケにいったりマッサージにいったり、または家でくつろぎ眠ったり。仲間も同じように何も働く必要がなく一緒に遊び感情を共有することができたらみな幸せだ。

 仮に原始時代に働かなくても食べ物など生きていく上で必要なものは得ることができる環境下に みんなが置かれたらどうなるか。きっと最初のうちはみんなで話たり歌ったりして感情を満たすことはできるが、新しい刺激を求めて彼らは新たな感情を満たしてくれるものを作り出すだろう。サッカーを始めたり、マッサージしあったり、家の雰囲気を変えてみたり。そのようなことが発展して今のような選択肢がありふれている世の中になったのだ。

 人間は飽きやすい。感情を満たしてくれるものの種類はどんどん人々の供給する仕事により増えていく。

仕事とは元来、自分たちの感情を満たしてくれる新たな物、サービス、施設などを作り出したとこから始まったのではないか。しかし現在ではそれらの根底にある理由は忘れられ軌道に乗っているビジネスというものの中で金を稼ぐことしか考えていない。

八百屋のおじさんがいなければ野菜を消費することはできない。いろんな選択肢があるのは地味でもいろんな人々が働いているからだ。

現在において私たちが働くのはこれだけ豊かな選択肢がある社会に生きていられるのだから、自分もそれを構成するものにならなけらばいけない義務があるように思える。

新たな価値を見出すため期待に満ちて行う作業。



超マクロ的にみた仕事

人間は自分の存在の意味を知らない。人間は限られた思考の中でしか生きられないのだからその中で自分で生きる意味を作ればいい。

しかし本質的な意味があるとしたら人間はそれらを探す。

仕事とは世の中の供給を増やし社会を豊かにする。

そして人間は快楽を増やすことによって生きているうちの楽しみを増やす。

そして本質への探求に集中する。

仕事とは生活向上のためという名目で人間が本質に迫ることを忘れさせている。

その中での生活に人間は縛られている。

人間の本質をしるためには動物を考えるのがいい。ライオン、ゴリラ、魚、ミドリムシ、生命誕生くらいの原始的な生物でも何でもいいのだが、それらは一体なんのために生きているというのか。

人間は本来それらと同じ目標のために生きているはずであるが、両手が空き、知能をもち、感情を持ったため、それらを満たすインフラを作り始めた。今ではそのインフラをさらに開発することがいわゆる仕事となり、本来の目的はどこに行ってしまったのだろうか。

これを追求するのは難しい。そもそも宇宙空間や、自分たちが今見ている世界の意義、宇宙の前には何があったかなど、根本的な問題になってくる。

私はこれらの答えを人間の脳で導くのは不可能であると考えている。それらを忘れて、一般的に言われている仕事をしたほうが賢明だ。

ここで言う仕事とは普通の人が高校、大学を卒業後に就職して、または起業して毎日勤めて働く場所をいう。

自分にとっての仕事とは自分のやりたいことへのプロセスである。新たな価値を見出し、得る期待に満ちて行う作業。これを終えればその人が感情を満たされる。

 原始時代のころ、仕事として自分の満足のために野菜を栽培している人がいたとしよう。この人の場合、仕事をしながら将来野菜を食べられることを期待している。この場合需要者と供給者が同一である。現在では分業が進み一人で複雑な商品やサービスを作るのはできないので、需要者と供給者が別々になっている。

 例えば車を買いたい人が、一生懸命になって証券会社で働くのは証券会社での仕事が誰かに与える感情の満足と車を買ったときの満足とが同じになるからで、そこでの双方での満足の尺度は金によって測られる。

 もちろん車を手に入れることがその人のすべてであるなら、車を自分で作るのがよい。しかし車のように現在の世界であるから存在する高度な技術が必要とするものを自作することは難しい。やはり違う方法で社会へ貢献し、その代償で車を手に入れることになる。

 このように既存する世の中から手に入れることのできる財やサービス、または人間関係を得ることが人間の生きがいになっている場合が多い。 

 これとは違い、世の中を変えたい、または貢献したいというインセンティブにより働いている人がいる。ここで言っている人々は世の中への影響を与えることがすべて、または強くそう思っている人を言う。その大半は起業家であったり、非営利で働いているはずである。というのも、どこかの企業で働くというのはそのような意思を持っている人に仕えることであり、仮に近いインセンティブを持って入社したとしてもその人の意思はトップの人間には及ばない。

 起業家といっても、私は2つに別れると思う。まずは金儲けや名誉が根本的なインセンティブとなっている経営者。彼らは起業する際、その事業をどのように選ぶか。それは常にビジネスチャンスをうかがっているような人だ。今は中国が成長して需要が増すだろうから、中国語の教室をスカイプを使って作ってみよう。という流れ。

 次に、もう一方の方は、感情からくるインセンティブ。日本の人に中国をもっとしってもらいたいから、それらを繋げるような仕事をしたい、だから中国語の教室を作ろう。となる。かれらの目標は明確で規模も大きい、中国と日本の交流を促進するという視点に立って、考えればビジネスチャンスは多くある。

 現在、名の知れている大企業は必ず創業以前、すくなくとも創業5年以内には今掲げている目標と同じ目標を当時から持っていたはずだ。グーグルも創業当時からかは確かではないが、世界のあらゆる情報を整理するという壮大な目標を追っている。そこにこのような目標があるから、どんどん新たなサービスを恐れず展開できるのだ。

 話は大分逸れたが、私にとって仕事とはこのような自分が社会に対してやりたいことを明確に持った人がそのプロセスに使うものである考える。自分のその目標がどこかの企業と完全に一致しているのであれば、そこに就職するのが一番である。しかしそのようなことは滅多にないのではないか。

 自分もそのような企業は見つかっていない。実際、私の年代で、強く明確に将来世の中をこう変えたいと強く信じている人は少ないはずだ。またそれを実行に移すのはほんの一握りの人間だろう。

 私にはその本の一握りの人達が本当の仕事というものをやっていると思う。自分も真の意味での仕事をしたい。

このブログではストイックを履き違えている著者の深い洞察から来る考えを備忘記録として残していきたいと思う。早速、第一回目であるが、まず自分の文章は構成を考えずに殴り書きで書いているので、読みにくかったり表現が間違っていることに関しては気にしていない。

私も遅かれ早かれ職を持ち生きていくことが求められる。どのような人材が優秀とみなされ採用されていくのであろうか。頭の回転や発想の豊かさは絶対的な数値で表すことはできないので、比べることはできない。仮に発想が豊かだとされるダウンタウンの松本について言えば、少数からは面白くないと言われることもある。目に見えない抽象的であり精神的レベルの概念は、それぞれの価値観に基づき判断される。

頭の回転がいくら速くて、仕事をバリバリこなせる人間は優秀なのか。大企業でこなす仕事は一人で片付けるようなものではなく、チームワークによりなされる。周りと連帯を取り、仲間の士気を高めることのできる人材や、それらを疎がらず、協調性のある人間が必要なのである。

プロ野球のチームや部活レベルでもいいが、高いレベルを目指す上でムードメーカーや心の便りどころとなる暖かい人間の存在が重要である。成績を出せる人間を高める人間、これらが使える、また、採用される人物である。マリナーズの長谷川に多くの球団からオファーがあったのは、彼の実力だけでなく、人柄や英語力、相談役の側面を評価され、チーム全体をよくしてくれるという理由から来ているものであるようだ。

現在、世界中で多くの人々が日々せっせと働いているが、このようなより高度な技術がさらなる発展に不可欠な状況で、多くの人間が一つの目標に対して協力していくことが必要である。

より付加価値の高いとされる仕事、ここでは給料で比べるしかないが、それらの仕事に関わる人々は優秀と一般的には言われてしまうであろう。それらの根拠は見つけることはできないが、コンビニでアルバイトをしている人間よりかはあらゆる面で能力があるように思える。

それらの高給取りに求められる資質とは何であろうか。まずは直球で、斬新なアイデアを論理的に導き出せ、それらを持続できるコアとなる人間。さらにそれらには多少、能力は劣るが、コアをうまくのらせることのできるムードメーカーや協調性のある人間。外見や振る舞いに魅力のある人間もここに入るであろう。しかしそれでもコアの人間に近い総合的な能力が必要である。

投資銀行やコンサルのフロントなど民間の営利で高給取りと言われる部類の人間はこのどちらかに入る。人材業界において、これらの人材が優秀とされると私は考える。この優秀とされるというのは、就職活動において給料の高い企業から採用されるという観点のみの話で、人類的に見た場合なんの、参考にはならない。

もちろん世界のビジネスレベルで考えれば、それらをうまくコントロールして自分の目標に向かわせる経営者が一番、能力があるように感じる。しかしこれもまた、価値を測る尺度がないため、人間という観点から見れば優れていると断言できない。今、もし天変地異が起き、何もかも崩壊したらどうなるか。人々はやりたい放題なんでもするだろう。まさに野生の動物のように殺し合い、自分を守るために必死になる。これが人間なのだ。普段われわれは動物を醜い欲望むき出しの生物と捉えるが、われわれの根本もそこにあるのである。

今、世の中で起こっていることはすべて、欲望をいかに抑えて欲望を満たすかというなんとも人間らしい行動なのである。本来の人間の根本に迫って、優秀を評価するのが、真の優秀な人間の定義ではないのか。動物をみてみよう。ライオン、ゴリラ、犬、猫、なんでもいいが、われわれから見て何の違いを見出せるか。

彼らは自分の欲望とその外的環境への対応して生きているだけなのだ。何の違いもない。そう何の違いもないのだ。人間も言ってみれば同じであり、欲望を満たすために外的環境と向き合い、自分にとって最適な行動をしているだけなのである。すなわちみんな同じレベルで何も違わないのである。究極的に言えばこのような結論になってしまったが、もう少し現実的、というか視点を狭めて納得のいく答えを見つけ出したい。

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