記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

元電通の従業員であった「はあちゅう」がツイッターで呟いていた。電通の先輩からの役に立ったアドバイスとのこと。
「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」
電通にそんなに優秀なやつが行っている感はないが、たしかに地方のマイルドヤンキーに比べれば勉強や社交もできるエリートなのだろう。

さて、この指摘はたしかに理にかなっている。

一般的なエリートが、何か事業を起こして商品やサービスを作ったり、政府が施策を打つために想定する対象、それが大衆なわけだが、もし自分が本当にほしいと思うものを提供しようとすれば失敗する。例えば、自分の例で恐縮だが、僕は自分なりに最高だと思う外国語の語学方法を持っている。かなり知的好奇心をくすぐられ、日々成長も実感できるサービスとして提供できる。しかし、大衆はそんなものを求めていない。本気で語学したい、とも思っていない。(もちろんハイエンドなサービスとしてブルーオーシャンを狙うことはできる)

そこのあなた、一瞬そう思ってしまわないだろうか?

私も以前はそう思っていた。大衆が喜ぶようなレベルに合わせたサービスを作りたくないと。

でもやっぱり大衆受け=大ヒットするものって誰にとっても良いものであることが多い。人間の感性の真善美の本質を突いているのだろう。焼きそばもうまいし、プロ野球は超面白いし、村上春樹も東野圭吾も面白いし。Macは使いやすし。

結局、僕らはみんな同じ身体性をもった「人間」なんだ。

さいほど述べた語学法、たしかに効率はいいのだが実は自分でやってみるとやっぱり続けるのが難しい。そこに誰でも続けてしまうような大衆向けのプラスアルファが必要なのだ。

こう考えると、ちょっと飛躍するが結局はマスを狙っていくしかない=時代を加速させるしかないのだなあ、とも思ってしまう。

小さく流行らせてそこから長期的に人々に浸透させるやり方もあるだろうが傍流に過ぎない。それが主流にどれだけ影響を与えられるのか、なんとも言えない。
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何か面白いものを創造したい。これはベンチャー志向の強い人は誰でも考えることだ。

僕もずっと考えてきている。いくつかのアイデアはこのブログでも書いている。

さて、1つちょっと変わった発想をしてみた。
プロダクトではなく「
優秀なやつが動くものは何か?という発想」。何か事業をおこすなら優秀な人材を集めなくてはいけないわけであり、彼らも納得のいくプロダクトやビジネスモデルが必要だ。特に優秀なやつは収益性だけではなく、哲学や物語を求めるであろう。

であれば、どうだろう?

優秀なやつとは誰だろう。まず学歴、ハーバード、MIT、オックスブリッジ、東大京大。サラリーマンなら、伸び盛りのベンチャー企業の経営層、サラリーマンならゴールドマン・サックスやグーグル、三菱商事などの人は優秀かもしれない。

かれらが動くものって何?テック系?fin tech?シリコンバレーを真似して日本で展開する?中国市場?平和?そっから考えていくのも面白い。 

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東浩紀が2017年正月の特番で現代社会を次のように分析していた。国連の哲学的基礎はカントの『永遠平和のために』にあり、当時の想定は国と国との交渉は、政府と政府が行い、社会は直に接することはない。しかし、今は、政府も社会も接している。昔なら韓国が反日教育いくらやっても政府同士がちゃんとやってればどうにかなっていたが、今では社会同士がぶつかってしまう。国際社会の新しい在り方である。

ではどうすればいいか?個人単位の交流が深まり、社会がマージしていくことが望ましいという。グローバリズムとは本来そういうものだ。国家はバラバラでいいが、社会が一つにマージされること。そうすればお互いが自分の利益を考えて動こうとしても、社会が繋がっていることで政府の暴走が抑制される。現在、既に富裕層は一体化している。今後、社会自体が、個人ベースで交わっていくことを支援したほうがいい、という話。

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同じようなことを米最大のシンクタンクである外交問題評議会のリチャード・ハース会長が、フォーリン・アフェアーズ誌最新号に「世界秩序2・0」と題する一文で述べている

1648年のウェストファリア条約で規定された国家主権を基本とする国際秩序に疑問を呈した。国家間の紛争や不安定を、主権尊重や勢力均衡を唱えて収めようとしても不可能な観光客、テロリスト、難民、電子メール、疾病、ドル、温室効果ガスなどを国際化した社会が招いてしまったので、従来の秩序1・0に代わり、「2・0」が必要だとの指摘である。


 詳細は不明だが、社会同士が交わってしまい1つの国家だけでは対処できない国際的な問題が頻発していることが世界秩序を変えている。既にインターネットを通じて、世界中の情報を個人でも得ることができるし、海外に行くことも簡単だ。理論的な裏付けはないが、個人がもっと国家を超えて交わり社会がマージされていくことが各国家がグローバルな社会に責任を持つきっかけとなるであろう。

まず私は、隣国中国と日本の個人レベルでの交流を促進していきたい。 

「プロダクト」で価値をユーザーに提供するというのは古い。「何か面白いだろうと思われる体験」を想定して、それを提供する商品やサービスを作って、提供する、というのが今までの企業の在り方である。しかし、これは古い考え方である。

われわれは日々、自分の実存を生きている。仕事や友達と遊んだり寝たりする中の本の一部に、商品やサービスを消費するという場面がある。中でも最も大きいのは仕事である。寝ている時間を除けば大抵の現代人は大半を仕事に費やしている。 

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働き方をデザインすることが求められる。職場のデザインなどというふうに昔から言われていたかもしれない。でも、勘違いしてほしくないのは、これを労働や仕事という苦労の負荷を減らす、と考えてはいけないということ。マイナス要素を取り払って仕事外のプライベートを充実させよう的な浅いライフワークバランスの発想もだめ。

現代のようなプロダクトを消費しても満たされないポストモダン的状況においては、仕事を積極的に生をよくするものとして捉え直すことが必要。

そのためには人間はどういうものかを考える必要がある。この実存はどういう構造になっているのか、と。詳しくは、 こちらを見てほしいが要は自我という物語を安定し、現実に適合するために人間は生きている。そう、現実に適合するために物語を維持する、これが致命的に重要。

その観点でいうと、物語を安定させるには仕事を沢山すること、残業することも重要になる場合がある。下手にワークライフバランスとかいっても対してこれまでの自我は何もやることを持っていないならそれは安定しない。まずは自己分析して物語を明確にすべきだ。そしたら多くの日本人は仕事が必要なことが分かる。

あまり具体的な分析に入れず、議論は浅いが今度改めて深く考えてみたい。自我を安定させるための社会の在り方について。 
 

最近のお笑い芸人と所謂知識人といわれる層の関係が変わったように感じる。昔は、お笑い芸人の番組に大学教授やジャーナリスト、その他インテリが登場すると、何か難しいことや真面目なことをいうとすぐにイジって笑いものにしていたようなイメージがある。特にダウンタウンとか。(僕はダウンタウンファンだが)といっても具体的にって言われると何の根拠も出てこない。ただそう思う。

例えば、以下の番組では、ウーマンラッシュアワーの村本が社会学者の宮台真司とけっこう深い話をしている。お笑い芸人の村本の真摯な姿勢が伺えるし、学者の宮台も気を使いながら話している。



今のようなポストモダンの時代に、昔のダウンタウンみたいなスーパースターというか別格の存在は現れないだろう。というのも、みんなバラバラの興味をもとにバラバラのメディアを見ているから、大勢が1つに注目することはなくなるし、あっても情報が多すぎてすぐに次の話題に行ってしまう。昨年テロが何件あったか?具体的に覚えているだろうか。あんな悲惨な事件も溢れる情報に流されていく。

ダウンタウンのような存在は出ないが、今後、インテリとの橋渡しという役割は注目されるだろう。そもそもダウンタウン自体も今、方向性を変え多少政治や世間について勉強して意見しようとしている。ただ、まだまだ勉強足らずで観てはいられないが。

なぜなのだろうか?なぜこういう変化が起きているのか。

端的にいえば、グローバル資本主義でかなりシビアに利益的に仕事が行われ、実力のないやつは飢え死ぬしかない。日本のように会社が面倒見てきた社会、さらに親族で結束することもない社会ではセーフティネットがない。こうなると、いよいよ社会はやばくなる。ガチで病院にもいけず、餓死したり厳しい社会になる。

そういう背景もあり、日本も普通の国になるのかもしれない。要はコメディアンは本来のように権力をいじったりするという役割を果たすように。しかしそのためには彼らも勉強しなくてはいけない。村本のように真摯に彼らの耳を傾けながらも番組を盛り上げられるような人間が今後重要となるだろう。ダウンタウンのような存在はもう出てこないと言ったが、村本には個人的に期待している。 

究極的に自分の生のことを考えるとどうしても独我論的、観念論的になってしまう。要は、全て「いま、ここ」に還元された世界が中心となる。

正直自分の実存が終われば、その後はどうなってもいい。だから「後は野となれ山となれ」でいいのか?究極的に独我論的になればそうなるか?

そうでもない。

もし後に愛すべき妻や息子、家族がいるなら、彼らのためによい世界を残したい。そして彼らもその子供のために同じことを思うだろう。そうであればそれは無限に続く。ということはわれわれは現在の自分の家族のために、その先の未来のずっと先を考えてやらねばならない。彼らが子どもを持つかは分からないが。 仮に独我論的態度をとっても、僕が死んだらこの世界は終わる、という「確信」はもてないだろう。死ぬその瞬間までこの世は家族たちにとっては継続すると「確信」しているはずだ。であれば、独我論者もやはり家族の未来を考慮しなくてはならない。

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では、今の子どもだけ?その次の世代も?はたまたその次も?そうやっていけばキリがない。そこは自然と思考停止になり、2代先くらいまでしか社会的には考えないようになるのではないか。はっきりいって身体的にはそれくらい、いやせいぜい今の子どものことしか考えられない。もっと先となるとただの机上の空論、ロゴスの悪用であり、ぜんぜんリアリティのないままコミットできないものになる。

さて、
もう一つ考えるべくは「感受性の変化」である。

今の僕らが目指すものそれは何か。戦争だけなくせばいいのか?殺人や強姦などもあってはならない。万引きやスリもだめだろう。そういう感受性の中に生きている。

でも、今後肉体の再生が可能になったり、不労でも生きていけるようになればこうした「悪」とはまた違った「悪」が出て来るだろうから今は決められない。われわれの善悪という規範は、50年前と比べても大分変わっているのであり、100年前数百年と遡ればもっと変わる。 

さて、だから結局感受性が変わってしまった未来社会の在り方は本当の意味で現時点では思考可能なのである。だから、まずは何世代先とか考えずに今の感受性の社会、ということに拘って考えていくべきである。

松本人志は面白い。僕は好きだ。ただ、彼は観客に結構いちゃもんをつける。そこがいまいち理解できなかった。

しかし、最近よく分かってきた。

やっぱり、お笑いとは松本が言うとおり「生き物」なのである。その意味は、その場の状況によって活かされるもの。みんなで作り上げるもの、といえる。

このブログでも書いた通り、僕らは物語を生きている。その物語に沿うことじゃないと何も意味がない。お笑いも同じ。元気ない人、敵意丸出しの人を笑わせるのは笑いではない。笑いとはみんなで楽しもうという活動ともいえる。みんなで「笑い」リズムを作って、「楽しいね」と確認し合う、それが松本のいうような「笑い」なのだろう。

 

楽天(Rakuten)を馬鹿にする人間はレベルが低いやつが多い。楽天?「ああ、あの新卒でカード営業させられるとこね」「ああ、残業代もらえないブラックな企業だね」などなど楽天と聞くと偉そうに上から目線のコメント。それはネットや友達から又聞きしたような適当な情報ソース。仮に正しい情報だったとしても、それがどのような全体の一部であるのかに目が行かない。クソ野郎どもだ。


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近頃の学生に話を聞くと、楽天(Rakuten)は人気がない。ブラック企業だ。頭悪い。アマゾンに比べてなんだあの使い勝手の悪さは。従業員が無能そう。などなど言いたい放題だ。逆にDeNAは昔ほど人気はないが、頭のいいコンサル集団、自分で考えれる人たち、というようないいイメージがあるようだ。楽天はイエスマンの無能な兵隊ってか。


でも、その従業員の評価と組織の評価は別であるべきだ。地味な仕事でも組織の一部として全うすることは自分や組織の両方のためになる。そういう観点でも組織やその従業員をみるべきだ。


時価総額

時価総額はただの1つの指標にすぎないが、最も一般的な会社の価値の測り方だろう。楽天は組織としてはとてつもなく凄い実績を持つ。

2017年1月23日時点では、IT関連企業の時価総額ランキングは1位NTTドコモの約11兆円が最高。2位NTTで10兆、3位はソフトバンク9兆。4位KDDI8兆。5位キーエンスで5兆。ソニーは8位で4兆ちょっと。任天堂は10位で3兆ちょっと。ヤフーは13位で2.6兆。楽天は16位で1.6兆。DeNAは49位で4000億円。ミクシィは50位で3900億円程度。

日本には400万以上の企業があり、約3500社の上場企業がある。その中でこの規模の会社であることは凄いことではないか。 


ITに絞らず全体でみる。2017年2月、日本の時価総額ランキングは1位トヨタ21兆円、2位がMUFJで11兆、3位がNTTドコモで10.6兆円。楽天は85位で1.5兆円程度。

インターネットの主要企業でいうと、以下にまとまっている。2015年に楽天は時価総額2.8兆円もあったのだ。

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設立時期
設立時期はインターネット業界では非常に重要だろう。ECやポータルサイトなどインターネット黎明期にはいかに参入が早かったかが勝負の行方を決める。

ヤフージャパン  1996年1月31日 楽天  1997年2月7日 カカクコム 1997年12月 スタートトゥデイ  1998年5月21日 DeNA 1999年3月4日 ミクシィ  1999年6月3日 サイバーエージェント 1998年3月18日 グリー  2004年12月7日 リブセンス  2006年2月8日 gumi 2007年6月13日 メタップス  2007年9月3日 メルカリ  2013年2月
楽天!早い。。これは凄くて当たり前、といった論を擁護する結果となる。ヤフー、楽天とそのまま今のインターネット企業時価総額ランキングの上位2つだ。

ただ、他業種も含めれば
1997年に会社設立、今年で20周年というのは非常に若い。楽天は時価総額は2兆円前後で日本のすべての企業の中でも(マクロミクロの状況の変動に依るが)トップ30〜80位くらいにいる。他の会社はトヨタ、三菱商事、任天堂などなど100年以上の歴史があるような伝統的な企業が多い。そんな中、20年で、一代でここまで来ているのは凄い。ただ、時代に乗ったと言われたら厳しいが、伝統的な企業も芽が出たときはそんなもんだろう。

しかし、これみるとソフトバンクもそうだが要は、最初にその業界で地位を固めたら独占的に強くなれる。初期段階で、金融力を武器どんどん成長して競合を蹴散らした楽天が勝ったのが分かる。しかし、その楽天がサービス作りに弱かったのが日本人にとって不幸だった。アマゾンみたいな会社だったら、もっと使いやすいECがとっくに拡がっていたんだろう。なんか中華民国が中国大陸を支配してくれたらな、っていうのに似ている。

業界のナンバーワン
ただ、
楽天を舐めてはいけない。そもそもEC業界ナンバーワンだ。総合商社の丸紅のような中途半端で地味な存在ではない。

設立時期早くて一気に大きくなったということとも関連するが、そこにはやはり楽天の強みがある。
組織というのは、優秀な人が集まればいいってもんじゃない。イエスマンとか素朴な人がけっこういて手駒になってくれることで組織が一丸となり、全体として強くなる。全体主義的だが、それで中の個人も潤えばいい。


たしかにヤフーとの引き離され感が目立つ。ヤフーはこうした組織的な力に加えてやはりアメリカが母体なのでPDCAやちゃんとしたプロダクトを作るマネジメントができるのだろう。

結局、新しい産業ができ始まった段階で、リスク取って一気に拡大する度胸と力(主に金融力)があったのが楽天という会社じゃないだろうか。ただ、先見性があったかは分からない。三木谷はHBSに留学して帰ってきたてだったのでアメリカですでにECを体験していただろうし、パン屋をやろうかとも考えていたことから自分で社会や世界の動向を察知したという感じではない。

ただ会社を大きくするだけでは大したことないが楽天はいちおうマネジメントで全体をうまく統合している。ここは評価に値する。楽天というHBS卒業集団はM&AとKPI管理で一気に大きくなった。これだけ沢山の会社を買収し手広くやっても楽天というアイデンティティでいちおうは全体が統合しているのは凄い。

一方、楽天は普遍的な価値あるプロダクトを作る力はない。楽天から世界で使われるサービスが出て来る気はしない。でも、ビジネスというのはユーザーエクスペリエンスだけでは勝負がつかない。もちろん、論理的に考えれば、社会構造が中長期的にはリベラル方向に進むのと同じで、ユーザーエクスペリエンスにより業界は淘汰されていくだろう。ちょうどここ最近アマゾンにやられてきているようだし。

ということで、大分ざっくりな分析をした。将来性には疑問があるが、楽天(Rakuten)は凄いところももちろんある。だから、例えば就職や転職活動をしている人は単純に「クレカ営業」「ブラック残業」みたいな見下しはせず評価するところはして、考えるべきだ。上述のように凄いところもダメなところもある。例えば、M&Aで組織を大きくするとかそういう方面を学びたければこれ以上ない環境だし、普遍的なプロダクトを作りたいならアマゾンとか他にいったほうがいい。いろいろな視点からちゃんと考えるべきだ。

PS
不況にも強いようです。

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僕は、ベンチャー志向だから商品やサービスを創造するならもちろん「価値あるもの」を、と思っていた。では「価値ある」とは何か。それは各個人が生きている一人一宇宙の主観的世界、これを実存というが、実存をよいものにする、ということ。一般的な「幸せ」と同じだと考えてもらえばいい。

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では、どうすればいいか。まず、そもそも「幸せになりたい」とかそういう現実に不満がなかったり、それどころではなく(いい意味でも悪い意味でも)何かに熱中しているならそれはそれでいい。そうではなく現実に不満があるなら「どう生きるべきか」の指針がほしいであろう。ちなみに、お金がないとかそういう現実的に解決方法が明確な場合は、それに向けて頑張ればいい。

人間は実存の軸は、自我の安定である。動物は刺激に対して一義的な反応が決まっており、本能的に生きているといえる。しかし、われわれは「シンボル化能力」=所謂ソシュールでいうランガージュという言語能力をもっている。何かをゲシュタルト化し一般化する。対象化ともいえる。こうした対象化が連合したり、さらに対象化され、さらに対象する側も対象化されると「世界内存在」という世界の中でいきる自我というような生の在り方となる。

木田元はこのようなシンボル機能と呼んでおり、そこからシンボル機能からシンボル体系という<世界>が構成されることを説明している。
メルロ=ポンティはこういう。シンボルとは、さまざまな関係相互の関係として成り立つ高次の関係、さまざまな構造をさらに構造化する高次の構造、つまり「関係の関係」「構造の構造」あるいは「自乗された構造」のことであり、それを構成する働きが「シンボル機能」である。

人間はこれにより、現に与えられている「限られた環境に対してではなく、可能的なもの、間接的なものに対しても向きを定め」、「現実的環境の向こうに各自が多くの局面から見ることのできる一つの<物の世界>を認めること」、つまりは生物学的<環境世界>に閉じ込められることなく<世界>へ開かれてあることができるのである。してみれば、<世界>とは、このようにして構成される高次のシンボル体系だということになろう。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きる生き方<世界内存在>だということになる。 
われわれが体験する<世界>とは全て言語的なものを土台にしている。そのために一貫した物語が必要となる。そうしてどうにかしてありもしないシンボル体系に流れ(物語)を使って現実に適応しようとしている。だから、基本的に人間は物語を軸に生きている。そのためこの物語がなくなれば、現実を生きるすべを失う。自我を安定させてこの「世界内存在」というあり方を保つことが人間には必要なのである。安定したから幸せというような話ではない。ただ単に人間はそういうあり方をしているので、そうするしかないのだ。

物語とはどのようなものか?自分の経験から地球という外に宇宙の拡がった客観的世界に主観を持った人間たちが生きていて自分はその一人である、と。そこで、例えば僕なら「日本人」「北区育ち」「インターネット業界」「ベンチャーで創造性ある人間」「三ヶ国語しゃべれる」などなど自分で勝手におれはこういう人間だと前提している。
 

そしてそうした前提に基づいて日々生きている。例えば会社にいったり、人と話すときも、あるいはご飯を食べるときも全部この物語(世界観)に位置づけて理解している。会社に毎日通勤するのは「自分はそこで働いている」という物語からおこる行動であり、動物のように本能で一義的に動いているわけではない。ソシュール研究者の丸山圭三郎が言うように、われわれは本能としてフグを食べていいかだめか分からない。言語的に「食べられる」「食べられない」を言分けて生きている。これは物語で生きているというのと同じこと。

さて、「幸せ」とは何か?結局、これもこの物語の中の一つの概念でしかない。一番重要な考えるべきことは、「物語を安定させる」ことなのである。この物語を通じてわれわれは現実に適合している。いいかえれば「自我を安定」させること。

さて、少し視点を変えてみる。

数年前に発表されたハーバード大の75年にわたる研究で分かったことは、「幸せ」ともっとも相関の高い条件は「周囲の人たちのよい人間関係を築く」ということだった。(上記で「幸せ」はただの物語の概念にすぎないと書いたが、実存にとってよいものと読み替えてほしい。最終目的は「幸せ」ではない。ただ、内在的視点に戻って確かめているだけ)これは自我を安定させるという視点で説明できる。自我は「他者」に認められることで安定する。そもそも、こうした世界内存在という在り方自体が「他者」から植え付けられたことである。

実際の直接経験として人と接することが実存に与える影響は大きい。他者が認めたあなたが、あなたの物語となる。自分でいくら勝手に物語を作り上げ自分をそこに位置づけても、他者が認めないと自分もそれに確信を持つことはできない。言語だけの空想では人はその物語を生きていることを信じることはできない。

さて、実存の構造がわかったいま、それをいいものにしたいなら自我を安定させることが重要だとわかった。つまり、自分を位置づけたい物語に確信を持てるよう他者に認めてもらうことだ。逆にいえば、他者が認めているあなたの物語を、あなたが認めるのでもいい。極悪非道な物語でもいいのだ。ベジータがそうじゃないか。だから、バビディに故意に引っかかり一貫した悪党になった。それまでは地球に適合するという違う物語を持とうとしてしまい、自我が安定していなかったのだ。

あなたがもし、暗い人間で、楽しむことをしらない、人の幸せを妬むクソみたいな人間、であることを本当に認めるなら、それでもいちおう自我は安定する。他者があなたの物語を認めるとは、他者の中にあなたはそういう物語をもった人間だと確信をもたせること。だからそれは、悪い人間「として」の物語もありうるし、むしろ人にそう思ってもらうことほど楽なことはない。ただ勝手気ままにそして無愛想に振る舞っていればいいのだから。世の中にこういう人が多いのは、これでしっかりと自我が安定するからだ。

しかし、結局は親に育てられた人間は、少しは「いい人間である」という物語を持ちたいと思っている。というか、最初の物語は基本的に親から与えられるわけであるからほぼほぼそうなる。完全な極悪非道では、理想の自我とのギャップが生まれてしまうわけだ。

このあたりは私の自我論の大部分を負うフロイト研究者の岸田秀(1933−)が詳しく説明している。(『幻想の未来』)ちなみにどの人間にも同じような土台としての自我がある。人間は、ほぼ必ずといっていいほど親に育てられる。母親にご飯を食べさせてもらい、抱っこしてもらい、やさしくされる。そうすると、生まれてからは全知全能という自我を持つ。それが父親や他者の介入で崩される。そこまでは誰もが経験すること。それゆえ人は、全知全能に戻るべく母親に自己を預け依存しようとする。これが自己放棄的、依存的自我である。

そしてそう願っても現実には母親は全知全能を与えてくれるわけではなく挫折し、その屈辱や怒りをバネに依存をやめ、全知全能を自ら取り戻し実現しようとする。ここで自己拡大衝動が確立する。それから後は、「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」との正反対の二つの基本的衝動の間に引き裂かれることになる。この二つの衝動は本能ではない。動物には存在しない。いずれも未熟な状態で生まれ、長い間他者の世話にならなければならにという人間特有の条件から生じる人間特有の衝動である。

さらに、岸田秀を引用してみよう。今書いたようなモデルの具体例。『唯幻論大全』の105−106ページ。
 
わたしは、要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。強迫観念は、脳のどこかが破損したとか、神経系のどこかが狂ったとかの症状ではなく、原理としては、その構造というか、原因は実に簡単なのである。
 
原理としては実に簡単であるが、実際問題としては、偽りとは言え、それまでの自我の安定を捨てることはきわめて難しい。十代の中頃、神経症に囚われ、精神分析を知って、いろいろ考え始めてから、どうも神経症の根底に母との関係の問題があるらしいことは理論的にはまもなくわかった。それまでわたしを献身的に愛してくれていると思っていた母の愛情が疑わしいことに気づくのはそれほど難しいことではなかった。

しかし母は事実上、母ではなくわたしのことなど何も考えていない無慈悲な赤の他人で、わたしを虐待し続けていたのだという事実をはっきりと認めるには大変な抵抗があった。そう認めると、わたしの自我の安定、存在価値の根拠が失われ、わたしの過去は全否定され、わたしは強烈な不安と恐怖に突き落とされる。

それに絶えられず、不安と恐怖から逃れようとして、偽りの自我の安定にまたしがみつく。母はそんなに悪い人ではなかった、愛情深いところもあった、ああもしてくれた、こうもしてくらたと考える。すると、また強迫観念をはじめ、人格障害、対人関係障害など一種の神経症的症状がぶり返してくる。この葛藤というか、往復運動を何回となく繰り返した。
 
要するに、神経症が治るか治らないかの問題は、原理としては実に簡単明瞭である。一服飲めばピタリと治る薬があるわけではなく、どこかに救いの神がいて助けてくれるわけでもない。誰でも幼いときから親子関係のなかで築いてきた自分の物語に支えられて自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ、何ら問題は起こらない。

この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧するとき、神経症的症状が発生する。したがって、神経症を直すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することを止めて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただ、それだけなのである。しかし、そのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするかしないかの問題である。そのあとは、新しい真実の自分の物語を構築してゆけばいいのである。それも容易ではないが…。
唯幻論大全
岸田秀
飛鳥新社
2013-01-25


なかなか分かりにくい。岸田の本を読んでいるとたまに一貫性がないことがある。この例も彼の理論がどうやってあてはまるのか。

まず、岸田の母親は岸田に愛情を注いでおらず利己的に育てたようだ。それが最初にあり、岸田も幼少期なりにそのような自我を持った。要は、母親に愛さていないという物語。しかし、成長するにつれ「母親とは子供を愛情を持って育てるものだ」というような常識を知り、母親と接したり他者と接する中でそちらのほうが現実に適応し、もともとの自己的な母親の物語は抑圧された。社会の常識は重要だ。なぜなら、物語は他者に認められなければならないので、社会的な傾向に沿ったものでないと認められにくいからだ。逆に常識はずれな岸田のような自我は社会に合わせるために自分の自我を抑圧しなくてはいけなくなる。

その後ずっと大人になっても「どの母親も子供を愛している。自分の母親もそうだ」という物語を持って生きていたが、その下の自我の核心には「利己的な母親」の物語があったのである。これを認めると今まで何十年という安定してきた自我を放棄することになる。(安定しているとはいえ下に抑圧されていたものが時々病を生じさせていたのだが)もしそうするのであれば、それに伴いあらゆる今の物語も書き換える必要がある。世間的には「母親は子を愛するものだ」と言ってきたり、「私は愛情を持って育てられた」という認識を持つものに新たな認識を書き込まなければ解決しない。しかし、そうすることでもう抑圧された欺瞞に突かれることはなくなる。

このように幼少期に作られた自我が、その後大きく異なる自我で覆いかぶされると岸田のように自我の安定に問題が生じることが分かる。ここでの要点は、「個人の特殊な自我」と「社会の常識」の対立である。誰でも特殊な体験を持っているものだが、それを物語に組み入れるには程度の差はあれ社会の常識から外れなければならない。

そして上述の通り根本的に誰もが母親から育てられる経験をしていることから「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」を持ち、その後社会という人間の相互関係に置かれるため、自我は安定しない。そう、基本的に自我は安定しないのだ。でも、それをいちおう分かりながら行動していけば、生は必ずよくなるだろう。まずは自分がどのような物語を生きているかを理解し、さらにそれが社会や周囲の人間に認められているのかを考えてみよう。これがあなたが求める「幸せ」の第一歩なのだ。

自我=物語を知るために、心理学者の榎本博明氏がいろいろ行っている。

以下の本から自己物語を知るための方法を参考にされたい。ありがとうございます。


自己を語ってもらうことにより個人の人生に迫ろうという方法を「自己物語法」と名付け、面接法、記述法、図示法といった3つの方法を考察し、実践の場で用いています。面接法は、幼児期から現在に至る人生の各時期の主なエピソードとそれが本人にとってもつ意味を語ってもら半構造化面接であり、とくに思い出されるエピソードや転機となったエピソードについて時間軸にそうのを原則としつつ自由に語ってもらう。語る代わりに記述してもらうのが記述法。図示法では、人生の各時期に与える評価をもとに人生の起伏、すなわち上昇部分や下降部分、上昇、下降の転換点について記述してもらう。

自己物語法では表のように一連の問いかけに対して思い浮かぶことを自由に語ったり記述してもらう。語られた内容をもとに自己物語の文脈を抽出する際には以下のようなことを心がける。

1,      想起されるエピソードを事実と意味づけ(テーマ)の相互作用の産物として理解する

(ア) 出来事のとそれに対する気持ちや意味付けを区別して整理する

(イ) エピソード群に、何らかの共通点がないかどうか検討する

(ウ) 繰り返し現れるテーマや基調として流れているテーマを読み取る

2,      とくにターニングポイントとなったエピソードの現在における意味付けに注目する

(ア) 出来事、それに対する当時の気持ちの解釈、現在の気持ちや解釈、その後の自分に対する影響などを整理

(イ) 今現在生きられている自己物語の鍵をにぎると思われる文脈を読み取る

自己物語法の手順

1,      今の自分自身について

2,      今の自分にとって大事だと思うエピソード

3,      懐かしく思い出される人、モノ、出来事、場所

4,      最初の記憶

5,      最初の記憶より順を追って想起される主なエピソード

(ア) 幼児期のエピソード

(イ) 移行期

(ウ) 小学校時代のエピソード

(エ) 移行期

(オ) 中学校時代のエピソード

(カ) 移行期

(キ) 高校時代のエピソード

(ク) 移行期

(ケ) 大学時代のエピソード

6,      転機ターニングポイントとなったエピソード

7,      自分の人生史の中でやり直したい、書き換えてしまいたいところ

8,      今の自分自身について

9,      語りの前後での自分自身に関する見方に生じた変化

10,感想

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

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