記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

宮台真司は社会学の入門書『14歳からの社会学』で<世界>と<社会>について以下のようなことを書いている。



<世界>という概念と<社会>という概念がある。<世界>というのは「ありとあらゆるものの全体」。それに対して<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。今日では<社会>とは人間界のことだ。…部族段階の古い社会に生きる人々や、ハイハイしてなんでも口に入れる赤ん坊にとって、<社会>は人間界に限られない。<世界>がまるごと<社会>だ。あらゆるものとコミュニケーションできる。犬とも、猫とも、木とも、雲とも、お話ができる。
でも、時代が進んでいくについれ、あるいは、赤ん坊が成長していくにつれ、人は、<社会>の外にも<世界>が広がっていることに気づく。<世界>にはコミュニケーションできないものがあるのを知る。コミュニケーションできるのは人間だけだと知る。
<社会>の中では「承認」が問題になる。<世界>の中では「承認」どころかアリンコみたいな存在だ。「承認」を気にしている自分など 、とてもとても小さい。

宮台の理解と若干ことなるが、私なりに解釈したい。

社会とは要は「言語」の世界である。つまり、一般性をもった概念(言語)を通じて世界と接している。言語で分り切れないものは、存在しないに等しい。でも、<世界>という連続体のカオスは想定できる。もちろん、社会的な人間は言語を使うことで、その<世界>が背理的に出てくるのだが。

さて、いきなりだが、メジャーリーグのイチローは凄い。
いやそこまでいかなくてもどんな分野でもその分野で豊富な経験を持ち実績を出している人は凄い。こういう人は、言語的思考をしなくても無意識に何かをできる。もちろん少しは言語的思考が入るだろうが、熟練するほど無意識になる。要は、チクセントミハイのいうフロー体験。

フロー体験とは、要するに<世界>に接している状態なのだ。言語的思考のタガが外れ、<世界>に向き合う。

もちろん、イチローといえども、そのような状態は極限られた時間である。でも、そういう体験を何度もしてるはず。それこそ、生命の本能的な在り方。もちろん、良い悪いの話ではないが、人間は言語を持ち一般性を通じた言分けられる社会としか接しなくなった。でも、原理的にはやっぱり<世界>ありきで、動物や植物はそこに生きている。人間もそっちが原初的自然である。

<世界>を知る人間は、<社会>で幸せな人が多い。なぜなら、言葉の世界を信頼していないから。それを包括するもっとありありしたありのままの<世界>を知っているから。われわれはその存在に確信を得たとき、言語の世界に過剰反応しなくなり、のほほんと気楽に生きていける。言語で理解してもだめだ。無意識に何かができるくらいの熟練が必要。座禅で目指すのもそういう<世界>だ。 
 fs

「本質を見ろ!」「本質を捉えてない」とかそういう「本質」が大切であるような発言をよく聞くが、そもそも「本質」とは何のことを言っているのか。

このブログで問う「本質」とはあらゆる本質の中でももっとも本質的なものだと確信している。どういう意味で「本質」と言っているのか、詳しくは前の記事「本質とは何か」をご覧ください。

hch


いちおうおさらいすると、「本質」とは
本質とは意味。実存(現存在)にとってどういうものか、直観(受動的なもの)を土台にして明らかにされたもの

でした。これだけだと抽象的すぎて分からないという人は前の記事を見てください。

今回は、この「本質」を念頭に、「本質観取」という物事(主に言葉)の本質を掴むための「方法」を紹介したいと思います。 

本質観取について哲学者の竹田青嗣氏の分りやすい解説をこちらのサイトから以下に引用。

 まず、本質観取(=「本質直観」とほぼ同じ)とは何かについて簡単にお話をしたいと思います。
 
 現象学の基本的な考え方は、われわれのなかにどのように世界認識が成立するのか、その構造をはっきり確かめようということです。ある認識が正しいかどうかではなく、確信として成立している構造を確かめる。そうすることで、なぜそれぞれの認識に違いが出てくるのかということや、どういう条件があれば広く共通了解が生み出されていくのかということが分かる。それが基本的な発想です。いつも言うことですが、近代哲学の認識問題(エピステモロジー)の背後にあったのは、宗教戦争を軸とする信念対立の問題です。宗教対立が下火になったあとも、近代のイデオロギー対立が同じ本質をもって現われました。「確信成立」の条件あるいは構造を確かめることでこの問題は解明されるというのがフッサールの最も核心的な思想的直観だったのです。

 ともあれ、この「確信成立」の条件あるいは構造を確かめるために、現象学では「還元」を行います。それの要点をひとことで言うとこんな感じになります。われわれは普通「ここにリンゴが存在しているから、リンゴの赤くて丸くてつやつやした像を見ることができる」と考えますね。これが普通の考え方です。それをあえて、「赤くて丸くてつやつやしているこういう像を見ているので、リンゴが確かに存在しているという確信を抱くのだ」という具合に考えてみる。事実として「ここにこのリンゴがある」というふうに考えないで、「ここにリンゴがある」という確信が成立している意識の側から考えようとするわけです。

 つまり、普通ならば「リンゴがある(原因)」から「赤くて丸くてつやつやしたリンゴの像が見える(結果)」と考えるところを、「赤くて丸くてつやつしているリンゴの像が見えている(原因)」から「そこにリンゴがあるという確信が成立する(結果)」という仕方で考えるわけです。一般的な原因と結果の順序を入れ替えるわけです。

 これが還元といわれている方法の基本的な発想ですが、「本質観取」はこの考え方を応用したものです。赤くて丸くてつやつやしたものが一定の形で自分の意識に生じている場合には、だれでも、リンゴが自分の前に存在することを確信せざるをえない。自分もそうだし、ほかのひともきっとそうに違いない。単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと、これが現象学的還元という方法の基本です。

 さて、そこでいま、例えばこの「リンゴ」を「罪悪感」という言葉に置き換えて、ほぼ同じ要領で考えてみます。つまり、ここでの問いは、われわれはいったいどのような心的経験のありようを「罪悪感」という言葉で呼ぶのか、というものになります。あるいはわれわれが「幸せ」と呼んでいるもの、「真理」と呼んでいるものは、われわれの中でどのような経験の芯をもっているか。そういう問い方です。「真理とはこれこれこういうものだ」ということをあらかじめ前提に置かない。また、何が「真理」なのかについて、あらかじめ客観的な事実や答えがあると考えない。一人ひとり何を「真理」と考えるか、みなバラバラである。にもかかわらず、そこになんらかの深い共通項があるとしたらそれはどのようなものだろうか。これが本質観取という方法の問い方です。
 
 もちろんこのとき、まず自分が「真理」と呼ぶもののありようを確かめ、しかしそこにとどまらずほかのひとがいろいろな形で「真理」と呼んでいるものの内実を確かめ、その共通項を上手に取り出していく。そして、「真理」という言葉の芯、だれもが、なるほどこういうことが「真理」のいちばん芯にあるなと納得できるような概念の芯を取り出す。まず大きく言えば、本質観取とはそういう方法です。

ここで言われていることを整理しよう。

■現象学の基本的な考え方
われわれのなかにどのように世界認識が成立するのかという構造をはっきり確かめようということ。ある認識が正しいかどうかではなく、確信として成立している構造を確かめる。そうすることで、なぜそれぞれの認識に違いが出てくるのかということや、どういう条件があれば広く共通了解が生み出されていくのかということが分かる。それが目的。それが基本的な発想です。近代哲学の認識問題(エピステモロジー)の背後にあったのは、宗教戦争を軸とする信念対立の問題。宗教対立が下火になったあとも、近代のイデオロギー対立が同じ本質をもって現われた。「確信成立」の条件あるいは構造を確かめることでこの問題は解明されるというのがフッサールの最も核心的な思想的直観だったのだ。 

■本質観取とは?
普通ならば「リンゴがある(原因)」から「赤くて丸くてつやつやしたリンゴの像が見える(結果)」と考えるところを、「赤くて丸くてつやつしているリンゴの像が見えている(原因)」から「そこにリンゴがあるという確信が成立する(結果)」という仕方で考える。一般的な原因と結果の順序を入れ替えるわけだ。これが還元といわれている方法の基本的な発想だが、「本質観取」はこの考え方を応用したもの。赤くて丸くてつやつやしたものが一定の形で自分の意識に生じている場合には、だれでも、リンゴが自分の前に存在することを確信せざるをえない。自分もそうだし、ほかのひともきっとそうに違いない。単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと、これが現象学的還元という方法の基本。
 
■本質観取のやり方
例えばこの「リンゴ」を「罪悪感」という言葉に置き換えて、ほぼ同じ要領で考えてみます。つまり、ここでの問いは、われわれはいったいどのような心的経験のありようを「罪悪感」という言葉で呼ぶのか、というものになります。あるいはわれわれが「幸せ」と呼んでいるもの、「真理」と呼んでいるものは、われわれの中でどのような経験の芯をもっているか。そういう問い方です。「真理とはこれこれこういうものだ」ということをあらかじめ前提に置かない。また、何が「真理」なのかについて、あらかじめ客観的な事実や答えがあると考えない。一人ひとり何を「真理」と考えるか、みなバラバラである。にもかかわらず、そこになんらかの深い共通項があるとしたらそれはどのようなものだろうか。これが本質観取という方法の問い方。もちろんこのとき、まず自分が「真理」と呼ぶもののありようを確かめ、しかしそこにとどまらずほかのひとがいろいろな形で「真理」と呼んでいるものの内実を確かめ、その共通項を上手に取り出していく。そして、「真理」という言葉の芯、だれもが、なるほどこういうことが「真理」のいちばん芯にあるなと納得できるような概念の芯を取り出す。まず大きく言えば、本質観取とはそういう方法。
 
さて、
本質観取について私なりの方法でも説明してみたい。

人工知能の分野で、ディープラーニングというのがある。この考え方は本質観取を理解する補助線になる。説明しよう。ある高度な技術を使って、youtubeの動画(猫が出てくるもの)を何万も機械にインプットし情報処理させると、「猫」 の視覚情報を一つの概念として学ぶ。これは何万もの動画を処理する中で機械自ら特徴量というもの見出してそれを当てはめて概念を獲得する。例えば、◯が二つあってその周りにもっと大きい丸がある、というようなことを特徴量として見出す。これは要するに目と目と顔、なのである。そして数万の動画の中で、さらに体や毛のフワフワ感などそういうのも見出していき、猫という概念を獲得する。もちろんそれを猫と呼ぶことは、誰かが教えなくてはいけない。

これは本質観取と同じ考え方だ。りんごという赤くて丸いものが見えるという視覚情報をずっとインプットされていると、そこにりんごがある、という確信を得る。 本質観取とはようするにある概念を獲得するのにどういうインプットがあったのか?を問うことである。

別の言い方をすると、インプットは全て人間の阿頼耶識というデータベースに格納される。そして、今いったような猫の概念はそのデータベースの中に見出されて保存されている。本質観取とはどういうインプットがあってこのデータベース内にある概念が作られたのかを問う。猫以外にも無数の概念がこの空間には存在する。それらがどうして概念として形成されたのか、そのインプットや形成過程を問うのが本質観取。

■本質観取をする意義は?なぜやるのか?何かいいことあるのか?
現象学の考えは、基本的に共通了解の可能性の学である、という言い方を私もしているけれど、基本は、人とうまくつきあうための技術というのでも、調整の技術というのでもありません。もちろんそれを創り出す可能性は含んでいますが。むしろ大事なのは、現象学の考え方の方向性です。

 現象学は、ある理想状態を構想して、ここに至るためにどのような条件が必要かという考え方の順序ではないんです。むしろ、現象学はいつでも、実際にわれわれが経験していることのうちその本質、を取り出していく、という思考です。たとえば、誰でも、はじめ気の合わなかった人となぜか仲良くなっていった、という経験をもっている。うまくいかなかった親となんとかなったという経験をもっている。このとき、なぜそういうことが生じたのかについて、その本質を取り出すことができる。つまりある条件が満たされて徐々にそうなっているわけですね。そうしたことをいったん取り出して自覚的に理解できると、今度自分が似た問題にぶつかったときに、それを非常に有効に使えるようになります。それはつまり、われわれが無意識にやっていることを意識化するということであって、ある特定の理想から創り出した特定の人間術ではないわけです。

 現象学は、よく事象自身に立ち返る、という言い方がされていますが、ミスリーディングな言葉です。本質観取とは経験のありのままを観て取る方法なのではなく、われわれが経験を反省できるその可能性の原理を確定するのです。そこから、われわれの生にとって必要なものを適切に意識化する技術であり、またそれを、相互了解が可能性であるような仕方で意識化する技術です。だから、はじめに本質観取の基本的な方法の順序をはっきり理解することがとても重要です。

ということ。ちょっと分かりづらいので解説しよう。解説というか私なりの理解。なぜ本質観取をするのか?それは、突き詰めると「幸せになるため」である。言い方を変えると、能率的な意思決定するため。意思決定はみんな幸せをめがけて行うから、結局は幸せになるためだと言える。

どういうことか?自分が経験したことの信憑構造を記述することで、まず第一にその過程が明確になるので次の機会に応用できるし、第二に人に伝えることができ、理解してもらえる可能性がある。意識を出発点としており、最も根源的な確信できる部分が基礎になっているので、頑張れば必ず同じ人間とは理解を共有できるのだ。可能性はある、あとは熱意である。

これはとても重要なことだ。あらゆる問題に対して、必ずどうすればいいかという明晰な道筋は分かる。このすっきり感はなにはとおあれ心にやすらぎを与えてくれる。人は全体像がわかれば落ち着くもの。 

これで本質を探究することの意義が分かったはず。 こうした本質を追い求めるものを本質学という。以下、引用。

竹田青嗣氏は、近代哲学と諸科学が、近代以来の「認識問題」の本質を解明できなかったとし、現代の学問が陥っている事態を理解するために「事実学」と「本質学」という概念をおくとよいとするフッサールの考え方を紹介し、本質学とは何かについての解説を試みている。

「事実学」とは事実のありようを究明する方法で、仮説を立て、実験し、検証するというような自然科学の方法がこれにあたる。しかし、このような方法は、人間や社会の認識については役に立たないとする。その理由は、人間や社会は、自然とは違って、「客観的な事実」としては捉えられないからである。例えば、歴史を理解することの本質は、無数に起こった過去の出来事を手がかりに自分たちのあり方を解釈し了解することである。社会の理解も、社会の中の無数の出来事を手がかりに、それが自分たちにとってどのような関係と意味を持っているかを解釈し理解することである。要するに、心も、歴史も、社会も、事実の集積ではまったくないし、まして事実そのものの認識ではありえないというのである。

フッサールによれば、人間や社会は自然事物とは違う独自の「本質」をもっており、この本質を捉えないといけない。しかし、19世紀以降の人文科学、実証科学は、人間と社会の問題を「事実学」として捉えようとしたために失敗したというわけである。人間や社会についての知は「本質学」でなければならないというのである。

竹田は、本質とは何かを理解する助けとして、次のような西研の説明を紹介する。人間が恋をしたときに、その脳波がどうなっているか、どんな快楽物質が出ているかなどということは、事実学として捉えることができるだろう。しかし、「恋」という経験が人間にとってもつ独自の意味それ自体は、決して事実学では捉えられない。「恋という経験が人間にとってもつ独自の意味それ自体」が「恋の本質」であり、このような「ことがらの本質」を探究するのが「本質学」だというわけである。

竹田によれば、フッサール現象学において、ことがらの本質を問い訪ねる方法が「本質観取」である。これは、自分が経験しているさまざまなことがら、概念などの本質条件を、内省しつつ適切な言葉で言い当てることだという。世界の事実がどうであるかということは、「本質学」ではほとんど重要でない。われわれがどのような世界をもち、どのようにそれを他人と取り結び、どのような意味や価値を編み上げながら生きているのかという「原理」をつかむのが本質学の仕事だというのである。
  
本質学とは、われわれがどのような世界をもち、どのようにそれを他人と共通了解し、どのような意味や価値を編み上げながら生きているのかという「原理」をつかみ、構造を明らかにする。そして、それができれば、次の機会に応用し幸せにつながるし、さらにどんなに違う環境の人間とでも分かり合い合意を形成できる。(まあそれも、よりよい社会、ひいては個人の幸せのためだが)なぜなら、本質学は人間とは何かというような根源的な問いに答える本質だからである。

本質を見極めて生きていこう。その先には誰もが求めているものがある。 

現象学的な「本質」。それはどんなものか?今日はそれを説明する。

最初に答えだけ簡潔にいうと、

本質とは意味。実存(現存在)にとってどういうものか、直観(受動的なもの)を土台にして明らかにされたもの

ということだ。

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何がなんだか分からないだろう。以下の現象学の考え方を一通り読んでいただければ「分かる」かもしれない。竹田青嗣『現象学入門』から引用している。

それでは見ていこう。

まず、次の文章はフッサールの現象学の核心を述べている。
主観は外に出られないし、また「神」のような保証人を立てて外側からその認識の正しさ、確実性を保証してもらうわけにもいかない。言いかえれば、<主観>は自己の外側にあるものの実在の「確実性」を主−客の「一致」という仕方で得ているのでは全くない。
<主観>」はそれをただ自分の内部からのみなんらかの対象存在の「不可疑性」(=妥当)という仕方でだけ得ている。そして<主観>にそういう不可疑性を与える根本の条件は<知覚>という、<主観>にとって自由にならないものの存在にほかならない、と。ここに現象学による主客の謎解きのもっとも核心部がある。(57)

(1)事実と本質、個的直観と本質直観
現象学を理解する上で、まず「事実」と「本質」という語の定義を理解しよう。

フッサールは、「事実」と「本質」ということをつぎのように区別している。
「或る個的対象は、ただ単に一般に、一つの個的対象、一つのここにあるこのもの!、一つの一回かぎりの対象であるだけではなくて、それは、「それ自身において」これこれの性状においてある対象として、その特性を持ち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させているものである。この本質的な述語要素は、その対象に、(略)帰属しなければならず、そうしてこそ、その対象に、他の二次的で偶然的な諸規定が帰属するようになれるのである。そういうわけで、例えば、どんな音もみな、それ自体として、或る本質をもち、そしてその最上位に、音一般もしくはむしろ聴覚的なもの一般という普遍的な本質をもつのである。」                (『イデーン1』「二節、事実と本質の不可分離性」)
 
■  「事実」とは、それぞれの「個的存在」にかかわり、しあがって「偶然的」なものだ。ところが「本質」とはその個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面である ■  だからどんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される ■  <私>がいま聴いているこの音は、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、この同じこの音は、「音響」とか「音」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。■  要するに現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい。(59)
「本質」としての意味がなければ、個的なものが捉えられない、ともいえる。必ずわれわれの知覚には本質(意味)が媒介している。
 
事実(個物)と本質の区別において大事な点を3つ引用。
1.       個的直観→本質直観どんな経験的もしくは個的直観も本質直観(理念を観て取る働き)へと転化させられる。つまりどんな事実も「言葉の意味」へ置き直せるということ。またこの意味への置き換えは必ずしも十全なものとは限らない。言葉によって言い尽せてしまうような事実と言い尽くせない事実がある 
 
2.       本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立どんな個的直観も本質直観へ転化されるのだが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立すること。これは今<私>が現にある音を聴いてなくても任意にピアノの音を想像的に喚起し、その音は「音響だ」とか「楽器の音だ」とか考えることができるということ 
 
3.       本質直観は、原理的に固有のまた新しい種類の直観本質直観は、原理的に固有のまた新しい種類の直観なのだ。この命題が本質直観もまた個的直観と並んで原的な直観であるとみなされる所以である【コメント→】知覚は原的なのは一般的に理解されるだろうが、意味の観取も「直観」であり原的であり不可抗力なものと扱っているのは新鮮(59)
要は、意味を観取する本質直観も、知覚と同じように受動的、彼岸的なものでありわれわれにとってコントロールできないものである、ということ。なので、どちらも等しく確信の根拠となる。以下の説明は上の3つ目の「本質直観も直観(受動的なもの)」であることの補足。
物の<知覚>と物の<意味>は兄弟だった 常識的な考えでは、物の<知覚>は、物が実在物であるがゆえに<意識>のありようとは関係なく<意識>に現われ、物の<意味>(=知、概念)は実在物ではなく抽象物であるがゆえに<意識>によって事物に賦与されたものだ、と考えてしまう。 本質観取は「感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではない」つまり、本質観取は頭の中でものごとを考え出す観念の働きというよりむしろ、物の知覚に似たものだ、とフッサールは言うのである。 2x2=4という理念的なものはひとがその計算を納得してなるほどたしかにこうなると学習した瞬間から、彼にとって確かな存在者(存在する事物)となるのだ。 理念物の場合は、頭の中で考えられた理念対象を基体として、そこで疑い得ないものとして存在が確証されればその条件を満たしているのである  物の知覚と意味は普通に考えられているような実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられない。いずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑いないものの確信を与える働きをする。だから知覚直観と本質直観は独我論的に自我という主にとって、意のままにならないやっかいな双子の兄弟だといっていい。 現象学的な見方からは、ひとが「実在物とみなしているもの」も、また「ある種の理念物」も、ただある構造によって人間にとって「不可疑的なもの」として現れてくるというにすぎない。つまりたしかにあるという「妥当」を与えられているだけであり、したがってまた、この妥当(=確信)は壊れることもありうるのだ。(69−72)
現象学の場合、このような定義または規定は必ず例の独我論的主観から出発し、主観そのものへの内省によって考えを進めるという方法から帰納されたものだという点に特徴がある。要は降ってくるものとして「個的直観」と「本質直観」に確信の根拠を見出す。でもそれは、「不可疑的なもの」として現れてくるというにすぎない。

カントの理論は一種の物語だが、フッサールの理論はただ内省によって得られた自己記述。カントの超越論的視点というのは要はフィクション、物語である。現象学は、内省から導かれるので「平等な議論の場」であれば最強の方法となる。

次に以下の引用を見てみよう。
知覚直観は本質直観なしにはやっていけない 赤いリンゴを見ているという個的経験において何度確かめてもそれはひとつの赤いリンゴであるという「確信が成立するために」はある前提条件が必要である。この条件で最も重要なのは、そこに「あるレベルでの概念知がすでに入り込んでいる」こと  リンゴがなんであるかをまだ知らない幼児と大人とでは、また普通の人とリンゴ作りとでは、赤いリンゴを見たときの直観のありようはひどく違っている。 人間の「個的経験の明証性」の基礎として、単なる知覚直観のほかに、どうしても本質直観、つまりものごとに含まれる知=概念を直観する働きを考えざるをえない。(67)
 「確信が成立するために」「あるレベルでの概念知がすでに入り込んでいる」とはどういうことか。われわれが何かを知覚しているときには、それは言語的にいえる(本質=意味を含んでいる)ということなのだろうか。たしかに、感覚だけでは「意識」自体が意識されないかもしれない。意識が覚醒しているなら、それは言語的な認識が既に働いているのかもしれない。ただ、ここでの趣旨では、本質直観は何らかの意味で意識の恣意的な意味付与を含んでいるのではないか、という疑問を提起し、その直感性、受動性を説明しているだけだ。
最後に、とっても重要なところ。
人間が現に生きているありありとした「実在」の世界、それは「意味の統一」である。 現象学的な自我という極をもはやそれをどこにでも還元できない極であるという意味でひとつの絶対的体験と呼ぶことができる。この絶対的体験こそは経験的体験の意味を成立させる前提にほかならない 「実在的統一は意味の統一である。」 人間が現に生きているありありとした「実在」の世界、それは「意味の統一」である。 「これは机だ」「これは私の家だ」「私は東京に住んでいる」これらの確定はすべ超越である。こうした現実の認識はしかし普段は自明のもの。疑う必要あるときにはいつも必ず内在に立ち戻ってこれを確かめうる可能性がある これらの感覚はさまざまな知覚の体験流から、そのつど意識の志向的統一によって与えられているものである。フッサールはこの志向的統一を意味統一とか意味付与と呼ぶ  例えば<意識>がある痛さを表象したとき、それがたとえば父親に叱られて頭をゴツンとたたかれたという「意味の了解」を伴わなければ、この痛覚は、くやしいとか情けないとかいう感覚を伴った日常のありありとした事象(実在)として経験されない。

■ 疑問:こうしたことから、現象学的には、わたしたちの生のありありとした経験世界(事象の実在)はすでに絶対的に与えられている<意識>の体験からなんらかの「変容」をこうむったものだとみなされうる。
フッサールは諸表象(知覚、想起、記憶、想像等)の「体験流」が<意識>の絶対的与件といっているが、わたしたちの<意識>につねにすでに志向的統一という契機が働いているとすれば純粋な諸表象の「体験流」などというものは実際には誰も体験していないことになるのでは?=常に志向的統一されているのでその前の原的状態は体験できないのでは?
 
回答:経験がその前段に「体験流」という絶対体験を持っているというのは、次のことをいうための説明にすぎない。「机がある」というありありとした経験世界は原理的にはじつはそうではなかったという可疑性を持っているということ。ここで生じた「可疑性」は反省され、そのことで<自我>の<内在>体験によって確かめられ、しかもそれい以上はけっして確かめられないこと。これでこの批判は反論されている。(102)
結局、われわれは「意味」の世界を生きている。「意味」がないときは「無意識」であり、気づいたら時間が経っていた、ということになる。ぼーっとしていたときや、ゾーンに入った集中のときみたいに。

以上、「本質」について分かっていただけただろうか。

こう考えると、現象学は、共通了解を作るためには最高の道具だが、実際に人間とのコミュニケーションで運用しようと思うと、弱い。みんなが友好的で話し合いに前向きなら、本質を語れば議論は収束するだろうが、現実はそうではない。「本質直観」がどうのとか言い出したらもうみんないなくなっているかもしれない。もっとキャッチーで嘘でも人の心を掴むものが選ばれるだろう。

また、何か人間が「意識的に」作ったものであれば本質を探究できるが、事実的なものを深く理解するのには関係ない。 

現象学入門 (NHKブックス)
竹田 青嗣
日本放送出版協会
1989-06

哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
 kdukai

僕が基本的にずっと関心を寄せているのは、「どんなことをすれば人のためになるか」ということ。あらゆる企業は最終的にはこれを考えてユーザーに商品やサービスを提供している。しかし、彼らの人間観は甘すぎる。

「人のためになる」ものとして安心・安全・便利・快適のようなものや快楽くらいしか考えていない。でもこれでは答えになっていない。仮にインターネットという技術が普及してコミュニケーション手段が増えて「便利になった」と思っても、それにより直接的なコミュニケーションが減り人間関係がどんどん薄くなり、人と共感するという幸せの根本が失われる、というような見方もできる。(人との共感が幸せになるということの正しさはここでは問わず、ただ1つの見方の例)

さて、
実証の世界では、もっとも人に価値のあることはどんなことだと言っているか?
価値=個人の実存がよい状態である=「幸せ」 
ということで、「価値がある」とは「幸せ或いは幸せに繋がる」と等しい。

では人はどうやったら幸せになるのか?

これに最も適切に答えているのは以前話題になったハーバード大学の75年間に渡る壮大な研究である。いろんなメディアで取り上げられているが趣旨がばらばらなので、原文をそのままのせているこちらを参照、引用させてもらう。この研究の現在の責任者心理学者ロバート・ウォールディンガーのスピーチからだ。

史上最も長期間にわたって人を追跡しているハーバード成人発達研究(Harvard Study of Adult Development)を行うハーバード・メディカル・スクールのロバート・ウォールディンガー教授(臨床精神医学)が2015年11月、研究で明らかになった「人生を幸せにする教訓」についてTEDトークで語りました。

1938年に始まったこの研究では、当時ハーバード大学2年生の男子学生とボストンの極貧環境で育った少年たちを追跡調査しています。調査開始時は724人いた被験者のうち、現在でも約60人が健在で調査に参加しています。そのほとんどが90歳代です。開始時に聞き取り調査と健康診断を行い、その後、1年おきに本人への質問票調査、本人や家族への聞き取り調査、医療記録の確認、血液検査等を行ってきました。

4代目の研究責任者である同教授によると、人を幸福にし、健康にするのは何よりも良い人間関係であり、その人間関係について大きな教訓が3つあることが明らかになりました。

それは、(1)家族、友人、コミュニテイ等、周りとのつながりを持っている人はそうでない人よりも幸せで健康で長生きする、(2)身近な人たちとの関係の質が重要である、(3)良い関係は脳も守る、というものです。(3)は、いざという時に本当に頼れると感じている人と80代までしっかりした関係を持ち続けている人は記憶がずっと明瞭で、逆に、パートナーは全く頼れないと感じている人に記憶障害が早期に出現したことから、結論付けられました。

要諦は、「近い周囲の人間関係が良好なら幸せ」ということ。幸せとは何かとか深く考える必要はない。彼らは自分の「いま、ここ」の生をいいものと感じているから、幸せだというのだ。そして、それを創り出すのは身近な人達と良い関係にあるということだ。

これは正直、実証研究どうこうではなく、個人的な経験からも支持できる。むしろ、だから取り上げた。実際、実証といってもこれだけでは納得できない側面もあるしツッコミどころもあるだろう。でも、僕は個人的な体験で分かる。やっぱり家族や普段接する身近な人達との関係が悪いときは何をやってもだめ。政治や国際情勢をとやかく言いたくなるのも、他のいろんな人に悪く接してしまうのも、根源は周囲の人間関係である。報道で見る犯罪者はみんな何かしら身近な人間関係をこじらせているケースが多い。

ということで、「近い周囲の人間関係が良好が幸せに繋がる」ということを僕の世界観の根底に置く。なので、今後の僕の行動、例えば仕事とかの行動指針はこれにどう繋がるか?という観点で全て見ていく。こうなると冒頭に書いた、価値ある商品やサービスの方向性も分かってくる。人間関係の薄い人にそうした機会やスキルを身に着けさせる、或いはもうそういうのが無理なら強制的に結婚させる、とかいろいろなアイデアが生まれてくる。ここはもっと考えていこう。

また、引き続き、この弱い根拠をもっと客観的な調査や研究結果を探して補強していきたい。さらに、身近な人達と良い関係にあることが、なぜ幸せに繋がるのか?これについても別途哲学的に考えていきたい。

以下、できれば英語の原文スピーチをご覧ください。



 TEDの字幕付きの動画はこちらから観れる。
英語で報道された記事はこちら

僕はある時期、週に1回ほど「油麺にこにこ」に通っていた。場所は早稲田大学にほぼ隣接している。都電荒川線の早稲田駅から徒歩3分。東京メトロ東西線の早稲田駅からなら10分程度。

ここでの油麺を食べる時間は、僕にとって、ある一つの体験なのである。ただ食べるのではなく、一つのエンターテイメントとしての時間が楽しめる。

それが「体験」であることは、ふとしたきっかけで気づいた。

少し経緯を書くと、
基本的には、「油麺」か「にこにこ」の2種類の油麺がある。
前者はシンプルな油麺で、後者はマヨネーズなどプラスαがちょっとある。

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これは「油麺」の写真である。左に漬物と右にコンソメスープがあるが、これが油麺を食すときに輝かしい体験を演出する。この組み合わせを考えた店主(以下、親父)に座布団三枚あげたい。

さて、
僕はある日いつものように油麺を食べていたところ、途中で漬物がないことに気づいた。親父に一言いうと、親父はすかさず漬物を提供してくれたのだが、そのときの一言が今でも忘れられない。


「もう終わっちゃった?」



な、なに!?
なんといった?

僕は自分の耳を疑った。

普通、同じ意味を表わすなら「もう食べ終わった?」「まだ残っている?」などと聞くのが普通だ。しかし、親父は違った。

親父はこの油麺の食を、完全に「一つの体験」として、エンターテイメントとして提供しているのだ。それに気づいてしまったのだ。僕は。だから、その体験が「もう終わっちゃった?」、なのだ。

そう、これはただの栄養補給でも団欒の場でもなく、娯楽としての体験。

店主の趣味のヘビメタかなんかよくわからないが、クラブでかかっていそうな音楽がミスマッチで逆にいい。 

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まずは、お酢を3周ほどかけ、ラー油を2周かける。
下のにんにくや醤油風味のタレと全体をかき混ぜる。細かく混ぜないと全体に行き渡らずムラができてしまう。

準備ができたら一気に食う。

4分の1程度くったら漬物とスープ。毎クォーターにこれを行う。
まだまだ続く体験に興奮は冷めない。

半分くらいになれば、酢を足す。

また混ぜる。

そしてラストのクォーターになる頃にはこのエンターテイメントの終焉に思いが到り少しさびしくなる。

最後は、どんぶりが空になる。

親父を呼んで650円を支払う。

いい体験であった。

今日も生き抜こう。 

ウーマンラッシュアワー村本大輔はその歯に衣着せない物言いでズバリ本質を突き、最近よく知識人や経済界との交流している。「土曜The NIGHT」で社会学者の宮台真司にも本質を突く質問をいくつもぶつけていた。今日はその中でも、「なぜ本を読む必要があるのか」ということについて考えたい。宮台もこの問いに答えてはいたが、村本が根本的に知りたかったことには答えていない。

以下の動画の1:08:50あたり。



村本は繰り返し、
  • なぜ本を読むといいのか?
  • 読んだあとどうなるのか?
  • 読む必要はあるのか?

などと、「本を読むとどんないいことがあるのか」について質問している。ここを理解できていないから彼は本を読まないようだ。

しかし、これは至極的を得た質問である。たしかに本を読んで何になるんだろうか。普通の人は、読む体験を一つの娯楽的な体験として読むとか、知識を増やすとか、普段の生活や仕事に役立てる、程度の目的意識しかないのではないか。

宮台は「昔は面白いと思ったけど、今は大して面白くないと思ったりして、成長を確認できる。」と答えているが、これもあまり深い答えではない。(そこまで深く答えようとしていないようではあるが)

私がこの「本を読むとどんないいことがあるのか」という問い答えてみる。

一言で答えるなら、「世界と自己との関係を自己了解するため」といえるだろう。

われわれ人間は、「言語的に」世界を把握している。「私」という人間が「机」や「椅子」「ビル」「友達」「食べ物」などと関わりながらそれらの集合である「世界」という舞台に生きている。こうした漠然としているが常に、普段の生活の土台となっている前提は「言語的」なものだ。動物は言語を持たないからただひたすらに「いま、ここ」の刺激に反応して生きているだけ。

こうした「世界」は「言語」によって開示される。それは人間により恣意的に構成された「言語による世界」である。

しかし、われわれが普段経験している「いま、ここ」は、そうした「言語による世界」の極わずかな一部である。目の前に「民主主義」「ドナルド・トランプ」「中央銀行」「資本主義経済」は見えない。でもそうした概念(言語)により組み立てられた世界を通して「いま、ここ」を了解している。

人間は常に、「世界と自己」について「自己了解」しながら生きている。そしてそれは、「言語的」に、である。

では、本題の読書とは何か?読書とは、そうした「言語で組み立てられた世界とさらにその中で生きる自己」について自己了解を深めるものだ、といえるのではないか。自己了解がなければ、人間は生きていけない。なぜなら、人間は動物と違って世界を言語的に理解して行動しているからだ。世界や自己が何なのか分からなければ、今何をすればいいのか、理解できず行動が取れないで死んでしまう。

では、村本も言うように、彼のように「本を読まないでも成功している人がいる」のは何故か?それは、彼は多くの直接経験を通じて世界を理解しているからだ(もちろんこれも言語的にである)。本などテキスト経由の間接体験ではなく、実際の空間において人と接し交流することで、現実を了解する。本ばかり読んでいるような人もこうした直接経験がもちろん土台にある。要は程度の問題だ。直接経験は世界理解に必要十分条件だが、読書などの間接経験はそうではない。ただ、複雑な人間社会を理解するには助けになる。

本を読むことは、人間が言語的に世界を理解する上で助けになる。直接経験だけでは、現代のような複雑社会で多くの人を巻き込んで何か行うのは難しい。もちろん、本など一切読まずに直接経験だけの世界で生きることもできるが、人を多数動員するようなことはできない。

ある特化した領域だけで凄い人は凄いが、あまり魅力的でないことがある。逆に、たいした実績もないのに魅力のある人がいる。これは昨日も書いた「自我の安定」で説明できる。

迷いのない人 =自我の安定している人

である。

往々にしてある領域で成功した人は、その世界にのめり込み、自己の物語に確固とした自信を持っている。しかし、違う領域の人と交流し違う世界を知ると、その自信が揺らぎ、自我が不安定となる。こうした多様な経験をしても揺らがない自我というのは強い。

私が今学んでいる師は知識や哲学力は凄いが、他領域との交流が弱いためどこか確固とした物語に欠ける。社会的な人間であるわれわれにとって、特に時代に乗っていることは重要。グローバル化が騒がれているときに、それとは正反対のベクトルの領域で活躍しているやつはマクロな流れに流されて自我を崩す。逆に、特に他の領域と関わりがなくても資本主義社会という大きな流れでとりあえず稼いで成功しているやつは一番大きな物語に乗っているだけに他からの揺らぎに強い芯がある。

何かで絶対的な成功をするとか、自己分析して理性的に物語を作るとか色々あるけど、もっとも簡単なのは時代に乗るってこと。
shiawase
 

昨年、哲学的に考え抜いて、本当にユーザーのためになるプロダクトとはどのようなものかを考えていた。そうすると、やっぱり各個人の実存の構造を研究し、そこでポジティブなものを再現するということになるだろう。これは実証系学問、認知科学や心理学の領域になるだろう。

私としてはこれを実証よりももっと根源的に問うた。しかし、答えは難しい。まず、人はそもそもどこに向かってこの生が在るのかを知らない。われわれの現は徹底的に被投的なのである。そして人は感受性を持つがそれはその人の身体、社会的境遇、物理的環境による相互作用でカオス的に複雑な発展を遂げ、十人十色である。それでも身体を軸に、社会、環境にも共通性はある。そこから共通了解を取り出すことはできる。

もともと「幸せの連続」を作りたいと思っていた。でも幸せって快楽とは違う。仮に快楽、例えば射精状態を無限に体験できれば幸せなのだろうか。いやそしたら人間はもっともっと刺激を求める。大事なことは人間の欲望は限りないということで、その理由はそれが幻想を対象にしているからだ。われわれは勝手に世界をシンボル化し理解しているが、そのためその対象に到達することはできない。そして世界に適応するために作った自我を安定させることが欲望である。実はいい女とセックスしたいというのも快楽ではなくなりたい自分へ近づくための物語作りなのだ。安定した自我があればいいのだ。ということで、人が必要なことは過去を理解し、なりたい自分を明確化し、それを他人にも認めさせ、言語的に築かれた脆い自分という物語を安定させること。理想の自分と現実の自分が乖離していると、自我が崩壊する。では、僕はどんな人間になりたいのか。ここで詳細は述べないが、子供の頃から「創造」することが軸であったのは自他共認めることだ。ここから自分を作っていく道が開けている。

長期的な目標は、日中社会に貢献する事業や活動、表現を行うことだ。

さて、2017年の一般的な目標をまず三つ述べよう。
  1. 「成果」にこだわる
  2. 人の話をよく聴く 
  3. あらゆることに態度を採る
これはもう、説明の必要はないだろう。

それでは、それを土台にしてもっと具体的な五つの目標を述べる。
  1. 学業:年内に論文仕上げる
  2. ビジネス:日中オンライン会話(実践)事業計画を仕上げる&中国メディア(500PV/日)
  3. 筋トレ:BP 80KGx8回x3セット  SQ 100KGx8回x3セット DL 110KGx8回x3セット
  4. 語学:中国語HSK240点以上
  5. 哲学:現代において価値あるとは何か、について個人的に納得いく回答を得る
以上である。 

今年もがんばろう!

2017年元旦@巣鴨のサンマルクカフェ
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