記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

幸せは自分から

これは、ある池袋のキャバ嬢が僕に言ってきた台詞である。

今、考えるとなんと素晴らしい一言なのだろうか。

これに人生の全てが詰まっているといっても過言ではない。

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 ※キャバ嬢のイメージです。実際の人物とは関係ありません。


さて、
ちょっとまず最初に、教育について述べたい。
 
僕は教育とはいいものだと思っているがずっと違和感があった。なにかこう、「既に正しいと決まっていること」を押し付けるのが「教育」という言葉にはある。教えて育てるのだが、「教える」というのが偉そうだ。

僕らは、原始的な社会から始まった。狩猟採集。獲物が見つからなかったり、作物が育たなかったり見つからなければ死んでしまう。他の社会が攻めてきたら殺されるかもしれない。病気になったら死ぬ。こうした不安定な社会から時間をかけて今の社会ができた。そのことを忘れてはならない。そのこととはつまり、根本的に僕らは荒野を生きているということ。生きるために必死なことが前提なのだ。

さて、教育の話に戻ると、教育とはこうして複雑になった社会で生き延びるために人に施すものだと多くの人が思っているだろう。その通りだ。狩猟採集で必要なスキルが、今は教育で教えられているようなものになったのだ。

でも、問題は最初に言った通りその「教育」という言葉だ。これはどこかに社会側からの押しつけがある。現代はリベラルな時代だ。基本的には個人の自由が尊重され幸福を追求することが最大の土台となっている。だからこういう物言いは疎まれるのだ。

教育の必要性は認める。それは先に述べたとおり、僕らは荒野を生きているのだからそれなりに頑張って力をつけなければいけない。その一方で社会が高度化し、自由が尊ばれている。みんなは当たり前に自分の幸せを追求する。

そう、実はその過程に教育が必要なのである。教育はまさに今述べたように狩猟採集のスキルが置き換わったようなもの。それを身に着けないと社会に適合し、荒野を生きていけないのだ。ただ単に何もしなくて生きれる +αで教育があるのではない。自分を高めないとイノシシ程度に出くわしただけで死んでしまう。 

今の時代は誰でも幸せを求める。そしてそのためには自分を社会的に高める必要がある。そして、社会では社会なりに人生を楽しむ方法もある。それも学ぶ必要があるのだ。それが教育なのである。だから、それは全く受け身なものではない。

ここで冒頭のキャバ嬢の台詞に戻るが、結局、幸せは自分から掴むものなのである。原始社会を想像してほしい。酒池肉林するなら頑張らないとだめなのはすぐ分かる。獲物をいっぱい取って、なかまをマネージメントしたりいろいろ頑張ってはじめて酒池肉林できる。

今の時代でも根本は同じだ。幸せになるには自分から頑張らなければならない。そうして僕らは現実に適応しているのだ。教育は幸せのために必要だが、その語「教育」といわれると受け入れ難くなる。

今後これを「教育」ではなく、キャバ嬢風に言えば「幸せを掴む切符」とでも言えばいいのではないか?
 
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切り落とされたいまここ VS ビッグデータ について述べたい。これは昨日、ビッグデータをもとに「社会の誰もが幸せな実存を持てる」社会を作るということに対する反論になっている。

われわれには自由意志がある。
(ないというクソ野郎はもう一度しっかり考えてみよう)

社会はわれわれにある前提を与えるだけ。その前提を前に何を選ぶかはあなた次第。

道端で札束の入った財布が落ちていたとしよう。周りには誰もいない。あなたはどうする?

こう聞かれれば、近くの交番などに届ける、と答えるだろう。

しかし、実際にリアルな体験としてさまざまな状況の中(=ある前提の下)この財布に出会ったらどうするだろうか?

仕事を失い新しい職が見つからず2ヶ月収入がないとき。
安定した仕事について300万円のボーナスが出たとき。
上司に怒られてイライラしているとき。
明日の彼女とのデートが楽しみでルンルン気分のとき。
家族や周りの人との関係がうまくいってないとき。

その前提によって、同じ物理的な状況は異なるものに見えるはずだ。

さて、何が言いたいかというと、

因果関係を見つけることは非常に難しい。

例えば、私が「中国語のオンライン語学サービス」を作ろうとするとしよう。生徒のモチベーションを高めるための施策を考えるとき、そこにいろいろな想定をしなくてはならない。例えば、サービスをアプリ化したら、毎日夜にメッセージを送って中国語学習を頑張るように促す、とか。でも、それを人によってどう捉えるかは分からない。

うわ、また勉強か、いやだいやだ
ん、何か来た まいいや
おお、勉強しなきゃ
ん勉強いやだな、でも読んでみると面白い、勉強しよ

などなど。結局その施策が人に対してどのような因果関係を作るかは分からない。そこで、いわゆる行動主義的な観点が導入される。要は、この施策を打った後、実際に勉強した人を集計する。さらに、この施策の前に毎日勉強している人は除外する。すると、今回の施策で効果があった(らしい)人が残る。

そしてその人達の属性を調べる。すると、◯◯という属性の人にはこの施策が効果がある、となる。もちろん、その中には偶然勉強を始めた人もいるし、施策が効いても翌日にはやめてしまう人もいる。このようなリアルな世界を、行動主義的なあらゆる多様を捨象したデータはどれだけ役に立つのだろう。

でも、それ以外に方法はない。アメリカの国の施策だってシリコンバレーのベンチャー企業だって、このやり方を超研ぎ澄ましたような延長にある。結局、各個人が実存的にどのような前提の前でどのような自由意志で決定をしたのかは分からない。

大事なのは、それらはいくらビッグデータを細かくとっていってもずっと「仮説」である、ということ。
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例えば、テキストだけのビッグデータはすぐに限界に行き着く。言語化すればあらゆるありありとした「いま、ここ」の質的経験が消えてしまう。先の語学の例でいえば、生徒の時点Aの状態を把握するために、「今、IT企業の受付をやっている25歳」「◯◯出身で小学校は〜」などなどいろんなテキスト情報がある。時点Aで今の気持ちをヒアリングしても「将来に対して不安」とかまあなんでもいいが、テキストとなってしまう。
 
ハイデガーも指摘しているように、われわれのありありとした「いま、ここ」の体験は、言語化してしまうと平板化してしまう。クオリア的ありあり感が捨象される。

これがビッグデータ処理における言語の限界。

では、画像、動画、音声、匂いなどを取ればいいのか?物理学に疎いので詳しくは分からないが、これらは素粒子のダンスの波長の違いだとしよう。だとすればそういう情報をビッグデータとして集めればいいのか。仮に僕の今からのすべての体験をあらゆる形式のデータで保存していくとしよう。五感すべて。もちろん、そのときの採取のための道具のスペックに依る。ここまでのビッグデータを全人口分とっていろいろ分析すれば(とんでもない天文学的数字の情報量!処理能力もとてつもなく必要になる)かなりのパターンを見出し未来を予測できるだろう。 

だが、上述した通りあくまで人工知能が見出した因果関係は「仮説」にとどまる。理論上、人間はそれに抗う可能性を持っているということだ。

われわれは日々いろいろな経験により、何かを学び、自由意志で沢山の選択肢から選び取って行為している。いろいろな経験というのは外部情報に発する。人とのコミュニケーションであったり、テレビやインターネット、本などのメディア、街の様子や自然の景色やあらゆる外部情報である。

その「いろいろな経験」の結果、「ある行為」が生まれる。ここに因果関係があるとすれば、沢山の人間のあらゆるこうした経験と行為のビッグデータを蓄積すれば「経験」と「行為」の因果関係が明確になり、為政者はそれを利用してある「行為」を量産できる。例えば、5歳までの子供の頃に親戚たちと週に1回以上接していて、小学校で生徒会に入っていて、高校でラグビーをやっていて、などの結果、30代で「社会貢献活動」という行為を行うなど。

さらに、これよりもっともっと細かいこと、生まれてから894日目に何を目にする、とか。もちろんそれを認識する主体の分子構造なども。そこまでコントロールされたら、われわれが自由意志で行為しているように見えても、既に決められたレールの上を決まりに沿って歩んでいるにすぎない。

自分たちは複雑なリアルな「今、ここ」の持続を生きているように感じているが、その行動はいとも簡単に操作されてしまうのだ。

催眠術とか見ればそれが分かる。トランプの選挙だって、大衆をどう動かすかという経験的な知を使って、どのボタンを押せばどうなるかということの繰り返しで票を取ったようなものであろう。経済的、技術的な問題で全人口の各々への働きかけ(どういう体験をさせるか)というのはまだ実現していないが、もし一人ひとりにまでがっつり働きかけることができるようになれば社会は完全に操作されるかもしれない。

その鍵がビッグデータなのだろう。例えば、僕の学歴や職歴はもちろん、普段の行動を一秒単位で記録されれば何を食べたかどんな仕事をしたか、どんな会話をしたかなどの情報も取られ、それが「どう投票に結びついたか」など他のサンプルとくらべて分析すればどういう過去の経験がその「投票」に影響したかがすぐ分かるだろう。あとは次のときに同じような手法で動員すればいいのだ。

Big-Data

ただ、おもしろのは、僕はそれが動員されたと気づかないことだ。北風と太陽ではないが、僕が普段目にするメディアなどに何気なく情報を紛れ込ませ、着々と投票の意思決定への準備がなされる。こうなると、「現時点」での状況との境目がよくわからなくなる。今だってそういう情報はそこまで精緻ではないがたくさんある。僕が昨年投票した決定だって、そういう情報に基いているのだ。そうなると、結局は、意識的に「動員された」「強制された」と感づかなければ社会的には許さなければならない。

今後、このような動員に抗うには、相当な主体的な情報収集が求められる。でも、その仮に主体的に情報を集めているようでももうすべてが動員のために息の掛かったメディアになっていたらどうなるか。1984の世界とは違う。なぜなら、監視されていること自体を知らないからだ。自由に振る舞っているつもりでも、全部ビッグデータとして取られ、その分析をもとにした働きかけがなされる。

私は今日本語を外国人に教えている。語学を教えようとすると結局、その人の過去を全て理解しその人がどんな感受性を持っているのか理解する必要がある。そしてその生徒にコミュニケーションで働きかけ特定の刺激を与えて、彼らの意識状態をコントロールする、というのが基本構造。

そもそも、英語を学びたいと思っている日本人にとって、既に申し分のない環境がある。作文や音読をすればネイティブから無料ですぐに添削されるサービスもあるし、youtubeやpodcastなどに勉強の素材はいくらでもある。ちょっとお金を払えば至れり尽くせりのサービスがあるのに、やらない。なぜか。結局必要ないことなのだ。 そういう感受性や過去を持っていないから。だから、こっちがそういうのが「必要」な物語にしてあげないといけない。物語を創ってあげる。そうして、特定の刺激を一定期間与えることで語学を真面目にする人間を作っていくことになる。

語学はおいておいて、あらゆる商品やサービス、さらには政府の政策に至るまで人間に働きかけるすべての行為の基本構造は同じだ。こうなると、というか、そう考えると行き着く先は、完全に人生をコントロールされた社会。むしろマルクスが描いた理想的な共産主義社会なのではないか。

でも、これはうまくいけばいいことなのではないか?

もしも為政者が人の実存の充実を第一に社会づくりをすれば。

このようなビッグデータと人工知能を得た為政者にとって、社会を作ることは難しいことではない。その社会に属す人間はあなたのように実存的世界を生き、クオリアのいきいきした世界を生きている。彼らは完全に社会の歯車であるが、本人の実存的には自由に振る舞っていて幸せな人生を送れる。

普通に自由に生まれ育ったと思っていても、彼が目にするあらゆるものは事前に仕組まれたものでまさにトゥルーマン・ショー状態、彼を育てる親がそもそも操られている。そして自然ととある工場で働く人生を歩むが、それはもちろん為政者の決めたこと。

そしてその為政者とはAIかもしれない。

例えば、心理学でフロー体験というものが確認されている。AIの為政者はそれを再現できるように人々の経験を構築していけばいい。

フロー体験とは何か。

とてもシンプルなことだが、「どう生きるべきか」と問われれば、何かに情熱を持って生き続けること、というのがもっとも正しい。

しかし、人は誰でも熱中できるものに出会えるとも限らない。というか、出会えるというよりも、自分がその必要性を感じ積極的に行動しなくてはそういう存在を「作る」ことはできない。そう、自分から見出していくものだ。錦織圭だって、テニスを見つけて自然と情熱注げるようになったわけではない。

日々の上達を喜び、相手に負けて悔しがり、時にはやめたくなってもでもやっぱりもっとうまくなりたい、強くなりたい、いろんな感情や思いがそこにはある。大きなリスクをとってそれを人生の軸にすると決断した。それをまとめと情熱という。

結局、フロー体験が最高の体験。そこに如何に嵌めてあげるか、という視点で為政者は人々の体験をコントロールすればいい。社会の歯車でいいんだ。 

以下、とあるサイトからフロー理論の概要の説明を引用する。
(http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。


フロー理論は教育やマネジメントへの応用が検討されがちであるが、そもそも世界の運営の根本となる個人の幸せ(主観的幸せ、個人の救済ともいえる)を正確に捉える際に役立つ。この理論で、フロー状態を作り出すサービスを考えたり、社会システムの構築を考えるのは間違いなく社会のためになる。

ちなみにフロー理論について詳しくは以下の本を参考にしてみてほしい。私への影響大TOP3に入る本。量が多いが、その内容はどれも密である。その辺の心理学の表面的な本とは違い、人間の意識は脳内現象であることを前提にどのような環境にいれば幸せになれるかという疑問を追い求めた結果たどり着いたと思える著者のフロー理論がよく分かる。 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08



フロー理論は1つの例で紹介したが、ビッグデータが溜まって人工知能が解析すればすぐにフロー理論よりももっと精緻な「最高の実存を持てる」理論を導きだすだろう。そして、そのために人が生まれてからどのような経験をするかをトゥルーマン・ショーのように作り上げるのだ。もちろん、資源配分の問題でいきなりみんなが最高の実存を持ているようにはならない。だから例えばまずは、超有能で社会の発展に寄与する人間を量産するだろう。なので過度期はあるが、中長期てきにはみんながハッピーな状態になるだろう。

大変興味深いのは、こうしてAIが作った完成された「社会に属す全ての人間の実存を豊かにした」社会がどのような社会になるのか、ということだ。実は今と根本的に似た社会かもしれない。貧乏でも幸せであることはおうおうにしてある。個人的な予想では、人は物語を持って現実に適応しているので、要は各自が自分の物語を安定させていれば幸せなのだ。

問題は、AIが凄すぎてもう人間が与えた「社会に属す全ての人間の実存を豊かにする」というミッションを書き換えてしまう可能性である。 

最近、おっさんたちと飯食う機会が何回かあった。おっさん=オーバー30と考えればいい。

何か、4,5人以上で飲むと特に何か芯食ってない会話になりがち。

おっさんたちは途中であくび連発。
あくびを見ると大変に気が萎える。 全然、興味ないんかい、早く帰って寝たいかい。とりあえず、会が終わっても情熱を互いに注ぎ合って何かをするような未来の影は皆無であることはたしかだ。

おっさんたちは、現実に失望している。別に、悩んでいるわけではない。日々楽しいことはある。でも、そういう日々の小さい幸せ以上のことは期待しなくなる。なんかでっかいことするとかしても、そんなことしたってそんな楽しくないし別に興味ない人は興味ないし、と思っちゃう。みんな自分の人生生きているから他人の人生には無関心。そう。だから、自分の人生をもっと素晴らしく!とも思わない。別にそれは失望とかではなく、ただ、別に今のままでいいからなのだ。

なんかこういう「何かおもしれえことないかな」状態のおっさんになると、「六本木で豪遊」「中国市場でボロ儲け」「アフリカ事業でボロ儲け」とか分かりやすく、別に社会的意義とか関係ない派手な話に乗りガチになってしまう。 

さて、
こういうおっさん的状況について僕はどう分析するか?

はっきりいって、全然OK!このままでもOK!
もちろん、大義を目指していろいろ挑戦するのもOK!

人間の人生なんてそんなもん。どういう物語を生きて現実に適合するかが人間の生であり、一義的に刺激に反応して生きる動物とは違うところ。

着実に波のない物語を歩めば日々の幸せを楽しみながらず〜と生きれる。何かに挑戦すれば、大きなやりがいやはたまた大失敗を経験するかもしれない。

でも、どうせ生きるなら、「後者」がいい!

なんてベタなことは言わない。本当にどっちでもいいのだ。僕らは現実に適応できていればいい。死なないために、「私はサラリーマン」として自我を保ちお金をもらって飯食って生きれていればいいのだ。正解は1つ。

物語で現実に適応すること。それだけ。無味乾燥な、そんなことだけ。

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「何か自分が常に楽しめるものがある」と想定してそれを探し回る。そして、探し回っている間はいつも満たされていない感じ。

これはだめ。

まず、僕らの生はそのような構造になっていない。
そういうもんじゃないんだ。

動物は外からの刺激に対して一義的に反応することで《世界》に適合している。これを本能的という。一方、人間は本能が機能していない。いい意味でも悪い意味でもなく。人間は身分け構造として本能的に生きるわけではなく、言語の世界である言分け構造を生きる。言い方を変えれば物語を作って《世界》に適合しているのだ。それによっていいことも悪いこともある。

そもそもがカオスだから、秩序を保っているのが奇跡。

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だから、その物語に何か最終ゴールみたいにはないし、ただ、現実に適応するためなのだ。僕らは「◯◯会社のサラリーマン」「どこどこの学生」という物語なしに日々の行動を取ることはできない。もしそうした記憶がなくなれば、僕らは衣食住から離されてすぐに死んでしまうだろう。もちろん、友人や家族など物語を持って生きている人がサポートしているかもしれないが。 

だから、もし今の生に何か問題があるなら、なにかこう抜本的な解決は望まないほうがいい。まずは自分の過去を分析し、それをもとに、じゃあどういう未来を作っていくかという考え方にしたほうがいい。物語にそって生きていれば楽しくなる。そしてそれはあなたがもともと探していたもの以上かもしれない。

うまくやるには方法がある。この構造をしっかり理解することだ。僕らは最初は全知全能だ。子宮の中ではすべてが満たされる楽園。生まれてからも母親がすぐにあらゆることを満たしてくれる。このとき、あなたは親から「おまえはこれこれという人間だ」と自我を与えられる。最初はかわいがられるので、なんかいえばすぐに満たされるという物語を持つ。これが今後の物語の軸になる。時間が立つとどんどん自立していかなければならないが、それでもやはり最初の自我が軸にあるので自己放棄他人依存、自己拡大のベクトルがある。その後もどんどん新しい物語が上書きされる。上書きは、他人と直接に交流する中で、リアリティが高められ定着していく。自分だけでこういう物語を生きているというのは定着しない。そして過去に定着したものであるほど軸となる。

こうなってくると、どう生きるべきか分かってくるだろう。僕は最近、どんなことでも楽しもうとするマイルドヤンキー的なギャルを尊敬してしまう。まさに宮台の言う終わりなき日常を生きている。無理しないで目の前を楽しむという物語。もちろん、物語を安定させるには、資本主義社会という物語である程度安定できる物語がよい。フリーターなどその日暮らしでは生活そのものが厳しいとそもそも安定しない。

まずは自分の過去を振り返り、そこから確信を持てる未来を創っていこう。 

僕はこのブログで松本人志について何度か書いている。僕は別に理想の人物、この人になりたいなあ、この人を目標にしたい!と思うような人物はいないが、定期的に見てしまったり、惹きつけられて、その人について知りたいと思うような人、といえば松本人志である。ごっつええ感じ、ガキの使い、ビジュアルバムなどはほとんど観たし、繰り返し観ている。

暇なときはよくガキ使を観ているが、偶然観ていた「ガキの使い きき緑茶」の一コマ。(以下に動画あり)

17:50からの「ええの?」のくだり
18:50「思てたほど違うこともないなぁ」

のところを取り上げたい。

何というのだろうか、なんの打算もない純粋な面白さを追求している感じがこの2つの笑いによく出ている。他の芸人だとどこか「仕事として笑わせなくてはいけない」とか「あの人のこう思われたい」とか何かそういう小さな打算が見えてしまう。松本にはそれがなく、純粋に面白く楽しい笑いを作りだそうとしている。というか、作っちゃっている、という感じ。

もちろんこれはこれで面白さを追求するという打算なのだが、それがなんというか広くみんなを笑わせるため、という感じなのだ。だから松本の笑いはたまにブラックであったり人を傷つけるように見えるが、根っこが「みんなが笑えること」だから嫌味がなく受け入れられる。本当にお笑いが好きでお笑いのことばかり考えたプロフェッショナルである。

NHKのドキュメンタリーで松本は、プロフェッショナルとは「素人に圧倒的な力の違いを見せつけること」だと言っていたが、それは四六時中笑いのことしか考えてない松本の笑いに対する気迫が感じられる。松本の人生観に、笑いがなければ人生面白くない。笑いが人生を意味あるものにする、というような直観があるのかもしれない。


 

われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか?という仮説について考えてみたい。われわれは反省的な意識なしに行動をすることがある。それは無意識であり文字とおり意識に上ることはない。われわれは常にそのような状態になることを望んでいるのではないか?

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なぜなら、人類が有史以来求めてきた「自由」の本質を探究してみると、無意識状態を求めているように見えるからだ。以下、それについて考えてみる。

『エロスの世界像』という本で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を提示している。以下、該当箇所。



 

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

 

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

 

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

 

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)


これを敷衍すると、「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、と言える。

書いてある通り、意図したことが全て瞬時に実現すればするほど「意識」される程度は少なくより「無意識(夢を見ず寝ているような意識がない状態)」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態に近い感覚をわれわれは、「自由」として理想の状態としているのではないか。

同じような議論が下條信輔『意識とは何か』の「自由な選択について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。
どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。
  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。
  3. 他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。
自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。

ということはやはり、「自由」を理想にするわれわれは「無意識」状態になることを欲しているといえるのではないか。

人工知能など先端技術により、世界は確実に「安心・安全・便利・快適」さらに「不老不労」へ向かっている。その進歩が遅くても、それが目指されていることは間違いない。

仮に、寝たきりでもずっと栄養補給され、ずっと死なないのであればわれわれはどんな意思決定もする必要はなくなる。そのときに、外に遊びにいくようなこともないだろう。要するに、「意識」は閉じていくのだ。全知全能となれば赤ん坊と同じく、「意識」は必要ないのだ。
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凄いと人に思われたら誰でも嬉しいだろう。なんとも思わない人などいないはず。

では、人は凄いと思われたら嬉しくて、しょぼいと思われたら悲しい、ということを前提にしてもいいだろう。

凄いというと、まず頭に浮かぶのはある特定の分野での熟練や天才。野球といえばイチローは凄い。誰もが尊敬する。日本の誇りである。

では、その分野で凄いだけでいいのか?

イチローは国際政治は語れないし、英語だってちゃんと勉強した人からすれば凄くない。違う分野にいけば普通以下になることもある。

じゃあ分野って何だ?
善悪の基準がはっきりしている領域といえる。野球の分野であればうまい下手というのが一義的に決まるのだ。

では、分野に別れる前の人間としての土台というものがあるのか?人格?そう、そういうものがあるかもしれない。何かの分野で成し遂げた人はその領域で凄いだけでなく、それに伴って人間としての土台も凄い。人格者として真理を見抜いている。というようなことも想像できる。

むしろ、学歴もなく社会的地位も運動能力もないような人はこういうみんな共通の土台の部分でどうにかして尊厳を保てる。全てが特定の分野での明確な善悪基準で測られたらたまったもんじゃない。

人は、いろいろな領域に属すことをオプションにしつつ、全人類共通の領域「人格」がある、と言っていいのか?それとも「人格」も1つの「分野」に過ぎないか?残念ながら後者が正しい。それも1つの分野にすぎない。リオタールというフランスの学者が指摘したように今の時代はただただいろんな言語ゲームという分野での善悪基準があるだけだ。

考えてみよう。オバマ元大統領だって、大統領のとき誰からも凄いと尊敬されていたわけでもない。マズローの欲求5段階で一番低いところにいる人からしたらオバマが目の前にいても何も思わないだろう。それより今日の飯なのだ。利害関係のある政治家からしたら、大統領への敬意よりも「おれのゆうことが分からないクソ」かもしれない。

大事なことは、みんな自分が主人公の物語を生きているということ。自分が自分の物語の主人公としてこの世界に適合しているのだ。動物と違う言分け構造の世界に。

どんなに優雅な女も、どんなにとびっきりの社会的地位と容姿や人格を兼ね備えた富豪も、みんな自分の物語が第一で現実に適応している。他人の幸せとか社会のためとかそういうのは物語の上で重要になっているだけで、物語を剥ぎ取ったらそんな高尚なものはない。

みんな平等なのだ。同じ動物としてのヒトになれば同じ。そこが分かれば冒頭から述べているある分野で凄いとかそんなもんがどうでもよくなる。

あなたがやるべきは他人と競争することじゃない。ただ自分の物語を安定させること。その上に他人との競争があるかもしれないが、それはまさに「その上」でのことであり、物語という幻想なのだ。

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最近、日本語を外国人に教える機会がある。

一見、些細なことのように見えるが、実は日本語を教えるということはとても奥が深い。というか、別に日本語を教えるということに限らず普段われわれが何かしらの目的を持ってする行為はどれも深いのだ。

早稲田大学は留学生の日本語サポートの体制を整えている。留学生支援システムの構図というのがあり、その理念や構想が描かれている。もし時間があればリンクを読んでみてほしい。

この内容ってとてつもなく深いと思わないだろうか?
これを見ると、たかだか日本語教育が、全人格や人生そのものに繋がっているのが分かる。

留学生サポートの理念についての箇所を引用すると、
 
「主体性を もって取り組む自律的な学習姿勢を育むことは,一生役立つ問題発見解決能力を身につけ,生涯に渡って学び続ける人間を育成する」
 
「自分自身のことを十全に分析し,主体的な学びを継続 的に成す姿勢を備えた人間,つまり,生涯に渡って学ぶ姿勢を備えた人間を育む」
ということ。
結局、留学生にとって「日本語を身につける」みたいなある程度努力を継続しなければいけない課題っていうのは、主体的な学びを継続できる人間に近づく必要があるということ。これはどんな課題についても共通である。テニスにしろ、エンジニアになるにせよ、デザイナーになるにせよ哲学するにせよ全く同じだ。

これは、見方を変えると次のように言い換えることができる。日本語学習に限らず、実現可能な目標でさらに具体的な目標であれば、まさに「実現可能」なのである。例えば、40歳のサラリーマンのおっさんが「英語をネイティブ並みの発音で話す」というのはどうか。この目標は具体性が欠ける。「話す」となると無限の語彙の可能性とかがちらつき目標がブレる。だから、「ある英語の本を丸々一冊、パーフェクトな発音で暗誦する」であればOKだ。これであれば、少し試してみたりすれば、マイルストーンが立ち、最終目標までの道のりが具体的に決まる。後は着実に一日ずつ遂行していくだけ。もちろん、遂行が難しいのも分かるが、本当に一日単位でブレイクダウンしてできた超具体的な計画はけっこう続くもんだ。

今、30歳のテニス未経験者の男が「錦織圭」みたいに活躍したい、というのはどうか?これは現実的に厳しい。テニスという肉体的なもので、幼い頃から動きをめいいっぱい時間をかけて体得している人間が競い合っているレベルに到達するのは正直超難しい。可能性は0ではない。日本でトップ10というのであれば可能性はある。ただし、時間やコーチなどのリソースをめいいっぱい投入すること。その人は四六時中お金を稼ぐ活動から免除され優秀なコーチ群に囲まれテニスやトレーニング漬けになればの話だ。

そう考えると、「目標をいかに具体的にするか」「どれだけのリソース(時間やお金)を投入できるか」、さらに「モチベーション」ということに依存しそうだ。実はこの3つはどれも相互に関係しあっている。

冒頭の日本語教育の話に戻るが、結局日本語を修得できる留学生はこれら3つが総合的にうまくいっているのだ。私の知り合いの中国人留学生は2年早稲田で修士をやっており(授業は全て英語)、いちおう日本語のクラスも2年間とっていたが結局帰国時には全然日本語でコミュニケーションできなかった。具体的な目標ももってなかった、それゆえ時間も割かなかったし、そもそもモチベーションもなかったのだ。残念。

逆にスウェーデン人の友人は日本で働くことを夢見ていたから日本語専攻ではなくても1年の留学でぺらぺらであった。どういう風に仕事をするかなど言語化はしていないかもしれないが具体的なイメージをもっていたのだろう。それに多くの時間図書館で勉強もしていたし、実践で常に日本語を使っていたから目標管理もうまくできていたのだろう。

3つの要素を書いたが、結局は「夢」を持っているかということに集約される。具体的にこうなりたいというイメージ。留学生だったら、日本で就職したい!日本の伝統的な大企業に入りたい!◯◯社に入りたい!など具体的なイメージを抱いていれば、自然とどうすれば入れるか情報収集し必要なことが分かるし、その中で初めて語学の必要も出てきて、何年以内に1級をとって、とか計画ができる。◯◯社に入りたい、ではなくても「日本人と日本の政治について議論したい」とかでもいい。そうすれば、「議論」とはどういうことか、「政治の知識」とかもっと掘り下げて具体的にすればいい。

だから、日本語教育を考えるなら結局は「どうやって夢を持たせるか」ということに行き着く。どうやって夢を持たせるか?どうやってなりたい自分の物語をもたせる?

だから、本当の意義ある教育をしたら、今の目先の取り組み、例えば政治経済部で政治を学ぶ、とかいうのが実は全然不要であって、転部させたり、留学させたり、退学させる必要も出てくるかもしれない。特に日本に留学に来ている中国人のほとんどは「日本語を学ぶ」ことが夢への一歩になっていることはなく、ただ中国でいい仕事に就くためなど自分で考えたり感じ取った物語の一部となっていない。

また、生徒に夢を持たせる手助けをするには、「そもそも教育者として被教育者に夢を持たせることが必要か?」ということにも答える必要がある。

そこについて私は答えを持っている。それは端的に、われわれは一義的に世界に反応している動物と違って、言分け構造の世界を物語的に生きている。それは、不安定なものだ。幻想をどうにかして共同化しているのだ。僕はこれを心から理解できたのは30歳のときだ。つまりつい最近。ここから言えることは、どうにかして自分が生き生きとコミットできる物語を「積極的に」作っていく必要性がある、ということだ。木のように種から目が出てすくすく育って花を咲かせるような本能的な生き方を人間はしない。われわれは物語を作り言語的な世界を生きているのだ。積極的に作るといっても理詰めでおれはこういう過去を持ってるからその延長でこう生きるのがいい!といってすぐできるものでもない。そういう過程も重要だが、やっぱり直接経験として人と話したりする中でその物語にリアリティが出て来るのだ。だから僕の結論は、人と「語り」合うことだということ。

教育者としては、使命は広く人類の歴史を知識的に学ばせ、自分を位置づけさせ、その上でリアルな世界でいろいろな人と接し、語り、自分の物語を築くことを支えることである。

ではどういう施策をすればいいのか?

これを直接伝えて、「はい、そうですか」となるだろうか。いや、むしろこんなメタ的に理解されたら物語にコミットできなくなるだろう。だったら、いろんなものに触れさせ自分が自然とコミットできるものを見つけさせるのだ。そして何かにコミットするには、この社会においては沢山の概念を知っていて社会的行為に意義を見いだせないとだめだ。そのために知識も幅広く身に着けさせる。

wg
 

時代が進むにつれリベラルになって人と人との繋がりが弱くなる。「自由」「平等」などの価値が実現されていくにつれ、人への非合理的な干渉がなくなり人と人との関係は薄くなる。

ただ、人と人の関係とは通常、助けを求め、求められたり、手を差し伸べたり、贈与したりすることによって成り立っているのではないか。

もともとはそうして共同体は成り立っていた。そこで人間はどうにかして生きていた。

しかし、近代以降そうした共同体での干渉が悪しきものとなり独立的な自由な人間という理想に向かうようになった。

すると、他人に少しでも干渉すると「自由」を損なった、人それぞれの意見や世界観がある、など各自がバラバラになっていく。そうすると、社会という荒野にむき出しの個人。人々に包摂されない個人となっていく。

すると本末転倒、もともとの共同体がなぜあったのか。それを忘れ人々はバラバラになり、自己承認をし自我を安定させてくれる他人も失うことになる。

今必要なのは、誰でもいいから深く交わり、熱く語り合うことなのではないか。

 af

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