僕は、ベンチャー志向だから商品やサービスを創造するならもちろん「価値あるもの」を、と思っていた。では「価値ある」とは何か。それは各個人が生きている一人一宇宙の主観的世界、これを実存というが、実存をよいものにする、ということ。一般的な「幸せ」と同じだと考えてもらえばいい。

idea
 

では、どうすればいいか。まず、そもそも「幸せになりたい」とかそういう現実に不満がなかったり、それどころではなく(いい意味でも悪い意味でも)何かに熱中しているならそれはそれでいい。そうではなく現実に不満があるなら「どう生きるべきか」の指針がほしいであろう。ちなみに、お金がないとかそういう現実的に解決方法が明確な場合は、それに向けて頑張ればいい。

人間は実存の軸は、自我の安定である。動物は刺激に対して一義的な反応が決まっており、本能的に生きているといえる。しかし、われわれは「シンボル化能力」=所謂ソシュールでいうランガージュという言語能力をもっている。何かをゲシュタルト化し一般化する。対象化ともいえる。こうした対象化が連合したり、さらに対象化され、さらに対象する側も対象化されると「世界内存在」という世界の中でいきる自我というような生の在り方となる。

木田元はこのようなシンボル機能と呼んでおり、そこからシンボル機能からシンボル体系という<世界>が構成されることを説明している。
メルロ=ポンティはこういう。シンボルとは、さまざまな関係相互の関係として成り立つ高次の関係、さまざまな構造をさらに構造化する高次の構造、つまり「関係の関係」「構造の構造」あるいは「自乗された構造」のことであり、それを構成する働きが「シンボル機能」である。

人間はこれにより、現に与えられている「限られた環境に対してではなく、可能的なもの、間接的なものに対しても向きを定め」、「現実的環境の向こうに各自が多くの局面から見ることのできる一つの<物の世界>を認めること」、つまりは生物学的<環境世界>に閉じ込められることなく<世界>へ開かれてあることができるのである。してみれば、<世界>とは、このようにして構成される高次のシンボル体系だということになろう。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きる生き方<世界内存在>だということになる。 
われわれが体験する<世界>とは全て言語的なものを土台にしている。そのために一貫した物語が必要となる。そうしてどうにかしてありもしないシンボル体系に流れ(物語)を使って現実に適応しようとしている。だから、基本的に人間は物語を軸に生きている。そのためこの物語がなくなれば、現実を生きるすべを失う。自我を安定させてこの「世界内存在」というあり方を保つことが人間には必要なのである。安定したから幸せというような話ではない。ただ単に人間はそういうあり方をしているので、そうするしかないのだ。

物語とはどのようなものか?自分の経験から地球という外に宇宙の拡がった客観的世界に主観を持った人間たちが生きていて自分はその一人である、と。そこで、例えば僕なら「日本人」「北区育ち」「インターネット業界」「ベンチャーで創造性ある人間」「三ヶ国語しゃべれる」などなど自分で勝手におれはこういう人間だと前提している。
 

そしてそうした前提に基づいて日々生きている。例えば会社にいったり、人と話すときも、あるいはご飯を食べるときも全部この物語(世界観)に位置づけて理解している。会社に毎日通勤するのは「自分はそこで働いている」という物語からおこる行動であり、動物のように本能で一義的に動いているわけではない。ソシュール研究者の丸山圭三郎が言うように、われわれは本能としてフグを食べていいかだめか分からない。言語的に「食べられる」「食べられない」を言分けて生きている。これは物語で生きているというのと同じこと。

さて、「幸せ」とは何か?結局、これもこの物語の中の一つの概念でしかない。一番重要な考えるべきことは、「物語を安定させる」ことなのである。この物語を通じてわれわれは現実に適合している。いいかえれば「自我を安定」させること。

さて、少し視点を変えてみる。

数年前に発表されたハーバード大の75年にわたる研究で分かったことは、「幸せ」ともっとも相関の高い条件は「周囲の人たちのよい人間関係を築く」ということだった。(上記で「幸せ」はただの物語の概念にすぎないと書いたが、実存にとってよいものと読み替えてほしい。最終目的は「幸せ」ではない。ただ、内在的視点に戻って確かめているだけ)これは自我を安定させるという視点で説明できる。自我は「他者」に認められることで安定する。そもそも、こうした世界内存在という在り方自体が「他者」から植え付けられたことである。

実際の直接経験として人と接することが実存に与える影響は大きい。他者が認めたあなたが、あなたの物語となる。自分でいくら勝手に物語を作り上げ自分をそこに位置づけても、他者が認めないと自分もそれに確信を持つことはできない。言語だけの空想では人はその物語を生きていることを信じることはできない。

さて、実存の構造がわかったいま、それをいいものにしたいなら自我を安定させることが重要だとわかった。つまり、自分を位置づけたい物語に確信を持てるよう他者に認めてもらうことだ。逆にいえば、他者が認めているあなたの物語を、あなたが認めるのでもいい。極悪非道な物語でもいいのだ。ベジータがそうじゃないか。だから、バビディに故意に引っかかり一貫した悪党になった。それまでは地球に適合するという違う物語を持とうとしてしまい、自我が安定していなかったのだ。

あなたがもし、暗い人間で、楽しむことをしらない、人の幸せを妬むクソみたいな人間、であることを本当に認めるなら、それでもいちおう自我は安定する。他者があなたの物語を認めるとは、他者の中にあなたはそういう物語をもった人間だと確信をもたせること。だからそれは、悪い人間「として」の物語もありうるし、むしろ人にそう思ってもらうことほど楽なことはない。ただ勝手気ままにそして無愛想に振る舞っていればいいのだから。世の中にこういう人が多いのは、これでしっかりと自我が安定するからだ。

しかし、結局は親に育てられた人間は、少しは「いい人間である」という物語を持ちたいと思っている。というか、最初の物語は基本的に親から与えられるわけであるからほぼほぼそうなる。完全な極悪非道では、理想の自我とのギャップが生まれてしまうわけだ。

このあたりは私の自我論の大部分を負うフロイト研究者の岸田秀(1933−)が詳しく説明している。(『幻想の未来』)ちなみにどの人間にも同じような土台としての自我がある。人間は、ほぼ必ずといっていいほど親に育てられる。母親にご飯を食べさせてもらい、抱っこしてもらい、やさしくされる。そうすると、生まれてからは全知全能という自我を持つ。それが父親や他者の介入で崩される。そこまでは誰もが経験すること。それゆえ人は、全知全能に戻るべく母親に自己を預け依存しようとする。これが自己放棄的、依存的自我である。

そしてそう願っても現実には母親は全知全能を与えてくれるわけではなく挫折し、その屈辱や怒りをバネに依存をやめ、全知全能を自ら取り戻し実現しようとする。ここで自己拡大衝動が確立する。それから後は、「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」との正反対の二つの基本的衝動の間に引き裂かれることになる。この二つの衝動は本能ではない。動物には存在しない。いずれも未熟な状態で生まれ、長い間他者の世話にならなければならにという人間特有の条件から生じる人間特有の衝動である。

さらに、岸田秀を引用してみよう。今書いたようなモデルの具体例。『唯幻論大全』の105−106ページ。
 
わたしは、要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。強迫観念は、脳のどこかが破損したとか、神経系のどこかが狂ったとかの症状ではなく、原理としては、その構造というか、原因は実に簡単なのである。
 
原理としては実に簡単であるが、実際問題としては、偽りとは言え、それまでの自我の安定を捨てることはきわめて難しい。十代の中頃、神経症に囚われ、精神分析を知って、いろいろ考え始めてから、どうも神経症の根底に母との関係の問題があるらしいことは理論的にはまもなくわかった。それまでわたしを献身的に愛してくれていると思っていた母の愛情が疑わしいことに気づくのはそれほど難しいことではなかった。

しかし母は事実上、母ではなくわたしのことなど何も考えていない無慈悲な赤の他人で、わたしを虐待し続けていたのだという事実をはっきりと認めるには大変な抵抗があった。そう認めると、わたしの自我の安定、存在価値の根拠が失われ、わたしの過去は全否定され、わたしは強烈な不安と恐怖に突き落とされる。

それに絶えられず、不安と恐怖から逃れようとして、偽りの自我の安定にまたしがみつく。母はそんなに悪い人ではなかった、愛情深いところもあった、ああもしてくれた、こうもしてくらたと考える。すると、また強迫観念をはじめ、人格障害、対人関係障害など一種の神経症的症状がぶり返してくる。この葛藤というか、往復運動を何回となく繰り返した。
 
要するに、神経症が治るか治らないかの問題は、原理としては実に簡単明瞭である。一服飲めばピタリと治る薬があるわけではなく、どこかに救いの神がいて助けてくれるわけでもない。誰でも幼いときから親子関係のなかで築いてきた自分の物語に支えられて自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ、何ら問題は起こらない。

この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧するとき、神経症的症状が発生する。したがって、神経症を直すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することを止めて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただ、それだけなのである。しかし、そのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするかしないかの問題である。そのあとは、新しい真実の自分の物語を構築してゆけばいいのである。それも容易ではないが…。
唯幻論大全
岸田秀
飛鳥新社
2013-01-25


なかなか分かりにくい。岸田の本を読んでいるとたまに一貫性がないことがある。この例も彼の理論がどうやってあてはまるのか。

まず、岸田の母親は岸田に愛情を注いでおらず利己的に育てたようだ。それが最初にあり、岸田も幼少期なりにそのような自我を持った。要は、母親に愛さていないという物語。しかし、成長するにつれ「母親とは子供を愛情を持って育てるものだ」というような常識を知り、母親と接したり他者と接する中でそちらのほうが現実に適応し、もともとの自己的な母親の物語は抑圧された。社会の常識は重要だ。なぜなら、物語は他者に認められなければならないので、社会的な傾向に沿ったものでないと認められにくいからだ。逆に常識はずれな岸田のような自我は社会に合わせるために自分の自我を抑圧しなくてはいけなくなる。

その後ずっと大人になっても「どの母親も子供を愛している。自分の母親もそうだ」という物語を持って生きていたが、その下の自我の核心には「利己的な母親」の物語があったのである。これを認めると今まで何十年という安定してきた自我を放棄することになる。(安定しているとはいえ下に抑圧されていたものが時々病を生じさせていたのだが)もしそうするのであれば、それに伴いあらゆる今の物語も書き換える必要がある。世間的には「母親は子を愛するものだ」と言ってきたり、「私は愛情を持って育てられた」という認識を持つものに新たな認識を書き込まなければ解決しない。しかし、そうすることでもう抑圧された欺瞞に突かれることはなくなる。

このように幼少期に作られた自我が、その後大きく異なる自我で覆いかぶされると岸田のように自我の安定に問題が生じることが分かる。ここでの要点は、「個人の特殊な自我」と「社会の常識」の対立である。誰でも特殊な体験を持っているものだが、それを物語に組み入れるには程度の差はあれ社会の常識から外れなければならない。

そして上述の通り根本的に誰もが母親から育てられる経験をしていることから「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」を持ち、その後社会という人間の相互関係に置かれるため、自我は安定しない。そう、基本的に自我は安定しないのだ。でも、それをいちおう分かりながら行動していけば、生は必ずよくなるだろう。まずは自分がどのような物語を生きているかを理解し、さらにそれが社会や周囲の人間に認められているのかを考えてみよう。これがあなたが求める「幸せ」の第一歩なのだ。

自我=物語を知るために、心理学者の榎本博明氏がいろいろ行っている。

以下の本から自己物語を知るための方法を参考にされたい。ありがとうございます。


自己を語ってもらうことにより個人の人生に迫ろうという方法を「自己物語法」と名付け、面接法、記述法、図示法といった3つの方法を考察し、実践の場で用いています。面接法は、幼児期から現在に至る人生の各時期の主なエピソードとそれが本人にとってもつ意味を語ってもら半構造化面接であり、とくに思い出されるエピソードや転機となったエピソードについて時間軸にそうのを原則としつつ自由に語ってもらう。語る代わりに記述してもらうのが記述法。図示法では、人生の各時期に与える評価をもとに人生の起伏、すなわち上昇部分や下降部分、上昇、下降の転換点について記述してもらう。

自己物語法では表のように一連の問いかけに対して思い浮かぶことを自由に語ったり記述してもらう。語られた内容をもとに自己物語の文脈を抽出する際には以下のようなことを心がける。

1,      想起されるエピソードを事実と意味づけ(テーマ)の相互作用の産物として理解する

(ア) 出来事のとそれに対する気持ちや意味付けを区別して整理する

(イ) エピソード群に、何らかの共通点がないかどうか検討する

(ウ) 繰り返し現れるテーマや基調として流れているテーマを読み取る

2,      とくにターニングポイントとなったエピソードの現在における意味付けに注目する

(ア) 出来事、それに対する当時の気持ちの解釈、現在の気持ちや解釈、その後の自分に対する影響などを整理

(イ) 今現在生きられている自己物語の鍵をにぎると思われる文脈を読み取る

自己物語法の手順

1,      今の自分自身について

2,      今の自分にとって大事だと思うエピソード

3,      懐かしく思い出される人、モノ、出来事、場所

4,      最初の記憶

5,      最初の記憶より順を追って想起される主なエピソード

(ア) 幼児期のエピソード

(イ) 移行期

(ウ) 小学校時代のエピソード

(エ) 移行期

(オ) 中学校時代のエピソード

(カ) 移行期

(キ) 高校時代のエピソード

(ク) 移行期

(ケ) 大学時代のエピソード

6,      転機ターニングポイントとなったエピソード

7,      自分の人生史の中でやり直したい、書き換えてしまいたいところ

8,      今の自分自身について

9,      語りの前後での自分自身に関する見方に生じた変化

10,感想