幸せは自分から

これは、ある池袋のキャバ嬢が僕に言ってきた台詞である。

今、考えるとなんと素晴らしい一言なのだろうか。

これに人生の全てが詰まっているといっても過言ではない。

yn

 ※キャバ嬢のイメージです。実際の人物とは関係ありません。


さて、
ちょっとまず最初に、教育について述べたい。
 
僕は教育とはいいものだと思っているがずっと違和感があった。なにかこう、「既に正しいと決まっていること」を押し付けるのが「教育」という言葉にはある。教えて育てるのだが、「教える」というのが偉そうだ。

僕らは、原始的な社会から始まった。狩猟採集。獲物が見つからなかったり、作物が育たなかったり見つからなければ死んでしまう。他の社会が攻めてきたら殺されるかもしれない。病気になったら死ぬ。こうした不安定な社会から時間をかけて今の社会ができた。そのことを忘れてはならない。そのこととはつまり、根本的に僕らは荒野を生きているということ。生きるために必死なことが前提なのだ。

さて、教育の話に戻ると、教育とはこうして複雑になった社会で生き延びるために人に施すものだと多くの人が思っているだろう。その通りだ。狩猟採集で必要なスキルが、今は教育で教えられているようなものになったのだ。

でも、問題は最初に言った通りその「教育」という言葉だ。これはどこかに社会側からの押しつけがある。現代はリベラルな時代だ。基本的には個人の自由が尊重され幸福を追求することが最大の土台となっている。だからこういう物言いは疎まれるのだ。

教育の必要性は認める。それは先に述べたとおり、僕らは荒野を生きているのだからそれなりに頑張って力をつけなければいけない。その一方で社会が高度化し、自由が尊ばれている。みんなは当たり前に自分の幸せを追求する。

そう、実はその過程に教育が必要なのである。教育はまさに今述べたように狩猟採集のスキルが置き換わったようなもの。それを身に着けないと社会に適合し、荒野を生きていけないのだ。ただ単に何もしなくて生きれる +αで教育があるのではない。自分を高めないとイノシシ程度に出くわしただけで死んでしまう。 

今の時代は誰でも幸せを求める。そしてそのためには自分を社会的に高める必要がある。そして、社会では社会なりに人生を楽しむ方法もある。それも学ぶ必要があるのだ。それが教育なのである。だから、それは全く受け身なものではない。

ここで冒頭のキャバ嬢の台詞に戻るが、結局、幸せは自分から掴むものなのである。原始社会を想像してほしい。酒池肉林するなら頑張らないとだめなのはすぐ分かる。獲物をいっぱい取って、なかまをマネージメントしたりいろいろ頑張ってはじめて酒池肉林できる。

今の時代でも根本は同じだ。幸せになるには自分から頑張らなければならない。そうして僕らは現実に適応しているのだ。教育は幸せのために必要だが、その語「教育」といわれると受け入れ難くなる。

今後これを「教育」ではなく、キャバ嬢風に言えば「幸せを掴む切符」とでも言えばいいのではないか?
 
shiawase