われわれの実存、主観的な生、生の在り方といってもいいが。要は意識があり体験している「いま、ここ」の流れ。
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これは三つの状態に分けることができる。まず、「ゲームモード」。これは、あるゲームの中で具体的な目的・目標に確信を持ち生きている状態。挫折や苦悩はあるが、具体的な目的・目標のために試行錯誤し努力すればいい。スポーツ、恋愛、仕事、ゲームなどに情熱を持ち、「どう生きるか」が問題にならない生の状態である。

第二には「無気力モード」である。これは、生きる気力がない、勉強や仕事など何もする気力がない状態。この状態では何か行動を促す「欲望」や欲求がなくなっている。「どう生きるか」という問いも出てこない。社会の中に入っていき「欲望」を喚起するなどの必要があるが、これは精神分析、心理学や生理学などの領域であり適切な処置が求められる。

最後の一つは「哲学モード」である。「ゲームモード」と「無気力モード」の中間的な状態。何をしたいかよくわからなくてモヤモヤしている。「生きる意味とは何か」「何のために生きているのか」といおうような「どう生きるべきか」について論理的に物事を考えすぎ、答えがでなくて行動を促すような確信がない状態。これは言語的な世界を生きる人間に特有の状態である。実は、第二の「無気力モード」はこの「哲学モード」の極みである。 

もちろん人の生はこの三つのどれか一つにぴったりと当てはまることはない。しかし、常にどれか一つを軸にして或いは二つ以上に跨りながら、さらに軸を変えながら生きているのではないだろうか。

ここで前提にしているのは、社会的な「人間」である。社会で育って言語的な世界を生きるようになったヒトである。

われわれが必要なのは、三つ目の「哲学モード」について、どのようにして「ゲームモード」に移行できるのかを知ることだ。それは要するに、「どう生きるべきか」ということに納得のいく回答をするということである。言い方を変えれば、「世界」についてのしっかりした了解の像を持ち、そこに自分を位置づける、ということだ。

人は、 動物のように本能的に生きておらず、言語的世界を物語に生きて現実に適応している。われわれは意図的にこの物語にコミットしないと、現実から剥離され宙を彷徨ってしまう。それが「哲学モード」であり、行き着く先は「無気力モード」である。