人間の生を、カオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、と捉えるのはポストモダンの基本的な図式である。人間は環境世界との適合関係が壊れているので、そのカオス的な状況から逃れるために、文化の秩序(象徴秩序)が必要になる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』の中で、人間の生は「絶えず習慣を更新しながら、サリエンシーに慣れ続ける過程」と書かれている。


 
どういうことか。サリエンシーとは「精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激」のことであり、それゆえ、人間は生まれたときは、世界に存在するいかなる事物にもいかなる出来事にも慣れていないので、この世に存在するすべてはサリエンシーであると考えることができる。

「世界はサリエンシーなのだから、それに対する慣れを構成する過程には終わりがない」ので「生きるとは、したがって、相対的に安定した予測モデルを作り続ける過程」であるという。これはヘーゲルの『精神現象学』でいうところの意識が絶対知へ成長する過程と似ている。

いかなる経験もサリエントであるので、傷跡として残る。阿頼耶識のようなものだ。そしてその程度により、容易には慣れることのできないサリエンシーを経験した場合、トラウマとなる可能性をもっている。われわれは絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている。言いかえれば、新たなサリエンシーをパターン化してパターンをより多く持ちどんなサリエンシーも容易にパターン化できることを目指しているともいえる。

さて、これを基に「僕らはどう生きるべきか?」について考えてみよう。

まず再確認すると、僕らの目指すべきは「安定した予測モデルを作る」ことだ。そしてこれには果てがないから、人生とはそのようなモデルを作り続ける過程、だとされる。

ただ、これでは人間の「知性」の話しかしていない。人間は何かに惹かれるというエロス性を持つ。それは、フロイト的に言えば、最初に作られた自我=物語である全知全能に回帰したいというベクトルである。

そうすると、改めわれわれがどこへ向かっているのか確認しよう。

  1. 多様な刺激を自分に容易に取り込めるようなモデル作り
  2. 全知全能への回帰
人は誰でも全知全能になりたい。基本的には強い生きるベクトルがある。しかし、全知全能へ回帰するには人間社会において他者から承認を得る必要がある。自由気ままに振る舞っても何も咎められたり、後ろめたさを感じないような状態。往々にして、僕らは幼少期に他者とぶつかる。そして、好きなことをやると仲間はずれにされたりいじめられたりする。ここで僕らの予測モデルの原型が作られてしまう。人と違うと叩かれるというようなことが怖くなる。

そして、(自分が行く可能性のある)どんな環境に行き、どんな人と会っても「いつもと同じように」行動できるような予測モデルを作る。それは、幼少期に作られた原型をより強固にするということ。こうなってくると、全知全能へのベクトルは抑え込まれしまう。今の日本の多くの人はそういう状態。いや、世界的に人間社会で他者と接する必要のある環境ではどこでもそうだ。

では、今何が求められているのか?

それは、
個人をエンパワーメントすることだ。

全知全能へ近づかせる、あるいはその可能性を見させる
相互承認を根付かせる

これらに関することが今の時代において求められている。