さて、久々に何か書いてみる。最近は、いろいろ考えている。どう生きるのがいいのかとかね。日々常に楽しいのだが、最大に楽しくするにはどうするのがいいのかな、と。やっぱり僕も既に社会で育ってしまった「人間」である。他者や社会との関係で何かをしていくことはもう決めるしかない。一人で出家とか自給自足とかは、まあやっぱりつまらんよね。

まあやっぱり、基本に戻るよな。僕はずっとB2Cの主観的に面白いサービスを創りたいと思ってきたけど、短期的な体験だったら麻薬やったり、風俗いったりするのが超快楽なわけだけど、それは人生狂わせちゃうからね。でも、そうした超快楽を安く手軽にするというのも一つの意義がある。

要は、人の生を中長期的に考えていかないといけない。麻生太郎がいいこと言ってたな。「人間」にとって最も大切なことは、「朝希望を持って目ざめ、昼は一生懸命働き、夜は感謝とともに眠りにつく。」これだよな。こういう社会を作ることが必要だ。社会とその中の構成員としての一個人の実存は切っても切り離せない。

人の一生という実存内容をコントロールしたいなら、社会全体を考えていかないといけない。幼少期の経験が極めて重要だが、その後の経験もそうだ。

カントが理想的な社会を自由で「競争」があることとしているのは興味深い。それに朝ナマで人工知能がテーマだったとき、田原総一朗が「何の問題もない人生なんてつまらない」と言っていたのが思い出される。今僕らが描いている人間像は、苦労を乗り越えどんどん成長してく物語的な生を営む姿である。

しかし、落合陽一くんが言うように、われわれはもうこうした「人間」像を捨てて新しい人間の定義していかなくてはならないのかもしれない。過渡期はいつでも古い人達の反対で大変だ。でも、どういう人間を定義するのか?もう「間」というのが不要になるのか?人と付き合っていく必要もなくなるのかもしれない。もちろん、付き合いたければ付き合えるけど。

でも、今の感受性で判断できるのか?そもそも人と接しなくなったら物語も必要なくなる。今の生と全く違う在り方になる。今の感受性で言えば、「人間味がない」といわれるだろう。人と喜びを分かち合う、笑顔で人と接するようなものはなくなる。世界に誕生し、母親が何でも願いを叶えてくれる状態が一生続くのである。そのときどういう生になるのかは分からない。

結局、現在において、一番重要なのは人それぞれの善悪基準をまず認め、その上で利害調整すること。