われわれは本能が壊れているから、物語(言語的な世界)を持ち、世界に適合している。無秩序では日々の行動が取れない。ただただ言語で対象化していても全体の見取り図はできない。そこには筋立てが必要。特に今のような多種多様なあらゆる情報が飛び込んでくる情報化社会においては特に一本の一貫性が必要。

「人間」とはそういう言語的な世界で作られた概念に過ぎない。われわれの存在の在り方は変わっていく。

ただ、現時点では「人間」であることに定位して考えよう。

われわれの生にとっての理想形は何か。麻生太郎が国会答弁でこんなことを言っていた。

生きていく上に大事なことは朝は希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る。 

素晴らしい。まさにこれだろう。 社会の構成員である個々人の実存的生(われわれ)は、このような在り方であるべきだ。

目標ができたところで、ではどうすればいいのか?

近代以後、数世紀に渡り我々は自由に悩まされてきた。どのように生きるべきか、 その道筋が分からない。ポストモダンを経て何をすれば認められるのかどんどん分からなくなっていく。それでも、なにか卓越したものを作れてば少なからず賞賛されるのも事実。

しかし、卓越したことを行うには相当な強い動機や確信が必要。それはどうやって身につけるのか?

2つの視点がある。

まず、ヒトは基本的に、モチベーションにあふれている。子供が暇すぎて不安や絶望しているのを見たことはないだろう。でも、社会に入り「人間」になるにつれて他者との関係からモチベーションを抑圧してしまう。現実原則に従ってしまうのだ。この「抑圧」を無くそう!というのが一つの方向性。これは臨界期の幼少期の教育を見直すことと、既に育ってしまった大人の抑圧を取り除くことが考えられる。

もう一つは、教育方針として、各自、自分からより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得させることだ。本で読むエピステーメー的な知識だけでなく、身体でいろいろなものを経験しすること。世界でよく行動し、読書することだ。これをやらせる!ということ。理想的な人間像など僕らは記述できない。できるのは各個人が動き回っていろいろなゲシュタルトを得て自分なりの世界像に確信を持ち、どう生きるかにコミットできることだ。

もし自分の物語を見つけたら、上記の引用のような生を送ることができるだろう。ただモチベーションがあっても自分の道を見いだせなければ自我は安定しない。見つけ出すにはひたすら行動する必要がある。そういう教育が必要。これは一つ目のモチベーションと被っているが、もう少し表面的なスキルなども含む。

われわれはこうした環境を整えるべきだ。それが結論。