どこでもドアの思考実験をご存知だろうか。

東京でドアに入る瞬間、私の素粒子状態がデータ化され、東京の私の身体は抹消される。ニューヨークのドアでそのデータから素粒子状態を再現して、私の身体が出現する。素粒子状態が同じなので、以前の私と同じように振る舞えし、社会(他者)もそう認める。素粒子状態という物理的なものが心的なものに還元されることが前提になるが。

さて、ここで重要な論点は「意識の連続性」である。東京の私としての生はそこでthe endなのだ。何かしらの苦しみや恐怖を経て(或いは技術的にそれを快楽にすることもできるかもしれない)私の生は終了する。そして、ニューヨークの彼(私とは違うので)はそこから物理的には生まれるが東京の私の意図も継承している。そして社会に入っていけばみんな東京の「私」と連続体だと見なす。同じように振る舞うのだがから、10年前の思い出話もできるわけだ。

社会はそうでもいいかもしれないが、私にとってはこれは許せない。私の意識は終わるから、その後社会で彼が生きていて、親や友達を悲しませないとしても、私の生は終わるのでその「終わる体験」をしなくてはいけない。

ただ、「死」を恐れる要因として、
1,意識の連続の終わり(意識が途切れるときの痛み。仮に気持ちいいとしてもそれを経験した人が現れないので未知への恐怖は消えない)
2,周りが悲しむ、迷惑をかけるなど社会的な要因

があるが、どこでもドアのケースで2のネガティブ要因は解消されている。あとは1なのだ。それが「意識の連続」なのだ。二つのうちの一つが消えたのだがから人々の「死」への表象は変わっていくだろう。例えば、危険な作業に従事するまえにコピーをとっておき、万が一死んでしまったら身体を再現する、というようなところから実用化して、そういう再現された人間が生きる社会に慣れだしたら、「死」に対する見方は変わる。

しかし、それでもまだ1の怖さは消えない。意識がなくなる状態へ移行、この未知の体験への恐れ。

現代に生きるわれわれは「意識の連続」を重要視している。これは「いま、ここ」というありありした体験、知覚、情動、身体性などが拡がる「意識」の流れや持続が「生」だと信じているから。

なぜそのように考えるのだろうか?そこに何か前提はあるのだろうか。

それは「どう生きるか」を考えるかではないだろうか。では、人間は「どう生きるか」をどういう条件で問うのだろうか。問うているときは、ある程度落ち着いている状態だろう。思考したり反省しているのだから。そして、過去を何かしら了解し、未来にむかってどのようにするかを考える。未来をどう生きるか、とは何か。この意識状態が何かしらの経験をしながら進行していくことが想定され、そこでどのような意識状態を未来に持つのかを検討している。

また、「私」が「私」として同一であり、今後もそれが継続していくことも想定されている。だからそれをどうしていくか反省する。そのいろんな特徴の基体としての自分。反省的な状態というのは特殊だ。自分が何なのか、どう生きるかを問うときだけ出てくる状態。それ以外のときは「明日の仕事のこと」「来週の出張のこと」「家族のこと」などを漠然と了解しながら生きている。


反省している時点で、前向きに生きようとしているのは事実だ。われわれは何かよいことを今まで経験しており、それを再現するという思考で考えている。幸せな状態、快楽な状態これをわれわれの余生という時間において、できるだけ多く出現させたいというのが一般的な生き方の想定ではないか。この想定が、「意識の連続」が途絶えることを忌避させる。

しかし、そもそも「死」という概念にも影響を受けている。これも社会的なものだ。ハイデガーは「死」の本質を分析しているが、それは社会で他者の死を見て間主観的に想像しているに過ぎず、誰も体験できないものなのだ。死ぬ前にコピーで不死のロボットの身体にアップロードするような社会になれば、「死」という共同幻想はなくなり「アップロード」という一つの手続きになるかもしれない。それが痛みの質感も伴わないのであれば、過渡期を経て定着するかもしれない。現代の僕らが成人式に参加するような軽いノリで。

ということで、あまりすっきりしないが「意識の連続を重要だと思う」のもいろいろな前提、つまり人間として社会で生きてきて経験的に学ばれた判断であるとはいえそうだ。