以下の本に「フィールグッド・ステイト」にまつわる話が展開されている。とても興味深い議論なので、紹介し意見を述べたい。
 
宮台 真司  (著), 鈴木 弘輝  (著), 堀内 進之介 『幸福論―“共生”の不可能と不可避について』 (NHKブックス)  2007年 



本書の趣旨は、われわれの幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)がいかにして可能かないし不可能かを論じることである。答えが出ない問いを社会学者3人で討論し、問題に取り組み続けることの必要性を感じさせる。

さて、本筋ではないがここで一つ指摘しておきたい。本書では「幸福」をよいものとし、それをどう社会で生み出していくかというのが出発点となっている。人間社会の経験的な観念である「幸福」それ自体については問わないようだ。あくまでも「人間」を前提に考えている。

さて、本題に入る。「フィールグッド・ステイト」についてだ。

まずはソーシャルデザインについて説明する。それは、何かのターゲットを基に社会を設計すること。既に多くの国でソーシャルデザインが既に行われている。立憲制の下で国民が統治権力に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際にすでに始まっていたともいえる。

しかし、問題は「このデザインが「われわれ」の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能だ」ということ。これは、かつて社会学者や政治学者しかしらなかったらしい。公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない、という驚愕の事態である。

われわれの幸福といっても「われわれ」の範囲は恣意的で、「われわれ」内での公正や平等を測る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。コンドルセの指摘にもあるがごく特殊な条件がないかぎり、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。それゆえ、われわれは社会をそれが近代社会である限り恣意的な事実性factualityを前提としたうえで運営するしかない。このことを最も早くに理解したのがウェーバー。市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じた。 

ここで、ソーシャルデザインの一つ「フィールグッド・ステイト」について見ていこう。近代社会の正当性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャを設計しようとする流れ。そうした類のソーシャルデザイン主義だ。
 
アーキテクチャ(環境の仕組み)とは建築構造よりも広い意味である。長居する客に退店を命じるまでもなく、冷暖房の温度、BGMの音量、証明の明るさ、椅子の硬さを管理すれば、自由意志を損なうことなく、人々の行動を方向付けられる。これがアーキテクチャによるコントロール。アーキテクチャのなかで自発的に心地良さ(フィールグッドな状態)を追求することで、人々は自覚されないまま動員されていく。

先の恣意性の問題がここでも見える。アーキテクチャをめぐる情報格差。真の意図を知っているのは、デザイナー(設計者)だけだ。だがレッシグいわく、アーキテクチャをめぐる情報格差は消せない。できるのは情報アクセス可能性を開くことだけだ。だが開かれた機会が利用される保証はない。

ソーシャルデザインがわれわれの幸福へと向けたものであることは、原理的に不可能だった。「われわれ」の範囲は恣意的であり、どんな構成原理も排除と選別を前提とする。近代社会は恣意的な事実性を前提として運営される以外はない。

フィールグッド・ステイトについてまとめよう。それは、人々の心地良さを求めようとする欲求を利用することによって統治された国家のこと。ディズニーランドがそうであるように、目障りなもの、面倒なものを徹底的に隔離・隠蔽しつつ、いくつかの選択肢を提示することで快適さを演出して、統治の疑念を抱かせないようにする。

そのことの何が問題かと言えば、それはフィールグッド・ステイトを維持するための環境負荷や外部にいる貧困者たちの存在者が忘却されてしまうからであり、またステイト内部の人々が自分で物事を考える契機を奪ってしまうからである。要は「知らぬが仏」状態への危惧。

以上が、本書で述べられていることである。

問題の前者、「環境や一部の人間が犧牲になること」はあってはならない。これは議論の余地はなく正論だ。ちなみにこれは先の恣意性の問題と同じだ。設計者以外が不利益を蒙る可能性の話だからだ。これはフィールグッドの定義をはっきりさせないと議論できない。フィールグッドがあらゆることを意識に還元して、それが「よい状態」とするなら、それ以上の社会設計のターゲットはない。要するに、外部(設計者など)を気にしたりもしないほどうまく騙されているとうことだ。完全に意識に還元された「よい状態」を元に社会を作れば、恣意性の問題も解決されるのだ。そのような恣意性すらも気にしない心の習慣を作ってしまえばいいのだから。

では、後者の「ステイト内部の人々が自分で物事を考える契機がなくなる」というのはどうだろうか。 要するに新しい刺激に対処できる能力を持っておかないとまずい、とうこと。設計者もびっくりの設計外の出来事が起こったら、問題が起きるのではないか?という意味。

この「知らぬが仏」問題、これも意識状態が完全にコントロールされる社会であれば問題ない。この時点では、人間は意識経験をコントロールされるほど人工知能に知能格差を拡げられている。既に人工知能が人間を遥かに超える知能や生存能力を持っている。何か新しい刺激(宇宙人がやって来る、隕石の衝突)があれば、それを人間が気付いて対処のではなく、社会設計と運営を司る人工知能にまかせておいたほうが有効であろう。

それゆえ、私たちが向かう道はシンプルだ。あらゆる生への関与を”徹底的に”意識に還元し、これをコントロールできるような人工知能を作る、この方向に進んでいけばよい。意識ファーストである。それがどれだけ先の話になるかは分からないが。