記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2008年02月

私はこのブログでよく、私たちは「流れ」の中で生きており、価値観もそれに沿って形成されているとよくいっている。今日はこの流れを人類の歴史とともに振り返ってみる。

もう一度簡単にいつも私が言う流れの概念についてであるが、私たちは生まれ教育され社会に出て働くという決められた道筋というのは、人間が互いに平和に、より快適に生きていけることを追い求めた結果、このような流れに沿うことが最適になっているということである。
では人類の歴史を見てみよう。

猿人、原人の歴史が数100万年、新人の歴史が3,4万年、そして文明が生まれて約7千年。文明の歴史は人類の歴史の中でほんのわずかなのである。

文明の誕生は農耕の始まりと切り離して考えられない。遡ること約7千年、それまで人間は狩猟採集により生活を営んできた。それぞれ自分の住む場所で手に入る動植物を生きる糧にして生きていた。人間の暮らしは生態系と一致していたのだ。まさに自然のサイクルに合わせて生活していたのである。


農 耕が導入されて文明が始まる。今までの狩猟採集に頼っていた不安定な生活から、定住しながら一定の食料を得ることが可能になったのである。自ら生産しする 力を得たのだ。これにより社会を計画的に運営できるようになった。農業に少数の人々が従事すれば、より安定した生活を送るため、他の人々は余暇に服や家、 陶器などを作るようになるのだ。


この安定を得るために人々は集団で生活するようになり、社会が形成される。各地で作られるこのような集団(ポリス)は農作地を廻って対立することになる。ここで政治が生まれる。


政治の原理を知っておくことは人類の歴史を紐解く上で不可欠なので、「政治の教室」(橋爪大二郎著)の中でわかりやすく説明しているので以下要約した。


政治とはある範囲の人々全員を拘束してしまうようなことがあらを決めることである。政治が必要なのはそれがなければ、社会の現実を作り出すことができないからだ。もし、人々がまったく自由勝手にふるまうのではこれから何が起こるかわからない。


それをある拘束のもとにおくことで逃れられない社会の現実というものがうまれる。ちょっと不自由なことはあるけれども、人々の行動が予測可能になり、人々の生活が亜安定する。


決定に不服のある人も仕方がないと納得して、それに従うような手続きが必要になる。ある決定を誰もが納得できるためには何よりもまずこれはもう決まったことなのだとはっきりさせる必要がある。


例えば、台風が来て、みんなで使っていた橋が壊れてしまった。架け替えなければいけないが、川筋も変わってしまったので前と同じ場所には架けられない。どこに架けるかという選択肢はたくさんある。


全員が最初から一致してここに架けようとなることはありえない。どこに架けてもそれで便利になる人もいれば、遠回りになって不便になる人もいる。


これが利害というもので、社会全員を拘束することがらを決めようとするとき、必ず利害の対立が起きる。しかし、どこに橋を架けなければ誰の利益にもならない。

そこで決定に不服のある人も仕方がないと納得してそれに従うようなシ手続きを作らなくてはならない。ある決定を誰もが納得できるためには何よりもまず、これはもう決まったことなのだとはっきりさせなければならない。


この手続きのあり方によって、政治にはバリエーションが出る。それは決定の正統性がなくてはならない。人々が決まったことを決まったことと認められなくなれば、その社会は混乱する。


決定の正統性を安定させるために様々な決め方が生まれた。


その歴史を見てみる。


祭政一致。原始的な決め方は儀式によるもの。例えば、神様のお告げを聞くお祭りのようなもので、それが政治的決定になる場合。これは現在のように意思決定と手続きが別々ではなく一体のものである。

例えば神様の声を聞ける巫女さんのような人物が気を失って口走ったりし、そこから超越的な何者かの意向を読み取ってそれを共同体の意思決定にする。


超越的なものはそれぞれことなる。祖先のことである場合もあるし、動物であったり、天であったり、太陽であったり。これは決定に人々の意思が介在しないようにするためである。


これらはどれも社会の外側にあって、圧倒的な影響力を自分たちに及ぼす存在である。祖先であれ天であれ太陽であれ、人間にはどうすることもできない大きな意 思が存在する。それが儀式によって示されるとみんながこう決まったと納得できるのである。決定の正統性を確立するのには手っ取り早く確実な方法である。


その後でてくるのが、王制。簡単に言えば人々が、これは国王が決めたことだからと、その決定に従うシステム。ところが国王が暗殺され、二人の王子が後継者をめぐり戦争を始めれば、人々はどちらに従えばいいのかわからず社会は混乱する。


さらに時代が下ると、みんなの投票で決めようという考え方が出てくる。神の意思でも王の意思でもなく、みんなの意思で決めたのであるから決定は正当だと考えるようになれば、民主主義である。


以上、政治の原理の要約。


話を戻して、農耕という生産力を得て、安定した生活を求めた人間は集団行動をする必要が生まれ、政治が必要になったのである。農作地を廻り他の集団と対立する必要があり、その中で集団としてまとまる必要があったからである。


また、政治が機能し、農耕が少人数で行えるようになると、手の空いた農耕者以外の人間がさらなる生活の安定を求めて衣服、陶器、家などを作りだし、そこから職人が生まれる。


これらの農耕以外の職人の誕生により、感染や環境により死ぬことも減り、人間は次第に繁栄していく。


生活が安定してくるとさらなる安定や、娯楽を求めて新たな発明が次々と生まれてくる。


集団内では人同士が利害や憎悪から争わないように政治により法律が作られ、それらを規制しだす。当初は抜け目だらけで、改良に改良を重ね現在のような複雑な法体系ができたのである。


ここから話は飛躍するが、このような過程が進み、世界の多くの部分で比較的大きな纏まりである国というものが誕生していく。


国同士は、それぞれ自分の集団の利益を最大化すべく行動する。また、中には自分の集団が世界を制覇するような目標を持ち、次々と領土を広げていくような帝国主義も表れる。


帝国主義的な国があると、他のそうでない国も自国を守るため戦わなければいけない。こうして戦争により集団が合併、吸収されてまとまっていく。2つの世界大戦もこれらの延長上である。


こうした流れが現在も続いているのである。そして現在は150カ国か何だか知らないが、それくらいに国がまとまり、それらのいくつかの国で戦争などが未だに残っているのであろう。


こ ういった流れを復習する理由は、現在行われていることの本質を見極めたり、将来必要とされるであろう政策やビジネスを考える上で、有効になるからである。 というのも流れをそのまま受け止めて闇雲に行動して偶然本質をつく可能性は低く、広く世の中を現在と過去という垂直と平面方向で見ることで本質、原理が見 えてくると考えるからである。


ただし、現代の政治やビジネスの社会で活躍したければ、もっとミクロにここ数百年を見ていく必要があるであろう。ここまで大まかにみていては個人で何かできるレベルの改革はできない。 


そ もそも多くの人が現実を見すぎて息苦しくなっているのではないか。私はこのような本質に迫った考え方をすれば、もっと楽に現状を直視できると思うし、無駄 な萎縮や見下しなどなくなると思う。より多くのひとがこのような大きな目線で世界をみることで、もっと快適な世界を作ることができると思う。


このように本質を見極めると言っても実際、今説明したような流れよりさらに遡って考えたりする必要はあるのだろうか。ここが難しいところである。たしかにどのような経緯で現在があるかを知ることは誰もが賛成するだろう。


しかしそれは自分が生まれてからの歴史なのか、100年前なのか、文明ができたときなのか、人類が生まれた時なのか、宇宙ができたときなのか。と考えればキリがない。これは非常に難しいところである。


論理をどこで止めるかという際どい問題だ。


以前紹介した生物分子科学者の福岡氏は、100%絶対で実験することができないからどれも因果関係を断定できないといっており、現実のものすべてを疑っている。今見ているものも他の人が見ているものとは違うかもしれないなどと論理を進めているのである。


ここまで行き過ぎると何もできないということをいいたい。ビジネスにしてもスポーツにしても深く考え真理を追究することはポジティブな効果をもたらすと信じているが、それをどこまでやるかは謎である。

金融マーケットを予測するにしても、個人一人ひとりの価値観は生まれてきた環境で変わり心理状況も分からないのだから、それをまとめあげたマーケットを予測することも不可能と考えていたのでは前に進まないのである。


私の個人的な意見では今説明したような文明の起源くらいから遡れば現在起きていることのほぼ全てが説明できるし納得できる。これ以上深く掘り下げるのは科学者や哲学者に任せて、ここからビジネス界で成功できるような何かを帰納していきたい。


ちなみに私はどのように今述べた問題に対処するのかを見出し、今取り組んでいるところである。

NHKの火曜11時からやってる爆笑問題の番組は科学や哲学を扱うような番組で毎週みているのだが、おもしろい。


今日やっていたものの中で、印象的であったのは以下の話、


ある未亡人についてであるが、彼女の夫は戦死した。彼女は夫が戦場にいる間に、夢の中で夫が死ぬのをみており、実際そのときに夫は戦死していたそうだ。


ある精神分析家は、こう指摘した。夢とどう時点で夫が戦死していたのは偶然では片付けられないことであるかもしれないが、あなたはそれ以外にもこのような偶然を引き起こしていない無数の夢を見ているのである。と。


小林秀雄という批評言論家は、これを非難している。この夢と夫の実際の死は同時に起こっていたという事実であり、彼女の体験なのであるから、絶対的なものであると。これをいちいち科学的に見たりする必要はないと。


たしかにこのような超能力的なことが起きたのであれば、それはそれとしてひとつの現象なのである。


このようなことを言っていたが、ここからの解釈は小林のものとは全く違うかもしれないが、私的には同感で、人間が思ったことがすべてであり、一個人が思って納得できることはその人にとって絶対なのである。


科学云々で説明しようとするのは物理的なものだけであり、脳内で考えられていることの絶対はその人に完全に依存するのである。

ようするに、目で見えていることは全て自然の原理に従うことは同意するが、それらを五感を使って感じ、どう思考するかは、各個人の原理に従うということである。


だから天気は予想できても、金融マーケットは予想できないのだ。

先日、保田隆明さんという、もとinvestment bankerのキャリア形成についえての講演を聞いてきた。これは転職者向けの講演で3人の人材紹介会社の人やヘッドハンティング会社の方を交えトークをするものであった。

この講演で社会で働くことや社会人の熱さを感じることができたし、新しい概念を得て視野を広げることができた。気になったことをすべて関係なく書いていく。

保田さんはリーマン、UBSを経て、SNS起業や経済を解説する会社を作ったりと転職をいっぱいしている。ゲストの3人も非常に転職が多く、5回している人もいた。

彼は、自分のキャリアについて、最近つくづく自分の飽き性さを悲観するという。起業をしたときは、他とは違ったことをして、まわりと差をつけたと誇らしかったが、今考えてみると、同じことを継続できていないとも捉えることができるということ。

そして彼はずっと同じ会社へ勤め上げる人を尊敬する。なぜなら彼らはずっと自分の判断を信じ続けることができているからだという。これは私も納得したというか共感した。

彼は、話もうまく頭の回転が速いのがとても伝わってきた。しかし、何かきれいに纏まり過ぎてて、エリートすぎてというか、魅力を感じなかった。

むしろ、ゲストの3人はエリート街道でなく、やりたいこともなく新卒でどこかに入り、そこから何か楽しみを見つけて、興味をもった分野を突き進めていったような人たちであり、自虐的な話をよく使い、非常におもしろかった。所謂、普通のビジネスマンであるが、こういう人が大きく日本の経済に貢献してるのだなと実感した。

また、転職に関する講演であったため、転職の際に役立つスキルは?などという中々の質問があったが、どう答えるか楽しみに聞いていたら、新しい言葉を聞けてよかった。

それは、右脳よりの力と左脳よりの力だ。聞いただけですぐイメージできると思うが、こういった表現で見ると新鮮である。まさにわたしが養いたいのは右脳よりの力である。左脳よりの力はどんどんとコンピュータに代わっている。

そこで、回答としてゲストの方は、左脳よりの力はポータブルではなく、本当に活きるのは右脳よりなどで、まずこういう質問が出る自体、左脳よりの力しかないのである。的なことを言ってた。うまく表現するなと感心した。

また、どのような人が人材市場で、価値があるかというと?について一人のゲストが「ベタなことをできるファーム出身者」と言っていた。これも直感的に分かると思うが、さきの言い方でいうならば、右脳、左脳両方バランスよく兼ね備えた者ということであろう。

分かりやすくお笑いの例で、考えてみよう。左脳派とはトークタイプであり、明石家さんま、島田しんすけ、釣瓶、今田コウジなどである。右脳派というと発想タイプであり、それは松本ヒトシであり、板尾イツジであり、世界のナベアツである。ここで、松本ヒトシは左脳よりの力も持ち合わせているため、まさにベタもできるファーム出身者なのだ。この部類には千原ジュニアなども入ってくるのではないか。

それではビジネス界においての左脳派というと、私がよく言っているように古い仕事をする人である。弁護士、会計士、銀行マン、証券マン、経理、などなど。
右脳派とは、斬新なアイデアをビジネス化する人々、新規性のあるベンチャーである。

両方を兼ね備えているといったら、ふと思いつくのはやはりグーグルであり、またGS、トヨタなど世界で活躍する企業である。私の考えでいうと楽天などもあっさり左脳派になる。

自分のキャリアを考える上で、ベタなこともできるファーム出身者のような存在になりたい。

ビジネスにおいて、いやほぼすべての行為は文書に基ずくと言っても過言ではない。何かを伝える際には文書の形でそれらは動く。


しかし、人間の脳内で繰り広げられる概念の広がりを単純な言葉に変換し、紙にまとめる行為は元々の概念を大きく歪めてしまうし、異なるものにしてしまう。


そもそも人間は、言語を生まれてから学び、それらを使い出し始めると、ほとんどすべてを言語によって考えるようになる。この時点で、思考の幅がかなり狭められているのは間違いない。


もしも、脳内の概念をほとんど歪めることなく、意思疎通、または何かに移すことができるコミュニケーション方法が存在し、普及していたとしたら、今あるすべての世の中の有り様は全く違ったものになっていたのではないか。これらがどのようになったのかは、言語に縛られた考え方をする我々にとって不可能に近い。


ここで言いたいことは、我々の行動すべてが言語の範囲内でほぼ規制されているということ。ここで、ほぼ、という表現を使ったのは脳内では時たま言語に頼らない思考が行われることがあり、それが何かにアウトプットされることもあると言うことである。それらは大概、言語規制を超えているので、何かしらの注目を集めるものとなる。


言語と言うものはここまで人間が進歩し、現在のように整理された便利な世の中の形成に深く貢献したと言える。(これがポジティブに捉えられることか否かは読者に委ねる)

言語とは脳内での概念を他人と確実に重なるような所だけを切り取って言葉に当てはめたものである。


ただこの言語の発達により、我々は既存の言葉としての概念を繋ぎ合わせた説明により、未知なるものの概念を自分の脳内に入れることができる。


例えば、日本にいる私が友人にアメリカの文化や習慣を聞くことで私の脳内にそれらが取り込まれるのである。これの延長上にテレビやインターネットなどのあらゆるメディアが存在する。それにより、人間は自分の行動範囲以上へ想像を働かせることができる。


先にも述べた通り、人間の思考は言語にほぼ限定される。しかし、次々と新しい概念を言語伝えに脳内に吸収していけば、その思考の幅は広がっていく。


前回の記事で記述したように、人間の幸せは納得して受け入れることのできる脳内快感である。納得のプロセスはまちまちであることも述べた。例えば、電車で席を譲ったことで幸せを感じる人もいれば、大企業に勤め、年収1億を稼ぎ出しても未だに満足できない人間もいる。


これらの違いはまさに、脳内での思考の幅の違いから生じるものである。思考の幅が狭ければ、それだけ納得への到達が単純で済む。しかし、これが広ければあらゆる観点から欠点を見出し、出てきた多くの問題を克服して、初めて納得ができ脳内快感を味わうことができるのである。


私のように交友範囲も広く、浅い知識ではあるが幅広い知識を持っているものは、満足するのに相当な努力を要する。ただ、これを実行に移すか移さないかは別の話で、これはその人の心の強さが試されるであろう。このような高い目標を持っていた人間が、自分の納得を諦めてしまう時の敗北感は計り知れないものになるであろう。


ただ、思考の幅が広い=大きな成功を望むというのはいつも成り立つ訳ではない。それはその人が今まで触れてきた人々や考え(一種の思考の概念であるが)を納得し、受け入れてきた場合、また、それらの考えが大きな成功を望むものではない時には、その人にとって最適な選択をするであろう。


例えば、中学の先生に人生を救われたような子は、成長してもそこの記憶が強く残り、いくら思考の幅が広くて世界の構造を理解していても、先生の道を歩むかもしれない。これは素晴らしいことである。最近、先生の地位が下がってきているようだが、このような強い目的を持った先生に教育をしてもらいたいものである。


しかし、この思考の幅というものは新たな事実を知ることで大きく変わってしまうことがある。今まで一方的に理解してきたことが覆る事実を脳内で疑いなく理解できたときがそうなる。このようなことがあるから人生おもしろいのかもしれない。ただ、この私の言う人生の満足度の理論はほぼあらゆる人間に当てはまると自負している。


次回は、このような人の人生での満足度の枠組みが明確になった今、それをどのようにして達成していくことが賢明なのかを説明する。

私のような金融マーケットについて浅はかな知識しか持ちあせていない人間が、これらの本質を語るのは気が引けるが、自分なりの考え方を述べてみたい。


金融マーケット、株、為替、債券などのマーケットの相場は常に動いている。これらの動きを読むことは可能なのか。何故これほどまで相場を読むことが難しいのかを考えてみる。


マーケット参加者は常に自分の利益を最大化すべくポシションを取っていくわけであるが、その参加者の思考の幅は各々異なっている。


プロ投資家はできる限りの情報を集め、周りの動きを考えながら相場を読む、あるものは完全にテクニカルにのみ判断を任せる。あるものは短期で、またあるものは長期で。


プロとは対照的に、素人も多く参加する。彼らはプロほどの情報収集をしていないことが多く(努力次第ではプロ並みの情報を得ることができるがそこまで時間を割く人は少ない)、軽い気持ちでポジションを取るかもしれない。

FRB議長の発言をいち早く察そうとするプロがいる一方で、素人は全く注意を払っていないかもしれない。


さらにこれらの参加者が、常に機械的に全く同じ方針を継続しているとすれば、まだ話は分かりやすい。しかし、彼らは日々生活していく上で新しい発見や感情を体験し、彼らの考え方に変化が見られる。疲れているときや感情的になっている時なども判断が変わってくる。


このように、参加者がプロから素人までマチマチであるのもややこしいが、常に参加者自体の方針も動いていることになる。これらを完全に予想するとなると気が遠くなってします。


人は自分の思考の範囲内で行動する。というのが私の考え方であり、市場参加者の違いの根本も、その人の脳内にある概念に限定されて行動されると考えられる。それらの各人の脳内の概念の幅の違いをそれぞれ考慮し、相場を読むのは不可能である。


金融マーケットとは無数の変数の集合体である。


それはまさに世の中の仕組みと同じである。世界中には60億の人間という変数やその他の無数の生物という変数、これらは常に変化している。植物や地球それ自体常にどこか変化している。


あらゆる分野の専門家が、その分野の予想をする時、彼らはそれらの微小な変化の集合体である少し大きな流れを感じ取り、予想しているのである。天気予報を例に見ると、分子や原子レベルの些細な変化の集合体として動く、湿気、温度、風向きなどの極めて大きな人間でも分かるレベルの変化を繋ぎ合わせその方向性を読むのである。


これらの作業は、金融マーケットとなんら変わりない。統計やデータといういちおう信頼できる分子の動きを考慮して方向を定める。しかし、分子レベルでの精密な分析をするにはやはり取引の主体となる人間一人ひとりのデータがいることになる。


私は金融市場、株、為替などのマーケットは自然現象となんら変わりないものであると考える。


森に行って、木の葉が積もっている。イチョウの葉やドングリ、さまざまな種類の葉や微生物などが集合してそこに積もって、現状がある。葉を木から落ちる際、空気抵抗を受けながらその道筋を辿る。その空気抵抗や風の影響自体も、その葉っぱの形状によって変わる。ある部分が窪んでいたり、細長くなっていれば、それはそれに応じた変化を生み出す。


そして、あらゆる影響が及び、地に着く。それらが集合して現状がある。さらにそれらはこれからも常に動いている。葉っぱ同士でぶつかりあっているし、空気抵抗や、人に踏まれたりして、常に変化している。


このようにしてそこにある木の葉が積もった状態ができる。これは金融で言うところの相場ができていることとなんら変わりない。一ドル107.34という現実はこの葉っぱの積もった状態が今見えている様に見えていることと同じなのである。


この葉っぱは引力やそれに伴って起きる自然現象(風や雨)、またその他の生物や植物の影響を、あるがままに受けて存在する。それはまさに自然現象である。


この考え方を伸ばしていくと人間自体も自然現象の一環で生まれており、その人間の意志(この人間の意志とはまさに葉っぱの形状のようなもの)によって作られる金融マーケットの相場もまさに自然現象の一つである。

このような考え方は誰もが持つものであるが、普段忘れがちなのではないだろうか。私は何事をするにもこのように絶対的といえる自然の原理から遡って考えることで正しい決断ができると考えている。たしかに直感的に何かに成功する人もいるが、彼らはそのような思考が脳内に浸透していたからではないだろうか。


経済学的な考え方の基本的な仮定は

「すべての社会現象が、みずからの予想便益と費用に反応して選択行動をとる個人の行為とその相互採用から発生している」

であり、私が今述べてきたことと同じことである。


ここからどのように世の中の仕組みを捉えていくかは、未だにしっくりくるものがないのが事実である。そもそもこの前提を疑うことも考えなくてはいけないのかもしれない。

私はこのブログの中で何回か、「私たち人間は自分たちが極力平和に楽に生きていられるようなシステムを作っている」と述べた。これは資本主義であったり民主主義であったりそれに纏わる諸法律や憲法により、枠が作られ、その中で利潤を欲に従い行動するようになった結果が今の我々の生活なのである。


このような流れを作るために膨大な法律や用語などの情報が作られている。その流れを維持するためにも基礎的な知識を教育として学ばせるし、さらにそのような流れでの良し悪しを支配者は学ばせるのである。


我々が往々にして持ち合わせている価値観のほとんどがこの流れにより作られている。その流れから外れた欲望によって掻き立てられた行動が犯罪という結果になってしまう。


我々はこの流れからは抜けることはまず無理である。一人のちからでは不可能である。しかしこれが暴力により変えられようとする試みはテロか殺戮なのかもしれない。(彼らの意図がどこにあるのかは知らないが)


私もこの流れに全く逆らおうともしないし、先人たちにより幾多の諸問題(法律の抜け目を補ったり、できるだけ平和になるようなシステム、これは非常に際どいバランスである)を解決され、今の平和と言えば語弊があるかもしれないが、世の中がある。


日本や欧米など先進国と呼ばれる国だけに限定して話を進めるが、この中で、人間として凄い人になるにはどうすればいいのか。


人間を生物学的に見たなら(今の流れがなければ)、単純に生命力の強い人間が、凄いという定義に当てはまるのではないか。肉体的な強さ、戦闘において相手を圧倒するものが強いことになるのではないか。しかし、これを凄いとすること自体も、何の根拠もないのは情けない。


例えば今の話からすると、ある動物が強さで周りを押さえつること、もしくは強くなりまわりから尊敬されることが凄いというのか。


いくら強さで押さえつけようと、彼はその後も力で押さえつける必要があり、日々自分の権力を維持するために怯え、強さを維持しなくてはならない重圧に襲われるだろう。

次に、強さで尊敬を集めたほうはどうであろうか、彼は自分の強さや周りからの支持により自分自身に酔い、本能的に快感を得るかもしれない。


多くの成功、不成功などの話を耳にするが、当たり前のことを言うと、結局、人間の成功、不成功は自分自身が本能的に、脳内で快感を得られるか否かの問題であると思う。


しかし、人間は納得できることしか受け入れることができない。


自分がテストでいくつかの問題を解けなかったとして、それが誤って満点として採点され周りから評価されて、納得して本能的に喜べる人間は少ないはず。

また、この例以外にも無数に同じような状況があり、やはり納得できないことは多々ある。

就職活動などで成功や幸せの定義をさせられることもよくあるだろうが、核心を突いた答えを見たことがない。

今ここで、私が、成功や幸せ、などという誰もが定義に迷う言葉の定義を明確に示そう。

幸せとは、自分の脳内で本能的に快感を味わうことである。しかし人間は納得できることしか受け入れられないので、自分の価値観の中で外的環境、自分の行動と結びつけてしか味わうことはできない。このように幸せとは、主観的な快感なのである。


ある人が、電車で老人に席を譲り、いいことをしたと満足するかもしれない、さらに、一日中満足に浸る人がいるかもしれない。この話が事実であるならこの人は幸せだということに間違いない。


次に成功について。

成功は自分から使う主観的な成功と、他人へ使う客観的な成功がある。

自分のやったことに対する成功とはまさに、幸せと同意義になる。


一方、客観的判断が関わってくる成功とは。自分が納得でき本能的な脳内快感(主観的成功、幸せ)を味わったとしても、まわりはそれを成功とは言わないかもしれない。


先の電車で老人に席を譲る人間の話では、彼自身はその行為を疑いなく脳内快感に結び付けている。しかし、周りの人間はそれを評価し、成功だと言うかと言えば、現社会、この流れの中ではNOである。


主観的な成功とは、納得したことを受け入れることで味わう快感だとすれば、客観的な成功とは、他人の行動を客観的に事実や現状から判断して納得して受け入れて、自分の基準と照らし合わせた結果、脳内から疑いなく認められることである。


このように考えると、先の電車で席を譲った人間に対して、それを成功と認める人もいなくはないという結論になる。が、今の世の中の作られた流れの存在を考慮すると、これは客観的成功にならないケースが多いのではないか。

あるテレビ番組で無駄とは何かについて議論させていたのを見た。

ある分析哲学者はこう述べていた。
無駄は価値あることであると言うと多くの人はある観点からは賛成する。
それは、一見今は無駄と思える行動は長期的な視点から見ると新しい発見に繋がったり、
自分のある能力を養っていたりなどということでの話し。

しかし、こう考えるのは貧乏くさいと彼は言う。
無駄は無駄なのだから価値など認めなくていい。

価値を認めたらそれは無駄ではないのである。
何にも有効性のないものが無駄である。
そのような真の無駄を認める世の中でこそ多様性が認められよい世界になると。

このような無駄を収容するのは文化である。
と彼は述べたがこれに関しては論理が分からない。
分かる人がいたら是非教えてほしい。


私も実際、無駄という概念には興味がある。
みな同じ時間を平等に与えられているのは誰もが認めるであろう。

ある一時間を例にとってみよう。
Nは何もせずに一時間を漫画を読んだり、ねっころがって過ごす。
Aは将来役立つであろう米国会計制度を勉強する。

この二人は世間からは真逆と言われるが、私も同意する、ある前提のもとでは。

それは私がよく言う世界の流れがあり、それが永久に続くと仮定することである。
資本主義、民主主義、今の日本は社会に貢献するために教育され、良し悪しの基準を
叩き込まれる。その基準からすればNは何も価値を創造しておらず、Aは自分の(流れの上での)能力を高めている。

Nの行動を無駄するのが今の世界である。
Nは日本という国の属しているのであれば将来、社会に出て働き社会へ価値を生み出す義務があり、
そのために行動する必要がある。

ただ、Nがもし義務を果たした上でこのような行動をとっていたらそれは、無駄にはならない。
Nは自分の生き方を自由に選べ、日々最適な選択をして生きる。
世界の流れはよりNは仕事の精度を高めるべく時間を使うことが有用とされるかもしれないが、
その義務はなく、Nは自由に過ごすことで、その怠惰な行動を正当化している。

無駄とは役に立たないことであり、このNの行動は仕事という義務から解放され、自由な時間を過ごすというNにとっては役に立つ行動であると考えられる。

こう考えると無駄というのは今の世界でどのような時にあてはまるのか。
役に立たないこととは何か?

この議論は結論が見えないのでここで終わらせる。

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