記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2013年03月

人は皆違う環境で育ち違う考え方をする。何十億の人間がいて世界が多様性を持つ。良い者が生き残る。人は団結すれば長所を活かし短所を補うことができる。残念なことに、そこまで相手を信用するのは難しいし、そこまで多くの人と繋がる時間もない。しかし状況は変化している、世界中の全ての個人がお互いを信じ合い協力して生きていけることが見えてきている。
これまでの歴史で世界はどんどん統合化されている。これは情報の非対称性が解消されてきたからだ。産業革命の時代くらいはまだ他国の情報が少ないし、リアルタイム性もない。だからみんな何をしているかわからない他国を恐れて、自国の富国強兵を図り、戦争がおこる。1000年前を考えてみよう。日本からして外の国はどうなっているのかほとんど情報がない。どんな人間がどんな生活をしているのか。写真もないし文字情報も少ない。勝手なイメージを作るしかない。確信できるものがなく得体の知らない世界が外には広がっていると怯える。だから自分の身を守るため軍を持ち攻撃的になる。それは個人間でも同じ。最初は知らない人は警戒してしまうだろうが、徐々に相手のことが分かってくれば安心できる。
今の時代、世界中どこでも行けるし、行かなくても写真や動画、友人など情報源は山ほどある。どんどん周りで何が起きているかの情報が整備されている。情報の非対称性がなくなってきている。最近のツイッターやウィキリークはその際たるものだ。これまで発信力のなかったものや圧力により発信を控えていたものが情報を伝えることができるようになった。さらにフェイスブックなどで個人の情報がどんどん公開され他の人とどんどん繋がっていく。フェイスブックで相手のプロフィールや考えを理解できれば自然と距離は縮まる。どんどん国や個人は繋がっているのだ。
このように透明性が増してくれば、自然と国や個人は協力していくだろう。まだ国レベルでは政府のトップでどのような策謀があるのが疑問があるだろう。こうしたものもツイッターなどで除去されていくのではないか。そうすればかなり透明性のある世界になり、相互に長所を活かし短所を補うような本当の意味で団結した人間社会になるだろう。
個人はまだしも政府は実際の行動とその考えとに大きな違いがあるかもしれない。既得権益の問題はもちろん、世界征服を企てているかもしれない。そうした本当の意思が表に出やすくなっている。個人のレベルでもツイッターなどで意思を発っしつづけていると、自分の考えなどが筒抜けになる。ちょっとした嘘などつけなくなる。本来の自分が出てしまう。
人間関係からすれば、本当の相手の人間性が分かっていい。不確実性のある世の中で生きていく上で仲間が多いほうが絶対にいい。しかし誰と協力するかは、相手をしっかり理解していないとだめだ。個人単位でも国単位でも同じだ。だから、情報化社会のおかげで国の協力も増えたし、個人も多く繋がるようになってきた。国単位では資源や自国経済が最優先なので、コアの部分は共有されないかもしれないが、この情報化が進む中、世界はひとつになっていくだろう。世界中の個人が情報の発信をし、現場を伝え、地球規模で情報共有し情報の非対称性が解消されれば真の地球連邦が誕生し、個人の短所長所が生かされる世界になる。

我々が今のように自由に、安全に生きられるのは国家があるからだ。自然状態(誰もが規制なく自由に生きる)になれば万人の闘争(無秩序に個人が自分の利益を追求し他人の自由や財産を侵害する)になり何とも危険な世の中になる。国家ありきで今の世界がある。国家が現在の社会の枠組みを支えているのである。国家がなければ我々の自由はなくなる。人に自分の自由をいつでも奪われる可能性がある。みんな国家に感謝しなくてはいけない。
それでは国は何を目指して運営しているのだろうか。国は二つの目標を追いかけなくてはいけない。まず第一にできるだけ多くの国民を幸せにすること。これに異論はないだろう。そしてもう一つは世界195カ国の中で戦っていくこと。いくら国民を幸せにしても国が滅んでしまえば、また万人の闘争状態に戻る。この二つのバランスを取りながら国の運営をしなくてはならない。
現在の近代国民国家の第一の目標は国民全体が幸せに生活できることだろう。病気になれば安く質の高い医療が受けられ、働けなくなった老後には政府が面倒を見てくれ、普段生活する街は清潔で安心できる、お金を稼ぐために様々な仕事がある、などなど、政府が提供すべきサービスは山ほどある。個人の効用を総て足し合わせたものを最大化することを重視する功利主義など、この「国民全体の幸せ」の定義は色々ある難しいところだ。
なぜなら人それぞれ状況が違うし、幸せと思うこともそれぞれ違う。高速道路を一生使わない人に無料化をしても意味がないし、医療制度を充実したらみんな幸せかと思いきや、そんなことではみんな長生きして高齢化が進むから駄目だ!と不満を訴える人もいるかもしれない。要するに人の判断は全て主観的なものなのだ。
だとすると何を指標に国民全体の幸せを目指せばいいのか。それは、国民一人ひとりに自由な選択と豊富な選択肢を与えることだと思う。高速道路を作ったら車の常用者にはありがたいが、免許を持っていない人には意味がない。だったらこのような人でも「高速無料化か、だったら車を運転しよう」と思った時に安く簡単に免許をとって車を買える環境を整えればいいのだ。そうすればこの人は自由に自分の主観に従い幸せを追求できる。まあ、しかしこれでもまだ幸せの指標は曖昧なので、ここではその議論は置いておいてぼんやりとより多くの国民が安心して楽しく過ごせる環境を作ることが国の目標としよう。
次に、国の運営の2つ目の目標。国は地球という有限な資源や時間に制約されつつ、同じ製薬を受けている他国と関わりながら(競争しながら)第一の目標である国民のニーズを満たす必要があるのである。現在、国は地球上に存在する他の国々と関わりを持たなくてはいきていけない。それはグローバリズムで貿易が自由になり世界がひとつの市場になっているから、という理由もあるが、そもそも日本のように資源がない国は自給自足できないので他国と協力する必要がある。協力という見方もできるが、実際は世界の195の国の中で競争する必要がある。それは日本国内で事業をやっている会社が自社の社員を守りながら厳しい市場の競争を戦うように、国という一つの主体が世界の政治経済の中で競争を戦わなくてはいけない。例えば、国民のために日本中の美しい公園を増やそうとしてもお金がない。お金を勝手にすればインフレが起きてしまう。財源を確保するには国民や企業から税を取る必要がある。企業は海外の市場で戦わなくては生き残れない。政府はそのためにグローバルな人材を育成したり強い産業を作る国策がいるのだ。
今後、自分は日本が目指すべき道を考えていきたい。その際には、国が目指すものは今回説明した二つであることを前提にする。ちなみに、余談であるが国の運営ということに関して、「時間軸」と「地球連邦」という概念もいつかちゃんと考えたい。
時間軸についてだが、これはどのくらいの長さの時間で第一の目標である国民の幸せを追求するかということ。極論、1週間のスパンなら、国民全員に500万円などを配り、海外で遊んだり派手に使ってくれ、といえば目標は達成できる。逆に10世代も100世代も後の人間のことも考慮するのであれば、環境問題に配慮してただちに現在の快適な生活を控えなくてはいけないかもしれない。
また、地球連邦とは要するに今の国レベルの運営を地球レベルでやろうということだ。そうすれば二つ目の目標である競争の負担は減り、地球という全体でそれぞれの地域で最適な活動をさせればいいのだ。これも具体的にどのように実現すればいいのかは分からない。仮に195カ国のみんなで資金を出し合いながら確立しても、必ずどこかの国と癒着するだろうし。一番良いのは地球外に敵が現れれば地球は一致団結するだろう。


私たちにとって「ナチュラル」に映るのは、とりあえず私たちの時代、私たちの棲む地域、私たちの属する社会集団に固有の民族誌的偏見である。同じ日本人であっても地域が変わり、世代が変われば、同一の現象についての評価は一変する。半生記後の日本人が見たら、今の私たちが何気なく実践している考え方や振る舞い方が「21世紀はじめころの日本社会に固有の奇習」として回想されるに違いない。

あるイデオロギーが支配的であるとは、例えば、みんながマルクス主義を読んでいた時代ということではない。それは、マルクス主義思想や運動についての批判的記述がもっぱらマルクス主義の用語や概念を使ってしか試みられないことを誰もが変だと思わない時代。単にみんながマルクス主義的にしゃべるのに飽きた、というときに支配的なイデオロギーは終わる。

構造主義も同じことが起こりつつある。構造主義特有の用語であるシステム、差異、記号、効果、などを使って話すことにみんなが飽きるときがやってくる。

同時多発テロの後のアメリカのアフガン空爆が始まったが、当時、アメリカの立場から一方的にものを見ないで、空爆され、家を焼かれ、傷つき、殺されているアフガンの普通の人達の気持ちになって考えたら、随分違った風景が見えてくるだろうという意見が多くのメディアで紹介された。新聞の社説や投書でも知識人や政治家のインタビューでも多くの人が口にした。

戦争や内乱についてコメントする時、一方的にものを見てはいけない、両者にはそれぞれ両者が正当だと思う根拠があり、見え方が違う。という考えは今や常識である。しかしこの常識は大変若い「常識」なのだ。昔もこういう人はいたが、少数で、こういう考えをする人、受け入れられる人が国民の半数以上に達して常識になったのはこの20年くらいのことだ。

いくつか例を挙げよう。30年前、アメリカはベトナム戦争でみじめな敗北をしたが、当時アメリカとベトナムの両者の視点が違うということはほとんどのアメリカ国民の頭に浮かばなかった。アメリカにとってベトナムはドミノ理論という世界戦略のドミノのコマの一つであり、生身のベトナム人がアメリカの亜細亜戦略をどう評価しているかを真剣に配慮している政治家はほとんどいなかった。

さらに30年前、当時の大日本帝国臣民にとって、日本から見た満州国と中国から見た満州国が別物だと考えるのは常識ではなかった。ヨーロッパでも同じ。1950年代のアルジェリア戦争のとき、サルトルはフランスの帝国主義的なアルジェリア支配を厳しく断罪した。サルトルはフランス人の物の見方を相対化したが、アルジェリア人の民族解放の戦いは断固正しいと言ったわけであり、フランス政府の言い分にも等しく配慮したわけではない。

国際的紛争において、抗争している当事者のうちどちらか一方に絶対的正義があるはずだというのがその時代の常識であり、その常識はサルトルにおいても少しも疑われていなかった。

それが現在では、ジョージ・ブッシュの反テロ戦略にも一理あるが、アフガンの市民たちの苦しみを思いやることも必要ではないか、と街頭インタビューでとりあえずの無難な模範解答になった。

構造主義の定義を一言で言うと次のようになる。私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから私たちは自分が思っているほど自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に見せられ、感じさせられ、考えさせられている。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除したものは、そもそも私たちの視界に入ることがなくそれゆえ私たちの感受性に触れることも、思索の主題になることもない。私たちは自分では判断や行動の自律的な主体であると信じているが、実はその自由や自律性はかなり限定的なものである、ということを徹底的に掘り下げたことが構造主義の功労。

こうしたことは誰でも考えたことはあるのではないか。このようなことが常識であり、段々みんながこのイデオロギーに飽きてきた今の時代をポスト構造主義の時代という。


   

国力とはなんだろうか。国の目標は、国民を幸せにすることと、そのために他国との競争に勝つことだと以前書いた。それでは、国力とはこれらを達成するための源泉の力だと言える。
中野氏の著書「国力とは何か」に国力を理解する上で重要な2つのパワーについて書いてあった。「他社に対する力」と、「何かをするための力」である。まず、他社に対する力。イコール支配力。ある国が軍事的、平和的な手段によって他の国々に対して行使する強制力。他国がさもくなくばしないであろうことをさせることができること。この他社に対する力=支配力は、政治機構や法制度としてのステイト(ここでいうステイトや後ほど出てくるネイションの定義は以前のエントリーを参照ください。)が行使するもの。経済でいうと金の力であり、金で資源を獲得したり相手にいうことを聞かせたりする。
次に、何かをするための力。イコール能力。経済的な生産力や知的な創造力。秩序だった集団行動、協力行動の中で働いているものであり、組織や共同体が自ら維持する求心力のこと。この求心力が共同体の存在に必要不可欠であり、この力のない集団は単なる個人の集合であり、共同体ではない。共同体があるところにはこの能力が存在している。共同体が自らを維持する能力であり、共同体であるネイションの中に宿るもの。経済でいると生産力や技術開発力。
ネイションの最大の目的はネイションという共同体の維持と発展にある。要するに国民がずっと幸せでありつづけるということ。そのためには、国としての能力(何かをするためにお力)が基本にあって、それを維持するために世界の国々の間で国の能力と他者に対する力を使って戦っていく必要があるのだ。
アメリカなどは「他者に対する力」を重んじ過ぎている感がある。これは国際資本主義と呼ばれる。イコールstate capitalism。国家が政治的利益のために市場を支配するシステム。共産主義のように市場を否定するのではなく、むしろ国家が市場のプレイヤーとなり市場を支配し、国家収入を増やそうとする。典型例は中東やロシアなどの国有会社や政府系ファンドである。本来、国はネイションの維持と発展を目的とし、ネイションの能力として国力の強化を目指すべきである。それに対して、国家資本主義はネイションの利益ではなくステイトの財政収入を目的とするものであり、政府系ファンドなどの組織を通じてステイトの支配力を強化し世界市場から富を奪おうとするシステム。両方とも国のための行為に見えるが、国家資本主義は国家を支配する王族や特権階級のためである。
経済学者の中野氏は以下のように定義している。「真の国力とは人々を動員し協働させることによって何かを創造し、成し遂げるためのネイションの社会的な能力のこと。言い換えれば、ネイションという共同体を維持し、発展させるためにネイションの中で働いている力が国力の本質。」この考えをもとに日本の現状や進むべき道を今後考えていきたい。

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