記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2013年04月

自分は将来的には自分で事業をやっていきたいと思っている。ただ、これを人に言うと、「起業することが目的になってるのっておかしくない?やりたいことがあって既存の会社ではできないから起業するのが普通でしょ。」みたいなベタなことを言われることがある。起業といっても様々なパターンがある。以下の7つタイプとそれぞれの組み合わせでほぼ全ての起業の理由をカバーできるのではないか。
(A) 社長になりたい人(地位)
「社長=かっこいい」的に考えて起業するパターン。肩書きがほしいだけ。モテたい、ちやほやされたい人。
(B)自分の裁量で色々やりたい人(働き方)
自分のペースで自分の計画通りに働きたいパターン。また、自分で組織を作ったり、働き方をデザインしたい人。
(C)やりがいを求める人(自己実現)
登山家がエベレストを目指すように、ビジネス界なら起業して世界を目指すというパターン。
(D)何か新しく面白いことをやりたい人(エンターテイメント・自己表現)
自分の個性で今までになかったような面白い商品やサービスを作りたいというパターン。
(E)社会を変えたい人(問題意識)
貧困や紛争など社会的な問題を解決したいというパターン。
(F)それ以外方法がない
やりたいことを実現する上で、既存の会社では実現できる方法がなく、起業するしか無いパターン。
(H)仕方なく起業
会社に雇って貰えないので仕方なく自分で職を作るパターン。
上述の人への自分の答えとして、自分はどうして起業したいのかといえば、(B)と(D)で、組織を自分で作り働き方を作りたいのと、今までになかった面白いことをしたい、ということ。ただ、未だに具体案はない。正直今は中国で新しいものに触れている毎日が楽しい。こうして広がった世界観を活かしていつか面白いことをしたいが、いつになるかは分からない。50歳になってからかもしれないし、2年後かもしれない。
HPが創業したガレージ。シリコンバレー。
(写真は2007年に訪れたHPが創業したガレージ。シリコンバレー。起業繋がりで。)

こういう経験は多くの人がしているはず。これから起こる楽しいことをボンヤリとまとめ、それに期待する。また、過去を振り返る時にも旅行中の特定のイベントというよりは、その全体をまとめて振り返る。
三島由紀夫の言っている美とは主観的なもので、現実の客観的なものを超えてしまう。簡単な例で言えば、明日の運動会が楽しみでワクワクするが、当日実際にやっているときはそれほどでもない。でもさらに後々運動会を全体として振り返ってみるとやはり楽しかった。実際の現実より、時間を置いてそれ全体をイメージした時のほうが魅力があるのだ。三島の金閣寺では、金閣寺に期待を寄せすぎた者が、思い抱いていた金閣寺が現実より劣っていることに絶望した。
イチローは凄い。間違いなく日本でもっとも尊敬されている人の1人だ。でも彼が近くにいて何を思うか。彼と仲良くなって何日か一緒にいたら人としてダメなところや弱いところも見えてくるだろう。そして段々と理想のイメージが薄くなっていくだろう。遠い存在だから魅力がある。イメージならではの価値があるのだ。
ビジネスやコミュニケーションでもこの考え方は役立つ。考えや意見を伝える方法はいくらでもある。詩でも論文でも小説でも写真でも映画でも。しかし、長い文章や表現から発されるメッセージは、そのメッセージの本来の強さを消してしまう。他方、日本の俳句や墨絵、YOUTUBEの動画など短期間でメッセージを送信できるものはそうしたメッセージを伝えやすいのかもしれない。
人と話していても、論理的に長々話されるよりも、態度や言い方などを使って短くまとまった話はインパクトがある。コミュニケーションの大半がノンバーバルだということが良く分かる。広告などはこうしたイメージを活用している。短くインパクトのあるメッセージで受信者をひきつける。CMをみてワクワクしてIPADを買っても、それを使ってるときなどに、もう、そのワクワクはない。
成功しているアーティストはこのイメージを作るのがうまいのだ。さきの運動会のワクワクは頭の中にあっても表現するのは難しいが、その幅広くあいまいな概念を絵や短い文で表現できればそれは凄い。ようするに受信者の頭の中にイメージを起こさせる力をアートでは試されているのだろう。iPhoneよりもAndroidの端末の方が使い勝手がいいこともあるが、iPhoneが総合的にユーザーにイメージさせるボンヤリしたものは他のどの競合よりも優っている。


以前、構造主義の意味について説明したが、このように自分の思考や判断はどのような特殊な条件により成り立っているのかを問い詰め、それを日常の生き方にリンクさせる道筋を発見した最初の例はカール・マルクス(1818-1883)の仕事だった。意外だが、構造主義の源流の一つは紛れもなくマルクスである。以下は彼の考え。

人間はどの階級に属するかにより、モノの見え方が変わってくる。この帰属階級により違ってくるモノの見え方を階級意識という。ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的違いで区別されるわけではなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのものを異にする。

普遍的人間性を否定。人間の中心に人間そのものの普遍的人間性があれば、その人がどんな身分や社会的立場にいても変わることはないだろうが、マルクスはこのような伝統的な人間観を退けた。人間の個別性をかたちづくるのはその人が何者であるか(存在することに軸足を置いた人間の見方)ではなく、何事をなすか(行動することに軸足を置いた人間の見方)によって決定される。

存在することとは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者の立場に甘んずること。大切なのは自分のありのままに満足するのではなく命がけの跳躍を試みて、自分がそうありたいと願うものになることである。普遍的人間性とは存在しなく、あるとすれば現実の社会関係におちては、現状肯定であり、行動しないことを正当化するイデオロギーである。

人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物がその作り手自身が何者であるかを規定し返す。生物関係の中で作り出したものを媒介にして、人間はおのれの本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本。この作り出す活動は「労働」と呼ばれる。人間は生産=労働を通じて何かを作り出し、制作されたものを媒介にして、いわば事後的に人間は自分が何者か知ることになる。ちょうど透明人間の輪郭が彼が通過して割られたガラス窓の割れ具合からしか分からないように。

労働による社会関係に踏み込むに先んじて、あらかじめ本質や特性を決定づけられた私は存在しません。というか、それらが直観されることはない。というのも、私を直観するには、他人の中に投げ込まれた私を風景として眺めることによってしか成就しないから。それは子供のいない人に内在する親の愛や、弟子を持たない先生に内在する師としての威徳みたいなもの。潜在的にはあるかもしれないが、現実の人間関係に置かれないと検証できない。

ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで作り出した意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は主体の存在にではなく主体の行動のうちにある。中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という天動説的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの絡みあいとして主体は形成されるという地動説的な人間観へ移行、それが20世紀の思想の根本的な趨勢。

このページのトップヘ