記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2013年10月

元リクルートの藤原さんの本を上海の古本屋で非常に安くゲットしたので感想を書く。2時間くらいでさっと読める感じだが内容は濃い。特に印象に残ったところを紹介する。「>」は本に書かれていることで。「→」が自分の反応。

>大義があることを行えば、自然と支援してくれる人が現れる。できるだけ無謀なことをやってみる。それが無謀であればあるほど、応援してくれる人は現れる。

→これは、私もそう信じたいし、何となく理解できる。自分も中国に来た時は、多くの人から励まされた。大義のあることを早く実行できるよう日々勉強あるのみだ。

>ピーターの法則。あらゆる組織は無能化する。時が経つに従い、階層社会の全てのポストはその責任を全うし得ない従業員によって占められる傾向がある。

→たしかにそうだ。これは昇進がインセンティブになっているから起こる事態であるが、サラリーマンという働き方上、それしかないのが事実だ。

>あえて自分で危機を演出してきた。エネルギーカーブを大きく上昇させたかったから。
→これは、あまり自分では意識していなかったが、自分は自然とやってきた。就職せずにオーストラリアへ留学したのも、大企業をやめて中国のベンチャーに来たのもそうだ。そうしなかった場合と比較はできないが、大きく成長したと自負している。今後も危機を演出したい。

>自分なりの豊かさを定義する。フランスン人の信条、アール・ド・ヴィーヴル。国よりも産業社会よりも自分自身と人々の関わりを大事にする。日常の中にちょっとした喜びを発見し、コミュニケーションし、それを楽しむ。彼らは食事を大切にし、会話を大事にし、そこで幸福を共有する時間を極めて大事にする。日常のささいな事象の中にこそ幸せの本質があると考える彼らの生き方に感動させられた。これらが完全に人々に浸透している。

>(藤原さんは)日本はやがて成熟社会になると思いフランスに行った。成熟社会では、これをやっていればいいというみんなが追いかける一般解や目標はあまり意味がなくなる。自分が何を追いかけたいのかが問われる。一人ひとりがそれを問われる、すなわち哲学が必要になる。なぜパリの人は人間と人間のコミュニケーションにこどぁるのか。フランス人の人生観は、人は生まれてから死ぬまで結局他人とは完全には分かり合えないという絶対的孤独な人間観が深く横たわっているのでこれが成熟社会の基本認識なのではないか。だから分かり合えない者同士がともに幸せに生きるために何ができるかを考える。美味しい食事、知的な会話、人が幸福を共有する時間を大切にする。そうした方法を常に模索している。日本のようなわかりやすい社会的に画一化された価値観は便利だが、何も考えずに正解と世間が認める価値観を受け入れそれに向かえばよかったから。

→これは、一番印象に残った内容だ。先進国ってそういうことだと再認識した。経済的に恵まれても物欲は尽きることはない。どんな環境でも人の主観で感じることは相対的なことであり、金持ちでもホームレスでもその人が感じる幸せは比べられない。それをみんな理解して、自分が楽しいと感じられることを追求する姿勢が根付いているのは素晴らしい。日本は経済的な成功を求めすぎなので、経済大国になれた。

>宗教は癒やしや免罪、背中を押して貰う行動をとるための道具。日本ではそれがブランドのコミュニティが受け持っている。

>善悪を教えるのに宗教と協会の力を借りずに、自分の家の教えや学校教育だけで行うのは難しい。日本人も何か大きな力で正しいことを正しいと伝えたい気持ちがあるだろう。

>日本は無宗教という宗教。これは現世御利益の宗教で、教義は頑張る教。天国とか来世と言われても今と関係ないなら不用となってしまう。

>パリの人は食事の時の会話を人間関係の基本と考えているので、テレビはリビングにないのが基本。
→私が子供の頃はテレビ中心だったのが心痛い。むしろ、テレビが聞こえないから静かにしてくれと親に言ったことすらあった。

>人生において、経済的でない価値は自分にとって何か。
使命感、名誉、ブランド、仲間、コミュニケーション、社会貢献、家族との時間。

>外国人に分かるように履歴書を書いてみよう。
→要するに、こういうプロジェクトに関わっていた、責任者だった、などと言っても何なのか分からない。ちゃんとどんな役割をして、どういう能力を発揮し、どのように再現できる可能性があるのかを明記する必要がある。私も自分の履歴についてやってみようと思うが、結構しょぼくなりそうだ。

>人がコミュニケーションするとき、相手が傷つくことや自分が傷つくことを恐れて個人的なことを話さない人もいるが、相手のことを知らないと相手にきちんと刺さるコミュニケーションが取れない。

>ヨーロッパでは夫婦で何事にも出席する。夕食やパーティーなどのイベントなど。これは、信頼関係づくりだと藤原さんは理解した。お互いの人柄をパートナーにも評価してもらう、そしてお互い再度リスペクトし合う。そして信頼できると思えば、さらに一歩信頼を深め、子供を含めた家族くるみの親交となる。

>また、属するコミュニティでの活動が相手の評価の尺度になることが多かったらしい。自分の所属する会社や仕事以外に、教会や学校を中心とする地域社会や別に所属集団が必ずあり、それにまつわる話題が多い。地元の野球教室でこうしている、図書館でこんなことしている、など。こうしたことも相手の評価基準のようだ。

>夫婦で行動するのは、処世の知恵。一人で何か感じるより二人で体験し感想を語り合うほうが、豊かな生活に結びつく。唯我独尊に陥らなくなり、コミュニティにも入って行きやすい。一人のお気楽な聴衆ではなく、二人の責任ある参画者。

→なるほど。すげーな、先進国と素直に思った。真があるな。

>マイナスの話をしよう。
やはり自慢話は誰にも聞かれないし、逆に悪い印象を与えてしまう。するなら失敗談をしよう。

>社会貢献。地域コミュニティ。
→こういうことしないと本当に幸せを長く感じることできなそうだな。


以前、構造主義の意味について説明したが、構造主義は誰か一人が定義したイデオロギーではなく、時代とともに人から人へ考え方が揉まれてだいたいの形ができたものだ。今日は構造主義に寄与した人物の考え方を学ぼう。基本著作権を放棄している内田樹さんの本の内容のまんまである。

(1)カール・マルクス
(2)ジグムント・フロイト
(3)フェルディナン・ド・ソシュール
(4)フーコー
(5)ロラン・バルト
(6)レヴィ・ストロース

(1)構造主義の源流、カール・マルクス
自分の思考や判断はどのような特殊な条件により成り立っているのかを問い詰め、それを日常の生き方にリンクさせる道筋を発見した最初の例はカール・マルクス(1818-1883)の仕事だった。意外だが、構造主義の源流の一つは紛れもなくマルクスである。以下は彼の考え。

人間はどの階級に属するかにより、モノの見え方が変わってくる。この帰属階級により違ってくるモノの見え方を階級意識という。ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的違いで区別されるわけではなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのものを異にする。

普遍的人間性を否定。人間の中心に人間そのものの普遍的人間性があれば、その人がどんな身分や社会的立場にいても変わることはないだろうが、マルクスはこのような伝統的な人間観を退けた。人間の個別性をかたちづくるのはその人が何者であるか(存在することに軸足を置いた人間の見方)ではなく、何事をなすか(行動することに軸足を置いた人間の見方)によって決定される。

存在することとは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者の立場に甘んずること。大切なのは自分のありのままに満足するのではなく命がけの跳躍を試みて、自分がそうありたいと願うものになることである。普遍的人間性とは存在しなく、あるとすれば現実の社会関係におちては、現状肯定であり、行動しないことを正当化するイデオロギーである。

人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物がその作り手自身が何者であるかを規定し返す。生物関係の中で作り出したものを媒介にして、人間はおのれの本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本。この作り出す活動は「労働」と呼ばれる。人間は生産=労働を通じて何かを作り出し、制作されたものを媒介にして、いわば事後的に人間は自分が何者か知ることになる。ちょうど透明人間の輪郭が彼が通過して割られたガラス窓の割れ具合からしか分からないように。

労働による社会関係に踏み込むに先んじて、あらかじめ本質や特性を決定づけられた私は存在しません。というか、それらが直観されることはない。というのも、私を直観するには、他人の中に投げ込まれた私を風景として眺めることによってしか成就しないから。それは子供のいない人に内在する親の愛や、弟子を持たない先生に内在する師としての威徳みたいなもの。潜在的にはあるかもしれないが、現実の人間関係に置かれないと検証できない。

ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで作り出した意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は主体の存在にではなく主体の行動のうちにある。中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という天動説的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの絡みあいとして主体は形成されるという地動説的な人間観へ移行、それが20世紀の思想の根本的な趨勢。


(2)構造主義の源流、ジグムント・フロイト

ユダヤ人学者であるジグムント・フロイト(1856-1939)もマルクス同様に構造主義の源流を作った人物である。マルクスは人間の思考を規定するものとして、人間を巻き込む生産=労働の関係に注目したが、フロイトは逆に人間の内側にある領域に注目。人間が直接知ることができない心的活動が人間の考えや行動を支配している。当人には知られず、にも関わらず、その人の判断や行動を支配しているもの、それが無意識。

マルクスは人間は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考しているということを看破、フロイトは人間は自由に思考しているつもりでも実は自分がどのように思考しているか思考の主体を知らないということを看破。その事実をもっとも鮮やかに示すのかフロイトの抑圧のメカニズム。

抑圧とは、ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすること。例として、2つの部屋とその間の敷居にいる番人で語った。

(無意識の部屋)
広い部屋で様々な心的動きがひしめく。
(意識の部屋)
それより狭く、ずっと秩序だっていて、汚いものや危ないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっている。
(番人)
そして2つの部屋の敷居のところには番人がおり、個々の心的興奮を検査し検閲し、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにする。この番人の機能を抑圧という。

これが示唆することは、2種類の無知である。一つは番人がいったいどんな基準で入室してよいものといけないものを選別しているのか。そして、もう一つはそもそも番人がそこにいてチェックをしていること自体を私たちは知らない。このような構造的な無知により、私の意識は決定的な仕方で思考の自由を損なわれている。

私たちは自分を個性豊かな人間であり、独特の仕方でものを考えたり、感じたりしているつもりだが、その意識活動プロセスにはある心的過程から構造的に目を逸らし続けているという抑圧のバイアスが常にかかっている。

(3)構造主義の父、フェルディナン・ド・ソシュール

1907-1911にスイスのジュネーブ大学で一人の言語学者が少数の言語学者と学生を相手に、一般言語学講義という専門的講義をしていた。それが、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)であり、思想史的には構造主義を始めた人とされている。

彼の重要な知見は、「ことばとはものの名前ではない」ということだ。ギリシャ以来の伝統的な言語観によればことばとはものの名前である。例えば聖書では、神と人間により、生物やあらゆるものに名前が付けられた、としている。まず、ものがあり、ただ名前がついていないだけなので、人間がこちらの都合であとから名前をつける、これが昔の言語観であり、名称目録的言語観、カタログ言語観といわれる。

しかし、この言語観は問題のある前提の上に立っている。それは名付けられる前からすでにものはあった、という前提。まだ名前を持たないで、名前をつけられるのを待っているものは実在しているといえるのだろうか。名付けられることによってはじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の名前を持たないものは実在しない、ソシュールはそう考えた。

もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずだが、現実はそうではない。羊はフランス語でムートンだが、英語にはフランス語のムートンに対応する語が2つある。シープは白くてもこもこした生き物で、マトンは食卓に出される羊肉。これはフランス語のムートンに相当する包括的な名称が英語に存在していない。

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るようにもともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えた。言語活動とは既に分節されたものに名を与えるのではなく、満点の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのもの。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことである観念が私たちの思考の中に存在するようになる。

なので、私たちがあることばを用いる限り、その都度自分の属する言語共同体の価値観を承認し、強化しているということを私たちにはっきりと知らせた。普通に母国語を使って暮らしているだけで、私たちはすでにある価値体系の中に取り込まれているという事実だ。


(4)フーコー
あらゆるものにはそれぞれ固有の誕生日があり、誕生に至る固有の前史の文脈に位置づけてはじめて、何であるかが分かるということを私たちはつい忘れがち。自分のみているものは、もともとあったものであり、自分が住んでいる社会は昔からずっと今みたいだったのだろうと勝手に思い込んでいる。フーコーはこの思い込みを玉砕することを目指した。

ある制度が生成した瞬間の現場、つまり歴史的な価値判断がまじり込んできて、それを汚す前のナマの状態ことを、のちにロラン・バルトは零度と呼んだ。構造主義とはひとごとで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における零度の探求である。

歴史の直線的推移というのは幻想だ。現実の一部だけをとらえ、それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限り、歴史を貫く線というようなものは見えてこない。選び取られたただ1つの線だけを残して、そこから外れる出来事や、それにまつろわない歴史的事実を視野から排除し、切り捨てる眼にだけ歴史を貫く一筋の線が見える。

分かりやすい例として、内田樹さんが挙げている例は、彼はよく庄内藩士内田家の末裔だと名乗るそうだが、その場合、母親からすると何で母方の血の方は無視するの?となってしまいます。4人いる祖父母のうち三人を除外し一人だけを父祖に指名しているのである。同じように私は純血の日本人だと言っても、何十代か遡れば私の祖先には外国人の血が含まれているはずだ。日本人が日本人と主張する裏には膨大な数の血縁者を己の系統から組織的に排除していることになる。

内田樹さんによるフーコーが言いたいことは、「私はバカが嫌いだ。」

(5)ロラン・バルト

記号学。ソシュールは記号を以下のように考えた。トイレの入口に紳士用であることを示すしるしとしてスーツを着た人型のシルエットが描いてあるが、これは象徴と呼ばれる。象徴はそれが指示するものと、どんなわずかであれ何らかの現実的な連想で結ばれている。一方、記号とは何の結びつきもないもの。この例で言うと「紳士用」という文字、これが記号である。しるしと意味にお間にはいかなる自然的、内在的な関係もなく、そこにあるのは純然たる意味するものと意味されるものの機能的関係のみ。例えば将棋をさしていて、歩が一個無くなってしまった場合、その場のみかんの皮をちぎってその切れ端を将棋盤に置いても、対局者が取り決めでOKなら将棋は進行する。記号とはある社会集団が制度的に取り決めたしるしと意味の組み合わせのこと。

言語だけでなく、礼儀作法も服装も料理も好きな音楽も載っている車も住んでいる家もすべては記号として機能する。記号学とは私たちの身の回りのどんなものが記号となるのか、そんなメッセージをどんなふううに発信し、どんなふうに解読されるかを研究する学問。

こうした定義の記号学を実際に展開し、我々がおよそ眼に触れる限りの文化現象を記号といして読み解いたのがロラン・バルト。彼の多彩な記号学的知見のうち、今回は「エクリチュール」と「作者の死」という概念を説明する。

エクリチュールについて。私たちの思考や経験の様式は私たちの言語に多く依存しているので、用いる言語が違えば、それに応じて思考や経験の様式も変わります。私たちが母国語で自由に語り好きに書いていると信じているときでも、それと気付かずにある不可視の規則に従って言語を運用している。

バルトはの不可視の規則に2つあるとした。ラングとスティルである。ラングとは日本語とか英語とかイタリア語とか国語である。日本人なら日本語の文法に従い、日本語の語彙を用い、日本語に登録されている音を発音する。

ラングは外側からの規制だとすると、それとは別に内側から私たちの言語運用を規制するものがある。それは、スティルと呼ばれ、文体みたいなもので、話す時なら速度、リズム、音感、韻律、息遣いなどなど、書く時は文字の見栄え、比喩、文の息の長さなどなど、どれについても人にはみな個人的な傾向がある。これはその人の好みや傾向としかいいようがない。これは一人ひとりの身体に深く根を下ろしたもので私たちの語ることば書く言葉すべてに指紋のように残る。

ラングは外側から、スティルは内側から2つの見えざる規制として、私たちのことばを統御している。しかしバルトはこの他に第三の規制を発見する。それがエクリチュール。ラングにせよスティルにせよ、それは私たちは選べない。変えようとしてもほぼ無理であるが、そこではある種のことばつかいを選択することが許される。このことばつかいをエクリチュールという。

スティルは個人的な好みや傾向だが、エクリチュールは集団的に選択され、実践されるものだ。例えば中学生の男の子がある日思い立って一人称をぼくからオレに変更したとするとこの語り口の変更は彼が自主的に行ったもので、選ばれた語り口は少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用していたものだ。それを少年がまるごと借り受けることになる。このオレへの一人称の変化はそこでとどまらず、たちまち彼のことばつかい全域に影響を及ぼす。発生も語彙もイントネーションも字体も、みな変化する。それどころか髪型も服装、生活習慣、身体運用にいたるまで少年はオレという一人称にふさわしいものに統制する無形の圧力を感じずにはいられない。くまちゃんのパジャマなど着て寝るわけにはいかなくなる。)エクリチュールとは書き手がおのれの語法の自然を位置づけるべき社会的な場を選びとることである。

私たちはエクリチュールの囚人である。バルドが言うのは、エクリチュールが自由であるのは、ただの選択の行為であり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはやじゆうではなくなっている。例えば、ある人がおじさんのエクリチュールで語り始めるや、彼の口は彼の意思と関わりなしに突然、現状肯定的でありながら愚痴っぽいことばを吐き出す。教師のエクリチュールならとたんに説教臭く、高飛車な人間になる。同じようにヤクザはヤクザのエクリチュールで語り、営業マンは営業マンのエクリチュールで語る。そしてそのことばづかいはその人の生き方全体をひそかに統御している。

バルドが警告しているのは、あまりに広く受け入れられたせいで特にどの集団固有のエクリチュールとも特定がしがたくなった語法の危険性である。覇権を握った語法とはその社会における客観的なことばづかいであり、主観的な意見を述べたり個人的な印象を語ったりするのではなく、客観的に私情を交えずに、価値中立的に語っているつもりで使う時のことばづかいである。バルドはそのような一見価値中立的に見える語法が含んでいる予断や偏見に注意を促している。

さらにバルドの業績は、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではない。テクストのほうが私たちをそのテクストを読むことができる主体へと形成してゆく。たとえばアメリカ映画のパール・ハーバーを見ている日本人は、ひたすらアメリカ飛行士の勝利を念じ、零戦の撃墜を願う。映画ドラゴン怒りの鉄拳では悪逆非道な日本人武道家を蹴り殺すブルース・リーの活躍に熱い拍手を送る。テクストと読者のあいだにこのようなからみ合いの構造があることにきづき、それを批評の基本原理に鍛え上げたこと、である。

テクストも読者もあらかじめ自立した項として、独立に存在するわけではない。例えば本を最後まで読んだ後、すぐにもう一回始めから読みなおした時、二度目には一度目に気が付かなかったことを読み飛ばしていた意味を発見することがあります。なぜ最初は見落としたものを二回目は発見できたのかというと、一度最後まで読んだせいで私の物の見方に微妙な変化が生じたからである。つまりその本から意味を見出すことのできる読める主体に私を形成したのはそのテクストを読む経験そのものだった。テクストと読者のそれぞれがお互いを基礎づけあい、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズムに基いてバルトはテクストについてのまったく新しい理論を紡ぎだすことになった。

バルトのこのテクスト理論は作者という近代的な概念の衰退を始めさせた。30年前から既にコピーライトというものを原理的に否定する立場にしていた。作品の起源に作者がいて、その人には何か言いたいことがあって、それが物語や映像や音楽を媒介にして読者や鑑賞者に伝達される、という単線的な図式そのものをバルトは否定した。コピーライトという概念はその生産物が単一の産出者を持つという前提がないと成り立たない。作者とは何かをゼロから創造した人。聖書的な伝統に涵養されたヨーロッパ文化において、それは造物主を模した概念である。誰かが無から創造をなしとげたのであれば、創造されたものはまるごと造物主の所有物である。

近代までの批評はこのような神学的信憑の上に成立していた。つまり作者は作品を無から創造した造物主であると。なので、単に作品から生じた利益が作者に印税としてリターンがあるだけでなく、作者こそが、その作品が何を意味しているのかを完全に理解し、作品の秘密を専一的に握っていると考えられた。ならば批評家は、必ずこの神に向かって、あなたはいったいこの作品で何を表現したかったか?と問う。これが近代批評の基本スタイルである。

しかし批評家たちはすぐにその仕事がみのりのないものだということに気づいた。調べてみると作者たちは必ずしも自分が何を書いているのかはっきり理解していないからである。言語を語る時に人は必ず、記号を使いすぎるか使い足りないか、どちらかになる。過不足なく言語記号を使うということは起こりえない。言おうとしたことが声にならず、言うつもりのないことが漏れでてしまう。それが人が言語を使うときの宿命である。

そこで批評家たちは、しかたなく作者がそれときづかずに語ってしまったことに昇順を合わせた。作者の家庭環境、幼児体験、読書経験、政治イデオロギー、宗教性、性的嗜好、などが今度は作品の秘密を教えてくれるようになる。こうなると批評家の仕事は読解を通じて作者を書くことへと動機付けた「初期条件」を探し当てることになる。

バルトはこの原則を退けた。バルトはそもそもテクストが生成するプロセスには起源=初期条件が存在しないと言い出した。そのことを言うため、バルトは作品ということばを避けてテクストということばを選んだ。テクストとは織物という意味。ひとつのテキストが出来上がるには無数のファクターがある。媒体からの主題や文体、紙数の指定、同時代的な出来事、他のテクストへのきづかい競合心、それぞれのファクターはてんでに固有にふるまっている。それらが絡まりあい、いつの間にかテクスチュアに織り上がる。

何のためにこれを織り上げたのかと限定的に問うことはそれほど意味のあることなのか。今後私たちは、この織物は生成的なものであるという考え方を強調すべきだ。すなわちテクストは終わることのないからみ合いを通じて自らを生成し、自らを織り上げてゆくという考え方。

以下バルト「作者の死」より
「テクストは様々な文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とはこれまで信じられてきたように作者ではない。読者である。テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。読者の誕生は作者の死で贖わなければいけない。」

テクストの生成運動のうちに名声でも利益でも権力でもなく、快楽を求めたバルトの姿勢が分かる。

ここで解説している内田樹さんは、作家やアーティストたちがコピーライトを行使して得られる金銭的リターンよりも自分のアイデアが全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方が望ましい、それはバルトの姿勢を受け継いでいると述べる。

内田樹さんによると結局バルトが言いたいことは、「人はことばつかいで決まる。」


(6)レヴィ・ストロース
フランスの人類学者。世界中のすべての言語音が12ビットで表現できるように、世界中どこでも親族の基本構造は2ビット表現できるという仮説を立てた。これにより2つ示唆される。まずは人間は二項対立の組み合わせだけで複雑な情報を表現するということ。もう一つは私たちが自然で内発的だと信じている感情(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は社会システム上の役割演技にすぎず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違うということ。夫婦は決して人前で親しくしないことや父子は口を利かないのが正しいという親族関係がある社会集団が存在している。


私たちは人間が社会構造を作り上げてきたと考えてきた。親子兄弟夫婦の間には自然な感情がまずあって、それにもとづいて私たちは親族制度をつくりあげてきたのだ、と。しかしレヴィ・ストロースはきっぱり否定した。人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す。何らかの人間感情や合理的判断にもとづいて社会構造を作り出しているのではく、社会構造は私たちの人元的感情や論理に先立ってすでにそこにあり、むしろそれが私たちの感情や論理の文法を事後的に構成している。それ故、私たちの生得的な自然さや合理性に基いて、社会構造の起源や意味を探しても決してそこにはたどりつけない。

構造主義について以前説明したが、構造主義的に考えて、我々の価値観は常に変化しており、常識も時代ごとに違う。今日は500年前の価値観、重商主義を見てみよう。

15世紀から18世紀末にかけて欧州諸国が展開した経済政策。アダム・スミスが用いた言葉。この期間は大航海時代から産業革命、市民革命にあたり、軍事力を使い、欧州列強が先を争い植民地を形成し、世界制覇を目指していた時代。中世から近代への転換期で資本主義の形成期。資本主義の転換で利益を得る人と損をする人の利害対立。

重商主義の特徴は2つ。
(1)国の富の増大は、外国との貿易において黒字を出すことによってのみ得られる。
(2)そのためには国家による保護と統制が必要。

スペインとオランダの重商主義。封建勢力と結びつきが強かった重商主義国家では中継貿易を行っていた。おれはある国から安く輸入した物品を、それより高い価格で他国へ輸出し、その差額を自らの利益にする。主にコショウ、茶、コーヒー、タバコなどが扱われていた。輸出入は自由営業ではなく、国家の保護を取り付けた一部商人が独占。こうして獲得された貨幣は、商人や国家に吸収され、王族をはじめとする帰属や地主の収入となる。彼らは絵画や織物などの贅沢品を輸入するため、それらを使い切り、国内の農産物や工業品には消費しなかった。つまり、貿易差額から得た貨幣が国内経済を素通りして海外へ出てしまった。要するに封建勢力に有利な政策を撮り続けた重商主義国家。

フランス・イギリスの重商主義は比較的後期に台頭。大部分の貿易は一部の商人に独占され、背景には軍事力を基礎とすることはスペインなどと同じだったが、いくつか違った。まずは黒人奴隷を扱ったこと。また、中継貿易だけでなく、輸出の商品の一部は国内で生産されていた。海軍力を背景に海外市場に大量に輸出。フランス・イギリスは稼いだ貨幣をいったん国内製品の購入に支出していたし、国内製品の輸出もしていた。なので貿易差額の拡大は、独占商人に利があっただけでなく国内産業の振興にも役立っていた。国内産業の発展は生産技術を高め、それが海軍を強くし、輸出を促進し、輸入規制も可能にした。酒や煙草の輸入を規制し、賃金の引き下げをし、海軍強くしてどんどん海外市場を開拓。そして貿易差額はどんどん累積する。これを養護するものとして重商主義の議論がある。資本主義勢力を後押しした重商主義国家。

封建勢力に有利な政策を撮り続けた重商主義国家であるスペイン・オランダに対して資本主義勢力を後押しした重商主義国家であるフランス・イギリスは商品競争力も軍事力も追い越した。こうして宿命的なライバルとなったフランスとイギリスは衝突を繰り返す。1756からの七年戦争で勝利したイギリスが近代資本主義の先陣を切ることとなった。

これらはどれも重商主義国家の話であることを忘れてはいけない。どういうことかというと、イギリスでさえ、結局、保護したのは輸出関連産業だけであり、貿易差額の拡大に寄与するもののみが、国富の増大をもたらすという重商主義の大前提にそくしたものである。富はあくまでも貿易において、つまり流通過程で生じると考えられていた。

そしてこの重商主義の一面性を突いて、農業も含めた生産活動それ事態が富の源泉であると示したのがアダム・スミスである。

まあ、しかし、貿易してひたすら差益を得てれば国は豊かになるなんて今では誰も考えないし信じないだろう。


前回インプットの大切さについて書いたが、さらに思うことがあった。インプットしないとつまらなくなる、ということ。

ちょっと話の角度を変えるが、ネットライフ社長の岩瀬大輔さんが何かの記事で、「もし学生時代に戻れたら中国語をしっかり勉強したい。」と述べていたのを見て、考えたことがある。多分他の人はこの一文を読んでも何も思わないかもしれないが、私としては大きな気付きであった。

岩瀬大輔さんといえば、学生時代に司法試験合格や外資系コンサルでの経験、東証一部上場会社の社長などバリバリのインテリである。情報のインプットの量やスピードは半端ないだろうし、日々勉強を怠っていないはずだ。

その彼が、もし学生時代に戻れたら中国語をやりたい、と言っているということは、現在はそのような時間がないということだ。毎日30分でも時間を割いて継続すれば彼なら何年かでかなり上達するはずだ。しかし、その時間もないのだろう。仕事や、仕事に直接的に係ることの勉強に忙しく他のこと(教養を磨くこと)をやっている時間がないのだ。

こう考えると、三木谷浩史さんや孫正義さんなどの偉大な経営者は起業時には、壮大なクリエイティビティに富んだビジョンを持っていただろうが、時間が立つにつれ、そのビジョンがどんどん古くなっても、さらに斬新な考えは出てこなくなる。何故なら、仕事に関する実務的な作業が忙しく読書などによりインプットする時間がないからだ。実務的なビジネススキルはどんどん向上するだろうが、世界観や会社のビジョンの成長や進化は停滞する。

今活躍している経営者や政治家の多くは若くしてその舞台に足を踏み入れた。当時の若さからすればずば抜けた世界観やビジョンを持っていただろうが、それは既に陳腐かしているし、絶対値的にみてもその世界観は、さすがにひたすらインプットを続けた40代、50代以上の知識人にはかなわないのではないか。

結論として、自分も社会にインパクトを与える何かをヤる前に、猛烈な勢いでインプットしまくって、しっかりとしたオリジナルでおっさん世代も舌を巻くような世界観を確立したい。


何か新しくて斬新な考えを捻り出すためいったいどれだけの時間を費やしただろうか。カフェや図書館などでひたすら考えていた時間を数えればキリがない。結論は、自分の頭にあるものだけでこれまでにないような斬新な発想を生むことは無理。

自分が世界でも最もクリエイティブに富む恵まれた人間だと信じたいのは分かるが、本当にクリエイティブなことを自分で起したいなら、冷静になる必要がある。客観的に考えて自分が普通の生活をしていて凄いアイデアを出せるわけがない。

インプットしたものをさらに発展、飛躍させてみたり、それらを組み合わせて化学反応を起してみたりして、自分の考えを進化させていくことがクリエイティビティに繋がる。

人類はこれまで無数の発明をし、社会を発展させてきた。生活も安全になり娯楽も増えた。これらは誰か一人の個人に依るものではない。これまで存在した何百億、何兆の人間の手柄である。集合知みたいなものだ。

一人の思考には限界がある。自ら世に新しい概念や考え方を、ある人が一生の内に生むことができる量など微々たるものである。そして、人間の思考力(コンピュータのCPU的なものとしよう)は誰もそんなに変わらない。では、どのような人が世の中を変えるようなインパクトのある業績を残せるのだろうか。それは、自分の無力を知り、謙虚に過去の人間が積み上げた思考を理解していく人だ。

分かりやすく説明すると、普通の人は一生で1〜3の進捗しか生むことができないとしよう。だったら彼の一生でのアウトプットは1〜3だ。ただ、過去の人間が何世代にも渡り、100の思考を蓄積し、彼はその100を土台に思考すればアウトプットは101〜103と大きなものになる。こうして人間は成長してきたのだ。

自分が0から100のアウトプットを狙うのは無理と考えた方がいい。人間の思考力は大したこと無い。2,3歩先を考えるので精一杯であり、あまり複雑なことは考えられない。懸命なのは、ひたすら過去から学び(情報をインプット)、土台を高めることだ。土台を高めてから自分のオリジナリティを発揮すればいい。

では、インプットはどうするか。多くの人の意見に触れたり、多くの自然や風景を見たり、様々な学問を学ぶのが良いが、最も良い方法は読書だ。本には、ある人が思考した過程や結論が著者の思いとともに記されている。口頭で聞く人の意見は、詳細を全部説明し切れなかったり、話の順番などで趣旨がブレてしまったりなどして正しく深く理解できない可能性がある。本なら読みかいせるので、しっかり意見を理解できる。または、理解できない(主張の根拠がない等)と理解できる。


先日、光栄なことに元セガのゲームクリエイター鈴木裕さんとお話する機会があった。オープンワールドという新しいゲームジャンルの巨額の制作費を投じたシェンムーの制作を指揮した多くの実績のある方だ。

印象的だったのが、中国のゲーム界について思うことは、という話題だった。中国のゲーム会社は、他のゲームからヒントを得て作られている。(簡単に言えばパクリ)しかし、本当に面白いゲームを作るならゲーム以外の分野に多く触れて感じたものをゲームに生かすということだ。鈴木さんは自分では一切ゲームをやらないらしい。その分、旅行をしたり読書からインプットしている。

私も同様の考えであり、インターネットを使った面白いサービスを創るために、歴史、宗教、宇宙と広く学んでいる。ビジネス本をひたすら読んで、できるサラリーマンみたいのを目指すサラリーマンは何かイノベーションを起こせるのだろうか。

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