記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2013年11月

「海辺のカフカ」と「ノルウェイの森」しか読んでいないが、その世界観と独特の語り口に強い印象を受けた。何となくかっこいいイメージを抱いてしまう。若々しく、繊細で、弱いけど強く生きる、というようなことを感じた。ただ、彼の作品や人を、ひとごとで表すのにこれ以上ない言葉がある。キザ、という形容詞はまさに彼のような態度を表すのだろう。

ある人は、村上春樹は人を描けていないと批判した。たしかにあんな話し方やコミュニケーション方法を取る人間はいないだろうが、それは重要ではない。村上春樹を好きというのはある意味ファッションだ。彼のセンスが分かる、共感できるということを主張したい人が彼のファンとなる。

私の見方だと、彼の小説で出てくるキャラクターは恐らく彼の理想の自分や、理想の人物である。カフカやワタナベのように何か正常ではなく、他の人とは違うようなキザなところを自己主張したいのだろう。そして、そのキザさは、彼の思うかっこよさであり、読者もその粋な表現に魅せられてしまう。

本当は村上春樹自身が現実社会でかっこつけて、人に言いたいことを海辺のカフカの大島さんやノルウェイの森の永沢さんに言わせているのだ。それを主人公に言わせたら、村上自身が言っているようになるので、その世話役的な人物に言わせているのがにくいところだ。ただ、その内容は確かにかっこいいので、ファンも増える。そういう村上春樹が普段感じる粋なことをキャラクターに投影することで、彼は自分が粋だと思うことを表現するのだ。だから物語の論理性など関係ない次元の話であり、むしろ空想の非世俗的な抽象的なことであるべきなのだ。

村上春樹は、作者が死後30年以上経っている本しか読まない永沢さんのような人間に憧れたのだろうか。また、少ない小説を何度も読み返すのが村上流なのだろうか。私も実際、グレート・ギャツビーの小説は是非読んでみようと思う。


タイトルと書評で期待していたが、つまらなかった。だけど勉強になる部分はあった。この値段の価値は間違いなく、ない。380円くらいなら買ってもよい。

何故私がこの本を日本から取り寄せてまで読んだかというと、それは、世界をよりよくするために幸せの定義をある程度決めておく必要があったから。政治、法律など社会の仕組みを作る上で、何を最優先にすべきか決めないと作れない。今、私やその他の人間は、人間社会にとって最重要なのは「個人個人の主観的な幸せ」であることに異議はないだろう。以下、この本でちょっと勉強になったこと。

・調査によると、自分の能力をフルに活かした人生が幸せということになるらしい。
・対人関係は幸せに必要。友人や人生の伴侶がいないとだめ。自分の能力がフルに活かされていることを理解してくれる人が必要。
・それゆえ、世の中、対人関係が安定していなくちゃ人は幸せを追求できない。賄賂がはびこっているような、人を信頼できない社会はダメ。
・世の中、実力があって努力すれば成功できる社会じゃないと幸せになれない。そういう社会じゃないと自分の力がフルに活かせないだろう。
・感謝をすること、満喫すること(自分が愉しめばOK)が幸せとなる。
・昔は小さな集団なら自分の得意あるけど 今はアイデンティティ難しい
・日本人は、表面的には西洋の価値観にとらわれてる。ファッション、音楽など。ただ、もっと奥深くには、礼儀、小学校のころの教育、集団行動、他人に迷惑かけないなどが刷り込まれている。大晦日の除夜の鐘など荘厳な年越しなどは仏教的な価値観を形成している。

みんなが幸せを感じて、平和な社会を築きたい。


僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は世界のことをきちんと理解しようとするし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う。

僕は僕ががやりたいことがわかった。それはストーリーテラーになること。世界を自分の言葉で自分が納得行くように説明したいのだ。表現方法は、芸術でも、ビジネスでも、政治でも、僕がその時に納得できる方法なら何でもいい。

今もし、できることなら、世界のいろんな国に1年ずつくらい住みたい。これまでアメリカに10ヶ月、オーストラリアに1年3ヶ月、中国に1年半住んだ。欲を言うなら、中東に一年、イギリスに半年、アフリカに半年、ロシアに1年、東欧に半年、韓国に半年、南米に1年住んでみたい。村上春樹風に書いてみた。


この作品は、表現の細部をじっくり味わう類の小説ではない。東野圭吾みたいな完全なエンターテイメントとしての面白さもあるが、ストーリーや情報力、そして、何を優先していいか決められない日本政府、自由を奪われ機械と化した人間(コリョ)の強さと弱さなど、ストーリーの中で批判されているものも味わい深かった。

ただ、残念ながら私のようなノンポリにとって面白かったのは、このような批判やメッセージではなく、異常なキャラの異常な行動だ。印象に残っているのは、イシハラの仲間の一人が、道端で前を歩くおばさんのケツがプリプリしていたので、触ってほしそうにみえたので、わしづかみにしたら悲鳴を上げたので、喉を掻っ切ったという話。また、コリョの人間離れした鍛えられ方。手刀の練習のため、毎日、小豆、砂、小石がいっぱいに入ったバケツにひたすら手刀の練習をし、爪が完全に剥がれ数年で刃物のような鋭い武器となる。実際にこれでこのキャラは何人も人を殺す。

ちょっと気になったのは、村上龍は、このような狂気的な想像を披露することで、こんなことを考えている非正常なオレ、みたいに自分に酔っているということだ。下手にテレビなどで外見やキャラクターを知っているために、このように考えたのかもしれないが。

ただ、ところどころどんな人間でも感じたことのある不思議で言語化できないことをある程度言語化していた部分があったのでそれはよかった。この小説を書いて、彼は北朝鮮や住基ネットに関して相当な知識をつけたと思う。彼のような経済をよく理解しており、教養のある人間に政治をやってほしいものだ。


私はアメリカとオーストラリアへ留学の経験があるため、何故、欧米じゃなくて中国に来たのかとよく聞かれるが、主観的にアメリカより中国の生活の方が面白そうだと感じたからだ。もちろん経済的にも政治的にも将来世界の中心になる可能性があることも一理由である。

アメリカという国は、透明性を重視し、綺麗なシステムを持っている。何でも明確にして、論理的な根拠をつけて、意思決定をオープンにして、みんなの意思で物事を決めていく。みんな平等であり、主役であるという建国のもととなる考えが浸透している。とても理性的である。なので、だいたいこの国がしそうなことは予想ができるし、何かこう綺麗なものだけだ。努力して論理武装して、ロビー活動で根回しすれば大抵のことはできる。この国は建国から理想が実現している。

こういう欧米のやり方って最近ださくなってきている。何事も目的をはっきりとさせて、その目的までの道程を逆算して、小さな目標を立てていく。そしてその小目標を着実に達成して、最終目標への到達を目指す。小目標に対しては毎日や毎週など細かく構成員の成果をKPIとして追いかけ確実にノルマを遂行させるようにする。このようなやり方が王道みたいになっているが、何か粋じゃないなあ。

中国の場合、一貫性のある歴史や政策がない。いろんな民族もいるし、まだ国全体で1つの民族という近代的な自己意識が十分にない。これからどうなるかも未知だ。世界の中心になる可能性はあるが、とんでもない方向に行く可能性もある。チベットやウイグルを統合し、1つの国としてまとめるまでに今後多くの問題がある。経済も政治も一貫性がなく、ちぐはぐである。

ただし、これは本来の人間の姿でもある。我々は言語で思考し、コミュニケーションするので、言語に考えや行動を縛られる。言語によって意思決定されたものはふわふわしたものになる。なぜなら言語の特性上、言語を使えば、自分の言いたいことを的確には伝えられないからだ。自然現象と言語には何ら関係性はない。人間が勝手に創りあげたものだから。

中国は国境問題や、あらゆる意思決定に対して、ある程度、物事をはっきりさせないで進める。これは欧米MBA的なやり方ではなく、より人間の本性に近い気がする。この辺の感覚は言語化できないが、それは言語というものが真実をなんとなく概念化した功罪だろう。

今、中国でゲームを配信したり、アニメを中国で展開するような事業をしているが、版元は何故これまで自社の作品を大切にするのか。もちろんお金儲けのため、ということで模倣品を取り締まるのは分かるが、世界観が少しでも変わることにも必要以上に気を使う。恐らく彼らもお金儲けしたいがために、原作者に極力媚を売っているのだろう。

原作者は、自分のオリジナリティに誇りを持っているのだろうが、彼らの作品の全ては既存のものからインスパイアされたのは間違いない。今日は、作者の死というバルトのテクスト理論を紹介する。まず作品についての考え方の変遷を見てみよう。

第一段階は、作品の起源には作者がいて、その人には何かいいたいことがあってそれが、物語や映像や音楽を媒介して読者や鑑賞者に伝達されるという単線的な図式をバルトは否定した。

著作権という概念は、そのアウトプットが単一の産出者を持つという前提が必要。作者とは何かをゼロから創造した人。聖書的な伝統に涵養されたヨーロッパ文化において、それは造物主を真似た概念。近代まではこのような神学的信憑の上に批評はなりたっていた。つまり作者は作品を無から創造した造物主であると。なので、単に流通により生じた利益が作者に印税としてリターンされるだけでなく、作者こそその作品が何を意味しているのかについて完全に理解し、作品の秘密を専一的に知っていると考えられた。

そうすると批評家は、必ずこの神=作者に向かって、貴方は一体この作品を通じて何を意味し、何を表現し何を伝達したかったのですか?これが近代批評の基本的なスタイル。批評家たちは行間を読んで作者の底意を探ろうと熱中した。

しかし実は作者たちも必ずしも自分が何を書いているかはっきり理解していない。言語を語るとき、私たちは必ず、記号を使いすぎるか、使い足りないか、どちらかの状態になる。過不足なく言語記号を使うということは私たちの身には起こらない。言おうとしたことが声にならず、言うつもりのなかったことが漏れでてしまう。それが人間が言語を使う時の宿命。

第二段階。そこで批評家は、作者がそれと気付かずに語ってしまったことに照準を合わせることにした。作者の家庭環境、幼児体験、読書経験、政治イデオロギー、宗教性、器質疾患、性的嗜好などが今度は作品の秘密を教えてくれることになる。これは批評家の仕事が読解を通じて作者を書くことへと導いた初期条件を探り当てることになる。これが近代批評の基本パターンとなっている。

第三段階として、バルトはこの近代批評の原則を退けた。テクストが生成するプロセスにはそもそも起源=初期条件というものが存在しない。バルトは作品といわずテクスト(織物)といった。この織物はいろんなところから集められた様々な要素から構成される。それぞれのファクターは全然固有の振る舞いをする。しかしそれらが絡まり合っていつの間にかテクストは織り上がる。この織物は生成的なものである。テクストは終わることのないからみ合いを通じて自らを生成し、みずからを織り上げる。この織物のうちに飲み込まれて主体は解体する。おのれの巣を作る分泌液の中に溶解してしまう蜘蛛のように。テクストの統一性はその起源にではなく宛先のうちにある。読者の誕生は作者の死によって贖わなければならない。

内田さんの理解では、このような読者の誕生の見方にもとづく、理想的な在り方は、Linuxを作ったリナスさんのように、自分の作品を世界に開放することだ。それを改良させ、発展させ、利用する人々が一人一人その作品の意味と価値を見出すことに委ねた。もしこれが文学作品であったとしたら、彼はそれを無償で配布し、それをどう享受しようと、どう改作しようと、どう引用しようと、その自由を読者に委ねたということになる。

ただ、この考え方はまだ社会に受け入れてもらえないだろう。ちょっと想像してみると、例えばドラゴンボールのアニメを、一般人が全くストーリーを変えたりキャラクター設定を変えて、再発行し、それが結構人気が出てきてしまい、原作者の鳥山明よりも尊敬されるような世界になったら、芸術家の金銭的・名誉的なインセンティブは弱まる。それでも鳥山明が自分の世界を表現できただけで幸せ、と言えるだろうか。鳥山明に限らず大半の芸術家がこういうふうに言えるようになるのは現状想像できない。

歴史とはどういうものか。

歴史とは、誰かが過去にこういうことがあったと記録し、公に晒される。無論、最初に公表する主体は、その記述した歴史の関係者から文句を言われないように客観的な事実風(簡単にいうと、教科書で使われる内容)に記述するわけだが、それでもその記述に対して多くの異議が唱えられるだろう。そして、長い時間を掛けて、関係者全員が妥協できる内容で、晴れて歴史となる。

人間関係もそうだが、国の間でも過去に何をしていたかの歴史がその国を判断する上で大切だ。外交でも、我が国は、一度も戦争をしたことがない、ポリシーを堅く守る近代的な国家である、と主張するのも過去の証明が必要だ。それ故、世界が認める客観的な事実風の歴史は非常に重要である。

他国の利益を考えず自国の利益を最大化する国は、この重要性を理解している。例えば、南京大虐殺は、恐らく事実としては、数万人程度の虐殺だったかもしれないが、中国は事件勃発後すぐに英国人のジャーナリストに30万の被害者について記事を世界的に発表させ、日本が効果的な反論を出来る前に、世界に言いふらし客観的な事実風の歴史を作った。これは、中国がはっきりと独自の戦略として、今後日本からこの事実をもとにいろんな場面で譲歩を引き出そうとする政策があったからだ。

日本は帝国主義の世界で他国家から侵略をほとんど受けていないので、この世界のルールに疎い。もっとあからさまに自国利益のために世界と戦わなくてはいけない。そして、そのために何をすればいいかというと、上述のような世界を納得させるような工作ができる幅広い教養を身につけたストーリーテラーが必要なのである。

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