記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2013年12月

ちょっと読み返したので今更だが、一般意志2.0について内容整理と感想。ルソー、フロイト、Googleとサブタイトルがあるので、何か深い哲学とGoogleが交わって面白うそうと思う。実際は、言ってることはシンプルだけど箔をつけるためにこんな思想家チックにしているようだ。

大阪の橋下さんは自分が選挙で選ばれたのだから、あとは自分が全部やる、という図式で動く。これが独裁と批判される。そこで、東さんは解決策として、橋下さんが常に民意を確認できる、民意を可視化できるようなシステムをつくればいいと言っている。

多くの政治家は民意を実現したいと思っている。しかし、1億人以上の国民の民意は見えないから独裁などと言われる。それならば、民意を作る新しい装置をつくればいい。「選挙とは別に、常にオンラインで機能していて、行政や立法の場に緩やかな形で介入できる何らかの制度を整える。」と言っているが、この本が誤解を生んでいる最大の原因は東さんが(自分でも書いているが)そのようなネットを使った具体的な方法は発明していない、ということ。(国会答弁をニコ動形式でやるのは、シンプルだが関係者のマインドには大きく影響すると述べている。)この装置をGoogleとキャッチーに表現している。

この本は、このように、エリートや選挙で選ばれた人間が、民意を何らかの方法で確認しながら密室で(密室だが、民意を見れるのであるいみ密室ではない)決めていくのが、本当は近代民主主義の原理に近いというのが、ルソーがタイトルに入っている意味。

では、フロイトは何か。人間の欲望を可視化して、その均衡点を見つけて政策に活かすというのを18世紀のルソーは考えていたが、本当に人間の欲望をそのまま使うと不定形で醜い、組織化されると危険なものである。それに対して冷静に歯止めをかける存在が必要で、それがエリートの仕事。

感想としては、やっぱりこれをどうやって実現をするかということ。国会答弁をニコ動でやるのは是非すぐやってほしいが、一般意志として、密室での熟議の参考としてオンラインで民意を「ある程度客観的に」把握する方法があるのか疑問だ。その辺のイメージをもう少し示してくれればありがたい。ネット業界にいるものとして、このどうやってネット情報から国民の民意を可視化させるかは今後も考えていきたい。


元外交官の佐藤優さんの「人に強くなる極意」でよかった部分を紹介。この人の、知識量と考え方、軸は半端ない。恐縮だが、私がゼロベースで考えることと彼の主張はほぼ同じである。ただ、私がうまくできないことを彼はその膨大な知識から具体的に、論理的に説明している。

  • 役人は、自分の責任を取らされることを嫌うため、なかなか物事が進まない。そこで大切なのが鶴の一声。怒鳴りまくる鈴木宗男を政治外圧としてうまく使って進めていた。
  • 小説を読んで色々な人生を代理体験する。綿矢りさの「ひらいて」は人間の内面の感情がどのように怒りに変わるかを上手く描いている。怒りが収まらないときにこういう小説や映画は怒りを昇華させるのに役立つ。自分と似た境遇の主人公の想像もしえない内面の世界を知ることで自分の怒りを昇華できる。ギリシャ悲劇はもともとそのような目的であり、ひいては、芸術、芸能、文芸とは実際そのようなものだ。
  • 何かにビビっている時は、冷静に、何にビビっているかを分析すべき。相手や対象を知り、相手の本質や意図を見極めることが重要。相手の内在的論理という。それが分かれば相手が何を言おうが、威圧しようが冷静になれる。
  • 自分の根っこはどこにあるか。人は時には飾ったり自分を大きく見せて生きていかなくてはいけない。飾らない関係を築けることが貴重。そのためには自分が何者であるか知ることが必要。国や民族、故郷や家族、信条や哲学、その軸は何か。
  • 人の忠告や批判をちゃんと聞くこと。基本、友人からの批判は、嫉妬や誤解からではなく、本当に自分に好意を持ってくれて言ってくれることが多いはず。
  • 人との差異を楽しむ。かなり冷静に客観的に物事を見極める部分も強いが、半面、どこか対象に飛び込むというか突っ込んでいく部分も強い。物事の奥、その先を見極めるにはどっぷりと対象に浸からないと見れてこないものが絶対ある。
  • 経済活動でも社会活動でも何かしら目的を定めてそれに向かうのが善とう考え。目的論的な価値観で社会が動いている。何事も始める前に終わりの出口を明確にしておくことが大事。目的が分からないと精神病になる。
  • 早めに仕事を片付けろ、というのは上司がさらに上から何か言われた時に、もう出来ていますというための保険がほしいだけ、自分が安心するだけのこと。仕事の遠近感、時間軸を考えることが重要。


私が、よく日中関係について思うことも彼の言葉でうまく説明できる。靖国、尖閣問題や南京虐殺は、中国が日本から何かしら譲歩引き出すためや、国をまとめるためのただの外交カードでしかない。それを戦争に結びつくような報道をするメディアがおかしい。この本で佐藤優さんが言っている、
  • 何かにビビっている時は、冷静に、何にビビっているかを分析すべき。相手や対象を知り、相手の本質や意図を見極めることが重要。相手の内在的論理という。それが分かれば相手が何を言おうが、威圧しようが冷静になれる。
これを理解することが大切。中国も国内問題や、今後の国の運営のため、日本との関係をうまく利用したいのだ。日本を仮想敵国として国を建国したのだから、国内問題あればこれを提起するしかないし、経済取引とか有利にするためにも日本から譲歩引き出したいから歴史問題も利用する。本質をみることが重要。そして相手には相手の言い分がある。自分が相手の立場でも、そうするだろうという前提で考えるのが基本。

なので、今明確にやるべきことは2つ。1つは、国が靖国なら、日本の正当だと思う理由を世界に発信する。これは、やりすぎて中国を動揺させてはいけないが、日本が譲歩しなくても済むくらいの距離感を保つために堂々とすべき。そして2つ目は、経済関係をさらに強めること。こうすれば、日中問題が起きれば中国自身が大ダメージを喰らう。何気に私の会社もここに貢献している。中国人に面白い(?)ゲームを提供しているし、40名ほどの雇用も生み出している。日中関係が悪くなり撤退を余儀なくされれば、多くの中国人に影響が出て、その怒りの矛先は日本だけでなく中国政府に向かうだろう。もっと関係性を深くして平和に貢献できればよい。



この私が生きている世の中で、私が想像できる範囲で最高の人生、生活とは何か。それが人生の目標になるのか。一度考えてみよう。あらゆる制約を考慮しないで、最高の生活とは何だ。まず、経済的に、無限に金がある。100兆円あるとしよう。正直、物欲ないから独り身なら月50万もあれば十分すぎるほどだ。うまいものも十分に食える。でも一生働かなくていい状態はありがたい。しかし、何兆円あっても、ハイパーインフレで貨幣が紙くず化したり、戦争が起きたら、を考えると必ずしも「一生安泰」という安堵には浸れない。

綺麗事になるが、両親や兄弟などにも贅沢な暮らし、そして将来に不安のない生活を提供したい。ただし、どうしようも無いのは、親族や友達など大切な人々が自分の不可抗力の場所、例えば犯罪とか事故とか、自然災害とかに巻き込まれてしまうことだ。これは防げない。後述するが、むしろこれが自分のもっと高次元の欲望となる。これは以前のエントリーである「」を参照。

次に女的なことになるだろうか。好きな女とやりまくれるならそれはありがたいが、これはどの程度需要があるか分からない。ライフパートナーはどうか。心から通じ合える伴侶がいることは、必ず最高の人生に必要だろう。これも許されるなら複数人あったほうが最高かもしれない。でも複数いたら一人一人との間の関係が薄まって結局深い関係にならない。

働かなくてよくて、金があれば、まずは世界のいろんな地域で生活する。その土地で、その土地の歴史や言語を学び現地の人々の生き方に触れたい。世界史の有名所は全て行ってみる。恐らく、特に自分の思考に大きな影響を与えることはないだろうが、好奇心は満たしたい。あとは、海辺のカフカで主人公が山奥に篭って読書するのがあるが、そんな風に修行みたいな感じで知識を詰み込みたい。といっても金がありまくるので、使うために都内の高級ホテルで、著者を読んでマン・ツー・マンで各分野の専門家から教授されたい。というか、テニスプレーヤーの錦織圭の技術コーチ、戦略コーチ、心理コーチ、フィジカルコーチ、アシスタントみたいなチームKみたいな感じで、自分が納得いく知識とスキル身につけられる最強チームを組織する。

あとは何があるか。長期的に関わろうとは思わないが、でっかくて豪華なアメリカにあるようなスポーツ施設が身近にあるといい。定期的にジムやテニスをできる環境。昔一度、カリフォルニアのテニス施設に行った時の感動は大きかった。あんな環境で毎週運動できれば最高。というか、これを日本で作っても、気候とか土地柄的にアメリカの再現にはならないか。だとするとアメリカに移住するか。

さて、次の段階として、ようやくマズローの欲求の段階が上昇してきて、社会的な取り組みをやりたくなる。先にも記述したが、自分を含め、家族、友人、その他の人類は、大分安全な世界になったとはいえ、病気、事故、犯罪、自然災害、政治経済災害、色々100%安堵できない要素を抱えている。自分はよくても、大切な人がこのような環境に生きていることは心が痛む。こういった問題を解決するために、100兆円を使いたい。おそらく、それと同等にやりたいことは、今現在、経済的など様々な制約がある中でもやろうとしている新しいエンターテイメントの創出だ。

まあ色々考えたが、正直金がいくらあっても、現状とやることそんな変わらないという結論。今度は、もっと制約を取り払って、SFチックに理想の生き方を想像してみよう。

下積み原理主義という言葉を見て、どういう意味かだいたい今の社会の風潮から分かるのではないか。最近の世代は、すぐに転職をしたり起業したりするので経営者としては大変だろう。特に日本のように新卒教育を大切にしているとその痛手は大きい。

下積み原理主義は、日本全体で共有されている根深い価値観であり、さらに日本の経営者の利に叶う思想であり、日本の産業にも貢献したと見れられるので、不要だからといって変えられるものではない。変えるには根本的に日本人の価値観を変える必要がある。どういうことか。

私は下積み原理主義を日本教の一部であると捉える。日本教とは要するに日本は無宗教だが、幅広く全体的に共有されている価値観があるという考え方。神道から来るあらゆるモノ全てに神が宿ると考え、ものを大切にする姿勢、何事も一生懸命やらなければならないという使命感、誰にでも平等に振るまい親切にすべき、属する集団には貢献すべき、周りを楽しませるべき、など何となくそういう空気感が日本全体を覆っており、これだけ広く日本全体に広がる行動規範は宗教と言えるのではないか。詳しくは小室直樹や山本七平の日本教や空気の研究を参照してほしい。

別の見方をすると、この下積み原理主義は、経営者の都合で、社員がころころ変わるコストを抑えるためなのだ。幼い頃から散々刷り込まれた為政者都合のプロパガンダである。日本なら会社を辞めるとき散々止められ、退職日も会社のために調整する。少しは会社に貢献してからやめた方がいい、先輩に恩返ししよう、結果を出して自分に納得がいくまでは頑張れ、など憲法もびっくりのことを言う。考えてみると、日本の経営者はぬるま湯に浸かっているとしか思えない。こんな理論が通じるのは日本だけ。

ただ、これが日本の強みになっている可能性もある。2つ。1つは、長くやれば、たしかに何かつかむ可能性があるということもう一つは、効率が悪いが競争力が高まる。アメリカ人が効率的に5✕9時間で45の生産をするところ、日本人は、チームのため、下積みだと言い聞かせ、3の効率で16時間頑張って48を出す。効率悪いけどガッツで勝ってしまう。どっかの企業が下手に成功例を出してしまって下積み原理主義を後押ししたとしたら勘弁してほしい。

中国でもアメリカでも、仕事が気に入らなければ数ヶ月、数週間でも転職するのが普通だ。経営者はかなり気を使っている。しっかり仕事を定義し、その仕事に集中できるように会社全体の仕組みを作る。社員がやめたいと言えば、止められない。さらに致命的なのは経営者にビジョンがない。成功すればめっちゃ儲かるなどでもいいから何か大義を与えるべきだ。根本的にその商品やサービスで世の中に何をしたいのかをはっきり考えていないと優秀な社員はついてこない。サラリーマン上がりで、特に興味もない事業の社長をやっている人ほど情けない存在はない。

また、日本とアメリカ、中国について、生活の軸足が、会社である日本、家族や友人関係である諸外国という違いも下積み原理主義が出てくる一因である。日本では会社の社員との交流が圧倒的に親族や友人との付き合いより多い。先輩が後輩の面倒を見てあげる会社という社会の中間集団にも下積み原理主義が必要である。

こう考えると、下積み原理主義を見直すのは難しい。なぜならそれが日本の競争力になっているし、もし世界標準の会社の「仕組み」や戦略で戦うようになったら、日本はそんなもの作れないし、ビジョン示せないから。さらに下積み原理主義が無くなったら、それは日本の論理が通用しない師弟関係も崩れかねない。そのようなラジカルな社会改革なくして下積み原理主義は解消されない。

今の世界は国のあり方を考えるのに適した時代ではない。国家に干渉されるとか、国家に面倒みてもらうとか、ほとんど関係なく生きている人が多いはずだ。

ある人の一週間を見てみよう。月曜日。朝、起きてシャワー浴びて、コンビニで朝ごはん食べて、仕事場である衣料品小売店へ行く。服の販売の仕事を9時間くらいやって、同僚と夕飯を外食ですませて、帰って風呂入って、寝る。

その背後には、経済活動が沢山広がっていて成り立つ。例えばシャワー浴びるなら、水道のインフラが整っていて、きちんとお湯が出て、清潔な水が出る必要がある。このシャワーの背後に、何十万人の労働がある。夜の風呂も同じだ。コンビニも外食も、店舗に商品や食材を運んでくる運送業、その背後の、倉庫業、メーカー、原材料メーカー、その運送、貯蔵。それらの会社のバックオフィス業務や営業マン、など気が遠くなる人の数が動員されている。

さらにその背後に、国が道路を設備したり、治安を守っていることが前提となる。犯罪が無法に蔓延っていたら、上述の経済活動は行われない。そして、その国の活動は、税金により賄われている。この衣料小売店で働いた給料や会社の利益が税金となり、ループする。

これらの経済活動に携わる一部の人が仕事を放棄しても社会は回るだろうが、全員が止めたら社会は回らなくなる。社会が回らなくなるとは要するに、シャワーが止まり、コンビニから店員と商品が消え、同僚と連絡を取る手段がなくなり、夕飯を食べるレストランがなくなり、風呂に入ろうとしても水が出ない。寒いから毛布を買おうと思っても売っていない。

ある人が、仕事を放棄することはありえる。それでは、それと全員が仕事を放棄することとの決定的な違いがあるのだろうか。人間は本来、社会のルールや慣習に従うように「内在的に」動機づけられていない完全な自由な存在だ。いつ全員が仕事をストップしてもおかしくない。そのように考えると、社会が回っていることの凄さに驚愕するのと、この社会の脆さを意識せざる負えない。

こういうことを考えていると何か変な感じがする。我々人間は主観の世界で生きているので、国がどうとか、法律がどうだとか社会の道徳がどうのとか、はっきりいって関係ない。関係あると信じこむこともできるし、何も意識しないことも、好きなようにできる。今からアマゾン奥地に行って、自給自足で余生を生きたら、人間がこれまで作り上げてきたそういったこととは無縁になる。何なら偶然出くわした人を殺しても何しても構わない。恐らくグランドキャニオンとか大自然を見て、普段の自分がちっぽけに見える、という感覚はこの意識に近い。

小室直樹が示唆しているが、政治学も経済学も数学も心理学も物理学も人間が勝手に線引したものに過ぎない。もっと言えば言葉というのは、頭にイメージされる概念を勝手に強引に線引したものである。我々は人間社会で育った以上、そのような言語や社会制度的に物事を思考するようになっている。さきほど、人間は「内在的に」社会的に振る舞うように動機づけされていないと書いたが、これは遺伝子的な話であり、生まれてからは、人間社会で育つ以上、実は内在的に社会的な人間になってしまう。

ここで期待されるのは、前回も書いた平和ボケ世代だ。社会に無関心で何も勉強してこなかったが、世の中の技術的な進歩は知っている。(例えばどんな技術があって、どういうものをどれくらいの生産性で作れるか)こういう世代が、既存の完全な歴史の流れに沿って考えられ、作られた人間社会をゼロベースで刷新する可能性を秘めている。今後の世界の第4の波は平和ボケ世代が担うのは間違いない。そして、平和ボケ世代は日本に集中している。


現代人は平和ボケだと言われる。帝国主義の時代みたいに武力で植民地を獲得しようとする国はない。ただ、戦争は未だに世界で起きている。平和ボケだと批判的にいう人は、日本もいつ、戦争に突入したり経済が混乱して死が身近になるような状況になるかもしれない、ということを懸念しているのだろう。これは一理ある。世界中の多くの地域で不況状態が続いており、何かしら正当な理由をつけて戦争や経済的な侵攻により日本も大打撃を喰らう可能性はある。

しかし、このような懸念を叫ぶ人がいる一方、そんなこと考えても無駄、楽しく生きるのが何よりじゃないか、と開き直って見向きもしない人間もいる。本当にこのように考えているのか、もしくは無知を晒したくないだけなのかは分からないが、こちらにも一理ある。日本は終戦からもうすぐ70年になる。日本人の平均寿命には及ばないが70年といえば一人の人生としても十分な長さだ。終戦時に生まれた人は、実際、70歳で死んだとしたら、戦争の心配をする必要はなく死んでもOKだったのだ。もちろん心配をした人が沢山いたから戦争が抑制されたとも考えられる。

このように社会とは離れた精神状態を持って生きることが可能になったのは歴史上初めてなのであはないか。むかしは奴隷はもちろん一般庶民も生きるのが必死でありどうにかいして自分たちの身分を向上させたいとか、何かしら社会に対して思いがあり、必然的に結びつきがあった。今の時代はそこを意識する必要がない。

それは、別の捉え方をすると、完全にゼロベースで再度、世界、人間の生き方を創りだすことができるということではないか。こうした平和ボケ者が中心となって、インターネット使ってでもいいから団結し、今ある技術や倫理観をもとに歴史の流れを無視した新しい世界を創造してほしいし、自分も貢献したいと思う。



聖書とは人類史上最も洗練された作品なのではないか。製作に1600年、何十人の人が携わってきた。そして、今に至るまでほぼ毎年ベストセラー。多くの人を、時代の変化(善悪の価値観の変化もあったはず)にとらわれず、魅了し続けている。そんな作品が他にあるだろうか。いくらマルクスやニーチェ、フロイトなどの古典といっても、せいぜい一人か数人が考えた程度であり、賛否両論で専門家にしか読まれなかったりだが、聖書はそのスケールが違う。これはまさに、神がかっている。いちおう神からの便りということだろうが。

これを超える作品は今後作られるのだろうか。私はYESだと思う。クラウドソーシングを使って何千、何万の人間がコラボして、クリエイティビティを捻り出せばとんでもない作品が生まれるのではないか。

人間は、1歩2歩先のことしか考えられない。複雑なこと思考できない。なので、長い年月をかけて、何十億の人間が交流して、技術が発展したり、社会が発展する。自ら新しい概念や言葉を生み出すのは至難の業である。

おそらくあなたが語っている言葉のほぼ99%は、他人の言葉であり、その他人も誰か他の他人の言葉を語っている。本当に新しい言葉で語った人は社会的に国宝的な人間だ。要は岩波文庫とかみたいに、がっつりと自分が他社の言葉を使っている事実を痛切に意識しながら考え抜かれて、少しだけ自分のオリジナリティを表現する。こういう作品は読む価値が高く、人を成長させる。

この成長とは、要するに、人の視野を広げる、更にいうと、その人の認識できる概念を増やすということだ。なので、岩波文庫みたいなちゃんとした本を読むように心がけようと思う。ただ、一部の人は、視野が広がっても何の得があるのか、と消極的に捉えるだろう。しかし、新しい概念に触れる楽しさが生きがいになっている人にとっては、愚問である。

それはさておき、一人ひとりのクリエイティビティは些細なもんであるが、それが群衆の叡智となれば凄いことが実現できる。そしてクラウドソーシングというツールはそれに一役買うのではないか。


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