記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年01月

以下、記憶とはどういう働きをしていてどのように使うべきかを解説する苫米地さんの本を軽くまとめる。

新しい刺激とは、自分との関係性であり、自分にとっての重要度の高さである。例えば、ある新築マンションを見たら大抵の場合、こんなところに住みたいなと思ってみるだろう。しかし、不動産業者ならいくらで建てたか、いくらで売っているかを見る。泥棒ならどこから侵入できるかを見る。つまり私達は自分にとっての重要度で世界を見ている。

私達は普段過去の記憶で世界を見ている。例えば、今この文章を読んでいる画面は、更新を頻繁にしているが、その後ろ、自宅であれば窓や家具などの背景は過去の記憶を使って見ているのでほとんど更新がない。重要度が無いときである。私達が過去の記憶で世界を見ているときは目の前の世界を重要だと思っていない時なのだ。

これはとても恐ろしいことだ。なぜなら、目の前の世界に興味を持っていないことになるから。世界には新しい刺激がないと判断しているからだ。しかしそんなことはない。世界は刺激に満ちている。毎朝見る家族だって昨日と一緒ということはない。通勤の道も昨日とは違う。店ができているかもしれないしコンビニでおでんを始めているかも。

ちなみに、過去の記憶を脳が使うのは理由がある。脳は手抜きが得意なのだ。脳はその能力の9割以上を使っていない。通常使用しているのは全脳細胞の1%だけ。もしもすべての脳細胞を使ったら人間は餓死する。というのも神経細胞同士は電気信号で繋がっているためすべての脳細胞が活性化したら膨大な電力が必要になる。だから脳は目の前の世界であっても合成記憶を使う。要は見ない、ということをする。もし私達が目の前の視覚情報をすべて処理しようとしたら、脳が一瞬でオーバーロードしてフリーズする。つまり過去の記憶を使うのは脳の性能を維持するため。それゆえ私達は過去の記憶から逃れがたい。

しかし、新しい刺激があれば、過去の記憶を使わないでもきちんと脳は機能する。例えば海外旅行にいって見たものはどれも新しいものばかり。だからこそ旅行の後は疲れるのである。よく体の疲れは移動距離に比例するというが、実は情報更新が頻繁に起こるため脳がつかれているのだ。

ここでやっかいな問題がある。私達は、大抵の場合、すぐ不安にかられて、新しい刺激を拒否する。過去の記憶に逃げこもうとするやっかいな癖がある。過去の記憶に逃げ込もうとするのは、自分が理解している世界との関係性を変えたくないからである。自分が所属している下位者、所属している人間関係、自分が所属している心地良い空間(この心地良い空間をコンフォートゾーンという)に安住したいのだ。実際、コンフォートゾーンであれば人はその能力をいかんなく発揮できるし、そこから外れてしまえば自分の能力が発揮できないどころか、今までできたことができなくなるかもしれない。自分の下位者で仕事をするのと出向先で仕事をするのの違いを比較すれば分かる。

目の前の現実は過去の現実とはまったく違う。興味や好奇心があれば新しいものや新しい認識をえることは日々できる。未来が必要な人には新しい現実が自然に見える。過去の記憶で対応できない新鮮な存在、新しい刺激に気づくことができる。

では、どうやって不安を払拭するのか。まず、自分から先に自分が理解している世界との関係性を変えてみるのがよい。つまり関係性を変えるとは、自分にとっての重要度を変えるということ。それは、新しい認識、をつくることでできる。簡単にいうと相手の立場になるということ。相手の立場という認識にたてば、関係性は変わり、重要度も変わる。そうすれば見える世界は全然変わる。これが目の前の現実を過去の記憶を使って見ないということ。

ちょっとややこしいが、新しい認識を作るためには、過去の記憶を新しい材料としてリアリティをつくり出すために使うのである。

ゴールを作るとは、過去のコンフォートゾーンから飛び出して、さらに居心地良いコンフォートゾーンを作ることである。古いコンフォートゾーンからどうやって出るか。その方法こそが関係性を変えることであり、重要度を変えること。過去の記憶とは、この関係性を変えるためにこそ使うべきであるのだ。それが未来の記憶である。この未来の記憶こそがゴールなのである。


日本の正月は、何かとバタついてゆっくりと1年の整理ができなかったので、中国の旧正月の今、ちょっと整理して、今年の目標も立てよう。以下4つ。

(1)中国を深く知る
佐藤優が著書で、こう書いていた。中国の専門家たるもの、ウイグル語、チベット語ができること、四書五経が読めること、さらに中国はマルクス主義を掲げている国でかつムスリムもいるわけだがからトルコやイスラムが分かること、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東あたりも分かっていないとダメ。これは外交の世界であるが、ビジネスレベルでも現地の中国人以上に中国語をうまく使い、中国を理解している人間は、確実に信頼されるし、ことあるごと相談が来るに違いない。ここまでのレベルを具体的に目指すかは未定だが、方向性としては中国を深く理解したいと思う。中国という神秘性を持つ文明に心から興味がある。今年はまず語学をさらに磨く。去年は地味に韓国語にも手を出してしまい中国語に特化していなかった。毎日、仕事の中で使う中国語を意識し、具体的にはHSK最上級を満点取れるレベルにしよう。

(2)人の内在的論理を理解する
本当に何かを人に伝えたい、変えたいのなら、自己主張する前に、まず相手の内在的論理を理解する必要がある。相手の論理構築の方法論を把握し、敬意を抱いた上で、こちらの論理との共通点を探る。相手の人生観、何か大きな目的があるのか、もしくは何も考えてなくてその時の感情に任せて動くのか。まずは全力で相手の話を聞き、内在的論理を探りたい。

言葉、心、力、行為、この4つから内在的論理を理解する。人を見る時まずは言葉、論理がどうなっているかを見る。次に論理が立派でも心はどうか、良心的な人かどうか。そして現実に実現する力があるか。力をどう働かせるか組み立てをしているか、いいっぱなしで終わりか、、などそれらを全部合わせて現実にどういう行動をしているのか。をトータルに人間を見ていく。

(3)古典を拠り所にする
他人の内在的論理を捉えるために軸足になる個展をいくつか持つべきと佐藤優は言っている。時代を継いで読まれて常に一定の読者がある知的な遺産にはそれなりの筋道、理屈がある。一度それを身につけるとその古典の論理を使って全く別の現象も説明できるようになる。そういう古典に最低2つは親しむべきだと。彼は例として、ロマ書、我と汝、資本論、聖書、精神現象学、純粋理性批判、法華経、などなどを挙げる。さらに彼は使う古典を相手によって変えるという上級者ぶり。イスラム人とならカザーリー、インドならヴァスバンド、アメリカならエマソンなど何がなんだか分からん。

何故古典を深く学ぶべきか、佐藤優はこれくらいしか説明していないので、自分で考えた。人は何か人から意見を聞いたり、自分で考えるとき、なぜ?なぜ?と繰り返して問うことはあまりしない。しかし、もしこれを繰り返していると、結局、社会の仕組みとか人生観とかに行き着くのである。その際に、しっかりとした基盤(もうこれ以上はさすがに、なぜ?と問わなくてもOKと納得できるレベル)を持っていることが一貫性のあるまた、清々しい思考ができるということではないか。本当は古典に頼らず、自分で哲学して基盤を作ればいいのだが、それはなかなか難しい。私は、ある程度親しみのあるマルクスとマックス・ウェーバーを今年の1年で深く理解しようと思う。

(4)本を深く24冊読む
昨年、本は100冊以上読んだと思うが、正直あまり印象に残らなかったりつまらないものが多かった。(自分の理解不足もありえるが)そのような本は、多くが具体例を伴わない主張や、他でいくらでも言っていることの繰り返しであり、いくら読んでも時間の無駄だ。その反面、非常に深い内容の本も沢山ある。ただ、これはなかなか理解が難しいので何度も読み返したり書き取りしたり、まとめながら精読する必要がある。主に岩波新書とか文庫とかに多い。私はこのような本を今年は24冊読みたいと思う。

いちおう何故本を読むか、説明しておく。世の中には、他人の意見を踏まえないで持論だけでオリジナルな意見を展開する人がいる。もちろん面白いことを言うこともできるが、限界がある。これは合理論の主張だ。ようするに人間は生まれながらにして世界を正しく認識する力を備えているということ。私は、経験論95の合理論5くらいのスタンスなので、本をいっぱい読んで概念をインプットしたい。

とはいいつつもデザインとかウェブ系とか実学的なのも含めよう。

(5)健康
とはいっても健康第一。あとテニスも頑張ろう。目指せ上海ナンバーワン。

(6)自己表現
なんか、自分で自分の考えやストーリーをどんどん出していきたい。それはブログでの発信であるかもしれないし、漫画を書くことかもしれないし、動画作ってyoutubeで出すことかもしれないし、歌手デビューかもしれないし、街頭演説かもしれない。要するに上の目標は全部これに繋がる。一番やりたいのはここなのだ。

(7)姿勢
あと、やっぱりガッツで頑張らないと面白いことはできないから頑張る。加藤嘉一のパクリになるが、DOY:だったらお前がやれ、出すぎた杭は打たれない、3を使いまくって自己表現、を意識してガンガン攻めていこう。

以上、今年もよろしくどうぞ。


苫米地英人の本を何冊か読んで彼の考え方の根底にあるものや、主張がよく理解できた。実際、私の思考方法が経験と論理により確立されている、と思うほど、考え方似ており、より洗練されたものなので、非常に頭のなかがすっきりした。いくつか彼の考えをまとめておく。風貌も含めて怪しい感じはあるけど、非常に思考がクリアで一貫している。

■脳機能学者
彼が一番よく使っている肩書は脳機能学者のほうだが、これはようするに人間の心を数学で記述できると信じて、追い求めているということ。この前に人工知能とかもあるのだろう。いちおう例でいうと、物理学は、ビッグバンという全く見ることもできないものであっても波動方程式を書く。要するに宇宙を数学で記述できると信じている人。脳機能学は心を数学で解き明かす。

■勉強はNG、必要における情報収集活動をしよう
頑張るのを辞めるとIQが上がる。任天堂DSを徹夜でやる子供。ぶっ倒れるまでやる。そこで親は、頑張ったねというか?バカだね。「必要における情報収集活動」。ザリガニ池で釣ってきた子供が図書館でザリガニについて本を読んでいる。本人は勉強ではなく、釣ってきたザリガニ死なせたくないだけ。興味があれば情報収集し 勉強だと勉めて強いるみたいな感じ=
頑張る=本当はやりたくないんだけどやること。創造的回避。ますます嫌いになる。

■ゴール達成方法(モチベーションの上げ方)
モチベーションを挙げるのはセルフ洗脳みたいなもん。ただ、洗脳という言葉はあまりいいイメージがない。洗脳というと第三者の利益のために本人との意図とは別に徹底的にやっちゃう的な意味があるが、そんなきな臭いことはない。

その方法は簡単で、徹底的にゴール達成した状態をリアルに想像する、というか達成した時点の状態になりきる。例えば、総理大臣になりたければ、今総理大臣になったと思い込む。将来総理大臣になる!ではダメ。このような今があって何かやって将来総理になるみたいのはダメ。今既に総理大臣だと認識することが大切。リアリティ上げるため国会議員二期目みたいな中間地点でもまずはOK。

将来必ずなりますよではなく、今既になっている。将来なれますよだと今を肯定しちゃってそれに縛られちゃう。しかし、今総理だと思いこむと、現状と心の中がギャップあり、ゲシュタルト(ざっくりいうと統合的なものの見方)を壊す。何か失礼なこと言われたら総理に向かって何を言う、と言えるくらいになるべき。自分が総理だというゲシュタルトも同時に作ってしまうと、どっちか一つしかとれない。多重人格やだまし絵と同じ。

既に総理大臣になっているので、今までとものの見方や重要度が変わる。それに相応しい行動を取るようになり実際に、モチベーションが上がりゴール通りの状態になる。

■抽象度の高い低い
「抽象度を上げる」とは、「物事を高い視点から見る」という意味だそう。一流のプレーヤーやIQの高い人は、「抽象度が高い思考パターン」を持っている。抽象度を上げるというのをもう少し説明してみると、例えば、柴犬、チワワ、ダックスフンド、シェパード。これらは、「犬」というカテゴリーに属す。「犬」は、「哺乳類」に属します。「哺乳類」は、「動物」に属する。

「柴犬」<「犬」<「哺乳類」<「動物」抽象の反対語は「具体」で、左の方が具体的なので、抽象度が低いということになる。自分の部屋<家<文京区<東京都<関東地方<本州<日本<アジア<地球<太陽系<銀河系・・・右へいくほど抽象度が高くなり、もっとも抽象度が高いのが、「空(くう)」。犬とブルドッグだったら、ブルドッグの方が情報量多い。ブルドッグは犬という情報も持っている。前情報を含んでいる。

■抽象度を意識する(コミュニケーション)
下にいくと具象化、情報量増える。上に上がると抽象化、上に上がると矛盾性なくなる。下がると臨場感が上がる。アレとかコレといったら矛盾性はないか臨場感がない。お互い同じ抽象度で話すと進む。

■抽象度を意識する(情動に惑わされない)
抽象度を上げて考えるというのは、具体的にどういうことか?端的に言えば、それはイヤなことといいことの差がないということ。たとえば、私たちはふだんイヤなことが起これば悲しいし、いいことが起これば嬉しい。しかし、一つ上の抽象度で考えると、悲しいも嬉しいも、どちらも同じ「情動」。そして、それは「情動だ」という認識が生まれれば、悲しいも嬉しいも関係なくなる。つまり、喜怒哀楽を超えている、ということになるわけです。

■抽象度を意識する(学習のため)
我々は知っていることしか認識できない。知らないこと認識できない。では新しい知識どうやって身に付けるのか。自分の知識を抽象化すると新しい知識を得れる。例えば東京しか知らない人は、長崎という概念を理解できない。しかし、日本という一つ上の概念からみれば長崎はその中の一つであり、東京みたいに人が生活していると想像できる。これが所謂、経験論的なものの見方だろう。学習のために抽象化が必要不可欠なのだ。

目の前の現実は昨日までの記憶でできている。時計の文字盤を例にしよう。デザインは買うまで重要度があるが、、使いはじめると重要度はなくなる。人間は重要なものしかみない。重要なものの判断は過去の記憶が今重要だと判断される。一個抽象度あげたり、ゴール時点のゲシュタルトを作れば未来の重要性側から見ることになり、新しいものが認識できる。本を読む前での重要性でしか読まない。読み終わった時のゲシュタルトだと重要性が変わるため、2回目に読むと変わる。

■物理空間の幸せと情報空間の幸せ
認識は情報処理によって行われる。幸せという認識もそうだ。脳の情報処理である。そういう意味ではん、魚類、爬虫類、鳥類は脳の進化レベルが低いので、幸せという認識が生まれていない可能性がある。本人が幸せだ!とおもっている状態を幸せだとすると、そう思うためには、ある程度脳が進化しないといけない。内生的自我が生まれれるためには、脳が進化して、情報処理の抽象度が上がる必要がある。

例えば、熱いという認識、もし焼け死にしそうになったらそこから逃げようとする。熱いところから避けるのは生存するための必要な情報処理が行われた結果。食べ物を食べてうまい、まずいというのは最初は毒を見分けるための必要な情報処理だった。おいしいものを食べて幸せだという抽象度の高い情報処理が行われるためには、さらに脳が進化したからである。つまり単にその食べ物に毒があるかないかというレベルでは幸せではない。うれしいかどうかというレベルになって初めて幸せを認識できる。これは自我の芽生えともいえる。

自我というのは自分という存在を外側から見ることができる能力ともいえる。抽象度が上がらないと外側からみれない。抽象度が低いと、おいくしくない、危なくない、痛い、苦しいとか情動的判断しかできない。抽象度が高くなると、だからうれしい、だから楽しい、だから気持ちいとか思えるようになる。このように考えると幸せという情動が生まれたのは抽象度が上がったためということができる。人間の脳が進化して、抽象度の高い情報処理ができるようになって初めて幸せという概念が生まれた。

食べ物に毒があるか否か、栄養があるかないかというのは、物理空間での出来事。しかし私達が求めているのはそういった物理空間の幸せではなくおいしいものを食べられて嬉しいという抽象度の高い情報空間での幸せなのである。このように考えると、現在の幸せという概念は情報空間で思考できるようになったときに生まれたものである。それが人間の誕生だ。犬がなでられて喜んだり、猫が日向で気持ちよさそうに昼寝しているのは、たんなる物理空間での幸せ。かなり抽象度の低い幸せ。

抽象度が高まると必ず社会性がついてくる。一人では心地良いと思うだけだが、相手がいたり、家族がいたりすることで幸せを実感できるようになる。だから人が幸せだと感じるときには必ず周囲に別の人がいる。成功したことを一緒に喜ぶ仲間がいる。子供がうまれ一緒に喜ぶパートナー、自分を支持してくれる人々。

ちなみに抽象度の高さは、その内容にある。だから例えば引きこもりがネット上で他人と繋がりあっていれば幸せだと感じることはできる。抽象度が低いものは、心地よさ、抽象度が高いのは幸せといえる。抽象度が上がると必ず他人の存在が必要。そうならないと幸せの概念が生まれない。


日本の中でも異質感が極まりない沖縄。沖縄の人を普通に訛りのある明るい日本人と思っている人も多いかもしれないが、その歴史を知ると、なんか複雑。自分が沖縄人だったら、日本人という枠にいることはちょっと違和感があるかもしれない。歴史を振り返ってみよう。

縄文文化は北海道から沖縄まで及んでいるが、弥生文化は、北海道と沖縄には入っていない。沖縄では貝などを採取する貝塚文化が12世紀くらいまで続く。14世紀には、南山・中山・北山の少王国が設立するが、1429年、中山王の尚巴志が三王国を統一して琉球王国を成立。

琉球王国は、明とアジア諸国との間の中継貿易で海洋国家として栄える。尚真王のときが最盛期。江戸時代、1609年、薩摩藩の初代藩王・島津家久が琉球出兵を行い、一時期、国王の尚寧王を日本に連行。それ以後、琉球は朝鮮と同じく中国の柵封を受け中国に朝貢しつつ、薩摩の支配・管理下に置かれた。しかし朝鮮とともに日本と国交を持ち、通信国と位置づけられた。

1872年、明治政府は琉球王国を琉球藩と一方的に位置づける。1879年、明治政府は軍隊・警察で首里城を包囲し、琉球藩を廃止し、沖縄県を設置するという廃藩置県を装いついに日本と異なる独自の文化と歴史を形成してきた隣国である琉球王国を滅ぼし日本に併合し内国植民地化した。これを琉球処分という。琉球王国の人々は突然隣の国の王を神として敬えと命じられ、1945年までの66年間大和世(ヤマトユー)といわれる日本の支配下に。

太平洋戦争の沖縄戦は、沖縄を守る作戦ではなく、本土防衛準備と国体維持のための時間を稼ぐ捨て石作戦だった。1945年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸、日本軍は沖縄に自決せよと命令し、約500人の住民が集団死、自決を強いられた。

4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。日本は米軍を引き入れ、住民を巻き込んで持久戦に持ち込む作戦で、約15万の沖縄の人々が犠牲になった。また、日本軍はスパイの名目で沖縄の人々を殺害、虐殺した。

日本敗戦の後、沖縄は米軍による直接軍政が敷かれ、以後、太平洋の要石と呼ばれるアメリカの極東戦略の重要拠点となる。1952年サンフランシスコ平和条約で本土の占領は終結するが沖縄はアメリカの施政権下におかれ、軍事占領が続いた。米軍が設置した沖縄統治期間である琉球列島米国民政府のもとに琉球政府が置かれた。

1954〜1958年には米軍用地接収に抵抗して、島ぐるみ闘争が行われた。これは米軍が土地収容令を公布し激安料金で土地を貸せといって、拒否すれば実力行使として土地を奪う。コレに対して沖縄の人は土地を守る四原則を掲げて島ぐるみ闘争を展開して対抗。

今沖縄に米軍基地の75%が集中しているのは、本土に建設すると反対闘争がめんどうなので、沖縄返還前にどんどん沖縄に移転してもらったのだ。要するにすべてのツケを沖縄に回してきた。

1968年、琉球政府の行政主席を選挙で選べるようになり、革新系の屋良朝苗が当選。1969年には佐藤=ニクソン会談で日米共同声明が発表され、安保体制強化を条件とした沖縄返還が72年に約束。

複雑だ。


日本(またが欧米)と中国の違いについて、中国で働く人や歴史をちょっとかじった人は、よく、「歴史や環境が違うからだ」みたいに安易なことを言う。私はそこで、子供のように、「とはいっても、現代の中国の若者は、歴史については関心がないし、むしろ日本のアニメとか欧米の資本主義的な価値観で育っているのでは?」などと尋ねる。多くの人は、そこでもう何も言えない。私は、それは、焼き鳥の何十代にも渡る秘伝のタレのようなものではないかと考えていた。どういうことかというと。人の行動や行動の指針としての価値観は、主に幼少期の親からの影響、学校教育、テレビなどのメディアによって作られると考えており、その中でも特に親からの影響が大きいと考えている。なので、いくら現代で日中の生活スタイルが似てきても、何十代も前世代の先祖の生き方を無意識に引き継いでいるから、個人の根底の考え方は日中で違うし、社会規模になるともっと異なる。と考えていた。

小室直樹は著者の中で、この問いに別の角度から答えている。

■古をもって鏡とする
歴史を見れば中国がわかる。どんな社会調査も個人体験も遠く及ばない。貞観政要には、よい政治をするためには、歴史を学べと書かれている。歴史を学べば興亡盛衰の法則を知ることができる。どうすれば国は興り盛んになり、どうすれば国は衰え滅びるのか。それを知ることが政治の要諦である。貞観政要は唐の太宗と名臣たちの問答集であり、長く帝王学の最高テクストとされた。日本でも北条政子、徳川家康など貞観政要を政治の教科書としていた指導者は多い。

中国史観のエッセンスを一言で要約すると、「歴史法則は変わらない」ということだ。それであればこそ古を鏡とすれば今を知ることができる。もし歴史法則(政治法則)が変化するものならどうか。古を鏡とするなんてできない。過去と今では政治法則が変わっているのだから興亡盛衰なんか知りようがない。歴史は政治の手本とはならない。

中国人と正反対の史観を持つのがユダヤ人である。歴史を重視することは変わらないが、歴史重視の意味が正反対。ユダヤ教では、神との契約を根本におく。神との契約がすべてである。政治経済を含め、社会現象のすべてはその上に構築されている。自然もふくめて全ては神との契約の上に成立する。天の法則、地の法則、人間の法則もすべて神の創造による。故に神との契約が変わればすべてが変わる。神との契約が更新されることによって歴史が全く変わる。

マルクス史観はユダヤ教史観と瓜二つ。社会は、原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、社会主義、共産主義と直線的に進化する。後の段階は前の段階よりも高い。前段階から後段階への進化は革命による。マルクス史観における革命はユダヤ教史観における契約更新に該当する。革命によって社会法則はガラリと一変する。全く違った法則が作動することになる。資本主義と社会主義では全く違った社会法則なのである。

最近の中国人はマルキストであっても実質的には中国史観に立脚している人が多い。毛沢東もマルキストであったが、愛読書は三国志、水滸伝。四書五経の造詣が深く、中国史全般に精通している。毛沢東は三国志を読み抜き、古を鏡とすることによって圧倒的に優勢であった蒋介石を破り革命を成功させた。また、法家思想による国を完成させた朱元璋は、逆に歴史の理解が乏しく失敗したようだ。また、明時代の靖難の変も、歴史は繰り返すことを示す。著者は中国史から多くの例を挙げ、その不変の法則を説明する。

中国では革命により王朝が倒れても全く同型の王朝が成立して全く同じような政治を行う。中国の革命は社会革命ではない。社会構造も社会組織もほとんど変わらない。ギリシャ、ローマ、ゲルマン社会と比べての話だが。革命によって変わるのは天子の姓である。だから液性革命。ヘーゲル史観もマルクス史観も進歩史観であるが、中国史観は進歩史観ではない。現象は移り変わってもその本質は変わっていない。ヘーゲルは結論づけた。中国は持続の帝国である。いいかればそれは己を己自身から変化させることができない。

資治通鑑という戦国から5代にいたらう1363年の歴史が記された中国史のウルトラ大名著がある。司馬光が19年かけて書き上げたのだが、読者はほとんどいない。親友の一人が、この歴史書を読んだらしいが、感想はいかのとおり。うむ、たしかに読むには読んだ。だが実は何が書かれているかまったく覚えていない。とのこと。その理由は類似の事件の延々の繰り返しで記憶の限界を破られ忍耐力を失ったのだ。

■共産革命にもかかわらず歴史の法則は不変
中国には類似の事件が連続して起こりまくっている。こうした事件は実は仕組まれたもので、偶発的なものではなかったことを示している。仕組まれたものということはそこにモデルがあるということである。フォームがあるということである。そのモデルとフォームを発見することが歴史における社会法則の発見にほかならない。そうであれば中国史の中に中国の本質を発見できる。中国史は如何なる調査よりも有効に中国人の基本的行動様式、エトスを教えてくれる。

この際、中国人が歴史をどう意識するかは関係ない。中国人の歴史知識とも関係ない。社会法則は人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。これは英国古典派により発見され、マルクスはこれを人間疎外と呼んだ。例えば、ジャガイモの価格はこれを作った人の意志とも所有の医師とも関係なく独立に市場法則により決まる。市場に命令してもどうしようもない。天保の改革で水野忠邦はこれを理解せず市場は役人の命令で動くと錯覚し失敗した。スターリンも経済と社会は命令で彼の意志通りに動くと盲信した。このマスクス誤解がソヴィエト帝国を崩壊させた。

社会は人間から形成されるが、社会法則は人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。この人間疎外を理解することが社会理解の急所。

失業をなくそうと思って命令してもなくならない。失業の存在は誰かの意志にあるのではなく経済法則にある。人間の意志や意識により失業が発生するのではないのえ、失業をなくしたければ正しい経済学の知識に依らなければいけない。癌をなおそうとすれば正しい医学的知識が必要と同様である。

1930年代の不況で失業をなくすのに成功したのはヒトラーだけだった。適切な財政政策と貨幣政策によりインフレなき好況を実現した。高速道路建設、大軍拡で有効需要を激増し、シャハトの巧妙な貨幣政策でインフレを抑えた。ヒトラーは人間疎外の意味を理解していた指導者だった。社会法則は人間の意志や意識とは関係なく独立なのだ。

この人間疎外を理解していれば現在の中国人から歴史の知識と興味が失われても中国史の法則は依然として貫徹していると断言してもよい。歴史法則はフロイトも研究しているとおり人間の意識や意志よりもずっと深い所にある無意識によって決定されるものである。

人民革命や文革にも関わらず、毛沢東の教育にも関わらず、中国史を貫く社会法則は不変である。個人経験は必ずしもアテにならず、中国史はいかなる調査にもまして中国を理解するための裁量のサンプルである。この立場にたって中国の理解を深めていきたい。

中国関係の本を読んでいると、中国人は、関係を築ければ絶対的に信頼できる存在になるが、その外においては倫理も疎かにされるほどの関係となるダブルスタンダードである、など色々書いてある。こうしたものは歴史的背景に由来する。

以上、要点としては、「人間疎外」という人間の意志とは関係なく、社会が動きだし、その社会に人間は振り回されるということが国ごとの社会法則の継続性を上手く説明している。この人間疎外についてもっと調べてみたい。

 

賛否両論ある苫米地英人だが、youtubeとかで彼の話を聞いていたら凄く共感できるし、引き込まれる話し方をするので、3冊読んでみた。苫米地英人も自分が最近ハマっている小室直樹も理系の人間で数学や哲学を基礎に物事を考えている、両者とも公理系とか、函数、必要条件と十分条件とかそういう概念をよく使う。さらに断定もしないで、反対意見への配慮もあるのが素晴らしい。

この本は、大衆向けで読みやすいが非常に奥が深い。要点を言うために相当な研究と経験が感じ取れる。要点は、私の言葉でいうと「如何に生きることが幻想であるかを理解し、幻想である幸せをものにするか」ということである。もっというと、我々は資本主義とか日本的価値観とか勝手に「社会に役立つ部品」になるため善悪の意識が植えられているが、それを壊して、自分で再定義すればいつでも幸せな人間になれるということ。ただ、大体ではそう分かっていても、子供の頃から植え付けられた価値観は変えづらい。それを変えるためのトレーニングや、如何に生きることが幻想かを説明している。ちゃんと実践すればかならず良い成果をもたらすだろう。
 
彼の非常に共感できるし、驚くほど自分の論理的バックボーンと共通しているので、理解しやすい。要するに、私も彼も「全て目の前にあるものは、脳内で認識されたものにあり、主観的なものであり、他人がどう思うとか客観は関係ない。そしてそれ故、人生楽しむには主観的に楽しんだもの勝ち、という結論。必要があれば自分する騙しながら楽しむ。」こういう考え方だ。無論、彼のほうが博識なので、この考えを学術的にも経験的にも深く理解しているし、信じているので、より彼の行動や言動のほうが深みがあるのは間違いない。

まずは、「幸せ脳の作り方」を紹介。幸せになるための方法が書いてある。要するに、結論は、上述したように「主観的に幸せになったもの勝ち」なのであるが、だったらどうするかを具体的に説明している。これにはトレーニングが必要だ。恐らく、誰もが一度は、彼のいう結論に達したことはあると思うが、彼のように、論理的に考えて、さらに研究の裏付けありで本当に実践している人は少ないはず。こうだと何となく結論に達しても、正直、身にしみてこない、しっかり考えて、日々考え続けないと、この結論の意味はないのだ。

以下、備忘記録。

(幸せの定義はできない)
幸せは定義できないだけでなく、宇宙の中で定義できるものは何一つ無い。概念を定義する場合は、帰納的方法論と演繹的方法論がある。まず帰納的方法論とは、例えば、犬を定義するなら犬を沢山集めてきて、サンプルから共通するパターンを見つける。ワンとなく、しっぽがある、足が四本ある、などの共通点を見つけて犬という概念を定義する。しかしこの定義では大きな過ちを犯す可能性がある。例えば、4本足の犬しか集められなかっただけで、実は足が6本いる犬がいる可能性もある。もしも自分が6本足の犬だったら、この犬の定義に入ることはできない。何が言いたいかというと、幸せを定義するときも同じで、幸せな人を集めてきて、いくら共通点を見つけても、自分にとって意味のない定義だったら役に立たない。

では、演繹的方法論はどうか。これは、先に抽象的な定義をする。そして目の前にあるサンプルをその定義のなかでどう当てはまるかという視点で定義します。犬であれば先に動物という定義の中で犬に当てはまるものを定義していく。哺乳類である、肉食動物である、イヌ科の動物である、といったことが犬の演繹的方法論の定義になる。この方法の問題点は、つねに定義する対象の上位概念がはっきり定義されていないといけないということ。犬を定義するためにはその上位概念である動物を定義できていないと意味が無いし、動物を定義するためには性bつ、さらに有機物…と、次から次への定義の必要がある。

同じように幸せを定義するならその上位概念は何か。それはよくわからない。神という人もいれば、平等という人もいる、宇宙というかもしれない。まずは上位概念を定義してからそれをベースに幸せを定義するのである。

数学で言えば、絶対に正しいという公理系があったうえで、様々な定理を証明するということ。公理とは論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となっている根本命題のことで、公理系とは1つの理論体系の出発点となっている一連の公理の集まり。公理を前提に演繹的に導き出される命題が定理だ。

しかし本当の数学において、今公理が正しいということがいえなくなってしまった。それは数学者クルト・ゲーデルの不完全性定理が証明してしまった。いちばんはじめの系である公理が正しいといえなくなってしまったので、数学の公理系の正しさを担保できないのだ。数学では演繹的方法論は、本質的には正しさを担保しない。

数学でこれなのだから、あらゆる系でこの不完全性定理は成り立つ。数学の上位概念である公理系が正しいと証明できないようにあらゆる物事の上位概念は定義できない。つまり、幸せは演繹的に定義できない。むしろ、この世の中のすべてのことについて演繹的に定義することはできない。

帰納的にも演繹的にも定義できないならどうするか。運用的定義でやるしかない。運用的定義とは、言葉を厳密に定義するのではなく、実際に運用することで、何となく言葉の意味合いが決まってくる、そういう定義方法である。幸せの運用的定義とはどういうことか。いろいろな人が幸せ幸せといっているけどそこに明確ななものはない。幸せという言葉がひとり歩きしているだけでそれはあくまでも他人の幸せでしかなく、自分とはいっさい関係ない。重要なのは本人の感情の問題だから、他人に定義されても困る。自分が誰かを好きになって、それを他人に愛とか恋とか言われても関係ないし意味がない。それは自分の感情の問題であって他人がそれを言葉で定義することは意味ない。そうすると、幸せの運用的定義とは「自分が幸せな状態」ということになる。それしか定義のしかたがない。

(幸せと感じるメカニズム)
「自分が幸せな状態」が幸せの定義だとすると問題が2つある。一つは、「幸せな状態」というのは、単純にドーパミン出て、心のバランスを整える神経伝達物質セロトニンが出ている状態である。例えば死なない程度に自分で自分を切り刻めば大量のドーパミンが出て、最後に思いっきりセロトニンが出る。これで幸せになる。だからリストカットするとリストカッタージャンキーになってしまう。最後には幸せになるのだから何度でもやってしまうのだ。「自分が幸せな状態」だと、このようなものも入ってしまう。

2つ目の問題は、「自分が幸せな状態」というならば、「自分」をちゃんと定義できるかということだ。自分という概念は幻想でしかない。自我は幻想なのだ。定義不能。だから、幸せも定義できない幸せはそもそも幻想なのである。

では、幸せが幻想だと分かった今、どうすれば幸せになれるか。著者は釈迦方式と宗教方式を挙げるが、彼が推薦する釈迦方式を説明しよう。幸せは幻想なので、私は既に幸せだ!という幻想を作り上げるという考え方だ。以下、空観、仮観、中観など仏教の概念について。

(幸せを手に入れる発想術)
■空観
世の中のすべてが幻想であると分かること。自分を不幸せにしている原因は自分の欲求(遺伝子レベルの欲求)であるということを知ること。上座部仏教ではこのことを苦とよぶ。細胞レベルでの強い欲求のこと。お腹がすいたらごはんを食べたくなるという細胞レベルの欲求だ。彼らは細胞レベルの苦が全ての不幸せを生み出していることを知っている。その苦は実は心の幻想であることも。不幸せな理由をあげてもそのすべてが幻想でしかないのだからもう幸せになるしかない。これは煩悩を捨てればいいということ。細胞レベルで自分が作り出した欲求が苦を生むのだから。原始時代には食べ物があるだけで幸せという抽象度の低いレベルだったが、釈迦方式では逆に抽象度を上げるのだ。そうすると全ての苦が幻想だと分かる。

この空観は非常に大切だ。空観を持っていないと、つまりすべてが幻想だとわかっていないと他人に自分の幸せを押し付けることになってしまう。自分一人の妄想ならいいが、他人を巻き込んでしまえば、犯罪も戦争も起きる。実際それを行っているのが大国の論理、アメリカの正義。アメリカの正義というのお妄想でしかないので、アメリカ人が信じるのはいいが、他の人や宗教の人に押し付けるのは危険極まりない。冷戦も同じで、資本主義も共産主義も妄想でしかないのだ。

■仮観
仮のゴールを目指すこと。空観を学んだ上での仮観なら人に妄想を押し付けることもないので問題ないが、仮観だけでは戦争が起きてしまう。仮観だけの思想を実観というが、これは仏教用語にはない。仏教では最初から仮観だけ。全てが空だと分かった上でものの存在を認めるから仮なのだ。

■余談
釈迦方式では、死を恐れない。「生じることもなく、滅することもない」という釈迦の言葉がある。「一本の木がありました。木から種が落ちて、次の木が生えます。この木は生じたのですか?」と釈迦はいっているが、生じていないだろう。もともと種があったのだから木が生えてきて突然生じたわけではない。前の木が枯れたとしても前の木の種で次の木が生えているのでやはり前の木は滅していない。つまり生命は生じることもなく滅することもないのである。死んだらどうなるか、という質問自体、とても抽象度の低いものである。釈迦方式ではだからずっと幸せでいられる。人間と人間が殺しあう行為は、爬虫類レベル。釈迦方式で抽象度を上げていけば最低限、世界は平和になる。そして自分も幸せになる。

■止観法
止めて観るということ。目の前のご飯粒ひとつを見て、このご飯粒はどこから来てどのように育ったのだろうかということを考えながら食べるのが止観。止観を学ぶことで、宇宙も空、この世も空、幸せも空であるということが分かる。止観法とは、実態がないものを追い求めることから抜け出す方法といえる。これが窮極の幸せ脳に生まれ変わる基本。完全に空を悟った人はすべての人がなりたい幸せの状態を体現しているのだ。これは、お経を通じて空の教えを伝える方法論である顕教と同じ。止観法は顕教法と言い換えれる。要するに止めて観ることですべての苦が空だと知ること。

■密教法
幻のカラクリを知ることですべての苦が空だと知る方法。手品を本物だと思っている人は幻を信じている人だ。手品にはカラクリがあるということを知れば手品を超能力と勘違いすることはない。ではどうするか。すべてが幻だと分かるためには自分が幻を作り出せるようになればいいのだ。手品でいえば自分も手品が上手になれば他人の手品を見破れるようになるし、カラクリをよりリアルに感じることができる。密教では、雨を降らせたり、空を飛んだり、色々な幻を見せ、宇宙のカラクリを使ったトリックを学ぶ。密教ではこのような幻を自分で作れるように修行をして、世の中のことはすべて幻だ!と悟ることを目標にする。では、私達はどのように密教法を使えるか。お金持ちになるという資本主義の幸せは幻でしかないのだが、それを悟る一番の方法は徹底的にお金を稼いで、なんだ、お金を稼ぐのは簡単じゃん、といってお金を稼ぐのをやめたときに幸せになれる。

■中観
機能や役割に価値を持たせること。例えば映画を観にいったとき、スクリーンに映った映像は、ただの光の点であり、空であるが、それを観に行く人はそれぞれ機能や役割を自分の行為に持たせる。デートという役割、監督志望なら勉強という役割、暇つぶしの役割もある。もともと空である映画に役割を持たせるのだ。要するに、中観とは、空であるモノに、仮の機能や役割を持たせること。中観があるから映画には観る価値が生まれる。だから映画はフィクションでいいのだ。娯楽という役割を持たせて、楽しかった!でいいのだ。空観だけなら、なんで空の作り話をわざわざ見に行く必要があるの?となってしまう。また、小説を読む人に対して、批判する人もいるが、小説にも娯楽や暇つぶしなど役割がある。当時の風習を学ぶこともできるかもしれない。なんであれ小説にも役割は与えられる。全ては空であり、全ては仮なのだ。

空観と仮観を学び、中観の見方ができるようになれば相手の存在を認めるという視点が生まれる。逆に相手の存在を認めるという視点は、中観でしか生まれてこない。空観だけでも仮観だけでも危険だ。両方が成り立って初めて安全な思想、中観が生まれる。正当なチベット密教では空観だけでは危ないと分かっている。だから空観を徹底的にやったあと、仮観をやる。できるだけ中観を目指したい。つまり釈迦になりたい。

■トレーニング方法
空観と仮観を実感し、究極の幸せである中観の境地にはいるためのトレーニング。常に今が幸せだ!と感じられるようになる。

(1)自我を見つめる空観トレーニング
目的は自分そのものが空であると実感する。まず自分を定義する。名前、住所、電話番号、父親、兄弟、、、学歴、職歴、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、勤めている会社などなど。次にそれら一つ一つを定義する。東京都港区に住む人なら、東京都とは何か?港区とは?などを定義する。そうすると、ネットワークは無限に広がっていく。東京都を物理的に定義しようとすると地球を、太陽系、銀河系、宇宙を定義しないといけなくて、結局できないことが分かる。さらに分かることは、自分を定義しようと思ったのにいつの間にか東京都という土地を定義したり、電話番号という数字だったり、父親だったり、すべて自分以外のことしか語っていない。こうして自分は空であると分かる。

(2)悩みを見つめる空観トレーニング
自我を見つめるトレーニングと同様に、自分が抱えている悩みを定義する。上司との人間関係ならば上司、上司と自分の関係などを定義する。そうするとやはりさきほどと同様にネットワークは無限に広がり、すべて空だと分かる。つまり悩みに実態がないと分かる。例えば、著者は訴訟をひとつ抱えているが、訴訟とは何かと考えれば勝つか負けるかしかない。賠償請求で負けたらいくらかお金を支払わないといけない。でもそれはお金の問題。賠償金が会社にあるお金より小さい場合は払えばいいので問題なし、大きい場合は払えないだけなので、やはり問題なし。悩みには実体がないので、悩むこと自体無駄なのだ。

(3)全てが幻だとわかる空観トレーニング
普段の生活の中で全てが幻想だとわかるトレーニング。例えば、テーブルの上のコップがあるとするとこのコップを止めて観る。つまりコップはただの素粒子の集まりとしてみる。だからコップは存在していない。存在していると思うから存在しているだけで存在していないと思った瞬間コップは消える。このトレーニングは一日中できる。着ている服や靴、通勤に利用するバスや電車、上司など、ただの素粒子の集まりだ。そのように過ごしているとすべてが幻ですべて自分の心が作り出しているということが分かる。今を生きるようにすれば悩みは一切なくなる。未来も過去も全てが幻想だと分かる。このトレーニングで結局は自我は空だという結論になる。どのトレーニングも結論は同じ。

(4)ものに役割を持たせる仮観トレーニング
仮観とは、仮の役割を持たせること、仮のゴールを設定することだ。これは自我を見つめるトレーニングを逆にすれば良い。自分を定義するのに、住所、電話番号、父親などと定義したが、その逆の立場から見てみる。土地から見れば、自分は立っている人、好きな食べ物から見れば、私は食べる人、などなど必ず自分の役割を定義することができる。

反対側からみると仮という感覚がわかりやすのでこのようなトレーニングにしている。反対側からみると自分が宇宙に役割を与える存在であることが分かりやすい。自分も宇宙の役割にすぎないのだから当然。自分と土地の関係は自分で選択して自由に変えられる。歩けばその役割はなくなるし、自由自在に変更可能。つまり、どちらから見ても役割というのは仮でしかない。このトレーニングは空観と仮観を徹底的にするのに役立つ。

(5)情動を利用した仮観トレーニング
仮のゴールを設定するトレーニング。あくまでも空観を行ってからこのトレーニングをすべき。ゴールが妄想だと分かってないとカルトになってしまう。基本的な考え方は同じで、全てが妄想なのだからどうせなら幸せな妄想をするということ。

まずは自分がどういう状況で最も嬉しいか、楽しいか、気持ちいいかを考える。そしてその状態が何かを徹底的に考える。考えたら、いまその状態になっているとリアルに認識する。そのために過去の情動記憶を使う。過去の情動の中で一番嬉しかったこと、楽しいかったことを一つ挙げて、それを何倍にも広げていく。例えば小学校で運動会で1位になったおとを、オリンピックで金メダルというのにして妄想する。過去の情動を使うのはその妄想をよりリアルにするためだ。この際、注意すべきは、妄想の時に条件付きにしてはいけない。オリンピックで金メダルとったら嬉しいだろうな、と考えずにあくまでも実際にオリンピックに出場して金メダルをとったとリアルに妄想するのだ。

(6)今を最高に幸せと思うトレーニング
今自分に起きていることが自分にとって理想的だという理由を考える。トレーニングというより、常に今が理想だという理由を考えるように癖をつける。例えば、朝、交通事故にあっていたかもしれない。あわなくてよかった。隕石が落ちてきていいたかも、落ちなくてよかった。などだ。最初は論理的に考えるよう練習するが、なれれば無意識にこう考えるようになる。

ここまでくればもう分かるが、実は現在の自分も妄想でしかない。しかし、妄想の幸せも幸せである。逆にいうと本当の幸せとは本気の妄想なのである。本気で今の自分が最高に幸せだと思えるかどうかがなのだ。

以上、主な内容であるが、要するに、「人間は主観でいきているし善悪の感じ方も社会に決められている」ということを多くの人が理解していると思うが、そこから一歩進んで本気で、この価値観をいったん外す方法(トレーニング)を彼は紹介しているのだ。そして自分なりの価値観を育めばいつでも幸せな状態でいられるということ。ちょっと胡散臭い部分もあるが非常に共感できる。取り入れる部分は大いにある。

ちなみにもう一冊の超記憶法は、特筆すべきことはない。定期テスト前の学生など大衆向けによい記憶法を教えているが、方法的には新しいものはない。1つだけよかったのは、よく「記憶するためには失敗するのがよい」というが、具体的にどうするかが書いてある。例えば、英語のAとBの対話があったら、Aの発言をみてBの発言を推測して全部答えてみる。そのときできるだけ本気でやるのだ。いろいろな論理を考えてBの発言を書く。そして回答を見るとどこが違っているかが分かる。要点は本気で思考すると忘れないということ。

というと、普段中国人と接している人は、そうか?と疑問を持つかもしれないが、私は肌感覚でも納得できる。まず一般的な80年、90年代生まれの若者も日本人の日本史理解よりは確実に中国の歴史(三国志)とかを知っている。そして、社会的に活躍している人(私が接するのはビジネス界になってしますが)の多くは歴史のヒーローが好きで、たまに引用したりする。以下の本で、説明しているような中国史上のかっこいい話に中国人は憧れており、歴史が好きだし、自分も歴史に名を残したいと思っている。

詳しい内容は、以下、小室直樹の中国原論から見てみよう。

■中国の最高聖典、それが歴史
正史に名を残すことこそ中国人にとって最大の願望であり続けてきた。中国人にとって歴史がどう作用しているかを徹底的に検証している。

「既に芳を後世に流す能わず、また臭を万戴にのこすに足らざるか。」Byカンオン

良い名前を後世に残すことができなかったが、悪い名前でいいから万世に残したい、スキャンダルでも無名にまさる、ということだ。これが中国人の執念。悪名すら残したいのだからよい名声を残すためならばどんなことでもする。生命でも少しも惜しくない。

吉田松陰や橋本左内など維新の志士たちに熱狂的崇拝者が多い文天祥の正気の歌は長く愛唱された。元がウルトラスーパー超世界帝国を作って、文化大国、経済大国だったが弱かった南宋に襲いかかってきた。宋の皇帝度宗は勅をだして、勤王の士を募ったけれど確実に負けて殺されるので誰も応募しなかった。

それでも文天祥は応募した。暴挙であった。すぐに捉えられ、皇帝フビライの前にひきすえられた。フビライは文天祥を見込んで、降伏せよ、そうすれば首相にしてやると。これは大東亜戦争に負けた時東條英機に降伏すれば大統領にしてやるとでもいう話しだ。しかし、文天祥は拒絶し死刑に処された。この時の文天祥の心境は、次のようなものだ。

人生、古より誰か死なからん。たんしんを留取して汗青を照らさん。(人間は誰でも一度は死ぬものである。同じ死ぬならば、忠義の心を止めて歴史を照らして倫理の模範となろう。)文天祥は歴史の模範となるために死んだのだ。これが中国的殉教である。殉教し、その報いとして歴史に名を残す。これが個人の救済なのだ。

■個人の救済について、
キリスト教であれば、神の恵み(グレイス)を与えられて永遠の生命を得る、にあたる。イスラム教では、楽園(ジャンナ)に入る、にあたる。キリスト教徒が死んで生きる(殉教して永遠の生命を得る)ごとく、中国人も死んで生きる(倫理のために生命を棄てて歴史に名をとどめる)のである。

啓典宗教における啓典、ユダヤ教のトーラー、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーランに該当するのが、中国では歴史なのである。歴史こそ中国の啓典であるから、中国の歴史家は歴史を記すときにキリスト教の正典(キャノン)決定にみられるほどに情熱を集中する。中国の古典にはこれが読み取れるストーリーが山ほどあり、著者も多くを例として挙げている。

■インド文明に唯一勝った中国の歴史
東洋で文化の最も発達した国といえば中国とインドであることに異論はあるまい。がどちらがより発達していたか?文化発達の程度を比べる素朴ではあるが有用な方法として伝播説がある。もちろんこれはラフな方法。文化は高い方から低い方へ流れるという説。この方法によると、インドのほうが中国よりも文化が高い。仏教をはじめ宗教、哲学、思想、天文学、発音学、論理学などは多くインドから中国へ流れ例外はあまりない。これらの諸分野において、インドは中国より格段に文化れべるが高かったと言えよう。

が、文化全ての分野においてではない。その例外は歴史学だ。インド人は何兆年、何京年というものすごく長い時間でものごとを考える。だから何千年、何百年など刹那と変わりない。さらにインド人は抽象的一般真理を特に重んじる。特殊人間の特殊行動なんかにあまり興味はない。そのためインドでは歴史学が存在しないことになった。未発達だから中国から輸入するという発想もなかった。そのため学界が被った損害は計り知れない。例えば釈迦がいつ生まれれたかというのも学者により推定が100年も違う。


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