記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年02月

綿矢りさの「蹴りたい背中」と「ひらいて」を読んだ。「蹴りたい背中」は、綿矢りさが芥川賞を19歳の最年少で受賞した作品である。自分は同じ早稲田で年も2歳しか違わないので、一瞬注目してたが彼女の作品は初めて読んだ。正直、うまくその時の情景や思ったことを表現している感は感心したし、ストーリー的にもエンターテイメント感はあったが、そこまでだった。何か実体験などから描いているのだろうが、ただ、主人公の友人が憎めない腹立つやつ、ということをおもしろおかしく描いただけのようだ。何か小説好きでコピーとか修辞がうまい電通にいる若手社員みたいに感じた。

「ひらいて」については、「蹴りたい背中」よりエンターテイメントとして面白い。ストーリーとしてより引き込まれる。そもそも綿矢りさの本をよむきっかけは外務省のラスプーチン佐藤優が「ひらいて」を絶賛していたからだ。彼の所感を先に読んでいたので、バイアスかかったが、楽しめた。以下彼の書評だ。
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人間関係でも、外交でも、こじれてしまった関係を修復するには、たいへんなエネルギーが必要になります。綿矢りさ『ひらいて』(新潮社)は、どうすれば人間が信頼を回復できるかについて描いた傑作です。

高校3年生の愛は、すこし陰がある同学年のたとえ君に恋をしています。たとえ君の机の中から手紙を盗みだし、たとえ君が美雪と付き合っていることを知ります。愛と美雪は1年生のときは同級生でした。愛は美雪と友だちになれば、たとえ君の気持ちを引き寄せることができると思い、さまざまな策略をめぐらします。ある晩、愛はたとえ君を呼び出し、「私を好きになってほしい。私のものになってほしい」と告白しますが、拒絶されてしまいます。

自暴自棄になった愛は、美雪に自分の策略を暴露します。信頼関係が完全に失われてしまったと思っていた美雪から愛に手紙がきます。そこには、「ほんのひとときでも、心を開いてくれたのであれば、私はその瞬間を忘れることはできません」と感謝の気持ちが記されていました。それから、心を開く力によって、愛と美雪とたとえ君は、こじれてしまった関係を修復するだけでなく、ほんとうの友だちになります。綿矢さんは、人間の心の奥底にある肯定的な力を見事に描き出しています。いじめ問題を解決するためにも心を開く力を再発見することが大切です。
http://www.asahi.com/shimbun/dokusho/booksurf/121031/hop.html
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正直、初見で読んだらこの辺の考察に注目したか微妙だが、結果的にこの佐藤優が指摘しているところを深く読んだ。彼の書評はざっくりしすぎている。この書評を見る限り、「完全に自分を開けば(晒す)人の信頼を回復できる」みたいに如何にもありきたりな結論に捉えかねない。

私になりに解説しよう。愛(主人公の名前)は美雪に憎悪を抱いて積極的に接していく。その結果、ベッドの上でレズったりするわけだが、愛はその憎悪感から、もうどうにでもなれ的に激しくレズる。これが、結局美雪には主観的に強い絆を感じさせることになったのだ。ここから言えることは、どんな感情や行為にせよ、絶対値が強いものは、相手に何かしら響くものであるということ。

憎悪を起に行為したことであるが、そのレズの行為は、完全に自分のコアから湧き上がった何も隠すところもない純粋な意志だったのである。意思の絶対値は強い。これが美雪に伝わった。しかもポジティブに受け止められた。

佐藤優が引用している「ほんのひとときでも、心を開いてくれたのであれば、私はその瞬間を忘れることはできません」の前に次の一文がある。美雪から愛への手紙である。

「およそ、忍耐力など持ちあわせていない人が、たとえ打算があったとしても、私の前でおそろしく辛抱強くふるまい続けるのであれば、私はその瞬間を忘れることはできません。」

これは非常に示唆に富んでいる。繰り返しになるが、強い感情や行為(辛抱強くふるまう)には、その動機の善悪に限らず相手にしっかりと何か伝わる。それが善悪かは受け手が判断する。そこで信頼が生まれるのだ。もし人と信頼を築きたいなら、その行為を突き動かす意思が必要なのである。

結局、人間関係で信頼を築けないとか思っている人々は、その行動の起となる意思の絶対値が小さいのだ。この小説でも分かる通り、その意思に善悪は関係ない。本気で人と本気の意思で接すれば心が「ひらいて」信頼が築ける。これは強盗と人質の間に愛情が芽生えるストックホルム症候群を想像させる。

これは一般的な私達の生活にも示唆がある。平和であればあるほど、強い意思は生まれにくい。それ故、人との信頼も生まれにくいのだ。人は、信頼を築きたいとトップダウンで考えるが、それは間違いで、強い意思(憎悪でもいい)から強いコミュニケーションを経て信頼が生まれるのである。昔は戦争や病気などで死が身近にあり、どんな行動にも意思が強く存在したのだろうが、今は少ない。




上海に行きつけの古本屋がある。中国では基本Kindleで本買っているけど、やっぱり本屋だとまったく興味を持っていない分野にも目がいくので面白い。しかもこの古本屋は狭いけど、ちょうど全部を隈なく見れるくらいのちょうどいい感じ。月に数回行っちゃう。

先日も数冊興味のある本を選んで買った。まったくジャンルは意識しないで適当に選んだ。その中で読んだ2冊が一見して全く違うのに、実は繋がりがあるという感動を今日はお伝えしたい。その2冊の本は、

「女子の生きざま」 By リリー・フランキー
「宦官物語」 By 寺尾善雄

最初の本はリリー・フランキーが女子に対していろいろなアドバイス的なことを書いているみたいなよく分からないないようで、下ネタ満載で15分位で読めちゃう面白い内容なのだが、一ヶ所とりあげてみたい。

「人は皆、セックスするために何かをしているということなのですよ。クラブに行くのも合コンするのも、おしゃれも、その全ての行為は突き詰めると、ファックしたい気持ちによって動いているのですな、実際。いや、本当。だから、どんな日も、どんなときも、人は常セックスする可能性と潜在意識を持っているわけです。」

確かにその通りだ。これは自分も一度考えたことがある。突き詰めるとこれかもしれない。人間も動物なのだから。動物は実際それしか考えてないだろう。とはいっても人間、それだけでは満足しないのだ。

ここで、人間の欲望について簡潔に説明しよう。要するに、究極的にはリリー・フランキーの言うとおりセックスなのだが、それだけではない。順を追って考えると、人間は動物だから、人類という種を長く存続させたいという目的の核がある。そのため人間は、子孫を残すためセックスを求める。精神的にも肉体的にも気持ちよくなれるようになっている。

しかし、それと同時に、大自然の中で人類がサバイブするために一役買いたくなるようにも動機づけされているのだ。人間は社会を形成し、リスク分散して生活を安定させたが、さらにこの社会がよりよくなるように人間は貢献したがる。これは切りがない欲望だ。小さい貢献をしたら、大きい貢献をしたくなるし、いくらビル・ゲイツみたいにWindowで世界に貢献してもまだまだやりたいことが出てきちゃう。こうやって人類の発展に貢献すれば、人類の生存に結びつく。繁殖行為だけでなくて、大自然をサバイブするための能力も人類の生存には必要。だから、この単純な性欲と社会貢献したい2つがあって人類は発展した。

2冊めの宦官物語は、そんな性欲を根本から絶たれた男性の話しである。本の内容は、古代から、ほとんど全世界の王朝に存在していた宦官は、なぜ中国で異例の発達をとげ、強大な勢力集団となったのか。そして、そもそも宦官とは、宦官制度とは何か。英雄豪傑美女たちが権謀術策をこらして争った王朝交代劇を、宮廷の深奥部からあやつった特異な男たちの実像、その発生から実態、生態、歴史、終焉までのすべてを描き出し、秘められた中国史の内幕にせまる、歴史ノンフィクション。

こうすると、宦官は性欲という短期的な目標はなくなり、長期的な社会貢献のほうに集中できると思いきや、そうでもない。歴史をみると、宦官は権力欲が強くいくつかの王朝を衰退させた。そしてびっくりするのは、宦官は去勢してもなおも女性を求めたらしい。とても卑猥なあの手この手を使って性欲を発散させたようだ。やっぱり人間そこなんだ。セックスは人類発展のために必要だけど、セックスだけじゃなくて社会貢献のほうでも貢献しよう。

またまた「憲法原論」からひとつ取り上げたい。要するに、日本には民主主義がないということなのだが、どうしてそれがなくなって何をすればいいのかを説明する。あえて、結論の何をすればいいかについて先に言うと、それはもう、丸山眞男の以下の言葉に尽きる。

「民主主義を目指しての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる。」民主主義にも憲法にもゴールはない。それを求める努力こそが本当の民主主義なのだ。

では、日本から民主主義が芽生え、消えた流れを見てみよう。日本は明治維新後、資本主義化と民主主義化するために、人工的に日本人のエートス(行動様式)を変えた。西欧人がキリスト教の予定説から学んだ勤労の姿勢は、教科書でも徹底的に教えたし、二宮尊徳を上手く利用した。また、これまた予定説から生まれた平等の概念(神の前ではみんな平等)は、天皇を神格化することで達成した。キリスト教ならぬ天皇教である。こうして、勤労と平等を日本にうまく導入し、資本主義と民主主義で近代化を目指し日本は成長した。エートスをうまくシステムに合わせたのだ。

しかし、戦後、このエートスは続かない。1946年1月、昭和天皇は人間宣言をなさる。これにより天皇教は崩壊したのだ。もともとは神である天皇の前でのみんな平等であったのに、天皇が人間となってしまった。そしてアメリカが作った憲法により「平等」だけが与えられた。これを日本は機会の平等ではなく、結果の平等と誤解した。教育現場ではみんな同じでなければいけないという民主主義ではありえない思想が支配している。民主主義における平等とは身分からの平等であり、機会の平等なのである。

同じ誤解は「自由」についても言える。民主主義における自由とは元来、権力の制限を意味した。自由主義とはもともと専制君主や絶対君主の権力を制限することから始まり、この自由主義を守る砦が、議会であった。その議会から民主主義が生まれた。

こうした自由と平等は与えられるものではない。現に欧米人たちは、みずから平等や自由を勝ち取った。自由も平等もその前提となっているのは権力との戦いである。そのプロセスを抜きにしていきなり自由や平等を与えられるとどうなるのか、図らずもそれを示しているのは日本だ。権力と戦うこと無く人権を手に入れたものだから戦後の日本人は権力を監視することも忘れてしまった。その結果が官僚の独裁。民主主義とは国家権力との戦いなのだということを忘れると自由も平等も変質してしまう。こうした誤解の原因は、元をただせば、アメリカ人たちが善意からアメリカ流の民主主義憲法を日本に与えてしまったからだ。

■急性アノミー
戦後、天皇という機軸がなくなり、憲法がアメリカから与えられた結果、日本に起きたのは急性アノミーという状況だ。アノミーとは社会の病気である。人々は連帯を失い自殺する人が増えた。例えば、急に金持ちになり生活スタイルが変わるとそれまで付き合っていた友達との連帯はなくなり前と同じような友達付き合いができなくなり、以前からの金持ちには成り上がり呼ばわりされてしまう。この人はどこにも連帯を見いだせずついに自殺を選ぶ。これがアノミーでありアイデンティティの喪失である。これは心の病気ではなく社会が原因である。

中でも深刻なのは、世の中の「権威」が否定されることにより起こる急性アノミーだ。権威とは何かというと、威張っている存在という意味ではなく、何が正しくて何が正しくないかを決める存在だ。権威とは規範を定めるもの。人殺しがなぜいけないかは何も法律で定められているからではない。権威がそう決めているから人殺しはダメなのだ。

家庭においては父が権威の役割を果たす。幼い子どもにとって父親は全知全能で何でも知っているように感じる。そこで子供は父に権威を感じる。そして父親の命令は正しいとかんがえる、そうした父の存在がやがて心の中で上位自我となるというのがフロイトの解釈。フロイトによればこの上位自我のおかげで、人間は本能をむき出しにせずに生きていける。

しかし、子供が大きくなれば、父が全知全能ではないと気づく。そうするとその子は家庭外に父親の代替物、つまり権威を求めようとする。キリスト教社会ではその役割を果たすのは神だ。さて、こうした権威が否定された時にその人間は、その社会はどうなるのか。そこに起きるのはまったくの無秩序で、何が正しく何が悪いのかわからなくなる。ある人は暴力的になりある人は無気力になる。その典型が第一次世界大戦後のドイツだ。敗戦後権威がなくなった。皇帝は逃げ出し、宗教も力を失って権威がなくなった。そして急性アノミー状態になった。そこに現れたのがヒトラーであり既成の権威をすべて否定しナチズムこそが権威であるとし、みなが飛びついた。

人間は自分の自由意志で動いているようについ思ってしまう。権威なんかなくても自分の頭だけで生きていけると思うわけだが、それは幻想に過ぎない。人間とは社会的な存在であって、本当の意味での個人は存在しない。人間が生きていくためには何らかのガイドラインが必要。そのガイドラインとなるのが規範でありモラルで、それを作るのが権威なのだ。

戦後の日本は、天皇教を抜き取られ、さらには家族制度もアメリカに取られたので、その結果本物の父親も権威を失った。急性アノミー状態である。こうして、父なき社会、権威なき社会になった日本を象徴するのが、高度成長と受験戦争だ。何が正しく何が悪いか決める権威がいなくなったので、ただひとつの尺度は金になった。みんな金持ちになることを目指して高度経済成長が始まった。父親が勉強するのは正しいことだといえばそれはモラルであるが、勉強すれば儲かるではモラルではなくただの損得勘定だである。

こうして子どもたちは両親を尊敬しなくなった。親を金属バットで殴ったりする事件が発生するのだ。また、アノミー社会では連帯感がないから友達をいじめてもなんとも感じないし、子供が凶悪犯罪を犯す。三島由紀夫は1970年11月25日自決するわけだが、その根底にあったのは天皇の人間宣言に対する抗議であった。彼は戦後の日本のアノミー社会を予見していたのだ。

■もはや日本に民主主義はない
北朝鮮の拉致被害者をずっと取り返そうとしなかった。日本政府は北朝鮮との関係改善を最優先にして拉致された日本人を取り返す努力を放棄してた。これこそ憲法違反だ。憲法の急所は基本的人権だ。基本的人権が守られていなければその憲法は死亡宣告を受ける。これに対してマスコミも憲法学者も憲法違反を指摘しないとは奇妙奇天烈なのだ。

明治憲法に始まった戦前日本のデモクラシーは、軍部の台頭により滅びたが、今の日本において軍部の代わりに現れたのが霞ヶ関の官僚である。エリート官僚は議会を乗っ取って議員の代わりに法律を作り、内閣を乗っ取り首相や大臣の代わりに政策決定している。さらに司法権力もものにしている。日本では市町村役場が第一審、県庁が第二審、霞ヶ関が最高裁の役割をしてしまっている。近代デモクラシー国家では、法律は議会が決めてその法に基いて政府が行政し、裁判所がその解釈する。法の乱用を防ぐためだ。しかし日本では法は役人が作り、役人がその法を運用し、さらに法の解釈までやっている。三権全て手中に収めている。

明治維新では、無理から日本に資本主義と民主主義を根付かせ実際に成功したではないか。今の日本は当時の西欧に食われてしまうかというような状態よりも危ない。冒頭で述べたように、自分たちで地道に行動していくしかない。

最近家入一真さんとかが僕ら僕らうるさいので、僕も僕らについて考えた。僕らは自然の中に生きている。都市に住んでいるけど。

普通、都市とはどういうものかと考えると、自然の土地があってそこを平らにして、道路を作ったり家を立てたりするということを想像するだろう。もともとは、「自然」である。というか自然の中だ。自然はなのだから人間のために平らになってなくて起伏あるし、穴があるかもしれない、人間に遠慮なく変形しているかもしれないし、森かもしれない。そのような自然、大自然の一部に人間が自分たちの巣を作っている。そういう「感じ」だ。

私が今回伝えたいのは、東京にはそのような「感じ」が全くない。大自然の延長線上にある感覚がない。全てが人間のために作られて、絶対的に安全だという感覚さえしてしまう。安全神話による平和ボケみたいなもので、人間も野生の動物と同じだということを完全に忘れさせてしまう。

アメリカ、オーストラリア、中国と生活していて、東京都の一番の違いはそこかもしれない。これらの国々では、都市と言っても近くに自然が垣間見れるし、まだ建物がなかったり未整備なところがたまにある。それに建物やその内装についても、東京は剥き出し感が全くない。全てが人間にやさしくソフトだ。電信柱さえも海外のものは鉄とかコンクリートの冷たさを感じさせるが東京のものはどこか温かい。さらに深夜のコンビニ営業とかもあって、午前3時でも4時でもこれだけ安心できる場所はあるか。さらに美味しいファーストフードもどこでもやっている。

だから何?と言われれば特に無いが、いちおう2つ言おう。まず、ネガティブポイントで、人間の能力が完全に経済力とか芸術性とか頭脳の力に集約される危険性。人間は自然の中で生きているのだから動物みたいに運動能力とか野生の勘は必要だ。都市から出てそういう環境になったら対応できるのか。そしてポジティブポイントは、東京は世界でも超やさしい都市だからそれをもっとアピールできること。東京オリンピック楽しみだな。

日本の労働者に仕事には4種類あることを伝えたい。そして、それを理解して自分の人生を考えなおした方がいい。以前のちきりんのエントリーを参考にして、その労働者の種類をまず説明したい。

ーーーー以下ちきりんのエントリーの例を自分の仕事を交えて説明ーーーー
自分は立ち上げに参加したベンチャーで働いている。事業内容は、日本のコンテンツ(主にiOSとAndroidのスマホゲーム)の中国での代理運営(運営とプロモーションなど)と、日本のIPを題材にしたゲームの中国での開発と運営。

以下、世の中に存在する4つの仕事の説明。私が立ち上げに参画した事業を例に使ってみる。

(1)システムの構想をする人(システムより上に位置する)
ビジネスの仕組みを作る人。「こういうビジネスをやろう!」と構想を考える人で、こういう人たちの数はごくごく限られている。

自分の会社の例でいうと、日本のゲームを中国市場に展開しよう!日本のマンガ・アニメを題材にしたゲームを中国で開発して運営しちゃおう!と言い出した創業者達がこれにあたる。

(2)構想された仕組みの設計をする人
(1)の人はビジネスの構想が固まった後、(2)の人に、構想実現に必要な各機能分野について「具体的な仕組みを作ってくれるよう」依頼する。代表的なものはITシステムだが、それ以外にも、いろいろある。要するに、その会社の部門をその事業内容に合うように0から作るみたいなこと。その事業における人事担当者、財務担当者、法務担当者、営業担当者など。(1)の人がこれらすべてをやるわけにはいかないし、そんなスキルもないから、コアメンバーを集めたり、必要に応じて外注もする。(2)の人はそれぞれの分野のプロだから、(1)の人が必要とするものを具体的なスペックに落とし、どの程度の予算でそれが実現できるか見積もり、(1)の人と話し合いながら設計を提案。

自分の会社の例を出そう。分かりやすくIT。ITだったら、例えば、日本のゲーム提供者が、リアルタイムで中国の運営成績を見れる仕組みだったり、全体の売上とかゲーム会社が手にするロイヤルティの金額が分かるようなシステムを0から設計する。非常に付加価値の高い仕事だ。これは別会社の可能性もある。

(3)設計されたシステムを制作する人
詳細スペックが決まれば、(2)の人は実際にその仕組みを作りはじめる。ここでは、(2)の人に指示をされながら(3)の人が具体的な作業をする。人数としては(1)よりも(2)の人が多く、(2)よりも(3)の人が相当多い。

同じ例で続けると、先のシステムを(2)の人が作った設計に基いて実際に作るプログラマーとかSEだ。こちらも外部の可能性がある。

(4)システムに沿って働く人(システムの下に位置する)
(3)の人の作業が終了すると、(2)&(3)の人は(1)の人にできあがった仕組みを“納入・納品”する。(1)の人は自分の構想実現に必要な各機能の仕組みを手に入れ、いよいよ全体としてのビジネスや制度が動き始める。そして仕組みが回り始めた後、それらのプロセスを実際に担うのが(4)の人だ。コールセンターで電話応対をしたり、倉庫で必要な商品をピックしたり、工場で組み立てたり、箱詰めしたり発送伝票を貼ったりする人たちです。(4)の人たちはほぼ100%が非正規社員で、時給で働いている。(4)の人たちはものすごくたくさんいる。

自分の会社の例でいうと、このシステムのメンテナンスしたり、ゲーム会社からの質問に答えたりするとかだろう。ただ、ぶっちゃけベンチャーの立ち上げ期は(1)〜(4)を一人でカバーすることも結構あるはず。成長するにつれて徐々に創業者は純粋に(1)か(2)に落ち着く。

この4つの階級の構造の特徴
・上にいくほど給与が高い。
・上にいくほど仕事は非定型である。すなわち、上にいくほど「ゼロから考える仕事」であり、下にいくほど「余計なことは考えるな。それを考えるのはお前の仕事ではない」といわれる。
・上にいくほど仕事をおもしろいと思っている人が増えるで。
・上にいくほど人数は少なく、世の中の大半の人は(3)か(4)として働いている。
・(3)と(4)には、時給で働く人が多い。(3)には正社員の人もいるが、サービス残業などが多く、実質的な時給は(4)と変わらない場合も。
・(3)の人は将来(2)になれる可能性があるが、(4)の人は一生(4)のまま。
・(2)の人はたいてい正社員。なかには会社をやめて“エキスパート”として独立する人もいる。ごくたまに(1)になる人もいるが、多くはない。
・(1)の人には、大企業の社員や大組織の構成員(公務員など)と、自分で事業を始める起業家の2種類の人がいます。(1)には超保守エリートとリスクテイカーが混在している。
・優等生たる“保守派エリート”の大半は大企業に入社し、(3)からスタートして、運がよければキャリアの最後を(2)で終える。

■4から1への道筋があった「昔の構造」
4種類の仕事は昔からありました。仕事としてはどれも必要ですから当然です。しかし高度成長期の日本では、「全員が(4)からはじめ、成果によって段階的に選抜されながら、(3)、(2)、(1)と昇っていく」というモデルだった。

会社に入った新入社員は、まずは全員が何年か(4)の仕事をしてから、(3)の仕事につかせてもらい、また何年もたってから(このあたりから選抜が始まり、タイミングには相当の差がつくものの、順次)(2)の仕事に移っていく。それにそって給与も少しずつ上がっていく。これが「終身雇用組織における、年功序列システム」。

もちろん本社においては(1)や(2)のポストは限られていたから、高度経済成長期ならいくらでも子会社が作れるので、「あなたは子会社の(2)をやってください」とか「孫会社の(1)にどうぞ」という形で、ほぼ全員にそれなりの処遇が用意できた。だから(4)の仕事をしている人も「今の仕事はつまらないけど、将来は・・」と夢をもつことができた。

変わり始める構造
ところが、平成に入って異なる動きがでてきた。

■「若い間は(4)か(3)だけを20年やっていろ」と言われることに、耐えられない若者
これら、「40才までは、言われたことだけを粛々とやれといわれる人生はあほらしすぎる」と思いはじめた人の中には、外資系企業に転職したり、自ら起業することで、若くして(1)や(2)に飛び移ろうとする人たちがでてきた。

■伝統的な(4)→(3)→(2)→(1)というキャリアパスも崩壊
多くの企業は成長率が鈍り、上に進める人の数が大きく減ってしまった。同時に給与もあがりにくくなった。すると(4)の人に「この制度は自分が(2)になるまで持たない」とか「このまま待っていても一生、(2)や(1)の席は回ってこないかも・・」と思い始める人もでてくる。

もちろん、市場の荒波にもまれることが怖かったり、住宅ローンや専業主婦や教育費のかかる子供を抱えているために「沈むかもしれない船」に残ることを選ばざるを得ない人もいる。

しかしその一方で、「(1)や(2)になりたいのに、(4)から我慢する方法を選ぶのは得策ではない」と考える人も次第に増えてきた。

■4つの階級が独立しだした「現在の構造」
そんな中グローバリゼーションが始まり、たてに並ぶ4つの職はより明確に分断され始めた。どの人たちもそれぞれの海外ライバルと競争することを求められ始めたのだ。

(1)の人たちは海外の起業家や事業家、時には国家と戦うことを求められる。日本でオンラインショップで大成功!と思っていたら、海外企業であるアマゾンが殴りこみをかけてくるとか、日本で一番の空港だ!と思っていたら、韓国の空港にアジアのトップ空港の座を奪われたりし始めた。

日本における(1)の人たちのふがいなさが明確になるにつれ、「このままじゃマズイだろ」と思う“将来の(1)候補”も出てき始める。彼らはもう「日本においては(1)である」ということには満足しないし、そんなことで喜んでいてはしかたない、と思い始めている。彼らが見すえなければならないのは、海外の(1)との戦いだから。

これは(2)も同じ。彼らも海外ベンダーとの競争にさらされている。そして(3)や(4)の人たちもまた、インドや中国のワーカー達とコスト比較される時代になった。

これにより、従来は縦に連続的につながっていた(1)から(4)の仕事は、横に分断されはじめた。(1)は(1)、(4)は(4)であり、時間がたてば(4)の人もいつかは(1)になれる、なんてことはもう起こらない時代になった。

将来的には、この4つはいわゆる階級的に「最初から分断されたポジション」として確定していく。昔は全員が(4)からキャリアをスタートして、順位、(3)(2)(1)と上ってきていたのに、今や(1)の人は、最初からそういう教育を受けた人が横から入ってくるようになった。

新規の労働者が社会に入ってくるときのラインは、以前は(4)の下に横にひかれていたが今は縦になり、学生が社会に入ってくるその瞬間から「どのポジションで社会に入るか」が決まってしまうようになっている。

今でも唯一起こりえるのは、(3)から(2)への移動。(2)から(1)は、ありそうに思えるかもしれませんが、実はあまり起こらない。なぜならその差は、スキルや能力の差だけではないから。
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さて、ここまでちきりんをほぼ引用したが、日本人の多くはこの構造に気づいてない。年功序列制とか終身雇用制を夢見て、新卒で今大企業に入っている人は、何となく自分もいつか課長になり、部長になるんだろうなと思っているかもしれないが、9割以上は何もなければ一生そのままだ。

現に自分の前職でも新卒と同じ仕事をして偉そうに教えている30代後半、さらには50代もいた。彼らの働き方や態度、考え方を間近で見ると、頑張れば新卒でも数ヶ月で抜けるだろうと確信した。そういう残念は多い。ただ、それを自覚していて、仕事を効率化して、定時に帰って違うことに人生の生きがいを見出すならそれはそれでいいと思う。

上記のちきりんの説明に、入り口のラインが横から縦になったと書いてあるが、それは何故だろうか。3つあると思う。まず、状況の変化が激しいので深い知識よりも状況分析して適合する力が大切になったことがあるだろう。さらに、ITの発達で知識をデータベース化して共有できるようになったこ。そして仕事のフローが簡素化されたのもあるだろう。

この構造の変化を早く理解して、人生を改めないと日本の未来はない。大した仕事じゃないのにやたらプレッシャーとか責任感じてる末端のおしゃれなスーツ着た社員とかしょぼすぎる。そこはいつでも替えが利くのだから、ある程度適当にやって他で人生充実させないとダメ。そして、その上のポジションの人は必要だったら下をどんどん入れ替えること前提で、仕組みや仕事の定義をバンバン改善させていくべき。こういうやり方はアメリカや中国では当たり前。日本がもしもっと移民を入れたいならこうしなきゃだめだし、そもそも国際競争力つけたいならそうしなくちゃだめ。

人間社会って、自由な人間がみんなの利になるように社会契約で社会を作った。だからそれは人間の本能が感じ取れる仕組みであるはずだ。性悪説で作られているはずだ。そういう観点でみると、日本の年功序列制、新卒一括採用とかって、明らかに不自然で気持ちが悪い。人間らしさがない。

まあ、結論をいうと、日本はまずは何がしたいか明確にして、自分たちにあった、競争力のある戦略を作るべきだ。何か考えとくから分かったら言う。

小室直樹の本で買えるものは大体読んだがやはり面白い。というのも決めつけた言い方をしないし、そもそもなんでそうなっているのか根本的なところから説明する。もともと数学者なので、数学の証明みたいな感覚なのだろうか。契約の概念にしても宗教革命前のヨーロッパの王と領主の各状況から生まれたもので、それが現在の契約の母体になっている、など根本原因を示す。

彼は社会学者という肩書で、政治、経済、人類学、民俗学、心理学などあらゆる社会学を學んでいる。なぜここまで勉強したのか。何か彼をそう駆り立てたのか、気になっていたのだが、あるラジオで弟子の宮台真司が語っていた。

小室直樹は晩年にこのように言ったらしい。「人間がありえないほど合理的であるとすれば、その動機は非合理なものだ。」と。非常に深い言葉だ。超合理的な人間を作るのは、非合理的な情動なのだ。よくわからない情動なのだ。そこに理屈はない。実は、それは、小室自身のことを言っていたらしい。

小室氏は、日本が戦争に負けたことがショックで、二度と戦争に負けまいと情動に駆られた。原子力の研究などしようと京大理学部に進むが、色々勉強してみると、技術をコントロールする社会の能力がないと悟ったらしい。要するに、前回のエントリーで説明したテクネーだ。原子力などの技術を実践するテクネーがない。だから彼は社会の原理をあらゆる社会科学の学問からありえないほど勉強したのだ。

彼の考えはこうだ。敵のことを敵より徹底的に知り尽くして敵を倒す。敵は近代国家であり、西洋だ。まずは彼らの考えを徹底的に理解する。敵よりも敵らしくなり敵の懐深くに入り込む、それから敵を倒す。そして、この考えは実はもともと岡倉天心から来ているようだ。岡倉天心は、アメリカ生活で例外なく毎日、羽織袴でとうして人気者だった。それを真似した弟子たちに岡倉天心は叱責した。オレはアメリカ人より英語ができるし、アメリカ人よりアメリカ史を知っているし、近代人より近代を知っている。お前が羽織袴の格好をしたらバカにされるだけだ、と。

どういうことかというと、西洋化の波の中、もし日本が単に自分の独自の道を行くというと、近代化できないからトンズラするだけだと非難されてしまう。それ故、西洋人より西洋を理解していなければいけない。深く理解していてそれでも、別の道を選ぶというふうにしないとバカにされる、というのだ。なんとも男らしく粋な考えなのだろうか。実は当時の反体制派の幸徳秋水などを含めてこのような気概の合った人は多かったようだ。

そう考えると現在の日本は情けない。海外で活動する人間も少ないし、ひたすら自分の主張をする傲慢で手抜きな人間ばかりではないか。中国やアメリカを批判するのはいいが、それではいつまで経っても平行線。まずは敵よりも敵を知り尽くし、それから自分たちの考えの魅力を説明したほうがいい。このような人間がいれば必ず日中も日米関係も良くなる。実際に、少しだけ中国語や中国史を知っているだけで中国人から感心されるくらいだ。自分も中国で事業を行っているのだから、このような心構えで中国人に中国のことを中国語で教えるくらいの粋な存在になりたいもんだ。



テクネーという概念を理解することは有意義だ。以前このブログで、言葉では伝えられないことを伝えるのがコミュニケーション力だと書いたことがある。言語にできないから認識できないことである。しかもそれがある目的達成に有効なもの。例えば、テニスのスイングにしても、英語の発音にしても言葉で説明できない、体で覚えるしかないものだ。これは言葉で説明できないから認識できない、だから当然、先生も教えることはできない。これは何もこういう小さいことだけでなくて、会社の経営や原発の運営とかにも存在するのだ。だからひたすら実行してみて掴むしかないのである。

例えば、プログラミングで、RUBYという言語を学ぼうと思えばいくらでも教科書はある。そこに書かれているのは客観的な知識であり、アリストテレスがいうエピステーメである。しかし、それだけでは、システムは作れない。実際に自分で手を動かし使っていくうちにやり方がわかってくる。そして、このわかってくるというのは、言語化できない。何となくできちゃうのだ。要するに、英語の教科書もプログラミングの教科書も、認識できないこと(言語化できないこと)は教えれない。だから、ある読者は教科書を使い成長できるかもしれないが、

以下、テクネーの説明。
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知識が頭で覚えるものであるのに対して、テクネーは体に覚え込ませるものです。知識は講義で教えられますが、テクネーは講義だけでは教えられません。実習が必要です。実習を繰り返して体に覚え込ませることが必要です。体で覚えたことは、頭で覚える知識とは、脳の別の記憶システムを使って、脳の別の場所にしまいこまれます。頭で覚える知識は、陳述記憶といい、内容を言語化することが可能な記憶です。それに対して体で覚えるテクネーは、非陳述記憶で、そのエッセンス部分は言語化することができません。
from 立花隆「東大生はバカになったか」
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こういう概念を明確に意識できると、身につけたいスキルを効率的に身につけられる。自分が何をすればいいのか明確になるし、モチベーションを維持することにも繋がる。なぜなら、言語化できなくて誰も教えれないことが、存在すると分かれば実習あるのみで、進歩を少しずつ確認しながら成長していくしかないのだから。

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