記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年03月

以前小室直樹の著書「中国原論」について述べたが、今回は「中国共産党帝国の崩壊―呪われた五千年の末路」について説明し、感想を述べたい。この本は1989年出版で既に絶版になっているので中古で三千円弱位だして買ったが、それに見合うだけの価値が十分にあった。著者が中国について書いている本は恐らく3冊しかないのではないか。そのうちの2冊を読んだわけで、彼の中国に対する見方がだいたい分かった。その考察の深さにまたしても驚かされた。

全体として、部分部分の主張は納得ができ勉強になったのだが、中国が崩壊するという結論にそれらの部分部分が綺麗に結びついていなかった。これは読み込み不足かもしれないが。本の要諦は、中国は崩壊する、というものである。中国の歴史法則は不変で、ただ単に支配者の名前が変わる易姓革命が繰り返されているだけ。今の共産党支配も全然社会主義革命により作られたものではなく、ただの易姓革命。その根拠と成る部分部分の主張を紹介しよう。

■日本は中国を理解できていない。天安門事件の本質とは。
鄧小平の経済開放政策に西側諸国はかなり大きな好意をよせていて、ソ連経済はほとんど絶望的であるが、中国経済は希望があると考えていた。しかし、天安門事件で、これらの態度が一変した。人民軍が人民に発砲したといって人々は戦慄した。ソ連は東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアにおいて人民を虐殺したが、天安門事件では、自国の人民を虐殺したのだから世界は驚愕した。

僕らの世代にはピンと来ないだろうが、1953年からの第一次五カ年計画では中国は日本よりさきに高度成長をして、日本人の多くは中国に憧れをいただいていた。毛沢東最高的な感じだったようだ。しかし、小室氏によると、鄧小平が実験を握るやその中国観が一変し、次は毛沢東批判をしだした。鄧小平が正しいと思っていた矢先、天安門事件。これで世界の見方に同調し、日本は中国に失望する。

■中国に人民はいない
著者によると、人民軍が人民を虐殺したのは間違いである。中国には人民もいなければ人民軍もないのである。人民の概念は、アメリカ独立戦争とフランス革命とを契機に生まれた。北米植民地は、英国議会に代表を送っていないかったのに英国議会は北米植民地に課税してきた。砂糖税、印紙税、茶税など。これが代表なくして課税なしで、北米植民地は団結して同じ人民という意識を持つようになる。これまでは植民地議会として各州ごとに作られていたが、全アメリカを通じての植民地議会がこのときでき、この集会が独立戦争を経て合衆国議会へと成長していった。その後、リンカーンがアメリカを南北戦争を通じて1つの国家、1つの国民として統合した。これがアメリカン人民の発祥。このような統一がないところに人民は存在しない。人民の要諦は、我々は1つであるという連帯の意識である。

こう考えると、中国に人民はいない。新疆と黒竜江の人間にどれだけの連携があるのか。チベットと安徽省との人間はどうか。地方へいけば何百年前の生活がそのまま残っている。言葉もばらばら、人種もあらゆる民族がいたるところに住み着いている。貴州省と雲南省、隣同士だが産業、経済の仕組みがまるでちがいまるで異星のようだ。このような中国では、人々が連帯するなんてありえるのか。

■中国には何故人民が成立しないか 中国の不変の歴史法則
中国が広すぎるというのは理由にならない。アメリカもそうなのだから。中国で人民の連帯意識が成立しないのは、その古さ、不変の歴史法則がある。中国の歴史法則は5000年も変わっていない。これはマルクス・レーニン主義と真っ向から対立する。マルクス・レーニン主義では、革命のたびごとに歴史を貫く法則は変わる。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、社会制、と段階を追って発展する。歴史は繰り返す、と言われることがあるが、マルクス・レーニン主義では、歴史は変わる、のである。小室氏は、辛亥革命も人民革命もマルクス・レーニン主義でいう革命ではなく、中国は5000年前からずっと変わってないという。

その発端は何かというと、儒教の根本思想にある。古代中国の学問で世界一進歩したもの、それは歴史学であった。そこで西域周辺諸国はみんな中国の歴史をお手本にした。その古代中国史学の根本思想は漢書以降ずっと儒教思想であった。では、儒教思想の根本思想はなにか。それは、歴史法則の不変性だ。社会を貫く歴史法則は変わることがない。永久に。孔子も言っている。述べて作らず、と。自分は永久不変の歴史的真理を述べているだけであってなんら新しいことを作ったりしないと。聖人たる孔子でも新しい歴史法則を作ったりできない。

後年、中国の皇帝はみんな孔子の弟子になった。皇帝の最重要学習科目は歴史学。代表的名君のブランドで売りだした唐の李世民は皇太子教育のための教会書として帝鑑という本を作った。昔のことを鏡として手本にすればどうすれば良い政治ができどうすれば失敗になるかが分かってくるということ。これが典型的な儒教史観である。マルクス・レーニン主義のように革命のたびに歴史法則が変わるのであれば破れた鏡と同じ。儒教という土台にマルクシズムの花は咲かない。

■不変の歴史法則は今でも健在か
では1949年の人民革命の前と後で社会を貫く法則が変わったか。三民主義もマルクス主義も不変の歴史法則の前に敗北したのである。人民革命は、国民政府が有徳でなかったので天は命を変えて、人民政府が誕生した。これは易姓革命に過ぎない。(統治者の名前が変わるだけで社会は変わらない。)この人民政府の正体は、マルクス主義のソ連共産党とは本質が違う。中国共産党の階級的基盤は農民であるのだ。ソ連の基盤はプロレタリアートである。

スターリンは社会主義の建設をスタートしようとして行き詰まった。近代工業国家を建設しようとすれば資本主義でも社会主義でも資本の原資蓄積が必要である。イギリスやフランスは世界の豊饒の土地を略奪して原資蓄積をした。そして資本主義をスタートして世界の先進工業国となった。ソ連は外国を収奪する代わりに農民を収奪した。農民を徹底的に囲い込み働かせて搾取し、反抗する農民を機関銃で撃ち殺した。そして収奪した農産物を輸出して得た代金で重化学工業の設備を輸入した。この原資蓄積によりソ連は大工業国へむけてスタートした。

中国はスターリンを真似することができない。なぜなら農民が基盤となっているため農民から搾取できないのだ。プロレタリアート基盤のソ連は農民を搾取し外貨稼いだが中国共産党は農民党であるためそれができない。これで天安門事件が理解できる。人民軍が人民に発砲した、という理解はまったくの誤解。インテリ、学生、農業以外の労働者は中国共産党にとって異邦人に過ぎない。

ここで著者は明確に述べていないが、要するに社会主義化したというマルクス主義的な歴史の発展はなかったと主張している。人民革命であれば、プロレタリアートが基盤であるはずなのだから。

■不変の例
小室氏は中国においての宗族の重要性を強調する。中国は父系社会であり、父→子で集団を作りこれを宗族という。宗族は必ず同一姓である。王、李、陳、宋、毛などなど。同一宗族の中では結婚できない部外婚制。ただ、同一姓でも同一の宗族とは限らない。これは春秋時代以前からあったそうで、中国の不変性を示している。

その後、中国史の不変の例の流れの中で著者は中国の人喰いの歴史を紹介しているがこれは何をいいたいのか理解できなかった。人喰いはさすがに今の中国では一般的ではないはずである。

■中国の長年の統治方法
儒教は、共同体における道徳を基礎にしている。なので大帝国を統治するときには儒教だけでは不便でどうしても法律が必要となる。儒教と法家の思想を併用して大帝国を治める。これが中国における大帝国の治めかた。

■なぜ古いのか
辛亥革命、人民革命、開放政策など何度の革命や改革をしても中国は依然として古い。その古さとは何か。本質は、中国が大きすぎることにある。突き詰めて言うと秦の始皇帝の思想が今も中国を呪縛している。紀元前221年、秦王政は七国を統一して世界最大の帝国を作り上げたが、この大統一のイデオロギーがその後も延々と生き続けている。一度滅びて粉々になった帝国がもういちど溶接されて大帝国が再建されることはないだろう。アッシリア帝国、バビロニア帝国、ローマ帝国どこにいったのか。欧州では、大帝国が滅びると大統一の思想も消える。これが定常的。しかし中国は違う。秦、前漢、新、後漢、晋、随、唐、宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国にいたる。2300年以前の大帝国の版図が今も生き続けている。ここに中国の古さの根源がある。

大きいことが古いこととはどういうことか。何でも効率的な適正規模というものがある。マンモスも大きすぎて滅びた。国家についてもこれに当てはまる。規模が適正であれば小回りもきくし個性も生かせる。大きすぎると自由競争の原理が働かない。分割民営化前の国鉄は効率が悪くて膨大な赤字で従業員不親切であったが、分割後は赤字は消し飛び黒字になった。今でも自由競争がないのは日本の大学。教授の身分が保障されすぎている。国鉄は分割民営でみずみずしく若返った。大学は朽ちていく。自由競争の原理が働かなければ古くなる。自由競争あれば新鮮になる。中国が崩壊を避けたいのなら2300年前の活気ある春秋戦国時代に戻って再び分割・民営にする以外ない。

■規範
中国には中国人民の規範がなく急性アノミー状態だが、党、官僚、企業などの集団にある規範は存在してしっかり守られている。

■中国は同じことの繰り返し
現代の中国は毛沢東から始まった。毛沢東は農民の出。漢の高祖劉邦もそうだ。毛沢東は8歳頃から四書をはじめ儒学の古典を学んだ。フロイトが発見したように幼児体験が人格形成を決定づける。すっかり忘れ去ったつもりでも、無意識の底に根をおろす。ユダヤ人の家庭だとトーラーが暗記させられるのと同じ。幼児体験は決定的であり、表面的な意識などによって変革できるものではない。

毛沢東は四書を丸暗記した。その古典の内容は血となり肉となり、その人の精神の一部になる。さらに毛沢東が愛読したのは三国志と水滸伝、これまた幼少期にしっかり毛沢東の土台となってしまった。三国志は農民の決起から始まる。中国における革命パターンは同じ。王朝の失政、農民の困窮、困窮のはて農民は流民化、農民が革命の担い手に。劉邦が項羽に勝って高祖になったときも劉秀が光武帝となり漢王朝復活させたのも。朱元璋が明をおこしたときもシナリオは同じ。なので三国志に通暁したら中国の革命が分かる。欧米の場合、革命の主体はブルジョワジーなどの市民であるが中国の場合はいつも農民。

■インテリ嫌いの毛沢東が近代化を阻止し、頑なな成功体験を根付かせた
毛沢東は大学にいかなかったため、インテリグループに入れてもらえず差別され疎外された。そして大のインテリ嫌いになる。インテリは文化大革命において徹底的にいためつけられその後遺症は今でも残る。中国ではインテリの待遇の悪さは世界的に有名。給料も低い。だから中国では出国ぶーう科学者も技術者も芸術者もみんな外国に出て帰ってこない。

毛沢東は水滸伝にならいゴロツキや匪賊など悪い人間をまとめあげ規律厳正な赤軍兵士を作った。そして国民党に勝つ。この成功例から、人民が目覚めさいすれば、奇跡がおこなえる、という思想ができた。そして経済の大躍進も達成した。人々を無気力にさせるためのイデオロギーとともに抑圧的な社会制度を一掃すれば労農大衆の強力な潜在的エネルギーと能力は解放されるというのが毛沢東の確信となった。これが中国の根本になった。その後、鄧小平により毛沢東のカリスマは消されてしまし中国は急性アノミー状態になった。

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とりあえず内容をまとめたが、どれも非常に示唆がある。これらは25年前に書かれたものである。今からこの内容を見るといくつか違うだろという感想を持つ。まず中国は、外資をかなり積極的に取り入れて資本蓄積して経済成長続けた。失業者を無駄に囲い込んだ国有企業もかなり民営化されはじめてきた。それらの外資が経済で大きな役割を果たす中でインテリ層も認められはじめた。また、私の周りの中国人に聞く限り宗族については都市部ではほぼ廃れているようだ。

しかし今でも中国の大多数は地方の農民であるだろう。彼らにどれだけ人民の意識があるかは不明。そして、この本の内容のほとんどが何億もの地方の農村には今でも当てはまっているのだろう。共産党は農民党であり、彼らこそが中国の中心にいる。(ただし、人民という意識は薄いだろう。)これを忘れて北京や上海の中国人を中国の代表と勘違いしてはいけない。腑に落ちない部分がいくつかあるためまた読み返す必要がありそうだ。

ハイパーメディアクリエイターといじられつくされ沢尻エリカをもてあそんだチャラ男、みたいなイメージしかなかった彼には申し訳ない。キンドルで出ている本を4冊(正直どれも基本同じ内容。旅行のやつは、日本の観光業の問題点の指摘や彼の旅行の具体的なやり方や考え方が書いてあって読み物として面白い。)読んで非常に彼の生き方に共感したし、自分の今の考えに大きな影響受けた。なんなら、自分のロールモデルになった。ちなみに、彼の本を読んだきっかけはちきりんがブログで取り上げていたから。

本の内容の紹介は後回しにして、この本を読んだ結論を書くと、私は自分の根底ある考えを今明確に理解できた。それは、「いかに働かないで楽しくいきるかということ」だ。このブログでも書いている通り、自分はインターネットを使って面白くて社会に影響のあるようなサービスを作りたいと思っているが、それは最優先事項ではない。最優先は、働かないでいい生活する、ということ。競争に勝つことより、競争しないことに頭を使うのである。

ちきりんも引用しているが、以下高城剛。
「皆、時代が大変になるといかに新規市場、新規開拓をするか、を真剣に考えます。企業ならそうでしょう。しかし、個人なら「いかに働かないか?」を考える時代でしょう。競争に勝つことより、競争しないことに頭を使うのと同じ。それが、この時代の知恵者のすることだと思います。」

これが私の根底にあると気づいた。というのも、正直このような日本社会では村八分にされそうな思想は、日本育ちの僕にとって自ずと無意識のうちに認めようとしなかった。だから言語化できなかった。そして、いかに働かないで生きるかということだが、要するに自分が好きなことを悠々としながら最低限生きていけるようになればいい。自分は他人がどう思うか知らないが根っからのクリエイターである。幼いころから絵を書いていたし、小学校から高校までは漫画を描いては友人に披露していた。こういう何かを表現したい。そして、社会に影響をあたえるような粋なことを表現したいのだ。この自分の根底にあるもんを呼び起こしてくれた。

高城剛、
「いま、時代にとって必要なのは、あたらしい生き方の創造でしょう。デザイン、スタイルの時代を経て、生き方そのものに創造性を見いださなきゃいけないほど時代は窮屈になってしまいました。あたらしい生き方を提案できる者、クリエイションできる者が、新の二十一世紀のクリエイターだと思います。」

まさにそういうクリエイターになりたいもんだ。ブログを通じて、実はここ1年くらい、表現が楽しいもんだ、もっと何かクリエイトしたいという欲求が高まってきていた。今は、細切れの時間で小説書いたりしているが、まずは1冊、小説でもエッセイでもいいからクリエイトしちゃおう。ありがとう高城剛。

以下に、著者の4冊の中でよかったところを紹介、コメントしよう。ちなみに彼はチャラそうに見えるが、小室直樹や山本七平もしっかり読んでいるし西洋史なんかも要点を抑えているように感じた。かなり長いスパンの歴史と幅広い視点で物事を捉えている。正直自分と思考がかなり似ている。

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「情報とお金はとても似た側面を持ちます。情報を持つ人が偉いという風潮はとても危険です。お金と同じように、情報があると安心する人が多く、しかし事実は、情報に縛られて考えると、動けなくなるのです。」

これは耳が痛い。目的もなくお金貯めたり、情報吸収しまくるのは意味無し、である。私は両方やっている。情報吸収も特段何か目的があるわけでもない。貯めようとするとお金はなくなることを情報は忘れることを常に気にしてしまい、本当に縛られてしまう。これが息苦しさを生む。仕事もそうだ。もっと行き当たりばったりで生きた方がいい。いつ死ぬかわからんし。

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将来的に、世界中の人が意識的に繋がる方向に向かっているという。もう悪いことも隠し事もできなくなる、という。あまり具体的なことは書いていないが、私も以前のエントリーで書いたことだ。要するに歴史が進むにつれて情報の非対称性が解消されているのである。今のフェイスブックやネット上の情報や履歴とかで、いろんな人の考えや経歴が透明になってきている。これがウェアラブルになってきて更には脳内に埋め込まれたらもう隠し事できなくなる。

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なぜクリエイティブな仕事を続けるか?
「良いアイデアが出た時の「気持ちよさ」は、なにものにも代えられないからです。何かが出来上がったときも楽しいですが、それらは大抵チームであり、アイデアは個人によります。」
まさにこれに尽きる。一般的ビジネス的な仕事でもそうだ。PPT作ったり、資料つくったり、メール書くときにも、小さいながら存在する。何かいい感じのアイデアが出たら気持ちいい。もっと自分の表現したいことだけを突き詰めてアイデアが出ればどんなに気持ちいいことか。

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人生で大事なことは?
「何が正しいとか間違っているかとかないと思います。」自分らしく生き、自分の人生に責任ある対応を取ることだけです。責任放棄すると、ツケは必ずくるでしょう。それは人生の法則だと思います。」

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ピンチとは何か?
「ほとんどの場合、仕事上では人、金、時間の問題、個人的には異性、金、健康の問題」
なるほど、たしかにそうだ。

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運についてどう考えるか?
「僕は運というより、この世の全てはタイミングだと考えています。その良いタイミングを運がよかったと結果的に言っているのではないでしょうか。〜自然の摂理を本能的に感じている人は良いタイミングをつかみやすいと思いますね。」

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以上、ありがとうハイパーメディアクリエイター。


出版された頃、話題になって買ったが当初あまり腑に落ちなかった。しかし、今、海外での生活経験や歴史への理解が深まっている中、読むと非常に深い洞察であることに気づいた。内田さんは日本人を世界の中心である大国を必要とする辺境人であるということを主張すべく丸山眞男、梅棹忠夫、川島武宜などの日本論をまとめ直した。というのが本書の要点。まとめ直したというだけあって、本書の要諦を梅棹忠夫の「文明の生態史観」の引用でまとめている。

「日本人は文化的劣等感をもっていて、ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであると思っている。それは、はじめから自分自身を中心として、ひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族との違いである。」

これはまさしく日本人を言い表している。注意すべきは、この特徴は何も悪いことではない。内田、梅棹両氏ともただ単に特徴を述べているだけである。先日拝読した岡倉天心の東洋の理想には、まさに同じことを善いものとして取り上げている。天心は、日本は中国文明とインド文明を維持しさらに洗練させた役割をしたことを肯定的に捉えている。

内田さんは、さらに日本人の特徴として、本当の文化は、どこか他のところでつくられるものであって、自分のところのものは、なんとなく劣っているという意識に取り憑かれている。ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる絶対的価値体系があり、それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくか、もっぱらその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている人間を辺境人としている。

日本人はいつも外の世界に不可抗力的な中心を求めてきた。内田さんは「街場のアメリカ論」で日本は、その歴史において大半を中国の辺境として、そしてここ200年くらいをアメリカの辺境として自分を位置づけている。ある時は中国だったり、ある時は西欧や米国だったり。いつも「きょろきょろ」とよそと比べてばかりで、自前の理念を示すのはどうも苦手だというのが日本の特性。

また、本書では、丸山眞男も引用している。「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」。日本文化そのものはめぐるましく変わるが、変化するその仕方は変わらない。

内田さんは続ける。
「辺境は中華の対概念です。だから日本人は、一度も自前の宇宙論をもったことがありません。日本人は他国に追いつくことを目指すときは卓越した能力を発揮しますが、自分が先行者となり他を導くことが問題となると思考停止に陥ります。日本人は弟子の発想のなかにいつもいるようです。

私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではなく「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。」

本書では一貫して、日本の特徴を中立的に述べるだけである。これを認識することで、戦略たてればいいのである。たとえば「外部に上位文化がある」という想定は無限の学びにつながります。どこまでいってもまだまだ上があると思い込んで道を究めていくことができる長所があるといいます。我々日本人は、最も「学ぶ」ということが性に合う。安倍さんみたいに下手にリーダーシップ発揮しようとするのは日本ぽくないな。もっとキャラに合うことやろう。きょろきょろしながら学んでいこう。

私はたまにyoutubeにあがっている面白そうなラジオを聞いている。この前、映画評論家の町山さんが凄くいいこと言っていた。

以下、ラジオ聴者からのコメント。「私は町山さんみたいに映画を観る時、時代背景を考えたり、台詞の意図を探ったりできません。スピーディーさとかスリル感を楽しみながら頭のなかをからっぽいにしてフラストレーションの発散のために見ています。」と。これに対して町山さん。全ての映画は観客のフラストレーション発散させるために作られてるし、作る側もフラストレーションの発散のために作っている。これがいい映画。

しかし、フラストレーション発散のためじゃなくて、金儲けのために作ったら駄作になる。大体のハリウッド映画みたな存在しないヒーローが存在しない悪党とか宇宙からの怪獣とか倒して何を感じるのか。それらと自分とどうリンクさせるのか。現実的でない。スカッとするのか。こうした映画はマーケティングで作られてて金儲けのため。秋元康的発想。こうしたら受けるだろうということ第一で作られている。この聴者は本当にそんな映画でフラストレーションを解消できたのか?

一方、いい映画は作者がこういったことを表現すれば自分は救われるんじゃないか、とか自分の苦しみをどうにか解放するための表現や妄想として作る。本当に見せたいものである。それがいい映画。映画に限らず、本当の娯楽と芸術とはこういうこと。

ハリウッド映画のスーパーヒーローと悪党の話でフラストレーション発散できるか?ありえないし現実的でない。これはジェットコースターと同じ、電気的に快感を与えているのと同じ。機械的に感覚神経にデータを与えて快感を与えている。一方、ロッキーな最高。何やってもうまくいかない希望のないロッキーがどんなに厳しい状況でも頑張れば勝てるということを示してくれる。オレもできるかもしれない、そう観客に思わせる。 これが本当の快楽。一般のハリウッド映画は、見た後、何も変わらない。ロッキーを見たら人は変わる。負けちゃいけないと思う。これがいい映画。そういう映画が減っている。

ロッキーは現実に根ざしている。これはある種、事実。ロッキーの脚本家であり主役のシルベスター・スタローンは仕事がなく困窮しており、動物園でうんこ掃除とかしてた。そんな彼が妄想しフラストレーションを爆発させた。だからリアリティがある。事実に根ざしているのだ。こうしたら受けるだろうという頭で分析していたらだめ。幼少時代、両親が離婚し学校の成績も悪く自殺も考えたようなスピルバーグは宇宙に託した思いをみごとにETやに表現した。

さて、これは、全ての創作物に言えることだ。私のいるゲーム市場はまさしく秋元康状態で心が痛む。ほとんど全てのゲームは、如何に人を集め、継続してプレイしてもらって、ゲーム内でアイテムを買ってもらえるか、ユーザーの行動を分断化し数値化しそれらをひたすら頭のいい人たちが考えている。売れているゲームの遊び方に、日本のマンガ・アニメの世界を被せて儲けるのは当然流行っている。誰も実体験としてのフラストレーション解放に基いてゲームを企画したりしない。自分はこうした現実の経験(フラストレーションの解放など)に根ざしたゲーム、或いはウェブサービスを作りたい。

ちなみに町山さんの「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」はアメリカの内情を知る上での良書。アメリカ在住のアメリカ通町山さんならではの視点。僕も「中国人の半分は四書五経を知らない」出そうかな。

言語学を学びたいと今まで何冊か本を読んでいる。何故学びたいかというと、「言語が先か、認識が先か」についてどうなっているのか知りたい。これは鶏と卵と同じで、探究心をくすぐる命題である。どういうことかというと、私達は言語を知っているから、ものを認識できるということモコモコした変なものが遠くを動いていて、それに注意を払わなければ、羊という概念は生まれなくて、羊を認識できない。近くに言って、これはモコモコした犬かな?動く生物だけど犬とは違うな、羊としよう、ということで羊として認識できる。

私達は沢山の単語をしっていて、さらに文法もしっているから、それらを自由に組み合わせて意味を発信するのか。それともまず最初に意味が脳内で生まれて、それを表現するために文法に単語を乗せて発信するのか。この辺りはまだ答えが出ていない分野のようだが、言語学や認知科学の分野のようだ。言語学の入門書を読んだ。
 
この本は言語学全体をとても浅く紹介している。だいたい言語学がどういう問題意識を持っているかは分かるが、新しい発見はほぼなかった。イヌイット語には雪を表す言葉が沢山あるとか、「お元気ですか」は文字通りの意味を表しているわけではないなど、みんなどこかで聞いたことあることを、言語学の研究の対象ですよ、と紹介しているだけで深い考察はない。

一箇所面白かったところがある。それはピジンとクレオールについて。言語が発生する過程として、世界のいたるところでオリジナルに発生するのが一番イメージしやすいが、他の言語と接触して新しい言語ができる場合がある。接触の方法は沢山ある。別の言語を話す人達の作った品物が入ってきたり、彼らと商売したり、彼らが移住してきたり、彼らと戦争したり、占領されたり、などなど。

例えば、商売の場合など、ビジネスは人を必死にさせる。別の言語を使う人達と、初接触して、ビジネスする場合、どちらか一方に相手の言語を分かる人がいないわけだから、お互い歩み寄って微妙に相手の言語理解して、どちらの言語ともつかないものが生まれる。こういう混成語をピジンという。

ピジンの目的はとにかく通じること。構造や規則がめちゃくちゃにみえてもいい。しかし、本人たちが気付かないうちにそれなりに規則は決まっていることが多い。ピジン、は普通その場限りの言葉であるが、ピジンを話す夫婦の間に子供が出来、ちゃんとどちらかに直されなければこの混成語を母語とする人が社会的に認められてくる。こうなったらもうピジンではなく、生まれながらにして母語として使う世代が現れたとき、この言語をクレオールという。カリブ海地域にはクレオールが盛んらしい。また、フランス語は、5世紀のガリア地方の言語とラテン語系の言語が混成してできたという説もあるとのこと。いずれにせよ、ピジンとクレオールみたいに新しい概念を知れることは面白い。

前回紹介した「人を動かす [超] 話し方トレーニング【サブリミナルCD付き】 」の続きで、前回は論理的話し方を紹介したが、今回は情動的話し方について。要は家族とか友人と話す場合の話し方の特徴や心がけることが理解できる。

まず、次のことを理解しよう。言葉の意味とは常に状況や文脈とともにあり、言葉自体に意味はない。文脈、コンテクストの状況が意味を決める性質を持っている。例えば、「ジョン!」という名前を言うだけでも、子供に向かって「危ないから走るのはやめなさい」の意味もあるし、空港で女性が男性に対して言うのは「寂しいわ」的になるし、トイレのドアの前でノックしながら言えば「早く出てくれ」だろう。

これを本当に理解すると、話し方で大切なことは、実はどのように話すかではなく、話をする状況であり、それを作ることなのだ。話す状況、話の場を支配できるかどうかが話をうまく相手の心に伝わるかどうかが鍵なのである。

オバマのスピーチが素晴らしかったは、実は最初のyes we canの演説だけだった。なぜなら彼は別に技術的に話が上手いわけではないからだ。最初の演説したときは、強いアメリカが失われつつあり、国民が自信をなくしているところ、黒人初の大統領として何か変えてくれそうなオバマに対して、国民は最初から熱狂したくてうずうずしていたのだ。だからあの時、内容は適当でも盛り上がったのは間違いない。これはヒトラーにもいえるが、彼は演説の天才というわけではなく、演説に国民が熱狂するように話す状況を作り上げるのが抜群にうまかったのだ。

ではどうすればいいか。相手の目的=ゴールを知り、自分の話がそのゴールに合致するものだと思わせて、相手の情動を引っ張りだすのである。あなたが、相手のゴールに合致した話をするということを相手に認識させるということ。よくいいたいことだけ言いまくって相手に引かれて、ああやっぱり自分は話下手だと落ちいこんだりする。これは話し方の問題ではなく話す状況作りが下手なのだ。

まずは、相手の興味の持っている話などから入り、自分の話を聞いてもらえる状況を作る必要がある。そのためには相手の好きなことや相手の話の目的を理解しなくてはいけない。そして、徐々に自分への重要度を上げていくのだ。これが催眠状態並に自分への重要度が高くなれば自分の言ったこと全てが相手の言語の臨場空間の全てになってしまう。

さて、これが大体の情動的話し方についての説明であるが、それをどう自分は活かすか。人と会うときには、何か明確な目的がある場合、これを意識して、いい状況を作ることをまず行わなくてはいけない。これは今まであまり意識してなかった。まあ、いきなり本題でも大体の場合はよいが、何か愛の告白とか、大きな目的のためにはしっかり場を整えたほうがいいな。

これは非常に大事だ。ビジネスでも同じだ。前回の記事で、ビジネスでは論理的話し方が必要と本書は説明していたが、私はちょっとコメントしたい。確かに日本でもビジネスの現場では論理的話し方で意思決定されることが主流になっている。ただし、これはうまくフローに乗ればの話だ。取引先の担当者がそもそもやる気を出して社内を説得してくれるようにするには、情動的話し方で、臨場感を持たせ、実際に社内で動いてもらわなければいけない。その動くときにはもちろん論理的な自社のメリットが必要である。

別の角度からも感想がある。それは、普段友達と会う時も目的を明確にしたほうが良いと悟ったことだ。そういうと、友達と会うのに堅苦しいこというな、という反論もあるかもしれないが、目的が明確のほうが楽しいはずだ。あることを伝えようと本気になれば、感情の共有をできて楽しいし、相手も新しいことをちゃんと理解できれば利があるはずだ。

誰でも、暇を持て余して適当に友達と会って飲んで盛り上がった風になっても、後に特に何も残らなく虚しい経験をしたことはあるだろう。何か小説の感想を伝えたいならそれでもいいし、女の話でもよいのだ。ただ、それを言うならちゃんと伝えよう。家族や友達との会話でもそういう姿勢で取り組めばよりクールだと思う。何にせよ、相手に何かを伝えるための良いやり方を学べたということだ。


苫米地英人さんが面白いので、アマゾンで評価の高いものを買って読んでいる。今回読んだのは、「人を動かす [超] 話し方トレーニング【サブリミナルCD付き】 」。一瞬で読めるが、内容は良い。実際、無意識のうちに知っていることがほとんどだが、あらため考え方を整理できるし、今後は意識的に使えるので、意義のある本だった。

今日はその内容を紹介する。おそらく具体例とか交えないと理解しにくいから、大枠を理解したら、本を買って欲しい。しかも聞くだけでIQとか抽象度高まっちゃうCD付き!普通の人だったらめっちゃ怪しむだろうが、自分は普通に効果を期待している。苫米地さんの本読むと全部共感できるからかなり信頼している。余談だが彼も小室直樹さんから結構影響うけているのがよく分かる。

まず、人は何のために話すのか。話し方には目的別に2つある。論理的話し方と情動的話し方である。前者は、相手や第三者に説明したり、納得させたり、何らかの選択肢からどれがよいか話し合う時などに使う。一般的に意思決定が伴う話し合いと呼ばれる場面で使う。後者は自分や相手の心に働きかけるような話し方。共感、感動、好意、反感、怒り、敵意など感情を引っ張りだしてそれを利用する話し方。話の内容以上に、話をする行為とコミュニケーション重視のときに使われる。友人や恋人との話とか茶の間の家族の談話とか結婚式のスピーチとか。これらをあいまいにしてはいけないが、よくごちゃまぜになる。論理的に意思決定しなくてはいけないのに情で決めたり、家族の団欒で論理的に話したら求めるべき結果を得ることができない。

日本は特殊だということをまず理解すべき(悪いという意味ではない)。日本は狭い場所に多くの人がひしめき合って暮らしてきたので説明に必要な証拠とか論法といったものが既にお互いに共通の意識として持ち合っているため、言わなくてもお互い分かる。そういう状況が続くとあえて言うほうが変になる。しかし、世界はそうではない。戦いと移動の歴史を繰り返してきたヨーロッパ人にとって相手は常に敵だと思って臨んできた。異文化の人との戦いや交流では共通の意識がないため、論理的話し方が不可欠だった。なので、現在グローバル社会になってしまったので、日本も国際基準に合わせなくてはいけない。

民主主義における国家運営は、情動で動いたら非常に危険。すべて論理的話し方で運営されるべきだ。

話が上手いとはどういうことか。それは、話す目的を達成できる話し方が、上手い話し方である。だから、ちまたにあるこの型でしゃべれば上手い話し方だ、みたいなのはありえない。状況によって違うのだから。会社で論理的話し方でめっちゃ成績を出して会社に貢献し昇進しても、どこかで上司に睨まれ左遷させられたら終わり。そういう時はビジネスの場では禁断の情動的話し方も使うべきだ。では、論理的話し方と情動的話し方について理解しよう。

■論理的話し方
三段論法はダメ。トゥールミンロジックが良い。トゥールミンロジックを説明しよう。

データ:主張する内容を裏付ける事実
ワラント:提示したデータが何故主張する内容を裏付けることになるのかという論拠
クレーム:主張する内容

何かを主張(クレーム)する場合、その主張が正しいという証拠(データ)と、なぜそれが証拠となりえるかという説明(ワラント)が必要になる。これが論理の大前提。反論する場合、データの信ぴょう性や妥当性、ワラントの論理や必然性などを突くことになるし、主張側はこれらを事前に想定して用意しておく必要がある。

さらに、論理を強くするため以下を検討する。
バッキング:ワラントが正しいことを支持する証拠、証言、統計、価値判断、信ぴょう性などの情報
クォリファイヤー:クレームの相対的強度の定性、定量的な表現
リザベーション:クレームに対する例外を主張する論理

実際に例を見たら分かりやすい。もちろんめっちゃシンプルなものを取り上げているので実際はもっと複雑になる。

データ:インフレ懸念が高まっている
ワラント:預金準備率を上げれば市中銀行から資金が引き上げられマネーサプライが減るのでインフレが避けられる
クレーム:預金準備率を5%上げるべき
バッキング:預金準備率が引き上げられたら実際に市中銀行から資金が吸い上げられた証拠など
クォリファイヤー:預金準備率を引き上げるとどの程度インフレ懸念が避けられるかを定性、定量的に述べる、など
リザベーション:預金準備率まで全額が貸出に回される経済理論上の理想的なケース以外の留保性向の考察など

■反論の仕方
ある議論について主張されている行動を取るべきと判断されるためには2つの要素が必要。それは必要性と有効性。ある問題があったときにその問題がいかに大きく、それゆえ行動が必要であるかが「必要性」で、ある行動を取った場合に問題とされていることに対して有効に作用するのかどうかが「有効性」である。

(必要性)
必要性に対しての反論テクニックは、問題性(ハーム)と内因性(インヘレンシー)への攻撃がある。問題性とは、主張されている行動をしないとどの程度の影響がでるかということ。良い影響(アドバンテージ)が出る場合も同じ議論になる。これはハームかアドバンテージの大きさ(シグニフィカンス)の攻防が議論になる。

内因性とは、そもそもハームが現状に内因的であるか、また、論題を採択することでハームは解決できるのか、ということ。現状が主張された行動なしでも解決できるならプランはいらないし、現状維持で問題解決できるならそもそもそれはハームではないという論理。

(有効性)
有効性に反論するには、不利益(ディスアドバンテージ)と解決性(ソルベンシー)がある。不利益とは、行うべきだと主張されている行動を取ることでかえって大きな不利益が生じるということ。その行動をとると得られる利益と不利益のどちらが大きいかという攻防になる。解決性とは、主張されている行動が実際にハームを解決できるのかどうかということ。

例を見てみよう。主張は、「厚生年金の不正改ざん、年金記録漏れなど社会保険庁のやったことで年金をもらえなくなってしまう人が多数出る。こんな組織は即刻廃止すべきで日本年金機構を立ち上げる」としよう。

まず必要性の問題性への攻撃は、「年金がもらえないというのはそんな大きな問題なのか」ということ。また「社会保険庁の廃止でもっと大きな問題になるのでは」ということ。内因性への攻撃とは、「年金がもらえないのは本当に社会保険庁という組織に問題があるからなのか」ということ。別に問題があるなら、社会保険庁廃止しても意味がない。

有効性への反論として、まず不利益への反論は、「社会保険庁廃止して日本年金機構を立ち上げたら不利益が生じる」というもの。例えば、結局、社会保険庁廃止したら不正免除問題などがうやむやになり、また同じことが繰り返されたり、国民が起こって暴動おきちゃうということ。

解決性への反論は内因性と連動して、「お金がないことが年金払えない原因なのだから廃止して日本年金機構作っても解決にならない」などだ。反論とはようするにこれら4つの論理をどう使っていくかということ。

また、別のテクニックとしてターンアラウンドというものがある。これは、相手のデータを認めた上でワラントの向きを逆向きにして、自分の主張の論拠にしてしまうこと。

まあそんなとこだが詳しくは本書を読んでみてほしい。私の感想としては、これらの考えは以前から自然と使っている部分もあったが、ちゃんと概念をして理解できたので、今後積極的に使っていける。って感じ。プレゼンの資料の設計にも使える。

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