記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年04月

久々にいい内容。(ちなみに内容はいいが、あまりプレゼンテーションにこだわってないので読みにくい)私は今、コンテンツ市場にいるわけだが、コンテンツとは何なのか、どういう存在なのか。先日読んだドワンゴ川上量生会長の著書で、川上氏はコンテンツとは何かについてずっと考えていたことが書かれていた。映画、音楽、絵画、アニメ、漫画、小説、ウェブサービス、ゲーム。中には名作、歴史的作品と呼ばれるものがあるが、そもそも名作とは何かということにも悩まされる。川上氏が見つけた答えは、「コンテンツとは、わかりそうでわからないものである」という定義である。「人はなぜわかりそうで分からないものに惹かれるのか。それは生物の進化のプロセスから説明ができると氏は想像する。人間が五感を通じて外部からの情報を処理するときには、何かしらのパターンを見いだせる場合もあれば、何も見いだせない場合もある。でもその中間もあるのでは、つまり何かの新しいパターンのような気がするけど確信がもてないというケースである。


「人間は分かりそうで分からないことが気になって興味を持つという本能を進化の過程で獲得したんじゃないか、それがコンテンツに興味を持つ源泉じゃないかというのが、僕の仮説なのです。知っているもののような気がするけど、何かが違う。現実のようでちょっと現実じゃない。絵画や彫刻、映画、あるいは物語といったものに人間が惹かれるのも、そうした特性に惹かれてのことなんじゃないかと想像しています。

〜生存本能がそうさせているのです。わからないものをそのままにしておくのは危険なため、どこかで気にかけておく。そうなると、次に同じものに遭遇したときはこれはこの前と同じものだと判断できます。つまり分からないものをだんだん理解していくのです。

芸術や美術、あるいは宗教というものにしても、なんらかのパターンや理屈を見出すことはできても、完全に理解しきれない部分は残ります。人間はそういうものに惹かれる性質を持っている。逆に多くの人間が完全に理解できるものはコンテンツ性や芸術性を帯びてきません。」

この説明は、私の考え方と似ているが角度がちょっと違う。以前このブログでも書いたが、私は本(他のコンテンツにも言えるが)を読む意義について「新しい概念を知るため」とした。川上氏の考えはこれと同じだと私は理解した。どういうことかというと、人間は言語を使って思考する。また、それと同時に五感を使っていろんな情報が無意識に脳内に入ってくる。無意識に入ってきたものは、言語化できないものが多い。なぜなら言語とは人間が勝手に作った概念の集合だからであり、人工的に作った見方が世界を捉えたただの1つの見え方に過ぎないから、100入ってきた五感からのインプットを30くらいしか捉えられないのではないか。そこで他の人が残りの70の概念を言語化、または映像化、音楽化したものがコンテンツというものなのではないか。

これは、川上氏のいう「分かりそうで分からない」ということと整合性が取れる。要するに、脳内の無意識で言語化されていない部分は、他の人に言われると「分かりそうで分からない」のである。時には、「分からなそうで分かる」こともあるだろうが、前者のほうが新鮮な概念で面白いのであろう。(本当に分からないものは何も感じられないが。)

ここまでは、コンテンツとは何か?についてであるが、川上氏はここから一歩進めて、何故「分かりそうで分からない」ことを人は求めているのかを考察している。短くさらっと書いているが、生存本能的に知らないでいることは危険なので、と書いてある。たしかに、人間は繁殖することを目的にする動物であるので、できるだけ長く生き、種を保存したいはず。その上で、できるだけ外部状況を理解したいという欲求があり、上述の通りコンテンツに触れて新しい概念を吸収したいのであろう。

こういう風に考えると、コンテンツ市場が巨大であるのはよく分かる。また、こういう風に考えると、あらゆる産業がコンテンツ産業の範疇に入ってくる。
 

私は、仕事のモチベーションをお金など経済的なことにはおいていない。お金を稼ぐために働いているのは否めないが、実際に仕事するモチベーションはそこにはない。表にアピールしていないが、精神的には如何に「粋」であるかを意識して、仕事を選んでいるし、日々仕事している。この意識をドワンゴ社長の川上氏がうまく以下の通り説明している。

ビジネスを始めるときは「格好いい物語になるか」を考える
「僕の仕事に関する最大の問題は、仕事へのモチベーションの維持です。僕は常にどうすればその仕事が自分にとって面白いものになるかを考えながら仕事をしているのです。そのためのひとつが自分にとっての物語を如何に大事にするかというスタンスで仕事をやることです。これまで僕は、何かの仕事を始めるときには必ず、それが格好いい物語になるかを考えながらビジネスプランを練ってきました。それはつまりこれからやろうとしているビジネスが社会や業界にどんな意味や役割を持っているか、あるいはそれが歴史的に見てどういう意義が見いだせるものかを考えるということです。

〜僕の場合は単純に事業規模を大きくするとか、世界規模のビジネスをやるとかいったことそのものにはあまり興味がありません。その代わり、それが格好いい物語になるかどうかを気にします。何が格好いいのかということについては、答えを見つけようとしている最中です。たとえば、格好いいことを格好つけてやっているのは、ものすごくかっこ悪いことだったりします。一方、格好悪いことを地道に続けていれば、それが格好いいという場合もあります。」

非常に共感できる。ひとごとで言ってしまえば「カッコつける」ことを目的に生きているということなのだ。これは多くの人に当てはまると思うが、多くの人は短期的、目先のかっこよさに惹かれてしまって、逆にかっこわるくなっている。例えば、髪型にしても色染めしたりパーマかけたりワックスつけてスタイル決めても、それを意図的にやっている時点でもうかっこ悪いのだ。私は昔からそう思っていたので髪型は角刈りみたいなのを子供の頃から続けている。この方がスッキリするし手間が省けるし他のことに情熱を注いでいる感が出て粋なのである。

仕事にしてもそうだ。どっかの一流企業に就職してしまうと、高給や社会的地位、モテたいみたいな意向がどうしても見えてしまう。だから、しっかりと世界を宇宙から説き起こしたストーリーを持って選択した。結局人間はみんな格好つけたがる。それは他人の目線を気にしているということだけではなく、自己を高めた、そんな自分に酔いしれたい意識が絶対にある。ただ、多くの人は忍耐がなくて怒ったり怒鳴ったりするが、そういうのも格好良さの追求が不足しているに過ぎない。

多くの人がもっと長期的に大局的に格好良さを追求したらいい世界になる。どの人間も、社会に属して成長してきたなら自ずと何が格好いい行動か分かるはずだ。上司に報告するとき、投資家と話す時、部下と話す時、彼女と接する時、家族と接する時。どういう準備をしてどういうことをすべきか、分かっているけどやり切らないことは多い。それをしっかりやって格好よさに浸ることが、実は人間の生きる目的ではないか、とすら思える。

ドワンゴの川上量生氏の本を読んだが、自分と考え方が酷似しており驚愕した。ここまで一致したのははじめて。以前から、インターネット上に広場を作りたいとの発言に興味を抱いていいたが、自分の頭の中にある概念をしっかりと言語化していただいたイメージだ。この前のタモリさんの本の感想のときと同じく、何回かに分けて、本書の内容の紹介と私の感想を述べたい。

第一回は、ゲームを遊ぶことについて。巷では、ゲームを現実世界を生きるための練習となるとポジティブに捉えることがあるが、ゲームの致命的な欠陥として川上氏は以下の3つを挙げている。

(1)人間が、コンピューターの決めたルールに従ってゲームをプレイする
現実社会でおおなわれている競争の勝者はルールを決めた人間である確率が高く、人間社会での競争とはそもそもそういうもの。ところが、自分が有利なルールを考え、実行するという能力はテレビゲームでは非常に身につけにくい。なぜならゲームのルールはコンピューター内部に格納されているプログラムによりあらかじめ決められているから。ゲームをやっていると、「ゲームルールは天から降ってきてみんなが守るもの」という世界観。そうではなく現実社会ではルールとは変えられるもので、如何に自分が有利になるように変えるかが競争の必勝法。

(2)反射的な思考能力の早さを競うゲームがほとんどである
深い思考力は身につかない。

(3)コンピューター相手にゲームをやっても人間との付き合い方は学べない
人間社会の競争は基本的には人間同士で行われる。つまり目標を達成するために他の人間とどうコミュニケーションを取るかが、現実社会での最重要テーマである。

川上氏は、ボードゲームなどコンピューターを使わないゲームが好きという。それは、ルールそのものが変わることが当たり前であるから。そしてルールの一部が変わることによってゲームそのものが変わり、勝者が変わるという体験をごく当然のものとして味わうことになる。

思考力を鍛えるためにゲームが適していると考える理由は、シュミレーションゲームに勝つためには、まず「ルールの確認と検証」から始め、「そこから最適解を探していく」という作業が必要であるから。それに対してコンピューターのウォーゲームは、与えられたルールの中でパラメータという数字に縛られてしまう部分が大きくなる。 

以上、川上氏のゲームに対する見方を紹介したが 要はルールの変更が可能なゲーム(ボードゲームなど)は現実社会に近くてやりがいがあり、面白いし、現実のシュミレーションとして勉強にもなるということだ。これは単なる川上氏のものの見方であり、彼が今後ゲームを広めたいとか現実社会に役立つゲームを作りたいとかいう話ではない。

1,2,3どれも現在流行っているスマホゲーム、ソーシャルゲームというものに当てはまる。私がスマホゲームにはまらない理由は、1と3。1について、世界のルールが決まっているというのは現実にはありえないので、そういうフィクションの中で時間を使うのが無駄だと思ってしまう。3については、現在のスマホゲームがもったいないと感じる。多くの人があらゆる場所でプレイできるスマホゲームの醍醐味はユーザーがユーザーと交流できるインタラクションに魅力があるのにそこがうまく活性できていない。たしかにアイテム売買とか攻略などの情報交換は盛んだが、もっと人間的なやりとりが欲しい。でも自分自身正直何をもって人間的なやりとりという具体的なイメージがない。

川上氏によると、明記していないがultima onlineとかをいくつか理想的なゲームのように取り上げている。私にとって理想のゲームはまだないが、私はこれから作りたい理想のコンテンツは、映画でもなく漫画でもなく、ウェブサービスなりゲームの形になると思っている。というは、双方向性があるし、裏に本当の生身の人間がいるからである。次回はコンテンツとは何かについて、川上氏の意見を参考に考察したい。

先日書いたユニクロの柳井さんオススメのプロフェッショナルマネージャーを読んでの感想と、マネジメントについてのエントリーに続き、私のマネジメント論を簡単に述べたい。どんな組織の経営=マネジメントにも言えることだが、トップが不断のない努力を惜しまず、成功したら凄いことだということを社員、特にコアメンバーに徹底的に伝えないとだめだ。自分はもちろんのこと社員に給料以上の仕事をさせるには社員に感情的になってもらうしかない。

肌感覚で恐縮だか1ヶ月や1年の期間の内、経営者は90%以上の間、松岡修造並みの熱さで現場社員の仕事をもぎ取り突っ走っていくくらいの勢いでなくてはいけない。さらに大きな社会的な意義のあるビジョン、そしてその理屈を説く。そのような馬鹿げた熱意と大義のある筋道に、社員は感動し、バカになり給料以上の働きをする。決して北風と太陽の北風の如く社員を働かせようとしてはならない。ちなみに100%松岡修造だったら魔人ブウの時の自爆したベジータの如く灰になりかねない。

自分は現場レベルの社員とコアメンバーとして働いた経験があるが、現場レベルなら全期間の20%、コアメンバーなら60%くらいを全力投球で仕事させなくてはいけない。逆にいうと80%、40%は彼らはできるだけ適当に、手抜きで仕事をすることを覚悟すべきだ。こういう性悪説に基づきながらも、悲観的すぎない現実を肝に命じるべきだ。お分かりの通り経営者は大変なのだ。ただ、本当に90%以上松岡修造の経営者は、こんなこと考えないでもう突っ走っているはずだ。

こう考えると何でシリアルアントレプレナーが存在するのか分かる。彼らは面白く斬新なサービスを世の中に出したいと凄い熱意で取り組むが、ある程度認知されたらもうその熱意はなくなって、次のサービスやりたくなっちゃうから。


 

最近、自分の世界観が変わってきた。今まで僕の世界観は世の中は社会問題が蔓延っていて、新しい技術が開発されたり革新的な仕組みが発明されたり、過去最高の天才が登場しない限り世の中よくならないと思っていた。しかし、よくよく考えるとそうではない。既存の技術や人の素養だけど、かなり平和で安定した社会を築けるのだ。なぜなら、ある人は教育や環境によりかなり禁欲的な生活を自ら選んですることがある。衣食住は質素なもので、人助けを好んで行う、という人は多くいる。こういう人ばかりが世界中で同じような生活をして(もちろん衣食住の生産者は必要)いれば、世は安定する。理論的には可能だろう。

では、何が足りないのか。そのような夢の世界に到達するにはどうすればいいか。それはマネジメントである。如何にみんなが納得できるようにビジョンをしめすか、また、社会の仕組みを変えるには人々の既存のエートスを根本から変える必要がある。それは長期的な計画を立ててひたむきに実行していけば可能である。既にそういう人間が存在するのだから、そういうエートスを人々に身につけさせればいい。世界の50億人をそうさせなくてはいけないのだから大変だけど、マネジメントすればできる。

別に新しい技術や考え方は必要ない。スティーブ・ジョブズにしてもそうだが、様々な知識と経験によりそれをうまく人に伝えて、人を動かしたのだ。ステイ・ハングリーにいろんなことを吸収し、行動し経験しなければ人を動かすビジョンは示せない。それがマネジメント。

しかし気をつけるべきは、いくら正論を超情熱的に同じ言葉や行動で繰り返してもしょうがない。インプットして伝わる方法を考えぬき実行し続け改善し続けなくてはならない。結局、何のインプットもしないで、自分の内面を見つめ続けても何の不変の真理も見えてこない。ひたすら同じ位置で粘り強く主張してもだめ。考えればやるべき行動、まずは動かなくてはならない道筋は見えるはずだ。そこを着実に実行し、目標に到達しようとしなくてはいけない。そこには情熱が必要なのはいうまでもない。経営者なら部下の仕事も率先してやるくらいの気概が求められる。そうしないと誰もついてこない。

要諦は、「何も新しいことなんて必要ない。既存の現在の状況を深く理解し、そこから自分の考えを組み立てていけばいいのだ。難しく考えすぎない。でも超頑張る必要がある。そして超頑張るには、自分を駆り立てる情熱が必要。」これ。別の言い方をすれば、昔の凄い人は、今でも凄いということ。分かるかな。

最近、ある人の書いた日記みたいなのを読んで思ったことがある。その日記みたいなのの結論は、すご〜く単純でだれでも思いつきそうなことだ。だけど、具体的になんでそう思ったのかはリアリティがある。なぜなら彼(彼女)自身が本当に体験して、そう思ったのだから。

そんなの当たり前、と思うかも知れないが、最近私は本を読む時、特にそうだが感想をいい感じに述べるために読んでいる自分の態度に気づいた。この本はこういう本だと語る自分を意識し、それを目的としていたのだ。これは有益な部分もあるが、疲れるし読書を本気で楽しめない。

だから、ものを書くことが多い人は気をつけた方がいい。あまりにもトップダウンに考えすぎて結論ありきで生きていると、純粋なリアリティのある感動を見逃してしまう。ボトムアップ的に自分の五感を通じて考えたものが本当の鑑賞であるし、創造である。

「政治無知が日本を滅ぼす」を読んだ。本書は、「政治が悪いから世の中おもしろい」(昭和58年・1983年)を再版したものであり日本人の政治無知を批判している。秦の始皇帝、斉の桓公、ローマ皇帝ネロ、隋の煬帝、唐の則天武后、ヒトラー、スターリンの例を挙げ、国をうまく治めた名君は、どれも暴君であることを説明している。小室直樹さんの本を読むと、性悪説が土台になっていることがよく分かる。まず冒頭に以下のように説明している。

「権力は腐敗する」「絶対権力は絶対に腐敗する」これは政治学の大定理だから、同一政党に政権を任せきって置いて腐敗したと言って喚くのは夏も真っ盛り、刺し身を冷蔵庫に入れずにほっぽり出しといて腐っちゃったと泣き喚くようなものだ。

「人間というのは恩知らずで、移り気で、陰険で、危険にあうと逃げ出し、そのくせ転んでもただでは起きない。利益を与えれば味方するが、いざ犠牲を捧げる段になるとたちまち尻をまくって逃出するものだ」(マキャベリの君主論より)

それに対する丸山眞男コメント→こういう性悪説は昔からあまり評判がよくない。道学先生からは目の敵にされる。しかしそれは1つには、マキャベリやホッブズの方が道学先生よりも人間の、従って政治の現実をごまかしたりヴェールをかけたりしないで直視する勇気を持っていたというだけのことであり、もう一つは性悪説の意味を誤解しているためである。

人間の本性は悪であるという説であるが、性悪な人間の中でもとりわけ凶悪なのが政治家という動物である。なぜそんな醜悪な怪物を飼っておく必要があるのかというと、醜悪な怪物でないと政治を任せれないからである。国民を豊かにし、社会の混乱を防ぎ国家を栄えさせることができないのだ。これを経世済民というがこれぞ政治の目的であり、これをもたらす怪獣がよい政治家なのだ。

道徳の教えを説く孔子は、桓公を絶賛する。斉の桓公、戦乱で荒れ果てた中国を救った覇者であるが、桓公は人を沢山殺したし、女の数も半端無く、人をいっぱい食ったという。政治倫理とは、よい政治をすることだ。結果良ければ全て良し。それだけ。このよい政治についてだが、昔なら経世済民だけでよかったが、今ならその上デモクラシーを機能させ国民の基本的人権を守ることがこれに加わる。

■政治は特別なもの
政治家と普通の人間とは全く違った動物である。だから普通の人間の倫理で政治家を律すとととんでもないことになる。立派な政治家とダメな政治家との区別がつかなくなってしまう。政治家は普通の人の倫理では決して行ってはならぬことを平気でやらかす人種である。故にこんな倫理に照らしてみると政治家はみな極悪人になってしまう。しかも優れた政治家がいないと人類は生存を続けることができない。船長を失った帆船みたいになってしまう。

船長の倫理とは安全に航海目的を達成することために忠実なことであり、医者の論理は患者を治すために忠実であること。また、この目的実現のためなら日常生活では決して許されないこともゆるされる。いやそれどころではない、それこそが倫理的なのだ。船長は暴風雨のなか、狂乱した乗客や船員の行動が船の安全にとって致命的だと判断するに十分な理由があれば、任意にこれを射殺してよい。

政治倫理とはこういうもので、政治指導者及びその他政治家の義務は国民の安全と生活を保障し、国を繁栄させ、外敵から守るにある。近代ではその上、デモクラシーと国民の権利を守るにある。この義務を忠実に果たす事、これが政治倫理であり、これにつきる。この目的のためなら普通の人間が許されないことも許される。これと関係ないところで何をしてもよく、政治指導者としての評価に影響はない。これぞ政治のエッセンスであり、このことを理解した国民は栄え、このことを忘却した国民は高い代償を支払わされる。

またマキャベリ曰く、政治指導者の場合、普通の人の倫理からみて美徳と考えられているものを備えていてはならない(そんなことではとても、政治家としての義務を果たすことはできない)が、外見上はこれらの美徳を備えているようにみせかけないといけない。という。普通の人の美徳とは慈悲深く、忠実で、愛想が良く、敬虔であることなど。

著者は、普通の人々の素朴な倫理感覚が如何に政治家の評価を誤らしめるかを強調している。田中角栄の5億円しかりハマコウしかり、政治のためのちょっとした悪さは全く問題ないのである。

■政治倫理と個人倫理は別物
近代デモクラシーの立場からこのような主張が正しいというと、今度は必ず、「西洋の理屈ではそうかもしれないが、東洋古来の道徳感覚からするとそうはいえない。」と反論がくる。では、東洋古来の道徳感覚とはなにか。仏教は政治倫理と無関係だし、道教やイスラム系は日本にほとんどはいっていない。そうすると儒教しかないが、日本人のほとんどが四書五経も論語も読まない。

儒教はもともと優れて政治的な宗教で、政治を離れて儒教の存在はありえないのであるが、日本に入ってきたときその政治的な部分がずっぽりと抜け落ち単なる一種の人間学に変身してしまった。私も四書五経をしっかり読んでいないので、目上を尊敬する根拠やそれが具体的にどのように政治の安定につながるのかをしっかり考えてみたい。

政治とは全くの人間の外面的行動のみに関することであり、人間の内面とは無関係だ。従って政治倫理もまた完全に人間の外面にのみ関係のある倫理であり、内面におけるものとは何の関係もない。政治責任が心情責任でなく結果責任であるという根拠もまたここに由来する。


■権力欲旺盛じゃないと任せられない
「政治家の任務は国民を幸せにし国家を安全にすることにあるのだからその目的を実現するためには普通の人間に許されないことでも許される場合がしばしばある。政治の世界は一般人の生活世界とは違うのである。そういう政治世界で有能な政治家であるためには、政治家たるもの、権力欲にたぎっている人間でないとダメである。このことを国民ははっきりと理解すべきである。権力欲のない政治家は国を滅ぼすであろう。権力欲が全然ない近衛文麿は全然だめで権力欲があまりない片山哲や鈴木善幸はほとんどダメだったじゃないか。〜近代デモクラシーが要求している、動機は何であれ手続きと結果さえ良ければよいのだという政治の世界の倫理を我がものとした人間こそあらゆる分野で勝利者たりえるのである。」

これについて、解説すると、権力欲がある=世の中を治めるという大課題をこなすことにやりがいを感じる人間であると理解できる。要は世の中治めてヒーローになりたい人、そのような欲が強い人は、徹底的に治め方を研究して、結局、功利主義的に考え意思決定するので痛々しい犠牲も強いなくてはいけない。

そしてそのような難題に取り組む場合、女性関係や私生活である程度、精神補充しなくてはいけなくなる。でもこの精神補充も結局は、世の中を治めるという大義のためだ。それが権力欲なのである。そういう気概がないと世の中を治めることができない。逆に女性関係やカネ目当てで動いている政治家は小室氏のいう権力欲とは意味が違う。

本書で書かれている政治倫理は、企業のマネジメントにも共通していえることが多い。前回のエントリーで、プロフェッショナルマネージャーを取り上げたが、結局は大義にどれだけ熱意があるかということなのだ。国を治めるために熱意が尋常じゃなければ、痛みをともなう意思決定もするし、女遊びも金もガス抜きに使う。企業経営も同じ。集団をマネジメントするとはそういうもんだ。
 

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