記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年07月

日本から中国へ最近取り寄せた以前から読んでみたかった本の中の一冊。本書は、1542年にラス・カサスにより書かれた。キリスト教と文明の名の下に新世界へ馬を駆って乗込んだ征服者=スペイン人たちは、搾取とインディオ殺戮が日常化している植民地の実態を暴露し、西欧による地理上の諸発見の内実を告発するとともに、この告発によって当時の西欧におけるユマニスト精神潮流の存在を証している。

結局のところ、その虐殺ぶりの凄さを具体的に沢山書いている。非常に残虐で萎える。女性や子供を次々に殺し、さらに火炙りや重労働のあげく使えなくなったら殺すという恐ろしく酷い行為が繰り返されていた。近代の戦争等とくらべても、1500年代なので大量殺戮兵器なので規模は劣るが、その精神的な態度は現代からみれば野蛮な動物である。

ラス・カサスはスペインにこうした殺戮をやめさせるべく報告書をまとめたのだが、皮肉なことにこれらは翻訳され、他国がスペインを攻めるための道具として使われたらしい。要は、また戦争という殺戮のために使われたという逆効果になってしまったのだ。但し、現代ではようやく過去の過ちとして全人類で統一的に反省材料として機能しだしている。人間は制度や教育次第でこんなことをする可能性があることを常に忘れないための教訓として、本書は時が経つにつれその価値を増していく。

今回は、貨幣経済の発達で惣領制が崩壊し、鎌倉幕府が潰れ、金はあるが所領のない足利時代を経て、各地で大名が土地を安堵する戦国時代へ流れを見た。この頃から、日本の自力主義、平等主義、個人主義の基礎ができはじめ、息苦しい社会と静寂を好む侘茶が生まれたり、蓮如によりこの動乱の世の中から救いを求める宗教が下まで浸透しだした。

所領は分割相続され、分与された小所領をもとに開墾を進めて族の所領を拡大し、これを数代つづければ広大な土地を持つ一族になる。惣領がこれを統制し、戦争のとき一族にしたがうものも含めて動員して戦闘単位になる。これが一族郎党で、幕府はこの惣領に安堵を与え、惣領は平時には一族から年貢を集めて幕府に納入する義務があった。しかし、貨幣の所持が普及すると個人主義となり、惣領の統制に服さないものが出てきて納税しなくなる。こうして惣領制が崩壊していく。一族郎党から一族一揆契約という契約集団になってくる。

幕府の政権の基礎となる惣領制が崩壊し、鎌倉幕府は崩壊。諸国の武士は自己の所領を安堵してくれる政府を失ったので各人が何らかの契約をして団結し、自らを守る以外に方法がなくなった。このようにして一揆が成立した。在地小領主、農民、商人、僧侶も一揆を形成。

武士は元来、自力で開墾してきた人々が主流で、従って自力主義である。そして一揆は原則として全員平等で全員が合議して条文をつくりそれに従うことを個人の決断で議決して成立する。これが日本人の平等主義、集団主義の基本であり、集団主義は全員が平等でないと成り立たない。寺院の仏教によって用いられたタゴビニから始まり、幕府の法律制定である貞永式目、さらに国人一揆の契約というかたちで地方領主にまで自力主義、個人主義、集団主義が浸透した。

国人が一揆を形成し、守護に対抗したように農民が一揆を形成し、国人領主へ対抗。こうして農民や百姓に自力主義、個人主義、集団主義が浸透。これが足利時代である。

そして、室町から戦国時代を山本七平は、古い日本を打ち壊してばらばらにして日本式秩序を再構成したような時代とした。侘茶の発生についての考察であるが、能力主義に基づく激しい競争社会とそこから隔離された静寂な空間への希求。同じようにもっとも殺伐なはずの戦国時代に小笠原流という礼儀作法が日本中に普及する。多忙の中の礼儀といった現代にもつづく二面性。

戦国大名は戦争ばかりしていた錯覚を抱くが実際には彼らの関心ごとは所領の経営であった。
小領主にとって、安堵さえしてくれたら主人は誰でもよく、それを安堵している大名は、自らの両国を安堵してくれれば日本国の支配者は誰でもいい。そして秀吉が現れることになる。血筋、家柄が価値を持っていては彼は出現しない。秀吉が樹立した体制は基本的にこの体制の全国版に過ぎない。秀吉の下に有力諸侯で構成する五大老がおり、そのプリムスインテルパーレスが家康。

農民たちは一揆を形成し、次第に勢力を増してきた。そしてこの宗教的空白地帯に注目し、積極的に伝道したのが蓮如である。今では日本仏教諸派の中でも最大の浄土真宗も蓮如という大教団の組織者が出るまでは微々たる存在であり、本願寺もとても小さかった。鎮護国家の宗教として上から下へ入ってきた宗教なので、末端までは染み入ってなかった。蓮如は惣を講にかえるとう方針をとった。講とは同じ信仰を抱く俗人の集団である。

このあたりは、正直今の時代を生きる我々にとってイメージしずらい。国人、武士、所領、惣など中々概念がすっと入ってこない言葉が多い。ただし、流れは掴むことができた。結局、毎回思うことだが、日本は一番最初に邪馬台国とかその前らへんでぽつぽつと村社会ができており、農業のためゆるく結束していたわけであり、その時のエートスがもう、今日まで根底にあるわけだ。表面的には結構変わっているようで根本は同じ。 

製造業やソフトウェア開発などなど実際のものやサービスを作る理系の人、現場でサービス業に携わる人以外の文系世界はその世界がいまいちわかりづらい。どういう能力が必要なのかとか、どうしたらレベルがアップしたのか分かりづらいだろう。ここと考えてみたい。(ちなみに文系と理系という区分は、今回のエントリー書くために便利だったのであまり定義にこだわらず使っていることをご了承)

結論を簡潔に述べると、「人間社会のルールの大目的から具体的な規制、慣習の理解度」が文系の能力を決める。社会契約の考え方から、憲法による法の支配、法治主義から外枠ルールを明確に理解し、さらに業界に関わる政令、条例、規制を理解する。さらに、ボトムの技術や人々の考えを理解して上の外枠ルールを変更できる能力が文系界での能力の成長の道筋である。

大きなことをやろうとすると、必ず世界の外的ルールにぶつかるはず。それは明確な法律であるかもしれないし、慣習的なことかもしれないし、既得権益者の反対かもしれない。これらをクリアするには、大義ある価値観と、現場の具体的理解、それらを踏まえた説得力と実行力だろう。ちなみに、実行力という観点からいうとどの世界でも人脈というのは重要になる。しかし、私は上述の理解度が突出しており超優れた道筋を示せれば道は拓けるという信じている。

この前、岡田斗司夫氏の「アニメの教科書」で書かれている以下のことを紹介した。作品作りにおいて、作者が抱いているテーマは読者には絶対伝わらない。しかし、テーマという強い思いが作者にあるからこそ、作品の細部まで精度が高まり、迫力が出る。その迫力を読者は感じて喜ぶ。読者は自分でテーマを発見するかもしれないが、それは作者が想定しているものとは異なる。

同じことは、 宗教にも言える。私からすれば宗教もコンテンツであり、作品である。作り手は何かのテーマがあったはず。ストーリーもあるだろう。信仰者はそれを信仰しているわけであり、信仰しているかしていないかの2つしかない。内容を正しく理解しているかいないかは関係ない。だって、そもそも正解なんてないのだから。キリスト教もイスラム教も作者は一人じゃないし、作品の正解の理解はこれです!と明確に言えるわけがない。あんな膨大な量の作品。

ある人が戦国時代の踏み絵を躊躇していた信者はキリスト教がわかっていない!キリスト教は偶像禁止なんだから。みたいなことを言っていたが、そんなのどうでもいいのだ。神を信仰しているから、神が描かれたものを恐れるという理解は論理的だ。彼らもキリスト教信者としてカウントしてもいいだろう。なぜなら、ポイントは彼らがどう思うか、だからである。

ロラン・バルトの「作者の死」という考えによると、あるテキストの作者がそのテキストにおいて何を意味させようと意図したかは、そのテキストの解釈において重要ではないとのこと。テキストは作者一人の声のみにより構成されるのではなく、むしろ外部の影響、無意識的衝動、その他の既存のテキストなども含む、そのテキストとのコミュニケーションを形成する様々な要因によるものだとされる。 

宗教も同じであり、その人が主観的論理性により信じられて、そこに我が身を任せるような信頼があるのであればそれは宗教であり、神の名前や生い立ち、世界の誕生などの細部を間違えていても何の問題もないのである。 

楽天の若き執行役員である北川拓也氏の記事にいいことが書いてあった。
(http://www.growingcompany.jp/interview/rakuten/kitagawa)

ちなみに彼の経歴は、
「1985年生まれ。灘中学・灘高校卒業後、ハーバード大学に進学。数学、物理学を専攻し最優等の成績で卒業。その後、ハーバード大学院にて博士課程修了。理論物理学者。現在、楽天株式会社執行役員、ビヘイビアインサイトストラテジー室室長。」
とのこと。ほぼ同世代なのでその経歴には刺激を受けざる負えない。

私はこのブログでいつも書いている通り、「幸せ」を積極的に感じられるサービスを作りたいと考えてきた。その「幸せ」というのは主観的なもので、人からとやかく言われる筋合いのない幸せのことだ。北川氏は「幸せ」への取り組みについて以下のように語っている。
 

ポジティブサイコロジーという分野があるのをご存知でしょうか。今までの心理学や医療は、「具合が悪い人を治す」という考え方から出てきていました。病気の人を治すために医療があり、うつの人を治すために心理学が存在するといったように。しかしこの20~30年で、「うつの人を通常の状態にするのと、健康な人が幸せになるのとでは全くアプローチが違う」「もっと普通の人が幸せになるような学問を進めなければ」という考え方が出始めました。僕もそういう分野を勉強しながら、「幸せとは何か」ということを常に考えています。具体論でいうと、「通勤時間を短くすること」「家の中を静かにすること」「1日10分、死について考えること」「1日1回、人に親切にすること」といったことが、人間の日常の幸福感に直結することが知られています。 例えば最後のこれって、DNAに直結しているんです。人間がサルと何が違うかというと、一緒に何かができることや、物々交換ができることなど、要するに「社会的存在である」というのがカギなわけです。それは人間が偉いわけでもなんでもなくて、「生物学的に、社会的生活を営むと幸せになるようプログラムされているから」というだけなんですよ。そういうサルだけが進化論的に進化できたから、今の人類があるわけです。だから、僕たちは「社会的な生活を営むと幸せになる」んです。人に親切にするということは、生物学的に幸せになるということなのですね、人間にとって。

ただ、極端な考え方をすると、もし人間の頭がどんな化学物質でも分泌できて、どんな刺激でも与えられるとしたら、人間は脳だけで幸せになれるという映画の『マトリックス』のような世界もあり得ます。恋愛をすれば人は幸せを感じますが、同じ感覚を得られる化学物質を脳内に分泌させることができればいいじゃないか、といったように。しかし、それは倫理的にも技術的にも現実味がありません。だからこそ僕は、人間の幸せを考えるときに、日常生活の中でどういうスイッチを押せば幸せになるのかをできるだけ理解したうえで、取り組みたいと思っているのです。


私も彼のように、マイナスを元に戻すサービスではなく、積極的に幸せを増やしていけるようなことをしたい。なんせ人生は主観だから。そこで重要なことは、彼の指摘する通り「社会的な生活を営むと幸せになる」ということだ。(但し、実際社会から疎外され、このような社会的な幸せを感じられない人もいるかもしれない。)誰でも、例えば電車で席を譲ったり、ドアを押さえておいてあげて感謝されるだけでも何か嬉しくなるものだろう。こういうのを科学的に分析して新たなサービスに応用してみたいものだ。

進化論が、歴史認識を誤らせるように、マズローの欲求5段階説は人間の幸せについて見誤らせると私は考えている。衣食住などの基礎的な欲求と、承認の欲求、自己実現の欲求などを一直線上に同類として並べることなどできない。まずはありのままに幸せとは何かを理解することが先決である。 

アニメ制作に多く関わってきた岡田氏の著書「アニメの教科書」を読んだ。「テーマは伝わらなくていい。迫力は伝わる。」という小見出しのところで、超納得のことが書いてあった。

作品作りについての記述のところであるが、「テーマ」というのは、作品を作る人たちがモチベーションを保つために入れているということ。作品の受けてとは関係なし、と言い切っている。モチベーションさえ保てれば妥協がなくなる。本気パワーという不思議な力が発生し、作品に迫力が出る。その結果、作品の細部、例えば氷の破片を一つ一つ作画しているところが凄いとか、そういうところまで評価してくれる。結果おもしろい作品になる。

岡田氏が言い切っているのは、「テーマとして入れた作り手側の思いは永遠に届かない。」ということ。届かないけど、作り手と受けての間には作品という形で共有しているからそれでいい。作者は作品に自分のテーマを込める。おかげで作品はクオリティが上がって面白くなる。結果、観客は作品を観た時に自分が見たいテーマをその中に見つける。でも、自分なりのテーマを見つけられるほど内容に没入できるのは、面白いからである。

「作者とテーマ」「テーマと面白さ」「観客とテーマ」この3つはそれぞれ直接に関係しているが、「作者→テーマ→観客」という関係は期待しないほうがいいし、目指すべきではない、と言っている。どんなに愛し合っているカップルでも互いの想いそのものは永遠に届かない。でもどれくらい好きかだけはなんとなく分かる。愛ゆえに取った行動の結果、例えば早起きしてお弁当つくったりバイトしたお金で指輪を買うという行動は相手にちゃんと伝わる。でも、本当に伝えたい自分の気持ちそのものは伝わらない。だからこのような行動で相手に伝えるしかない。

たしかに、全力で汗かいて作った作品というのは、何かしら相手に伝わるものがある。細部にこだわりがないと、深く洞察する気にならない。逆に深く洞察すれば、どんな作品でも受け手が何かしら捉えてくれるものだ。 アニメ制作に関わらず、小説、また、日々の仕事上の企画書、メールなど何にせよ自分の中でテーマを持ってアウトプットすると、予想はできないが、何か相手に感じてもらう可能性は高まる。狙った通りの感情を抱かせるというのは最初から諦めた方がいい。まずは自分の想いを形にすることだけに集中すべき。

韓非子は権力者に対して超警戒して、どのように接するべきかを説く中国古典の1つである。以前は、今の時代こんなに横暴な王などいないからあまり学ぶことないのでは、と考えていたが、最近つくづく本書に学ぶことが多いと感ずる。ちょっと説明しよう。

人って結局、その時の気分次第なのだ。初めて会う人に対して好印象を抱くか悪い印象を抱くかというのは、多くの場合その人の気分に依る。

アメリカの競技ディベートを知っているだろうか?一回youtubeでその試合を見てみるとびっくりすると思う。ひたすら論理を戦わせる知的スポーツである。ディベートでは、試合が始まったときに、命題を支持するか否かが決まる。弁護士として原告と被告どっちを弁護するか、というようなことだ。要するに、如何なる立場でも論理で保護をするということである。逆にいうと何でも後付け理由は可能である、という前提がある。

何故、ディベートの話をしたかというと、後付の論理的理由は何にでも追加できるのだ。人間は、基本的に、意識の根本では、言語を前提とした論理的思考はあまりしていない。主観的に、その時の気分的に判断を下してその後に、理由付けする。この事業をやりたいという理由もやめた方がいい理由も100個ずつ挙げることは可能だ。

だから、論理が基本となると思われている現代でも、結局、人は適当というか感覚的に判断する。人間関係もそうだ。韓非子の時代と同じ。権力のあるものへの接し方は十分に注意すべきだ。

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