記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年08月

今回は、いつものごとく山本七平の「日本人とは何か」から3章分、16章〜18章の
  • 鎖国は果たしてあったのか
  • キリシタン思想の影響
  • 家康の創出した体制
について進めた。

まず、鎖国についてだが、鎖国は家康の時代にはなかった。彼は逆に積極的に外国との通商を行った。キリスト教についても国法に従い、公序良俗違反しなければOKであった。一向一揆のトラウマがあった家康は、(宗教上の理由ではなく)国策上、1612年にキリスト教を禁止にした。個人の信仰については介入しなかったのだ。関心は常に国益であった。

秀吉のバテレン追放令も、その理由は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」であったので、政治的な理由である。

1623年、イギリスはオランダとの競争に敗れて平戸を去った。1637年島原の乱後、幕府は本当にキリスト教を厳禁し、ポルトガルと断交。このあたりから鎖国という。平戸のオランダ人を長崎の出島に移した。さらに海外移住の日本人の帰国を禁じて日本船の海外出航も禁じた。こうして海外との交渉はオランダと韓国を除いて断たれ、明国との国交はないが長崎渡来は許可した。

ハビアンという、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本人のイエズス会修道士が日本人の当時の宗教観を理解する上で重要。もともとはキリスト教の第一人者で布教していたが、その後棄教する。当時日本にない宗教はイスラム教とユダヤ教だけで神道、仏教、儒教、キリスト教が併存しており、ハビアンの態度はこの4宗教を比較検討し、いずれかを選択するという感じ。主体性は自ら保持しているのだ。相対的な優劣に基づくから絶対ではない。朱子学一辺倒の韓国とは全く違っていた。

粗暴な個人主義と物質主義が横暴した時代に、この時代に耐えられなくなった人々が何らかの社会秩序の基本となる宗教を求めた。この点で神儒仏が無力であった。そして自然神学的な客観的に論理的に世の中を説明するキリスト教が多くの人に信じられたが、それでも他宗教と比べると一長一短でありハビアンも結局は棄教した。

諸宗教、諸思想の中から合理的と思われるものは採用し不合理と感じたものは捨ててしまう。明治や現代もこの伝統の延長線上にある。日本人は、自分や社会のためになるものであれば部分部分であっても取り入れる。矛盾を含む1つのパッケージよりも、いろんなパッケージからいいとこ取りをするという合理的ともセコいとも捉えられる精神を持っている。

また家康の統治体制は基本すべて先例にならっており鎌倉の伝統を受け継いでいた。信長は乱暴に一揆的社会を打ち壊して自己の統治権を末端まで貫いた。特に最大の障壁である宗教勢力、特に一向一揆を打破して世俗的支配をするため徹底的に旧秩序の破壊が必要であった。その後を継いだ秀吉は巨大な分国大名をさまざまな方法で自己の統制下におき、五大老を中心とする分国大名連合のような統制で全国支配を確立、そして家康はこの二人の遺産を幕藩体制という形でまとめあげた。統治神学として、朱子学を用いたが西洋にも目をむけていた家康が朱子学一辺倒になることはなかった。

この辺りは、あまり変化がなく面白くない時代と言われる。ただ、朱子学の日本への影響についてちょっと調べてみたい。 

私は世界をよりよく理解したいと思っているが、世界を理解するためにはどういうアプローチで取り組めばいいだろうか。(エピステーメー的な知のことに限定している。ただ、飛躍的に吸収できる知識はエピステーメーに限られるから問題ないだろう。)1つの方法は、すべての知というものの全体像を明らかにしてしまって、そっから自分が学ぶ計画を作っていけばいいのだ。そこで、立花隆氏の著書から、知の分類方法についての部分を以下にまとめた。

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(1)知の対象による分類
何を対象とする学であるかによって、自然を対象とする自然科学、人間を対象とする人間科学、社会や国家を対象とする社会科学に分かれる。それとは別にリアルワールドの何かを対象とする学ではなく、すべての学的知の基礎を検討する知の基礎学とでもいうべきもう一つ別の知のカテゴリー(論理学、数学、数理科学、情報学、言語学、哲学など)を設けるべき。

(2)知の目的による分類
また、目的によって分けるやりかたもある。まず知ることを目的とする理学(ホモ・サピエンスの学)と、作ることないし働きかけることを目的とする応用学・工学(ホモ・ファーベルの学)に分けてしまうというのがより現代的な知の分類。そう分けると現在大学で行なわれている知的営みの相当部分が実は後者であり、リアルワールドにおける人間の活動の相当部分もまた後者だ。後者は実学とも言われる。

(3)新しいカテゴリーの学
そして新しい学の対象として自然でも人間でも社会でもない人工物(アーティファクト)という新しいカテゴリーを設けるべき。という考え方。そういうカテゴリーを持ってくると沢山のものがスッキリ説明できる。たとえば、産業界というのは人工物を作り出すことを目的とする世界であり、その世界における人間の営み(下流の流通の世界、マーチャンダイズ、マーケティングなど含む)が結局、人間の経済活動の大部分を構成している。なので、現代の人間の営みの大半は人工物との関わりの上でなされているともいえるし、人間の歴史は人工物作りの上に積み上げられてきたともいえる。

結局、経済学は、人間と社会と人工物の3つが係る境界領域の学問であるという味方ができるし、環境問題も人工物を作り出す人間の営みが自然世界との間に起こした不具合問題であると捉えることもできる。工学は人工物を作り出すテクノロジーを開発する学であり、化学は人工物を作ったり分析したりする学として成立している。いまやバイオテクノロジーの急速な発達で生物学も人工物学の重要な一躍を担うようになってきたと捉えることもできる。

(4)立花式知のチャート
これは立花隆氏のオリジナル。彼は知の総合は新しい人間学として構想されるべきであると考えており、すべて人間中心に考えていく。

まず人間学の分野を、
1,広義の環境学:人間はどのような環境に置かれているのか
 物質科学(素粒子から宇宙まで。物理学、化学、天文学)
 地球科学(物理的地球システム、気象と気候、化学的地球システム、生命系としての地球学、進化史)
 生命科学(細胞以前から細胞、個体、群、社会まで、分子生物学、細胞生物学、植物学、動物学、生態学)
 人工物学(工学、産業論、経済学)
 
2,狭義の人間学:人間はどのような仕組みになっているのか
 生理学
 心理学
 脳科学
 認知科学

3,現象としての人間学:人間はどのような歴史をたどり、どのような広がりを持つ存在なのか
 広義の歴史学(人類進化学、先史時代学、歴史学)
 人類学(文化人類学、形質人類学)
 人間社会学(政治学、経済学、法学など)
 
4,人工世界学:人間は何を作り出してきたか
 思想、哲学、文学、造形芸術、表現、表彰芸術、人工物、ヴァーチャル・リアリティ

***

いろいろあるが、自分的には立花式が一番分かりやすい。というのも、人間は主観的な存在であるから、五官で捉えたものでしか認識できないので、結局は人間がどう感じるかが絶対的になってしまい、その外の世界は「理解」できないからである。「理解」できるのは人間が「理解」できる範囲という悲しい現実がある。なので、私は著者の分類方法を基に今後、自分の知を広げていきたい。正直、大学入試すらやっていない自分にとって生物学とか化学とか植物学とか知識0に近いくらいだ。でも知的欲求はとてつもなくある。一度、どっかの山小屋にこもって一年間くらい読書だけする修行したい。ちなみに現状、法学とその実務について重点を置いているので、徐々にいわゆる理系分野も吸収していきたい。

村上春樹がどのように小説を書いているかということをインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫) 」で多く語っている。そこでは、彼の基本的な創作スタイルと、2つの具体的な手法が述べられている。今回はそれらを紹介し、さらに私が思う彼の1つの創作の手法をシェアしたい。

■村上春樹の基本的な創作スタイル
村上春樹はインタビューで以下のようなことを答えた。人間は誰もが、数十年生きているうちに記憶や心象を積み重ねている。しかし多くの人はそれを心の引き出しに投げ込んだままにしてしまう。普通の人は、自分の記憶をきちんと整理するように求められてもどう手を付けていいかわからない。しかししかるべきシステムを設定し、自己訓練すると多くの人は自分のイメージをある程度うまく整理できるようになる。でも村上自身も整理に取り掛かった時点では何が引き出しからでてくるか分からないと。

また、別の例で、人の中身を一軒の家に例える。一階は、食事をしたりテレビをみたり人をおもてなすところ。二階は寝室で、読書したり眠ったりするところ。地下室は、倉庫で普段使わないものを置いておく。さらにその地下鉄には謎の扉があって、中に入ると、その大きさや中身が何なのか分からない暗い場所がある。暗闇に侵入して時には恐れ、ときには心地よく感じる。奇妙なものをたくさん目撃できる。目の前に形而上学的な記号やイメージや象徴が次々現れる。夢の様なもの。村上春樹はこの暗闇の空間を言語化することを自分の創作方法であると言っている。

■創作の手法1
(以下抜粋)僕という小説の中の主人公は、僕の仮説なんですよ。ひょっとしたら、僕がそうなりえていたかもしれないもの、人生のどこかの段階で違う方向に歩んでいたら、そうなっていたかもしれない存在なんです。現実の僕とは違うけど、進化の枝分かれみたいなものね。

■創作の手法2
質問者:村上作品に出てくるキャラクターは実在のモデルがいるか?
村上:答えはイエスともノートも言える。なぜなら僕は自分の一部分を小説に書くこともあれば、身近にいる人のことを書くときもあるし、自分のかなりありのままをかくときもあれば、理想とする自分を書くときもあります。自分が「あるいはこうであったかもしれない」という状況について書くこともあります。まったく存在しないものについて書くこともあります。それらを組み合わせて複合的に書くこともあります。ある人を念頭に書き出したら全く別人格になってしまったこともあります。

自分の一部を書く、と聞いて私が思いついたのは「ノルウェイの森」に出てくるレズビアンのピアノの女の子の嘘つきに関する描写だ。これは、確実に村上春樹が嘘つくときのイメージを詳細に描いたものである。

まあ村上春樹はどういう感じで創作しているか分かっただろう。読者の皆様にはどうでもいいだろうが、実は自分を物を書くのだが、創作スタイルと手法が上述した村上春樹氏と完全に同じなのである。村上春樹の本に共感する部分が多いのは、思考が似ているからだろうか。

それはさておき、村上春樹が自分では語っていないが、私が考える彼の創作手法を紹介したい。彼の本を読んでいると良く分かる。それは、「知識をヒケラカシたい欲の消化パターン」である。どういうことかというと、普段生活していると、たまにオレって天才かと思うようなロジックや表現などを思いついたときとか、哲学とか歴史とかの小難しい知識を噛み砕いて理解できたときにはそれらを誰かに伝えたいものである。

そういう時に、友達に話してもいいが、やっぱり唐突過ぎたり自慢話になる可能性もあるので、小説のストーリーにうまく溶けこませてキャラにしゃべらせるのだ。自分が想起して凄いと思ったことでも、うまいタイミングがないと相手に伝えられないものである。だから、それを言いたいがために、それを言ってもいいようなストーリーを逆に創るのである。こういうのを文字などに創造できたときの快感はなんとも言えないものだ。海辺のカフカの大島さんの教えなどは全部村上春樹が人におれってこんなこと知ってて普段こんなこと考えているんだぜ、っていうことをできるだけ自然な形で世の中に示そうとしているのである。

ある女が言っていた。男が女に告白するときにやたら愛しているとかロマンチックなことばかり言うのは気に入らないみたいなことを。まあ、それはテンション上がってるからしょうがないと思うが、男女の関係しかり、会社など組織と個人の関係など長期的な関係の契約を結ぶにあたり、その時の最初の「想い」の強さ(やる気)は重要ではない。では、長期的な関係をうまく保つのに最も大切なことは何か。

それは正当性である。なぜ、自分はこの人(この会社)とやっていく必要があるのか、という疑問は必ず定期的に生じるものである。これに対してしっかりと軸のある正当な理由が大切なのである。男女であれば、出会いの方法が粋だったり、その人と一緒にいることの理由が精神的なことであればあるほど正当な理由となる。外見が好きとか金であれば、他の女でいいじゃんとなるし正当とは言えない。

今後も一緒に長期に付き合っていく決意の土台となる正当性というビジョンが必要。会社に就職するなら、ただ募集要項に給与や勤務地などの条件があるからというのは正当性がないに等しい。その会社のビジョンに共感し、その業界でどうしても成功したいとか具体的なものがあれば長期的な関係を築ける。色々な問題が発生しようが乗りきれる。

これは統治する側にとっても非常に大切である。なぜ国は国民から税金を取るのか、なぜ社員は株主、経営者、上司のいいなりにならなければならないのか、この辺りも軸としてしっかりした正当性が必要。日本であれば一応象徴とはいえ神の流れで天皇が国民の紐帯を作っているし、アメリカであれば理性的なデモクラシー最高という理念がある。会社であっても、軸として大きなビジョンが必要でGoogleの世界の情報整理とかそういう物語で正当性を作る。もっと、ミクロに上司と部下の間でもそうだ。なぜ上司の意見を聞くのか。会社のビジョンはそこまでミクロなとこまではカバーできない。そこでは、上司が実績を示したり地頭の良さとか粋なところとか何かしら納得させるポイントがないと長期的には難しい。

「愛することとは関係を断たないこと」という名言があるが、関係を断たないためには正当性という軸が必要なのである。人や組織と長期的な関係に入る前には一度確かめておいたほうがいい。

「東大生はバカになったか (文春文庫) 」は立花隆氏による、(→商品説明から抜粋)文部省の「ゆとり教育」が生んだ高等教育の崩壊状況を徹底検証。その根本原因たる日本の教育制度の欠陥を、文部省の歴史、東大の歴史に求めながら、日本を知的亡国の淵からいかにして救うか、その処方箋を探る。さらに現代における教養とは何か、それはどのように獲得すればいいのかを論じて、世間に衝撃を与えた問題の書。

今、ビジネスパーソンや政治家などの教養が足りないとか、科学に対する理解が乏しいとか、日本の詰め込み教育の問題など現在ある教育批判の流れを作ったのが本書かもしれない。ほとんどの部分で共感することばかりであった。日本の教育の批判は置いておいて私個人としては、「知のマップ」という知識の全体像のところが、非常に面白かった。今まで考えてきたが深く考察してこなかった部分だったので、整理してくれた著者に感謝したい。その「知のマップ」について本文をベースに紹介しよう。

今の時代、大学などの教育機関以外でも、インターネットや書籍、専門学校などで自分で学ぶことができる。このような環境を立花氏はユービキタス大学という。誰でも卒業できる東大なども有名無実化しており、現代はユービキタス大学で学ぶ時代である。ユービキタス大学において、自分で自分を律さないかぎり、怠け者はすぐ落第する。一般の大学では教養は与えられるものだが、ここでは自分で獲得するものだ。

ユービキタス大学では自分に必要な教養を身につけるためのコースを自分で設計しなければならない。その設計に必要な第一のものは知の世界のマップを入手することであり、自分がその中でどのあたりにいるかを確認し、自分はどのような力が不足しておりどのような知識と能力を学ぶべきかを理解し、航海に乗り出すのだ。

では、まず知の全体像を理解しなくてはならないが、歴史上にこれを考えた人々がいた。例えば中世のライムンドゥス・ルルス、イギリス近世のフランシス・ベーコン、フランス革命を知的に準備したといわれるティドロとダランベールなど。

ベーコンは、人間の知的能力を記憶、想像、理性の3つとし、それぞれに対応する知的世界を歴史、詩、哲学に分け、それぞれがさらに細かく枝分かれしていくという構造を示した。そのうち哲学のカバーする範囲は広く、その対象により神学、自然哲学、人間哲学にわかれ、自然哲学は博物学や数学などを含み、さらに理論学と実権学に分かれる。人間哲学はまず身体の学、精神の学、社会の学にわかれ精神の学はさらに理性の学、意思の学、欲望の学、感情の学にわかれるなどして哲学だけでなく生理学、心理学あんどまで含む人間科学のすべてを含むようになっている。このベーコンの学問の分類をディロンとダランベールは百科全書でもっと壮大にやる。こうして過去には知のマップである系統図が作られた。

立花氏は、こうした知の全体像に正解はないので自分で作ってもOKだが、クロスチェックする参照源として他社が作成した客観的な全体像マップは重宝するとのこと。そして氏が勧めるのは、巨大書店にいってそこにある書棚のすみからすみまで見て歩いてその店にあるタイトルをすべて見て歩くこと。これをやると自分の持っている知識がこの世の中でいかに少ないか、そしてさらにこうした本屋でも世の中に存在した書籍(知識)のごくわずかであることを知ることは有意義な経験である。まずは自分の知識量のなさに失望するところからスタートしよう。

という趣旨のことが以下のブログに紹介されていた。
http://kyouki.hatenablog.com/entry/2014/08/22/075816

私自身もブログを続けていて、多くのメリットがあることを確信している。

この記事のブロガーによると、毎日書いていると、
「自分の思索がどんどん深くなり、意識しているレベル、いわば表層的なレベルから離れ、より深く深く、自分のアイディアや感情、ほんとうの望みなどが明らかになってくるという。書くことによって、自分の本心に到達できるらしい。」

とのこと。

ただ、これだとふわっとし過ぎているので、私なりに「自分の本心に到達できること」について解説しよう。まず、前提として人間が脳内だけで一度に思考したり想像したりできる範囲ってとても限られている。論理構造も限定的でバクっとしたことしかイメージできない。例えば、企業の戦略を考えるとき、1外部環境分析、2内部環境分析、3戦略策定、4具体的な戦術、5短期中期計画などを検討するだろうが、これらを書いたりなどアウトプットをしないで頭の中だけで行うことは無理だ。

そこで、書くことで1つずつのステップを検討して思考過程や結果を書いていくことになる。それぞれのステップの繋がりも書くことでより明確になる。そして全体ができるわけだが、これが1つの想起できる塊となるのである。この想起できる塊となる、ということが重要。例えば、我々がものを考えるとき、「明日は仕事の後、友達と遊ぶから、7時前には仕事を終わらす、だから17時にあの資料を揃える、12時には上司に仕事内容確認して…」など思考するが、一個一個の思考の要素は、今のカギ括弧内の「、」で区切られた単位くらいなもんだ。今のカギ括弧内の思考をするのにいくつかの細かい想起がされている。それらを順番に想起していかなくてはいけない。

細かい要素をいくら想起していっても思考できる世界は狭い。だったら一個一個の要素を大きくすればいいのだ。どういうことかというと、さっきの会社の戦略で1〜5を通じて思考した過程と結果を資料として整理すれば、それが1つの思考の塊となり要素となる。「会社の戦略」という1〜5のすべてを含む塊が1つの「大きな要素」になる。今度はこの大きな要素を1つの要素として思考を進めることができるようになる。もちろん、この戦略のような様々な情報が入っている大きな要素は、1要素として想起される際にはある程度ぼんやりしているが、いちど1〜5で細かく情報を論理的に思考し書き出しているので、その塊のまとまりはしっかりしている。

こうして、色々な思考を書き出すことで大きな塊(要素)を自分の中に沢山持つことで、より大きな思考ができるようになる。そしてこの大きな要素である塊を多く持つためには、書くことが重要なのである。今回のエントリーで私は「書くことのメリット」を書いたわけであるが、上述したように思考の要素を使って論理的に書きだすことで、この「書くことのメリット」として1つの思考の塊がしっかり自分の中に定着した。今後何かの機会にはこの「書くことのメリット」という思考を1つの塊として想起できるようになるわけだ。

逆に、こういう自分で論理を組み立てて小さな要素から思考の塊を作る作業(毎日書く、というのが1つの良い方法)をやっていない人は、常に小さな要素を使ってしか思考ができないので大きな世界で発想できない。もちろん、書くというのは1つの方法であり、毎日人に話しているとか(ひとりごとでもOK)、マンガとして表現しているとか、頭の中で一定時間を掛けて丁寧に思考しているとか、そういうことでも代替できるわけだが、やっぱり書くというのが一番ハードル低いし効率もいい。

毎日書くという作業にこういう実利的な側面があるのは間違いないが、私個人としてはそういうことよりも自己表現することで感じる爽快感のほうがモチベーションになっている。最近はブログ以外にも物書きをしているが、もうそれが生きがいになってしまうくらい書くという自己表現は面白い。(いろんな自己表現方法あるけどやっぱり書くのはどこでも一人でもできちゃうからとっつきやすい)

以下の、「日本人男性の1000人子づくり計画 タイで代理出産」が話題になっている。

タイ・バンコクで、日本人男性(24)が代理出産で生ませたとされる幼児が保護された問題で、男性が「100~1000人の子供をもうけたい」と話している。日本メディアの15日の報道では、代理出産で産ませたとされる幼児は16人確認されている。男性に代理母を仲介した機関の関係者は、男性が「世界のためにたくさんの子供を残したい」と語り、100~1000人の子供を設ける計画を口にしたと証言している。日本同様自国で代理出産が認められていない中国は代理出産問題を抱えており、ネットユーザーは同ニュースに関心を寄せている。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140818-00000021-rcdc-cn)

活気のあるニュースだ。この日本人は光通信の御曹司で、資産100億の相続税対策などとも噂されているが、本人は世界のためと言っている。おそらくは本当に相続税対策なのだろうが、是非ともここは1000人の子供を残し世界貢献する、という破天荒な人間であってほしい。こういうアウトライヤーが社会の代謝には必要だ。中国には10人くらいだったら普通に愛人の子供がいる性欲旺盛な男はいる。しかし、もし本当にめっちゃ子孫残したい欲のあるやつだとしたら、その動機はなにか。代理出産なので女抱きたい欲ではなく単純に遺伝子を残したいのだろう。世界のためにということは、余程イケメンで優秀であり、その遺伝子の社会への必要性をガチで考えているのだろうか。子孫を残すことについて考えてみよう。

子孫を大量に残すというのは、人間の生物的なところに着目すると最も道理があるが何故こういう人が少ないのか。原始時代など人間が社会を形成し始めた段階を考えると、そのころは恐らく男と女が一対で行動する基本は合ったかもしれないが、男は子孫を残すために多くの女に種付けしただろう。しかし、社会を形成するようになると、子供を両親がめんどうをみて育てる、それも社会をよりよい社会に変革するような社会性を持った人間に育てる、という流れが出来てきた。なぜならそういう社会を築いた方が、そいつの子孫が確実に残る可能性が高いからだ。長期的にみて。ルールを守らずいろんなところで子供を作る男ばかりだったら、女性は家計と子育て両立できず社会が破綻してしまう。そういう流れがあって、人間は生物的な発想で、物理的にたくさんの子供を残すのをやめ、人間社会の世界という仕組みの中で最も確実に子孫を残すという社会貢献のほうに遺伝子的な生きる目的をシフトしてきたのだ。

一般的な私たちからすると、物凄く成功して金持ちになった人ってその財産を社会に還元しようとする。財団作って恵まれない人へ金回したり、ベンチャー投資したり、寄付したりとか。ビル・ゲイツにしても孫正義にしても何かみんなそんな感じ。結局似通っている。これらは要するに、社会貢献をすることで社会をより人間が繁栄しやすい環境にすることで、間接的に自分の子孫が途絶えないようにしようということ。そういう動物は人間だけだろう。直接的に子孫を残さず社会貢献でそれを間接的に実現するのだ。

1000人の子孫を残したいと思えば、社会貢献などせずに、直接的に残すという発想もありである。というか生物的にはそのほうが自然であり、社会性を持ちすぎた我々人間の感覚が不自然であり、こういう1000人子供を持つことに批判的になるのだ。もちろん養えなければ子孫残せず全く意味のないことであり、それこそ社会的に批判されるべきことであるが。

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