記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年09月

9ヶ月ちょっとぶりに上海から東京に一時的に帰ってきた。既に1週間ほど経ったので若干薄れてきたが、その感動は今でも忘れない。毎度のことだが、コンビニは世界一だろう。商品の陳列の綺麗さ、掃除の行き届き具合(結構細かいところのホコリとかも綺麗にしてある。)、コンビニのパンとか弁当が美味しい。

あと、やっぱり日本の治安の良さは凄い。なんといっても表面上は日本はみんな中産階級であり、そこそこの暮らしをしていることが大きい。(見えないところで貧困で苦しむ方々がいるのは社会問題だが)外に出てもみんなきちんとした身なりをしているし、いちおうきちっと行動している。(これも実は、精神的には変な人が多いのも問題w)それらはやっぱり中国やアメリカのようなあからさまな格差社会とは違う。

中国で街に出たり電車に乗ったりすると、地方からの労働者(農民工)とか貧しい人たちが沢山いる。ぶつかっても謝らないし、ツバ吐きまくるし、大声で話すしマナーという概念がない。また、これはこちらの誤解かも知れないが隙あらばスリをしてくる匂いがプンプンしているやつもいる。他にもタクシーとかキャッチでは明らかに法外な金額を請求してぼったくろうとする人たちも多い。そして、ちょっと脱線するが、雨が降ればいくら上海でもそこら中に水たまりができ、地下移動のインフラも弱いために不便。

要するに、中国では街に出ると油断できない。まあ、これが普通であり大自然の環境からしたらぬるいほうだけど、日本という全てが人口的にやさしく設計されやさしい人たちで満たされた社会に慣れると家畜化してしまう。動物園の動物みたいな感じ。まあでも野生に戻る必要がないならそれでもいいけど。

さて、本題なのだが、上述の素晴らしさを突き詰めてみるとやっぱりそれらを作っている日本人になる。日本人というのは凄い。島国であり、メディアが統制され、全国で統一的に同じような価値観を持つ。代々の親たちや街のおじさんやおばさんが子どもたちにしっかりと日本的な礼儀や気配り、協調性を刷り込むために、教えたり時には叱る。学校でもそのように教えられる。こうして、人には迷惑をかけず相手を想い合うことができる暖かい日本人が全国に根付いていくわけである。

これは、他の国がやろうと思ってもできない。メディアを統制したりできないし、第一、「性悪説的に人に多少悪いことしても自分が生きていかなくてはいけないという現実的な態度を持つ人」の割合が一定程度いればこのような日本人的基質を育てることはできない。なぜなら、そういう性悪説的な人が多いところで少数が性善説でいきたらカモられて終わるから。でも日本は長い歴史をかけて、そして稲作中心の小規模農業など自然的にこのような態度が各地で広まり結果的に全国に根付いたという奇跡の軌跡を持つ。

今回もコンビニや地下鉄や街角でその秩序や清潔な環境に感動したが、もとを正せば日本人なのである。たしかにスーパーのレジやどこの小売の店員にしてもそのおもてなし精神は凄かった。(中国から戻ったからそう感じるのだろう。)日本には地中海周辺、ギリシャとかイタリアみたいなとてつもなく美しく優雅な世界遺産は正直、存在しない。しかし、こうした街のそこら中に存在する秩序やおもてなしの心、こうしたものを体験するのは物理的な観光地とちょっと違うが世界的にとても貴重で一見の価値おおありの観光資源である。

今回は中国を理解するポイントを小室直樹氏の著書を参考にしつつ紹介しよう。まず、近代デモクラシーにおいて、市民法とは一般的であって誰に対しても同じように適用される、そして、すべての人が法的主体であること、言い換えれば、裁判をおこしかつ裁判を受ける権利があるということ、これが超重要。

日本語では市民法、世俗法、民法というのはそれぞれ意味が違うのに対して英語ではこれらはすべてシビル・ローcivil lawの一語で表される。それらを区別する必要はない。近代デモクラシー社会では、民法は世俗法であり、市民法である。要するに民法がすべての法律の基本とされる。

日本では刑法は公法、民法は私法というように区別されまったく異質のものとされがちだが、近代英米諸国においては基本的に公法と私法という区別はない。刑法もまた一般法たる市民法の特殊ケースのようになっている。欧米諸国の裁判所の構成を見ればよくわかることだが、例えば(小室氏の著書より)小室直樹がやんちゃでカリフォルニア州で銀行強盗してつかまり裁判になったとしよう。そしてその時のカリフォルニア州の知事がレーガンだったとするとその裁判はレーガン対小室直樹裁判と呼ばれることになる。これは民事訴訟法と全く同じ形であり国家もギャングの親玉も完全に対等なのである。違うのはレーガンは原告で小室直樹は被告ということだけであり刑事訴訟法といえども民事訴訟法の特殊ケースであるというのも納得できる。

英語で弁護士の訳はattorneyであり、検事の英訳もまたattorneyである。これは代理人という意味である。どうしてかというと両者ともに代理人であるから。日本では弁護士は自由業で検事はお役人とみられるのが普通だが、欧米諸国ではロイヤーという資格を持った人がいてたまたま政府に雇われれば検事という役割を演じ、たまたま個人に雇われれば弁護士という役割を演ずるという形になる。

近代デモクラシー社会において、裁判官とは行政権力とはまったく別の第三の権力である。政府すなわり行政権力といえども先ほど見た通り裁判所においてはギャングの親玉と対等。言い換えれば、これは国家でさえも一段上のものではなく市民の中のひとりに過ぎないという考え方だ。だからこそ民法が近代社会における基本法だということになるのである。というわけで、近代刑法は市民法としての性格を持っている。そして市民法としての性格でもっとも大事なのは一般法であるということ。すなわち誰に対しても同じように適用されるということである。

ところが古代社会においては刑法が基本法でありその刑法は市民法としての性格を持っていなかった。例えば古代中国には唐律とか明律とかあったが、その場合の律とは刑法の意味である。そしてこの刑法の対象となるのは一般民衆だけ。刑は士大夫に上らず、という言葉もあるとおり、士大夫である国家の官僚には刑法は適用されなかった。このように身分によって適用されたりされなかったりする法は市民法とはいわない。では高級官僚に対しては何が及んだのかというと儒教的道徳だけが及ぶ。

つまり高級官僚がけしからぬ行為をした場合には、皇帝が毒饅頭を使いに持たせてやる。死を賜うということだが、こうなるとあとは黙ってそれを食べて死ぬしか無い。いやだといって逃げ出しても社会的には完全に葬られる。そのため皇帝の使いのくる音を聞いて自殺するものも多くいた。高級官僚に刑法が及ばないことは一見大変な特権のようにも思えるが実際には特権どころか裁判を起こす権利もないわけで、皇帝が誤解したとしてもその誤解を正すことすら許されなかった。

それに対して近代市民法の特徴はすべての人間が法的主体であり、法的自由を持っている。具体的には裁判を起こす権利と裁判を受ける権利をもっていて、何人も裁判という手続きを踏まずして国家権力の強制措置を受けることはない。つまり刑法の場合なら裁判をを受けることなしに財産を没収されたり賠償金を支払わされたりすることはない。ここに古代社会の法と近代デモクラシーにおける法との大きな違いがある。

日本の場合、明治維新後、特に自国に確固とした統治システムがなかったので比較的すんなりこの近代デモクラシーの概念を取り入れた。(しかし、日本の論理のなさが原因で制度と現実に乖離があることはこのブログで紹介した。)中国もアヘン戦争後、徐々に西欧的な制度を導入してきているが、日本と違い中国は中国なりの上述のような法制度がちゃんとあった。

中国に身をおいているとよく分かる。刑法が基本であり、これを高級官僚がちゃんと適用していけばうまく世の中治まるという思想である。官僚が公安が悪いとおもったやつを捕まえるための根拠として法を使う。多少の拡大解釈や杓子定規は当たり前。うまくいけば社会は治まる。個人個人の尊重というのが出発点ではなく、国全体がちゃんと治まってから国民が救済されるという集団救済が儒教の肝だからである。そのような思想は今でもきちんと受け継がれている。西洋的な法を導入したかのような外観を擁しているが、国を強化するためには個人の犠牲はやむを得ない。法律とはそのために使うものである、という意思がはっきり見える行動が多々あるではないか。

以下、参考にさせていただいた。もっと痛快な話が満載。 

この前、小室直樹氏の著書から引用し、日本には論理(集合論的思考)が欠落していると書いたが、それは日本の裁判制度にも見られる。裁判制度は明治維新後、西欧から取り入れられたわけであるが、西洋ではそれは判決で勝負を決めることを目的とする。対して日本では仲裁、和解、調停というのをしきりにすすめる。痛み分け、引き分け、ああいい勝負だった、というのが日本人の好みであるが、そういう判決は近代的裁判ではありえない。

近代裁判では、判決を全集合とした場合、有罪というのはそこに含まれる部分集合であり無罪はその補集合となる。言い換えればこの2つの集合だけで裁判という全集合は出来上がっており有罪でもあり無罪でもあるという共通部分、あるいは有罪でもなく無罪でもないという部分は存在しない。裁判においてもきちんと集合論が徹底している。

さらに、日本と欧米との違いでさらに驚くのは警察や検事が裁判官の機能まで代行している。裁判に行くまでには送検と起訴という2つの関門があるが、まず送検するかどうかを警察が決める。例えば、銀行マンの奥さんがスーパーで万引きしたら、たかが万引きならたとえ有罪でも執行猶予つきだろうし大抵の場合不起訴になるが、社会的制裁という意味では送検されるだけで大変だ。そこで普通は万引き程度では送検しないけどそのかわり2,3日留置場にいれて油を絞るということをやる。しかしこれは制裁を加えるかどうかという裁判の機能を警察が代行しているということだ。

もし送検された場合は今度は検事が起訴するか決めるのだが、起訴して無罪になってもその社会的制裁は厳しい。起訴するかしないかは重大で、つまり検事の判断に制裁の有無がかかっている。というわけで日本では検事も裁判官の機能を代行している。よく考えるとこれらは本来裁判所の機能であるはずでそれすらも警察や検事がぶんどってしまっている。これはまさにどちらかが勝ちでどちらかが負けという集合論的発想を持たない日本の裁判制度ならではの特徴である。

欧米諸国であればもちろんそんなことはありえない。例えば交通事故にしてもこれこれしかじかの場合は警察で罰金をいくら納めればOK、こっからさきは送検とビシッと決まっていて警官の個人的裁量がはいる余地はない。裁量は裁判官の機能であり、違反者をつかまえて規則通りに処理するのが警察の機能という本来のあり方でありこれがちゃんと守られている。もちろんその代わり欧米では社会的制裁という考え方はあまりなく、前科者といえども刑を服し終えれば普通に社会復帰ができる状況がある。

近代法では国民行動の全体が全空間であり、その中には法律で禁止されている1つの集合があるがそれ以外は補集合で、言い換えれば何をやってもいい。例えば1862年ビスマルクは大軍拡をしようと膨大な軍事予算を議会に提出したところ上院は通過したが下院は通過しなかった。当時の憲法には予算の決定は上下両院の協賛を要すると書かれているが上院の決定と下院の決定が一致しない場合については何の規定もなかった。そこで、ビスマルクは何の規定もないことには国家主権が発動されるという解釈を施して予算を執行したのである。日本人ならそんな馬鹿な話あるか、下院を疎かにするにもほどがある、と怒るに違いないが論理的にはそれで首尾一貫している。

前にも書いたが日本人のエートスと外枠の仕組みにズレがあるから外国人とかからすると日本社会や日本人は異様に見える。ここを直していくのは難しいので、両方をわかっている人が橋渡ししないとだめ。もしくは超日本をわかっている外国人の登場を待つか。

早稲田大学は何故か中国では東大に次ぐくらいの名門だといい感じで誤解を受けている。理由はどうでもいい。ただ、早大生というものは面白い。日本では誰もが早稲田大学が日本のランキングTOP5にも入っていないことは知っている。でも、それを知っていても中国と同じくかなり高く評価されている。これは早稲田出身の政治家や実業家、芸能人、アスリートなどの影響があるだろうが、もっと根本的な要因を考えてみたい。早稲田はなぜ魅力があるのか。また、何故こうも多くの分野でリーダーを生み出すのか。

この疑問は、まず以下の問題に答える必要がある。何故、エリートの東大や京大生があらゆる組織のマネジメントを独占していないのか。普通に考えれば、エリートの東大生が、組織の頭脳であるマネジメントを司るべきである。もちろん、東大生でもそのようなポジションを望んでいないというのもありえるが、多くの企業のマネジメントには、東大以外、2流や3流大学の出身者が多くいる。これは東大のエリートが、エリートと言われるのは、学問的であり、もっといえば詰め込み型の勉強に強い人間であることの証明でしかない。この議論は以前からされているが、詰め込み型が強いというのは、しかし、要するに凄い。知識を詰め込めるのは議論にも思考にも圧倒的に有利だから。

世界や日本の大学ランキングは基本的に学問的な業績や国際性などにより評価されている。多様な価値観で切磋琢磨して学問を究める組織なのだから当たり前である。だが、世の中それだけで社会が運営されるわけではない。社会に出れば持っている知識を整理して自分で主張し、相手の意見を聞き議論する能力や、社会にいる以上、影響力を持つ人とうまく協業して物事を進めていかないと大きなことはできない。世の中結局は人と人との関わりあいだから、知識どうこうじゃなくて面と向かって相手とコミュニケーションをうまくとれる必要がある。

2流大学以下では、勉強をしっかり行うものもきちんと存在するが、東大やその分野のトップ大学に比べればそのレベルは劣る。では他に何があるかというと、勉強以外に人と遊ぶ、という重要な活動をしている。日本ではよく言われるが、大学はアルバイトとサークルを通じての社会の勉強の場であると。なので、東大以外の学生は、学問は劣るが、こういう場で人間関係や社会の動き方(どうやって組織が動くか、意思決定されるか、等。しかし日本というガラパゴス社会に特化したものだが。)を学ぶ。例えば、自分より能力が上のやつから譲歩を引き出すとか、怒らせないとか。下のもんを惹きつけるとか、不当に働かせるとか。こういう人間関係を学び実行できる力は社会に出たら必ず必要。そこの部分はどんなレベルの大学でも学べる。

ここで、最初の疑問に戻ろう。何故早稲田は凄いのか。スーパーフリーはやり過ぎだが、早稲田はそのサークルや体育会の活動では組織として、人としてのコミュニケーションを高いレベルで学べる。東大は学問に偏狭しているが、早稲田は学問は弱いが人間をよく理解できる場所である。そして肝心なのは、早稲田もそこそこ学問できて知識を持った人間が集まっている。こういう環境だと学問的に知識を身につける一方、さらにそうした「結構レベル高い人たち」の社会の構成や動かし方も学ぶことができる。(本当にバカとの付き合い方は学ぶ必要ないと思うので。)これは社会で活躍するための総合的な能力といえる。東大が学問に偏った能力を培うのに対して早稲田はバランスがいいのである。

立花隆は「東大生はバカになったか」で、東大の詰め込み教育を批判し、教養のなさを嘆いていた。しかし、世の中はそうした学問的な知識だけが重要じゃない。立花隆自身、「そういう知識を全体的にマネージできる人間が重要である」と述べている。しかし、彼はこのマネージのためには学際的な横断的な知識である教養が必要といっている。だが、彼は人間的なコミュニケーション部分についてはほとんど触れていない。立花隆の見方は何となく、知識7、コミュニケーション3くらいの態度を感じる。今、私は中国にいるがこの比率が逆であると感じている。政治大国であり商人の国、どんどん世界で発言力を持つ中国を見ていると日本に対して危機感を感じずにはいられない。

ブログを書くというのは、要するにどのようなトピックであれ自分の考えたことを文章化することである。そして、ブログの最大のメリットを享受するためには、言語化できることはすべて言語化する努力を尽くすのだ。それが面白い文章になるというよい結果に繋がるのはもちろんだが、実は書き手にも大きなリターンがある。それは、言語化できないことが徐々に深層意識の領域で明確化されていき、そしてそれがあるとき直観の閃きや深い洞察として、意識の表層に浮かび上がってくる。ビトゲンシュタインの語っている。「我々は言葉にて語り得るものを語り尽くしたとき、言葉にて語りえぬものを知ることがあるだろう」。

(田坂広志氏が著書で反省を徹底することでこのように深層意識のものが意識の表層に浮かび上がるといっていたが、それはこのようにブログにも当てはまる。)

価値観とは善悪の基準をどう設定するかということ。これは難しい。誰目線で、どの時間軸で見ればいいのか分からないから。もしも、銀河系より外の目線で世間の善悪を捉えるなら地球が破壊されようが関係ない。人間が絶滅しようがほぼ無視できることだ。仮に人間社会の善悪を考えてみても、時間軸次第で変わってくる。今の世代だけ楽しければいいのと、2世代後まで、それとも100世代後まで?それで資源の使い方から社会制度まで変わる。ではどうすればいいのか。

でも、1つ確実にいえることは、人間である私は、主観的に幸せや悲しみを感じるということだ。そして幸せを感じているのがもちろんポジティブであり、常にそうでありたいと思っている。悲しみは明らかにネガティブでできるだけ避けたい。だったら、この確実な部分を軸に価値観を作っていけばいい。感情という主観的(意味や理屈は関係ない)ものを絶対的な根拠として作るしかない。

「基本的には」人は、例えば、ここに道端にゴミを捨てる行為で自分の内なる声は何というだろうか。一般的な日本人なら、自分が捨てれば他人にもそれを認めたことになり、それはゴミが道端に溢れる未来につながると考え、悪と捉えて心の声がストップをかける。それに従うかいなかはその人次第だ。

こういう内なる声に従って怠惰な自分に打ち勝つことで人間はポジティブな感情を得る。所謂幸せだ。ポイ捨てしなかったくらいで幸せを感じないというのはもっともだが、方向性として。なぜ、このような行為で人がポジティブな感情を得れるのか?と疑問をもったらなら、こう答えよう。人間は人間という動物の種の保存を目的にしている。何故か?とさらに突っ込んだらどうだろうか。それには、こう答える。最初に記した通り、絶対的なものは1つしかなく、個人の人間の感情である。ポジティブな感情をより多く感じることが人類の目標である。そのためには、人間は社会を築いて外的環境から安全で安定した暮らしをしなくてはいけない。そのために人間はお互いに協調しなくてはいけない。

これはちょっと複雑だが入れ子構造になっている。人間はポジティブな感情を絶対的な目標として追い求める。そのポジティブな感情とは、「人間がポジティブな感情をより多く抱ける社会を築くことに貢献することで」得ることができる。持続的なポジティブな感情を目指すために社会を築いて生きていくことを決めた人間は、社会に貢献することでポジティブな感情を抱くようにプログラムされた。

もう一回整理すると、まず、「絶対的なものは個人の感情だけである。」ということ。それ故、人類の究極的な目標は「個人の感情をポジティブにできるだけ多く長くすること」となる。では、その感情がポジティブになるのはどういうときか?というと「ポジティブな感情を人間が抱きやすい環境作りに貢献したとき」なのである。

要するに、「人間は内なる声を正しく聞いて、それに従えば幸せになれる。」スポーツをしてても仕事をしててもあと一歩頑張れという心の声を聞き入れて達成できたら幸せだろう。

ここで、また1つの疑問が出てくる。それは内なる声の内容である。例えば、先のポイ捨ての例で考えると、一般的な日本人なら、自分が捨てれば他人にもそれを認めたことになり、それはゴミが道端に溢れる未来につながると考え、悪と捉えて心の声がストップをかける。しかし、別の例えば発展途上国で生まれ育った人であれば、ポイ捨てに対して内なる声は発生しないかもしれない。また、同じ日本でもど田舎の地方都市で家族だけの社会でひっそり暮らしている人と、都会でグローバルに生きている人とは内なる声も違うのではないか。どっちの内なる声も正しいのか?

これに対する答えはこうだ。「一点の曇りもない内なる声に100%応じる」これに近づくほど主観的なポジティブな感情は高くなる。どういうことか。例えば、発展途上国でポイ捨てする人は、確かに「その時は」内なる声でポイ捨てに対してストップがかからないかもしれない。しかし、それはその人の人間社会が狭いのだ。彼は家族絡みのことでは常に内なる声を聞くだろう。そしてこの内なる声に全て対応していけば、自ずと彼の人間社会は広がっていき、しまいにはポイ捨てに対しても内なる声でストップがかかるくらいの人間社会にまで到達する。

日本の地方都市の家族ベースで生きている人は、仮に家族に対して尽くして生きてポジティブな感情を抱いていても、それは「一点の曇りもない内なる声」には応えていない。本気で家族のことを思えば、もっと広い社会に出て人間社会に山積みの問題解決に取り組まないといけない。本当の内なる声はそういっているはずだが、彼はそこには取り組まないで諦めている。だから、そうした大きい問題に取り組む人よりかはポジティブな感情が少ない。まあ、どこで妥協するかは人次第であるが。

さらにもうひとつ疑問が出てくる。人間社会に貢献するっていってもその時間軸は?目先の利益でいいのか1万年先まで考えるのか?と。それはそんな客観的に捉える必要はない。結局は主観である。結局、大きなことは多くの人びとに支持されないとできないわけで、多くの人びとに支持されていることは善いことである。ヒトラーだって多くの人を熱狂させたのは素晴らしい政策で経済立て直したから。その後の虐殺などの暴走で、結局は人々から追い詰められて自殺したわけだから、結局は自然の原理で淘汰されたのだ。ヒトラーは最初は内なる声に従い行動してたが、途中で人を裏切ったり騙したりしたら、それはもう内なる声ではなく彼自身自分に妥協したのだ。なので、客観的に判断しないで、多くの人を心から惹きつけることはいいことであり、社会貢献に繋がるという理解でいい。 

多くの人間は、自分の内なる声に対して真剣に耳を傾けていない。思考停止して聞こえる内なる声だけに対応してそこそこのポジティブな感情を享受していきている。それはそれでいい。内なる声に応えているだけで人間社会にはいいことなのだから。

さて、こっからは上記を踏まえて人生観について語ろう。人生観とは自分の世界観、価値観をベースに個人的にどうやって人生を全うしようか、という話である。私の答えを抽象的に、要点だけいうと、(1)一点の曇りのない内なる声に耳を傾けること(2)その声に100%対応すること、という人間がポジティブな感情を抱く基本ルールに完全に則して上を目指していきたい。

要するに、以前ブログで書いたが、「あなたの子供を救いたければ世界中の子供を救わなければいけない」ということ。これが今の話の流れとどうリンクするかお分かりだろうか。自分の愛すべき人や自分の幸せを追い求めようとすれば内なる声を突き詰めていくと、世界中という広い範囲の社会問題を解決しなくてはいけないということだ。家族を普通に養っていくだけでも大変かもしれないが、そういう暮らしは一点の曇りもない心の声ではなく、心の声をある部分でシャットダウンした妥協的な生き方だ。自分の子供だけ救えばOKでは、一点の曇りのないポジティブな感情は得られない。

心の声を正しく聞く、ということは実はけっこうたいへんだ。「心の声を正しく聞く」というのは、自分が納得して腑に落ちるまで思考を止めないことだから。現代では多くの人が思考停止状態だから、内なる声に到達する前にあきらめてなあなあに生きて、それ故内なる声に背いた生き方をしてポジティブな感情を満足に得られずイライラした中途半端な生き方になる。自分が納得できるためには、結構努力しないとだめだ。心の声に対してなんでを繰り返していくとあらゆる分野の知識が必要となる。いわゆる教養だ。だから私はいろんな分野の本を読む。いろんな場所や人に接する。心の声が正しく聞ければ、後は実行あるのみ。実は正しく聞ければけっこうスムーズに動けるはず。一番難しいのは、「腑に落とす」ことかもしれない。

なので、私は引き続き自分の内なる声に耳を傾け、その声の究明し、その声に応えて生きていきたい。だが、どこまで追い込むかは何ともいえない。

前に人の三観(世界観、価値観、人生観)について述べたが今日明日で、私の三観を紹介する。それではまず世界観から。世界観とはひとごとで言うと「自分の意識とかは置いておいて、自分が存在するこの空間というか時間というか世界は何なの」ということに対する答えである。私は、世界の根本的な原理が物質的か、または精神的なものかというと私は前者の唯物論を支持する。人間の精神とは別に客観的な物理的な世界がこの世にはある。そこに物理的に私という人間が登場しているのが、今である。
全ては物理現象である。ある土地にチューリップの花が割いているとしよう。風が吹けば花は揺れ、雨が降れば葉が萎れる。石ころが転がってきてチューリップの上で止まったら、チューリップは変形する。これらの現象が物理現象であることは誰もが納得するだろう。では、人間が普段学校にいったり、仕事したり、嬉しく思ったり、怒ったり、将来を案じたり、志を持ったりすることが物理現象だといわれたらどうか。実はこれらも、チューリップと同じである。風が吹いて花が揺れるのと、人間がある厳しい環境にいて、何かを発言したり、行動するのは同じなのである。風でチューリップの葉が傾くのと、人間が人から何か言われて(音声振動)、脳内で電気が走ってなにか解釈し、言葉で反応する、というのはイコールなレベルの現象だ。

この物理空間の法則を人間は解明しようとしているが、それは不可能だ。万有引力にしてもアインシュタインの相対性理論にしても氷山の一角にすぎない。例えば、海に行って地平線を見れば、それが直線だと確信するだろう。だが、実際は違う。もっと広い視点で見ると。こういう間違いが必ずおこる。人間は、世界を時間と空間で分けているがそもそもそれも地平線と同じ間違いをしているはずだ。人間は五感を通じて世界を認識するが、仮に1兆感あっても世界を認識できないだろう。

なので、私は世界の探求はいちおう諦めている。そして、絶対的である人間の感情というものを軸に価値観と人生観を組み立てる。

↑このページのトップヘ