記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年10月

まずひとつの事実がある。

「絶対的なことは世界に存在しない」ということ。存在というものも存在しない。全ては五感による認識であり、脳内での現象である。仏教でいう縁起だ。

人間とは何なのかは謎であるが、「人間は、絶対的にあることを信じれれば救われる」。神の存在や、天国などを信じきれば心は穏やかになり、日々の感情は良いものになる。

「絶対的なことは世界に存在しないこと」を前提として、絶対的な思想を追求したのが仏教。なんで、これが可能になるかというと、仏教の大前提は「人間が認識して何かを感じるということは絶対である。」という仮定をおいているからだ。嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しいのは絶対である。

仏教でいう悟りとは、要するに、悲しいとか、死にたいとか、生きているとは何か、死とは何か、とかいう現象が脳内に現れてこないことだ。これが悟るということで、輪廻から解脱する。なぜ輪廻から離脱できるかといえば、生きるとか死ぬとか死後の世界とか前世とかそういう輪廻のことがどうでもよくなるからだ。どうでもいいものは存在しないと同じ。仏教の大前提は、前述の通り、人間が認識して何かを感じることは絶対であるから、感じないものは無に等しい。

悟るためには、自分の普段のものの見方を変える必要があるが、自分のものの見方は生まれてから今までの社会生活でかなり強固されている。そのため、瞑想などで見方を悟りの方向に変えていかなくてはいけない。輪廻転生やお経などはその視点を変える作業の補助でしかなく、仏教の本質ではない。 

来月からブログの更新頻度下げて修行に励みます。修行については前々回のエントリー参照。

正直、悟りへの道がほぼ明確に見えた。悟るとは前にも述べたが、要は万物の重要度が等しくなる状態である。別の言い方をすると、如何に自分のスコトーマ(盲点)を外していくかということ。万物一体であるということは、一瞬であれば「完全納得」できるだろう。自分が宇宙の一部であり、全ては認識ベースであることは「理解」はできる。

しかし、2,3歩歩き出せばこの視点は忘れてしまい、いつものごとく自分中心のものの見方になってしまう。世の中には、自分中心の見方になるような引力が溢れている。

自分中心の「見方」とはなにか?それは一つの「見方」である。「見方」とは何か。重要な事をまず理解してほしい。脳の認識が全てであるということ。我々が日々思うことはすべて脳が認識していることだ。感情や事実認識などは全て脳次第。それゆえ、脳という会議の場の議題に上がることが全てであり、この議題に乗らないことは「存在しない」ことと同じ。この、何が議題に上がるかとうことが、「見方」である。

この脳の会議の議題に上がるものの選別基準が「見方」である。この選別基準は、無意識なので自分の理性ではコントロールできない。日々、ある「見方」を理性的に強制的に実施して、定着させていくしかない。万物一体であると理解したら、それを日々思い出して持続させるのである。そうして、「見方」を変えて、違う場所にいくように癖をつける。これには長い時間を要する。ぐいぐいと引っ張っることを継続的にやって形を変えていく。そう、これが修行なのだ。お経を聞いたり座禅を組んで、万物一体を常に意識に上らせて、そっちがデフォルトの状態にすること、それが修行である。

絶対的に何かを信じやすい人は救われるが、安易に何かを絶対視すると急性アノミーになる。じっくり狙って絶対視できるものを見つけることが本当の救いである。

何かに絶対的な確信を持てる人は、救済される。この場合の救われるとは、苦悩から解放されるということだ。要は、「苦悩から解放されたい、どうすればいいんだ〜」というものが脳内に発生しない状態のこと。

世の中には、絶対的なことはない。要は、「存在する」ことがないのである。これは仏教の基本である。しかし、そんな中で人間という感情や認識能力を持った生物はどうやって生きていけばいいのか。あらゆることを仮で想定しながら生きていくことになる。地球上の全ての人間は、気づいていないかもしれないが、このような仮定をもとに生きている。

しかし、世界には絶対的なことはない。存在するものはない。なのに人間はあらゆるもの存在すると仮定していきている。だから、究極的には破滅する。どこかで絶対的なものがないと、実際にやっていることが架空過ぎてボロが出る。なぜなら存在すると仮定してあらゆる行動を起こしているが、結局は存在しないのだから。

だが、救いはある。人間が「勝手に」絶対だと思うことはありなのだ。悪い例えだが、オウム真理教の麻原を絶対的な神と信じきっていた人間がいた。彼らはそれで救われたのだ。苦悩について苦悩することから解放された。彼に付いて行けば救われると絶対的に脳内で信じたのだ。だから、脳内では、一人よがりの「絶対」は存在する。

孫正義は「絶対」1兆円利益の会社を作る!とそこに絶対的な価値観を信じ込んだ。錦織圭もテニスの楽しさ、絶対的に世界一になることが自分の道だと信じることができた。そういう人間は救われる。嫌な言い方だが、オウム真理教の教徒とパーフェクトに同じことだ。「絶対がない世界において」、「あることを絶対と思う」、この点においてイコールなのだ。

しかし、こういう人たちは、救われているが、その絶対的に信じたものが、「自然の成り行き」で信じたものであるので、その絶対的なものが絶対的でなくなる可能性があり、なくなった場合のリカバリー方法がない。危険だ。急性アノミーと言われるようなものであり、一気に救済を求める存在になる。芸術家やアスリートに多いだろう。何も考えずに幼少期からあることに絶対的に熱中したが、それが冷めたら何をしていいか分からなくなる。

では、どうすればいいか。

一番いいのは、「自然の成り行き」で絶対視するものを見つけるのではなく、自らの理性で絶対視するものを探しだすのだ。自ら探求し、自分の納得する世界観を築き、それを絶対視するのが理想的だ。しかし、自分一人の力で自分が納得できるほどの絶対的なストーリーテリングを創れる可能性は低い。

一般的には、既存の宗教にその探求を向けるべきだ。キリスト教やイスラム教、仏教などの世界三大宗教はそういうものだ。クラウドソーシング的に多数の人間に揉まれて作れた。「自然の成り行き」で決まった絶対視のものよりその奥行きが全然違う。もっとしっかりした体系的な絶対視できるものなのである。どれが実際に各個人に合うかは分からないが、こうした大きな宗教の壮大なストーリーテリングは、絶対視するものを探す心意気を十分に受け止めるものだろう。

死んだらどうなるのか?世界とは何か?生きているとは何か?どう生きるべきか?などの哲学的な苦悩から、働くのが嫌だ、人間関係がだめだ、嫉妬、恐怖、などの日々の苦悩など人間はあらゆる苦悩を抱く。では、こうした苦悩を抱かないとはどういう状態か。それはハッピーなときと呼ぼう。これから彼女とデートとか、会社で実績を出したとか、スポーツの大会で優勝したとかそういうときは楽しい、嬉しいという感情に満たされ苦悩の余地はない。まず最初に認識すべきなのは、ハッピーなときは、苦悩はないのだ。常にこうした状態を作ることが最高の生き方であるはず。

苦しみ悩むとき、人は何か完全な存在に救いを求めようとする。そういう完全な存在を多くの人は「神」という。多くの宗教に登場する「神」はもともとそういう苦悩から解放されるために人間が創りだしたものだ。

ここで、大切なことは、こうして人間が勝手に創った「神」に対して「どれだけ本気で」救済を任せることができるかということだ。救済とは苦悩からの解放と思ってもらっていい。苦しいときに、「神」に祈っていても本当にその存在を信じているのか、または何となく祈って気休め程度のものなのか、それは実際にその人の苦悩が取り除かれるか否かにとって重要である。「神」を心から信じていれば、必ずその人は落ち着くだろう。その人は精神的に落ち着くはず。ただし、もちろん「神」がその問題を物理的に解決してくれるわけではない。生活の資金繰りが大変で苦悩している人が神に祈って、いきなり金が空から降ってくることが救済ではない。ただ、「神」という絶対的な存在を感じることで、精神的に安定し、そこから着実に仕事をこなしたりして生活の資金繰りが徐々に解消されていくのが、救済である。

もし、中途半端に「神」を信じていたり、「神」の存在に疑いを持っていたりすれば救済はない。なぜなら、救済の本質は、「納得」であるからだ。自分が苦しいときに、「神」に祈る。そして、(1)自分は「神」の教えに沿って生きているという確信+(2)救いをもとめることで、「苦悩から開放される」ということが約束されると自分で「納得」するのだ。これが救済の肝である。これはキリスト教である。

こうしてみると、キリスト教には問題がある。上述したように、(1)のような「神」の教えというのが信じがたいということ。キリスト教では隣人愛など救われるための条件みたいなのが設定されているが、なんでそんなことを「神」が指示するのか。こんな具体的な人間世界のことに「神」が介入するのか。介入するのはいいとしても、なんで隣人愛がいいことなのか。預言者を通じてこうした神の教えが明文化されるが、そもそも預言者なんているのか。など、疑問が湧いてくる。特に科学が進歩した現代において、我々はそれを信じにくい。(2)の神が救ってくれるというのも信じづらい。要するに、「納得」できないのである。それゆえ、一人の人間からみて、主観的に救済はありえない。

宗教とはそもそも何かというと、救済されるということを「納得」することで実際に苦悩から解放されることである。入れ子構造だ。だから、「納得」するためには、リアルに感じれる世界観、ストーリーテリングが必要なのである。キリスト教は古代、中世くらいまでは完全に「納得」することができたかもしれないが、今の時代は難しい。ただ、もちろんキリスト教でも、かなりのめり込めば納得できるし、上述の(1)(2)に対して個人的に疑問を持たなければ「納得」できるのだ。私が述べているのは、一般論である。ちなみに私はこうした理由によりキリスト教に救いを求めることは出来ない。特に90年代後半に科学的に完全な存在「神」は存在しないことが証明されたので、主観的にもっと信じがたくなってしまった。

そこで登場するのが仏教である。仏教はそもそも神のような完全な存在については否定している。上述した、宗教のストーリーテリング性を踏まえた上で、救いを考えている。なので、より現代の人に向いている。現代でも、仏教を学べば「納得」して救済されることができると私は期待を寄せている。

実は、仏教もストーリーテリングである。しかし、キリスト教のストーリーテリングは「神の存在を信じさせる」ことを目的としたものであるが、仏教の場合は方向性が違う。私の理解では仏教は、「人間は全宇宙の一部である。人間という60兆個の細胞の中の一つの細胞のように、人間は全宇宙の一部であり、全宇宙という一つのものの一部である。万物一体。苦悩というのは自分視点で考えすぎているので、万物一体を心から理解して、自分視点を外すこと」を目的にしたストーリーテリングである。このストーリーを信じこむことで、自分視点が外れて苦悩がなくなるのである。仏教という壮大なストーリーを日々勉強し、これを信じこみ自分の視点が変えていきたい。

苫米地英人さんが悟るとはどういうことかを解説していたyoutubeを見たので、備忘のため書いておこう。私が支持する知識人の多くは仏教の思想を好んでいる。苫米地英人さんもそうだし(彼は出家している)、小室直樹、宮台真司、宮崎哲弥など仏教好きは多い。笑い飯の哲夫もそうだ。

悟るとは何か。まず、理解すべきは人間は大事なものしか見えない、ということ。自我というやっかいなものは、宇宙の全てのものに「大事なもの」の順序を付ける評価関数である。序列があると相対的に大事でないもの(見えないもの)が生まれる。これは盲点でありスコトーマと呼ばれる。では、悟るとは何かというと、全てが等しく大事であある状態になることなのだ。そうすると、すべてが見えるし、自我というものがなくなり無我になる。要は、重要度という概念がなくなり、盲点をなくせば全てが見えるようになり、やがて悟りに達する。悟りの境地では、あらゆるものが無意味であるから煩悩もありえない。

私も今は仏教ファンだ。キリスト教に興味を持ったがどうしてものめり込めない。というのも、宗教の本質は、その人が主観的にリアルを感じれることだが、キリスト教では人工的感が強すぎる。今一番しっくりくるのは仏教である。まだまだ勉強足りないが引き続き学んでいきたい。

友人がブログで書いていたので、私も書いてみよう。就職活動中の人といえば、高校、専門学校、大学、大学院を卒業する人が中心だろう。日本では。あと中卒もありえるか。高専もある。そういう人たちが、就職活動するにあたり、私なら何を言うだろうか。私は、そもそも論的に根源から考えるべきである、と主張する。なぜなら、選択肢も豊富だし、仮にどっかの道に進むことになったら、それだけ広く検討した後のほうが正統性があるし。

まず、第一に、今からやろうとしていることの意義を考えるべきだ。なぜ就職活動するのか?から考えたほうがいい。そもそも今在籍する学校とは何か、教育とは何か、なぜこのルートに今まで乗っていたのか。それは政府が計画したのか、政府はどういう意図で?などなど、考えるべきである。それを辿りすぎると、ビッグバンまでいってしまうので、とりあえず何故どこかに就職しようとしているのかを考えよう。

今の資本主義経済の社会では、経済活動に従事して金を稼いで衣食住を用意し、生きることが当然の流れになっている。まあ、これは前提と考えていいが、ここでこの社会のあり方に異義を持ち、「このような発展した社会であれば、政府が国民の衣食住と、完全雇用の職を保障する社会主義を目指すべきだ」と考えるなら、社会主義活動を軸に生きていくべきだ。

もし、資本主義でOKなら、金を稼いで衣食住を手に入れないといけない。金を稼ぐには、1、会社で雇用される、2、自分で事業をする、3、非公式の経済活動で金を稼ぐ、があるが、一般的にはハードルの低い1を選ぶだろう。ここで、初めて就職活動というスタートラインにたつ。ここまでを何も考えずいきなり就職活動をすることを当然としている人は正直、この先苦労するだろう。今の時代は、ちきりんのいうように、自分の頭で考えよう、だから。

さて、会社で雇用されることを選ぶなら、まずは現実的に、将来数十年くらいでどれくらいの経済力を持っていたいかということを考えるべきだ。一般的には、仕事は大変なほうが給料が高い。給料が高い仕事であれば拘束時間が長いので、仕事以外のことはあまりできなくなる。そのバランスをどうしたいと思っているのか。20代は年収500ー800万円くらいで、30代は1000万円前後、40代はそれ以上あればまあいい、とか、生涯を通じて年収400万円で毎日18時以降は自由時間持てればOK、という考え方もできる。まず、仕事は、楽しいか楽しくないかは自分次第であり、ほとんどの場合、楽しくないことが多い。だから、現実的にこういう基準でまずは選ぶべき。

では、将来に渡る収入の希望を考慮したら次に考えるべきは、自分の興味だ。やはり、仕事で自分の好きなことに関わることは良い。モチベーションも高まる。その企業が提供する商品とサービスが好きというのはいいこと。車が好きならトヨタ、ホンダを目指すべきだし、ゲームが好きなら任天堂やSEGAに行ってもいい。文章が好きなら出版社やメディア。

ここで一つ指摘しておくべき事実がある。それは、社会へのインパクトから仕事を選ぶことについて。「私は社会にこういうインパクトを与えたい。だから、この仕事をする」みたいな仕事の選び方について。これは、ちょっと危険だ。そもそも社会にどういうインパクトを与えたいか、ということを具体的に且つ強い思いで持っていることは稀であり、仮にあったとして、それが既存の企業で達成できる可能性は低い。強いと思っていたその意思は、往々にして弱いものだ。もっと社会で時を過ごして本当に社会に必要なものを吟味したほうがベター。それに本当に強い意思があったら、それを従業員としてやることは明らかに窮屈だし、トップとの意見が完全に一致する可能性は限りなくゼロだろう。

話を戻すが、自分の興味がある企業がない場合、だったらやっぱり経済的なことを考えるべき。その際、どういうスキルが身についたり、人脈や経験ができるかをしっかりと研究し、その上で最初に決めた将来の収入の実現性を再吟味する。こうしていろんな企業のいろんな職種を検討すれば自分の進むべき道はだいたい絞れる。あとは、そこの面接に受かるかどうか。

ちなみに、上記を就職活動の面接でより具体的に理路整然と主張し、自分の選択を説明できれば、恐らく日本の民間の”最高給の”企業群には受かるだろう。所謂、いまでいうと商社、外資コンサル、投資銀行、シリコンバレー風IT企業、など。逆に、給料が低い保守的な会社だと採用されない。そういう会社は従業員を洗脳して費用対効果上げているので自分で考える人たちを受け入れる素養がない。逆に高給の企業は、儲かっている、イコール社会のトレンドに敏感で現状を正しく認識できる人間を採用する。

ちなみに、私個人としては今の若者には、上述した最初の段階の時点で、資本主義に疑問を感じ、理想の社会を設計しその確立に邁進してみてほしい。でも安易にやっちゃだめ。 

前の続き、苫米地英人氏の「なぜ、脳は神を創ったのか?」の感想というかまとめの続き。

(4)宗教の本質
宗教の創始者とは、こうした部分情報の人間の「恐怖」を和らげるために”完全情報の存在をリアルに演出する”ことだ。部分情報としての人間が、絶対に体験しようのない死後の世界や未来や過去に対する完全情報とみなされる「側」からのストーリーテリングである。宗教の教義が持つストーリーはいずれもこうしたストーリーテリングに当てはまり、そしてそれが一番上手な人が教祖として人々の信仰の対象に据えられる。

ストーリーテリングのうまい人は、部分情報である普通の人にはわかりえない死後の世界や輪廻の世界をリアルに伝える何らかの方法を持っていたからこそ、教祖として権力を握った。こうした教祖は完全情報ゆえの能力を持っていたわけではなく、人の心を掌握する巧みな技を持っていたのだ。

こうして生まれた人間の信仰心は、完全情報である神と接するための社会システムとして発展していく。

(5)人間の脳
人間の脳は幻覚、幻視、幻聴をよく起こす。脳の情報処理は必ずしも正確ではなく、その都度、対象をはっきりと認識するわけではない。いま見ているものでさえ実際は見ていないというケースがある。見ていると自分で思っている対象が過去の記憶からそれに似たデータを引っ張りだしているだけ。脳が幻覚を見る仕組みは単純。脳には物理空間と同じように情報空間をリアルに感じるカラクリが組み込まれている。過去の記憶が引っ張りだした情報を繋ぎあわせてリアルな幻覚を創りだしてしまう。

脳が自らのカラクリを通じて「完全な存在」だと信じこむ対象は、その全てが宗教現象である。それは世界の4大宗教に限らず、釈迦が唱えた無神論も毎朝テレビで流される血液型占いもそうだ。資本主義はお金という完全情報に対してあこがれを抱きそこに普遍の価値を見出す脳内現象。マルクス主義は労働こそ唯一絶対の勝ちであると信仰するようなもの。宗教とは催眠術のようなもので、そして神は私たちの脳がつくった情報に過ぎない。

認知科学においては現実世界やリアリティーの定義は単純で、今本人にとって臨場感のある世界がリアリティーであるということ。

(6)人間という動物は、普通、人殺しという一線は超えない。超えるためには宗教である価値観を信じこませる。
同じ種を殺してはならないというタブーは私たちの遺伝子に非常に強く刻みこまれている。通常、このタブーは利益のためという浅はかな理由によって破られるほど弱いものではない。しかし、戦争や人殺しが絶えないのは、利益のためにはそうすべきだという価値観を人間がそれほど強烈に叩きこまれている証拠。それは利益教であり、今の資本主義社会では誰もが抱いているものである。

(7)ポスト宗教の世界はどうする?仏教という思想
釈迦の教えは神が人間に寄せる無条件の愛といった、人間の心に強烈に突き刺さる幻想を売り物にしていない。むしろ人間にまとわりつくそうした幻想を徹底的に剥ぎ取り、その足かせから自由になることを教えている。その意味で、宗教的には貧弱かもしれないが、神の存在が科学で否定されたいま、思想的には非常に強烈な生命力を放ちつつある。

神は死んだ。私たちはこの事実と正面から向き合って21世紀の社会を根本からまさにゼロベースで考えていかなくてはいけない。苫米地氏はポスト宗教の時代の今、2つの道筋を示す。

一つ目は、宗教と政治が合致した世界に戻る。宗教は私たちに安全をもたらす。なぜなら、宗教においてはこの世の煩悩が弱いから。たとえこの世の煩悩に背中を押されて少々の悪事は働いたとしても宗教だけの論理だとこの世で戦争を起こすような煩悩を持つことはない。例外はあるだろうが、あの世での罰を恐れて、誰もが今の政治家よりもまともな行動をとる。

2つ目はこの世にもあの世にも興味を持たないこと。現代社会ではこの世の興味はだいたい金銭的なこと。だから利益を上げるために人を殺していいという価値観が生まれる。したがってそうならないために金銭に還元できるこの世の煩悩から離れて抽象度の高い世界に興味を持つようにする。人生のゴールを宗教の教義よりも抽象度が高く、かつこの世の政治システムよりも抽象度が高いところに置くことでそれは可能になる。そしてそのゴールの達成を目指すことができれば物凄く自由に、思い切り満足して生きることができる。これこそが、神の存在が正式に否定された21世紀の生き方に違いない。実はこれは仏教の考え方とほぼイコール。ちなみに苫米地氏は自分の目標を「この世から飢餓をなくし、機会の平等を人類に保障する」としている。

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