記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2014年11月

この前、働くことが生きることであることをホリエモンからインスパイアされて書いた。セレンディピティなのか分からないが、偶然友人から借りた「凡人として生きるということ」で押井守氏も同様のことを別の形で述べている。その他にもあまりにもいいことを書いているのでプロ・ブロガーイケダハヤト氏のように引用してみる。(一部要約)

    • この社会では他人の人生と関わり、他人の人生を背負い込むぐらいに楽しいことはない。それは恋愛でも、結婚でも、就職でも、起業でも、同じことである。逆に言うと、誰からも必要とされない人間ほど寂しいことはない。人は誰かから必要とされて、本当に生の喜びにひたれる。なぜなら猿から進化した人間という生き物は、どうあっても最後は群れの中にしか喜びを見いだせない動物だからだ。他人の人生と関わりあうことでしか、幸せを感じることのできない性質を、猿の子孫である我々は持っているのだ。
    • 「仕事が楽しい」というのは、仕事を通じて社会につながるのが楽しい、ということなのである。社会という人間の群れの中で自分の定位置を得ることでしか、人間は喜びを得られない。富や権力に妄執する人間が出てくるのも、つまりはそれが群れの中での位置を高めてくれるものだからである。そして社会とつながっていれば次にやりたいことが出てくる。それは会社の中での出世でもいいし、新商品の開発でもいいし、経営計画の刷新でもいいが、次から次へとやりたいこと、やらなければならないことが出てくるのである。逆に引きこもった生活をしていると、次にやること、やるべきことがどんどんなくなってくる。やりたいことがないから、いくら自由とは言っても、その自由にはまったく何の意味もない。
    • 社会の中に自分の席を持つことの面白さ以上に面白いことはこの世に存在しないし、そのことによる安心感以上の安心感はないと言っていい。仕事というものは多かれ少なかれ社会に働きかけるという要素で成立している。だから映画監督や作家でもなくても、仕事というものは本来、面白いものなのだ。
    • よく夫がなかなか帰ってこないで妻が家で怒って待っているというような類型的な図がマンガやアニメやドラマで繰り返し描かれているが、実はそこの根底には妻の側のそうした社会欲求が描かれている。帰りの遅い夫に対して怒る妻は、何も夫の浮気を心配しているわけでも、早く帰ってきて抱いてほしいと思っているわけではない。なかなか社会と接点を持ちにくい主婦という立場ではやはり夫を通じてしか社会とつながれない。だからこそ社会に飛び出したまま帰って来ない夫に怒りを覚えるのであろう。
    • 僕にとって彼(押井の親友)は自分の仕事で有用だから付き合っているのであって、彼にとっても僕のそのような人間なのである。このように、お互いが相手を他鳥にしているという関係性が成り立たなければ、仕事上のパートナーとは成り得ない。だから、相手との関わりをこれほど実感できるコミュニケーション手段は仕事の他に僕は見つけられない。
    • 損得勘定のない友人関係なんてあるのか?僕は、本当に損得の関係のない相手に会うと、話すことすらなくなってしまう。昔の同級生に会っても、「お互い年取ったもんだ」「何だ、お前のその腹」といった会話を交わせば、もう話すこともない。
    • 損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得でしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。そうすればこの世界はもう少し生きやすくなる。
    • 一個人の生き方としてもすべてをスッキリさせず、いい加減に生きていくことが一番ではないか、と思うのだ。
    • 自分の作品を見た誰かが、僕には映像にすることはできても、言葉にすることが到底できなかった何かしらの本質のありかを、ずばりと言い当ててくれたらうれしいと思う。
今自分はあるテーマの本を執筆している。それは人はどういきるべきかということについてだ。古代からその役割を担ってきた宗教が、科学の発展した現代では人々を信じこませるパワーを失った。人々は規範を失った。人工的でもいいから急性アノミーの世の中に新たな世界観が必要である。押井守氏の考えは自分の言語化できなかった部分をかなりクリアにしてくれた。年内には書き上げてたいと思う。

我々の世界は、無数の小さな点がいっぱい詰まったものと考えると実態を把握できる。要は、テレビの画面みたいなもの。近づいてみると、テレビに映っているものはただの光る点の集まりであることが分かる。それらの集まりをどう捉えるかはその時の個人次第。ようするに仏教の空と縁起の考え方である。

世の中に二人以上に共通して「正しい」ということはない。点の集まりである世界をどうやって捉えようと個人次第なのだ。どんな方向からも解釈できる。どうとでも理解できる。なぜなら「正しい」ということは何もない。個人が「正しい」と思うのはその人がそう捉えた、という話。仏教でいう縁起であり、その人が周りの関係性の中で一時的に考えたことである。

極端な話、例えば、麻原彰晃を擁護しようとする場合でさえ、理由は沢山出てくる。だったら、普段我々が会社で、家庭で、同僚と、恋人と、友人となどと議論していることなんて本当にどうとでも理解できることだ。例で言えば、ある事業で失敗して、そこであきらめるか再度チャレンジするか、ある人が好きで振られたけどまたチャレンジするか。どっちにしろ失敗した原因は縁起でありその時の一時的なものに過ぎない。

あることを成し遂げるためにどんな障害があろうと、それに対してその人が立ち向かうのか否かの2つしかない。その障害を分析し、無理だと結論を下すのも、自分は絶対突き進みたいからちょっとずつでも突き進む、という意思で前へ前へ動くのか。全ては空であるから、関係性を作るのは誰かの意図である意思しかないのだ。

別の視点で見よう。結局何が複数人以上の間で「正しい」事実みたいなものになるか?それはもう、一語で言ってしまえば、「意思」である。こういうものを作る、こういう未来にする、という意思が複数以上の人の間で認識される事実をつくるのである。

意思があればあらゆる手段で目的を実行する。諦めずに粘って前進する。そこで人間は生きている実感を得る。

ホリエモンが言っているけど、これって「生きる」ことの本質だ。人生で一番楽しいことは、「目的がしっかりとある状態で人と交流すること」だと思う。別に目的が必要ということについて、ドライな印象を持たないでほしい。仕事の話とかに限らず、一緒に遊んで馬鹿になって楽しむのもそういう目的として含まれる。逆に、ただ何となく暇だから集まって友達と遊ぶのってつまらない。何か発散したいことがあってそれを目的にして、それを友達と共有できれば楽しい。仕事もそうだ。しっかりとした自分の目的がない状態であったら、誰かとあってもただ芯を食わない会話になるだけ。

例えば、普通に考えて、今自分に100億円があっても1ヶ月で飽きるだろう。豪遊して、家建てたらもうやることない。妻と子を持っても、何もしなければ空虚感に満たされるだろう。そうなったら、何がしたくなるかといえば、「目的がしっかりとある状態で人と交流すること」を欲するはずだ。毎日、何か話したいことがあって友達と飲みに行くのでも理論上はこれを実現できるが、そんなことはありえない。継続的にそういう目的が生まれる行動、それが「仕事」である。働きたいから生きるのである。「いろんな人と会うために仕事をする」というホリエモンの考え方に深く納得した。

苫米地氏が般若心経の「空即是色色即是空」は間違っているとyoutubeで言っていたが、その指摘を解説してみよう。彼の言い分では、空が色というのは抽象度の違うものを同じものとするのはおかしいという。犬は動物、というのはたしかに合っている。犬は動物の要素を全て持っている動物よりも情報量の多いものである。ただし、犬=動物という表現は若干おかしい。抽象度違うのでイコールではない。

まあそれはいいとして後段は確実におかしい。動物は犬とは必ずしもならない。動物という要素を持つものは人、サル、猫、象など無数にある。その中で犬にはならない。

空とは有と無よりも抽象度の高い概念である。そもそも「色」というのは森羅万象すべてのものを指す。そして「空」とは森羅万象に共通するもっとも抽象度の高い最大公約数である。だからこの犬と動物の例と同じことが言える。たしかに主張していることは厳密にみると正しそうであるが、これは表現方法であり全てのものは空であるということの強調法と捉えれば間違っているとも言えない。

という哲学的な疑問を誰もが抱いたことがあるだろう。これは、唯物論や唯心論、唯識論などそういう世界観とほぼイコールである。

ウィトゲンシュタインは、「真実を探求することは、自分たちが何を前提に生きているのかの上にある」といっている。それはこの私が死んだ後も「生きている人の人生」は続くということ。

言語ゲームってこういうことか。

人は絶望したときに、冷静に論理的に思考することなどできない。本当にショックだったり、辛い状況だったら論理でこの世界を冷静に見ることなんてできない。本当に辛いときは、絶対的な包容力を持つ絶対的な存在を欲する。宇宙を司る神という分りやすい巨大な存在にすがりたくなる。追い込まれた状況で諸行無常など考えれる強さは人間にはない。客観性とか正統性がなく非科学的だとかどうでもいいから神の意思に触れ救済されたいと切に願いたい。本当にきついときは神頼みという状態である。死にたいような状態でアップセットしているときにはもう分りやすい大きなものに頼るしかない。ユダヤ教が砂漠のどうしようもないところから生まれたことに由来するのだろう。今でもキリスト教徒がマジョリティなのは、世界で苦しむ人々が多数いるということだ。

一方、仏教は既に普通に生きる上では問題はないようなある意味、余裕な人々の思想である。(宗教性は乏しい)諸行無常で全ては空であり縁起であるという考えはむなしすぎるし、冷めている。身内に不幸があったり、失恋したり、経済状態破綻したりしたときに無常感に浸るのは泣きっ面に蜂で余計悲しくなる。むしろ仏教はこういう不幸が起きないように最初から無常感を持って、例えば家族に信頼を置きすぎない、恋愛しない、金を求めないなどして、絶望する機会を最初から失くすことを推奨する思想である。こういう思想はストイックなので世界大多数の肉体的精神的な貧困層には受け入れられない。

自分にはどん底の経験が少なく視点が狭いと最近痛感している。世界中にはいろんな環境の人がいる。そういう人の気持ちになれるような想像力が人間社会では必要である。 

風が吹く中、物理の法則に従い揺れる花のように、今生きていて目の前のことを認識して思考しているあなたも全て因果関係のプロセスにすぎない。自由意志は存在しないのかもしれない。

世界遺産で美しい自然を見に行ったとしよう。例えば、中国の桂林のカルストを見て美しい、素晴らしいと思う。その場合、そのカルスト自体、その対象自体に畏敬を感じるのではなく、それを創りだした環境である大自然に畏敬の念を抱くであろう。それは人間も同じことであるはずだ。ある偉業を成し遂げた人を、その個体の特殊性で評価するのではなく、その環境で見るのが真理であろう。

全ては物理的な現象に過ぎない。機械が絶え間なく無意識に動き続けるように人間もただの物理現象である。意識があるのは自分だけで他の人はただの物理現象。他人が意識を持っているとは確かめようがないのだから。人が泣いたり怒ったりするのは、エレベーターが上がったり下がったりしているのと同じでちょっと複雑な仕組みなだけである。

こういう風に考えたことって誰でもあるだろう。自分だけが意識を持っている前提で、このように人をただの演算装置、ロボットとみなすのを哲学的ゾンビというらしい。以下の本にはおもしろい世界の見方が多く示されている。一点つっこむと、タイトルからは想像できないくらい科学の部分のボリューム感が多かった。

↑このページのトップヘ