記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年01月

先日、自分がもうすぐ29歳になるのでゴータマシッダールタ並に頑張らないといけないということを書いたが、よくよく考えてみると29歳といえば、我師匠である吉田松陰がこの世を去った年齢である。彼の後世への影響力は改めて説明することもない。果たして私はもし29歳で死んだら何が後に残るというのだろうか。

私は行動を起こさない消極的な人間があまり好きではない。自分の意見を言わずに、人の意見にとやかく言ったり、もっとたちが悪いのはただ見ているだけのROM的な人である。こういう人は生気がなく面白くない。自分の取り柄は行動を取ることである。先日まとめた独自の思想である心即幸は陽明学の現代版とも言える。陽明学を読めば読むほど自分の思想に似ていると気づく。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山、三島由紀夫、マック赤坂、そして私まで続くこの行動の流れを止めることはできない。

ちなみに行動をしろとは、行動を取るまでに疑問がある場合はそれがなくなるまで情報収集や事前準備をする。この活動も行動である。最も行動から遠いのは疑問をそのままにすること、または思考停止状態で疑問を残したままそれを実行に移してしまうことである。事前準備を徹底的に行い心に曇りがなくなってその状態が知行合一である。そうなればもう行動を取られずにはいられない。テロや他者を巻き添えにするような行動は必ず心に曇りがある状態である。そこから思考停止になって妥協して行動しているだけなのである。人に迷惑をかけても世のためだと言い聞かせて行動を起こすことは許されない。 

読者のみなさま、行動してますか?実力で勝負していますか?人に迷惑かけてませんか?自分に嘘をついたり妥協してませんか?疑問を追求し、自己を高め、常に知行合一まで消化しましょう。 

人気アニメ『ソードアート・オンライン』(Sword Art Online、略称:SAO)を拝見した。20分強✕25話ですぐに見れる。あらすじをwikipediaから引用。

2022年、世界初のVRMMORPG「ソードアート・オンライン」(SAO)の正式サービスが開始され、約1万人のユーザーは完全なる仮想空間を謳歌していた。
しかし、ゲームマスターにしてSAO開発者である天才プログラマー、茅場晶彦がプレイヤー達の前に現れ、非情な宣言をする。SAOからの自発的ログアウトは不可能であること、SAOの舞台「浮遊城アインクラッド」の最上部第100層のボスを倒してゲームをクリアすることだけがこの世界から脱出する唯一の方法であること、そしてこの世界で死亡した場合は、現実世界のプレイヤー自身が本当に死亡するということを……。
それから2年、最前線は74層、残りプレイヤーは約6000人となっていた。プレイヤーの一人である少年キリトは、ソロプレイヤーとして最前線で戦っていた。ひたすら最前線で戦うキリトは、同じく攻略組として戦い続ける女流剣士アスナとの絆を少しずつ深めていった。

これはエンタメ的に普通に楽しめる作品である。登場人物は、仮想世界を現実並みの臨場感で生きている。仮想世界で友人や家族を持ち、生きるものもいる。正直、原作者がどういうメッセージ性を持っていたのかは分からない。ただのエンタメの作品を作ったのかもしれないが、私にとっては仏教思想を想起させられた。
 

仮想世界でリアルな生活をしている主人公たちは、アニメ内で何度か「現実だろうがゲーム内だろうが関係ない、今感じているのが自分」みたいな趣旨の発言を何度かしている。これは仏教の唯識を彷彿させる。普通、人は夢から醒めたら、いくら怖い夢を見ても「何だ夢か」とその夢の中での体験を実体のないものであると見做す。その考えを延長すると、ソードアートオンラインの中の体験も実体のないものであり、自分が煩わされるべきものではない。しかし、ソードアートオンラインの中で登場人物はその世界に臨場感を覚え、それを実体とし、そこの生活が自己の人生と認めている。

ゲームから出れないし、ゲーム内で死んだら現実でも死ぬから、キャラクター達はそう思うのだろうか。これはどちらも精神的なことである。本当にゲームから出れないか、死ぬかは実際確かめようがない。しかし、全体的な状況でそう信じてしまっているのである。それを自分が確信したら、臨場感が現実世界から今の仮想世界に移るのは当然である。結局は自分の認識が全て。これを突き詰めて認識しか存在するようなものがない、という考えが仏教の唯識である。

唯識的に言えば、現実世界もソードアートオンラインの世界と同じく、ただただ世界という物理空間を五官の作用により情報をインプットして認識しているに過ぎない。ソードアートオンラインはこの物理空間が明確にコンピュータの情報処理で作られているが、それらが我々の現実世界の物理空間と区別する必要はない。少なくとも一人の情報の受け手としては、完全にイコールの存在である。今の現実世界から覚醒めることを悟りというが、これはようするに夢から醒めることとパラレル。夢を実体がないものとみなすように、今の世界も実体がない夢やゲームの仮想世界と同じであり、ただただ自分の認識がある、という理解が腑に落ちればそれは悟りである。

ちなみにソードアート・オンラインのキャラクター達は、悟りとは逆方向に進み、現実世界と仮想世界の両方にとらわれ二重に苦悩している。実体のないゲームにとらわれて苦しみ(時には幸せになる)ことを描くことで、世界はそもそも実体がないものであり、どこの本人が臨場感を抱くか、ということに尽きる。それを理解できれば環境に左右されずにすむだろう。

『クールジャパンの嘘』(総和社)などで知られる評論家の古谷経衡氏が今回の人質事件について書いていた。(参照:「自己責任論」で中世に退行する日本)いつも性悪説にもとづき冷静な分析をしているが、今回のコメントについては残念ながら現状を捉えていない。古谷氏の主張を要約すると、「イスラム国(ISIS)で拘束されたジャーナリストの後藤健二さんと湯川遥菜さんに対して、同胞意識を持たず自己責任論が出てくる日本という国は国民国家としては異形である。その同胞意識は中世に退化した」と。さらに言えば、日本はもっと同胞意識(愛国心)を育てるべきだという主張にも繋がる。これは現実の状況を見誤っている。

私は今の時代において、同胞意識を育てるということには疑問がある。現代人、特に若者世代は同胞意識が弱い。確かに戦時中は、国を枠組みに人殺しをしているわけで命運を共にするわけだから同胞意識は芽生えるが、その後は大分希薄化している。現代で言えば、せいぜいワールドカップで代表の勝利を渋谷駅前で見知らぬ人同士がハイタッチするくらいな同胞意識であろう。

私も同胞意識がベースとなり「国民(ネイション)」が成立し、その上で、政治的・法的な制度あるいは組織である「国家(ステイト)」が正統性を持ち機能し、最終的に国民の人権を確保していく、という国民国家の考え方は正しいと考えている。(そもそも国民国家とは何かについては以前の記事を参照)それ故、国民国家の成立には同胞意識が欠かせない。 日本人という同胞意識を強くリアルに感じている人は実際に戦争を体験したや国が一つにまとまりつつあった時代の人である。明治時代から終戦まで外国に対しての日本、戦争をする仲間として日本、この当時の同胞意識は強くあったはずだし、それが日本を一つにまとめ、近代化させたのは間違いない。

しかし、以前もこのブログで書いたのだが、現代の若者を中心に今を生きる人々の大半は、もう国民国家という概念や同胞意識をリアルに感じていない。今の時代、国民国家とか同胞意識を主張する人々は、そういう戦争体験者からの教えを強く言い聞かせられて信じている人だ。戦争を知らない若い世代は、国家の大切さを言葉では説明されているが、実感がない。むしろ国際化した環境で育った若い世代は、世界は一つで自分は地球の住人であるという意識のほうが強いのではないか。

そこで、今から取るべき国の政策は二つに一つである。一つは、日本人のめんどうは日本国がみるという国民国家の考えを突き詰める。安倍内閣の政策の是非は置いておいて、「強く誇りある日本」を表明しているのであるから、安倍政権はこう考えているのであろう。これは国民国家としての日本を強くするということである。そしてその根本は主役である日本国民の人権を実現することである。現実的に国民を全てをカバーするのは難しいにしても、今回のような世界的な事件では、その国の姿勢と「決意」が世界に伝わる重要なサインとなる。

二つ目は、国民国家という意識をリアルに持っていない世代に合わせた社会体制に変更する。私はこちら派である。簡単に言ってしまえば中国化するのである。 もう国家に人権など生きる上での自由を確保してもらうことに期待し過ぎず、自分のネットワークでセイフティーネットを確保する、という生き方である。中国では宋の時代からとっくに政府を信頼していないで、このような社会ができていた。(不可抗力で生活できない人は政府がめんどうを見るべき)

今回の安倍政権の対応はどうだったか。簡単に書くが、今回問題解決できず犠牲者を出してしまったとすれば安倍政権は自己の政策と完全に矛盾している。「強く誇りある日本」を示したいなら身代金払ってでも解決し、国民の一致団結を強化すべきであった。上述の二策については、どちらも甲乙をつけるのは難しいが、やるならどちらか明確に追求すべきである。安倍政権が世界の中で日本を、この社会をどうしていこうとしているのかが全く伝わってこない。どういう社会を築いていくかをリードする一国の首相は、その政策内容で批判されることは不可避であるが、その一貫性が問題になるべきではない。

■補足
ちなみに、古谷氏は、明治時代の台湾出兵を例に挙げて、同胞意識とはこうあるべきだと主張しているようだが、その理解に誤りがありそうなので指摘しておく。以下、引用。
1871年(明治4年)、琉球・宮古島の船員69名を載せた輸送船が暴風雨で遭難し、台湾に漂着した。ところが漂着した台湾で、乗組員たちは台湾の原住民によってその内、54名が殺害されるという事件が起こった。激怒した明治政府は、西郷従道を総司令官として台湾に3,000名の討伐軍を送った。世に言う、「台湾出兵」である。

この台湾出兵は明らかに当時帰属が曖昧になっていた琉球王国を日本のものにするために行なわれたものである。なので同胞意識なんて関係ないのである。性悪説にもとづく日本が自国の利に適うように行動しただけなのである。

昨年は毎日のようにブログを更新していたが、今年は頻度を下げよう。大した主張内容がない場合でも無理矢理に書いているところもあったので、今後は書きたいときに書こうと思う。もうそろそろ29歳になる。村上春樹は29歳で小説を書くことを思い立ち30歳でデビュー。ゴータマシッダールタは29歳で出家し、その後悟りを開く。29歳というのは人生のターニングポイントになりそうだ。

外務省のラスプーチンと言われた佐藤優は、恩師から「背伸びをして難しい本をどんどん読め」と言われ、さらに「読んだことのない本を見栄で読んだとはいっては絶対にいけない」「読んでいないものは読んでいないと正直にいいなさい」と厳しく指導されたようだ。こうした経験から何事も深く考える習慣ができたらしい。

昨年は沢山本を読んだ。今年も結構読んでいる。ちょっと気になるのは、読書に慣れてきて一冊一冊を疎かにしているような気がする。読んだ本の内容を無理からに言語化して知識として吸収するような乱暴な学びをしている。本来、良い本であればそれは著者の一生分の学びが気合でまとまった作品である。そういう本は、簡単に分かるものではない。容易に納得を言い聞かせるのではなく、何度も読み返し自然に納得できるようにすべきだ。今年は、難しい本をじっくり読んでいきたい。

「証言・臨死体験 (文春文庫) 」by 立花隆を拝読した。どうでもいい話だが、立花隆の本はほとんど全て上海の古本屋「フクゼン」で買ったものだ。おそらく上海に立花隆ファンがいたのだろう(笑)以下、内容サマリーを引用し、感想を述べる。

内容(「MARC」データベースより)
人が病気や事故で生命の危機に瀕した際、ときとして、死後の世界を垣間見ることがある。これを、臨死体験という。本書は、臨死体験をしたことがある人から、その体験をできるだけ詳細に聞きとった証言記録集である。人の人生が千差万別であるように、人の臨死体験も千差万別。そこに、人間存在の多様性と奥行きの深さがある。水上勉、邦光史郎、大仁田厚、羽仁進など、臨死体験をしたことがあるという各界の人物23人から、その体験をできるだけ詳細に聞きとった証言記録集。凍りつくようなその光景を描いた自筆画も収める。

死んだらどうなるのか、というのは誰しも一度は抱いたことのなる問いであろう。立花隆は大人になってもこういう好奇心旺盛である。そこで、臨死体験からそれを垣間見ようとしたのだろう。しかし、私が本書を読んだ限り、その答えには全く近づいていない、という印象を受けた。そもそも、臨死体験というのは夢の延長線上である。夢というのは人間の無意識下の記憶のデータベースの中で、あらゆる情報がごっちゃになり整理されたり、よどめきあっている。その一部の情報が無意識に選ばれ意識に出てくるのが夢である。ここでいう記憶というのは、我々が思っているよりもっと広いものである。シンプルに理解するには、生まれてから今までの五感で得た情報全て、と思ってもらえばいい。「全て」である。胎児の頃、母親のお腹の中で聴いた音楽も含まれる。一瞬見た風景も全て。

そうすると、臨死体験というのは夢の延長であり、違うことと言えば、瀕死状態であるために、ドーパミンとかβエンドルフィン(具体的な成分は適当)とか身体を気持よくするような分泌液が多量に出て、より夢がインパクトの強い体験になる、ということだろう。基本構造は夢と同じである。本書に出てくる体験談では、三途の川がよく出てくるが、どれも、死ぬときは三途の川と事前に聞かされた記憶があったとか、もしくは瀕死状態の時にでる分泌液がそういう川みたいなのを見せる役割を担っているのかもしれない。いずれにせよ本書は面白いが、ただの夢の記録日記とあまり変わらない。

今回も小室直樹先生の「日本人のためのイスラム原論」から興味深いところをご紹介。普通に考えるとイスラム教みたいに宗教戒律、倫理規範、国家の法律が一致しないと重大な矛盾を招く。近代民族国家の成立時、それらの国家はローマ法を基準に法律を作った。これはどこから来たのかというとカトリック教会である。カトリック教会はキリスト教の法体系ではなく、ローマ法体系により運営されていた。法律的にはグロテスクな存在であった。しかしそれは仕方ない。なぜなら福音書には法律はなく手本になりえないから。

なぜこれほど精緻であったイスラム教が近代国家を作れず矛盾に満ちたキリスト教が近代の覇者になりえたのか。それはイスラム教に決定的な弱点があったからである。それはマホメットが最後の預言者であったため、マホメットが決めたことを改訂することができない。この教義からイスラムでは法は発見すべきものとなり新しい立法という考えはなかった。必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成されそれを脱却できる論拠を持たなかった。

他方、キリスト教はどうか。神は絶対である。しかし、神が許可したのであれば法律や世の中のしきたりも自由に変更できる。ここで予定説。カルヴァンなどのプロテスタントは予定説により世の中には選ばれた者とそうでないものがおり、我々だけが神に選ばれたという確信を持っていた。それゆえに神の御心に適う法律を作ることが出来ると確信した。伝統を打ち破ることができないイスラム教では伝統に反するリポ雨は不可能であったが、キリスト教では神が赦し給えば可能であった。これがキリスト教が近代を作り、イスラム教が作れなかった根本原因。

さらに資本主義についてはどうだろう。ユダヤ教とカトリックは金儲けを絶対許さない。ユダヤの商人シャイロックは高利貸しで、カトリックは秘跡で大儲けしたではないか、と思ってしまうが、実はこれらは抜け穴がある。シャイロックは確かに利子を取ったが相手は異教徒なのでこれはユダヤ教の教義に適う。また、中世カトリックの論理は儲けを欲して儲けるのは禁止だが、結果として儲かるのはOKであった。

パウロはキリスト教において最重要人物であるが最大の功績は人間の内面と外面は全く違うということ、すなわち内面と外面の二分法を明らかにしたこと。これがなければキリスト教は世界宗教たりえないどころか滅びていたかもしれない。秘跡や免罪符をルターが否定したのは内面的な動機と関係なしに儀礼によって救済されるとしたからであり、カネを取ったという結果を責めているわけではない。

原始キリスト教はローマの法律に反するとの理由で弾圧されたが、生き残るためにパウロが取った方策がこの二分法であり、信仰と行動を峻別。キリスト教には法も規範もないのでこういう側面を元々もっているが、特に強調して明確にしたのがパウロである。これが資本主義を生み出す原動力になった。信仰を変えることなく外面的行動を変えることが出来た。資本主義を成立させるための法律、規範、人々のエートスはすべてこの外面的行動だけを規制している。しかし、イスラム教のように人間の内面と外面が密接に絡み合っているような宗教ではこうはいかない。イスラム法が優先すれば資本主義の法律は機能しなくなる。現にトルコにおいてはケマル・アタチュルク以前のイスラム法で一日5回もの拝礼を要求していたので、これでは資本主義の活動は阻害される。

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