記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年03月

中国人と接することが多いので、論理の重要性を実感する。たしかに、表現方法や世界観の違いから噛み合わないことは多いが論理の構造まで落とし込めば意思疎通はできる。論理というと冷たく感じてしまうかもしれないが、異なるバックグラウンドを持つ人とのはなしは主張内容と論理展開を吟味しないと収拾がつかない。ただ、そこまでの努力を自分も相手もするか、ということにかかっている。めんどくさがって自分の論理を説明しないと分かってもらえないし、相手がそうしてくれないとこちらも理解できない。一番質が悪いのは非論理的な人だ。正直こういう人とは議論が難しい。傾向として欧米思考のある人は論理的に表現するようだ。

私の論理の基本は高校時代に習ったドモルガンの法則などが出てくる論理であるが、時がたつにつれてほとんど忘れていた。そこで東大の野矢茂樹教授の「入門論理学」を拝読した。本書は入門書であるため、簡単に書いてあるが論理学というものは何かという根源的な問いに答え、その全体像を示してくれる良書。

これを読むと、人間が技術を高め、生産を効率化していく過程には論理学があることが分かる。というのも、人間がどうやって観察した自然から知識を発展させていくかは論理学で規定されるからである。論理に関して私は2つの側面を感じた。一つはすごく緻密に人間が絶対的に確信できるようにしか命題を発展させていかない、というその慎重さ。そしてもう一方は、結局論理といってもその論理展開を保証するものは人間の理性でしかないという、限界。(ヒュームの批判に繋がる)

何はともあれ、本書を読むことで一般的に使う論理を改めて見直すことができる。さらに、TPOに従い厳格な論理を使うこともできるだろう。以下、読書ノート。


■論理学

論理とはことばとことばの関係の一種。ことばとことばをきちんと関係付けて使う人は論理的でそのときとのときの思いつきで脈絡なく発言する人は非論理的となる。あくまでも意味上の繋がり。

■推論

論理的な結論の導き方。前提を認めたら結論も必ずみとめなければならない導出。硬い言い方だと演繹。演繹的推論。対して常識や経験から判断しておそらくいえるだろうという結論の導き方は推測。

■論証

ある前提からなんらかの結論を導く、その全体のことを論証と呼ぶ。それに対して前提から結論を導く過程だけを取り出して、導出と呼ぶ。論証を評価する場合、事実調査の持ち分と論理の持ち分は区別される。論理はことばとことばの関係を扱う。前提の結論の関係だけを扱うのが論理。

論理学とは論理を既に使いこなせている人が、いったいこれはどうなっているのだろうという関心のもとにそれを整理し体系だて理論化していく、そういうものにほかなりません。

■論理のことば

否定語 汎用性 

アリストテレスの論理学がオルガノン(道具)と呼ばれた

一つの完結した論理体系(命題論理)

 否定語 ではない

 接続詞 そして または ならば

述語論理

 すべて

 存在する

これらの5つのことばが作り出す演繹的推論の全体を統一的に見通すこと、これがこの本の目標地点

■否定

なんらかの主張ABCがを否定して「Aではない」と正しく言えるのはどういうときか?

「それはその状況でAと主張すると間違いになってしまうときである」

「Aではない」はAという主張が間違いだと訴えることを通して、いわば間接的に世界の状態を描写している

例:机の上の金塊

日常的に使っている否定は、否定+肯定の内容を持っているのでそこから肯定の部分を削り落として純粋な否定の部分だけを取り出す→Aという主張に対してそれはともあれ打ち消すということ、そしてさしあたりそれ以上のことは言わない これが否定の純粋な形

■論理法則(排中律)

  • 論理的に言って必ず成り立つ命題のこと
  • Aまたは(Aではない)
  • 排中律と呼ばれる

排中律は必ず成り立つか?

  • Aまたは(Aではない)
  • は、その状況でAは正しいか間違いかをきっぱりどちらかだといえるだろうか?
  •  Aにあいまいな概念が含まれている場合 例えばここは富士山だという場合
  •  証拠不十分の場合 太郎には勇気がある
  • 排中律は論理学の根本法則に関わる大事な問題で、それを認める体系(標準的)と認めない体系(非標準的)もあるが、その否かでその論理体系の性格が決定的に違ってくる。
  • 標準的立場は実在論的立場であり、人間がそれを見ていようがいまいがそこにある。あたかも神の視点で見るように。非標準的な排中律を拒否する立場は反実在論的立場と言え、人間の視点に立とうとする立場ともいえる。神の論理学と人間の論理学。
  • 標準的な論理体系を考えるということは(1)あいまいな概念を考えないこと、全てが明確(2)実在論的で神の視点を想定するような立場からものごとを捉えていく

■二重否定則

A→(Aではない)ではない 二重否定入れ

(Aではない)ではない→A 二重否定取り

排中律を認めないと、二重否定取りもNG。

■矛盾

主張Aと主張Bが両立しないとき

AとAではない を同時に両方主張すること

Aかつ(Aではない) という主張が矛盾

矛盾律・・・Aかつ(Aではない) ということはない=正しい

■背理法

普通の論証法を直接論証といい、背理法を間接論証という

まず否定したい主張を仮定し、そしてその仮定から矛盾が導かれることを示す

ルート2のやつ 有理数

ある主張を否定していいのはどういおうときなのかをきちんと規定したもの

■否定の論理

排中律・・・Aまたは(Aではない)

二重否定則 入れ・・・A→(Aではない)ではない

二重否定則 取り・・・(Aではない)ではない→A

矛盾律・・・(Aかつ(Aではない))ということはない

背理法・・・Aを仮定して矛盾が導かれるとき、Aではないと結論してよい

■接続詞

論理的になるには?→接続表現を自覚的に使おう

かつ、または、ならば

■かつに関する論理法則 連言

論理体系がかつに関してどういう論理法則を認めるかによる

導入則・・・かつを用いた主張が他のどういう主張から導かれるのかというタイプ 何からその主張が導けるのか

A、B→AかつB カツ入れ 連言の導入則

除去則・・・かつを用いた主張から他のどういう主張を導けるのかというタイプ その主張から何が導けるのか

AかつB→A

AかつB→B かつ取り 連言の除去則

■または 選言

導入則

A→AまたはB

B→AまたはB

または、で繋がれる一方が正しいならもう一方はなんであれそのまたは文の全体は正しくなる

除去則

AまたはB、Aではない→B

AまたはB、Bではない→A 消去法

■ドモルガンの法則

(AまたはB)ではない←→(Aではない)かつ(Bではない)

(AかつB)ではない←→(Aではない)または(Bではない)

←→=論理的に同値

選言の否定←→否定の連言

連言の否定←→否定の選言

■ならば 条件法

導入則・・・Aを仮定してBが導かれるとき、「AならばB」と結論してよい

※それが属している論理体系の演繹的推論をまるごと背中にしょって、その上で、この論理体系でAからBが演繹的に推論できるときには、この論理体系では「AならばB」といってもよい、と述べている。この導入則だけでは無内容。

除去則・・・A、AならばB→B 前件肯定式(肯定式)

導入則と除去則は基本的に何から何を導いて良いのかを規定している。どういう導出が演繹的推論として認められているかを規定。

ならばの否定・・・(AならばB)ではない→Aかつ(Bではない)

■対偶

AならばBではない  の対偶は (Bではない)ならば(Aではない) 真偽は同じ

AならばBではない  の裏は (Aではない)ならば(Bではない) 真偽は関係なし

AならばBではない  の逆は (B)ならば(A) 真偽は関係なし

■推移律

AならばB→BならばC→AならばC

※逆と裏はいえないことをしっかり理解しよう。これがよく誤解をまねく。

■ここまでのまとめ

論理学のやりたいことは、演繹的推論のすべてを体系化すること

否定に関する標準的な捉え方を押さえて、文と文を接続する型として連言、選言、条件法を見てきた。それぞれについて導入則と除去則の組み合わせを規定してきた。これら否定、連言、選言、条件法により成り立つ演繹的推論を扱う体系を命題論理という。または、文論理。命題とは何事かを主張した文。

■証明するとはどういうことか うまくいっている論理体系とは?

ドモルガンの法則を私達の導入則と除去則の組み合わせを使えばこれが正しい論理法則だと示せる。=証明

□前提→△結論

否定、連言、選言、条件法の導入則と除去則だけを用いて導く

((Aではない)ではない)かつB→AかつB を証明

(1)((Aではない)ではない)かつB・・・前提

(2)(Aではない)ではない・・・(1)とかつ取り

(3)A・・・(2)と二重否定取り

(4)B・・・(1)とかつ取り

(5)AかつB・・・(3)(4)とかつ入れ

このように論理法則を私達が規定した導入則と除去則を使って証明していく。

論理法則→ 論理命題 と 推論規則 に区別

論理命題:一つの命題 必ず正しくなる命題

推論規則:2つの命題の推論関係 ドモルガンの法則など

■ほしい論理法則

AまたはB→Aは誰もほしがらない。AやBに具体的な命題を入れてみると、前提が正しいのに結論が間違うことがある。この具体例を反例という。

反例が見いだせない性質を論理法則の「妥当性」という。妥当性が論理法則として欲しいか否かを分ける。

どうやって妥当性を判断するか?

知りたいこと:私達の命題論理の体系はほしい論理法則をすべて証明してくれるような体系なのか 

公理系=形式的アプローチ

まず出発点となる論理法則(公理)を規定してそれを用いてさまざまな論理法則を証明していく体系(証明されたものを定理)

公理系は具体的な命題の事例を考えずAとかBとかそういう型だけ扱う それは形式的体系と呼ばれる 公理系のやり方を形式的アプローチ

◯意味論=内容的アプローチ

それに対して論理法則の妥当性を論じるやり方はAまたB→Aに反例があるかどうかを考えるというもので、その際にはAやBの中身となる具体的な命題の事例を考えるから「内容的アプローチ」と呼ぶ。意味論。内容的アプローチ。

◯内容的アプローチ

命題については真か偽かしか考えない

◯真理関数

Aなどに真を入力すれば偽を出力など関数として捉える

否定:真偽を反転させる関数

AまたはB:AかBか少なくともどちらかが真のとき真、AもBも偽のとき偽

■「健全」で「完全」な公理系

  • 設定された妥当な論理法則をすべて過不足なく証明してやろうと企てるのが公理系
  • 過不足なく証明
  • 健全:その公理系は妥当な論理法則だけを証明して、妥当ではない論理法則まで証明してしまうようなことがない
  • 完全:その公理系は妥当な論理法則のすべてを証明することができる
  • 上記で見た私達の公理系は完全で健全でうまくいっている

■ゲーテルの不完全性定理

  • 1931年にゲーテルが証明
  • 実質的に数学全体に対する不完全性の宣告
  • 自然数論に対して完全な公理系を作ることはできないという一般的な結論
  • 数学の公理系はどうしたって不完全でしかありえない
  • 1+2=3とかを数学の道具立てを用いてその正しさを示せるべき命題を、公理系による証明というやり方ではそれが正しいとも間違っているとも示すことができない、そういう命題をゲーテルは作ってみせた。
  • ある人は人間の知性の限界を示したと大言壮語する人もいるが、けっして公理系だけが人間の知性ではない
  • 振り返って上記の私達の命題に対する自然演繹のタイプの公理系は完全であることが証明されている。命題論理に限らず、論理学の体系は基本的に完全な公理系を作ることが出来る。こう考えると数学の世界というのは公理系という整理された体系に収まりきれないほど豊かさをもっているとしみじみ感じる。

■ここまでのまとめ

論理学の工場で「標準的な命題論理」というひとつの製品が出荷されるまでを見た。それは命題論理の公理系を作るという作業でありさらにその製品の健全性と完全性をチェックするという品質検査まだが論理学の工場の役目。しかし私達の言語というのはもっとずっと豊かで命題論理がターゲットとする推論はその一部分に過ぎない。

■全称と存在

推論の形式化:推論に本質的なことばだけを残してあとの交換可能な部分は何を入れてもいいように記号かなにかにしておく

私のアンパンを食べたものがいる

私のアンパンを食べたものには天罰がくだる

だから天罰が下る者がいる

Fであるものが存在する

Fであるものは全てGである

だからGであるものが存在する

「存在する」と「すべて」を用いて成り立つ推論を体系化する→述語論理

存在と全称の推論を体系化することが新たな目標

FであるとかGであるといったもののあり方を表す言葉を扱う

■ドモルガンの法則

1,(すべてのものがFである)というわけではない←→Fではないものが存在する 全称の否定←→否定の存在

2,Fであるものは存在しない←→すべてのものはFではない 存在の否定←→否定の全称

すべてのものについて何か述べるもの=全称文

何かの存在を主張する文=存在文

  • 世界にもし3匹の豚しかいなかったら?=有限
  • 全称文は連言文に等しい、存在分は選言文に等しい
  • 命題:すべてのものには尻尾がある(3匹の豚しかいない)
  • Aには尻尾がある、かつ、Bには尻尾がある、かつCには尻尾がある
  • 命題:怠け者がいる
  • Aは怠け者だ、または、Bは怠け者だ、または、Cは怠け者だ
  • →全称と存在の推論を扱う論理体系である述語論理は、命題論理に他ならない
  • しかし、無限の対象について述べる場合は述語論理が必要とされるのだ

■すべての男は馬鹿である の論理構造

すべてのxについて(xが男であるならば、xは馬鹿である)

想定されている対象の習合を議論領域という

議論領域の全体にあてはまると主張するのが「全称量化」、議論領域の部分にあてはまると主張するのが「存在量化」

■全称文と存在文に対する論理構造の捉え方のまとめ

すべてはFである・・・すべてのxに対して(xはFである)

すべてのFはGである・・・すべてのxに対して(xがFならば、xはGである)

Fであるものが存在する・・・あるxが存在し(xはFである)

FであるGが存在する・・・あるxが存在し(xはF、かつ、xはGである)

■「すべて」と「存在する」を組み合わせる「多重量化」

全称量化と存在量化を複数個組み合わせたものを「多重量化」と呼ぶ

例:

全員が全員にプレゼントをあげた

誰かが誰かにプレゼントをあげた

全員が誰かにプレゼントをあげた

すべてのxとすべてのyに対して(xはyにプレゼントをあげた)

あるxとあるyが存在して(xはyにプレゼントをあげた))

すべてのxに対して(あるyが存在して(xはyにプレゼントをあげた))

☓間違い→あるyが存在して(すべてのxに対して(xはyにプレゼントをあげた)


■論理学の歴史

  • 最初に体系立てたのはアリストテレス
  • ストア派の論理学もあった
  • 上記は現代論理学で、主発点はゴットロープ・フレーゲというドイツ哲学者の概念記法(1879)
  • 多重量化は、現代論理学でしか扱えない話題
  • 現代論理学とhアリストテレスやストア派の論理学を統一して体系化し、さらに多重量化に踏み込み体系を拡大、完成させた
  • ゲーテルは1930年23歳で学位論文で述語論理の完全性の証明をし、翌年に自然数論の不完全性定理

■述語論理の公理系

目標は「すべて」と「存在する」ということばに関わる論理法則をすべて証明できるような証明の出発点となる公理を定めること

わたしたちのやり方:そのことばに関する導入則と除去則を考えていくというもの

今までの否定、連言、選言、条件法も全部使う→命題論理をその中に含んでいる→述語論理は命題論理の公理プラス以下の4つの公理。

1,全称量化の除去則

すべてのxについて(xはFである)→tはFである(tは任意)

xが現れるような主張(xがFであるならばxはGである、等)をともかく一括してAxと書く

全称除去:すべてのxに対して(Ax)→At(tは任意)

2,存在量化の導入則

存在導入:At→あるxが存在し(Ax)

3,全称量化の導入則

すべてのxに対して(xはFである)、すべてのxに対して(xはGである)

→すべてのxに対して(xはFである、かつ、xはGである)

全称文から取り出されてきたことが明確で、その任意性が明確なtについて成り立つなら、それを全称文にしてもよい=全称文の導入則。もともと全称文だったものをいったん任意の個別の主張にしてそれからまた全称文にするので、導入則というよりは復元則。

全称導入:At→すべてのx対して(At)(tは任意性を持つこと)

※証明の中で任意性が保証されたtについて成り立つ個別の主張はすべてのxに対して一般化できる

4,存在量化の除去則

存在除去:あるxが存在し(Ax)、■ならばC→C  (Cはaを含まない)

■自然数論

述語論理に「=」の公理と、数(0,1,2・・・)の公理を付け加えると自然数論、つまり数学の領域になる。その意味で述語論理というのは数学にギリギリまで接近した論理学の手一杯の所まで来ている。

■古代からずっと哲学が問題にしつづけてきた話題

可能性:2+3=5は必然的に真?ゲーテルは論理学者は真?

必然性:2+3=8は不可能?

こうした可能性とか必然性というものは何なのかこうした問題を明晰にとらえていくためそこで使われていることばを整理して理論化し体系化するため論理学はその研究に乗り出した

ある文Pに対して、「Pは必然的である」や「Pは可能である」というように使われるこうしたことばは文の「様相」といい、「必然的様相」とか「可能性様相」とかいう。こうした様相のことばを扱う論理学を「様相論理」という。これでターゲットが定まり、あとは内容的アプローチと形式的アプローチの両方から攻めて健全で完全な公理系を作る。 

もう一回リベラル・アーツの重要性を整理しよう。我々人間は生きている限り、幸福を追い求める。幸福とは気持ちいいとか楽しいとか嬉しいとかそういうもの。そこから整理すると、最重要なものは幸福である。

  1. 幸福を実現
  2. 幸福のためには自分の心の声に耳を傾け、行動しなくてはならない
  3. 行動を起こすには、その行動を取る理由や意義を「納得」しなくてはならない
  4. 偏った知識では疑問が延々と続き納得できない
  5. 多様な学際的な知識や経験がもとめられる
  6. だからリベラル・アーツが重要
と、こういうことである。1と2の関係は私個人の思想である(以前この理由については書いた)ので改めて説明しない。1の幸福の実現のためにはリベラル・アーツがかなり重要。

ちなみに以下は早稲田大学国際教養学部の教育理念と、リベラル・アーツとして学べる科目群。バランスよく学んでいくべき。

教養を重視し、さまざまな分野の科目を履修するリベラルアーツ教育を実践しています。多角的な視点を養い、論理的な思考力と分析力、実行力を身につけます。そのため、開講科目も特定の分野に偏ることはせずに、世界の最新情勢を包括する7つの分野にわたって幅広く設置し、学際的な学習を可能にしています。講義では単に知識を覚えるだけではなく、学生一人ひとりが物事を多元的に捉え、分析し、自ら考え抜く能力を身につけることに重点を置いています。

7つのクラスター(科目群)
1. Life, Environment, Matter and Information(生命・環境・物質・情報科学)

環境や情報処理に関する基礎的な知識は現代社会において誰にも必要とされるものの一つです。このクラスターでは、生物学系を中心に、生命科学・生命倫理・環境科学・環境政策・地球科学・物質化学・化学・情報科学・数理統計などの分野の授業を理系・文系のいずれの学生にも理解しやすい内容で提供します。

2. Philosophy, Religion and History(哲学・思想・歴史)

各国の社会的現状の基礎となり、世界の政治・経済・文明文化の動向に深く関わるとされる、日本を含む世界の思想・哲学・宗教・倫理・歴史学・考古学を学びます。国際関係の根幹となるこの分野の基礎知識を身につけ、現代社会で物事を深く考える技能を磨きます。

3. Economy and Business(経済・ビジネス)

世界中から来た学生達が集うSILS特有のバラエティ豊かな学習環境で、経済・ビジネス・経営・金融・会計の各分野、そしてそれぞれの分野における日米欧の政策を学びます。ここでは分析的な考えを持ち、従来の"Who, What, When"ではなく質の高い"Why, How"と問いかけることの大切さを全ての学生に理解させ、 学生自身が大局的に世界を捉えられるように指導しています。

4. Governance, Peace, Human Rights and International Relations(政治・平和・人権・国際関係)

政治、法学、平和、人権、マイノリティー論、国際関係、国際機関などの分野を網羅するクラスターです。歴史を踏まえつつ今日的な内容を多く扱い、多様な背景を持つ学生達が共通して理解できるよう基礎部分を主として講義を実践しています。明確な答えが存在しないこの分野を学ぶことで、 事象を整理・分析する力、問題を解決する力、主流におもねらず自ら考え抜く力を磨きます。

5. Communication(コミュニケーション)

人が関わるコミュニケーションにおいて欠くことのできない“言語”の様々な分野を学習します。言葉を異にする者同士の言語コミュニケーションに留まらず、ジェスチャーやボディランゲージ、機械を利用した対話など、幅広い分野を対象としています。将来の研究や仕事に役立つ知識の基礎を身につけてもらうため、質問を積極的に促し、フィードバックを活かす授業を展開しています。

6. Expression(表現)

美術・映像・演劇・音楽・芸術・文学・メディア論・建築を連携させ、学際的な科目を総合的に配置した斬新な特徴を有するクラスターです。異なる文化について理解を深めたいと考える方にとっても、卒業後にジャーナリズムやメディア、出版、翻訳などの分野を目指す方にとっても興味を持てる授業を提供します。

7. Culture, Mind and Body, and Community(文化・心身・コミュニティ)

“文化”(比較文化・ジェンダー論・カルチュラルスタディーズ・社会学・人類学)、“心身”(心理学・哲学・身体論・健康・セラピー)、“コミュニティー”(都市・地域・コミュニティー・グローバル社会・NPO/NGO)の3つの要素から形成されるクラスターです。文化や歴史など異なる背景を持つ学生達が学ぶ多様な学習環境を活かし、多角的な視点を養います。

参考:http://www.waseda.jp/sils/jp/about/feature02.html

 

昨日、「正義」について見たが、今日は「善」ということばについて。日本と西欧の哲学用語としての善はかなり異なる。日本の善はだいたいイメージできていると思うので、西欧の善について以下、仲正先生著書をまとめ、所感を述べる。

西欧の善
  • 意味はかなり多義的
  • 善に当たるは英語the good
  • 現代の倫理学、特に英米系の倫理学で問題にされている善は神のような絶対的視点からのよいことではなく、特定の個人や集団にとってよいものを指す。
  • 善の定義:私達が自らの生の目的を追求、実現するうえで有用であるもの、私達の欲求を充足し幸福にしてくれるもの、もしくは幸福になった状態が善である。
  • 善の構想:私達は自らの生を豊かにしてくれるであろう善についての一定の包括的なイメージ「善の構想conception of the good」を持っている。善の構想を端的にいうと、生き方である。善の構想に基づいて私達にとって何に価値があるか、私達が何に価値を置いて行動するかが決まってくる。例えば、自由を中核とする善の構想を抱いている人なら、他人に干渉されない自由時間とか隠れ家の確保に価値をおきながら行動指針を決める。
以下、各思想における善の考え方。
 
リベラリズム(自由主義)
  • 主にロールズなど
  • 善は基本的に個人ごとに異なることが前提
  • 民主的な政治を行おうとすればどうしてもその政治的共同体全体の共通のルールを設定しなければならないが、その共通ルールの適用範囲を宏すぎると各人の善の構想が侵害されることになる。
  • そこで共通ルールを価値中立的もしくは価値横断的にみんなが受け入れることのできる正義に限定し、各人ごとの善の構想と両立されることが重要になる。
  • 主流派は正義の中に、財の配分をめぐる問題も含めて考えようとする
  • 正義の原理が成立しそうにない問題を公的領域における政策決定の俎上にのせてはならない。難しい問題は全てスルー(妊娠中絶、安楽死、同性愛など)

リバタリアニズム(自由至上主義)
  • 国家による経済への介入を原理的に否定する
  • 善は基本的に個人ごとに異なることが前提
  • 公権力が個人の財産権に干渉し再配分を行うことは個人の善の構想に対する重大な侵害として反対
  • あくまで個人ベースで善を考え、可能な限り正義と隔離しておこうとする

コミュニタリアン
  • 個人にとっての善はその個人が生まれ育った共同体が全体として追求している共通善common goodと切り離して考えることはできないし、共通善から独立の正義などありえない。各人の価値観は言語、歴史、宗教、文化、慣習などの共同体的要素によって深く規定されており、自分では自由に考え行動しているつもりでも深いところで共同体的なものに拘束されているので「共同体の枠を超えてどんな立場やアイデンティティでも受けられることができる普遍的な正義を発見し社会の基礎として正当化すること」は不可能
  • それぞれの共同体に属している人々の考え方を規定している共通全の特性を明らかにしそれぞれの共同体に適したローカルな正義を構築すべく努力したほうがいい
  • 各人が市民としての自覚を持って参加している政治的共同体の共通善を中心に議論する人たちは共和主義。(言語、宗教、文化など本人が選択したのではない属性に基づく共同体における古くから伝承されてきた共通善を唯一の倫理的基準にした場合、個人が自らの幸福としての善を追求する自由が制約され共同体自体が抑圧的になってしまう)
  • アリストテレスは共和主義の思想的先祖。人間をポリス(政治)的動物として考察し、ポリス(政治的共同体)の枠内でポリスのテロス(目的原理)に適合した良き市民としての生き方を探求することが、各人の幸福に繋がると主張したアリストテレスは、共和主義あるいはコミュニタリアニズムの先駆者。
  • 共通善の重要さを説くサンデルは同時にそれが目的を共有する共同体にとっての善であることを確認する。それが共通善を武器に間違っている人や嘘を付いている人を糾弾、攻撃してしまうから。
西欧での一般的な認識
  • 善いは絶対的な基準であり規範的な意味を持っているが、良いの方は相対的で特定の人、目的、対象にとってよいことを意味する。
  • この世界に存在する様々な共通善は相互に調和しているわけではなくむしろ対立し合う局面が多い。経済活動の自由を中核とする共通善と富の配分の平等を中核とする共通善は不可避的に対立する。あらゆる善を1つにまとめる究極の善の基準のようなものはどこにも見出すことができない。善と善が対立し闘争しあうからこそ異なる善を追い求めるそれぞれの個人や集団がどうやって共存するかが、倫理学や政治哲学の主要な関心ごと。
  • 日本語の日常的な善では、神などの超越的存在に由来する絶対的な基準というニュアンスを帯びていることが多い。そのため善をめぐるサンデルやロールズの議論も絶対的な善の探求の過程での方法論の違い、或いは最終ゴールとして善のあり方についての議論と取られがちである。
こうしてみると昨日見た「正義」とかなり近い。要は、上記の通り、善とは「私達が自らの生の目的を追求、実現するうえで有用であるもの、私達の欲求を充足し幸福にしてくれるもの、もしくは幸福になった状態」である。これを特定の共同体にとっての最大公約数的なものに広げたものを一般に善というようだ。そして、「正義」と法などの決められた方法により正当にこの善を実現することである。

西欧でもある程度の定義のズレはありそうだが、大体共通の認識を持っているようだ。日本と大きく違うのは、こうしたことばが大勢によって認識されており、積極的に社会をよくするために使われていることである。以前このブログでも書いたが、日本の政治家は経済成長とか失業率低下とかそういう手段しか論じることがない。西欧のように常に善という日々の行動の目的の連鎖の究極にあるようなものを意識していないと、何をやっているのかどこに向かっているのか実感が持てない。西欧を真似しろとは言わないが、日本も共同体を組織している以上、その究極目的について日々議論していおく必要があるのではないか。

最近、仲正 昌樹先生の本を良く読む。西洋哲学や現代思想について分かりやすく説明している。「いまを生きるための思想キーワード」から「正義」ということばについてまとめ、所感を述べる。

英語の正義にあたると思われるjusticeと日本の正義には大きなズレがある。日本語の正義というとちょうどいい義のあり方という感じのようだ。個々の人間の思惑や利害を超えたものに由来する絶対的な善。正義の味方であり、仮面ライダーとか水戸黄門など。強気をくじき弱気を助ける、なんとか悪に勝利し正義を実現する。大きな悪と闘うことが正義の見方であることの証明になるわけ。義というと義理、忠義など人間関係を大事にしそうなイメージがある。あた大義の義ではネガティブなニュアンスも含み、少数の人を犠牲にして大きなことを成し遂げるような感じ。正義というと悪いイメージはなく、ちょうどいい義のあり方という意味合いなのかもしれない。

英語のjusiticeはそうした人情的な意味はあまり含まれいない。justiceは深く法と結びついている。jusという部分はラテン語で法、権利、正義を意味する言葉。各人に正当な理由に基いて割り当てられた権利が適切に保護され紛争が起きても法によって正しく解決されることが正義。法や権利と不可分に結びついているのが正義で、ある意味冷たい。正義を実現するなら個人的な感情や義理は廃し予め決まった法的ルールで問題を公正に処理することが求められる。一度結んだ契約は必ず履行し違反者を罰するのが正義。

西欧の言語の日常会話で言う正義justiceは二つが混ざっている。1つは、前述の法の理想の実現という人間相互の契約や決まりから生じる水平的なもの。もう一つはキリスト教の教義に関わる文脈で問題なる神の正義であり、全知全能の唯一神に由来するので当然認知を超えて絶対的であり一方的に人間たちに啓示される。その意味での正義は垂直的であり現代日本語の正義のニュアンスに近い。

1970年代以降、アメリカの哲学者ジョン・ロールズの正義論以降、英米の政治哲学で取り上げられる正義は前者の水平的ないみでの正義となった。ロールズだちリベラルな論者が探求している正義は民族、言語、宗教、歴史を異にする様々な共同体ごとの価値観(善)の違いを超えて人々が普遍的に合意することができる規範、言い換えればその社会を共同で形成するための契約の基盤になりえるような価値中立的規範である。各人の人生経験、世界観、宗教が違ったとしても公正なルールとして全員が受け入れることができるものが正義。ロールズは普遍的な人間本性ゆえに人々が到達するであろう正義の基本原理を特定しようとしている。

こうした価値中立的な正義の原理の発見、構築を目指すリベラル派に対して、サンデルなどのコミュニタリアニズム(共同体主義)の論客は純粋に価値中立的な正義の成立は不可能であると主張しする。コミュニタリアンにとっての正義は各共同体が追求している目的原理テロスの延長線上に出てくるものであり決して価値中立的な普遍的なものではない。1980年代から1990年代前半にかけてリベラルとコミュニタリアンの間で「正義と共同体的善」の関係をめぐる壮大な論争がなされたが、結局決着はつかなかった。

はっきりしているのはいずれも日本語で正義の味方というような絶対的、垂直的な正義を求めていたわけではないし正義の原理をみんなに受け入れされるために人格改造のようなことを企てたわけでもない。論争の焦点は「どういうルールならみんなが公正なものとして受け入れることができるか」ということ。

公正なルールを探求する英米の正義論というのはドライで地味な議論である。例えば経済社会的格差はどのような形でどの程度までそしてどういう条件の下であれば正当化されるのか社会の基本的ルールを問題にする。日本の従来の哲学ブームのような人生観とか癒しの話ではない。

私は早稲田大学の国際教養学部という2004年に新設された学部を第二期生として卒業した。この学部はリベラルアーツ(liberal arts)教育を目的としている。当時私は単純に広く浅く知識をつけようくらいに考えていて、しかもビジネスとか経済系の授業を偏ってとり、たいして授業にも出ず今考えるとゲロを吐きそうなくらい勿体無いことをしたと思う。(その代わりスポーツやアルバイトなど社会経験を積めたという楽観で何とか持ちこえている)

今となってはリベラルアーツの重要性を痛感している。このブログでもよくその意義について説いている。なぜ重要かというと、抽象的に要点だけ書こう。

この世のあらゆるものは空(くう)の存在であり、あるようでもないようでもあるよくわからない世界である。そんな中で主観的に生きている人間は行動の指針がないと動けない。そして行動しないと幸せは訪れないようなデフォルト設定になっている。行動の指針を見つけるには、幅広い知識を持って自分で主観的に納得しなくてはいけない。納得するには出てきた疑問を解決するために学び、さらに疑問が出てきては学び、を繰り返す必要がある。この作業に終わりはない。(客観的な正しさとは別)それゆえ学際的な多様な知識であるリベラルアーツが必要なのである。

ということ。これは自分の意見であるが、そもそもリベラルアーツの趣旨もそうだったようだ。以下引用。

アメリカのリベラルアーツカレッジで、現在でも重要だと考えられているのは、ローマ時代の末期に成立したという「セブンリベラルアーツ」(自由7科)だ。なぜ、「自由7科」なのかというと、この7科が、奴隷でない自由人として生きていくために必要な素養とされたからだという。

「自由7科」は、「3学」 (トリウィウム) と「4科」 (クワードリウィウム) の2つから成っている。「3学」は、主に言語にかかわる3科目のことで、「文法」(Grammar)、「修辞学」(Rhetoric)、「弁証法(論理学)」(Logic)。「4科」は数学にかかわる4科目で、「算術」(Arithmetic)、「幾何」(Geometry)、「天文」(Astronomy)、「音楽」 (Music)である。

ローマ時代には、この「自由7科」の上に「哲学」(Philosophy)があり、さらにその上に「神学」(Theology)があるという学問体系になっていたという。その後、中世のヨーロッパで大学が誕生した際、この「自由7科」は、学問の科目として公式に定められ、その伝統を今もアメリカのリベラルアーツカレッジは守っているというわけだ。 
(参考:http://toyokeizai.net/articles/-/13769?page=2) 

目の前の1つの現象を理解するにも、「腑に落として」理解するためには知識を総動員しなくてはならないのである。個人的には今、現代でいう自由7科にあたるものを学んでいるところだ。 もし平均寿命の75歳くらいまでいきるとすれば30にも満たない若者は、今あらゆるものを犠牲にしてでもリベラルアーツを学んでおくべきであろう。

当時は新設のため多少グダグダだったが、もし日本でリベラルアーツするなら現在の早稲田の国際教養学部は、最高の環境を提供しているのではないだろうか。というのもリベラルアーツの趣旨からいえば、多様な学生が集まっていた方がよく、早稲田はそのブランドもあり世界から優秀な学生、また著名大学からの交換留学生が沢山いる。東大の教養学部より多様性がある。教授のラインナップは世界レベルではないが、日本では良いほうだろう。

インターネット上に溢れる情報や書店でずらりと並ぶ本を読むと世界に存在し膨張し続ける情報量にめまいがする。これらの情報をすべてカバーして本質を理解し、具体的にもある程度理解した状態をずっと保つにはどうすればいいか?これは気が遠くなるめんどくささのような気がするだろう。しかし、ここ数年多くの読書をこなし、情報へのうまい取り組み方が身についてきて、前述の状態を達成する方法が見えた。

抽象化をして情報を消化すれば知識の情報量を減らすことができる。原理というのは抽象化を徹底的に進めて得られるもの。だいたいの文章などの情報は何かを理論化し抽象化した内容になっている。例えば法について学ぶなら六法や条例など読む必要はない。必要なら弁護士に聴けばよくて、自分が読むべき本は法とは何かということが書かれているものである。本を読むときは著者が書いている一番抽象的なメッセージは何かということを意識してよみ、その抽象化した結論だけをしっかり頭に入れて、あとはサポートする根拠として軽く見ればよい。こうすれば吸収すべき知識の情報量が少なくなる。

世の中に出回っている知識や論理は全く新しいオリジナルというものはほとんどない。仏教思想など2500年前に釈迦のいったことだし今でも伝えられている。無我の境地についても その他の言い方で表現されている。時事問題や社会問題においてもそのときに重要なトピックはほとんど同じであり社会や政府の取り組みや考え方もかつて同じような問題に直面したときとよくにている。すでに小説が書き尽くされておりもはやこの世に語られていないストーリーはない。ギリシャ神話とシェイクスピアだけであらゆる映画、小説、演劇のストーリーは網羅されている。読書をこなすと同じ言葉同じ内容同じゲシュタルト同じ経験に行き当たる。何度も同じことを読めばそれを覚えるのは当然。その結果読書で獲得した知識が長期化する。

とはいっても自分自身、原理や物理法則などの抽象度高の知識がまだまだ不足している。今後も継続していこう。ちなみに詳しく説明しないが、抽象度高いあらゆる情報をカバーした状態になり、そしてその状態を保つにはnever stop readingであることは肝に銘じる必要がある。ストップしたら記憶は失われてしまうので常に抽象度高い情報に何かしら刺激を与え続けなくてはいけない。まあ習慣になってればいいのであるが。

ピケティピケティ騒がしくずっと無視していたが、そろそろ把握しようと思いこの一冊「【図解】ピケティ入門 たった21枚の図で『21世紀の資本』は読める! 」を拝読。30分程度で読める。理系な元官僚のイメージでお馴染みの高橋洋一氏の解説本。非常にわかりやすかった。以下、まとめと自分の感想。
 
ピケティがr>gをいいたいがための根拠として積み上げられた膨大なデータ。ピケティの主張は至ってシンプル、資本収益率rは常にGDP成長率gに勝るため、放おっておけば格差は拡大しつづけると結論づけた。しかし実は、この不等式がいかに成り立つかということを数学のように証明したわけではなく、歴史的推移(事実)として常に資本収益率はGDP成長率よりも高かった、だから今後もそうだろうと予測しているだけらしい。このシンプルな主張をしたいがためにピケティは膨大なデータを積み上げた。

資本収益率rとは資本から得た所得の比率、つまり所有している資本から、どれだけの所得を得たかということ。GDP成長率gとは所得成長率、つまり全国民の所得が前年からどれくらい増えているかということ。なぜこの2つの大小関係が格差の状況を示すことになるのか、ちゃんと理解しよう。GDP成長率とは所得成長率と同じだが、これは資本から得た所得も労働から得た所得も含まれる。ただ割合としては労働所得7割、資本所得3割くらいでGDP成長率は労働所得の伸び率と大差ないと見ていい。つまりgは労働所得の伸び率を表す指標として使われている。一方、資本収益率rは資本所得の伸び率を表す指標として使われている。GDP成長率のうちどれくらいが資本所得の伸びからもたらされているかは未知だが、資本収益率の増減はすなわち資本所得の増減を表す。実は資本所得には公的資本も含まれるが、大部分が民間資本であるからここでいう資本所得は民間資本の所得だと思っていい。本来なら、GDPを資本所得と労働所得に分けてそれぞれの伸び率を比較するのが分りやすいが、そんなデータないから、gを労働所得の伸び率、rを資本所得の伸び率とみなしているのである。

これを理解してr>gを見ると理解できる。資本収益とは当然、資本家のもの、つまり一部のトップ層のものである。それゆえ、rのほうがgより大きくなるほどトップ層はより豊かになり、ボトム層との差を広げていく。これが格差拡大。実はこれはアメリカ等でよく言われてた主張であり一般的な問題意識として定着していたが、ピケティはそれを地道にデータを積み上げてそれらと矛盾なくr>gという不等式を示した点が意義深いのである。そして解決策として、これも戦後期のデータが示しているように累進性が強い課税制度をとることだと主張している。

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上記でコア部分は説明したが、残りの部分の位置づけも見てみよう。ピケティが取り上げたデータの中には、世界の地域格差の変遷や人口増加率、GDP成長率の推移や予想などが含まれているがこれらはまず世界の経済動向をざっくり把握するという前提知識みたいなものだ。その上で、ピケティが重要視しているのは、いずれも格差の状態を見ることができるデータ。r>gの主張根拠としてピケティが注目したのは、
  • 資本/所得比率:資本割る国民総所得の比率。国民が一年に得る所得の何年分に換算できる資本が存在しているか。
  • 所得格差:トップ1%の所得比率。全国民が得ている所得のうち何%をトップ1%の高所得者が占めているか。
  • 資本格差:トップ1%の資本比率。全国民が持っている資本のうち何%をトップ1%の資産家が占めているか。
重要なデータの1つに、二つの大戦後の格差の縮小がある。その後、再び増加、拡大している。つまり、戦後期は資産家の財力が削がれたものの、その後はまた復活していることが示されている。これは戦後期に累進課税が強化されたことに起因すると解釈している。このデータと歴史上常に存在したr>gは整合している。

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大まかにはこんな感じだ。実際のデータや図を見ると理解が深まるはず。ピケティは要は、今まで問題意識としてあった格差問題をデータで裏付けし、今後も何もしなければ拡大する一方なので、累進課税という過去に実績のあったやり方で格差を縮めよう、と主張した。これにより、世界中でこの主張の流れができたという点でその功績は大きい。

私個人的にいえば、これはマクロに終始しすぎ。また、あらゆる他の要素を考慮しなさすぎ。捨象しすぎ。ミクロでみると、累進課税は社会の停滞に繋がる気がする。人を超一流、一流、二流、三流の労働者に分けるなら、超一流は自己の道を何にも惑わされずに突き進み社会に貢献するが、一流の多くは経済的なリターンを最大のインセンティブとして突き進み、社会に「貢献して」いる。経済的なリターンも社会貢献に必要なのである。あまり、やりすぎても別の問題出てしまう、ということ。累進課税という北風的アプローチではなく、寄付文化をもっと強めるプロパガンダ運動という太陽的アプローチのほうがいいのではないだろうか。

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