記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年04月

我々が生きるこの世界(時空という理解が現代では限界の認識なのか)において、人間が普段生きているところはその中でも一部である。それも極めて小さな一部であるようだ。素粒子のような超ミクロなスケールから何十兆光年みたいな天文学的なスケール、さらにそれを超えたスケールの時空の中でも人間が普段五感を通じて認識している世界はせいぜい数キロ程度の範囲であろう。この範囲を人間範囲といおう。そうすると、昨日も書いたが、この人間範囲でいろんな体験をしていって「因果関係」や「情報処理」のような概念を得ていくことになる。少し難しい言い方になるが、カントのいうアプリオリな認識である12のカテゴリー(人間の認識の形式において真理となる12のカテゴリー。因果関係や質、量など)は、人間であれば確かに絶対的に正しいと思ってしまうが、それも人間範囲での体験がそう感じさせてしまうのである。素粒子レベルでみれば無から有が生まれたりこうしたカテゴリーを覆ることがありえる。素粒子レベルの世界で人間が1年でも生きたとしたら、カントの12のカテゴリーの中身が変わってくるに違いない。 

デカルトはあらゆるものを疑い続け、その果てに疑うことができない「意識」に到達した。この意識というものの仕組みを現代では「情報処理」の結果として研究しているようだ。「情報処理」とはどういうものかを説明しよう。外から刺激である入力(情報)を処理し、出力として何かを出す。まず、何か物事の状態があり、それぞれの状態の時にある入力があったらどういう処理をするのかを示したルールがあり、そのルールにしたがって判断を行い、その結果状態が変わっていく、ということである。チューリングマシン(今のコンピュータの原型)はある状態が外からの刺激によって変化して、状態が変わることという計算を繰り返している機械であるが、これと原理は同じ。ある状態に応じて入ってきた外からの刺激によってその状態を少しずつ変えていく。これが情報処理である。このようなアプローチのパラダイムを認知主義という。

脳科学では、あらゆる情報であるインプットが脳で処理されて意識というアウトプットを生み出すことを想定しているようだ。インプットとは新たな情報であり、五官の作用から感じる情報や記憶から入ってくる情報などを想定しているのだろう。しかし、情報は一方的でなく相互に作用することから計算が複雑過ぎる。また、このような上処理の中で「意識」がアウトプットとして出されるプロセスは分かるが、どうして「意識」というものがあるのか?「意識」とは何かというのは謎のままである。脳科学など、心を解明するような学問の限界はこのような状態のようだ。

私は、このような脳を「情報処理」として捉えることに問題があると考えている。というのも、人間誰しも疑わない「因果関係」ということ自体が既に間違っている可能性があるのだから。どういうことか。私の世界観でいうと、人間は白紙の状態で生まれてきて、五官の作用などで世界というものを捉えて概念を獲得していく。そして、「因果関係」というものものも、この「人間の五官を通じて」の経験から獲得した概念であるはず。卵を落としたら割れるというのは視覚からの経験で人間がただ「確実」と思っていることだ。視覚で世界を見ているとそこに時間の前後関係をついつい想定してしまうし、「原因と結果」のような概念を”獲得せざるおえない”のである。

最初に述べた脳科学という人間解明の研究の前提となる「情報処理」的な世界観はこの人間が勝手に獲得した概念である「因果関係」を前提としている。そのような世界観で、正しい理解に到達できるとは思えない。コンピュータや機械の発達は人間社会に多大な貢献をしたが、それらの延長線で人間を捉えている限り人間の解明はできない。数学という人間が勝手に獲得した概念とは最も遠いように思える道具(数学も人間が勝手に獲得した概念であるが)を使えば、まだ正解に迫ることはできるかもしれない。鍵となるのは人間が勝手に獲得した概念を使わずに正解を求める探求をすることである。それは禅なのか何なのかは分からない。

所謂、哲学的な「生きている意味は何か」「真理は何か」「私とは何か」という問題は一旦置いておくとすれば、この世界で生きていく上での「実践的な世界観」はおおよそ次のようなものではないか。

生命体は全て種の保存を目的としていることは確からしい。上述の通り、哲学的な問いは無視するので、何故種の保存をするかは問わない。そうすると、必然的にその種の保存に向けて取り組むように生命体はセットアップされてなくてはいけない。それは要するに、人間でいうなら快楽である。脳内にエンドルフィンとかドーパミンが出ると気持ちがいいのは、その行動をしたことに対するご褒美である。性欲があるのは種の保存に向かわせるためだし、食欲は生命維持のエネルギーの確保である。

そして、種の保存ということは何の指標で評価するかは難しいが、ざっくり「人間の数を増やすこと」「人間が死ににくい環境を作ること」などはかなり確からしい進むべき道なのではないか。そして、種の保存に多く貢献すればその分だけ幸福も増えるということも推測される。一人の種の保存に貢献するよりも、1億人に貢献するようが幸せも大きいのである。それゆえ、もし幸せになりたいのであれば種の保存、人のためになることをしなくてはいけないし、もっと大きな幸せが欲しいならより多くの人に貢献する必要がある。「社会貢献」という言葉は多くの人に安っぽく使われているが、まんざら綺麗事ではなく実はもっとも人間が幸せになるために必要なことだったのだ。

なので、哲学的な問いへの追求はやめて、社会貢献に邁進するのが最も能率的に幸せになれる生き方である!と考えて間違いない。

ただ、だからといって哲学をするのは社会貢献に繋がらない無駄なことだし幸せにも繋がらない、ということはない。哲学をし続けて真理に到達できるかは分からないが、好奇心を追求し面白い世界観を描くことができればそれは多くの人に影響を与え、楽しみを与えたり悩みを解決したりして引いては種の保存に結びつく。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフトをいう集団の形態を指す言葉がある。ゲマインシャフトとは土地や血縁などをベースにし、それらに縛られた集団であり、ゲゼルシャフトとは人々の関係性に基づく目的ベースの集団である。

日本のような普通の国の成り立ちは昔からそこに住んでいる人間がいて、何となく社会ができて、それが国として成立していくというのが一般的であるが、アメリカのような国はまず国家理念ありきで作られた。この場合、次々と「新しいアメリカ人」が外国からはいってきて彼らは本当のアメリカはこういう国のはずだと主張をする。そうしてアメリカの持つ精神が洗練されさらに保持される。オバマ大統領は父親がケニア出身、インドネシア育ちでアメリカのゲマインシャフト的な共同体には全く関係なかったが、アメリカの理念を徹底して理解し行動し今に至った。アメリカはゲゼルシャフト的な国家だから世界中から多くの人を引きつけることができる。

日本がこれから目指すべきは中国やアジアなどの優秀な学生が日本のドラゴンボール、NARUTOが好きだから留学したい、生活したいとか、日本の秩序ある社会が好き、人を敬う文化が好きなど、そういう目的で外国人が多くくるような国になることだ。世界中から集まってきた優秀な人に活性化してもらわなくてはならない。本音と建前はあるが、日本は世界にも類をみない高レベルの社会秩序を持っている。食べ物の安全や社会インフラの整備、教育レベルなどにおいて。それらを実現しているのは日本という国が暗黙的に持っている理念である。アメリカ憲法のように明示的ではないが、高慢な普遍的な徳というものが日本独自のものとして存在している。今ではそれらを忘れた日本人も多くなっているが、その理念を世界にオープンにして国籍を問わずブラッシュアップしてアメリカのようにこの理念を実現し保持していくべきなのではないか。

もう30歳手前になると嫌でもリアリスティックな世界観を持ってしまう。楽観主義な私でさえも。かなり構造主義的な考えであるが、私は人は基本的に環境に作られる、と考えている。要は脳への2つのインプットが人を作る。五官の作用からの情報と、思考による情報の2つの影響で人は作られると言っても過言ではない。だからその人が如何に才能があるとか魅力的なユニークな人であるかはこの2つのインプットに依る。普通に考えれば、普通にサラリーマンをやっている人はもう誰もが同じような人間となってしまう。

但し、普通のサラリーマンも悲観することはない。後者の「思考による情報」で挽回できる。疑問に思ったことを理詰めで考えたり、疑問を追求し自分の考えを磨いていけば、表現がクリアになりインプットがユニークになる、さらにそうなると付き合う人も変わるだろう。そうすれば働いたり生活する環境も変わらざるえなくなり次の環境に移る。こうすると前者の五感の情報も変わり、さらにまた後者の情報も変わりで、どんどん成長していく。結論、何がいいたいかというと、もし少しでもユニークで面白い人間になりたいなら人と違う場所に行くかもしくは人より徹底的に思考するしかない、ということである。変わった場所にいて思考しないやつ、思考しててもみんなと同じ場所にいるやつは正直限界がある。常に両方を意識して向上していく必要がある。

普通、人は2つのパターンのどちらかに分かれる。「本ばっか読んでないで行動しろ!」という熱血タイプの行動派と、「物事を突き詰めて考えぬき、確信を得ること」を重視する知識派である。だいたい両極端の間のどこかに位置するだろうが、どっちよりかの傾向はあるはず。このような違いはどこからくるのだろうか。私はこのブログで「個人的な真理」という概念を作り説明したことがある。「個人的な真理」とは自分が無意識に疑問を持たないこと、である。どういうことかというと、例えば「礼儀」について幼い頃から恐いオヤジから徹底的に教育された人は礼儀は絶対的に善いことだというエートスが身につく。彼(彼女)が大人になれば「礼儀ってなんで重要なのか」などという疑問が意識に上らない。そのような育ちでない人では、めんどくさいときは礼儀はまあ省略、みたいに割りきって行動するかもしれない。いずれにせよ人はあらゆるモノや概念に「個人的な真理」の有無を持つ。

行動派と知識派の違いはこの「個人的な真理」の違いによる。人は生きているうちに五官の作用を通じて脳に情報がインプットされ意識に何かが生じる場合と、脳内の記憶や思考の場からの情報により意識に何かが生じる場合の2つがある。(実際にはそのミックスが多いのだが)たいていの場合、五官の作用で入ってきた情報のほうが意識への影響が強い。リアリティがあるのである。本を読んでもなかなかリアリティを感じれない人が多いはず。要するに、行動派の人はこの物理空間で特に幼いときに物理空間で強くリアリティを感じてきて多くの「個人的な真理」が物理空間で作られた人である。一方、知識派は本を読んでそこにリアリティを感じる体験を幼少期にしたのだろう。

最近、私は思想に興味を持ち出し自己表現の一つとしてそこに面白さを見出している。小林康夫、立花隆、小室直樹、大澤真幸など最近良く読む本の著者達は子供の頃から本の虫で高校生の頃から読書会を友達と開催したり、月に数百冊本を読んだりしたそうだ。そのレベルに今更私が立ち向かえるのか、というと一瞬怯んでしまうが、上述の説明でいうと、こういう人たちは知識派の極端にいる人々であるのではないか。その知識量には圧倒されるが、物理空間での体験は疎かにされている可能性はある。もちろん相対的にであるが。私は正直大学に入ってから読書を始めたし、本格的に毎日のように読書するようになったのは社会に出てからだ。それまではたいした経験はしていないが、いろいろ興味の赴くまま多方面でやってきた。こういう強みを何とか織り交ぜこうした知の巨人にも対抗できるようなら、そこには面白い道が開けそうな気がする。

少し日本に帰っていたが、毎回帰国する度に思うのが日本人のサービス精神というかホスピタリティである。そしてこの秩序だ。コンビニなどでの接客、車の運転、いたるところが清掃されている町並み、毎回驚きとともに感動する。(2,3日したら慣れてしまうのだが)

そこで、ふと京大客員教授の瀧本哲史氏が何かの本に書いていたことを思い出した。彼は外資系コンサルマッキンゼーを辞めて日本交通という負債1900億円を抱えたタクシー大手企業の再建のために転職したのだが、その理由はこうであった。マッキンゼー時代に終電後、タクシーで帰宅するのがほとんどだったという。普段は個人タクシーに乗っていたが、あるとき日本交通のタクシーに乗ったところ、運転手のホスピタリティが凄く感動し、運転手に「日本交通ではみんなこういう感じなんですか」と 聞いたところ運転手は「いえ、自分で勝手にやっていることです。日本交通は業界NO1企業ですから運転手もそれにふさわしいサービスをしないと」と答えた。瀧本氏はこれを聞いて、このブランドは一夜では作れないと確信し、その再建の可能性を見出し転職した。

私はまさに今これを日本という国自体に思うのである。とんでもない負債を抱え社会問題が顕著化するこの日本であるが、これだけのホスピタリティが一億以上の人々に行き渡っているというのは驚愕。一人の中国人をこのように変えるのも大変なことであるのに中国全体の人をもし変えるということを想像した場合の作業量というか努力やめんどくさを考えただけで頭が痛くなり吐きそうになる。私はよくいうのだが、中国の一人数万円以上するレストランと日本の数百円のファストフードの店員の接客レベルは同等か日本が上だ。中国ではいくらトレーニングをしても日本人のような接客は根本的にできない。

これは幼少期からそういう「環境」で習慣が形成されているのでいまさら変えられないしできない。 「環境」というのは一人がどうこうしてできるものではない。全員が変わらないと環境は変わらない。そう考えると日本というのはとんでもない強みを持っている。ただ、私は日本という国を強くしグローバルでの存在感を高めたい的な発想はない。いつも書いているが、今後国民国家的な世界観にリアリティを感じないのである。今回は「日本凄い!」ということをいいたいのではなく、国民性って一長一短でできるものではなく凄いもの。世界各地で地理的状況、気候がはっきりと違うようにそこで産出されるような人間も明確に異なる。

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