記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年05月

最近、量子論、宇宙についての本を良く読む。そのために高校の物理から復習しなおしている。特に量子論が面白いのだが、それは我々人間が馴染んでいる想定できない世界が広がっているから。その世界を覗いてみると、我々の世界にいかに「絶対」が存在しないことがよく分かる。

私は常々、「因果律」について疑問を持っていた。以前にこのブログでも書いたが、「因果律」を認めてしまうと人間の自由意志がないことになる。これは困る。そして何より、自分の主観的に認識だと「確実に自分で物事を選択している」という確信がある。右に行くか左にいくかはどっちでも自由に選べる、と確実に信じるだろう。

量子論ではこの「因果律」が崩れる可能性を示唆している。多くの本では、それが崩れていると言われている。 物理学界のビッグネーム佐藤勝彦氏監修の「「量子論」を楽しむ本」では、ボーアを引用し、「量子論が描く「あいまいな自然」こそが、自然の究極の姿である。」とし、因果律を否定しているように思える。もっと詳しいところを以下引用する。

ミクロの自然現象は本当に「確率論」ー(「決定論」の反対語)なのか。少なくとも我々の身の回りのマクロの自然現象は決定論で表されるように思える。手から離したボールがもしかしたら地面に落ちるかもしれないし、あるいは空に舞い上がるかもしれない、どちらになるかはサイコロを振って決められるなどと言われたらとても信じられない。少なくともサイコロで決まるようなことは「ルールではない」と思えるはず。同一条件のときは常に同一の結果になるからこそそれはルールであり法則であるとみなされる。
たとえば「電子がどの位置で発見されるのかは、何かのルールで一つに決定されているのだが、わたしたちはまだそのルールを知らない。ただその場所をある確率で知ることは可能だ、というのならまだ理解できるかもしれない。しかし確率論はそうではなくて未来は確率的にしか決まらないことを示す。どこかに決まっているが、その位置を私たちは確率的にしか知ることができない、のでは”ない”のである。 

これを見ると、因果律が覆されたように見える。しかし、佐藤氏の後輩である大栗 博司氏の「重力とは何か」によると、そうでもないようだ。以下見てみる。
物理学であれ化学であれ生物学であれ、自然科学の基礎には「因果律」があります。宇宙の現在の状態を知っていれば、自然法則によって未来に起こることはすべて原理的に予言できる。また過去の状態も、現在の状態から導き出すことができるという考え方です。これがベースになければ、科学は成り立ちません。
なかには「量子力学の不確定性原理によって因果律は過去の遺物になった」とうする説もあるようですが、それとこれとは話が違います。たしかに不確定性原理では、粒子の位置と速度は同時に決められませんが、その量子力学でも、たとえば電子の波の状態は因果律にしたがって時間発展します。そこから位置や速度など、私たちに観測できる情報を引き出す際に不確定性があるというだけで、波の発展の仕方そのものは因果律に少しも反しません。量子力学の確立以降も、因果律は科学の基礎なのです。
これは超ひも理論のところで述べられている。ただ、超ひも理論はそれをも因果律で説明してしまうようだ。凄いもんで10何次元の存在を想定している。簡単に言ってしまえば、確率的に決まるようにみえど、次元を増やして情報を丸めこめばそれらも説明できてしまうとし、多世界解釈などとも同じく決定論である。

さて、ここからが今日の本題なのだが、ただ、私にはどうも、この確率論的な量子の振る舞いが、まさに自由意志を表しているのではないかと感じられずにはいられない。例えばある電子がどこで発見されるかは「ある範囲」の中で「確率的」にしか分からない、となっている。 これは精神における自由意志ではないか。ある範囲というのは思考や意思の可能性(限界)であり自由の範囲であり、確率的というのは自由意志を表す。自由に範囲があるのは、人間の思考や行動に限度があることからも分かる。空を飛ぼうと思っても飛べない。

なので、私は佐藤氏がいうような、本当に全く説明がつかない量子の非決定論的な世界観であればいいなと思う反面、全てを説明できてしまうスーパー法則にたどり着くという夢も見てしまう。一番現実的に信じれるのは、超ひも理論のように因果律がある決定論で世界は成り立つが、それが複雑すぎて人間では認識できない、というものだろう。超ひも理論についてももっと具体的に理解して視界をもっとクリアにしたい。 
 

私は昨年、心即幸という本を書いたが、その後哲学史を学ぶ中で、自分の思想がかなりフッサールに近いことが分かった。フッサールについて、今日はポイントをまとめたい。

デカルトやスピノザは客観的世界、物自体が合理的に認識できると主張し、ヒュームやカントは認識不可能であるとした。しかし、客観的な世界それ自体がどうして存在すると前提できるのか?人間は主観的な意識の世界から出られないのにそれを確認することができない、なのになぜこうした世界の実在性を疑わずに、その存在を前提として認識可能か不可能かを議論しているのだろうか。これは奇妙なことであり、フッサールの問題提起もここからはじまる。

わたしたちの主観的な意識の外側に客観的世界があることを全く疑わずに、前提として生きている。このような「確信」がなぜ成り立っているのか?この条件をフッサールは問うた。これが超越論的還元である。なぜ「客観的世界が実在している」「物自体がある」と確信を持っているのか、その理由を問うべきであると問題をシンプルにした。「客観的世界がある」という信憑の構造、確信の条件を明らかにすることはできる。

なぜ目の前にりんごが実在していると疑わないのか?それを検討するため、まず目の前のりんごの実在を保留しておこう。これをエポケーという。すると目の前のりんごはとりあえず意識に現れた対象としてのみ捉えられる。これを純粋意識への「超越論的還元」という。西田幾多郎の純粋経験みたいな感じだ。物理空間にあるものは、五感で知覚されたあと意識の力で変えることができない。例えば、目の前のりんご。それが自分の想像の産物であるとは思えず、その実在性にまったく疑問が生じない。このように個物の知覚的な直観には、ある絶対的な動かしがたさがあり、これが客観的対象の実在性を確信させる。

意識に直観として与えられた本質や知覚象は、外界の客観的実在性を確信させる重要な条件。目の前のりんごが幻想なのか実在するのかは答えられないが、りんごの像が原的に与えられ、直観されているということ、りんごが見えているということは確かなのである。さらに他の人のふるまい、言動、もまた客観的世界の実在性を確信させる。例えば、誰かがりんごを取ってもっていったり、誰かがそのりんごについて話たりしていればその実在性は強まる。客観的世界の実在性を確信させ、目の前の世界に現実感を与えているのは「直観された知覚像や本質」、そして「他者のふるまい」である。

このように「なぜ世界の実在を信じるのか」という問題についての答えのアプローチを超越論的還元という方法で見てきた。 

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(本質直観)
ここで本質直観というキーワードを紹介。りんごについて、例えば、赤い、丸い、甘酸っぱいとか知覚されるが、これはりんごの意味を表している。そして言葉により誰かに説明できる。このように直観された意味は、誰もが共通して了解できる意味なのでその対象の「本質」であると言える。そのためこうした意味の直観をフッサールは「本質直観」と呼ぶ。これは知覚的な直観と同じで自分の意思によって変えることはできない。 

(本質観取)
概念の本質を取り出すことで、形相的還元という思考法のことである。前述の本質直観はりんごや椅子などの実在的な個体の意味だけでなく、自由、走る、身体、善など非実在的な概念についても同じことが言える。例えば自由という概念の意味は自由という単語から直接思い浮かぶことの中にある。それが直観として与えられた自由の意味なのである。それが言語化できるか否かはおいておいて、まずそのまま思い浮かぶことがその言葉の意味である。

この最初に直観された不確かもしれないこの意味を、誰もが納得できるような本質へと練り直すことができるとフッサールは考える。これが本質観取という思考方法。

やり方はこうだ。まず対象となる概念をその言葉がどのような意味として使われているのか、どのような経験にあてはまるかを思い出す。次に、そこに共通する意味を与え、それは誰もが認めるような普遍性のある意味か否か、十分に納得するまで熟考する。多様な人々の視点から内省し、実際に複数の人々の意見を取り入れたり吟味し、その思考を深めていく。すると最初に直観された意味は意識の中で練り直され、様々に変化し次第に普遍性のある意味である本質へと辿りつく。これは昨日紹介したヘーゲルの弁証法を繰り返してより正しいものに近づくということとパーフェクトにイコールである。最初に漠然として思い浮かんだ自由の意味は変化し、より確かだと思える本質に落ち着くだろう。

ポストモダンの現代思想は「現象学は真理があることを前提にしている」と批判しているが、フッサールのいう本質とは「誰もが共通して認める意味」のことであり、唯一絶対の真理を意味するわけではない。たとえ正義の本質は何かと言われても絶対に正しい唯一の意味(真理)があるわけではない。数多くの人がさまざまな状況で使っている正義という言葉であるが、その中核には必ず他者と共通理解できる意味がある。自由、正義など抽象的だが誰もが当たり前なものとして使っている言葉、それでいて他者と微妙なズレを含んだ概念には誰にとっても成立する普遍的な本質、共通了解できる意味が存在する。それは適切な思考をすれば必ず取り出せるのである。 

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フッサールの本質観取や超越論的還元により何が言えるか?こうしたフッサールの思想を理解するだけで面白いものであるが、この思想は社会的にどう使われるべきか。私はこう思う。本質観取という概念は人間社会において誰でも腑に落ちて納得できるものでありながら、非常に前向きなものである、と。意識で集中して思考を明晰にして考えればどこまでもある概念の説明を続けることができる。終わりはない。その試みの中でいつか世界の全ての人間が一つの根本的な価値観に到達し、人間社会が完成する、というような世界観を感じることが出来る。もちろん多様性を無視した一つの価値観を押し付けるようなものではない。そういう多様を許すとてつもな大きな概念でないと世界の誰もが納得してくれるはずもないだろう。本質観取、超越論的還元、しっかりと覚えておきたい。


言葉の定義というのは難しい。定義を読めばその言葉の意味が理解できる、というのが定義の役割であるのだろうが、実際そう簡単なものではない。現在の哲学の認識では、言葉はそれ自体に意味はなく、それが使われる文章が多数存在し、その文章の中で使われている他の単語も同じように文章で多用されて意味が理解できる。要するに言語体系を一式理解出来てないと分からないし、最終的には物理空間や思考を通じて明確に確信できる概念が分かってないといけない。

「弁証法」という言葉を多くの人が使うのを耳にする。そういう人たちは至極簡単に「Aという意見とBという意見があり、それをそれぞれ否定するのではなくもっと大きなCという意見で両者を統合する」みたいなイメージで使っている。私も大体こういう意味で理解していたが、ずっとモヤモヤしていた。AとBが対立しているのにCで解決できるってどういうこと、そんなんいちいち言わなくても誰でも探すでしょ、と。

哲学を学び、カントを学び、ヘーゲルを学んでようやく「弁証法」がどういう意味かすっきり理解できた。まず、カント後の哲学についてざっくり説明しよう。カントが哲学史に残した功績は大きい。完全性を目指す理性の傾向を明らかにし、答えのない意味不明な形而上学を葬り去った。さらに、主観性における普遍性を考察する超越論的哲学を切り開き、近代的な道徳観を示した。よく言われるカントの問題点は、世界を「現象」と「物自体」に分けているので二元論であるということ。理論的な意識と実践的な意識の分裂。カント以後に現れたドイツ観念論はこの分裂を統一しようとしている。

こうした流れの中でヘーゲルの精神現象学がある。ヘーゲルは18世紀末から19世紀初頭のドイツにおいて活躍。カントは意識の外側にある物自体を認識不可能であり人間の認識能力の限界が示された。しかしヘーゲルによると、あらゆる対象は意識の場面により経験されるので、その外側を考える必要はない。意識に現れている対象をどう自分が理解するかのみを問題にすればいい。意識の場面だけを考えるなら認識の発展は次のようになる。

まず、(1)意識に対象がなんらかの形で現れてくる。最初の肯定的判断。(2)その見方が裏切られるような経験によって意識は混乱する。これが最初の判断の否定。(3)その経験をも統合できるような対象についての新たな見方を形成。最初の判断の否定を指定して新たな肯定へ。こうして対象の認識はより確かなものへと近づいていく。このような認識の進展のことを「弁証法」という。このように様々な対象について弁証法的な認識プロセスが起きれば世界に対する認識は次第に深まる。カントのいうような認識不可能な客観的対象を外側に想定しないで、意識に現れていることにのみ集中しているので、こういう考えが出てくる。さらにそれが成長というプラス方向に進んでいることを示唆してくれるのである。これが理解できないと弁証法の意味は腑に落ちないはず。

せっかくなのでヘーゲルが弁証法を導入し何が言いたかったのかもざっくり共有しておく。自己意識の成長過程についてである。意識の対象を反省するということは対象とそれを見ている自己との関係を捉え直すことであり自己という主体を意識せざるおえない。結局、意識の対象は自己に相関して現れているのでありあらゆる意識は自己意識である。自己と対象の関係を反省し続けることで知は統合され自己意識が成長する。 精神現象学では、この自己意識の成長過程が人類の歴史の壮大な発展と重ねあわせながら描かれている。世界史における人間精神の歩みが意識→自己意識→理性という意識の展開として記述されている。 

先日飲み会に学生時代の旧友がフランス人の婚約者を連れてきた。そこでフランスの生活についてちょっと聞いたのだが、難民や貧困で治安がそうとう悪いらしい。それも、強姦、強盗、窃盗などに日常的に気にするレベルらしい。私もアメリカ、オーストラリアにいたので、貧困層など不審者、犯罪者のような危険な連中が夜に出没する場所は基本的に誰も近づかないし、普通の場所でも一人で歩いて出歩くことはほぼしようとしなかった。聞くところによるとフランスはそれよりはるかに危ないらしい。

実は私はヨーロッパに一度も行ったことがない。フランスと言えば現代思想、またバカロレアという大医学入学資格受験のように最先端の教育を持つ世界的にも最も進んだ国のイメージがある。宮台真司がよくバカロレア論述試験の例を出す。最近の問題で印象的なのは「正義は単なる約束事にすぎないのか否かを述べよ」「言語はコミュニケーションの道具に過ぎないのか否かを述べよ」で、それぞれ現代倫理学や現代哲学の最前線に通暁していないと解けない問題であると同時に、良い社会とばどういう社会なのかを考えることに直結する、とのこと。

これを聞くと、日本の思考停止の教育への批難が加速しそうだが、そう単純なことではない。たしかに、日本ももっとこうした自ら主体的に考える教育が必要である。ただし、日本は日本のやり方で国を回してきたのも事実。冒頭に述べた通りフランスが社会に問題が表面化している。日本の場合、ここまでひどくない。むしろ、ここまで安心で夜も道端で酔いつぶれてもOKな国はないだろう。

フランスやアメリカなど、ロジカルに思考を巡らすと必ず合理的な結論を導く。途中式を省略するが、結局エリートとそれ以外みたいな構図に落ち着いてしまう。日本のような思想や倫理を統一して一億総中流(今は崩れかけているが)というのは合理的結論にはなりえない。ここが日本のユニークネスである。日本もこういう感じの教育制度に変えたなら、現在進行中の相対主義は進む一方で国として紐帯が全くなくなってしまう。日本はまだ儒教的な上下関係や礼儀で日本らしさを保っているが、これがなくなれば無秩序で収拾つかない破天荒国家になるだろう。かつて、立花隆は著書アメリカ性革命報告で日本は規範がなくなると一気に奔放になりすぐにアメリカを追い越しちゃうみたいなことを言い、実際その通りになった。単純に日本の教育、引いては規範のあり方を変えてしまうと日本という国は思わぬ方向に一転してしまう。 日本は日本なりにユニークなやり方を大切にしたい。

自分のキャリアというか人生の軸にあるのは「主観的に楽しかったり面白ければ何でもOK」ということ。なので、仕事でやることも主観的に面白い体験を与えるサービスの創造に関わりたかった。私がもともとインターネットのサービスを提供する業界に入ったのは、ベタであるがインターネットの可能性に興奮したからだ。「フラット化する世界」という有名な本に結構インスパイアされた。本書を読んで、世界がインターネットで繋がり、インドの医者が日本やアフリカの患者を見たり、アメリカのコールセンターをやったり、さらにもっと個人レベルで世界の物理的制約を超えて需給をマッチさせるクラウドソーシングの概念、世界の人間が繋がり一つの巨大な脳となる、みたいな未来に関わりたいと感じたのである。

そして、こういった社会的なマクロなインターネットではなく、もっとミクロなレベルで、インターネットを使えば、主観的にワクワクするような面白いサービスができるのではないか、そういうものを創りたいと思った。当時、例えばレアジョブが提供するフィリピン英会話は面白かった。ただの安い英会話を超えて、フィリピンの一人の個人とインタラクティブな体験ができるというのはエンターテイメントである。

シリコンバレーや中国、日本でも新しいインターネットサービスは次々と生まれる。しかし、ずっとそれらを見ていて疑問が生まれた。それは、そもそも主観的に面白いサービスというのは存在するのか? ということ。私はサービスという外にあるものが、人間に面白いものを与えてくれるという視点で思考していたが、これが大間違いであると気づいた。(これは哲学、物理、生物学などを学んで確信した)主観的な面白いエクスペリエンスというのは、自分が何か積極的に行動しているときに体験するものなのである。 受動的なものではない。これはフロー体験という心理学的な研究でも言われている。

話をちょっとかえて、私は今までまだ20代30代の人間が教育事業に携わるのには批判的であった。まだ学ぶべきことが沢山あるし、社会経験もないのにそんな小さな世界観で物を教えるというのもあるし、何よりも一番嫌なのは、教育事業をすることイコール他人に後は頑張ってくれ、と言っているようなものだから。自分は偉そうに教える立場に経ち、社会への貢献や付加価値は他の人にお任せ、みたいなことはリタイヤするまではやるべきではない。

この考えは今でも同じなのだが、教育について考え方が最近変わった。それは、「何かを教えるサービス」と捉えると、上述のような人任せな印象を抱くが「教育自体がエンターテイメントサービス」と考えるともともと自分が追求してた主観的な経験を提供するものに変わる。これは、リベラルアーツの成り立ちを知る中で気づいた。リベラルアーツは奴隷からの解放、あらゆるものを自分で考えて自由を獲得するための学びである。 これは自由獲得というよりは、幸福それ自体である。なぜ「学び、自分で世界を知ること」が幸福に繋がるのかは頑張れば生物学的にも説明できるだろう。積極的に知識を学び、世界について、自分について思考する、というこの行為自体が最高の主観的な楽しみなのである。なので、巷の英語教育とか資格教育とかには全く興味がないが、 リベラルアーツできるような教育事業はこの上ない主観的幸福が得られるサービスではないか。もちろん、このような塾のような組織があったなら、がハーバード大合格、外資系企業への就職、MBA合格、などの目的を掲げることはない。それはその学び、学んだもので思考する過程を提供するだけの場なのである。

熱血系グローバルエリートの田村耕太郎氏が自身のブログで以下のようにスポーツの重要性を記述している。

今や世界中が文武両道当たり前なのだ。私が世界の名門ハーバード大やエール大では学部でもビジネススクールやロースクールのような大学院でも、出会った連中の中にオリンピックやジュニアオリンピックの選手そしてプロアイスホッケー選手らのバリバリのアスリートが珍しくなかった。加えてアフガンやイラクの前線で銃弾をくぐり仲間を守ってきた軍隊出身者もたくさんいた。 
参考:http://blog.livedoor.jp/tkoutaro-blog/archives/27392677.html

私もスポーツはこの人間社会を中心とした世界を生きていく上で非常に役立つと思う。私自身、テニス、ラグビー、ゴルフというスポーツを長いことやってきて、何もこうした欧米エリート並の実績はまるでないが、スポーツをやり続けていることの恩恵は身にしみる。田村氏はなぜスポーツが重要かを以下のように至極あっさり捉えているが、これは明らかに表面的過ぎである。

日本のリーダー層は運動が足らない。コンディショニングが今一つなのだ。仕事だけ、勉強だけで疲れて、いいアイデアが出ないであろう状態をただすのが本書の役割だと自負している。運動が足らないし、食事や心のケアへの配慮が不十分だから、から疲れやすいし勉強や仕事に行き詰る。前述のとおり、そもそも文武両道は日本人の知恵であったのだ。

身体のコンディションということだけでなく、もっと人間社会を生きる上でのメリットがある。そのなかでも、「社会疑似体験」という要素が一番大きいのではないか。スポーツチームでは組織上、役割がはっきりしていて比較的小規模の集団として社会の縮図になっている。偉い人がどうやって選ばれてとか、上のものとどうやって接するとか、下のものをどう扱うとか、スポーツ(仕事に置き換えられる)ができることだけが絶対ではない、など社会が本質的に持っている特徴をすべて疑似体験できる。それにスポーツ組織の場合、各自のポジションが結構ごっこ遊びのように明確なので分りやすい。

自分は協調性に欠けるほうであるが、それでもチームとしてやっていく方法は分かる。スポーツを通じて何となく身につけた。佐藤優は小学校でいじめっ子との距離感をうまくとっていたのが今の外交に役だっていると言っていたがまさにそうだ。田村氏が上述のように挙げた米国エリートなどもスポーツチームの中でどうやって権力に接するべきか、ネットワークを広げるにはどうすればいいか、など教科書の知識的な勉強だけでは得られないことを体験したのだろう。もちろんこうした社会疑似体験以外にも身体のコンディション面ということもあるし、目的を明確にしてひたすら諦めずに突き進む問題アプローチなど、スポーツのメリットを挙げれば切りが無い。
 
 

元ネットライフ社長の出口さんがこんなことを書いていた。
「人間はワインと同じだ」30代の頃でした。元米国国務長官ヘンリー・キッシンジャーと10人ぐらいで食事をしたときに、僕は末席にいたのですが、その席でキッシンジャーがワインのグラスを手に回ってこう言ったのです。
「どんな人も自分の生まれた場所を大事に思っているし、故郷をいいところだと思っている。そして自分のご先祖のことを、本当のところはわからないけれど、立派な人であってほしいと願っている。人間も、このワインと同じで生まれ育った地域(クリマ)の気候や歴史の産物なんだ。これが人間の本性なんだ。だから、若い皆さんは地理と歴史を勉強しなさい。世界の人が住んでいる土地と彼らのご先祖について、ちゃんと勉強しなさい。勉強したうえで、自分の足で歩いて回って人々と触れ合って、初めて世界の人のことがよくわかる。特に僕のような外交官にとっては地理と歴史は不可欠だ」
 
これは和辻哲郎の「風土」に通ずる。人を風土の産物のように見ている。もっというと構造主義的に人間は主体性がなく、環境によりその無意識や意識までもが規定されているようにも捉えることができる。私も基本的にはこのような見方をしている。先日もブログで書いたのだが、基本的に人間の能力は2つしかない。概念の獲得と論理力の2つ。そして概念の獲得とはほとんどが自分が五感で何を感じたか、もしくは内部でどのような思考をしたかにかかっている。前者はまさに環境であるから、この部分の影響が大きいということをキッシンジャーは言っているのだ。

では、環境がほぼ全てその人の人間性を決めてしまうのか。そうではないと私は思う。概念の獲得は五感の情報にほとんど依る。例えば、幼い子どもが動物園に行けばいろんな動物を見て鹿とか馬とかうさぎとかの概念を得る。実は無意識に動物の共通点として「四足である」とかそういうのも概念として獲得しているかもしれない。

しかし、今述べたような概念の獲得は受動的なものである。もっと思考を軸として獲得された概念もあるはず。そこを概念として認識できるか否かが人のオリジナリティと言うことができるのではないか。例えば、村上春樹はノルウェイの森で、あるレズの少女について彼女の嘘のつき方について仔細に描いている。人は誰でもこういう嘘のつき方をしたことがあるはずだが、そこを直視して言語化するまでしっかりした概念を得ていない。ここが村上春樹のオリジナリティなのである。逆にいうとこういうもの以外はオリジナリティではなくただただ風土の産物であり受動的なものだ。ウィトゲンシュタインのいう論理空間は概念(名)が多ければ多いほど広がっていく。村上春樹のように新しい概念を他者と共有できる形で示すことは論理空間を広げ、人間のさらなる可能性を広げるのである。

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