記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年06月

半年くらい前のことだったか、ハーバード大学が75年もかけて何十億円もかけて調査した結果、「人は多くの人間と良好な関係を持っているほど幸せ」という結論を導いた。それが日本でも報道されたようで、ダウンタウンの松本人志が「そんなもん分かっとるわ!」というつっこみを入れていたが、たしかにその通りである。そんくらいちょっと考えれば分かる。

では何故こんな研究したのか?これは私の推測であるが、この研究をリードしてやっていた人は、幸せにどうやったらなれるかを模索していたのだろう。もちろんこの結果のように人間関係がキーであることは仮定としてあったのだろうが、彼自身どの方向に努力をすれば幸せになれるかずっと確信を持ちたかったのだろう。確信を持たないと行動できないからだ。こうして長い年月をかけようやく結論が出たので、確信が現実的になり、彼は動き出せる。こうした抽象的な観念に対して確信を持つにはこうした徹底的な調査が必要なのである。普通多くの人は、物理的な体験で確信を得る。人に暖かくされて幸せを強く感じた経験を持ったなら、何十年も調査してやらなくても体得的に分かるもの。 自分がどのように生きるかを決めたとき、そこから幸せが訪れる。 

小室直樹氏の本をよく読んできたが、なぜ彼の著書に惹かれるのか。

自然科学、社会科学などあらゆる学問において、確立されている理論の大半は、実世界で有効である。有効というのは、現実に適用して使い物になるということ、予測するのに役立つということ。例えば、ビリヤードのブレイクショットで沢山のたまに力が伝わり拡散していく。これは物理の法則を使って初期の状態と加わった力を詳細に分析すれば理論的にその後のボールの配置が分かる。ビリヤードの場合、100%に近いくらい予想できるだろう。 

自然科学では分りやすいが社会科学だとちょっと違う。(しかし基本は同じ。)経済学の理論、例えば需要供給曲線などは仮定として合理的な人間を想定している。厳密な話は避けるが、例えばAよりBが好き、BよりCが好きならAよりCが好き、であったり行動が合理的な人間を仮定している。経済学が現実に当てはまらないときは、こうした仮定が現実に当てはまっていないときである。社会科学では抽象化してかなり多くの仮定をしている。その仮定が成り立たなければ現実に適用できないか調整が必要である。自然科学もそうだ。先のビリヤードについてもニュートン力学を適用して正確な答えを導けるが、これは地球での一般的な環境を仮定している。宇宙空間など特殊な場合、相対理論が必要になるかもしれないし、さらに別の理論が要るかもしれない。

小室氏が凄いのは、数学や物理に長けた上に、心理学、経済学、政治学、法学、社会学などあらゆる学問の理論とその「仮定」についても詳しく理解しているので、現実の分析がこの上なく絶妙なのである。学問を知るとは、その理論の公式を覚えることだけでなく、世界をどう仮定して、その上でどういう法則を築いたか、という大きな世界観を持ち捉えることである。これを理解すれば、これほど役に立つ道具はない。小室氏はこうした使えこなせる道具を豊富に持った日本にほとんどいない稀な学者なのである。

私はできるだけ読書や実体験を重ね自己の能力を高めていきたいと思っている。怠惰になることは多々あるが基本的にそう思っている。こういう人は多いだろう。しかし、読書を通じて色々学んだり頑張っているときふと未開の社会で生きる人々について考えてしまう。ちょうどちきりんがこういう社会について書いていたので一部抜粋。

★★★
今年 5月に チューク諸島(ミクロネシア連邦のチューク州) を訪れたとき、国と個人の関係について考えさせられました。チューク州の人口は、200以上の全部の島を合わせても 5万人ほど、最大の島であるワーロでも 1万 5千人ほどしかいません。現地在住 30年近いガイドさんの説明に寄れば、

・現地の人の多くは、生まれてから死ぬまで、一度もチューク州を出ない
・だから住民登録も戸籍もパスポートも必要ない
・義務教育はあるが、教育を受けても受けなくても生活が変わらないので学校に行かない子も多いし、親も、子供を学校に行かせる意義を感じない。だから読み書きができない子も珍しくない。
・南国なので、タロイモや果物などが(人間が手を入れなくても)どんどん育つ。それを食べていれば、現金収入は不要
・当然、一生に一度も税金を払わない人も多い。(現金収入がなければ、税金を払う必要も無い)
・現地の人には働く慣習がないので、ホテルや官公庁のビルを建てるときは、フィリピンなどから労働者を連れてくる。現地人の職を奪っているのではなく、島にはそんな仕事ができる人はいない。
・なので、大人でも働いてない人がたくさんいる。てか、継続的に働いてる人は、それだけでスゴイと思われてる。
・ただし働くといっても、週に数日、一日に数時間ほど
・観光客向けのホテルで働けば、ドルでチップがもらえるので、それだけ働けば十分
・というか、島には何も売ってないので、そんな無用に現金を稼いでも意味が無い
・多くの人が 10人から 20人くらいの大家族(親戚一同)で、雨露が防げる程度のトタン壁の家や洞穴に住んでいる
・家は洞穴を利用したり、植民地時代の家を利用したり、その辺で集めてきた材料を使って、家族や近所の人で組み立てる(?)ので、ほとんどお金は要らない。(土地は国から貸与)
・思春期になった男女には自然と子供ができるが、大家族の中で育てるので、「どの子が誰の子供か」という意識が薄い。大家族の中には常に幼い子供が何人かいるので、みんなで育ててる、という感じ。
・「日本では子育てにお金がかかる」と言っても、おそらく誰も(どういう意味なのか)理解できないと思われる。
・子供も大人も一日中、遊んだり、おしゃべりしたり、散歩したりして過ごす。一生ぜんぶがそういう感じ。
・趣味とか、生きがいとか、目標という概念もない。
・一生に一冊も本を読まない人も多い。
・20人もの家族で住んでいると、誰かひとりくらいは料理が得意だし、別の人は大工仕事が得意、子供好きで(自分の子じゃなくても)育児を進んで担当する子もいれば、高齢者や病人に優しく接する子供もひとりくらいはいるので、国が育児支援や介護制度を整備する必要はまったくない。
・電気の来てない家が多いので、冷蔵庫やテレビなどはない。洋服もひとり二枚とかで、そもそも所有物の量が少ない。 (なのに歩きスマホしてる若い子がいるんだけどね)
・ゴミという概念もない。モノが少ないのでゴミは出ない。今要らないモノも、その辺に放っておけば、そのうち何かに使えたりするので、捨てる必要は無い。
・つまり「今使わないモノがその辺に放置されている」だけ。←私たちが見ればゴミに見えるが、ゴミではない。
・町には数件のお店があるが、売っているのは食べ物(魚や調味料など)と消耗品(洗剤、紙など)くらい。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20150614 

こういうのを読むと、ひたすらがむしゃらに向上していく資本主義社会の人間って何なの、と思ってしまう。私の一つの答えは単純だが、昨日も書いたが遺伝子などミクロの世界で安定に増殖したいものがどんどん物理的に大きな単位への主体へと意思を昇格させていき、物理世界での安定した生存をもとめる。なのでそっちの方向に行動したら幸福度が増す、という推測(仮定1、という)を仮定すれば、未開社会よりも資本主義社会に生きる我々のほうが幸福だと考えられる。しかし、例えばレヴィ=ストロースが指摘したように未開社会も安定のための仕組みを内部に持っている。100年以上の長期スパンで考えれば環境問題やストレスなど考慮したら、資本主義は自滅し未開社会が生き残るかもしれない。そうすると仮定1から未開社会のほうが幸せになる。どうなるか分からないという意味で判断できない。しかし、いずれにせよ仮定1について疑う余地はあまりないのではないか。ここを軸にもっと明晰な世界観を築いていきたい。
 

こういう風に考えたことのある人は多いだろう。

人間社会は人間とう構成要素で一つの主体となり、人間の意思と離れた存在になる。マルクスのいう人間疎外である。資本主義社会は、それを構成する一人ひとりの人間を無視して、ときには犠牲にしてその発展に突き進む。人間が自ら作り出したものに支配されているとうこと。

有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96

これは、利己的な遺伝子とその集まりの個体としての人間と関係が似ている。個体としての人間は、個体としての利益を追求する一方で、他の個体の利益も追求する。これは遺伝子の利己的な行動として理解できるというのがリチャード・ドーキンスの主張するところである。では、人間社会はどうか?資本主義により効率化が進められているが、構成要素の人間は冒頭で記したように犠牲にされる。人間個体は実は利己的な遺伝子が最終的な原動力であったように、資本主義社会も最終的な原動力は人間なのだろうか。遺伝子の増殖を第一に目指す→人間個体の増殖を第一に目指す、がパラレルなのか。遺伝子は同じ遺伝子である人間の中の60兆個の遺伝子が生き残ってくれることを願うように、人間個体も他の人間個体が生存することを願うのだろう。

この視点のずらし、というか、抽象化は何を意味するのだろうか。より物理的に大きな主体の意思が誕生していき、もともとの遺伝子の保存を強化する、というのが最も理解しやすい。

しかし、なぜ遺伝子はそういう目的をもつのか?この辺りはビッグバンから今までの化学反応の連続を研究する量子化学などの領域である程度見解はあるようだ。時間があれば詳しく調べてみよう。



 

ちょっと前にスポーツが生きていく上でメリットになることについて、「社会疑似体験」の観点で述べたが、今日は「主観と客観の違いの認識」についてのメリットを述べたい。スポーツをすると、自分が思っていることが目的に対して間違っていることがよくある、ということを身にしみて理解できる、これもスポーツをすることの恩恵である。

どういうことか説明しよう。テニスとゴルフで説明する。基本どのスポーツもルールが明確なので、そのためにやるべきことが明確に決まるという点において共通するため、どのスポーツでも普遍的に言える。テニスもゴルフもボールを打つが、良いボール(コントロールできて、勢いのあるボール)を打つのに、最も大事なのはインパクトである。ボールとラケットの面、クラブのフェースの接点である。ここをボールを飛ばしたい方向の真後ろから入り、飛ばしたい方向へ面をまっすぐ押し出すこと(以下、「まっすぐのプッシュ」という)これが最も大事。というかここだけが大事なのである。

言われなくても分かるだろう。しかし、テニスでもゴルフでもこれがめちゃめちゃ難しい。やろうと思っても簡単にできるもんではないし、むしろそういう風にやろうと考えると逆効果でどんどん悪いスイングになる。どういうことだろう。ゴルフが説明しやすい。ボールの打点で、飛ばしたい方向へまっすぐその方向にフェースが動くようなスイングを作り出すには、体全体を使って大きな弧を描くスイングをする必要がある。そうすると、まっすぐのプッシュの動きを作り出せる。しかもまっすぐな時間が長く、力強い。逆に力んであからさまに強く打って飛ばそうとすると弧が乱れて、ボールに対してまっすぐ当たらないし、力も弱くなる。これはテニスのスイングでも同じ。ボールの後ろから、まっすぐ当てて押し出すことが最重要。早く振ろうとしたり、腕などコントロールしやすい筋肉でごまかそうとすると貧弱で歪んだ弧のスイングになる。

こういう主観と客観の違いは日常生活でもよくあること。例えば、いらつく相手に対して怒ってもしょうがない。主観でスカッとするかもしれないが、視点を引いてみれば両者や世界において何のいいこともない。自分の行動は日々、一度冷静になって点検したほうがいい。スポーツと全く同じ。 

われわれのような1980年代以降の若者(29歳は十分若者?これからを担う世代ということで若者である)は国民国家という概念にリアリティを感じない。外国人も同じ人間でフレンドだ!人間は世界中で平等!という見方が染み込んでいる。おじいちゃんおばあちゃん世代から国家間の戦争の悲惨さなどは聞いているが、そこまで生きる軸となるようなリアリティはない。なので、いまさら国益だとか、お国のために生きると言われても何も響かない。自分の自由を追求するのが、生きるということ、という実存主義的な生き方が戦後から徐々に強まっているのだ。

大学の同期など周りを見てみるとこの傾向がわかる。みんな国のために貢献したいなど本気で考えていない。グローバル市場とか、アフリカの貧困解決、アジアの教育問題、世界の食料や資源の問題などに目を向けている。地球規模の視点を持つことはよいことだ。たしかに、みんながみんな意識高くてこのグローバル資本主義のルールに合意していて、勝負に負けたら潔くホームレスになる覚悟があれば確かに世界はよくなるだろう。

しかし、実際はその過度期にあり、意識高い人なんてほんの一部分。大半は自分で考えて行動などできない人たちばかりである。もしグローバル資本主義の世界に進むのであれば、ブラジルのホームレスを日本人が助けてあげなくてはいけない。これだけ物理的にも精神的にも離れた人に助けるリアリティのあるモチベーションは生じない。旅の恥はかき捨てというが、自分と関係ないことで何してもなんとも思わないのである。このリアリティが問題だ。別の言い方をすると、共同体という範囲の広さには限度がある。地球という共同体で、全員同胞として連帯意識を持ちブラジルの貧困を日本が本気でめんどうを見るのは現状、無理。

まだまだ国民国家という昔のシステムに頼らざる負えないのではないか。そもそも国民国家に期待すべきことはなにか?名言量産マシーンの内田樹氏は国民国家の意義について以下のように語る。
国民国家の国政を考えるというのは、この日本列島で暮らしている国民たち、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本の食文化や生活習慣や宗教やこの国の風景の中にいないと生きた心地がしないという1億3000万人を「どうやって食わせるか」ということに尽きるわけです。「この土地から出られない人間」それが国民国家が面倒をみなくてはならない国民の第一の定義なんです。英語ができる、海外にネットワークがある、日本列島以外のところで暮らして少しも不自由がないという人たちのために国民国家はあるわけじゃない。そういう人たちは国が面倒みなくても、勝手に楽しく暮らせばいい。国が配慮しなければいけないのは、「日本列島から出られない人間」たちなんです。日本語しかできない人たちなんです。その人たちをどう「食わせるか」が国民国家の第一の課題であるわけです。でも、グローバル企業はそういう課題を免ぜられている。だから、国民国家内部的な発想で企業経営している人間がグローバル資本主義者に対して勝ち目があるわけがない。
引用:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36055?page=3

国民国家がこのような合意のもとに作られたわけではないし、日本国民の大半がこう考えているとは思えないが、内田氏のこの意見も一理ある。

この議論の要諦はこうだ。要するに、優秀な人、お金や人脈などリソースを持った人が、進んで特定の弱者を救えるようにしなくてはならない、ということ。国民国家が期待しているのは、こうしたお金持ちが、地元という地域を救うこと。地域ベースだから、各地域でこういう人が生まれればMECE的に世界全土がカバーされてめでたしめでたし。愛知県のトヨタみたいな存在が世界のどこでも存在する感じ。この考えは間違いない。

しかし、グローバル資本主義社会がうまくいけば、金持ちが弱者を助けようとするだろう。それではだめなのか?私の考えでは、それは程度の問題だ。地域ベースの郷土愛のほうが、高確率で世界全体がMECEで金持ちにより救われる。グローバル資本主義では、おそらくここまで地理的に均一にうまく広がらないだろう。

では、どうするか。やはり、地域に、その土地にどうやって愛着を持たせるかがキーになるのか。しかし今更そんなことできるのか?世界は間違いなくグローバル資本主義の方向へ進んでいる。地元の雇用を守ることなくきっぱりと安価な人材をもとめる。

そういうことで、グローバル資本主義の方向へ進むことを前提で社会のあり方は考えるべき。一人ひとりの個人は、まあ社会の仕組みとか気にしないでとりあえず楽しいと思うこと追求すればよし。

なるようになる。

小室直樹氏がこういってたのを思い出す。(たしか、宮台真司氏が言っていた)
「小室先生、日本はこのままでは衰退しダメになってしまうのですか?」
「心配無用。社会がダメになれば人が輝く。三国志を見てみろ」 

私達がものを考えるときに、あることを前提として何らかの結論を得ること、すなわち推論が重要な働きをする。例えば、夕焼けを見て、明日は晴れそうだと思うこと、ある国を旅行して親切にされたので、この国の人は皆親切だと思う、などなど。私達の思考はこのような推論の連続であると言っても過言ではない。

市川 伸一氏の「考えることの科学―推論の認知心理学への招待 (中公新書) 」本書のテーマは人間の推論について心理学の立場から眺めたものである。(ちなみに前のエントリーで書いたのは論理学の面からみた理想であり理論的な推論)推論に関する学問としては、論理学、確率論、推測統計学などがありそれらは妥当な推論のあり方を示すという意味で規範的な科学と呼ばれることがある。それに対して心理学は実際に人間がどのような推論をしているのかについての知見や理論を提供することから記述的な科学という。

これらの科学はそれぞれ学術的な意義と同時に、実用的な意義を持っている。つまり、私達の推論をよりよいものにすることに貢献できるのである。規範的な科学は先人が熟慮して得た考えの道筋を定式化したものだから、思考のツールとして使える。また、記述的な科学は私達の知的能力の長所と短所を見つめなおす材料を与えてくれる。

本書の私の多くは認知心理学や社会心理学の推論研究に基いている。本書は三部からなっている。1部は論理的推論、2部は確率的推論、そして3部は広く日常場面における推論を扱っている。

(1)人間は論理的に推論する
 1,形式論理と日常的推論
 2,論理的推論の認知モデル
 3,帰納的推論
(2)確率的な世界の推論
 4,格率・統計的な現象に対する理解と誤解
 5,ベイズの定理をめぐる難問・奇問
 6,確率・統計問題での推論のしくみと学習
(3)推論を方向づける知識、感情、他者
 7,推論は知識に誘導される
 8,因果関係を推論する
 9,自己の感情と他者の圧力

まず1について。現在の心理学ではたとえ大人といえども形式論理を適用して推論するとは考えない。さらに、人間が何か特有の論理構造をもっていてそれにしたがって推論するということにも否定的。日常的な人間の推論は、文脈情報や領域に応じた知識を使うことが多い。或いは心の中で課題状況モデルをつくって、その操作によって答えを出そうとする。こうしたやりかたは形式論理から見るとかなりはずれたものに見えるが、日常的な推論やコミュニケーションの場ではそれなりに適応的な意義をもっている。

科学的な法則を発見したり、社会で適応的な生活をするためには帰納的な推論が必要とされる。帰納とは、直接経験したことを超える知識の拡大である。ただし、常に妥当な帰納のルールは存在しない。適切な帰納は論理の飛躍と紙一重。

演繹とはdeductionで前提が真であれば結論も必ず真となるような推論。演繹では結論で述べている内容は実は前提の中に暗黙に含まれている。帰納はinductionであり1を聞いて10を知るようにいくつかの事例から一般的な結論を導く一般化。広義には演繹でないすべての推論。演繹の結論は万人が認めざる負えないので、説得力があるが、帰納のように限られた経験から多くの内容を含む結論を引き出す推論をしなければ太古の人間は明日の太陽はどこから上るかについて毎日悩まなければいけなかった。私達の学習の基本は帰納の産物。

2については確率。天気のように複雑な要素が絡んだ事象については「必ず」はまずない。世の中にはPであれ必ずQであるというようなおとばかりではなく、Pならば多くの場合にQであるのような確率的な事象がむしろ多いのではないか。そのような日常生活の偶然の洪水の中で私達は可能性の高さを見積もり比較しながら自分の行動を決めている。

最後の3は推論を方向づける知識、感情、他者について。私たちが何らかの認識にいたるというときは常に何らかの推論が絡んでいる。人の話を聞いて意味を理解するのもそうだし、初対面の人についてどんな人か見て取るのも推論。しかし、日常的な場面では前提や推論ルールがはっきり決められていないので推論の問題として定式化しにくい。ここで、数理的な理論を離れて私たちが普段行っている推論のありかたを心理学的な視点で眺めている。人間の推論が形式的な論理に沿ってではなく問題領域に固有の知識に基づいてなされているものであること、さらに信念、感情、期待、他者からの情報、人間関係などが大きな影響をもっているという側面を強調している。

人間は、多くの場合に論理学で扱うような数理的な論理を使っていないようだ。 

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