記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年07月

親父の知人にこんなやつがいた。半年に一回くらい親父に電話をしてきて何か目的があるわけでもなく、ただ絡んでくる。時には会社に電話をかけてくることもあったようだ。学生のときに面識のある人だったらしいが、ある意味ストーカーみたいなもんだ。脳天気な親父もけっこう厄介な問題だと手を焼いていた。おそらく、このストーカーまがいの行為をする人は心の病があるのだろう。まわりに話せる中の家族や友人がおらず、何年も接触していない昔の知り合いをあたり、何とか寂しさを紛らわす。受けてからしたら気味が悪いこと極まりない。

こういうやつは人間社会のコミュニケーションに鈍感で、こういう突飛な行動が相手にどのような印象を与えるかを想像できない。おそらく、根がか弱い女のように精神的にナイーブで、社会の人間関係から疎遠になりこの感覚が麻痺しているのだろう。まずは、家族や近い友人などと深いコミュニケーションを取り、徐々に回復してほしい。もしくは人間社会から疎遠になったのを小説や歌などの方面で昇華し、アーティストになるとか。

できるだけ、関係を絶ちたい場合、こういうやつにはどう対処するのがいいのだろうか。これはストーカー、クレーマーへの対処と共通する。

(1)迷惑だと怒る
「ひつこく連絡してくんな、迷惑なんだよ!」 と直球で言う。この場合、素直に聞いておとなしくなればいいのだが、逆鱗に触れ、もっとラジカルな倍返しされる可能性がある。例えば、住所を探られ家に来られる、など。または逆上し、社会的に迷惑をかけるとんでもない行為に至ることも考えられる。とても危ない。

(2)相談に乗ってあげる
何か問題を抱えているのは間違いないので、やさしく相談に乗ってあげる。この場合、その一回の相談で済めばいいのだが、「やはりお前だけは分かってくれる。これからも夜露死苦」みたいな感じでもっと頻繁に来られたら大変。

(3)無視する
 これが一番無難であるが、定期的に連絡が来るのは非常にストレスフルである。一度でもまともに応じてしまうと成功体験を与えてしまい、もっと頻繁に連絡がくるかもしれないので注意が必要。

また、自分がもし何かの事業などで社会的に責任を持つ立場になった場合、さらにやっかいである。もしうまくいった場合、それを感付かれて「やっぱりオレが見込んだやつだ」と追いかけてくる。失敗すれば、おそらくついてこないだろうが、そしたら自分自身がそれどころではない。まだまだ立ち直れる契機はあるはずである。是非人に迷惑をかけないようにしてほしい。

今のネット時代であれば、検索すれば調べたい人の情報は何かと出てくる。そうしたもので、一方的に情報収集し、こちらの状況を把握し連絡をとってくる。私のブログやツイッターなどは実名で検索すれば何とかたどり着けるようにあえて設定しているが、変なやつに知られるのはめんどうである。かといって、そいつのために表現の自由を放棄するなどありえない。やれやれ。

バランススコアカードをご存知だろうか?バランススコアカードは、戦略経営のためのマネジメントシステムのこと。バランススコアカードとはビジョンと戦略を明確にすることで、財務数値に表される業績だけではなく、財務以外の経営状況や経営品質から経営を評価し、バランスのとれた業績の評価を行うための手法である。

詳しくは、以下引用。
バランススコアカードを導入することで企業ビジョンの実現・目標の達成を目指し、財務の視点、顧客の視点、業務プロセスの視点、学習と成長の視点の4つの視点から戦略を立てます。その戦略を重要成功要因→業績評価指標→アクションプランと現場の業務(所属単位や個人単位)まで反映させることで、従業員は日々の業務がどのように目標達成に影響するのかを意識でき、経営陣は視覚的、実質的に目標達成までの道のりを管理することができます。バランススコアカードを利用することで戦略の遂行状況を測りながら、企業の組織力・成長力・競争力を強化し成功へと導くことができます。
参考:http://www.itl-net.com/bsc/bsc2.html

これは、要するにどんな組織にでも、さらに個人にも当てはまることだ。一番上に、「企業のビジョン」があり、これが究極目的としてその下で多角的にアプローチして進捗管理などやって、それを達成していこう、という考え方である。「企業のビジョン」と書いてあるが、所謂「理念」「ミッション」「存在意義」などという言葉も使われる。

ただ、この考え方の前提には、「企業のビジョン」 の向こう側には、人間の究極目的があり、さらにそれが「言語化」できることが前提となっている。こんなことを言うと、内田樹さんあたりから反発されそうであるが、ひとまずこの考え方を吟味してみよう。

ベンサムやミルを参考に、人類の目的を突き詰めて考えていくと、幸福と快楽である。そしてそれらが多い方がいい。さらに幸福とは快楽よりも質の高いものだとしよう。こうした政治哲学は人類が計画的に何かを行うときの最も根源的な目的について語るものである。全ての企業などの組織の目的はここに結び付けられていないと、その時の気分次第で目指す方向が変わるフワフワしたものになってしまう。

次回から何回かに分けて日本の先進的なベンチャー企業のビジョン、ミッションをこの視点から分析してみたい。取り上げるのは、楽天、DeNA、GREE。なぜこれらかというと、まだ若くこれからの社会を創っていく未来を担う企業であるので。

3社のミッションを以下に挙げておく。

楽天のミッション
 インターネット・サービスを通じて、人々と社会を“エンパワーメント”する

DeNAのミッション
 Delight and Impact the World 〜世界に喜びと驚きを〜

GREEのミッション
 インターネットを通じて、世界をより良くする。

参考;各社公式サイトより 

自分の中に規範を持ち、それに基づいてあらゆることを判断する。これが自律である。これは何もそんな難しいことを言っているわけではない。何も、自分憲法みたいな原理を書き出し、ルール化し、それに基づいて日々行動する、などというような意味ではない。自分で感じた通りに振る舞う。自分が疑問を思ったらそれをはっきりさせる。分からないことは分からないという。自律とは、そういう態度のことであり、別に意識的にロジカルシンキングしているという意味ではない。

そして、自律があるかないかというのは、突き詰めると己への自信があるかないか、ということに至る。なぜなら、自分の感性に自信があれば、それに従い行動する。自信がなければ、他人に合わせる。

そういう意味でいうと、中国人の多くは自律している。一方、多くの日本人はしていない。と感じることが多々ある。

ところで、大阪大学総長を歴任された鷲田清一氏の「語りきれないこと 危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21) 」を読んだ。本の内容の中で一つ、面白いところがあった。(現象学について調べていたら、ある上海の知人から鷲田氏の存在を教えてもらい、kindleで買える本書を読んでみたのだ。)

震災後に、佐賀県の玄海原発の説明会をテレビで観ていて、印象的だったことがあります。横文字でTP云々と早口で説明されたときに、説明されている住民代表の人たちが、最初は「はあ?」という顔をしていました。何を言われているのか、皆目分からないのですから。そのうちいつしか顔が崩れてきて、とうとう苦笑いしだしたんです。あきれたんですね。

〜経済省保安院の人たちのよどみない説明に対して、途中から住民代表の人はニヤっと笑い出した。お手上げっていう感じです。〜

〜この笑いはとても正しいと思いました。ある意味、強さを感じました。これまでであれば、専門家の前でアマチュアという存在はとても弱いものでした。能力が圧倒的に不均衡、非対称でしたから。ところが玄海原発の報道では、わたしの見るかぎり、保安院の人と住民代表の人とでは、むしろ説明を聴く側のほうが、心のアリーナが広かった。〜
多くの日本人はこういうときに、この住民代表のように笑えないのではないか。なぜなら、「分からない」という自分の感性よりも、相手や周りの反応が行動規範になっているので、それらに合わせる行動しか取らないのである。逆に、中国人だったら笑うどころか意味分からないとキレだすかもしれない。自分の感性に従っているのである。(もちろん聞く耳を持たずにキレたり、無視するのは問題であるが、今はどちらの反応の善し悪しについて議論していない。)

中国にいると、多くの人がこういう自然な態度を取ることが多い。自分の感性に従い生きているのである。それが自然体に感じるのは当たり前である。人間は自然の産物なのであるから、自然と沸き起こる感覚を優先するのが自然ではないか。

多くの日本人はこの態度を忘れつつある。言葉は悪いが一見貧しそうに見えるその辺にいる中国の方々のほうが純粋に、まっすぐいきている。どっちがいいかと言われたら、その個人にとっては自然に生きることがよい。西田幾多郎も空海も、陽明学でもいろんなところで言われているが、心と身体、行動が一致したときに幸せや、善が実現するのである。
 

中国ではブランド品を始め、日本のマンガ・アニメなどの海賊版が蔓延っている。ルイヴィトン、PRADA、シャネルなどの模倣品は至るとろろで売っている。私は職業柄に、アニメの著作権侵害には多少敏感である。日本のゲームなどのコンテンツを中国展開する際に、中国市場にあふれる海賊版ゲームの存在は痛い。最近は諸事情で少なくなったが、以前は尾田栄一郎氏の「ワンピース」の海賊版は中国のApp Storeの上位100に10個くらいあったのではないか。

日本のコンテンツ業界の人は、決まってこうした中国のあり方に対して、民度低いなあ、みたいな呆れた顔をする。そして、その後は何もない。

私はこういう日本人にこそ呆れてしまう。こういう著作権を侵害されていることに対して何もせず、ただ被害者ヅラして呆れているのは、思考停止の日本人の多くに見られる。そもそも、「なぜ、ワンピースの絵を勝手に使って中国でゲームを作って販売したらだめなの?」という問いに「法律で決まっているだろう」という超適当なレベル以上の回答をできる人がどれほどいるのだろう。

そもそも、日本人が著作権侵害について「知っている」のは、幼いころから人の真似はダメ、とかいう教育の延長で、それと新聞とかで見た「著作権侵害」についてを合わせて理解している程度だろう。体系的に著作権法について学んでいるわけではないし、それがどのように実務や現場レベルで実行されているのかも知らない。本当に理解するには、著作物とは何か?表現とは何か?個性とは何か?法律とは何か?法律に違反するとは?著作権法とは?国境を超えての法的問題は?法治国家とは?憲法とは?契約とは?社会契約とは?民主主義とは?キリスト教とは?などなど根本を理解するには広い知見が求められる。さらに机上の空論だけでなく実務ではどうしているのか、過去の事例にはどのようなものがあるか、など幅広い。

中国人の多くは、教育や育った環境で「著作権」という概念や「その侵害」という概念を教わっていないので、しょうがない。日本人が憲法とは何か、法治主義とは何かをしっかり教わっていないので、それについて全く理解できずに法治国家、民主主義国家ズラしているのと何ら変わりはない。著作権という概念を知ったかぶりし、それを知らない日本人は、まるでのび太くんがタメくんを苛めているようなものだ。(タメくんを知らない場合はこちら) 

20世紀の素粒子理論をリードし、「物理学の予言者」と呼ばれた米シカゴ大名誉教授の南部陽一郎氏が7月5日に逝去された。私は物理については素人であるが、今年に入って高校物理から始め、宇宙論や量子論、超ひも理論などの本を結構読んできた。到底理解できたとは言えないが、その世界に魅了され、今でも時間があればその方面について学んでいる。

どの本を読んでも必ず南部氏の一人抜きん出た存在に触れられている。 南部陽一郎の名を抜きにしては、現代の素粒子理論を語ることはできない。クォークが多次元の「ひも」で結ばれているという「ひも理論」も、湯川秀樹の中間子理論を大きく進化させた「色の量子力学」も、素粒子の質量を決める理論である「ヒッグス機構」も、そのどれを取っても最初の発端は南部のアイデアであるらしい

なぜ彼はここまで世界をリードする物理学者になったのか?私は南部氏の問題意識が軸にあると思う。「モノにはなぜ質量があるのか」という物質の根源を問うテーマを氏は生涯追い続けた。 これは人はなぜ生きるのか、この世界は何なのかという哲学的問いに近い、超根源的な巨大な問題で、それに自然科学で真っ向から挑戦したのである。こういう問題意識を持った人は多数いるであろうが、南部氏の徹底ぶり、その純粋な好奇心、負けん気は群を抜いていたのだろう。

まっすぐな真摯な態度。ふと、プロゲーマーの梅原大吾氏を思い出した。いくつか彼の名言を引用しよう。

「何も考えずに、自分のセンスと運だけを頼りに歩いてきた人間と対峙すると、相手の動きがチャラチャラと軽く見える。性根が定まっていないこと、さらには綿密な分析に基づいた動きでないことに、すぐに気がつくのだ。」


「普通、人はこっちの方向に何かあるはずだと当たりをつけて進むものだと思う。しかし、僕の場合は自分の足で全方向に歩くようにしている。正解がどちらの方向にあるのか、迷う必要すらない。全ての方向を探り尽くすから必ずどこかに正解が見つかるのだ。」


「真似されてもなんとも思わなくなった。生み出した特許よりも、新しい特許を生み出す力のほうが遥かに重要なのだ。ビジネスの世界で言えば改良品を生み出し続けるエネルギーとか、今まで商品化されていなかったが、確実にニーズがあるものを形にし続けるアイデア力とか、誰も気がつかない隙間を突くようなマーケティング方法を開発し続ける力のほうが、過去に一度だけ生み出した商品・戦略そのものよりも価値があるのではないだろうか。」

南部氏の取り組みもこうした「徹底」から生まれたのであろう。(余談であるが、梅原大吾氏は、この熱意をゲームではなく、人類の発展に向けてほしい)南部氏の凄さについては私はほんの一部しか理解していないだろう。今後も量子論の分野に注目していきたい。

最後にノーベル賞を南部氏と同時受賞した益川氏のコメントを引用。

南部さんが意識的に日本を離れたのは、「群れることを嫌う」気質のためでしょう。南部さんの成功を囲んでみんながワイワイがやがやっている時、本人は次の所へ行っている。

言葉は重要である。言葉には気をつけなさい、言動に注意、とはよく言ったものであるが、何故だろうか。これは相手に対してのコミュニケーションの道具であるので、相手への影響をしっかりと考えなさい、という意味だと思っている人が多いのではないか。しかし、これは本質ではない。言葉に慎重になることについて、私は大賛成なのだが、その理由は違う。ではなぜか。言葉を頭に意識する、ということは、自分の軸をつくるデータベースにそれを刻み込むということなのである。言葉は要するに自分の中身を形成するのだ。 

どういうことか、説明しよう。これは仏教の阿頼耶識を知っていればすぐ分かる。阿頼耶識とは人間が得た情報、例えば五感からの情報や頭の中で思考したこと、思い出したこと、意図したこと、などの全ての情報が記憶されるデータベースのことである。これが阿頼耶識、アラヤシキである。例えば、目の前の椅子を見たらその視覚情報は記憶されるし、「ああ、おれって馬鹿だな、失敗ばかりだな」と意識すれば、それも記憶される。一回見た椅子とか一瞬考えたことなんて、覚えてないから記憶されてないでしょ、といってもそれは間違い。それは意識に現れなくても阿頼耶識という巨大データベースにしっかりと格納されている。

意識に何が現れるか、それを私たちはコントロールできない。それは基本的に、阿頼耶識に依る。阿頼耶識にあるデータと五感などから入力された情報が照合され意識に何が出るかが決まる。そして、そこで意識に生じたこともまた、阿頼耶識に刻まれる。阿頼耶識にあるものが意識を定める。

だとすれば、なぜ言葉が大切かはお分かりだろう。悪いこと、ネガティブなことばかりを阿頼耶識に刻んでいれば、それが今後の意識内容に全て影響するのである。基本的に意識に生じることは言語的に理解することが大部分である。言語でポジティブによいように解釈する、思考すれば阿頼耶識はすべてポジティブになり、意識内容もポジティブになりハッピーになる。何事も意識的にポジティブに捉え、良い記憶を形成し、意識をコントロールする。これは言葉の力である。いつもネガティブなことを言っているやつはもう未来がない。

余談だが、柔道のヤワラちゃんはもう何でもかんでもポジティブ解釈し、しかもそれを言葉で何度もリピートするらしい。 

このブログを中心に何かと情報発信している。各ツールにおいて、どのように使い分けているか紹介しよう。

(1)wechat
これは中国版のLINEみたいなもの。facebookのタイムラインみたいなの(momentsという)に情報発信できる。ラーメン食べました、並みの日常生活での些細なことや、面白い記事のシェアなど。

頻度:1日1回くらい
公開範囲:友達のみ

(2)livedoorブログ
このブログ。思ったことをある程度まとめて書いている。いちおう内容はまとめているつもりだが、細かい言葉の言い回しなどはこだわっておらず、とりあえず構成して完成させちゃう。基本、本音だが、フィクションもあるかも。パブリックに公開しているので変なやつに絡まれることもあり。(あーこわいこわい)

頻度:数日に1回
公開範囲:パブリックに公開(誰でも見れる)

(3)facebook
かなり実名制、自分が発信したことが明確になるので、しっかり構成、まとめたもののみ発表している。自分の動向や考えなどを一番まともに表現している。個人的な情報なので、facebookの友人のみに公開。

頻度:たまに
公開範囲:友達のみ

(4)twitter
備忘記録として思ったことなどを書き込む。時間も記憶されるので便利。

頻度:たまに
公開範囲:パブリックに公開(誰でも見れる)

(5)weibo
twitterと同じだが、twitterは中国で使えないので中国用メモとして使っている。

頻度:たまに
公開範囲:パブリックに公開(誰でも見れる)

(6)執筆活動
数万字以上の本。まだ仕上げたのは1冊であるが、新作も執筆中。公開は友人にたまに共有している程度。

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