記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年07月

言葉とは何か?これは言語学でずっと分析されていることである。そして、もっと根本的に「意味」とは何か、それについて今日はまとめる。まず言語について説明するところから入っていき、最後に「意味」そのものについて決定的に答える。

ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は日常生活における具体的な使用に基づくものであり、唯一の客観的な意味が存在するわけではない。仲間と一緒に徹夜をやり終えて、ふと外の景色に目を向け、仲間に向かって「空が青いな」というなら、それは空の青さを客観的に述べているのではない。仲間と一緒に仕事をやり遂げた達成感、労働の後の晴れやかな気分を、仲間に対し意図している。どのようなコミュニケーションの文脈で語られたかにより、言葉の意味は変わってくる。言葉の意味を決定するのは、その都度の状況における言葉の用い方である。

こうした言葉の用い方は表立って意識されない。それは実際に使うなかで身につくものであり、完全に記述、説明することはできない。このようなルールのもので、複数の人々のあいだで交わされるふるまい(特定のルールに従った行為や態度)のことを、ウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んでいる。この考え方は前期ウィトゲンシュタインの写像理論とは対照的に、真理の存在を認めない。その意味では現代の分析哲学と呼応するものがだが、しかし単なる相対主義ではない。ある意味は、なんらかの観点に相関して現れるのであり、なんとでも解釈されるとは考えないからだ。これは言語の本質を捉えたきわめて重要な考え方である。

しかし、ウィトゲンシュタインはここまでで、その後の展開がないし、だから何にどう応用できるのか、といった実用性もない。

ここからスタートし、言語とは何か、そして「意味」とは何かということを竹田青嗣の「現象学は思考の原理である」から明晰に回答したい。言語の本質をしっかりと見定める、そして「意味」とは何かを理解することを目的とする。これは現代において極めて重要な意義を持っている。
 


社会の本質的理論を構想するときに、言語の本質の探求が不可欠であるということ。社会の本質は言語ゲームとしての関係的集合体であるということ。言い換えれば、社会的関係とは単なる力のせめぎ合いではなく言語ゲームこそがそれを展開する本質的力。だから言語本質論は本質学としての社会理論の基礎となるものである。
 
人間の原理論にとって必要である。とくに人間的身体論の基底をなすのは、言語によって基礎づけられた人間関係だということ。人間は幻想的エロスをその本質とする。それは、身体、欲望、関係態度、情緒性といった枠組みで捉えられるが、これらの枠組みをなすのが人間どうしのさまざまなルール関係であり、そしてルール関係は根本的には言語的関係。我々は人間の幻想的の本質を捉えるために、観念や意義の本質それ自体を形而上学的に想定するのではなく、我々の中でルール関係がどのように経験されるのかを捉える必要がある。

人間の存在の本質を捉える上で言語の本質が不可欠な前提であるから、現象学の方法で言語理論を理解する必要がある。
ところが、現代の言語学は、この本質を適切な仕方で捉えることができていない。このことを考えてみよう。

言語学的転回
近代哲学と現代哲学とを画す動向を表す概念。デカルトのコギトの自覚に始まる近代哲学は意識を確実な認識の最終的な基盤として中心にすえ、反省的方法により意識が世界を意味付け、構成する過程を解明することに努めてきた。しかし、この意識中心の哲学は、意識の私秘性という壁に阻まれ不可知論あるいは独我論というアポリアに陥らざるをえなかった。それに対して19世紀末から20世紀初頭にかけて現れた一群の哲学者たちは、意識という自己完結した世界からの脱出路を公共的な言語の中に求めた。いわざう哲学的議論の土俵を意識ではなく言語という場面に転換したのである。

これは一見妥当な意見に思えるが、竹田的には、言語の用法や意味作用を徹底的に形式的に追い詰めようとする現代言語哲学のほうが、結局は強い不可知論や独我論的傾向に陥っているのが現状であり、むしろ観念論の方法を原理的に徹底した現象学の発想が、言葉の謎をはっきりと解明している。

言語行為の本質を、多くのカードを使って意図をやりとりする複雑なルールゲームと考えよう。様々なカードは様々な言葉である。我々はこのゲームで多様な思考を作り出し、それを相互に共有し、そのことで社会というゲームをつくりなす。現代言語哲学は、いわばこのゲームにおける言語というルールの体系を正確に記述しようとする。また、そのルールが微妙に変化してゆくその理由を突き詰めようとする。さらに、言語のルールと実際の使用との間に見いだされる不思議なズレの原因を捉えようとしてきた。要するに、言語の多用なカードやルールの仕組みについて、それを正確に記述しようとするのだ。

その理由は明らかで思考自体が言語というゲームによって可能となるのだから、言語ゲームの体系的探求こそ、その個別的プレイである心的内容の探求よりも権利的に先行性を持つ、というわけだ。

しかし、これはひとことで言って、近代実証主義に特有の事実主義的思考と言わざる負えない。この思考の特質は、あるゲームの本質を探究するには、そのゲームのアイテム(将棋の駒の種類、トランプのカードの種類)とルール(規則)を体系的につまり全体性を正しく記述すればよいと考える点にある。

だがそうだろうか?

こうしたルールブックを読んで果たしてゲームの本質を理解できるか。できない。むしろルールブックを頼りに彼らのゲームを再現し、実際にやってみること、このゲームを実際に繰り返し行なってみることではじめてそのゲームの本質(つまりプレーヤーにとってのエロスである面白さ、意味、問題点等々)を理解できるのである。要するにゲームの本質とは単にそのルールを体系的に正確に記述することでは把握できない。実際にプレーすることを通じてはじめてそのゲームの本質を把握できる。

このことは原理的だが、なぜか?ゲームにはゲームを行う主体が存在しなければならず、この主体のゲームの経験だけがゲームの本質をつかむことができる。というのもゲームの本質はゲームが作り出すエロスにあるからである。ゲームの本質は、ゲームを行う主体のエロス的幻想の本質と相関的。このことを理解できないのが、心的内容を度外視してルールやシステムの体系を事実的に認識すれば言語の本質を把握できるとする現代の実証主義的思考の本質的な欠陥。

言語の使用や用法の本質こそが思考の本質を規定するから、これを厳密に形式化して規定すればよいというのが分析哲学の発想。言語はその基本構造を言語ゲームと考えると分りやすい。ゲームは一つのシステムなので、分析哲学はシステムの構造の本質を把握できればいいと考える。

言語やそれによって形成される社会は集合関係的ゲームといい、ここではゲームのゆるやかな規則はあるが人為的な厳密な規定性がなく、ゲームの目的も個々のプレーヤーに分散されて多様性をもつ。言語やそれによって形成される社会がそういう集合的関係のゲームであり、家族、友人関係、村、その他様々な文化共同体などもこれにあたる。ここでは、ルール自体が固定的なものでなく人間の身体の構造がそうであるようにつねに自分のルールを刷新し続けるような構造になっている。またこのルールは自覚的な部分と無自覚的部分を含んでおり、そのためその変更も集合的にしか生じない。さらにそれは一つのゲームをなしているが、ゲームの目的も一義的ではなくプレーヤーの多様な自己設定に委ねられている要素が大きい。
 
言語の諸アイテムやルールは一見、事実的な構造をしているように見えるので分析哲学という方法でそれを厳密に規定できるとみなし、そのことで言語の本質を把握できると考えるが、それはまさしく実証主義的思考の欠陥。言語というげゲームのシステムは本質的に社会的事象でありそれ自信関係的ゲームのシステム。だから使用や用法といっても科学や物理法則のような一義的な共通了解は成立しない。だからこそ、ここでもまた、心理学や歴史学や社会学と同じ理由でさまざまな意見の対立、信念対立が必然的に生じる。

現代の分析哲学は、言語規則を形式論理的においつめることでさまざまな解けないパラドクスにぶつかる。それは身体の形式的分析を推し進めると心身相関の解けない謎にぶつかるのと同じ事情。このための分析哲学は一方であくまで形式論理を追い詰めようとする論理実証派と、言語の分析を徹底することの不可能性を帰謬論理的に証明しつづけようとする相対主義派に分極している。

思考は言語使用の能力だが、また言語が思考を可能にしているといえる。だから思考を可能にしている言語システムの構造の把握こそ認識問題を解く鍵である。そう現代の言語学は考えるが、それはわれわれの身体本質を捉えるには、身体の使用を可能にする筋肉や神経の構造を把握すればよいと考える実証的思考と同じ。身体の本質はちょうどゲームの本質はそのゲームの体験の本質考察を通してしか取り出せないように、われわれが自らの身体使用の経験を内的に吟味することでしか把握できない。言語論的転回はたしかに哲学の中心問題を観念から言語へと移動させたのだが、その経緯をみるとこおには本質的な問題の転回はなく、ただ問題の一側面の移動が生じただけだったとしかいうほかない。

日常的な言語の現象では、たいていの場合、発語者と受語者との暗黙の関係が想定されている。このような日常的な言語のあり方を「現実言語」という。例えばここにチラシがあってパソコン大安売りと書かれている。暗黙のうちに読み手はある売り手から買い手に向けて発語されたものとして受け取る。

ところで今、言語からこの発語者ー受語者という暗黙の関係をそっくり抜き取るとどうなるか。竹田はこれを「一般言語表象」と呼び「現実言語」と区別した。すなわち、そこでは、信憑関係の本質が抜き取られるために、「一般的な意味」しか表示しない言語、となる。発語者ー受語者の関係が生きている言語が「現実言語」で、「現実言語」と「一般言語表象」とを区別しないことによってさまざまな言語の謎が現れてしまうのである。分析哲学が向き合っているのは現実言語ではなく一般言語表象だから色々問題起きる。

例えば、「空は青い」は誰かが誰かに語られ聞かれるかぎりで現実言語であり、コンテクストからその「意」が志向され、そのことで「意味」が分かったり分からなかったり、あいまいだったり、誤解を呼んだりする。このような「意味の動態性」が現実言語における「意味」の本質である。

「全てのクレタ島人はうそつきである、と一人のクレタ人が言った」これも現実言語ではどんなパラドクスも起こらない。(彼の言葉が決定不可能だと思って困る人がいるか?普通、この人はなにかむかつくことがあって仲間であるクレタ人を誹謗中傷しないのか?もしくは親切な人で、よく騙される旅行客に注意してくれてるのだろうか?などなど可能性をとりあえず感あえて、真意は分からなくてもいちおう了解を持つはず。)しかし、これは「一般言語表象」として抜き出すと、この文章の「一般意味」だけが表示され、そこで論理上の矛盾が現れる。つまり言語からさまざまなコンテクストを全て取り払うと一般ルールに従って一般意味だけを表示するものになり、そこではちょうど画家が二次元のキャンパスを使い三次元を書くことでだまし絵を書くようにいくらでもこのようなパラドクスを作り出すことができる。

言語の多様性や規則の規定不可能性の問題自体、じつは何ら新しい問題ではない。それは近代哲学がずっと問題にしていた認識問題の言語論的変奏形態である。つまり人間の主観的である認識は真理や客観を捉えることがえきるのかという問いが、言語は真理や客観を正しく表現できるのか、という問いに置き換えられただけ。これを言語論的転回と呼んでいる。現代言語哲学は哲学の新しい流れを作り出したと考えているが、ただ道具立てが代わっただけということに気づいていない。

***

意味とはなにか?
では、言語の謎を解明した今、言語の問題はどのような新しい主題を展開できるか?第一に、言語を人間の幻想的身体の本質契機として捉えるという視点であり、第二に言語を社会的ルールの本質契機と捉える。第一が身体論及び価値審級論の領域を形成し、第二がルール社会論の領域。とくに第一の問題が欲望論につながる。しかし、言語の本質を身体論の問題につなぐためには、まず意味の本質を現象学的に考察しておく必要がある。

言語について考えるには当然、意味について考えないとならない。なぜなら、言語学的には言葉とは意味を担うものであり、一般的には、言語の規則とは意味がそれによって伝達される或いは構成されるところのルールだから。

まずは、言葉の意味ということに狙いを絞り考察し、その後、意味それ自体について考えていく。

名詞が意味を持つとは、一般的には概念を持つということと考えていい。では概念はなにかというと、これをヒトゴトで経験の集約と呼んでおく。樹木の概念とは、われわれがさまざまな形でもつ樹木についての経験(知識を含む)の集約。

語がもつ辞書的な意味を一般意味、現実言語の中でわれわれが了解しようとしている発話者の言葉の意味を「関係企投による意味」と区別しよう。その基本関係は、言語行為は一般に言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であり、人は語の一般意味を利用して自分のその都度の「企投的な意味」を他者に投げかけようとする。

ウィトゲンシュタインの哲学探究での素朴な言語ゲームを例にしてみよう。ある男Aが「板石!」とBに言ったとする。これはBに対して、板石を持ってきてくれ、といっているかもしれないし、この板石は邪魔だからどけてくれ、ということかもしれない。この語は「板石」の概念を意味するが、男Aがいいたいのは「邪魔だからどけて」である。これは語の一般意味を利用して、自分の企投的意味を投げかけようとしている。

こうしてみると、語の表現する一般意味がそのままで言語行為の企投的意味とぴたりと重なることは決してありえない。すなわちわれわれは、どれほど単純に見える言語行為でもかならず一般意味を利用してその都度の各自的な意の投げかけあい(関係企投)を行っている。このように語の一般意味と、言語の企投的意味の違った本質を持っているのである。

われわれが言語の意味というとき、しばしば語のもつ一般意味とそれを媒介とする言語行為における企投的意味とを混同している。語の一般意味は人間が長くある語を一定の仕方で使ってきたことの集合的な痕跡。しかし、企投的意味はわれわれが生活のなかで絶えずそのつど行っている実存的な関係行為。見てきたように現代言語哲学における言語の謎はたいていこの2つの意味を混同することから生じている。

***

では、今見てきたのは「言葉の意味」ということの本質的区分であるが、さらにつっこんで今度は意味それ自体の本質とはなにかを問うてみよう。「意味」の本質についてはすでにハイデガーが卓越した本質観取を行っているのでここでは必要な範囲でこれを借りる。

「意味とは、あるものの了解可能性がそのうちに保たれている当のもののことなのである。了解しつつ開示することにおいて分節可能であるものを、われわれは意味と名付けるのである。意味という概念は、了解しつつある解釈が分節するものに必然的に属する当のものの形式的な骨組みを包括している。意味は、予持、予視、および予握によって構造づけられている企投の基盤なのであって、そうした基盤のほうから、あるものとしてのあるものが了解可能になるのである。」

これを竹田は解説する。言語の「意味」という概念は、語の「一般意味」と、発話者ー受話者の関係で現れる企投的意味(言わんとすること)という二重の「意味」をもつということであった。これはソシュールでは、ラングとパロールの二重性に重なり、フッサールでは指標と表現という区分に対応する。

時間的な先行関係としては、語の一般規則が確定されていなければ、われわれはそれを使って発語すること、関係企投を行うことができない。しかし、論理的な先行関係としては発語行為の積み重なり、その集合的な痕跡が語の一般規則(一般意味を含む)を形成するので、企投的意味が一般意味の形成の根拠である。言い換えれば、一般意味は現実の発話行為を、つまり発語行為のなかで生きて動く企投的意味をその源泉とする。

われわれはある前言術的な感覚に押され、それを他者と共有しようとする気持ちにうながされて、はじめてそれを言語化する。人間世界の意味の秩序が言語によって分節されているということは実存の世界が総じて欲望相関的に分節された前言術的な意味の世界であるということを土台としてはじめて成立するのであり、この根拠関係を理解することが意味の本質を理解する上でのポイント。哲学的には、欲望やエロスの動きが関係という形式性を分節するのであり、つねに欲望が関係に先行する。

ハイデガーのいう「了解しつつ開示することにおいて分節可能であるもの」とはどういうことか。補助線をひこう。ハイデガーによれば、人間の実存の本質契機は3つある。情状性、了解、語り、である。情状性とは「気分が動くこと」といえる。机に向かって書物をしているとなんだか頭が重い感じがしてたとえば首を動かしてみる。これがある不快な気分がいつのまにかやってくること、である。気分は、快苦の情動、感情、欲望、関心などとして到来する。われわれは、あるいは意識をもった生物はこの情状性の到来を制御することはできない。それは意識のむこうからたえず自らの告知するかたちで到来しつづけている。そしてこれがいきものの実存の源泉。というのは、われわれは頭の重い感じをもったらそれをなんとかしようとするから。不安や苦痛が到来したらこれを避けようとしたり取り除こうとする。また、快やエロスの可能性が到来したら、これを持続しようとしたり、より確実につかもうとする。これが実存のエロス的原則。

もう少し進む。頭痛の気分を感じて、私は頭を動かそうとする。あるいはすぐ近くの窓をあけて新鮮な空気を入れようとするつまりいきものは気分、情動、感情、欲望におされ、それに対応して身体的行為をとうろとする。そしてまさしくこのときにもっとも原型的な意味というものが生起してくるのである。

頭痛を感じる、ほとんど無意識に私はこれを除きたいと思う。そして私は首を回したり、近くの窓をあけようとしたりする。このとき、私のまわりの世界は「了解しつつ開示することにおいて分節可能である」ようなある意味の連関として浮かび上がる。

つまり、ふつう頭痛の気分(情状性)は、
頭痛をなんとかしたいという気分(了解)に繋がる。
このなんとかしたいという気分(了解)がどうすればいいか→窓がある、これを開けば新鮮な空気がはいる→頭痛がおさまるかも、という世界の意味連関(分節性)を開示するのである。

このようにして私の世界はつねに到来する気分(情状性)とその了解(なんとかしたい)に応じて、その分節性を編み換える。このような意味の網の目は、言語をもった人間だけに生じるのであって、だから「痛い」や「苦しい」などの内的な気持ち(心)は、言語によって作られたもので、動物には生じないなどと考えることはできない。動物では、意味の網の目は、言語の分節によって行われず、経験の積み重ねによって「身体的直観」として形成されるというだけであり、その実存に意味の連鎖と網の目が存在しなどということはできない。

なにはともあれ、こういうわけで「意味」の最も根源的な本質は、いきものの実存から発する「情状性ー了解」すなわり、情動の動きと、これに応じた何らかの存在可能へのめがけ、から立ち上がる、世界の有意義性の連関の絶えざる編み換えということにある。すなわち私のまわりの世界は私の気分、感情、欲望、関心に相関してまたそこから現れる存在可能性に相関して、つねに「了解しつつ開示することにおいて分節可能である」ような意味の連関として展開している。

言語についていってみれば、この実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが現実言語の企投的意味の本質。さらに、このような関係行為としての言語による企投的意味の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の一般意味(辞書的意味)が成り立っている。言語の一般規範ラングが個々のパロール現実言語を可能にしているが、根拠関係としてはパロール企投的意味の積み重ねが絶えず一般ルールのラングを作り上げている。

***

言葉の意味という概念を考察するとき、言語学者たちは例外なく語の一般意味の形式的分析を徹底しようとするが、そこから言語の意味の本質を取り出すことは決してできない。哲学探究において、言語についての反語的なアフォリズムを積み重ねてウィトゲンシュタインが指摘しようとしているのはこのことだが、ウィトゲンシュタインは現実言語としての言語の本質を自覚しているわけではない。彼は一般意味の分析ではこの謎を解けないという指摘を繰り返し行なっただけなのである。

この問題は、実存論的、エロス論的な言語本質論をおかないとけっして解明できない問題。その理由は、実存的な関係企投が言語の意味の基底的本質であり、記号としての言語の意味はそれを根拠として成立しているから。ちょうど貨幣の謎が貨幣の価値自体をいくら分析しても理解できないのと同じ。貨幣は集合的な信憑システムとしてはじめてその実効性をもつが、それを支える本質条件は貨幣の記号論的分析だけからではけっして捉えることができない。

まとめると、
第一に、言語の謎は、言語を形式論理的に分析しつづけるかぎりけっして終わらないこと。第二に、実存論的、欲望論的分析を通じてはじめて意味の本質的な根拠関係が明らかになり、そのことで言語の謎というスコラ議論は終焉する。最後に、この本質が解明されることで人間存在を本質的に規定するものとしての言語、というより重要な主題が現れるということ。

 

親父の知人にこんなやつがいた。半年に一回くらい親父に電話をしてきて何か目的があるわけでもなく、ただ絡んでくる。時には会社に電話をかけてくることもあったようだ。学生のときに面識のある人だったらしいが、ある意味ストーカーみたいなもんだ。脳天気な親父もけっこう厄介な問題だと手を焼いていた。おそらく、このストーカーまがいの行為をする人は心の病があるのだろう。まわりに話せる中の家族や友人がおらず、何年も接触していない昔の知り合いをあたり、何とか寂しさを紛らわす。受けてからしたら気味が悪いこと極まりない。

こういうやつは人間社会のコミュニケーションに鈍感で、こういう突飛な行動が相手にどのような印象を与えるかを想像できない。おそらく、根がか弱い女のように精神的にナイーブで、社会の人間関係から疎遠になりこの感覚が麻痺しているのだろう。まずは、家族や近い友人などと深いコミュニケーションを取り、徐々に回復してほしい。もしくは人間社会から疎遠になったのを小説や歌などの方面で昇華し、アーティストになるとか。

できるだけ、関係を絶ちたい場合、こういうやつにはどう対処するのがいいのだろうか。これはストーカー、クレーマーへの対処と共通する。

(1)迷惑だと怒る
「ひつこく連絡してくんな、迷惑なんだよ!」 と直球で言う。この場合、素直に聞いておとなしくなればいいのだが、逆鱗に触れ、もっとラジカルな倍返しされる可能性がある。例えば、住所を探られ家に来られる、など。または逆上し、社会的に迷惑をかけるとんでもない行為に至ることも考えられる。とても危ない。

(2)相談に乗ってあげる
何か問題を抱えているのは間違いないので、やさしく相談に乗ってあげる。この場合、その一回の相談で済めばいいのだが、「やはりお前だけは分かってくれる。これからも夜露死苦」みたいな感じでもっと頻繁に来られたら大変。

(3)無視する
 これが一番無難であるが、定期的に連絡が来るのは非常にストレスフルである。一度でもまともに応じてしまうと成功体験を与えてしまい、もっと頻繁に連絡がくるかもしれないので注意が必要。

また、自分がもし何かの事業などで社会的に責任を持つ立場になった場合、さらにやっかいである。もしうまくいった場合、それを感付かれて「やっぱりオレが見込んだやつだ」と追いかけてくる。失敗すれば、おそらくついてこないだろうが、そしたら自分自身がそれどころではない。まだまだ立ち直れる契機はあるはずである。是非人に迷惑をかけないようにしてほしい。

今のネット時代であれば、検索すれば調べたい人の情報は何かと出てくる。そうしたもので、一方的に情報収集し、こちらの状況を把握し連絡をとってくる。私のブログやツイッターなどは実名で検索すれば何とかたどり着けるようにあえて設定しているが、変なやつに知られるのはめんどうである。かといって、そいつのために表現の自由を放棄するなどありえない。やれやれ。

バランススコアカードをご存知だろうか?バランススコアカードは、戦略経営のためのマネジメントシステムのこと。バランススコアカードとはビジョンと戦略を明確にすることで、財務数値に表される業績だけではなく、財務以外の経営状況や経営品質から経営を評価し、バランスのとれた業績の評価を行うための手法である。

詳しくは、以下引用。
バランススコアカードを導入することで企業ビジョンの実現・目標の達成を目指し、財務の視点、顧客の視点、業務プロセスの視点、学習と成長の視点の4つの視点から戦略を立てます。その戦略を重要成功要因→業績評価指標→アクションプランと現場の業務(所属単位や個人単位)まで反映させることで、従業員は日々の業務がどのように目標達成に影響するのかを意識でき、経営陣は視覚的、実質的に目標達成までの道のりを管理することができます。バランススコアカードを利用することで戦略の遂行状況を測りながら、企業の組織力・成長力・競争力を強化し成功へと導くことができます。
参考:http://www.itl-net.com/bsc/bsc2.html

これは、要するにどんな組織にでも、さらに個人にも当てはまることだ。一番上に、「企業のビジョン」があり、これが究極目的としてその下で多角的にアプローチして進捗管理などやって、それを達成していこう、という考え方である。「企業のビジョン」と書いてあるが、所謂「理念」「ミッション」「存在意義」などという言葉も使われる。

ただ、この考え方の前提には、「企業のビジョン」 の向こう側には、人間の究極目的があり、さらにそれが「言語化」できることが前提となっている。こんなことを言うと、内田樹さんあたりから反発されそうであるが、ひとまずこの考え方を吟味してみよう。

ベンサムやミルを参考に、人類の目的を突き詰めて考えていくと、幸福と快楽である。そしてそれらが多い方がいい。さらに幸福とは快楽よりも質の高いものだとしよう。こうした政治哲学は人類が計画的に何かを行うときの最も根源的な目的について語るものである。全ての企業などの組織の目的はここに結び付けられていないと、その時の気分次第で目指す方向が変わるフワフワしたものになってしまう。

次回から何回かに分けて日本の先進的なベンチャー企業のビジョン、ミッションをこの視点から分析してみたい。取り上げるのは、楽天、DeNA、GREE。なぜこれらかというと、まだ若くこれからの社会を創っていく未来を担う企業であるので。

3社のミッションを以下に挙げておく。

楽天のミッション
 インターネット・サービスを通じて、人々と社会を“エンパワーメント”する

DeNAのミッション
 Delight and Impact the World 〜世界に喜びと驚きを〜

GREEのミッション
 インターネットを通じて、世界をより良くする。

参考;各社公式サイトより 

自分の中に規範を持ち、それに基づいてあらゆることを判断する。これが自律である。これは何もそんな難しいことを言っているわけではない。何も、自分憲法みたいな原理を書き出し、ルール化し、それに基づいて日々行動する、などというような意味ではない。自分で感じた通りに振る舞う。自分が疑問を思ったらそれをはっきりさせる。分からないことは分からないという。自律とは、そういう態度のことであり、別に意識的にロジカルシンキングしているという意味ではない。

そして、自律があるかないかというのは、突き詰めると己への自信があるかないか、ということに至る。なぜなら、自分の感性に自信があれば、それに従い行動する。自信がなければ、他人に合わせる。

そういう意味でいうと、中国人の多くは自律している。一方、多くの日本人はしていない。と感じることが多々ある。

ところで、大阪大学総長を歴任された鷲田清一氏の「語りきれないこと 危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21) 」を読んだ。本の内容の中で一つ、面白いところがあった。(現象学について調べていたら、ある上海の知人から鷲田氏の存在を教えてもらい、kindleで買える本書を読んでみたのだ。)

震災後に、佐賀県の玄海原発の説明会をテレビで観ていて、印象的だったことがあります。横文字でTP云々と早口で説明されたときに、説明されている住民代表の人たちが、最初は「はあ?」という顔をしていました。何を言われているのか、皆目分からないのですから。そのうちいつしか顔が崩れてきて、とうとう苦笑いしだしたんです。あきれたんですね。

〜経済省保安院の人たちのよどみない説明に対して、途中から住民代表の人はニヤっと笑い出した。お手上げっていう感じです。〜

〜この笑いはとても正しいと思いました。ある意味、強さを感じました。これまでであれば、専門家の前でアマチュアという存在はとても弱いものでした。能力が圧倒的に不均衡、非対称でしたから。ところが玄海原発の報道では、わたしの見るかぎり、保安院の人と住民代表の人とでは、むしろ説明を聴く側のほうが、心のアリーナが広かった。〜
多くの日本人はこういうときに、この住民代表のように笑えないのではないか。なぜなら、「分からない」という自分の感性よりも、相手や周りの反応が行動規範になっているので、それらに合わせる行動しか取らないのである。逆に、中国人だったら笑うどころか意味分からないとキレだすかもしれない。自分の感性に従っているのである。(もちろん聞く耳を持たずにキレたり、無視するのは問題であるが、今はどちらの反応の善し悪しについて議論していない。)

中国にいると、多くの人がこういう自然な態度を取ることが多い。自分の感性に従い生きているのである。それが自然体に感じるのは当たり前である。人間は自然の産物なのであるから、自然と沸き起こる感覚を優先するのが自然ではないか。

多くの日本人はこの態度を忘れつつある。言葉は悪いが一見貧しそうに見えるその辺にいる中国の方々のほうが純粋に、まっすぐいきている。どっちがいいかと言われたら、その個人にとっては自然に生きることがよい。西田幾多郎も空海も、陽明学でもいろんなところで言われているが、心と身体、行動が一致したときに幸せや、善が実現するのである。
 

私は昨年一冊の本を書いた。これは自分の世界観をまとめたものである。世界観とは私たちが一人の人間としてこの世にいきるとはどういうことか、ということに答えつつ、さらにどう生きるべきかを説いた本である。そこで、私は全ての体験、経験を「心象」という意識に還元して生きることを考えた。そして、人はみな無意識にいろんなものに個人的な確信をいろいろな程度で持っているということを書いた。(一部分をブログでも書いた)

その後、西洋哲学の本を学んでいった。その中で現象学の考え、さらにフッサールの考えを知り、驚いた。自分の書いたことがそのまま、しかもさらに詳細に描かれていたからである。さらに、私は現象学というあらゆる知覚や思考、認識を意識に還元して考えるアプローチについて、ヘーゲルとフッサールを早稲田大学教授の竹田青嗣の本で学んだ。

驚くことに、竹田はこれらのフッサールなどの議論を踏まえて、それらが思考の原理であり、どのように現状に活かされるかをさらに発展させて展開されていた。彼の著作はまだ4冊程度しか読んでいないが全ての内容に理解できるし、その一貫した思考に多くを学んだ。

なかでも竹田の考えが最もよくまとまっているのが 「現象学は思考の原理である (ちくま新書) 」であると思う。これについて、紹介がてら今後何回かに分けて精読+コメントしていこうと思う。基本的に引用(一部編集)し、これにコメントしていく。

まず、私たちは基本的に二重の観点を持っている。簡潔に「自分からの観点」と「客観的な観点」である。これは人間の観点が本質的に自己対象化的観点であることからくる原理的な必然性。一方で私たちはとことん「自分の世界」に閉じ込められている。誰もが「自分の生」という世界から抜け出ることができない。実存の孤独である。しかし、一方では私たちは自分の視線から距離を取り、自分と世界全体を一つの客観的な関係として眺める視線をもっている。この対象化する視線は、人間の観念の本性的能力で誰でもそなえているもの。つまり「実存の世界視線」と「客観化の世界視線」の二重性ということが人間の世界像の基礎をなしている。

現象学の方法では、まず私たちの「客観化の世界視線」をいったんエポケー(思考停止)する。つまり、「実存の世界視線」だけを残すように視線変更するのである。

ではなぜ、どのような目的、展望、射程をもってこの視線変更をするのか?ここで多くの人はフッサール解釈でつまずく。

現代思想は一言でいって「反=哲学」の思潮と言えるが、この流れ全体がヘーゲルやフッサールについての根本的な誤解の上に生じている。

現象学の還元の核心が説明されている。そして、記されているように、こうすることでどんな効果があるのか?現象学的アプローチの意義について本書はこの上なく詳しく説明しているのである。続きを見てみよう。

■メルロ=ポンティがいうフッサール現象学の意義
現象学の意義は、私たちを「生きられている生活世界」に立ち戻らせ、そのことで普段我々が意識することのない「自分自身を可能にしてくれている条件」を明るみに出すことにある。このことで、私たちはかえって自分自身が世界と歴史に内属しているその本質的なゆえんを深く理解する。だから自己自身を捉え直すことと歴史への内属ということはむしろ矛盾せず互いを支えあう契機である。

私たちの生は、実証主義的な視点、客観主義的な、科学主義的な視線からは捉えきれないものがあるし、そこに還元しつくすことができない。これは現代人なら大なり小なり抱く生の実感であり、この実感を徹底して思想化したところにベルクソンやポンティーの哲学の意義がある。われわれに自明になりすぎている世界のあり方、それがそのような仕方で現れ出ている理由を解明することで、私たちに世界の意味を深く教えてくれるのが現象学だ、みたいな。このような見方がこれまでの現象学支持の最大の源泉であった。

しかし、現象学の意義は、こうした反客観主義、反実証主義という点だけにとどまらず、哲学の本質的可能性である。

殆どの人が、フッサール現象学を近代的な主観客観の二元論の観念論的克服の試みであると捉えているが、それでは十分ではない。近代哲学の方法が観念論という方法を取ったのは、近代の最大の問題が認識の可能性の原理ということに定位していたから、そこに必然性があった。そしてこの近代哲学の観念論の方法の意義と限界を追求し、哲学のより深い方法原理へと鍛え直した。このことでフッサール現象学は今のところヨーロッパ哲学の方法原理として最高の地位を保つ。だから、哲学の方法をさらに展開するには、現象学の方法の本質を正しく捉え直し、ここを新しい始発点とする以外にない。

現象学は、近代哲学の中心問題であった認識問題、つまり認識の謎を解決しようという動機から発して、認識問題の原理論としてもっとも深い原理にまで達している。
これは一般的な現象学の理解を説明したものである。要するに、新しい世界の見方を示して、「あ〜なるほど、こうみると確かにしっくりくる」という程度の効用しかない。竹田はさらに推し進めて具体的にどうやって現象学を実践していくかを解説する。

その前に、まず現象学の哲学史での位置づけについて。それがなぜ今までで一番進んでいるのかを説明。

■現象学の方法の本質を明瞭に示す。核心的概念は現象学的還元。
第一に、フッサール現象学は近代哲学の中心問題であった認識問題についてこれまでのところもっとも本質的な原理を示した哲学であるので、そこに現象学を哲学原理として再認識すべき。第二に、現象学は認識問題についてその本質を解明しているのですが、このことは同時に哲学的には思考の原理論として最も進んでいるということを意味する。思考というものはさまざまな多様性が十分解放される条件があるときに優れたものが出てくるので、あくまで「思考の原理論」としてもっとも進んでいるということ。

そもそも哲学のもっとも中心問題が「思考の原理」であることは、近代哲学者たちの暗黙の共通理解であり、デカルト、カント、フィヒテ、ヘーゲル、ハイデガーなどはこのことに自覚的で、彼らの思考の根本原理を打ち立てるようとした。しかし、19世紀後半、とくにドイツ観念論哲学でこの考えがあまりにも行き過ぎ、始源、体系、絶対者などの概念が出てきて、その後の思想と哲学、とくに言語哲学やポストモダン思想では「哲学は思考の原理論」であるという考えに対する対抗思想になった。なので、現代哲学、現代思想はこの意味で全般的な「反=哲学」の思潮。

しかし、個人的には(竹田)たしかに行き過ぎたところはあっったが、哲学の考えとしてはやはりカント、ヘーゲル、フッサールの考えのほうに正当性がある。反哲学の考えは、動機は理解できるが、結局
「普遍性の洞察」という知の本質を相対化して喪失するものであって、まさしくフーコーが「言葉と物」で示したように、普遍性の感度を失った現代の不安の意識の現れだと言える。

ウィトゲンシュタインの新しさは伝統的な観念論の方法を捨てて、形式論理の方法で認識問題を徹底した点にあり、この枠組の中ではゆきつくべきところまでゆきついている。しかし、原理的には、現象学のほうがより根本的で、その理由は、認識問題をもう一度観念論の方法にさし戻した上でその限界を克服したから。
このように現象学は、形式論理で徹底したウィトゲンシュタインをも包括するさらに原理的な思考なのである。では、次に、現象学のコアである現象学的還元とは何か?

■現象学的還元
私たちは普段、世界を自然な「客観的視線」で見ているが、これを「自然的態度」と呼ぶ。そして、現象学的還元では、この自然なものの見方をいったん止める(判断停止)ことを意味し、それは超越論的還元と呼ばれる。人間は基本的に二重の視線を持っていると述べた。「実存の世界視線」と「客観化の世界視線」であるが、これを使っていうと、現象学的還元とは、私たちはこの二重の世界視線を持っているけど、いったんこれを片方に、つまり「実存の世界視線」に置き戻せということ。

どういうことか。例えば、幼い子どもがかくれんぼで頭隠して尻隠さずという状態になることがある。自分の視界から相手が見えないので、相手からも自分が見えないと思ってしまう。しかし、徐々に子供は相手と自分の位置関係を客観的に思い描き、この創造的視線によって相手の視線からすっぽり身を隠すという能力を身につけていく。

ところで、この場合も人は、実際に「客観的視線」を手に入れるわけではない。彼が実際にもっているのはあくまでも「実存の世界視線」である自分からの視線だけだが、しかし経験によってそれから「想像的=客観的な視線」を構成する能力を身につけるわけである。つまりこの「想像的=客観的な視線」が、ここでいう「自然的、客観的な態度」である。フッサールが自然な世界を還元せようというとき、それが意味するのは私たちのもっている「客観化の世界視線」は、実際は「実存の世界視線」から構成されているから、これをいったんすべて「実存の世界視線」(自分からの視線)に置き戻すことができる、まずそうしてみよ、ということ。これが自然的態度を判断停止して純粋意識に還元するということである。
これでだいたい現象学的還元がどういうものかわかっただろう。では、なぜこの還元をするのか?なにがいいのか?

では、なぜそんな視線変更をする必要があるのか?ほとんどの解説はそこがあいまい。
エポケーによって残ることになるのは、結局「一つの絶対的な存在領圏」である。それはそれ自体で、世界の客観性とは関係なしに、絶対的に存在するような領圏である。それを私たちは「純粋な意識領圏」と呼ぶ。それがいわゆる現象学的エポケーによって残余するもの。これは原理的に新しい探求領域である。この領域は、じつは実在的世界だけではなく、およそ認識の世界、哲学の世界の妥当性なども、ここに土台をおくようなそのような領域である。

薄暗がりの中に白い紙がある。この紙の部分部分を見たり触ったりすることで、はじめははっきりしないこの紙の全体のありようを、徐々に確かめていく。つまり、一枚の紙を具体的体験として知覚していく。こういう部分部分を確かめつつ進むという体験をコギタチオ、意識体験と呼ぶ。

その体験の中で、一枚の紙そのものを常に意識している。この常に意識されている全体としての、同一のものとしての紙そのものはコギタチオではなく、コギターツムと呼ぶ。

さらに続けて、還元から何が取り出せるか?

一つの知覚体験を自分の意識体験として内省によって記述してみよう。するとそこにはどういう本質構造を取り出すことができるか。
1,実際には私はつねに対象の一部しか知覚していないが、それを対象全体として、あるいは対象全体の一部として知覚している、ということ。つまり、我々が現に知覚しているのは一部だが、それを通して常に全体を志向的に知覚している。ということがまず取り出される。
コギタチオーコギターツムという構造がある。現に知覚しているのは常に一部、だがそれを通して全体対象を志向的に体験している。
2,物の知覚には、中心的対象の知覚とその周りの背景(意識の庭)という構図がつねにある。
3,知覚体験には、ちょうど暗いところを懐中電灯で光をあてて物を見るように、主体の側から注意を向けること(配慮)という側面がある。注意、配意という主体的な中心点がある。

これらは少し内省をやってみると当たり前で、誰でも知覚という体験を意識現象として見つめるとこのようなことが一般生として確認されるはず。このような例が還元の核心的な実際例で、あとはそれをどんどん顕微鏡で倍率を上げるように細かくしているだけといえる。

現象学的還元とは要するに、ある「体験」を「意識の経験」としてもう一度見なおしてみるということ。例えば、「りんごを見る」という体験を「意識」に生じていることがらとしてはどういう事態として記述できるか。これがもっとも重要な原則。あとはどんな複雑なことも同じ。たとえば、身体を動かすという体験、または身体で様々な事物を感じるという体験を、「意識」に生じていることがらとして適切に記述できれば、それが身体体験の現象学的還元となる。

しかし、ここには困難がある。「身体」を動かすという体験を適切に記述することは可能か、ということ。なぜなら、身体体験一般は概念的な事態ではなくまさしく感性的事態だから。感性的事態とは、友達の顔の表情を適切に記述せよと言われた場合が典型的でありこういったものを正確に言葉にすることはできない。言い換えると、感性的事態においてその表象様式は無限。

フッサールはこれについて、「意識体験の本質」を取り出すとか、「意識のアプリオリ」を把握する、とかいう言い方で答える。さきの3点を思い出してほしい。そして、この取り出しが意味しているのは次のこと。すなわち、フッサールが「意識の本質」を把握せよというとき、それはつまり知覚体験において誰にとっても共通項として取り出しうることがらを記述せよ、ということを意味している。

現象学的還元は私の意識に生じている体験のありようをやみくもにありのままに記述するのではない。そんなことは不可能に決っている。私の意識に生じている体験のありようから、他者にとっても必ず生じているはずだと考えられるもの、すなわち共通項を取り出す作業が、知覚の現象学的還元であり、意識体験の本質或いは意識のアプリオリを把握するとはそういうこと。

だから、なぜ還元するのか?まだ核心を説明していないので、もうすこし見てみよう。
 
もっとも肝心なのは、なぜこのような意識体験の共通構造=本質構造を取り出す必要があるのか、ということ。それは、「確信成立の条件と構造」を解明するため、というのがその答えであり、このアイデアが現象学という方法の最大のメルクマークなのだ。この根本アイデアが現象学を近代哲学の根本問題であった認識問題を解明させ、この根本アイデアが現象学を哲学的思考のもっとも進んだ原理論たらしめているといえる。

今、還元という方法の内実を説明した。それは、一切の体験を意識経験として見て、その万人にとっての共通構造(本質構造)を取り出すことである。それ以外の神秘的な意味はない。イデーン、危機の中でフッサールは、意識経験一般の共通構造を取り出すことが哲学の根本的端緒、原理を確立することにつながり、真の哲学の無限に開かれた土地の根本的土台を切り開くことになる、さらにそれは世界の意味についての根本的な解明の基礎となる、と言った。フッサールは、現象学的還元の方法が、ヨーロッパ哲学の根本問題である認識問題を完全に解明するアイデアであるという確信を持っていた。

認識問題を解明するには、人間の認識の構造を信憑構造として捉え、この構造の共通本質を取り出せばよい、という思想的直観をフッサールは持っていた。

ではなぜ「確信成立の条件」の解明が認識問題を本質的にとくことになるのか?

カトリックとプロテスタント、自然科学とキリスト教、自由主義と社会主義などの信念対立を克服する考え方の原理を現代哲学や現代思想はまだ明確に提示できていない。

認識問題の核心とは正しい世界像というものはあるのか、それともそういうものは全然ないのか、そうだとすれば人間にとって正しさとはどのように考えられるのか、これが核心。そうするとこれがまさしく現代的な問題であることが理解されるはず。なぜ世の中に多様な世界観が生じ、すなわち「正しさ」についての信念対立が生じるのか。またこの信念対立は克服されたり調停されたりする原理を持つのか。この問題を解明する原理を取り出すことができれば認識問題は解かれたと言える。
もう分かってきただろう。続ける。

信念対立の基本構図
ここにA、B、Cの三人、もしくは三つの共同体があるとしよう。それぞれが、A、B、Cという異なる世界観を持ち、それが正しいとする信念を持つ。この場合、どのような思考が可能か?


1,このうちのどれかが「正しい」とする思考。これがまず一般的には誰もがそう考える素朴な世界観。この場合、残りの2つは虚偽の、或いは悪の世界観だということになる。宗派的世界観のモデル。
2,どれも間違っていて、「正しい」考えはどこか他にあるとする思考。神のみぞ知るというもので、カントモデルといえる。
3,「正しい」世界観など存在しない、あるのは「強力な世界観」だけである、という思考で、ニーチェモデル。

現代の私たちの思考は、3のニーチェモデルにますます近づいている。この思考は、真理など存在しないという懐疑主義、相対主義ということ。しかしこの思考には大きな弱点がある。それは、この言い方では、「普遍性」の概念が成立せず壊れてしまうということ。「真理」の概念は現在では廃棄されても不都合はないが、「普遍性」の概念は別。たとえば、自然科学の知見は明らかに普遍的なものだし、私たちの「人間」「文化」「善悪」「美醜」といった概念は、絶対的なものではないけど大枠の普遍性を持っている。相対主義ではこのような現象をまったく説明できない。

そこで、フッサールが現象学的還元の方法に直観していた「認識」一般を「信憑構造」として捉える、という考え方を置いてみよう。重要なのはフッサールの直観は、いってみればニーチェの客観世界などはないという考え方をさらに一歩進めたものである。客観世界が存在しないという前提だと、これらのABCの世界観はABCのそれぞれの確信(信念)であるということになる。

しかし、確信であるからには、それぞれがその世界観を確信するにいたる条件があるはず。なぜなら、人間の確信や信念というものは、けっして恣意的なもの、単なる思い込みではなく、必ず一定の構造的条件をもつものだから。

では、確信成立の条件とは?

 
例えば、今、明日が何曜日かを言ってみてほしい。例えば、「日曜日」だとする。それは強い確信だろうか?強いはず。なぜか?それは自分の中で強い確信といえるその理由、条件を取り出してみてほしい。もしそれがうまくできれば還元という方法は理解されていると言える。

ある記憶の確信条件は、現象学的に還元してみると必ず一定の度合いで取り出すことができる。明日何曜日か考える場合、いろんな記憶や像が浮かんでくる。例えば、今日は土曜日だと確認した記憶や、土曜日なので寝坊したとか、いつものカフェに言ったとか、街が土曜日なので静かだったとか。こうして何度確かめても確実性をともなって浮かんでくる場合、明日は日曜だという確信を強めていくのである。

このような内省にようる還元を応用すると、今度は世界観の一般的な確信条件の輪郭を取り出すことができる。例えば、世界は神が創ったものであるという宗教的世界像の確信は、生育時のまわりの言説、教育などを一般的条件とすることは明らか。人によってばらつきがあるが、たとえば完全にキリスト教圏に育った人間が何の理由もなく突然仏教の世界観をもつようになることはありえない。さまざまな物語を通して世界の信憑像を作ってくのだ。

先の、A〜Cの世界像は、必然的に共通了解が成立している領域Xと、共通了解が成立しない領域V1,2,3に区分される。そして世界像のこの構造は必然的な共通構造、本質構造なのである。現代に近づくほどXの領域は拡大することは明らかで、それを代表するのは自然科学的な世界説明の領域、数学、シンプルな論理学的原則の領域など。これにたいしてVの領域はどういうものかすぐ分かるはず。宗教的世界観、それぞれの美意識、倫理感覚、価値観など。

ひとことでその共通性の根拠をいえば、人間の「類身体性」ということになる。また、数学や基本的な論理学の領域の共通性の根拠は、概念、理念における表象の構造の共通性である。身体性や概念、理念の表象の基本構造は、文化や宗教や風土を超えて大きな共通性があるということ。

こうして世界認識一般を主観ー客観構造と考えるのをやめ、信憑構造として考える発想をとれば、従来の正しい認識、すなわち真理という概念が根本的に変更されることが分かる。まさしくニーチェがいったように千の民族に千の真理が存在するわけだが、その理由は、人間の世界像一般が共通了解の成立する領域とけっして成立しない領域の区分という本質構造があるから。
こうなると、もうそれぞれの人間の主観的世界を相互承認しあうしか無いことが分かる。さらに、認識問題がそもそも根本から覆る。

現象学による認識問題の書き換え
(1)絶対的な真理は存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、私たちがいう真理とか客観というものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、絶対的な真理、絶対的な客観は成立しない。

(2)
しかし、そのような真理や客観がまったくの無根拠であるとは言えない。そのような領域、つまり共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密学といいったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。ニーチェやウィトゲンシュタインを含め相対主義や懐疑主義な思考の系譜は総じてこの領域について適切な解明を行うことができない。

(3)
共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界観、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとするイデオロギーとなる)美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

(4)
しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想対立を克服する可能性の原理が現れる。すなわちそれは、世界観、価値意識の相互承認という原理である。たとえば世界観はその本性上、絶対性をもたず仮構的なものだから必然的に多様性を持つ。しかしまた世界観は人間の世界理解の基本構造なので存在しないわけにはいかない。だから宗教的世界観を廃絶することはできないし、絶対的に一元化することもできない。これは社会的な価値観、人間的価値観も同じ本質を持つ。

(5)
ゆえに、異なった世界観、価値観の間の衝突や相克を克服する原理はただ一つであることが明確になる。すなわち、そっらの多数性を相互に許容しあうこと、言い換えれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして相互承認することだが、この世界観、価値観の相互承認は近代以降の自由の相互承認という理念を前提的根拠とする。自由の相互承認が各人の相互的心意によっては確保されず、ルールを必要とするのと同様に、世界観と価値観の相互承認も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。

これらが、認識一般を確信構造と見做す現象学的な視線変更による、認識問題の決定的な諸帰結。重要なのは、ここではかつての認識問題の本質が根本的に書き換えられているということ。認識という概念にとって重要なのは、もはや主観(認識)が客観(世界そのもの)に合致するか否かということではなくなる。認識とは真理を発見していくととではなく、人間が世界についての共通了解を関係的に作り出してゆくおとであり、近代科学の広範な成立はまさしくそのような努力の進展であったことも理解される。    

ということで、認識問題やあらゆる哲学問題が片付いたのである。片付いたというか、全体を見渡せるより強い原理を見出したのである。もう一回自分なりに現象学のメリットをまとめよう。

1,単純に知的好奇心的に面白い思考である
2,あらゆる哲学問題や難問を説明できてしまう原理的な思考である
3,何か目的があれば、どうすべきか道筋がみえる(世界平和というでかい目的から、普通のマーケティング戦略にも)

私は、確信がどのように形成されるかを、仏教の唯識論をモチーフにした考えを軸にさらにブラッシュアップした。さらに唯物的世界観を織り交ぜ、風土から物理的に確信が形成されることも描き出したいと考えている。 

中国ではブランド品を始め、日本のマンガ・アニメなどの海賊版が蔓延っている。ルイヴィトン、PRADA、シャネルなどの模倣品は至るとろろで売っている。私は職業柄に、アニメの著作権侵害には多少敏感である。日本のゲームなどのコンテンツを中国展開する際に、中国市場にあふれる海賊版ゲームの存在は痛い。最近は諸事情で少なくなったが、以前は尾田栄一郎氏の「ワンピース」の海賊版は中国のApp Storeの上位100に10個くらいあったのではないか。

日本のコンテンツ業界の人は、決まってこうした中国のあり方に対して、民度低いなあ、みたいな呆れた顔をする。そして、その後は何もない。

私はこういう日本人にこそ呆れてしまう。こういう著作権を侵害されていることに対して何もせず、ただ被害者ヅラして呆れているのは、思考停止の日本人の多くに見られる。そもそも、「なぜ、ワンピースの絵を勝手に使って中国でゲームを作って販売したらだめなの?」という問いに「法律で決まっているだろう」という超適当なレベル以上の回答をできる人がどれほどいるのだろう。

そもそも、日本人が著作権侵害について「知っている」のは、幼いころから人の真似はダメ、とかいう教育の延長で、それと新聞とかで見た「著作権侵害」についてを合わせて理解している程度だろう。体系的に著作権法について学んでいるわけではないし、それがどのように実務や現場レベルで実行されているのかも知らない。本当に理解するには、著作物とは何か?表現とは何か?個性とは何か?法律とは何か?法律に違反するとは?著作権法とは?国境を超えての法的問題は?法治国家とは?憲法とは?契約とは?社会契約とは?民主主義とは?キリスト教とは?などなど根本を理解するには広い知見が求められる。さらに机上の空論だけでなく実務ではどうしているのか、過去の事例にはどのようなものがあるか、など幅広い。

中国人の多くは、教育や育った環境で「著作権」という概念や「その侵害」という概念を教わっていないので、しょうがない。日本人が憲法とは何か、法治主義とは何かをしっかり教わっていないので、それについて全く理解できずに法治国家、民主主義国家ズラしているのと何ら変わりはない。著作権という概念を知ったかぶりし、それを知らない日本人は、まるでのび太くんがタメくんを苛めているようなものだ。(タメくんを知らない場合はこちら) 

20世紀の素粒子理論をリードし、「物理学の予言者」と呼ばれた米シカゴ大名誉教授の南部陽一郎氏が7月5日に逝去された。私は物理については素人であるが、今年に入って高校物理から始め、宇宙論や量子論、超ひも理論などの本を結構読んできた。到底理解できたとは言えないが、その世界に魅了され、今でも時間があればその方面について学んでいる。

どの本を読んでも必ず南部氏の一人抜きん出た存在に触れられている。 南部陽一郎の名を抜きにしては、現代の素粒子理論を語ることはできない。クォークが多次元の「ひも」で結ばれているという「ひも理論」も、湯川秀樹の中間子理論を大きく進化させた「色の量子力学」も、素粒子の質量を決める理論である「ヒッグス機構」も、そのどれを取っても最初の発端は南部のアイデアであるらしい

なぜ彼はここまで世界をリードする物理学者になったのか?私は南部氏の問題意識が軸にあると思う。「モノにはなぜ質量があるのか」という物質の根源を問うテーマを氏は生涯追い続けた。 これは人はなぜ生きるのか、この世界は何なのかという哲学的問いに近い、超根源的な巨大な問題で、それに自然科学で真っ向から挑戦したのである。こういう問題意識を持った人は多数いるであろうが、南部氏の徹底ぶり、その純粋な好奇心、負けん気は群を抜いていたのだろう。

まっすぐな真摯な態度。ふと、プロゲーマーの梅原大吾氏を思い出した。いくつか彼の名言を引用しよう。

「何も考えずに、自分のセンスと運だけを頼りに歩いてきた人間と対峙すると、相手の動きがチャラチャラと軽く見える。性根が定まっていないこと、さらには綿密な分析に基づいた動きでないことに、すぐに気がつくのだ。」


「普通、人はこっちの方向に何かあるはずだと当たりをつけて進むものだと思う。しかし、僕の場合は自分の足で全方向に歩くようにしている。正解がどちらの方向にあるのか、迷う必要すらない。全ての方向を探り尽くすから必ずどこかに正解が見つかるのだ。」


「真似されてもなんとも思わなくなった。生み出した特許よりも、新しい特許を生み出す力のほうが遥かに重要なのだ。ビジネスの世界で言えば改良品を生み出し続けるエネルギーとか、今まで商品化されていなかったが、確実にニーズがあるものを形にし続けるアイデア力とか、誰も気がつかない隙間を突くようなマーケティング方法を開発し続ける力のほうが、過去に一度だけ生み出した商品・戦略そのものよりも価値があるのではないだろうか。」

南部氏の取り組みもこうした「徹底」から生まれたのであろう。(余談であるが、梅原大吾氏は、この熱意をゲームではなく、人類の発展に向けてほしい)南部氏の凄さについては私はほんの一部しか理解していないだろう。今後も量子論の分野に注目していきたい。

最後にノーベル賞を南部氏と同時受賞した益川氏のコメントを引用。

南部さんが意識的に日本を離れたのは、「群れることを嫌う」気質のためでしょう。南部さんの成功を囲んでみんながワイワイがやがやっている時、本人は次の所へ行っている。

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