記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年08月

私は平日、週末問わず毎日基本7時から9時はカフェで読書をする。さらに昼休み、仕事後もいれれば毎日4〜5時間は読書をしているだろう。既に4年くらい続けている。結構ちんたら趣味で読んでいる体も否めないが、新しい知識を学びそして何かおもしろい発想をしたいと心から思っているからやっているようだ。

そんな自分なので先日、渡部昇一の「知的生活の方法」という本を非常に楽しく拝読し感心した。3箇所とても興味深い部分があったので紹介しよう。
たとえば夜の10時ごろから翌朝の6時までといえば、ちょうど8時間ある。〜しかもこの8時間の特徴は、外からの中断が絶対にないということである。電話がくることもなければ、訪問客もない。速達郵便も小包もこない。絶対の静けさである。そして疲れたら、いつでもふとんにもぐりこめばよいのだ。
 
中断されるおそれがなく、時間はほとんど無限に自分の目の前に広がっていると感ずるとき、知はまことにのびのびと動く。いつ電話がくるかもしれない、などという気持ちが意識下にあるときは知はその自由な動きをすでに失っているのだ。
これは常に思っていた。実は私も深夜が大好き。しかし、身体に悪そうで生活リズムが保ちづらいことを懸念してずっと避けてきた。この「時間はほとんど無限に自分の目の間に広がっている」という感覚は絶妙な表現である。私も休日の午前からカフェに行って読書や執筆をするときにこの感覚を味わう。新しいことがどんどん生まれる。今これを書いている金曜の夜というのもよい。

ちなみにこの後渡辺昇一も夜行型で朝6時まで作業することが書かれている。彼自身も健康によくないという意識があるようだが、このような知識人が実際に長いことこのような生活をしているという事実は励みになる。私も健康を恐れず、そのような生活をしてみたい。ただ、それはどのような仕事につくかにもよるのだが。

次の部分。
 
コールリッジは、「クラブカーン」という、英詩の中で最も美しいと言われる詩を書き出し、50行目にいたったとき、誰かがやってきて扉を叩く音を聞いたのである。コールリッジはペンを置いて席を立った。つまらない用事で、数分間ぐらいの中断にすぎなかったであろう。しかし再び机にもどってきてみると、もはやさきの詩のイメージはもどってこなかったのである。かくして甘美の極とも、あるいは天上的とも言われるコールリッジの作品は未完のままになっている。

同じく、長時間が絶対的に確保されていることの重要性。「中断」というのはとんでもなく創造的な仕事を破壊する。時間のエンドがあるときの作業は捗るが、創造的なことはしずらい。何かが気になっていてはいいものが生まれない。最初の職場では至るところから中断があり、かなり創造性を奪われていたが、ああいうところにいると、その中断があるかもしれないという意識がデフレスパイラル的に創造力を低下させる。

最後、ヨーロッパの食事について、青天の霹靂である。
 
カントの昼食時間の長いのに驚く人も多いであろう。それは通例は3時間、時には6時間続いたのである。カントの同時代のインテリは一般的に主要な食事の時間が長く、同時代のフリートリッヒ大王の食事も7時間ぐらいつづくことが多かったという。
なぜそんなに長く続くのかと言えば、会話が活発だったからである。これこそよき時代のヨーロッパの特徴であり、今日の日本の知的生活において決定的に欠けているものなのである。カントはしかつめらしい哲学者だったのではない。座談の名手なのであって、その話を聞くために、実業家たちも貴婦人たちもわれを争って訪問し、かつカントを自宅に招いたのであった。一方カントから言えば、ここでいろいろの人からさまざまな話を聞き、また思いがけぬ質もなどを受けて自己の思想の栄養としていたのである。カントが特に親しく交わった人にイギリスの商人がいたことなども注目に値しよう。

食事を6時間もする、という概念が自分にはなかったが、6時間もしている人がいることを知り、その事実はすんなり理解できる。たしかに、思想や科学の話など話し出せばきりがない。私も数少ないこうした話をできる友達とはいくら時間があってもたりないと思う。しかし、そのように長時間話すことを狙って食事を設定したりすることはあまりなかったので非常に新鮮な感覚である。そういう慣習が社会にあることは、人間社会の発展にとてつもないポジティブな影響がありそうだ。こうしたことができる人間関係や社会に身をおきたい。

以上、若干博識自慢が気にかかる部分があるが、知的生活に対する渡部昇一の考え方がよく良書である。


 

現象学とは何かと考えると、それは他の思考アプローチとは別の部類に入ると特別な思考法かと思われているかもしれないが、そうではない。同じ思考法の一つであるが、その保守的なアプローチ、根拠を常に確認しながら進める謙虚な姿勢が、ひときわ特殊な感じを醸し出すのだろう。

フッサールの「現象学の理念」を竹田青嗣は以下の著書で非常に分かりやすく解説している。



主観は自分だけの世界であるが、フッサールはこの主観のうちに誰も疑い得ない確実性の契機を見出した。デカルトのコギトである。この領域を絶対的な所与性や第一の認識と呼び、共通了解の基礎として展開していく。核心部分はこれだけである。これが具体的に、またこれまでの哲学を踏まえ分かるように展開しているのがこの古典である。


今、目の前であなたは私のブログを読んでいる。PCなり携帯の画面という視覚情報が意識にあること、それ自体は疑うことができない。もちろん今見ているのが「画面である」とか「ブログだ」というのは客観的なことなのか確実ではない。そういう疑えない領域があり、ここを出発点にして他人と共通了解を得て行く可能性を唱えたのだ。

そしてこの確実な領域には実的内在と構成的内在があるとする。それは四角い明かりの中にゴニョゴニョ線がある視覚情報としての「実的内在」と、それが携帯の画面であるという意味的な了解(勝手に出てくる)である「構成的内在」があるという。後者も到来的に出現するので確実な疑えない部分に入るというのが味噌だ。こうしてその後者がどういう信憑構造であるのかを問うていくことでいろんな問題に応用できる。

しかし、もう信憑構造がどうなっているとかいう時点でもう他の哲学的方法と同じである。それは、やはり確かめようがないし確実とはいえない。ただ、この考えは、こうした不可能性を前提に、最も保守的で謙虚な態度だと私は思う。 全く違うバックグラウンドを持つ人との共通了解を得るにはこれが最も可能性のあるアプローチであることは間違いない。

もっとラジカルなことを言ってしまえば、認識、確実、共通了解などといった概念もそもそも人間が獲得してきたものである。もっといえば言語も。それらを使って絶対的なもの(これも人工的)を見つけるなどというのは本当に言語ゲームでしかない。ウィトゲンシュタインはこうしてこの人間の限界というか、普通のあり方を実感したのだろう。

2015年8月27日、世界陸上北京大会の男子200メートルで優勝したウサイン・ボルト(ジャマイカ)が、とんだアクシデントに巻き込まれた。レース後、ウイニングランするボルトは場内の歓声に応えたが、この際、後ろから来たカメラマンが乗っていた電動立ち乗り2輪車「セグウェイ」の転倒に巻き込まれた。尻もちをつく形となったボルトはその後、後方に一回転して起き上がり、カメラマンを気遣う様子を見せた。

この件についてボルトは記者会見で「カメラマンは謝ってくれたし、大したことじゃない」とコメント。「あの時頭をよぎったのは、自分が保険に入っていただろうかということ。起き上がって問題がないことが分かり、安心した」と語った。

この報道のされ方は日中で大きく異なる。(特にこのニュースが発生した最初の段階で) 

中国人に最も見られたと思われる報道はwechatに配信されるテンセントからのニュース情報だろう。そこには、「博尔特世锦赛夺冠后被摄影车撞翻 现场倒地四脚朝天 」というタイトルで、意味は「ボルト世界陸上優勝の後、カメラマンの車に轢かれすっ転んで天を仰ぐ」みたいな感じ。そして内容の重点は、この後のボルトとガトリンのユーモアあるやり取りである。

ボルト「ガトリンがオレを殺すために仕組んだ陰謀だ」
ガトリン「やつはミッション遂行できなかった。金を返してもらう」

ちなみに日本の報道は中国への批判を示すものが目立つ。Yahooニュースで検索すると、「中国のカメラマンに世界中から批判」「カメラマン反省の色なし」のようなものが多い。ガトリンとのやり取りに言及しているのは中国系のメディアや1,2日後に報道されたものだ。

日本のメディア、確かに危ない事故に繋がりかねないのも事実だから批判するならするでいいが、もっとセグウェイや世界陸上の運営などの方針に深く切り込むべきだ。ただたんに、中国でのミスを見つけて、中国人の行儀の悪さやレベルの低さを喜んでいるようにしか見えない表現が目立つ。日本のメディアも現地に沢山いっているのだから現場でしっかり取材して意義ある情報を国民に伝えよう。 

哲学の本質。

竹田青嗣と苫野一徳との対談
に哲学をやる上で重要なことが語られている。


竹田: 
でも、途中で哲学をやりたいって言い始めてから、その目にらんらんと光が宿ってね。それからですね、私が厳しくやったのは。

 哲学をやるんだったら、とにかくまずはじめの1年で、主な近代哲学者を全部読む、というのが原則なんですね。だからずいぶんたくさんノルマを課したけど、彼はどんどんそれをこなしていきました。

 そういうノルマが厳しかっただけで、あとはもう愛情に満ちていた、と私は思うんですけど。

苫野: 

そうでしたか。いや、そうですよね(笑)

 しかしこの修行が、中々厳しいものなんですね。『世界の名著』シリーズっていうのがあるんですが、この中の哲学書は、まずは基本文献だから1年でほぼ全部読め、と。それで、かなり詳細な、平均3万字くらい、時に5万字を超えるレジュメを毎週1~2冊作って。そしてそれをもって、竹田先生と議論する。

 そんなのが週に1~2回あってですね。このノルマを達成できなかったら破門されるんですよ(笑)

竹田: 
哲学というのは、本気でやるなら、いままでの予備知識をいったん全部棄てて、はじめから時代順にしっかりレジュメを作って読んでいく必要がある。その哲学者の言わんとする核心点を一つずつキチッとつかみ取って、積み上げていかないとだめなんです。

 私にも経験があるけれど、特に若いころは、「世界-内-存在」とか「純粋意識」とか「純粋持続」とかいう哲学の概念に、簡単にやられてしまう。つまり、自分で勝手にその概念の深遠なイメージを作って、「これはこういうことを言ってるに違いない」と。

 でもそれは、あとから見るとよく分かるけれど、ほとんど全然違ってます。理由があるんです。哲学は、後の哲学者が、前の哲学者の原理を受けて、これをもっと普遍的なものに前進させていくゲームです。ヨーロッパ哲学はそうなっている。

 だから、しっかり順番に少しずつ積み重ねていって、そのことで自分の思いつきをむしろ全部取り外していくんですね。そのことで、はじめてその人の本当の考える力が出てくる。

 それをやらないとどうなるかというと、いろんな難しい概念や理屈の言葉だけため込んで、それを自分の直感に合わせて便利に使いまわすようになるんです。だいたい、そういうことから免れているような知識人がとても少ない。

 そうなると哲学は、単なる知的権威の道具になる。哲学は死んでしまうわけです。

苫野: 
それが、「教養を重ねる」っていう、本当に重要なことなんだと思います。

 人間って古今東西、みんな似たようなことを考え悩むんですよね。なので、「自分はすごいことを考えたぞ!」みたいなことを思っても、過去の哲学者たちが、実はもっともっとすごい形で解いてるんですね。

 それを知らずに、俺はこんなこと考えた、すごいだろ、みたいなことを言ってるのは、すごく虚しいんです。だからやっぱり、過去の哲学の教養を徹底的にためこんだ上で、その次の一歩を出さなきゃいけない。

 ところが問題があって、その過程で、自分がどんどん壊れていくんですよ。なんだ、自分の考えなんて、しょせんこの程度のものだったのか、と。

 でもこれは、ある意味では必要なプロセスだと思います。そしてある時、竹田先生がこんなことをおっしゃったことがあって、なるほどすごいなと思ったことがありました。「壊れて壊れて、でもなお、自分にはこれが残った。それを見つけることができれば、お前は哲学者になれる」と。

なかなか哲学も厳しい世界のようだ。私も正直、原本すら読まず解説本だけで分かった気になっている哲学者からみたらとんでもないやつだろう。ただ、私は昨年自分で本を書いてかなりいろいろ思考したので、結構それぞれの哲学者がいうことが理解できる。恐らく誤解もあるが。

それとは別に、そもそもなぜ過去の哲学者を順にやっていかなくちゃいけないか、というのは別の理由があると私は考える。

普通の人はこう考えるだろう。現代に生まれた人が読書など一切しないで自分の経験だけで鋭く深く世界観や人間観を描けば、それは過去の哲学者の流れの中に入り、その人も哲学者になれると。たしかに、その可能性もあるのかもしれないが、そもそも多くの人が納得できる、ということは多くの人と共通した土台が無くてはならない。そして全ての社会の人間は無意識的に過去の哲学者の影響を受けている。ノンポリだろうと、社会にいる所属している時点で考え方や善悪を学んでいる。そしてその社会の軸を作ってきたのは、支えてきたのは過去の哲学者だから。

これは、幼いころにマクドナルドを食べたから、大人になってそこまでうまくなくてもマクドナルドが食べたくなるのと同じ。なので、全く0から作った世界観は万人受けしない可能性がある。ただ、その可能性があることには期待したい。

昨日に続いて東浩紀さんの鋭い発言についてまとめ、コメントしていきたい。

今回はこちらのcakeの記事。 

まずは、東浩紀ってどんな人、ということ、

僕は大学生のころは哲学を学んでいました。東京大学大学院の博士課程を修了しています。専門はフランスの現代思想です。ジャック・デリダというフランスの哲学者についての論文などを書いていました。『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』という初めての単著で、サントリー学芸賞をいただいたりもしました。 大学院生になったのは1994年。そのころから徐々に、インターネットのビッグウェーブが日本にやってきたんです。 

そのころからネットを起点として、大学の権威などが崩れ、ポップカルチャーが台頭してきました。僕もその波に乗って「新世紀エヴァンゲリオン」などのアニメなどを見て、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』という新書を書いた。すると、この本がけっこう売れて、僕はサブカル評論家みたいに見られるようになりました。これが2001年、30歳になるあたりの話です。

もこのあたりで、大学で研究者をやっていても意味がないし、サブカル評論家になりたかったわけでもなかったので、一体何をしたらいいんだろうと思い始めるんですよね。

そうだったのか。大変個人的な偏見で恐縮だが、ジャック・デリダをやっているあたりが、知識と専門用語でパンピーをけむにまく的な志向があることを感じてしまう。まあだいぶ前のことなので今は分からないが。あのへんのフランス現代思想ってなんか相対主義におちいってとりあえず何か難しい言葉で粋なこと言っとけみたいな 雰囲気を感じていしまう。

かつて哲学や文学の研究者が大学にいたのは、図書館がないと研究できなかったからなんですよ。でも、インターネットによって、情報が大学に集中している状態ではなくなるだろうと思ったんです。


たしかに、その通りであるが、本当に彼がそう実感していたのかは謎。「ロジカルに言語的にそういえる」ことと、実際の物理空間でその場でどう感じるかは別のこと。

閉塞感もあるし、とにかく大学に居続けるのはよくないなと。でも大学が嫌だからって、大学の外で何をやるというのも特になく、ぽややんと生きていたのが30代ですね。社会的なことはあまりしていませんね。メディアに出たりツイッターを始めたりしたのは30代の後半かな。ああ、2009年には『クォンタム・ファミリーズ』という小説を出して、三島由紀夫賞をとりました。でも全体的に30代は、なんかこう、自分探しをしているような、長い夏休みのような状態だったんですよね。

やはり、真となるものを確信できていないようだ。東浩紀さんのような知識人は大学にこもって生活しているし、社会との接触にしてもいっぱんのサラリーマンなどの労働者とはちょっと意味合いが違うと思う。学者として社会に接すると、いくらその頻度が多くてもどうしても客観的にそれと接してしまうだろう。主観をいきるという経験が乏しくなり人間の生を実感できていなかったのが小説家への道に繋がったのではないか。

2000年から始まるゼロ年代って、90年代から続く失われた20年の後半部分ですよね。少子高齢化も進んで、日本もこれから滅びていくだろうという予感の中で、社会全体としてやる気がなくなっていた。ゆるくて楽しいけど、確実に終わりに向かっていっている。そういう時代の空気がてきめんに僕にも反映されていたんです。

—— 時代の空気は、どうしても入り込んでくるものなんですね。

それは、僕だけじゃなかったと思いますよ。ゼロ年代に30代を過ごした文化人や知識人で、その時期に活躍している人はあまりいないと思います。あと、2000年代に入ったころから、僕は情報に情報を重ねていくだけの仕事に飽きてきていたんです。

—— 情報に情報を重ねる仕事ですか。

文学とか哲学の研究って、本読んだり映像見たりして、なにか書く。それだけなんですよ。そういう情報操作だけをしていることが、僕は退屈になったんです。で、30代の後半で子どもができてからは、だいたい年に2回くらい、1週間から半月くらい家族で海外に旅行するようになりました。

外国に行くと、いろいろな場所に足を運んで、体を動かして、見たり、聞いたり、嗅いだり、食べたり、さわったりするでしょう。そういうほうが楽しいな、と思ったんです。そして、そういう感覚を言葉にするには、評論には限界がある。だから、僕は小説を書いたんですよね。 

やはり哲学や文学に対しては若干否定的にみているようだ。こうした情報空間を軸に生きていると、そりゃ旅行とかで現実の物理空間に触れたくなるのだ。東浩紀さんは自分で会社を経営したり、知識人の中でも社会への主観的繋がりが強いほうだと思うが、あまり情報空間で思考しすぎると物理空間での自然な生き方がわからなくなる。

もう東浩紀さんは関係ないが、私は物理空間で主観的な生活にリアリティを置き、複雑化した社会を読み解くために情報空間で思考するという生き方をすべきだと、最近常々思う。この辺りを今後詳しく模索していきたい。
 

僕は高校の頃、学校で「動物化するポストモダン」を読まされて以来、東浩紀とは何者だ、何か難しいことをいう偉そうなやつだと思っていた。


というか、高校でこんなん読ませるなって感じだ。誰が分かるねん、という。これ分かるには、社会学や哲学、歴史、心理学にしろかなり広い知識が前提になる気がする。まあ、難しい本を読んでみて「分からない!」と反省し、勉強していくモチベーションになればそれはそれでいいが。

東浩紀についてはその後、何かと朝ナマや新聞や雑誌の記事でみていた。いつも、こちらからツッコミを返せないような根源的な答えをいう。いくつかその発言をまとめ、コメントしていこう。

人文社会科学系学部について

 ――文部科学省が国立大学に対し、人文社会科学系学部の廃止・転換を検討するよう求めました。議論が起きましたが、どう考えますか。

 文科省の通知は良くないことだと思います。けれども、遅かれ早かれこういう時代になるだろうなと思っていたので、驚きはありませんでした。

 ――(人文社会科学系学部が)社会の要請に応えられないことが大きいのでしょうか。

 この国において、大学とは明治期に輸入された歴史の浅い制度です。ヨーロッパに追いつくため、産業振興を後ろから支えるために大学を作った。そういう前提がある限り、文系不要論が出てこざるを得ない。

 ヨーロッパの場合、キリスト教と結びついた神学があり、リベラルアーツの伝統が長くあって、そこから大学の哲学部が生まれ、人文知が育ってきた。いわば、日本における寺みたいなものとして大学がある。

 人文知は、こういう知識を持っていたらこういう利益がありますよ、こんなふうに成功しますよという形の実学志向の教育とは、原理的にそぐわないものです。けれど、人間の文化のなかには、そのような実学の発想とは異なったものがたくさんある。たとえば趣味がそうです。宗教もそうですね。人文知は、趣味のひとつとして生き残ればいいし、本質的にそういうものだと思う。

 ――在野で人文知を伝える株式会社ゲンロンやゲンロンカフェの意義とは。

 日本では江戸期からすごく豊かな出版文化があって、人文知はむしろそちらが担ってきた。在野というか草の根のいわゆるコミュニケーションネットワークにこそ人文知が育つ土壌があると思うので、僕としてはそれを受け継いでいると思っています。

朝日新聞デジタルより。

なるほど、たしかに人文知というのは、物理空間に直接リンクしない脳内での思考であるので、物理空間での生活に何か役に立つ、利益がある、ということは基本的にはないはず。しかし、脳内の思考世界でも人間は主観的に生活を送る。例えば、思惟に耽けたり、将来や過去を反省したり、そういうときのてがかりとして哲学や文学というのはもっとも根源的な枠組みやツールを提供すると私は考える。そういう意味で物理空間ではあまり意味ないが、思考空間においては意義あることだと思う。

 ――教養がビジネスの場面で生きると思ってる人もいると思いますが。

 僕はそう思いません。そのような発想は、社長室に高価なつぼが置いてあるとハッタリが利くというレベルで教養を捉えるものだと思います。成り金趣味です。ある程度、社会的地位ができたらハッタリを利かさないとだめというのも真実です。でも、ワインについてうんちくを傾けるとか、時計にうるさいとか、そういうものの延長線上で語られるのは、本当の教養だとは思いません。

教養の定義による。私は常に言っているが、教養とは、自分のやっていることに臨場感を与えるもの、確信を与えるもの、であると思う。複雑な世の中、分業の社会において自分がどのベクトルへ行動しているのかを人々は見失う。そういうときに、教養があると、自分の欲望と自分の行為や生活がどう絡んでいるかの視界がクリアになる。本当のリベラルアーツとしての教養は人を自由にするというが、そういう意味であるだろう。

 ――素朴な知的欲求があります。例えば「時間とは何なんだろう」とか、「存在とは何なんだろう」とか。

 そういうのは、基本的に言葉遊びみたいなもんです。むろん、その言葉遊びが重要なのですが、遊びと言えば遊びです。哲学をやっていれば、プラトンのような2千年前の本を面白く読める。でもそれが役立つかといえば、別に役立たないでしょう。思考自体が面白いから思考するのであって、プラトンを読んだからといって時間の本性が分かるわけじゃないし、そもそも時間の本性が分かったからといって、自分の時間が増えるわけでもないわけだから、別に何の役にも立たない。

 マルクスやカントにしても同じだと思います。彼らの本を読んだからといって、別にビジネスには何もプラスにならないと思います。まじめに哲学の本を読めば、そういう結論になるはず。何にも分からない。役にもまったく立たない。そして、そもそも世界とは、人生とはそういうもんです。

 だから、人文知をなんで学んでいるのか、と問う人は、そもそも人文知をやるべきじゃない。それは遊びです。ただ、歴史がとても長く高尚な遊びなので、そのルールに習熟すると、けっこう人生豊かになるよということです。

 ――人文知と教養をどう整理していますか。

 僕はあまり教養という言葉は使いません。教養というのは実にあいまいな言葉で、「○○について語るのが大人の教養だ」みたいな言い方がいくらでもできる。他方で人文知というのはけっこう輪郭がはっきりしている。文学とか哲学とかのことです。いま問題なのは、教養の危機というより人文知の危機、それも大学内の人文知の危機です。

 とはいえ、国文学や日本史のような、この国に根ざした領域は残るでしょうから、結局、いま危機にさらされているのは、ヨーロッパ系の人文知ですね。そちらは本当に危機だと思います。ドイツ哲学やフランス文学をやってる人たちは、これから大変だと思うな。

  ――ゲンロンやゲンロンカフェが人文知を再生産する役割を担うと考えていますか。

 僕としては、この小さい場所で小さくやってて、小さく未来に残っていけばいいという感じです。そもそも人文知とはそういうものです。やりたい人がやればいい。そして好きな人が応援すればいい。みなで寄進して寺が運営されていく、みたいなイメージです。
これも同じことだ。教養とは上述したようなもの。「時間とはなにか」「存在とは」ということは、複雑化した社会において自分の生に確信を持つためには必要なことだと思う。ただの知的好奇心を超えて。東浩紀さんも確実にその恩恵をうけているはずだが、自分では気づいていないのだろう。一般人は、世界についてほとんど確信を持たず、分業社会で不安を抱えているのだ。 そういう意味でゲンロンカフェは意義あるのだ。
 
 ――純粋に知的な欲求を満たす、と。

 それでいいんじゃないでしょうか。僕のやってることは、いわばマイナースポーツみたいなもんです。世の中、サッカーとか野球とかばっかりじゃなくて、たとえばカーリングが好きな人もいる。そういう人が集まってカーリングの普及の運動をやっている。そこに好きな人たちが集まって楽しくやっている。そういうものなのであって、そのことで日本のスポーツ界全体を変えようとかは思っていない。

 この国で歓迎されるのは実学です。人々が求めているものも、とにかくいま役に立つ知識や情報です。それは人間として健全なことなので、僕はその状況を変えたいとは思わない。ただ、そういうのに飽き足らない人間もいるはずだから、その人々のためにやっています。国家論とか文明論とかをやれる場所が欲しいだけなんですよ。

たしかに実学とは違って効果がわかりにくいが、上述のように自分の生の意味を確信していくということ、そのために哲学や人文知は必要。そのように意識する必要はないが、自虐的にならなくていいので理解してほしい。

 ――人文知をやりたいからやる。別に世の中を変えたいからではない、と。

 捨て鉢みたいに聞こえるかもしれませんが、基本的に、いまの世の中の状況はとても悪い。政治のレベルも非常に下がっている。基礎からスタートするしかないと思う。

 たとえば、いま、日本人の多くが「あの人は立派な人だ」と思うような人文系の学者はほとんどいないでしょう。そういう状況で、「文学部潰すな」と訴えても人の心は動かないと思います。そういう立派な人が3人ぐらいいれば状況が変わってくる。昔はいた。
人文知は世の中を変えるためにも必要。たしかに現代哲学の流れで相対主義に陥り、真理はないものとして定着してきたが、政治するにはある程度価値を明確にしなくてはいけない。誰もが認める価値などないとあきらめずに誰もが共通了解できりょうな価値を創りだす努力が必要。そのために徹底して思考する哲学というのは必要不可欠である。


 ――昔はいたという、みんなが尊敬する人とはどんな人でしょうか。

 たとえば梅棹忠夫とか鶴見俊輔とか。浅田彰さんや中沢新一さんも、かろうじてそういう系譜を受け継いでいますね。でもその下になると、まったくいないでしょう。僕の世代の人文系は、ちまちま補助金もらってマイナーな研究をやっているか、テレビ知識人みたいな人ばかり。僕としては、スタート地点に戻って地味にやるという感じです。(聞き手・吉川一樹、高重治香)

これは、別件。人それぞれ好みはあるだろうが、東浩紀が尊敬する梅棹忠夫、鶴見俊輔、浅田彰、中沢新一の著書を読んだことがなかったので是非読んでみよう。
 

原始時代のような生活を思い浮かべてみる。小さな共同体か個人レベルで生活が完結している。そこでは人間が生きるために行うことが簡明である。朝起きて、食糧を狩猟採集或いは農作業をし、食べたり蓄えたりして、眠る。たまには異性を求め、性行為をする。この「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」そのまま実現する。余計なことはない。こういう生き方がもともとの人間のあるべき姿であり、幸せを感じれる生き方なのである、と仮定したい。

実は、現代のような複雑なグローバル資本主義社会であっても、この基本的な人間の生き方は変わらない。しかし、「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」実現する、というのが間接的になりすぎて、自ら自分の目的に向かって行動している感覚がなくなりつつある。昔は、食べるものを直接的に追い求め、死をも恐れず動物を狩ったり危険な場所まで採集に行った。そして得たものを自ら食す。現代では、分業化が進み、マネー経済になり、オフィスでパソコンの前で資料を作り、計算をしたりすることで、お金を貰い、それで何かを買いに行く、という「食べ物」に対して回り道が多すぎて「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」追い求め、実現する感覚が乏しい。異性を求めることについても、グローバル化経済社会において価値観が複雑に入り込み、何をすれば異性を惹きつけられるのかも複雑化している。

このあらゆることが分業化された複雑化した社会において、「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」取り組み、欲望を満たしているという感覚を持つのは難しい。とはいうものの、この社会においても自らこの複雑な世界についての世界像を確信して持ち、自らの行為を「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」に無意識レベルで紐付け行動できる人間は原始時代のシンプルな生活の中で幸せに生きていた人々と同じ境地に至れる。大きな組織のトップ、自ら起業した会社の社長、作家、学者などに多いのかもしれない。もちろん、表面上その地位にいても確信した世界像など持たずに「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」追えていない人も多いだろうが。

今の時代に必要なのは、「人間の基本的な欲望を直接的に自ら」満たしている実感を得ることだ。社会が何故存在するのか、どういう歴史があったのか、自然界にはどのような法則があるのか、などを理解することではじめて、自分の普段の行為がどうやって「人間の基本的な欲望」に繋がっているのかがわかり、徐々にそれに確信を持ち、最後は無意識に、まるでパソコンの前でタイピングしているのが、猪を見つけて追いかけているが如く感じれるようになる。そうすれば、何も心配せずに生き生きと過ごしていける。人生とは何か?何故生きるのか?などということも原理的に考えないようになるだろう。

ただ、問題はすでにこの複雑化した社会で何年も何十年も「人間の基本的な欲望」にリンクしない行動をし続けている人は、矯正に時間がかかるだろう。

自分で、食を取り、子孫を残し、人類や世界に貢献しているという実感を持つことで、人間は幸せになれるのである。これは昔のシンプルな生活のときには誰もが当たり前に実感を持っていたことだった。人間は安定のため、分業社会を選び、飛躍的に生活を便利に快適にしたが、自分が何をやっているのかよくわからなくなってしまったのだ。

現代の人間が、わざわざ自給自足の生活に戻る必要はない。それに戻ってもすでに現代の快適な生活を知ってしまった以上、幸せを感じれるかは分からない。現代人ができることは、教養を磨き、自分が自分で自分の欲望をみたいしている感覚を研ぎ澄ますことだろう。リベラルアーツとはもともと複雑化社会の中でシンプルな構造を見出すことが目的なのではないか。

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