記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年09月

こういう問題を抱えこんでいる人は多いいのではないか。特に今のような真理や絶対的な価値観がない相対主義が漂う日本では。私は特にこうした問題はかかえてないが、日本人や若者の多くはこうした問題を抱えており社会問題に発展している。これは、どげんかせんといかん、ということで私は問題意識を持っている。まさにこの問題を扱った「人生に意味はあるか (講談社現代新書) [新書]by諸富 祥彦」という本を読んだのだが、全然的外れで回答になってない。著者はこの問題に”真っ向から”挑みすぎているのだが、そもそもこれは「問い」自体が間違っている。今日はこれを説明し、「人生の意味」というアポリアに終止符を打ちたい。

簡単にいうとこの問い「人生の目的は?意味は?」これ自体は言語の誤用である。

アナロジーでいうと、
「「走る」の重さは何か?」というような問いと同じで答えようがない。

まず、「意味」とは何かについて説明しよう。「意味」の本質は、主体がそのつど存在可能として世界に向き合うときに生じる、主体ー世界の意義連関性である。つまり意味とは、存在可能が開示し、指示する世界の分節性、有意義連関だといえる。言い換えれば、主体にとって「〜のために」「〜として」でつながる世界の連関性、そのひだと折り目のことである。

喉が渇いたとしよう。このとき、意識に「喉の渇き」という情状が現れる。こうして人は、この情状を契機に意識内容が更新される。目の前のコップの水は、「飲むもの」として認識される。もっというと「乾きを取り除くもの」である。しかし、誰かと喧嘩しているときにそのコップの水をみれば、それは「相手にぶっかけるもの」である。これはイライラする情状が契機となり発生した意味である。

「水は飲むもの」と一般的に理解されているのは、そういう使用頻度が多いし、他人もそうしているのを見ているから、それが定着していくのである。そうして、水の意味=飲むもの、となる。「意味」とは根本的にこういうものである。自分の情状からの主観的な体験を通じて獲得していく生後的なもの。

では、「目的」の意味は何か。これは例えば、先の例でいえば、喉の渇きから出発して、コップの水は、道具として自分の喉の渇きを取り除く可能性を持っている。そのとき、この最終的に対象とされる「喉の渇き」と道具として手段として使われる「コップの水」という関係がある。こういうときに、対象となるものを「目的」という。こういう関係に多く遭遇して「目的」の意味が定着していくるのである。

では、「人生の目的は?意味は?」とということがそもそもおかしいことが分かるだろう。

まず、「人生」とはどういう意味でこの場合使われているのか?おそらくは、「いま、ここ」の主観的な体験であろう。今、五感で何かを感じ、根底には気分があり、何かを志向しているようなそういう「いま、ここ」。これをずっと経験して、今後も続けていくこと、これを「人生」と言っているのか?とりあえずそう仮定しよう。

だとすると、その「人生」の意味とは何か?今見てきたように「意味」とは自分の情状から開示される事物などの可能性である。ムカムカしていれば、ビールは、「ムカムカを解消してくれるもの」だし、「走ること」は気分転換である。

そう、「人生」である「いま、ここ」というのは、そもそも「意味」を生み出す張本人なのである。根源なのである。ムカムカとか喉の渇きという「いま、ここ」(人生)が意味を開示していくので、それ自体は意味を問う対象にならない。これは要するに、最初に書いたとおり「「走る」の重さは何か?」ということと同じ。

さらに、人生の「目的」を問うことも同じだ。「目的」とは最終的に主体に結びついていることで成立している。コップの目的は、水を飲み、主体の喉の渇きを満たすことだし、喧嘩しているときには、相手に投げつけて主体のイライラを除去すること。このように主体がありきで「目的」の意味が作られている。

なので、「いま、ここ」(喉の渇きなど)の「目的」を問えない。「目的」を作り出しているものの「目的」は問えないのである。「「走る」の重さは何か?」と同じ。

では、現代の若者たちの「人生の目的は?意味は?」の問題は解決されたのか?いや、そうではない。今はただ質問自体が間違っているので、そのままでは解決しようがないことを説明した。言葉が間違っているのは、置いておいて、いちおう現代の若者は問題を持っているのである。それは、「人生の目的は?意味は?」ではなく、「今生きている人生「いま、ここ」が常にネガティブな気分なんですが、どうすればいいでしょうか?」ということだろう。これが根源的な問題である。

これに対しては、回答が長くなるので、今回は要点だけ書くが、簡単にいえば「自分の生理的欲求」を直視して、自分の周りの自然環境や社会とはどういうものかを分析し、欲動に従って生きればいい。これが解決策。それ以外にはない。人間とはそういうものである。

たまに、聞く単語。でもよく意味がピンとこない。東大とか人文学系でこういう専攻があったりするのを見るが、表象文化論って何?

wikiから学ぼう。まずはそもそも「表象」って何?


表象(ひょうしょう、英: Representation、仏: Représentation)は、一般には、知覚したイメージを記憶に保ち、再び心のうちに表れた作用をいう(イメージそのものを含めて呼ぶこともある)が、元来は「なにか(に代わって)他のことを指す」という意味である。類義語に、記号、イメージ、シンボル(象徴)がある。

ようは、昨日見た(知覚した)リンゴを、今思い浮かべてみるとして、そのとき意識に表れるイメージのこと、また、その作用、であるということか。

以下、語義として三点。
 
(1)翻訳語としての表象
「表象」は翻訳語であり、その原語は希:phantasia、羅: idea, perceptio, repraesentatio、英: idea, perception, representation、仏: idée, perception, représentation、独: Vorstellungなど様々であるが、近年は英語・フランス語などでのrepresentation、またドイツ語の Vorstellung の訳語として認知されている。
研究者によっては、用法は異なることもあり、一意的に確定しているわけではない。例えば、現在symbolは「象徴」と訳されるが、かつて「表象」と翻訳されたこともある。アーサー・シモンズの「The Symbolist Movement in Literature」は、現在では山形和美訳など複数の訳書で、「象徴主義の文学運動」と訳されるが、大正2年の岩野泡鳴訳では「表象派の文學運動」として表題は翻訳されていた。このような混乱は他の哲学用語系統の翻訳語と同様に、問題としてある。なお現在でも、国語事典には、symbolismは象徴主義・表象主義の2つを並記している。

(2)術語としての表象
哲学、心理学、認知科学、政治学、人類学、美術理論などそれぞれの研究領域で使用される術語である。

(3)哲学用語としての表象
クリスチャン・ヴォルフは、ラテン語のperceptioのドイツ語訳としてVorstellungを当てた。日本における哲学用語としての表象は、一般に、ドイツ語の Vorstellung、 フランス語のreprésentationの訳語として認知されている。この意味での表象は、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象をいう(「知覚表象」)。外界の対象が現に存在せず、知覚対象を記憶に保ち、再び心のうちに表れた内的な対象を知覚対象と区別する意味で「記憶表象」といい、同じく人の思考作用によって心の内に現れた内的な対象を「想像表象」という。
表象によって得られた内的対象は、外界の対象が現に存在するか否かにかかわりなく、人の意識のうちに現れ出でるものであり、外界の対象を象徴する記号的な意味をもつ観念でもある。ルネ・デカルトはこの内的対象を示す語としてidéeの語を充てていたが、カントはデカルトを厳しく批判し、Vorstellungを自己の哲学大系の中心に置いた。フランスでも、idéeの語に代えてreprésentationの語が広く用いられるようになった。知覚表象の場合と異なり、記憶表象および想像表象の場合は、外的対象が現に存在せず、心の内に「再びー現れる」(reーprésentation)ので、記憶表象と想像表象のみを「表象」ということもある。

ドイツ思想におけるVorstellung
哲学上の用語としては、ドイツ語の Vorstellung の訳語として使われる。現職と訳されたこともある。感情・思惟を除く意識上の対象を指す。
ショーペンハウアーは、その著書『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)において、世界はわたしの表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志であるとした。

フランス思想におけるreprésentation
戦後フランス哲学などでのreprésentationは、「再現前」「代理体制(システム)」などとも翻訳される(例:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』河出書房新社、ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』法政大学出版局)。
 
英米思想におけるRepresentation
英米思想においては、ジョン・ロックやバークリ以来の経験論以来、議論が蓄積されている。パースやモリスなどのアメリカ記号論なども経由し、現在では、分析哲学や認知科学などでも、表象(Representation)は重要な問題のひとつとみなされている。

表象主義と反表象主義
認知科学では、認知過程が外界を内的に表象することとする「表象主義」と、ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論のように、知覚情報は構造化されたかたちで環境内に実在し、知覚者は環境内を動き回ながらその情報を獲得するのであり、そこに内的表象や構成の過程を想定する必要はないとする「反表象主義」とがあり、現在も研究が展開している。
同様に、リチャード・ローティやドナルド・デイヴィッドソンらも、「表象主義」的な説明をしりぞけ、「反表象主義」として括られることもある。


なるほど。要するに、客観として、実在として外界は人間に認識されると、人間として、個人として解釈されてしまうが、それは意識内にイメージとして現れる。今見ているリンゴにしろ、昨日みたリンゴにしろ、明日みるリンゴにしろ意識にあるイメージ「それ自体」である。これは人によって必ずしも共通しないものであり、その現れ方の違いや構成される過程、構造を考える、というのが、もしや表象文化論なのではないか。

これを踏まえて、表象文化論とは何か?wikiから
表象文化論(ひょうしょうぶんかろん)とは、「表象」(英: Representation、仏: Représentation)として現れる文化事象を、分析し、考察する学際的な学問の一分野である。日本においては東京大学大学院総合文化研究科・教養学部が1989年に表象文化論専攻を設置して以降に研究活動が活発化している、比較的新しい学問領域である。

「表象」representationという語は、人間が世界をイメージし、その行為を通じて表現されたものを指す。「表象」に関する詳細はそちらの記事を参照されたい。代表的な例としては、視覚に表現される絵画や写真、あるいは視覚のほか聴覚や時間の感覚にも関わる映画、あるいは触覚や立体的な空間認識が関わる彫刻、あるいは文字という別の媒体を通してイメージに接続する文学(文字表現)、さらには内部に入り込むことで全ての感覚に関わる建築など、人間のつくり出す様々なものが関わっている。「表象文化論」の研究においては、「表象」という観点から、人間への理解を深めるものである。
表象文化論学会においては、次のように説明される。
 
「表象」という概念は、哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味しています。表象文化論学会は、この「表象」という概念を、さまざまな文化的次元の関係性の核を表わすキー・コンセプトとし、文化的事象を孤立した静的対象として扱うのではなく、それが生産され流通し消費される関係性の空間、すなわち、諸力の交錯する政治的でダイナミックな「行為」の空間の生成と構造を考察しようとするものです。— 表象文化論学会、表象文化論学会「表象文化論学会について」 

なるほど。 やはりそうだ。ただ、意識内容は何かに出力しないと他人に理解されないし、自分でも固定化できない。それを人はどのようにアウトプットするか、これは地域や共同体、個人によって完全一致することはない。ただし、そこに傾向や構造はあるだろうから、それを探っていこう。なんなら、それを通じて人間とは何か、また共通理解は可能なのか、なども視野にいれた学問のようである。

人類の思考の歴史を辿るべく『世界の名著』全81巻を読むことにした。

全巻一気に買うには、教えてもらった「日本の古本屋」が一番よいみたい。結構在庫あるし、セットで買える。3万〜8万くらいのレンジで、月報がるとか、破損、ビニールカバーあるとかないとかで値段変わるみたい。

僕が買った値段は以下のとおり。81で割るとたったの442円。こんなに世界の知が詰まっていてこの値段。。。普段の無駄遣いがクソみたいに思える。

世界の名著 正・続 全81巻揃 32000円
書籍代金計 :32000円
(内消費税) :1523円
送料    :3850円
合計請求額 :35850円

さて、
到着した写真がこちら。

image


来てみると、結構なボリューム。

他にも読むものが多いので、だいたい2年で読みきることを目標にしよう。一字一句読まずに各著者の主要なものに絞る。1年は52週間。2年だと104週間ある。81冊なのでまあ1週間に1冊か。。

以下、世界の名著について早稲田の竹田教授と苫野一徳のやり取り。

かなり詳細な、平均3万字くらい、時に5万字を超えるレジュメを毎週1~2冊作る。

哲学というのは、本気でやるなら、いままでの予備知識をいったん全部棄てて、はじめから時代順にしっかりレジュメを作って読んでいく必要がある。その哲学者の言わんとする核心点を一つずつキチッとつかみ取って、積み上げていかないとだめ。

特に若いころは、「世界-内-存在」とか「純粋意識」とか「純粋持続」とかいう哲学の概念に、簡単にやられてしまう。つまり、自分で勝手にその概念の深遠なイメージを作って、「これはこういうことを言ってるに違いない」と。

でもそれは、あとから見るとよく分かるけれど、ほとんど全然違っている。理由がある。哲学は、後の哲学者が、前の哲学者の原理を受けて、これをもっと普遍的なものに前進させていくゲームである。ヨーロッパ哲学はそうなっている。だから、しっかり順番に少しずつ積み重ねていって、そのことで自分の思いつきをむしろ全部取り外していくんですね。そのことで、はじめてその人の本当の考える力が出てくる。

それをやらないとどうなるかというと、いろんな難しい概念や理屈の言葉だけため込んで、それを自分の直感に合わせて便利に使いまわすようになるんです。だいたい、そういうことから免れているような知識人がとても少ない。

そうなると哲学は、単なる知的権威の道具になる。哲学は死んでしまうわけです。

それが、「教養を重ねる」っていう、本当に重要なことなんだと思います。

人間って古今東西、みんな似たようなことを考え悩む。なので、「自分はすごいことを考えたぞ!」みたいなことを思っても、過去の哲学者たちが、実はもっともっとすごい形で解いてる。

それを知らずに、俺はこんなこと考えた、すごいだろ、みたいなことを言ってるのは、すごく虚しい。だからやっぱり、過去の哲学の教養を徹底的にためこんだ上で、その次の一歩を出さなきゃいけない。

ところが問題があって、その過程で、自分がどんどん壊れていく。なんだ、自分の考えなんて、しょせんこの程度のものだったのか、と。でもこれは、ある意味では必要なプロセス。「壊れて壊れて、でもなお、自分にはこれが残った。それを見つけることができれば、お前は哲学者になれる」のである。

以下、世界の名著全81巻のリストです。wikiから抜粋。


世界の名著

『世界の名著』(せかいのめいちょ)は、中央公論社1966年から1976年にかけて刊行した全81巻の叢書である。

目録

  1. バラモン教典、原始仏典
  2. 大乗仏典
    • 責任編集 長尾雅人
  3. 孔子孟子
  4. 老子荘子
  5. ヘロドトストゥキュディデス
  6. プラトン I
  7. プラトン II
    • 責任編集 田中美知太郎
  8. アリストテレス
    • 責任編集 田中美知太郎
  9. ギリシアの科学
  10. 諸子百家
  11. 司馬遷
  12. 聖書
  13. キケロエピクテトスマルクス・アウレリウス
  14. アウグスティヌス
  15. コーラン
  16. マキアヴェリ
  17. エラスムストマス・モア
  18. ルター
  19. モンテーニュ
  20. ベーコン
  21. ガリレオホイヘンス
  22. デカルト
  23. ホッブス
  24. パスカル
  25. スピノザライプニッツ
  26. ニュートン
  27. ロックヒューム
  28. モンテスキュー
  29. ヴォルテールディドロダランベール
  30. ルソー
  31. アダム・スミス
  32. カント
  33. フランクリンジェファソンマディソン他、トクヴィル
  34. バークマルサス
  35. ヘーゲル
  36. コントスペンサー
  37. ミシュレ
  38. ベンサムジョン・スチュアート・ミル
  39. ダーウィン
  40. キルケゴール
  41. ラスキンモリス
  42. プルードンバクーニンクロポトキン
  43. マルクスエンゲルス I
  44. マルクス エンゲルス II
    • 責任編集 鈴木鴻一郎
  45. ブルクハルト
  46. ニーチェ
  47. デュルケームジンメル
  48. パースジェイムズデューイ
  49. フロイト
  50. ウェーバー
  51. ブレンターノフッサール
  52. レーニン
  53. ベルクソン
  54. マイネッケ
  55. ホイジンガ
  56. オルテガ・イ・ガセーマンハイム
  57. ケインズハロッド
  58. ホワイトヘッドラッセルウィトゲンシュタイン
  59. マリノフスキーレヴィ=ストロース
  60. バジョットラスキ、マッキーヴァー
  61. トインビー
  62. ハイデガー
  63. ガンジーネルー
  64. 孫文毛沢東
  65. 現代の科学 I
  66. 現代の科学 II
    • 責任編集 湯川秀樹 井上健
世界の名著 続
  1. 中国の科学
  2. プロティノスポルピュリオス、プロクロス
    • 責任編集 田中美知太郎
  3. 禅語録
  4. 朱子王陽明
  5. トマス・アクィナス
    • 責任編集 山田晶
  6. ヴィーコ
  7. ヘルダー、ゲーテ
  8. オウエン、サン・シモン、フーリエ
  9. フィヒテ、シェリング
  10. ショーペンハウアー
  11. ランケ
  12. アラン、ヴァレリー
  13. ヤスパースマルセル
    • 責任編集 山本信
  14. ユング、フロム
  15. 近代の芸術論
 
頑張りまーす。

当たり前で客観的に言われていることだが、自分なりにふと思ったので備忘のために書いておこう。

40代は分からないが、50代、60代になると確実に肉体的、精神的に衰えていくだろう。普通の人は。そして、新しいことがどんどんでてきて10代20代のトレンド(いわば世界のトレンド)についていくのが難しくなる。

もし年をとったあと、転職すると考えたらどうなるか。経験値があるということで、若手よりは給料を要求しようとするだろうし、現在のトレンドにも疎かったら会社はおっさんおばさんを雇う理由がない。現場でも命令とかしづらいだろうし。

年取ってから起業して成功している人もいるんだろうが、あまり聞かない。上述と同じ理由で、難しいだろう。

大企業にいれば何かしたら(会社からうざい存在だが)のポストはもらえて生存できるのだろう。しかし、そんないい企業にいられるのは日本でも少数で、多くは不安定な存在である。そりゃ、年金制度とか老後を政府にできるだけ保障してもらいたいという強い願いがあるのは分かる。

以上、自分個人は永遠回帰なみに頑張っていこうと思っているので問題ないが、一般の人はけっこう不安なんだろうなあ、と思う。こういう目線で考えることも重要。

 

「自由」とは、日常生活でよく使う言葉であるが、それは国の主権である国民が目指すべき最も尊き価値、という側面もある。

wikiに沿って、いろんな角度からこの言葉を吟味してみよう。ちなみに、wikiなので信頼性が低いことはご了承願う。
 
自由(じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。

目次  
1 「フリーダム」と「リバティ」
2 日本語訳について
3 自由主義
4 近現代における自由
5 哲学
6 東洋における自由
7 さまざまな自由

シンプルな定義だが、いろいろな見方がありそうである。

(1)「フリーダム」と「リバティ」

ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1833年), 自由を寓意的に表した代表的な絵画。1789年8月26日人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)第4条は「他人を害することのないもの全てをなし得ること」を「自由」と定義した。
 
「フリーダム; freedom」と「リバティ; liberty」は、ともに自由と訳される。現在、この2つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いはいくらか異なっている。
 
  • フリー古英語の「frēo」に由来する。これは古インドヨーロッパ語の「prijos」や「prēy-」、あるいは古ドイツ語の「frijaz」に起源をもち「好む、愛」の意味を持つ。
  • 北欧神話のフレイ、フレイヤも同じ語源による。
  • 古アイルランド語の「ríar」はウェールズ語の「rhydd」と対応し現在の「free(自由な)」に直接対応している。古代ギリシア語では「πρᾶος(praos, 温和で、優しい)」。気ままさや傲慢さが含意される場合がある。
 
  • 一方でリバティラテン語「liber」「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から、英語の「liberal(形:自由な)」や「liberty(名:自由)」の語源となった。
  • 自由主義の「liberalism」はこれによる。また「liberate(動:解放する)」、「liberator(名:解放者)」、「liberation(名:解放)」も同じ語源による。こちらでは自由の消極的側面 (しなくてよい)が強調される。
  • 「liber」は古英語に入り「leod」となり、こちらは「leader」の語源とされている。
両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。freedom および liberty の用法にも残っているが、近世までは特権を意味する語であった。民衆の持ちえない権利を有している状態が freedom または liberty であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる高貴なる者の特権と定義され、但し書きで「一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている」と言及されている。

なるほど、両方共もともとの意味とは異なった意味で現在使われているようだ。奇妙だ。なぜそうなのかは説明されていない。フリーは温和でやさしい、気ままさや傲慢さを含むことがある、とのことで今の自由とはちょっと違う。そして、リバティは政治や社会に制約されない、負債がないなど、たしかに今の消極的自由である。


(2)日本語訳について
  1. 穂積陳重の「法窓夜話」によれば、加藤弘之から聞いたこととして訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初であるとするが、文献上では文久2年初版・慶応3年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎・著)に紹介され、慶応2年初版の「西洋事情」(福沢諭吉・著)にも訳字が見られるとする。
  2. 鈴木修次によれば初出は森山多吉郎、福沢の西洋事情により広まったとする。慶應義塾のデジタルギャラリによれば福沢による訳語とする。
  3. 「自由」は古典中国語では「後漢書」、日本では「続日本紀」まで遡ることができるが我儘放蕩(わがままほうとう)の意味であった。
  4. 徒然草に「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」(60段)とある。江戸時代の教育論の書である和俗童子訓には「殊に高家の子は、物事豊かに自由なる故に、好む方に心早くうつり易くして、おぼれ易し。」とあった。
  5. 福沢の西洋事情にはlibertyを邦訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、原語の意義を尽くさないとする。
  6. 加藤弘之は慶応4年の「立憲政体略」において「自在」と訳し、津田真道の「泰西国法論」でも「自在」と訳されたが、福沢や中村敬宇によるミルの邦訳「自由之理」により自由が定着した。穂積によれば「自由」なる語・「自由」なる思想の開祖は「実に福沢先生にあると言うてもよかろうと思われる」とする。
  7. マーケティングコンサルタントの西川りゅうじんによると、日本語に訳したのは福沢諭吉であり、仏教用語の「自ずからに由る」(おのずからによる)からきているが、実は「天下御免」というもう一つ訳の候補があった、とする。なお、この説の信憑性は現在確認できていないことには注意されたい。

とのこと。福沢が訳したとすれば、libertyからの訳ということになるので、前述のリバティの由来からすると、消極的自由の意が強いようだ。ちなみに西川りゅうじんって誰やねん。
(3)自由主義
自由主義とは「自己決定権に制限を加えることができるのは危害原理のみである」という立場である。加藤尚武によれば、自由主義とは
  1. 成人で判断能力のある者は(valid consent, 有効な同意)
  2. 身体と生命の質を含む「自己のもの」について
  3. 他人に危害を加えない限り(harm-principle, 危害原理)
  4. たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも(the right to do what is wrong, 愚行権)
  5. 自己決定の権利をもち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある(autonomy, 自治権)、とするもの。
まあこれは有名な他者危害原理である。ようは「何してもいい」という意味での自由である。自殺もOKとなる。自由主義となると、これに他者危害原理が加わるということ。

(4)近現代における自由
近代における自由の概念は、他者の意志にではなく、自己自身の意志に従って行為することとして捉えることができる。この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。
社会契約説では、政府による統治がその正当性を獲得するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利(革命権)があると説かれている。
自由はまた他者の自由とも衝突する。他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。
エーリッヒ・フロムは、ナチズム・日本軍国主義が台頭していた1941年に世に問うた著書『自由からの逃走』の中で、孤独と無力感にさいなまれた大衆が、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになると記した。
アイザイア・バーリンは、「二つの自由概念」において、他者から拘束を受けない消極的自由と、自己自身に対して自己実現を課す積極的自由とを区別したが、フロムが消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由の概念も、他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義へ繋がるとしている。
エーリッヒ・フロムの指摘は興味深い。ようは、自由すぎると関係の中に身を置き制約環境を求めるということである。おそらくこれは根源的には自分の欲動に向き合うということになるのだろう。ここでは説明しない。

積極的自由については明確でない。自己実現とはこの場合どういうことか?カントのいうように自律して意思決定するということなのだろうか。その場合、積極的自由と制約のない消極的自由とが、一直線上にない気がする。ポジティブ方向には自律、ネガティブ方向には他律、ということがあるのだろうが、他律は2種類あって、規制されている状態とエーリッヒ・フロムがいう主体的に規制される場合があるので。

(5)哲学
イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において自然の因果系列とは独立にあらたな系列を始める絶対的開始の能力として超越論的自由を論じた。この超越論的自由は理論理性においては単に消極的に想定可能であるだけであったが、『実践理性批判』においては道徳法則に自ら従う実践的自由を積極的に論じた。
 
戦前に活躍した唯物論哲学者戸坂潤は著書「日本イデオロギー論」中、「文学的自由主義の特質」において、自由主義についての考察と絡めて「自由についての問題は哲学的でも文学的でもなく経済的な範疇から生じた」と指摘した。
カントいわく、自分の基準で他の誰にでもあてはまると確信できることを行為せよ、という。そしてそれが自由だというのである。この自由は、今の私たちにはあまりピンとこないだろう。

戸坂潤の指摘については、たしかにそうで、出処はどうでもいいが、自由は文学的、哲学的、経済的な意味にまたがっているのでわかりづらくなっているのだ。

(6)東洋における自由
日本では往生楽土、楽市楽座の語に見られるように、「楽」を「自由」という意味で使う用法があった。
中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、二条河原の落書の「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。

福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。初めは、「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎると考え、あらためた。
朝鮮語や中国語でも「自由」という単語が使われているが両言語ともに日本語と同様、近代以降元の漢文由来の意味より、日本語から流入した日本人による訳語としての意味が確立した。
まとめると、
日本には、free「なし」みたいな意味で使われている言葉があった。それは「楽」。
日本では、中国でもともと使われていた「好き勝手」という意味で「自由」を使っていた。

なるほど、たしかに今でも「自由」には、わがまま好き勝手という意がある。

(7)さまざまな自由
日本国憲法には以下のような自由権が謳われている。
精神的自由
思想・良心の自由
信教の自由
学問の自由
集会の自由
結社の自由
表現の自由
経済的自由
居住移転の自由
職業選択の自由
外国移住・国籍離脱の自由
人身の自由
奴隷的拘束・苦役からの自由
令状なき不当な勾留など、正当な法的手続を踏まない不当な拘束からの自由
勾留拘束に当たっての法定手続の保障
自由権の濫用はしてはならない(憲法12条)
権利の濫用はこれを許さない(民法1条3項=罰則の適用)

一個ずつ吟味はしないが、基本的にこの場合は「やってもいい」という許可的な意味、裏を返すと「制約なやってよい」という意味で「自由」という言葉が使われている。

まあ、いずれにせよ、憲法でもそうだが、日本人一般には「やってもいい」ことが増えれば増えるほど「自由」というものが強くなる、というような理解が核心的な意味をなしているようだ。 

ちょっと備忘記録で書いておくが、今後の世界はどうなっていくか、ということについて。人間同士が共通理解できる根源的な根拠は身体性である。その後はそれぞれの主体による体験により欲望や価値、世界の意味が編み変えられていく。

そこで、言えることが2つある。

(1)
 今後間違いなく世界中の人間の幼少期の体験は類似性が高まる。スマホなどを小さいころからもち、多国籍企業の商品やサービスによって育つ。インターネットで、世界中の情報に触れる。こうすると、共通了解の土台ができる。どんどん世界はコミュニケーションしやすくなる。え、お前どういうこと?何いってんの?っていうのがなくなってくる。

(2)
世界全体で本当に明確な共通了解したいなら、幼少期、いやそれ以降も同じ体験をできる環境を構築しなくてはいけないが、そんな各地の文化を壊滅させるようなことはしないだろう。どこで線引するかが問題。

以上。 

「十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争 by峯村 健司」を読んだ。最近哲学系の堅苦しい本ばかり読んでいたので、気分転換できた。面白かった。峯村氏のガッツ溢れる取材力はアマゾンの評価でも星5つつくのはよく分かる。どこまで事実か分からないが、ノンフィクションで具体的な裏舞台を描きだし読み物としてグッド。

私としては、三点だけコメントしておく。

まず、一番印象に残ったのは、以下の党の関係者の発言の部分。

最高指導者にとって最も重要なのは、そのたくさんの優秀な党員たちをまとめ上げていく「団結力」なんだ。習近平は、引退した高官宅をまめに慰問し、部下の意見にもじっくりと耳を傾けてきた。私の知る限り、この能力において習よりたけた人物は党内にいないと思っている
中国は、内紛と分裂を繰り返してきた。歴代の皇帝は、広大な国土と膨大な人口をまとめていくのに苦心してきた。共産党も建国以来、内部抗争が絶えず、何度も危機に直面しながらも、崩壊には至らなかった。
毛沢東が抗日戦争以来、講話や懐疑で何度も唱えてきた「団結」こそが、何よりも重要視されており、指導者にとって最も必要な素養とされているのだ。
現代中国が腐敗や環境問題、所得格差などの深刻な問題に直面するからこそ党が新しいリーダーに求めた能力も、この「団結力」だったのだろう。 

たしかに、集団がまとまらないと根本的に意味がないし、何もできない。人はみな欲動で突き動かされていきている。どんな謙虚にみえるやつも、何かしらのリターンを期待している。誠実に対応されることを望むのである。それを理解し、無意識レベルで誠実な人間であること、これがリーダーの最低限の条件なのである。李克強はいくら多才であっても、これが国家主席のレベルまでなかったのだろう。当たり前のことであるが、リーダーを目指すべきものは非常にためになる教訓が学べる。

二つ目は、峯村氏は記者としてどのようなビジョンを持っているのかについて全く書いていないのが残念である。記者だからそれでいいのかな?あとがきにも基本的には、毒入りカレー事件とかでも表彰されたとか取材力凄いアピールがあるだけで、その取材で何を実現したいのか、についてがどこにも書かれていなかった。全体的に、自分が大物と接していることが若干いやらしく散りばめられている。それで何をしたいのか、ここを表現してくれれば本書は社会的に意義のある著作になっていたであろう。

最後に、習近平にせよ李克強にせよ僕と同じ29歳のときにめっちゃ権力ある地位で活躍してるな、という件。これは自分もどんどん努力しリスク取り頑張らなあかん。どげんかせんといかん。

いずれにせよ、習近平がどのようなポテンシャルを持っているか判断する情報が詰まっていることは間違いない。中国に関わるものは必読である。


 

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