記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年10月

西研さんがニーチェをうまく解説している。ニーチェの言い方をいちばんいいように受け取ると、自分の感覚を大事にしなくちゃということ。周りに合わせて己固有の価値判断の放棄をするな。つまり自分でもって、これが好き、これが正しい、これは妙だ、と判断しなくてはいけないということ。これは変に目立ったことをしろということではなく、自分にとって面白いこと、嫌なこと、そういう感覚を大事にしないとなんとなく生きているということになってしまうぞ、自分の生なんだろ?はっきりしろよ、とニーチェはいいたい。

僕は昔はテニスに夢中だったときテニス選手やコーチになる夢があったが、そんなに強いものではなく、無意識に抑圧していたが、実際は運動もできるが哲学も科学も何でもできる超人を夢見ていたのかもしれない。特に日本にいるとそういういかにも不可能なものを追うのは馬鹿にされたり恥ずべきことだとされやすいので、無意識に覆い隠していたようだ。こういうになれるかどうかは置いておいて、一歩一歩歩んでいけばいいではないか。

そう思う今日このごろ、
というかこの2年くらい。

僕はよくカフェにいって読書をしたり執筆したりする。そういうときに、できれば近いところのほうが楽なのだけど、あえて遠目のところにいく。

かなり感覚的なことなので定かではないが、近くのカフェだと知り合いに会う可能性があるから、ということかもしれない。 別に人に会いたくないわけではないが(他の目的なら逆に会いたい)、読書や執筆などするときはできるだけ邪魔が入らない状態がいい。

実際、近くのカフェでもまず友人に会ったりする可能性はないのだが、超極小であってもその可能性が意識されると急激に自由の感度が下がる。なかなか表現が難しいが、中断が入るとかなりテンションがさがる。自分の世界にどっぷり入りたいのだ。

これは、以前紹介した渡部昇一の本で書いてあったが、それと同じこと。渡部は深夜が最も知的生活に適しているのは何の中断の心配もなくさらに朝まで無限に広がるような時間を感じ取れ、創造的に知的な作業に没頭できるから、という。

創造的になる環境、ということで続けよう。

こうした「中断」以外にも、若干のザワザワ感が重要。夜22時以降くらいの都会のカフェ、というのは最高。夜なのに人が結構いる感じ。それぞれが別の目的で何かに取り組んでいる感じ。これが全く何の刺激もない静かな自宅だと、何かが足りない。

僕はほんとうにたまにだが上海で深夜までやっている繁華街のカフェで遅くまで作業して、タクシーで帰ることもある。

もし家のすぐ近くにこういう環境があれば毎日行くだろう。誰かが都会などの密集地帯からしかイノベーションは起きないといったが、こういう空間もその一因だろう。こうしたインフラ整備も実は重要な政策になるかもしれない。

かといって、起業家育成の交流できる24時間営業のカフェ、みたいなことをしたら台無しなのは言うまでもない。
 

先日、「凄い」の本質について説明したが、これは別の言い方をすると、正しい人間観と世界観を持っているということである。

人は普段いろいろな情報に触れている。その中で自分の価値観が編みあげられて刷新されていく。赤ん坊はデフォルト設定で母乳をもとめる。すると、母乳に関係する、母親、その前後に起こる出来事などにも好感を持つ。母乳の前にいつもクラシック音楽がかかっていたら、これを好きになるかもしれない。

基本的に、物理空間からの影響が大きく、脳内で思考したことの影響は小さい。言葉でいっても分からない、これが現実。

いくつか情報源を見てみよう。これはフッサールのいう直接知覚する生活世界と、それに基づいて信憑する伝聞世界に分けられる。

■人の情報源
・五感からの物理的な情報(生活世界)
  ・視覚情報
  ・聴覚情報
  ・嗅覚情報
  ・触覚情報
  ・味覚情報 
・伝聞情報(伝聞世界)
  ・オピニオンリーダー
  ・インターネットメディア
  ・新聞メディア
  ・テレビメディア
  ・書籍
  ・調査機関レポート 

「凄い」の話に戻ろう。

要するに正しい人間観、世界観とは人の価値観がどのように複雑に編みあげられてきたかをうまく想定するということ。上述の情報の影響を人は受けている。 

その人は何に価値を感じるのか、それをその人の外見や経歴など個人情報から想定する。そうして、その人が価値を感じるようなものを提供する。

実は、キリスト教にしても儒教の世界観にしても同じだ。人が何か壮大だと思うようなことを見極めて価値を感じる(リアリティ)を感じるようなものを仕立てあげるのである。文学も同じ。マーケティングも同じ。北風と太陽の太陽は、人を理解してたということで「凄い」のである。 

ウィトゲンシュタインは前期の思想で、写像理論を示し、有名な「語りえぬことは沈黙しなくてはいけない」と解き放ち過去の哲学問題に終止符を打った。(その後撤回されるが)

写像理論とはようは、言語は世界を写しとったものであり、言語は世界と一致することだけが有意味で、世界と一致しないことは無意味で語れない、ということ。だから、神とか、魂とか、真理とかいうものについては沈黙しなくてはいけない。しかし、ウィトゲンシュタインも自覚しているが、これを語っていること自体が矛盾になってしまう。その超越的な視点で語っているあなたは何なんだ?ということ。

これは、カント、ヘーゲルなどどの哲学や思想についても言えること。

なので、結論をいえば、いかに納得できるか、信憑できるか、ということが哲学・思想の強さ、ということになるだろう。今の写像理論でいえば「その視点で語ってるの誰やねん」となればもう吟味したくなくなり信頼を寄せないだろう。

そういう意味で、フッサールとかハイデガーのように現象学的に自分の内省からスタートして人間観世界観を構築していくのが最も”信頼しやすい”。何かを信頼し確信しているというのは、それについて疑問も出てこないで、無意識にそれをベースで意識が進行するようなもの。

今後、世界的に共生していく時代を迎えるにあたり、こうした現象学的な議論が最も可能性をもった哲学思想である。

僕はホリエモンが結構好きな方だ。

ただ、かれはかなり自分の体験に確信を持ちすぎている。

人は基本的に、物理空間での体験と、本などのテキストや思考という脳内での経験の2つで価値観を形成する。
 
ホリエモンは意外に社交的で人と多く接したり、外をいろいろ探索して物理空間での体験を通じた価値観の形成が主に思える。もちろん彼は読書家だけど、その影響は相対的に小さい。

政治や外交の世界は、物理空間と大きく離れた分野だと思う。 一般人が物理的な経験をもとに判断しかねるところ。そこには歴史という長い前提があって、それをもとに意思決定が必要。

昔、ホリエモンは朝ナマで「中国が攻めてくることなどありえない、尖閣などあげちゃえばいい」みたいな発言をしたが、一般的な生活の中で人や社会を見ていればたしかにこうもいえる。たしかに中国が沖縄や九州を乗っ取っても統治できるわけがなくただチベットみたいな問題が増えるだけなので、やる理由がない、と。

でも、政治や外交というのは、かなり価値観が違う。そこは特殊な言語ゲームが行われている。尖閣諸島がどういう外交カードとなりうるか、国益をどう計算するかなどで、普通の人ではわからないことがおおい。国家からしてみれば長期的な平和のために戦争で殺人することも許容される。昔話ではなくアメリカは今でもこんな感じ。日本はアメリカに守ってもらったおかげで不要であったが、冷戦後は普通の国家にならざる負えない。

国を安定させるため、(国民国家がなくなるなら世界を安定させるため)粛清や戦争もオプションとしてもたざる負えないのが現状。

今回言いたかったのは、ようは、視野を広く持ったほうがいいということ。ただ、ホリエモンはそうしたことも理解しつつ、本当にテクノロジーがこうした国際情勢の問題も踏まえて解決してしまうと信じているのかもしれない。 

1989年に公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャー 2』で、主人公マーティがタイム・トリップした30年後のその日が、ようやくやってきた。ちょっと投稿が遅れてしまったが、2015年10月21日である。

この映画で僕は凄く好きなシーンがある。紹介しよう。
(『バック・トゥ・ザ・フューチャー 3』 であるが)

1955年の時代を生きている若いDoc(博士)は機械のある部品を見て「こりゃだめだ。日本製だから無理もない」と言う。しかし、1985年の時代から来たマーティは「何いってるんだ?日本製は良質の代名詞でしょ」と言う。博士はアンビリバボー。日本の高度経済成長は誰もが信じられないミラクルであったのだ。

以下、英語台詞。 
Young Doc: No wonder this circuit failed. It says "Made in Japan".
Marty McFly: What do you mean, Doc? All the best stuff is made in Japan.
Young Doc: Unbelievable.

これを見ると、今の中国に対してもちょっと考えさせられる。

中国製といえば、これまでずっと品質が悪いものの代名詞であったが、2015年の今、食の問題で悪いイメージがあるmade in chinaだが、xiaomiのスマホやテレビなどいろんな分野で中国製でも革新的な商品が生まれている。

しかし、 All the best stuff is made in Chinaとはまだまだ到底いえない。

日本は一億総中流で誰もが同じような厳しいユーザーとして商品やサービスにクレームをつける。これが日本のきめ細やかなプロダクトを生み出してきた。

しかし、現在付加価値があるのは、創造性をベースにしたプロダクトや政治力をベースに世界的に展開できる力をベースにしたプロダクトだろう。そういう分野で日本は既に周回遅れ。

たしかに、商品の作りが丁寧で、清潔とかそういうレベルでは日本のプロダクトへの信頼は高いが、社会を変えるようなワクワクするユーザーエクスペリエンスを提供できるものは生まれす気配がない。

2025年、2035年、2045年の世界ではmade in japan とmade in chinaはどのような位置づけになっているのだろうか。

made in japan? what is japan?とならないように頑張ろう。 

欲望、という言葉をきいてまっさきに思い浮かべるのは性欲と食欲ではないか?そう。これらの欲望が人間を突き動かす根本的な力。

遺伝子、種の保存などを目的とするという生物学的にも納得しやすい。

いや、納得できない。根本的な疑問がある。この欲望のベクトルはどこに向かっているのか?種の保存?それは何なのか。それは物理法則のようにものとものの間に自然と働く力なのか。それは結局なんなのか。エントロピーなのか?分からない。

生物学的な知識など勝手に信じ込んでいるだけ。本当はどうなのか分からない。

ふと、気づいたことがある。

お腹が空けば何か食べることで、食欲を満たした、と思う。
性欲を抱けば、異性と交わりこれを満たす。

そう普通思うだろう。

しかし、これは本当だろうか?本当にそれで満たされたのか。

腹が減った空腹感を、食べ物が満たすというのは生後的に獲得した習慣。性欲も同じ。

腹が減る→何かを口にいれる、というのはどうやって必然性を保つのか。

「欲望があり、それを満たす」というこの慣習は、まさに慣習でしかない。それとも自然法則なのか。食欲の満たし方を知らない動物は死んで淘汰される。知っているものだけが生き残る。こうして必然性を確保しているのか。

そう考えると、僕が今から右にいくか左にいくかも、実は自然法則が求めているものがあるというのか。人間はどこへ向かうのか。それを突き動かしているようにみえる欲望というのは自然法則の預言者なのか?

それがどこに向かっているのかは誰もしれない。ただただストーリーを作って納得するしかない。



 

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