記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年10月

西研さんがニーチェをうまく解説している。ニーチェの言い方をいちばんいいように受け取ると、自分の感覚を大事にしなくちゃということ。周りに合わせて己固有の価値判断の放棄をするな。つまり自分でもって、これが好き、これが正しい、これは妙だ、と判断しなくてはいけないということ。これは変に目立ったことをしろということではなく、自分にとって面白いこと、嫌なこと、そういう感覚を大事にしないとなんとなく生きているということになってしまうぞ、自分の生なんだろ?はっきりしろよ、とニーチェはいいたい。

僕は昔はテニスに夢中だったときテニス選手やコーチになる夢があったが、そんなに強いものではなく、無意識に抑圧していたが、実際は運動もできるが哲学も科学も何でもできる超人を夢見ていたのかもしれない。特に日本にいるとそういういかにも不可能なものを追うのは馬鹿にされたり恥ずべきことだとされやすいので、無意識に覆い隠していたようだ。こういうになれるかどうかは置いておいて、一歩一歩歩んでいけばいいではないか。

そう思う今日このごろ、
というかこの2年くらい。

僕はよくカフェにいって読書をしたり執筆したりする。そういうときに、できれば近いところのほうが楽なのだけど、あえて遠目のところにいく。

かなり感覚的なことなので定かではないが、近くのカフェだと知り合いに会う可能性があるから、ということかもしれない。 別に人に会いたくないわけではないが(他の目的なら逆に会いたい)、読書や執筆などするときはできるだけ邪魔が入らない状態がいい。

実際、近くのカフェでもまず友人に会ったりする可能性はないのだが、超極小であってもその可能性が意識されると急激に自由の感度が下がる。なかなか表現が難しいが、中断が入るとかなりテンションがさがる。自分の世界にどっぷり入りたいのだ。

これは、以前紹介した渡部昇一の本で書いてあったが、それと同じこと。渡部は深夜が最も知的生活に適しているのは何の中断の心配もなくさらに朝まで無限に広がるような時間を感じ取れ、創造的に知的な作業に没頭できるから、という。

創造的になる環境、ということで続けよう。

こうした「中断」以外にも、若干のザワザワ感が重要。夜22時以降くらいの都会のカフェ、というのは最高。夜なのに人が結構いる感じ。それぞれが別の目的で何かに取り組んでいる感じ。これが全く何の刺激もない静かな自宅だと、何かが足りない。

僕はほんとうにたまにだが上海で深夜までやっている繁華街のカフェで遅くまで作業して、タクシーで帰ることもある。

もし家のすぐ近くにこういう環境があれば毎日行くだろう。誰かが都会などの密集地帯からしかイノベーションは起きないといったが、こういう空間もその一因だろう。こうしたインフラ整備も実は重要な政策になるかもしれない。

かといって、起業家育成の交流できる24時間営業のカフェ、みたいなことをしたら台無しなのは言うまでもない。
 

先日、「凄い」の本質について説明したが、これは別の言い方をすると、正しい人間観と世界観を持っているということである。

人は普段いろいろな情報に触れている。その中で自分の価値観が編みあげられて刷新されていく。赤ん坊はデフォルト設定で母乳をもとめる。すると、母乳に関係する、母親、その前後に起こる出来事などにも好感を持つ。母乳の前にいつもクラシック音楽がかかっていたら、これを好きになるかもしれない。

基本的に、物理空間からの影響が大きく、脳内で思考したことの影響は小さい。言葉でいっても分からない、これが現実。

いくつか情報源を見てみよう。これはフッサールのいう直接知覚する生活世界と、それに基づいて信憑する伝聞世界に分けられる。

■人の情報源
・五感からの物理的な情報(生活世界)
  ・視覚情報
  ・聴覚情報
  ・嗅覚情報
  ・触覚情報
  ・味覚情報 
・伝聞情報(伝聞世界)
  ・オピニオンリーダー
  ・インターネットメディア
  ・新聞メディア
  ・テレビメディア
  ・書籍
  ・調査機関レポート 

「凄い」の話に戻ろう。

要するに正しい人間観、世界観とは人の価値観がどのように複雑に編みあげられてきたかをうまく想定するということ。上述の情報の影響を人は受けている。 

その人は何に価値を感じるのか、それをその人の外見や経歴など個人情報から想定する。そうして、その人が価値を感じるようなものを提供する。

実は、キリスト教にしても儒教の世界観にしても同じだ。人が何か壮大だと思うようなことを見極めて価値を感じる(リアリティ)を感じるようなものを仕立てあげるのである。文学も同じ。マーケティングも同じ。北風と太陽の太陽は、人を理解してたということで「凄い」のである。 

ウィトゲンシュタインは前期の思想で、写像理論を示し、有名な「語りえぬことは沈黙しなくてはいけない」と解き放ち過去の哲学問題に終止符を打った。(その後撤回されるが)

写像理論とはようは、言語は世界を写しとったものであり、言語は世界と一致することだけが有意味で、世界と一致しないことは無意味で語れない、ということ。だから、神とか、魂とか、真理とかいうものについては沈黙しなくてはいけない。しかし、ウィトゲンシュタインも自覚しているが、これを語っていること自体が矛盾になってしまう。その超越的な視点で語っているあなたは何なんだ?ということ。

これは、カント、ヘーゲルなどどの哲学や思想についても言えること。

なので、結論をいえば、いかに納得できるか、信憑できるか、ということが哲学・思想の強さ、ということになるだろう。今の写像理論でいえば「その視点で語ってるの誰やねん」となればもう吟味したくなくなり信頼を寄せないだろう。

そういう意味で、フッサールとかハイデガーのように現象学的に自分の内省からスタートして人間観世界観を構築していくのが最も”信頼しやすい”。何かを信頼し確信しているというのは、それについて疑問も出てこないで、無意識にそれをベースで意識が進行するようなもの。

今後、世界的に共生していく時代を迎えるにあたり、こうした現象学的な議論が最も可能性をもった哲学思想である。

ギリシャ哲学、中世、近代、現代哲学など哲学・思想が長い歴史をかけて変化してきた。(ここでは進化といわず変化という。なぜなら進化しているという時点である超越的な視点を想定してしまうので)


例えば、ギリシャ哲学では水が世界の最小構成物だ、とか火とか土だ、とか言われていたが、今はそれが科学的に原子より小さな素粒子だ、など言われている。カントは認識問題を解決したように思われたが、そもそも言葉の誤用ということでウィトゲンシュタインは違うことをいうし、ウィトゲンシュタインは後期には前言を翻す。

例えば、僕は今、哲学的に竹田青嗣の人間観と世界観が最先端だと思う。それは現象学的に内省して自分で確かめながら納得できるし、たっきりとこうした世界観は信憑構造にすぎないとしている。さらに分かり得ないことを一つにまとめており、その他のところを議論するような形をとっていて明快。

何が言いたいかというと、
ギリシャ時代は、例えばプラトンは一つの人間観世界観に落ち着いてある程度スッキリしたのだろう。これをプラトンのスッキリ度としよう。その後、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーなどなど哲学の巨人たちもある程度のスッキリ度に到達したのだろう。

これらは相対的なもので、比べられなそう。でも、絶対的な科学的な事実学としては比較可能ともいえそう。例えば、脳内で疑問やちょっとした不信を抱いている分泌液やら発火があるとか。

哲学の専門家に、ぜひ聞いてみたい、哲学は歴史の中でよくなっているのか?主観的な「スッキリ度」はよくなっているのだろうか。

僕はホリエモンが結構好きな方だ。

ただ、かれはかなり自分の体験に確信を持ちすぎている。

人は基本的に、物理空間での体験と、本などのテキストや思考という脳内での経験の2つで価値観を形成する。
 
ホリエモンは意外に社交的で人と多く接したり、外をいろいろ探索して物理空間での体験を通じた価値観の形成が主に思える。もちろん彼は読書家だけど、その影響は相対的に小さい。

政治や外交の世界は、物理空間と大きく離れた分野だと思う。 一般人が物理的な経験をもとに判断しかねるところ。そこには歴史という長い前提があって、それをもとに意思決定が必要。

昔、ホリエモンは朝ナマで「中国が攻めてくることなどありえない、尖閣などあげちゃえばいい」みたいな発言をしたが、一般的な生活の中で人や社会を見ていればたしかにこうもいえる。たしかに中国が沖縄や九州を乗っ取っても統治できるわけがなくただチベットみたいな問題が増えるだけなので、やる理由がない、と。

でも、政治や外交というのは、かなり価値観が違う。そこは特殊な言語ゲームが行われている。尖閣諸島がどういう外交カードとなりうるか、国益をどう計算するかなどで、普通の人ではわからないことがおおい。国家からしてみれば長期的な平和のために戦争で殺人することも許容される。昔話ではなくアメリカは今でもこんな感じ。日本はアメリカに守ってもらったおかげで不要であったが、冷戦後は普通の国家にならざる負えない。

国を安定させるため、(国民国家がなくなるなら世界を安定させるため)粛清や戦争もオプションとしてもたざる負えないのが現状。

今回言いたかったのは、ようは、視野を広く持ったほうがいいということ。ただ、ホリエモンはそうしたことも理解しつつ、本当にテクノロジーがこうした国際情勢の問題も踏まえて解決してしまうと信じているのかもしれない。 

社会とは何なのか?それは社会学でうまく捉えれれているのか?僕がいつ人間の生からの根源的な視点で社会を捉えたい。すでに竹田青嗣氏がそういう方向で発言しているので、以下ほぼ引用でまとめてみる。こちらの人間学での講義から。

言語の本質かハッキリすると、社会の本質もハッキリする。社会とは一言で言えば集合的な約定関係に基づく言語の網の目です。そういう社会をどう考えるのか。そういうことについて話してみたいと思っています。

ひとつは、人間の存在の本質に迫るうえで必要なのです。
すなわち、人間の存在の核心は、実存すなわち一回切りの生と交換不可能性だとよく言われます。しかし、それだけではちょっと乱暴です。もう少していねいな説明が必要です。そこで、「身体」と「欲望」という観点からのアプローチが必要になってくるのですが、人間の「身体」と「欲望」は他の動物のそれと全然本質が違います。そして「言語」の本質がわからなければ、人間の「身体」と「欲望」の本質もわからないのです。で、身体や欲望のがわからなければ「実存」の本質もわからない。結局、人間の存在の核心がうまく説明できないのです。

もうひとつは、言語がわからないと「社会」の本質もわからないということです。
 
社会学は、19世紀の中ごろにコントやデゥールケムなどによって本格的に学問としてはじまりました。社会のはじめのモデルは、「複雑な機械」とか「複雑な有機体」といったものでした。現代社会学においては、ルーマンなどが理論的な最先端に位置しています。彼は社会をいかに捉えるかに苦心して、大脳生理学を援用してオートポイエーシスとか「複雑系」といった概念を使おうとします。しかしはっきり言うと、これらはみんな可能性がない。というのは、このような社会学の発想は結局みな事実学であるからです。
 
事実学的なアプローチでは社会の本質はとらえられない。この考え方に正しい点があるとすればいまの社会学は大分方向転換しないと、先がないということになります。
 
大雑把に言いますと社会の本質は、ルールゲームという形で考えるのがいい。ルール、システム、ゲーム、プレーヤーという概念の系列になります。そしてとくに重要なのはルールですが、ルールは潜在的に言語の網の目として成り立っている。したがって、言語の本質をとらえないと社会の本質をとらえることができない、ということになるのです。

(「社会集合的約定」)
「言語記号」は関係企投という動機にとっての「道具的存在」である。言語がそのような関係企投の道具的存在でありうるのは、それが記号として一般的な対象指示性や関係表示性(指標性)をもつからである。この一般性は、一般的な約定として記号に属している対象指示性や関係表示性であるが、またこの約定は習慣的かつ集合的な非人工的約定、つまり約定の起点をもたずその超越的規定者ももたない独自の体系をなしている。

われわれはこのような社会的ルールの体系を「社会集合的約定」の体系と呼んでおこう。言語記号のこの一般的な対象指示性や関係表示性の本質構造は、ソシュールの「シニフィアン-シニフィエ」という構図においてきわめて適切に示されている。とくに重要なのは、シニフィアンとシニフィエの契合は恣意的であり、この契合関係によって指標の「一般性」が保たれているという点である。(同書P242~P243)

ここからが『言語的思考へ』であまり深く触れるところが出来なかったところです。読みます。
「「世界」とは何か。人間の「世界」は、「環境世界」ではなく、普遍的な「社会集合的約定」のゲーム。人間の「世界」には「事実」はない。

それは基層的な「価値の秩序」と、その上に成立つ「世界了解」の意味の網の目。したがって、言語によって事実として「世界」を把握することはできない。むしろ、無数の言語行為とそれによって形成される「約定」の網の目が、つねに「世界」を再構築しつづけている。(ニーチェ・フーコー) 言語の意味は、世界了解を編み変えることで、つねに相互関係を刷新してゆくこと。事 実や真実を描きだすことではない。「事実」や「真実」は、事後的な間主観化(=客観化)。社会学・人間学は、「本質的」たらざるをえない。
 
まず、言語は、人間の「幻想的身体性」の根拠でもある。わたしの用語では人間的「身 体」とは、感受性、美意識、倫理性、情動。これらは人間の「関係態度」の源泉です。そしてその全体に対して人間はおおまか無意識的です。フロイトは「無意識」を実体的に構想しましたが、人間が「身体性」として形成しているものの全体をわれわれは「無意識」的なものと呼んでいる。それはつねに「意識」の向こうからやってきて意識を押している。
 
さて、感受性、美意識、倫理性を形成するのは人間的「関係世界」です。まずそれは親 子関係を舞台とします。そしてそれはつねに「内面化」され、「身体化」される。言語は明示的な意味の体系を最も表層としてもつが、それを根拠として織りなされる関係企投の網の目が、「幻想的身体性」を編み上げる。人間的「エロス」と「欲望」は「意味」によって織りなされた綾布ということになります。
 
「「世界」は、「幻想的身体」による可能的経験の間主観的総体である。「社会」は、そのシステム的構成の系列としてのみ描かれる。」
 

人は、言葉で世界を分節し了解します。そして、分節した世界了解を他人に投げ出し、 他人とそれを共有しようとします。そうやってつねに世界との関係を編みなおそうとする。これが実存的視線で人間が絶えず行なっていることです。

しかしこの営みの全体は、また社会集合的な約定の網の目としての「社会」というものを作り上げていきます。要するに、世界も社会も固定的な実体ではない。個々の関係企投がそれぞれの関係企投の世界をたえず形成し、その集合としてルールの網の目としての社会が実体性をもつようになるのです。

それが集合的約定であるということ、これがそのルール性という本質を作っています。社会もルールゲームであり、また人間の存在も、その身体や倫理性、審美性、リリシズム全体もまた、ある意味でルールゲーム的本質をもつのです。

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ちょっと復習。

①言語によって事実としての「世界」を把握することはできない。
 
むしろ、無数の言語行為とそれによって形成される「社会集合的約定(約束と規定、この場合は【言葉の使われ方】)」の網の目が、つねに「世界」を再構築しつづけている。つまり、言語の意味は、世界了解を編み変えることで、つねに相互関係を刷新してゆくことであり、事実や真実を描きだすことではない。
 
「事実」や「真実」とは、事後的な間主観化(=他者の主観の妥当化)によって、共通了解されたことの謂いである。
 
②言語は、人間の「幻想的身体性」の根拠でもある。
竹田の用語では、人間的「身体」とは、感受性、美意識、倫理性、情動の根拠であり、これらは人間の「関係態度」の源泉である。
 
そしてその全体に対して人間は概ね無意識的である。フロイトは「無意識」を実体的に構想したが、人間が「身体性」として形成しているものの全体をわれわれは「無意識」的なものと呼んでおり、むしろ理念的に構想したい。
 
③感受性、美意識、倫理性が形成するのは人間的「関係世界」であるが、まずそれは親子関係を舞台として始まる。そしてその関係は、各個人において、常に「内面化」され、「身体化」される。
 
そこでは、言語は明示的な意味の体系を表層として持つが、その体系を根拠として織りなされる関係企投の網の目が「幻想的身体性」を編み上げる。従って、人間的「エロス」と「欲望」は「意味」によって織りなされた綾布ということになる。

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(1)現実とは
・前回に述べた通り、現実とは<言葉>で構成されたものであることが明らかになりました。そのことは又、現実それ自体、世界それ自体を、直接捉えようとする近代哲学の試みが挫折したことを示していました。つまり、直接的/形式的/因果的に<現実>を突き詰めて問うても、捉えられるべき<現実>そのものは姿を消し、現実を現わす<言葉>の断片だけが残るだけで、結局「厳密で確実な認識は不可能である」と言われる事態が起きたのです。その結果、各人の主観に現れる「現実のこの世界」の共通項としての<客観世界があるという確信>、及びその<共通了解>がやってくるだけであることを知りました。

(2)欲望とは
・今回は「身体論」を中心テーマにおいて、まず<欲望>とは何か、という所から始めて、次に<知覚と身体>、<幻想的身体>、<エロス原理>、そして<世界との関係について>という順番でお話をしてみたいと思います。
 
・<欲望>とは何かですが、たとえば私が水を飲みたいと思ったとしましょう。物的な因果関連になぞらえるなら、水を飲みたいのは、のどの渇き、あるいは身体における水分の不足に由来すると言えます。しかし、それは実は、後で解釈された説明にすぎず、「水を飲みたい」という<欲望>それ自身は。<意識>にとって、突然現われ、しかも<意識>による物的な諸表象の因果とは全く独立的です。そしてなによりも肝心なのは、<意識>の向こう側から突然、<意識>を突き動かすようにやってくる<欲望>というもののあり方こそ、人間の生の実践を促す根底であり、従って生の「自由」の意識の基底をなしている、ということです。

この<欲望>を人間存在(実存)の基底として用いるのが私(竹田)の戦略です。このように、<欲望>は私にとって「告げ知らされる」という形で、向こうからやってくる、つまり、<欲望>は<意識>にとって本質的に外部のものとして訪れるのです。この<意識>にとっての外部のものとしてあることを<彼岸性>といいます。目の前のコップは、目を閉じれば見えなくなりますが、目を開ければ見えてしまう。「見えるな!」と言っても見えてしまうのが<彼岸性>ということです。そして、この意識にとっての<彼岸性>が人間にとっての<現実>を構成する原理であると言えます。疑いようの無い(不可疑な)明証性が生じるからです。

(3)知覚とは
・<知覚>及び<情動>という意識体験は<意識>に現れるものでありながら、意識自身にとっては「彼岸性(自由にならないもの)」という特質を持っています。そして、<彼岸性>を特徴とする<欲望>とはさしあたって、人間の<知覚(つまり身体的規定性)>と<情動性>という、ふたつの規定の中で捉えられる、とあらかじめ言っておきます。

(4)言葉と欲望について
・<客観世界>といった像は、従って本質的に、<言葉>が実存(人間存在)の<欲望>のありようを共同的な交換可能性として表示していくという契機によって作り上げられるものだということがお分かり頂けると思います。
・ついでに、もう一つの重要な問題を考えてみたいと思います。
それは、<言葉>の秩序によって構成された<意味>の網の目としての人間的な<対象世界>が、今度は人間の<欲望>をどのように規定してくるか、という問題です。

(5)意味と欲望について
・私達の生の充実や魅惑は、決して生理的身体の快と結びついているだけではありません。芸術家の<欲望>は良い作品を作りたいということに向けられます。自分の作品がひとを動かしたという充実は、満腹して飢えが癒されたという身体的な快とは異って、廻りの<他者>たちの言葉や状況を、自己了解の中で<意味>として確かめることによってのみ味わうことができます。

このとき、彼の<欲望>はこの<意味>に伴う<情動>の動きによって告げ知らされたのですが、ただこの<意味>だけを相関者として持っているのです。言いかえると、人間は常に<欲望>として実存しているため、事物はいきなり、欲望の相関者、つまり<意味>として現れるのが特徴です。このように、人間の<欲望>はつねに<意味>への欲望であり、その限りで人間の欲望は幻想的なものといえます。

(6)身体とは
・私達の<身体>は、私達の<知覚>によって実在するものとして捉えられますが、それは他の一切のものと次の点で区別されます。つまり、<身体>とは<知覚>の対象物なのだが、同時に<知覚の原因>でもある点です。
・では、この私達の<身体の本質的契機>とは何でしょうか。3つあります。一つ目は「快苦を感じる原理(エロス原理)」二つ目は「ありうるをめがける原理(存在可能原理)」三つ目は「できる(能う)」という原理です。この身体の本質を「身体性」と呼んでおきます。
 
・次の場合を考えてみましょう。獲物を狙って全力で走っているとき、又死に物狂いで闘っている時、動物は「私(動物だから私とは言わないかもしれませんが)」と「身体」の分裂を意識していない。だが、たとえば、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識することになるだろう。同様に「逆上がり」の出来ない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、つよく自分の「身体」を意識することになります。このように、人間ばかりでなく動物にあっても、身体が意識されるのは、主体の<存在可能>にとって、なんらかの「~できない」が問題となる場合です。<身体>とは<欲望存在>としての動物にとっての「存在可能の条件」でもあるのです。

(7)幻想的身体とは
・人間の身体は単なる生理的身体ではなく、<幻想的身体>としてあるのです。この<幻想的身体>とは、快苦の原理(エロス原理)を自己生成するような身体のことです。(詳しくは、あとで説明します。)従って、身体を「できる」へと作り変える必要があることが、人間において、<身体と心>が対立項として分離されて意識される原因です。そして身体の「できる/感じる」が訓練や学習によって多義的に展開できることが、多様な目標(多様なエロス感受)を作り出しうる理由となっています。

(8)身体とエロス原理について
・動物が世界を分節する根源は「エロス原理」です。我々人間も、身体をこの動物的存在の基礎をなす「エロス原理」と考えるべきだと考えます。『身体は対象化する原理である。』というがM.ポンティの力点です。ここで、<対象化する>とは根本的に世界に対して主体がひとつの<エロス的関係>として向き合うことを意味しています。身体とは文字通り、まず感じる原理(エロス原理)なのです。
・更に、人間は<言葉>の世界をもつために、その身体は、何らかの意味に対して「快不快」の情動を発動させるような「幻想的身体」となっているのです。先ほど言いましたように、人間だけは、快苦の原理(エロス原理)を自己生成するような身体(幻想的身体)として持っているのです。言いかえると、人間にだけ<幻想的な身体のエロス>ということが生じるのですが、これは人間は世界を単に直接的な<エロス>として味わうだけでなく、<言葉>によって世界を対象化するからです。
・言葉の存在は、<他者>たちとの「意味の秩序の共有」を”意味”する前に、まず<他者>たちとの「環境世界」の共有を”意味”します。つまりこのことによって人間は世界を単なる快苦の原理で色づけるだけでなく、いわば<世界を客観化>しているのです。

(9)世界との関係について
・では、その世界との関係はどうなるのか、を次に考える必要が出てきます。
・神に近づきたい/美しいあの人を所有したい/革命の成就 等の欲望は<意味への欲望>であり、従って<幻想的な欲望>です、しかし、この<欲望>は、あたかも身体のようにエロス化(感受化)されています。どういうことかと言うと、その<欲望>の実現はあたかも身体が生理的な<快>を受け取る様に、人間にとって<幻想上の快>をもたらすようになっている、ということです。逆の場合(苦)も同じです。そしてこの<幻想的な身体>にとっての快苦という現われを、私達はそれぞれ、<美醜>、<よいわるい>、<真偽>というカテゴリーで呼び分けているのです。
・つまり、私(竹田)が<エロス性(快の感受性)>という言葉で示したいのは、「よい/きれい/ほんとう」で表現される「価値」として色づけられて現れるくるような、私と世界との関係上の原理のことなのです。
・この世界は単なる事象世界ではなく<私の欲望>のあり方によって価値づけられて存在しているということです。
・フッサールも、現実世界の事象は<価値>を含んで現れてくることに気づいたのですが、その考察は十分では無かったのです。それを引き継いだハイデガーが「気遣い」という言葉で示そうとした「実存的な意識存在のありよう」を、私(竹田)は<欲望>と呼び変えてみたいと考えた訳です。
・<主観>は世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということです。また「欲望がある」とは、とりあえず、主観がある、意識がある、身体がある、というのとほぼ同じことだと理解しておいてください。

(10)まとめ
以上をまとめると、人間の「身体性」は二つの特質において、動物の身体性と区別されます。ひとつは、人間の身体性はつねに新しい”幻想的”な感受性を付け加えつつ、それ自身を刷新し変容させていくという特質です。もう一つは、このことによって人間の「身体性」にとっては「対象世界」それ自体が多様なエロス的審級を持つということです。
・「幻想的身体」に対する人間世界を「幻想的世界」と呼びます。この人間世界の秩序形成の源泉は二つあります。一つは<エロス的可能性>であり、もうひとつは<不安>です。この人間の<不安>というのも勿論、幻想的なものです。つまりそれは「自我の不安」にその本質をもっているということです。岸田秀は『自我とは自我を安定させようとする欲望のことである。』と言っていますが、この言い方は、この辺りのことを上手に説明していると思います。
・もう時間が無くなってきましたが、ここまでで<エロス的側面>については説明できたと思いますが、<不安>については十分説明できませんでした。もうひとつ<時間性>についても十分説明できませんでした。これらについては、拙著「エロスの世界像(三省堂)」あるいは一寸難解かもしれませんが、「意味とエロス(作品社)」をご覧頂きたいと思ってます。

(11)最後に
・最後に言っておきたいことは、個人と社会/世界に関わる現象学的考察の次の段階としては、「個人と社会」の関連テーマとしての<倫理/正義>の問題や、現実の<資本主義>に関わる難問を考察する必要がある、ということです。
 そのために、西研(哲学者)さんたちと「近代哲学の再考」を目論んでいる所です。<倫理/正義>の問題や、<資本主義>の問題については、批判の根拠として、どうしても「近代哲学」が要請されると考えるからです。これらについては(注)、次回以降の講演会でお話をしたいと思っています。

ということ。 社会については軽い説明に終わっており、どのように社会理論を構築し、現代社会に役立てようかということが述べられていない。このあたりは、別の著書を参考にする必要がありそう。


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