記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2015年12月

高木新平、宮台真司、坂口恭平のよるヒル超会議「これからの生き方」の書き起こしを見つけた。2012年6月10日に行われたよるヒル超会議のセッション5、「これからの生き方」の書き起こしです。youtubeで見れるけど、けっこう内容濃いのでテキストで読むとわかりやすい。

宮台真司は、文章だと小難しく書くので分かりにくいがしゃべりだとわかりやすい。以下に彼の問題意識と自分の主張が明確にまとまっている。各自自分で彼の意見を吟味して来年に向けて日本のために何ができるかを考えてほしい。

良いお年を!

日本についての問題っていうとね、結局日本はねぇ、幻影の中でしか国策が決めれないんですよ。これはね、丸山真男っていう有名な政治学者が敗戦の研究の中から出てきた重要な観察なんだけど、例えば陸軍も海軍もエリート集団だったんですよ。ところが、陸軍も海軍もね、現状分析の部署と作戦立案の部署と両方あって、どっちが偉いかというと作戦立案なんです。権益と結びついているから。どういう作戦、どういう政策を取るかで、どこの会社にお金が落ちるか決まるわけね。順序としては現状分析の後に作戦立案がされるんだけど、作戦立案は現状分析をパーフェクトに無視して、権益だけを参照してなされるのね。それであと面白いのは、現状分析の部署が政策のシナリオに合わせて現状分析をパーフェクトに書き直す。

結局これ、今の原子力村周辺、経産省全部同じだよね。例えば、最初関電は20%電力不足というシナリオを書こうとしたのね。だから「1キロワット辺り7.6円以上の電力は融通しません」とか。「水力発電は定期点検中で稼働しません」とか。要は2割足りないというシナリオに合わせて現状を書き変えてしまうわけね。だから何も変わってないわけね。原発絶対安心神話も日本にしかないでしょ。原発は安い、これもありえないでしょ。廃炉コストとかね、中間貯蔵施設にあるものを資産計上してるでしょ。アレ実際には核燃料サイクルシステム回らないので、あれは全部最終処分に周りますけど、いずれはね。それも計上してないでしょ。巨額の賠償金も全く計上していないでしょ。それで事業コストだけ1キロワット辺り5.6円、火力よりも自然エネルギーよりも安いですって、日本でしか通用しない、理屈でしょっていう風に、日本はね、巨大なフィクションの繭の中で国策が決まっちゃうのね。

という事で、後で時間があれば説明するけど、住民投票とワークショップの組み合わせで、企業からも事業者からも行政からも様々な立場な学者からも情報出させて、いろんな価値観を出させて、みんなで単に頭数を合わせて数を取って多数決じゃなくて、本当の所はどうなのかって所でね、目から鱗的な体験を積み重ねて、簡単にいえば、民度が上がる。そうすると議員さんもそれを前提にするので、官僚のシナリオで手打ちっていうわけにもいかないので、議員さんもレベルが上がる。で、それだけじゃなくて、そのようなワークショップに参加する事を通じて、「最近の若いものは」思ってたら「中々いいやつじゃん」みたいな感じになったりとかね、色んな国籍の人間もそこに入っていって、「あー思ったのと違うな」と気づきがあったりとか。

気づきが大事で、ホームレスの方をフィールドワークされてる、僕はずっと援助交際の子たちを全国フィールドワークしていて、そりゃ見る前と実際見ると全然違うわけですよ。多かれ少なかれ違う。だって見てないものを見るって本当に大事な事でね、そういう意味ではやっぱり日本特有の幻影国家なので、それなんとかしましょうって事があります。

で、あと、どこの国でもわけのわからないものに依存してるんですよ。原発なんか典型だよね。あるいはそれだけじゃなくて、枝野ホントにいるのみたいなもの、政治システムはどう回って、何が出力されてるかってわからないんですよ。

以前ね、菅直人さんと総理の時に飯食ったことあるんですよ。それで、ちょうど今話題の増税問題、あれはね、やばいですよ。増税の根拠になってる数字がこういうふうにデタラメデタラメになってるって話したのね。「菅さんわかってるのか」って言ったら、「宮台くん、僕はねこの問題ね、関心があるからよくわかってるんだよ」って。「じゃあ増税10%とか言わないでくださいよ」って言ったら、「宮台くんね、首相官邸の中で、官邸全体がどう回ってるかを理解している人は一人もいないんだ。」「え?」「いや、僕もわからないな」っていう次第でね、そんなものに依存してまともに生きていけるなんて思ってるやつは狂ってるわ。

もしあなたが仕事をやめようとしているなら、僕はこういいたい。

(ちなみに、仕事をやめるというのは、転職、起業、起業した会社をたたむ、などなど文字通り今やっている仕事をやめることをいう。)

仕事とは何か分かっているのだろうか。

人間が宇宙に生きるということはどういうことか。それは、真っ向から自然と対峙している状態である。

まず、人間社会がどういうものか、あなたはどう捉えているか。もちろんこれに誰もが普遍的に共通了解できる答えはない。誰もがエイヤで俺はこうだ、と根源的になところで妥協せざるをえない。

多くの人は、唯物論的な素朴な世界観を持っているのではないか。ビッグバンからこの物理空間がはじまり、物理法則に従い銀河系で地球ができ、生命が生まれて、下等生物が生まれ、どんどん進化して人間に至る、みたいな。その世界観は誰もが軸として持っていると思う。たとえ、それが確かめようがないことであるけれども、日々の物理法則に従っている世界を見ていれば無意識に信頼をよせてしまう。

そうすると、こういう物理法則の空間に自分が生まれてきた、というのが一番純粋な事実だ。社会は法律だとか規範とかいろんなルールがあるが、それらは目に見えないし、もともとの物理空間に存在したものではない、と考えるのが普通。

さて、今の複雑な人間社会は何なのか?資本主義?グローバル化?
こういうのはどういうベクトルの中で生まれたのか?

まず、人間はもともと原始時代などは自然に真っ向からの対峙していた。現代でいうと、例えば日本だったら、島根県のとある森林に放置プレーされたようなものだ。そうしたらどうする?一人だと食料確保も大変だ。誰かと協力して衣食住をどうにか確保するだろう。協力者が多ければ多いほどいい。でも、多くなると、役割分担や食料備蓄などでだんだん対等でなくなる。そうすると全体をまとめるルールや統治者が必要になる。

そっからすっ飛ばすが、要は現代はそういうベクトルの流れで数千年進化してきたのである。根本は真っ向からの自然に対峙。そして社会を作って安定的に生きれるように人と協力したのである。当初の状態に戻りたければ、まだ世界には人間社会がない場所が多数あるのでご自由にいけばいい。でも、平均70歳とか80歳まで生きようとするなら、人間社会に従うほうがいいのではないか。

自然と勝負して、獲物を体力で頑張って捉えるとか、どっかで毎日果物とか野菜探すとか、大変で疲れるし明日も取れるとは限らない。だったら、現代社会でパソコンの前で意味のわからん作業するのもある意味いいのではないか。

エクセル作業、資料の確認、コピー取り、接待などあなたが会社でやっている一見生産性のない仕事も、「イノシシを追っかける」とか「木の実を探す」というのが人間社会が形成され、変化していった結果なのである。 

まずは、この宇宙、地球、人間社会、グローバル資本主義社会というものをそもそも論で考えるべきである。 

いわゆる「思考停止」とはどういうことか?

ぼくはあまり深く考えないことに大して、「悪」とする風潮には疑問がある。
別に、疲れるから考えない、というのはありでしょう。

まあ、その判断を吟味するためにも、俗にいう「思考停止」とはどういうことか、思考停止せずに深く考えてみたい。

これを説明するために、昨日僕が書いた記事を丸々引用する。

ソシュール研究で世界的に有名な丸山圭三郎は著書「文化のフェティシズム」で「非在の現前」という概念を提示している。

その概念を僕なりに説明してみよう。

人間は、生理的欲求が根本にあり、そうした身体ベースで世界をまず切り分ける。快不快とか、そういうのがベースである。本能といわれるものである。食物ひとつをとってみてもそうだが、生命保存のために何が危険で何が安全か、何がよくて何が悪いかなど、それぞれの生物種が身に持っている身分け、これにより世界を分ける。身分け構造といっている。

この身分け構造が土台にあり、人間は五感の作用で情報をいっぱいインプットされると、ある特徴を共有するものを見出しそれをシンボル化し概念を獲得する。例えば、猫を100回みれば、それを一つの概念だと覚える。その概念は身分け構造での体験にリンクしている。

それにより、そもそも存在しない<意味=現象>すなわち<非-存在、non-etre>を現前させるものであると説明している。これは、猫が目の前にいないときでも猫をイメージできる、ということではないない。そうではなく、目の前に小さくて四足で耳が上向きの何かがいることを一つの概念としてまとめあげて捉えることが非在の現前である。人間が勝手にひとつの概念を創造しているのだ。この時点ですでに過剰。

さらに、人間はこれを言葉で操作してさらに身分け構造からは乖離した人間特有の「過剰」としての意味を創造し続ける。わたしたちが、身の延長としての時間意識や空間意識を持つのも、言葉によって過去と未来、背後のあそこと前方のあそこ、つまりは「来し方と行く末」を創造するためである。

こういう理解で合ってるのだろうか? シンボル化→それに音を当てはめてる=言葉、で合ってるのか?
分かるかたいれば教えてください。

何か一歩足りない気がする。もう一度読み直してみよう。


 これが理解の補助線になる。

本来、人間は身分け構造で生きている。それが最も根源的な「世界との関わり」である。しかし、シンボル化能力によりどんどん身分け構造から離れていき、世界とは切り離された言分け構造の世界に入っていく。なので、世界にないことに対して怯えたり、感動したり、勝手に反応していく。例えば、家で小説を読んでいる人間を想像してほしい。ただ、文字を読んでいるだけなのに涙をながす。物理空間ではただ、紙を見ているだけなので、動物からしたら状況がわからないだろう。

さて、「思考停止」とは何か?

それは、「身分け構造が根本にあることを理解し、そこにできるだけ迫ってものごとを判断する」 ことをしないことを「思考停止」というのではないか。言葉だけで宙に浮いた議論をしていれば、それがどうやって物理的なリアルな世界とリンクしているかが分かりづらい。もともとは、身分け構造があるのだが、そこを忘れていたり、全く無視していれば、それは世界と乖離していくことになる。

世界と乖離してもそれがリアルに感じれるならそれはそれでいい、という議論もあるかもしれない。

でも、やはり世界は唯物論的に動いている、という世界観は全人類で普遍的なものだ。そこに根ざしていないと共通理解はない。逆にそこに根ざしていれば共通理解は必ずできるだろう。「思考停止」というのは、ようはその身分け構造まで迫っていかないこと、だといえる。それはたしかに、共通理解をしようとするうえでは悪である。 

ソシュール研究で世界的に有名な丸山圭三郎は著書「文化のフェティシズム」で「非在の現前」という概念を提示している。

その概念を僕なりに説明してみよう。

人間は、生理的欲求が根本にあり、そうした身体ベースで世界をまず切り分ける。快不快とか、そういうのがベースである。本能といわれるものである。食物ひとつをとってみてもそうだが、生命保存のために何が危険で何が安全か、何がよくて何が悪いかなど、それぞれの生物種が身に持っている身分け、これにより世界を分ける。身分け構造といっている。

この身分け構造が土台にあり、人間は五感の作用で情報をいっぱいインプットされると、ある特徴を共有するものを見出しそれをシンボル化し概念を獲得する。例えば、猫を100回みれば、それを一つの概念だと覚える。その概念は身分け構造での体験にリンクしている。

それにより、そもそも存在しない<意味=現象>すなわち<非-存在、non-etre>を現前させるものであると説明している。これは、猫が目の前にいないときでも猫をイメージできる、ということではないない。そうではなく、目の前に小さくて四足で耳が上向きの何かがいることを一つの概念としてまとめあげて捉えることが非在の現前である。人間が勝手にひとつの概念を創造しているのだ。この時点ですでに過剰。

さらに、人間はこれを言葉で操作してさらに身分け構造からは乖離した人間特有の「過剰」としての意味を創造し続ける。わたしたちが、身の延長としての時間意識や空間意識を持つのも、言葉によって過去と未来、背後のあそこと前方のあそこ、つまりは「来し方と行く末」を創造するためである。

こういう理解で合ってるのだろうか? シンボル化→それに音を当てはめてる=言葉、で合ってるのか?
分かるかたいれば教えてください。

何か一歩足りない気がする。もう一度読み直してみよう。 
文化のフェティシズム
丸山 圭三郎
勁草書房
1984-10-15

 

恥ずかしながら今頃プラトン「饗宴」を読んだ。

どんな内容かというと、

原題の「シンポシオン」とは「一緒に飲む」というほどの意味。一堂に会した人々がワインの杯を重ねつつ次々にエロス(愛)讃美の演説を試みる。最後に立ったソクラテスが、エロスは肉体の美から精神の美、さらには美そのものへの渇望すなわちフィロソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く。さながら1篇の戯曲を思わせるプラトン対話篇中の白眉。

これはもう、アートである。

素朴な人はこれをただの空想を語っている酔っぱらいの話で片付けてしまうかもしれない。

しかし、当時の戦争がないときは議論と酒だけを生きがいにしていた彼らは、神秘的なものについて掴み得ないが何かをつかもうと努力している。

美とは何かを、論理で説明しようとせず、直観を頼りにイメージで語る。そうした取組の極みが本書で見られる。

というか、一番印象に残ったのは、

みんな飲みまくろうぜ→俺昨日も飲んだからきついわ→医学的には飲み過ぎ身体に悪い→今日はみんな自分のペースで飲もうや
という下りが紀元前416年から行われていたこと。


饗宴 (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
2008-12

 

人間を一つの固体として捉えがちである。

それを一つの観点の主体、というような感じで。なぜならあなたがそういう体験をしているから。

しかし、原理的に人間は一人ではなりたたない。それは精神的な支えとかそういう意味ではなく、生物として種を保つために男女がいなくてはならないし、血がこすぎないくらいの他人がいなくてはならないし、さらにいきなり誰かが死んでも絶滅にはならないくらいの人数がいないとそもそも成り立たない。アリが多数で一つの生物のように振る舞うみたいに。ということは最低でも数十人で共同体として始めて生き続けることが可能となる。

なのぜ、人間の根本は生理的欲求であるが、これは、必ず社会性を持っているといえる。 性欲、食欲は個を維持するものであるが、その他に社会性のための根本的な欲望があるはず。それは承認欲とかそういう形で僕らはいまのところ認識しているが、もっと根本的な形で捉えることができるのではないか。動物など観察すればいいのだろうか。ちょっとこの観点を気に留めておこう。

ゼノンのパラドックスは、未だに明確な解答がない哲学や数学上の難問であると理解されている。これにたいして、哲学者の竹田青嗣は著書「プラトン入門」で余裕で解答を出している。ちなみに僕も竹田氏よりも明快ではないが、同じ答えを出していた。証明しようはないが笑

まずは、アキレスと亀の問題をwikiから引用

アキレスと亀
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」アリストテレス『自然学』
 
あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか[2]なので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。
 
スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。 

どうだろう?まずは自分で考えてみてほしい。
ドハマリすると抜け出せなくなる。

 では、竹田氏の解答をみてみよう。一部省略して引用。

このパラドックスについて、それを論理的に解くということにはたいした意味がなく、それが哲学の難問として現れていることの本質を取り出すことが重要。

「有限の時間のうちに無限の点を通過することは不可能」というテーゼを妥当と認めれば、このパラドクスは必然的にときえない。そして多くの哲学者や数学者がこの前提のテーゼを暗黙裡に承認しているためにゼノンのパラドックスは誰も解けないという意見が現れている。

このテーゼの核をさらに端的にいうと、「無限>有限」という命題になる。しかしこの命題はただ、大きいものは小さいものに含まれ得ないといった一般像の上での妥当性しかない。

「無限なもの」は「有限なもの」の中には含まれない。これがゼノンのパラドックス全体を支える命題であるがこれは何ら自明ではない。

「有限>無限」という事態はいくらでもありえる。誰にでも分かることだが、一つの円を書くとその内部は有限なら領域となる。しかし、この有限な内部の領域の中に任意の点は無限に存在することができる。また、一本の紐はその長さにおいて有限であるが、論理上これを無限に半分に分割していくことができる。この場合も有限の長さの中に、無限の点が存在しうる。

われわれは、足の早い人が遅い人を追い抜くことをしっているが、これはいわば 「有限の時間のうちに無限の点が通過されている」ということだ。しかし、なぜわれわれは、この事実を「アキレスと亀」の論理でいい表すとときがたいパラドクスと考えるのだろうか。

日常的にごく自明のことがらが、論理的にこれを表現すると、「有限>無限」ということになる。これを矛盾だと考えるからである。そしてこの場合、もちろん日常の事態に矛盾があるのではなく、「有限>無限」を矛盾だとするわれわれの頭の中の論理の秩序が間違っているのである。

従って、ゼノンのパラドックスを解くということは、これまで多くの哲学者が考えたように「有限の時間のうちに無限の点を通過することは不可能である」という命題を論理的操作により「可能である」へと変換することではない。われわれの論理の秩序がしばしば誤ったかたちを取るその根拠を解明すべきである。

その根拠をこういえる。無限や有限といった抽象概念は、そのつど措定される一つの観点にすぎないのに、人はこの概念を使用するうちにこれを何らかの実体として表象してしまうことにある、と。

これらの抽象概念は、それらがそのつどある観点を提示するということにある。ところが人はこれらの概念を、その内実を厳密に規定できる数学的な実体的概念のように考え、そのように使用する。

例えば、無限や有限という概念は、量や長さなどについての「大きさ」を表示しているのでは、まったくない。それはただ、そのつどのある対象のある側面をある観点から把握し、これを有限とか無限として表示するにすぎない。

描かれた円の内側は、領域という観点からは有限であるが、そこに存在しうる任意の点の所在という観点からは、無限だということができる。何らかの長さをもつものは、これを半分に分割して行ける可能性としては無限だが、長さの「大いさ」としては、有限である。無限や有限はこのように、なんら実体的な大いさ、特定の量、長さ、広さなどを意味しない。いくら小さなものでも、観点の取り方で、そのうちにいくらでも無限なものを見出すことができるのである。
 
ところが、人間の観念の世界は、概念を扱う場合にも必ず何らかのイメージを媒介とする性質をもっている。そのためわたしたちはあたかも砂糖壺の中に樽を入れることはできないとでもいうように有限なものの中に無限なものは入らない、と表象するのである。

このような「概念を実体的なイメージにしたがって操作すること」につきまとう、実体化の錯誤は、哲学のみならず、抽象概念を扱うすべての論理的思考の領域に普遍的に存在する錯誤である。

要は、言語というのは、ある人間が主観的に人間のシンボル化能力により獲得した概念、或いは世界への企投的意図の集積なのである。それは、パズルのピースのような実体があって、当てはまるところと当てはまらないところがピタリと一義的に決まるような存在ではない。

アキレスと亀の間の距離は、有限である。しかし、そのある長さのうちに点を任意に取るという視点から言えば(その距離の紐を半分のところを点としていくとすれば)無限に点を取ることはできる。「距離」というとアキレスと亀がどれほど離れているか、という大きさであり、それは有限なので、アキレスが早く走って追いつくことができる。

なので、その観点が違うのである。誰から目線か、ということ。

根本的に、次のことが分かってないとだめ。すべての言葉や概念というのは主観的である。ある人が捉えたものである。仮に客観的とおもわれる言葉でも、それはある人が主観上で客観的だと判断したものだ。


アキレスと亀の間の距離を「半分のところに点を取っていく」という観点では無限であるが、「アキレスが亀より早い速度で追いついていく離れ具合」という観点では有限なのである。もちろん、アキレスが亀に追いつく過程で、前者の「点」を通過することになるだろうが、それはその距離が一定の長さで短くなっていくもので、点の存在は関係ない。

プラトン入門 (ちくま新書)
竹田青嗣
筑摩書房
2014-01-24


 

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