記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年02月

地下鉄二号線の西よりの駅「威宁路」。

先日、久しぶりにこのあたりを散策してら、昔の懐かしい記憶が蘇ってきた。

ここは今の会社で事業立ち上げのため2013年頭に数ヶ月住んでいた街。

南京から上海に移ったときなので、大都市での華やかな生活へ可能性に満ちた時期であった。
そのためか、いまでもこのあたりに来るとそのときの希望にみちたワクワク感を抱く。もちろん今でも希望はあるが、当時は三島由紀夫の金閣寺の少年のように、未知でいろいろな期待を寄せていた上海に心が高揚していた。

あのあたりは比較的上品な感じで、しかもビンゴモールという大きなショッピング・レストランのモールがあるので南京から来た田舎もんの僕には洗練された街で、生活がアップグレードした感じだった。南京にはない「すき家」があるだけで嬉しかったものだ。

あれから既に三年が経つ。

上海のほとんどの場所に行って知り尽くしてしまったし(そうでもないが)、中国語も全く問題なくなったし、この 「威宁路」あたりも開発が進み外観変わってきたし、なんといえばいいのか分からないが、ここで抱く感覚が平べったくなったというか、均一化されててしまったみたい。

そういやここのwagasしょっちゅう行ってたな昔。

しかも気に入りすぎて浦東に移っても1時間かけて来てたな昔。

そして隣の天然酵母パンにもよく行ってた。。。

懐かしい。

やっぱり物理的に思い出のあるものに触れるとただの回想とは違う記憶が浮かび上がってくる。忘れないようにものを大事にしたり、場所や環境を保護することは人としてやはり価値あることだ。

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僕は小学校から高校にかけてとてもお笑い番組が好きであった。あらゆるバラエティ番組を見るテレビっ子だったし、何ならお笑い芸人目指すくらいであった。

中でも、ダウンタウンの松本人志が好きで、ごっつええ感じ、ガキの使い、ヘイヘイヘイなど欠かさずに観ていた。本もだいたい読んだ。

おそらく、今まで生きてきた中で最も僕がコミットしてきた他人は、松本人志であろう。

しかし、

大学を卒業したあたりくらいからか、
松本人志への興味がなくなっていった。

なぜか。

それは、ベタな言い方になるが、人間的に「視野が狭い」からである。

僕らが生まれ、生きているこの「世界」について、地球上で起きていること、歴史、宇宙などなどについの射程を持っていない。

知識を持っていないということではなく、自分がいきている範囲を広く認識し、その中で何かをしている、という感覚は乏しい。

もちろん、松本レベルであれば他の人達よりもかなり領域でもすぐれた洞察があるが、それでもやはりずっとそうした問題意識をもっている人にくらべたら劣る。

基本的に、優れたお笑い芸人というのは、物理的な場において笑いを取る能力が凄い。

いろんな人がいる中で状況を理解し適切な行動や発言をする。お笑いに限らず、学校でも仕事場でもプライベートでも常にあるような状況。こういうときの支配力というか、笑わせる能力は素晴らしいし、むしろ生きている中でこれがあることは類ない幸福なことであると思う。

ただ、それを仕事として、プロとしてやるのであればやはりもう一つ別の次元に進んで欲しい。周りの空気を読んで笑わせたり盛り上げることはどんな分野でも必要。その能力が優れているなら、もっと社会に目を向けてほしい。アメリカンな政治批判でもいいし、実際に勉強に励んで政治家になってもいい。

松本が最近やっているニュース番組みたいなのでも、その発言は無知を露呈している。 筋トレしてむきむきになるのはいいが、類まれなる才能を日本や世界のために活かしてほしいものだ。

と、

とは言ったものの、

書いててちょっと違う事に気づいた。

やはりそれがいいのかは分からない。お笑い芸人というアーティストの松本は、自分で見聞きできる目の前の空間についてしかリアルを感じなかったのであろう。これまでは。だからそういう又聞きの世界情勢などに疎いのも分かる。目の前の空間での振る舞いにだけ集中しているからこれだけ人を惹きつけたのである。

むしろ、下手に視野を広げるといって机上の勉強をする輩にはなってはいけない。 

昔は、政治経済や社会のことなんか知らんわ、面白ければ何でもOK、みたいな自己の価値観に漲る自身を持っていた。

しかし、最近は松本自身も、そして視聴者ももうのんきにお笑いが絶対と自信たっぷりなキャラクターに無理があることに気づきだした。

といっても、やっぱりそういう空気を変えるのがタレントである。

こうした元気のなくなっている日本に対して、空気を読んだ面白いことを創造してほしい。

ということでまだまだ期待したい。 

<感情の劣化>という聞き慣れない言葉、これは宮台真司が唱える社会学的なタームである。

日本は反知性主義の時代に突入した。路上では排外主義的デモや人種差別が繰り広げられ、インターネットではネット右翼たちが跋扈している。政治家はこれを利用し、自らの都合のいいように歴史の修正をもくろむ。そして、これらに対抗する言論はまだまだ主導権を握ることができていない。なぜなのか。

社会学者・宮台真司は言う──連中に理屈を説いてもムダ、と。この愚昧さが筒抜けの社会をひも解く鍵は〈感情の劣化〉にあるという。感情のるつぼと化した政治、ネット、ヘイトの深層を〈大衆〉という観点から分析する宮台。

〈大衆〉〈感情の劣化〉とは、簡潔に述べると、真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢です。つまり、最終的な目的が埒外になってしまい、過程におけるカタルシスを得ようとする傾向。

別の言い方だと、感情を制御できずに、〈表現〉よりも〈表出〉に固着した状態です。ちなみに〈表現〉の成否は相手を意図通りに動かせたか否かで決まり、〈表出〉の成否は気分がスッキリしたか否かで決まります。

部族的段階では「政りごと=政治」と「祭りごと=祭祀」とが区別されなかった。つまり〈表現〉と〈表出〉が癒合していた。癒合を支える前提が、濃密な共同性です。でも複雑な社会になると全域を濃密な共同性で覆えない。だから、文明的段階(帝国的段階)になると、必ず〈表現〉と〈表出〉が峻別されるようになります。例えばプラトンは、紀元前5世紀後半になると、政治に〈表現〉と〈表出〉の峻別を求めるようになります(哲人政治)。近代社会も複雑だから、〈表現〉と〈表出〉の峻別がないと社会システムが淘汰されてしまう。血縁集団であれ、企業組織であれ、国民国家であれ同じこと。だから近代では人々に以前より感情の制御能力が強く求められます。

まず理解すべきは、感情の劣化が善悪の対象ではないということ。現状として多くの人がこういう状態になっているということだ。それには生産性が上がり、思考停止でも生きていける。

感情の劣化とは、真理への到達よりも感情の発露が優先される、というがこれはどういうことか。目的に到達するまえに諦めやすい、ということだろう。おれは頑張ってこの営業成績を達成するぞ、と意気込んでいたが、すぐに壁にぶつかり、部下や同僚を巻き込んで飲みながら愚痴る、みたいなことだろうか。

これを感情の劣化とみなすか?或いは、「目的が保持できにくくなった」ともいえるのではないか? われわれ世代はもちろんだが、生きていくうえでの大きな物語など、ある程度の確信をもった道筋がみえなくなっている。

突き詰めると、現代思想や哲学が直面する問題と同じだ。現代において、カント以降、ハイデガーが提出した倫理観以上の原理は存在しない。人間はどこに向かっていくのか、どういう存在なのか、「そんな目的なんてないんだよ、あるのは日々の感情だけ」というある種のニヒリズムが蔓延している。

これを教育などでどうこうできるのか。宮台は以下の様な回避方法を提案している。

回避には、短期には浅ましい輩から主導権を奪うスモールユニットでの〈熟議〉と〈ファシリテイタ〉の組合せ(フィシュキン&サンスティーン)が、長期には〈感情の教育〉(ローティ)による〈感情の民主化〉(ギデンズ)が必要です。要は、〈感情の劣化〉を被った〈大衆〉を煽動する〈感情の政治〉を潰すべく、短期・長期の戦略を駆使して、〈大衆〉を排除して〈公衆〉を取り戻す。この課題設定は、過去20年間、政治学やその周辺で常識化しています。スモールユニット(マイクロプロセス)が機軸だとされる理由は、マクロな風景が変質したからです。かつてはブルーカラーや地方出身者は見ただけで判りました。今は誰がマクドナルド難民やデリヘル難民なのか外見で判りません。しかも勝ち組も負け組もマクドナルドやネットを使うし、高偏差値大学の子もデリヘルで働く。だからウマクやれる奴とやれない奴の違いがあるだけと意識され、排除された者たちが連帯できなくなり、さもしい嫉みが蔓延します。また性愛ワークショップをして分かるのは、ブルーカラーや地方出身者が一目瞭然だった頃に比べ、性的機会からの排除が強い劣等感と嫉みを来すこと。イケメンでも同じで外見から分からない。一部は劣等感を回避すべく草食化します。こうした状況を福祉学周辺で〈疑似包摂社会〉(ヤング)と呼びます。機会から排除された人々が、それを適切に意識できず、排除された人々同士が浅ましい妬み嫉みでつぶし合う。オーソドックスにはこれがヘイト現象の背景です。こうした分析が妥当なのは、ヘイト連中が、かつてのブルーカラーや地方出身者と違い、僕らの友人知人の範囲に見つかる独特のキモさを漂わせることで分かります。〈自意識の困難を社会の困難にすり替える輩〉独特の佇いです。


う〜ん、宮台氏は自分で考えるようなエートスを徐々に根付かせたいみたいだ。

でもどうなのだろうか。1億人単位で人間の軸を変えるのは不可能ではないか。国家や社会が危機になって初めてみんな本気になるのを待つしかないのか。。。 

僕はこういう世界観を持っている。

人間はタブラ・ラーサ、白紙状態で生まれてきてその後に、欲動、エロスといわれるベクトルをベースに、シンボル化能力でいろんな経験で概念を獲得していく。そしてそれが記憶となる。

そうすると、ある人がどういう人なのか判断するとっても根本的な基準ができる。

言っておくが、これは何も善悪、人の優劣をつけるような基準ではない。その人がどういう人で、なぜそうなっているのか、その人を変えるにはどうすればいいか、などに役立つ人を見る目の基準である。

例えば、その人が何を正しいと主張するか、それを聞いてみるといい。

かなりツッコミどころがあったとする。それでも相手はそれを信じ込んでいる。

それは要するにその人が接する範囲がせまくて外が見えていない。概念が少ないので、複雑な思考をしないで即決し判断が早いが、浅い。何か違うことに遭遇して、軌道修正できればいいが、もし30歳とかになっていれば、軌道修正しないで、いやおれの世界観が正しい、とその間違いをキープしていくだろう。

逆に、いろんな経験して素直に学び概念を沢山持っている人は、こういう狭い世界観のやつがなぜそうなっているのかも理解できるので、自分の主張を通して相手とぶつかることが無意味だとわかり広い視点で別の方法を探るだろう。もしくは、こういうやつとは絡まないか。

まあ、結論はこういう簡単なことだが、しっかりと人間観を持つと物事すっきり理解できる。 

世の中にはいろんな職業がある。警察、行政機関、マスコミ、プロスポーツ、建設、IT、エンタメ、食品、資源、エネルギー、飲食、などなど沢山ある。

昨日、ES細胞について書いた。

人間の諸器官に分散したES細胞は、その器官になったらもう他の細胞になることができない。逆に心臓の細胞が肝臓になろうと移っていったら大変だ。

人間の社会においてこういう存在ともいえるか?

先に挙げたような職業について、誰もがころころと転職で仕事を変えていては専門性も身につかず、また全体が不安定になる。

なので、みなさん、自分の仕事を天職だとおもって専念しましょう!

とは、

言わない。

僕はこう思う。

人間という固体に比べたら社会はまだ形が定まっていない流動的なものである。

そして、今の社会で、人間でいう心臓など各器官の細胞の仕事を全うしているような人はほんの一部。その業界でほんとうにプロといえる人だけ。その周辺にいるやつらは取り換え可能などこへいってもOKな細胞である。

国や社会のためになくてはならない存在、天職として仕事を行うような存在。それがいいのか悪いのかはわからない。各自考えればよい。 

プラトンやアリストテレスを読んでいると、国家など社会集団と人を密接に結びつけて善なり、徳なりを語っている。そして、プラトンに言わせると、国の統治には構成する人間それぞれが自分の役割に徹して生きることで全体がうまく回るという。同じように人間の精神も感情、理性、意志などがバランスよく機能して善いものとなる、と。これらはストーリーとして納得しやすいが、厳密には確信を持てるようなものではない。

さて、ちょっと別の視点で、
ES細胞について考えてみたい。ES細胞とは胚性幹細胞( embryonic stem cells)であり、動物の発生初期段階である胚盤胞期の胚の一部に属する内部細胞塊より作られる幹細胞細胞株のこと。

これは、人間の心臓、肝臓、腎臓、脳、手足などあらゆる人間の器官や部分に分化していく。もとは同じES細胞なのにそれぞれの役割を担うようになり、しまいには他の器官に代替できなくなる。

人間は、各器官がうまく機能しているので、一つの主体としてまとまり、動く。

心臓の細胞がいきなり肝臓になりますといって、自分の役割を放棄したら人間は死ぬ。

国家も同じだ。

政治家は政治家の役割を、自動車、資源、衣服、エンタメ、いろんな仕事があるが、それらはそれぞれ役割を持っている。自分の仕事をして全体がよくなる。政治家なのに大学生みたいに振る舞っていれば、それは心臓が、腎臓の細胞で構成されているようなものだ。体調が悪くなるのは当然。

さて、別に僕はこのような相似関係に何か感じることがあったわけではない。

もっと先に進みたい。

仮に、今言ったように心臓の細胞が違うことをやったとして、身体が悪くなり一人の人間が死んだら、何なのか?なぜ人間という固体は一つにまとまろうとするのか?それは自然の中から見れば別になんでもないことだ。それでも宇宙やその外側だろうと世界では何かの法則なりに基いて進行している。

細胞がまとまったパターンでくっついて、そのパターンを維持して入れ替わっている。そのパターンを維持して何になるのか?

人間が社会を構成して、何になるのか?より安全に生きる?安定して生きる?それが何に繋がるのか?


宇宙に目を向けると、色んな物が抵抗なく飛び交ってぶつかったりしている。地球というまとまりができ、重力が働き、水ができ、タンパク質のような分子構造をもったものができ、そして生命が生まれたのか。単細胞生物なら理解できるか?そこが分かれ目なのか?分子構造的に電子を欲しがるとかで、何かを引き寄せたい物理法則がありこれが基本なのか。安定した構造を持ちたいのか。自足できる構造を持ちたいのか。なぜ物理法則の延長で、生命が誕生したのか?これはべつに地球外からタンパク質がやってきたとかいう話しではなく、そもそもどこかでなぜそうなったのか?

やっぱり人間の認識装置では理解できないのか。それとも人間の実存では原理的に答えが出ないのだろうか。

日本数学史上最大の数学家である岡潔と批評家小林秀雄の対談本「人間の建設」、3年前くらいに中国の本屋で買って読んだときは、なんとなくの面白さで終わっていたが読み返すとかなりしっかりと彼らの言葉が入ってくる。高度な知的な会話はなんとも羨ましい。そして、二人の発現はどちらも「理論」「体系」などにとらわれない独自の形式で語られている感がある。というか「形式」という概念、以前にこだわっているような感じもする。


さて、一つ大変に僕の興味を引いた箇所を紹介したい。以前僕は現象学的な人間像を仮定し、「同じ」と「数」の概念をどのように獲得するかという思考実験について書いたことがある。岡潔は、以下のように「一」と「順序数」の概念の獲得について述べている。ここには、現象学的な言語感、私がいつも書いている人間観が前提とされているので、非常に共感できる。達観した岡潔がいうのだからたのもしいものだ。

小林 子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。
 
岡 自然数の一を知るのは大体生後18ヶ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われるものを体得する。生後18ヶ月前後に漸進的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
 
小林 それは理性ということですな。
 
岡 自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり18ヶ月の頃だと言えると思います。
 
小林 それが一ですか。
 
岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分には分かりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後18ヶ月の体得が占めているんじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。
 
小林 なるほど。おもしろいことだな。
 
岡 私がいま立ち上がりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかと言われる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。
 
小林 それは一ですね。
 
岡 順序数がわかるのは生まれて8ヶ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然とでる。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。一度目、二度目、三度目と、まるっきり目の色が違う。おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐かしさというような情操に続くのではないか。その情操が文化というものを支えているのではないか。だから生後8ヶ月というのは、注目すべき時期だと思います。とにかく単細胞が20億年かかってここまで進化したのですが、現在、人というものについては全くわかっていませんね。

いかがだろうか。これを読んで何を感じるか?

鋭い洞察である。人間社会で普遍的な概念である「一」は生まれて間もない時期に体得される感覚、概念なのだろう。それがベースにあって、似た体験をし、後々に「イチ」というラベルが貼られるわけである。このあとに、この議論を踏まえて人間にとって環境が大切である話が述べられる。

岡と小林の独自の人間観については別途紹介しよう。


人間の建設 (新潮文庫)
小林 秀雄
新潮社
2010-02-26

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