記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年03月

『LUCY/ルーシー』(Lucy)は、スカーレット・ヨハンソン主演の2014年にフランスで制作されたSFアクション映画である。人工知能(AI)は直接的に関係ないが、同じ領域に属すので観てみた。これって中国だと2015年秋くらいに上映されていたと思うが、日本やアメリカなど2014年夏に公開されていたので1年以上も遅い。脳の力を解放するというテーマなので、中国は人民に見せるのに躊躇したのだろうか。(以下、ネタバレ注意)

さて、ストーリーはこうだ。 
ごく普通の平凡な女性ルーシーは、訪れた台北のホテルでマフィアの闇取引に巻き込まれ、下腹部にCPH4という新種の麻薬が入った袋を埋め込まれてしまう。この麻薬は通常10%までしか活用できない人間の脳の潜在能力を極限まで高めることができる恐ろしいものだった。運び屋として体内の麻薬と共に移動するよう命じられたルーシーだったが、麻薬を狙うマフィアに捕まってしまう。ルーシーは激しい拷問を受けるが、その拍子に体内の袋が破れ、彼女の脳は麻薬の力で覚醒し、超人的な力を発揮してその場から脱出する。
 
ルーシーの脳はますます覚醒し脅威的な力を発揮し始め、マフィアの事務所を襲撃し、ボスのMr.チャンを負傷させ、残りのCPH4を手に入れるため、運び屋の行く先の情報を手にする。ルーシーはフランスのピエール刑事に協力を要請し、運び屋を逮捕させ、Mr.チャンの仲間も倒して残りも手に入れる。そして脳科学の権威であるノーマン博士に会いにいく。その間もルーシーの脳の覚醒は治まらず、いつしか彼女は人間性を失い、その力を制御することができなくなってしまうようにみえた。
 
ノーマン博士と面会を果たし、Mr.チャンと仲間が復讐のためにルーシーを殺しにやってきたときに、ついにルーシーの脳が100%覚醒する。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/LUCY/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC 

けっこうやんちゃなストーリーで、分かりやすい。スカーレット・ヨハンソンもセクシーだし、人間とは何かということも若干考えさせられ89分という短さもあり、いい感じに仕上がっている。

10%しか能力を発揮していない脳というのは、諸説あるみたいだが、脳はエネルギーを他の諸器官に比べ大量に使っているらしいので、限りあるエネルギーを経済的に使って生きなくてはならないのでバランスが必要なのだろう。仮に今後、技術の発展で身体が小さくなっていったとすれば脳はもっと大きくなりlucyみたの20%くらいになったりして。

あまり思うところはないが一点だけコメントしたい。

本作内のモーガン・フリーマン演じる脳科学者がこんなことを言っている。「生物の選択とは」という文脈で、「困難な環境下では、不死を選択。(自己完結する)」で「快適な環境下では、繁殖を選択。(次世代に知識を伝える)」と。そして、「生物の使命は知識をつたえること」であると。lucyの行為も結局はそれが軸になっていると読み取れる。

これは何に基いて言っているのか知らないが、示唆がある。人間は何に向かっているかは分からない。でも、自己保存のためというのは紀元前から言われ続けている。それくらいの漠然とした理解しかできない。そして自己保存(繁栄)のためには外部環境をできるだけ把握し知識を蓄えることが必要なので、人間は学び、そしてそれを伝える、ということを基本とするものなのだ。

我々は「生きる意味とは」と、ことあるごとに問う。だが、根本には理由もなく端的に「学び、そして伝える」というただ生きるというベクトルがあり、それがあらゆるものに意味や価値を付加するものなのだ。

lucyはだって100%能力開花しても結局そのベクトルの中にとどまっていた。


LUCY/ルーシー [DVD]
スカーレット・ヨハンソン
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2015-07-23


 

哲学が好きというと物事を根源まで深く考える人、というイメージだろうか。まあ、それで合っていると思う。僕もけっこうそういう傾向がある。

物事には表裏があり、哲学についてもそれがいえる。

例えば、
砂浜で砂を作って何かの文字を作るとしよう。
最初のお題は「THANK YOU」。

普通の人は、ざっくり物事を把握している。
なので、この場合、ちょうどお箸くらいの長さの砂の塊のバーを沢山もっている。
それをポンポン置いていけば文字を作れる。

一方、哲学者は根源まで考えるので、
砂の一粒ずつを積み上げて文字を作成する。

何かをこの世界において目的に向かって行動する際に、一般的な人はさっとものごとが進むが、哲学者は時間がかかる。

しかし、汎用性は高いし性格で芸術的な仕上がりが実現できる。 

『マイノリティ・リポート』(Minority Report)を観た。以下、ネタバレ注意。

概要はこうだ。

2002年に公開されたアメリカのSF映画。ドリームワークス作品。
フィリップ・K・ディックの短編小説『少数報告』(The Minority Report)をスティーブン・スピルバーグ監督が映画化した作品で、トム・クルーズが主演した。
2015年9月から、FOXチャンネルで映画に基づいた続編となるテレビドラマ作品が放送されている(『マイノリティ・リポート (テレビドラマ)』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88 
ストーリーはちょっと長いがWIKIから同じく引用。

プリコグ(precog:precognitive、予言者)と呼ばれる3人の予知能力者たちで構成された殺人予知システム。それに従って予防的治安維持機能を遂行する犯罪予防局によって、システムの導入以後、西暦2054年のワシントンD.C.の殺人発生率は0%になったと報告されていた。
 
犯罪予防局の刑事ジョン・アンダートンは、6年前に息子のショーンを誘拐されて以来、犯罪予防にのめり込むようになっていた。ある日、システムの全国規模での導入に対する国民投票が行われることとなり、司法省調査官のダニー・ウィットワーが局を訪れ、システムの完全性の調査が始まった。調査が行われる中、プリコグの一人アガサが突然ジョンに過去の事件の映像を見せてきた。プリコグは稀にこうした「エコー」と呼ばれる現象を起こすのだが、気になったジョンがその事件について調べると、アガサの予知の記録映像だけが削除されていた。ラマー・バージェス局長にそのことを報告するが、結論は出なかった。
 
後日、新たに殺人事件が予知されるが、そこには見ず知らずの他人であるリオ・クロウなる男を殺すジョンの姿が映っていた。何者かの罠だと感じたジョンはウィットワー達の追跡をかわし、システムの考案者であるアイリス・ハイネマン博士に助けを求めるが、彼女はシステムは偶然の発見から生まれたものであることを明かす。ハイネマンは元々、麻薬「ニューロイン」の中毒患者から生まれた遺伝子疾患を持つ子供達の研究を行っており、その子供たちはほとんどが12歳までに死亡してしまうが、生き延びたものは予知夢の能力を獲得しており、そこからシステムが開発されたのだった。さらに、システムは完全なものではなく、時に3人の予知が食い違うことがあり、システムの完全性を疑われないために、少数意見(マイノリティ・リポート)になる予知は存在を秘匿され、なおかつ破棄されていた。そして唯一プリコグ達の脳にのみ保存されているという。
 
特に強い力を持つアガサが鍵だと教えられたジョンは、局だけでなく街中に張り巡らされた網膜スキャナーを掻い潜るため、闇医者のエディ・ソロモンに依頼して他人の眼球を移植し、局内に潜り込んでアガサを誘拐する。そして、システムの操作系統を設計したルーファスの手を借り、アガサの脳からマイノリティ・リポートを探るが、マイノリティ・リポートは存在せず、アガサは代わりに再び過去の事件の映像を見せる。そして最後の手がかりであるクロウの部屋へと向かうが、そこには子供の写真が散らばっており、その中には息子ショーンの写真もあった。そこに現れたクロウがショーンを攫った犯人だと思ったジョンは、銃を突きつけるが、辛うじて思いとどまる。しかし、クロウは殺されないと家族に金が渡らないと、無理やり自分を撃たせた。クロウも何者かに利用されていたのだった。
 
ジョンが逃走した後、ウィットワーは現場を捜査するが、現場の状況からこの事件が仕組まれたものであることに気づく。さらに、アガサがジョンに見せたエコーの映像も調べると、エコーと実際の事件の映像の状況が僅かに異なる点を発見し、仮説を立てた。何者かが殺し屋を雇って女性を襲わせ、予知局に殺し屋が捕まった後に、同じ現場で殺し屋と同じ姿で改めて女性を襲って殺害。その事件も当然予知されるが、現場の状況が全く同じと判断した予知局はその事件をエコーと判断してしまい、事件は気付かれなくなってしまう。以上の仮説をウィットワーはバージェス局長に伝え、犯人はシステムを熟知しているものであると説明した直後に、ウィットワーは局長によって殺害された。すべての黒幕はバージェス局長だった。
 
その後、ジョンは捕まり投獄され、システムが全国で導入されることとなった。しかし、バージェス局長の行動を不審に思ったジョンの妻のララは、ジョンの眼球を使って監獄へと潜入しジョンを脱獄させた。そしてシステムの全国導入を祝うパーティ会場で、ジョンは事件の真相を暴いた。殺された女性アン・ライブリーはアガサの母親であり、薬物中毒から抜け出し更生したアンは娘を取り返しに来たのだが、システムにはアガサが不可欠なため、局長はシステムの盲点を利用して彼女を殺害したのだった。過去の犯行を暴露されたことによって追い詰められたバージェスは、プリコグたちに「バージェスがジョンを射殺する」という突発的殺人を予知されてしまう。これにより、「予知通りに殺人を犯すと投獄されるが、殺人を犯さなければシステムは完璧でないため廃止される」という状況に陥ったバージェスは自殺した。
 
その後システムは廃止され、解放されたプリコグの3人は人里離れた土地で静かに暮らすこととなり、これまでに捕らえられた犯罪者は特赦が与えられ釈放された。そして別居していたジョンとララは復縁し、ララは新しい子供を身篭っていた。

本作は普通にエンタメとして面白い。話も結構練られているので見応えがある。

いつものように、僕は脳や人間の力の側面からいくつか感想を述べたい。まず、本作でキーとなるのは、プリコグ(precog:precognitive、予言者)と呼ばれる3人の予知能力者たちで構成された殺人予知システムである。この設定がいまいちである。作品内で描かれているレベルでの予知はありえない。全く見ず知らずで、触れたこともない情報を次々と出していくプリコグはありえない。

もっと狭い範囲での予知能力はありえる。これについて説明しよう。いわゆる正夢というやつだ。まず基本的に覚醒してようがしていなかろうが、脳内に表象として出てくるものは五感や内部での感覚で経験したことがあるものだけだ。これだけだと何か寂しい気がするかもしれないが、脳は想像以上に優れており、これまで触れたあらゆる情報はすべてとどめている。例えば、3歳の頃の隣の部屋でお母さんが聞いていた音楽とか。ただし、それがどのような形で保存されているかは分からない。他の記憶と混じったり、変化している可能性もある。

さて、記憶についての理解ができたところで、では予知能力とは何か。これは過去の記憶が脳内で自然法則に基づきミックスされ何かのラインに基づき、そして自分のエロス(欲動)と関連して一つの表象となる。覚醒しているときにまとまったストーリーの表象を見ることはまれなので、寝ているとき夢として見るのが普通。このまとまったストーリーが偶然的に普段の自分の生活に関する未来の予測のような形で露出する可能性は否めない。というか、たまたま露出したストーリーが、偶然未来予測と捉えることができるという場合。

これを見ると、人は何かを予知したという気になるだろう。そして、脳内がまとめたストーリーであれば、それは意外と合っている可能性もある。先に述べた通り意識している以上に情報はストックされているので、それをさらに脳内でこれまで認識して記憶さてているストーリーパターンに勝手に当てはめて、偶然的に結構信頼できる予測となる。「これまで認識して記憶されているストーリーパターン」というのは、ストーリーのパターン認識として脳が経験で学習したものだ。ゲシュタルトとしてもっているものとでもいおうか。覚醒時に使う「論理」だって脳が無意識に確信をよせるパターンにすぎない。

こうして夢で観たストーリーがさらに実現すると、人は自分に予知能力があると錯覚する。錯覚というか、現実なのだが、類まれなき可能性でしか生じない現象であることに目が行かない。

さて、「予知能力」とはこういうものだ。なので超人的にあらゆる情報が記憶にある人はたしかに優れた予知をできるかもしれない。それは意識的にもできるだろうが寝ているときのほうがより広く過去の記憶にアクセスできる。人間であれば、記憶というか基となるデータベースに限りがあるし、それらを組み合わせてストーリー化する力も経験による。したがって、限界がある。本作のように、見ず知らずの人間の情報が出てくるわけがない。

予知能力に基づいて犯罪摘発するなら、ダイレクトに人工知能(AI)でやったほうがいい。ジョニー・デップ主演の「トランスセンデンス」みたく、インターネットにアクセスし世界中に格納される情報や監視カメラ、衛星からの情報など取りまくって、その上で人間の行動パターンを抽出しシチュエーションに当てはめていく。そうすればかなり正確な予知ができるはず。さらに今後、ウェアラブル端末などから人の体内の情報なども何十億人規模で取得できたら本当に犯罪摘発できてしまうかもしれない。

ということで、中毒患者から生まれた遺伝子疾患を持つ子供が予知能力ができるという設定はだめ。まあ、それを第六感として描くのがSF映画なのだからそんなツッコミするのも恐縮だが。

さて、今の個人的な細かいツッコミだが、本作の一番の問題提起は、仮にこの予知能力が実績を出していても、まだ遂行されていない犯罪行為を、理論的根拠もない超能力者の判断で行っていいのか?捕まった犯人は、「おれは何もやっていない」というが、その通りなのである。そこが本作でも取り上げられている。

仮に理論的根拠のある先に述べたAIであったとしても同じ問題は残る。「未遂行」であることと「理論と実績に全信頼を寄せていいのか」という問題は究極的には同じだ。まだ発生していないことを、ぎりぎりまで予知が合っているからといって発生したことにして逮捕してはまずい。特に西洋であればdue prosess of lawの意識も強く実用化されるのは想像できない。

人間の罪を裁く上で(人の一生を左右する判断を)いくら高性能のAIや予知者であってもそれらに委ねていいのかという倫理的問題はまた機会があれば論じたい。というかまずは社会問題を解決すべく、貧困問題とかエネルギーの問題とかを先決にしたほうがいい。そうすれば犯罪も大幅に減る。

最後に一個つっこむと、
もし未来予測ができるのであれば、それはイコール人間とは何か解明されたということだろう。なぜなら自由意志を持つように感じる人間であるが、その動きがラプラスの悪魔的にすべてお見通しということなのだから。映画内ではプリコグの頭に何かつけてそのクオリア(意識ないでの体験)をスクリーンに写しだしていたが、これは心身問題が解決されたということになる。それができるレベルであれば、上述したAIに任せたほうが早い気がした。

人工知能的な視点で書いたが、一つの映画作品としては楽しめるいい作品。ついでに社会問題も感がれるし。


マイノリティ・リポート [Blu-ray]
トム・クルーズ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2013-11-22

 

観念論。哲学をかじった人なら聞いたことがあるだろう。デカルトがあらゆるものを方法的に疑いつくしても最後に残る「疑っている自分」。ここから近代哲学が開花し、観念論の流れができた。要はデカルト的に徹底的に主観のあり方を確認し、確実なものを探していると、結果的に主観的な観念(意識内に浮かぶこと)しか確かなものがないという見方になる。これが大雑把な理解。

冨田恭彦「観念論の教室」は、この分かりそうでわかりづらい「観念論」を詳しく説明している。17世紀後半に誕生し元祖観念論者であるジョージ・バークリの思想を軸に展開。

バークリーの思想の要諦は、「世界を記号と見る」ことである。もう少しいうと、「感覚によって知覚されないものの存在」は、「結果や記号、つまり感覚可能な印」から推論されるということ。(これだけ読んでも抽象的で分からないだろうから、例もある本書を読んでください)

他人の存在について考えると、人の表に現れる行動や表情や発言を通じて「考えるもの」としての他人の存在を信じる。
 
さて、 
事実しか認めないやつでも、「直接知覚されない他人の魂」の存在を認めるが、その場合直接知覚されるのは魂が動いた結果としての身体のあるあり方。「結果」として直接知覚されるものから「原因」として直接知覚されないものが知られるが、この場合、「直接知覚されるもの」が「直接知覚されないもの」の「印」(記号)として働く。道路の白線を見ればそこで止まらないといけないと分かるのと同じ。
 
続けよう。同じことが次のことでもいえる。 
人間の意志とは関わりのない自然の運動から、人間の魂の力や知恵とは比較にならないほど偉大な力と知恵が推論できる。同様に、この世界に存在するさまざまなものが持つ驚くべき構造や働き(動物、自然)が、神の存在を知らせる記号となる。→神の存在証明(byバークリー)
 
ちょっとまて、他人の外面的行動と理性的魂の存在との間には必然的な結びつきがない。→言語の使用で説明していく。言語とは恣意性、無限の多様性を持つ。小さく見えるとか霞んで見えるとかの感覚的情報は「距離が遠い」ということとは似ていないし必然的な結びつきがないが、繰り返し行われた経験に基いてまるで言葉がものを表現するように、距離の遠さを示唆する。

また、
「視覚の本来の対象は自然の創造者の普遍的言語を構成する(99)」とあるが、これは砕いていうとこういうこと。僕らは言語を使うが他人とコミュニケーションに使える言語は、心の中の内的な概念+ラベルとしての名前、という形式になっている。その内的な概念、というのは無意識に生成される。猫を子どもが5回くらいみれば、次に違う猫をみても同じ概念の対象だと分かる。これは無意識なもので、所与的なもの。この部分を「自然の創造者の普遍的言語」とバークリは捉える。これは丸山圭三郎のシンボル化能力や、脳科学でいうゲシュタルト形成と同じことを指している。

**

一つ示唆に富んだ考察を紹介。 

われわれは、自分たちを取り巻く対象がわれわれ自身の身体に対して益や害をなし、それによってわれわれの心に快楽や苦痛の感覚を生み出す可能性の大きさに応じて、それらの対象を重視する。さて、物体がわれわれの器官に作用するのは直接接触することによってであり、そこから生じる害や益はひたすら対象の触覚的性質に依存し、対象の視覚的性質には依存しない。これこそ、われわれが視覚的性質よりも触覚的性質のほうをはるかに重視する理由である。(100)

これは敷延すると、われわれの認識において、触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚などの五感情報がまざった大量のインプット情報を主体が受け取り、ここから上述のゲシュタルト形成し、対象の概念を獲得していく。さらに概念と概念同士が結びつき、さらにそれが最終的には身体性(エロス)により審級的に快不快が与えられ、何の記号をみたらら何を観念するかが決定されていくということ。

また、
バークリの『アルシフロン』と『視覚新論』の趣旨はこうだ。
1,身体的活動が記号として働き、他人の心の存在がそれによって知られるということ。
2,視覚的情報自体が、触覚的情報の記号として働き、それによって、本来平面的で奥行きのないはずの視覚情報から、物の形や距離、大きさをはじめとする多様な情報が得られるということ。
3,そしてさらに、この視覚の記号的(言語的)性格自体が記号となって、神の存在が知られるということ。

■語彙
私たちが今感覚しちえる色や味や形 感覚の観念
記憶や想像によって心の中に生み出される心象 想像の観念(意志に従う観念)

■神の存在証明
私が自分自身の思考に対してどのような力を持っていようと、感覚によって現実に知覚される観念は、私の意志に同じように依存しているわけではない。〜したがって、それらを生み出すなんらかの別の意志ないし精神が存在する。(「原理」)
→「なんらかの別の意志ないし精神」が神にほかならない。

■バークリの思想まとめ
私たちの感覚が捉えるような形を持ち、色のついた、味のする、そういった「物」の存在について、バークリは否定するわけではない。ただ、それらの「物」を構成している形や色などはみな心の中の「観念」であると考え、したがって、それらの集合体としての「物」も当然、心の中の観念であるとする。こうして、彼は、心の中の観念と見られる限りにおいて、「物」の存在を認める。バークリが拒否するのは、そうした観念としての「物」とは別に、なんらかの物質とか物そのものとかいったものが心の外に存在するという考え。
 
バークリは日常慣れ親しんでいる物の存在を否定するわけではなく、それを心の中の観念として読み替えさせ、それが存在するために必要なのは心であって物質ではないと考えさせようとしている。バークリは心象論とよばれる立場を採っている。彼が認める観念は、痛みや感情などを別にすれば、感覚の観念か想像の観念に限られる。言い換えれば感覚される何か、想像、心象される何かでなければ観念ではなく、そうしたものがなければ彼はおの存在は認めない。

**

さて、ポイントだけ列挙したので意味が分からないと思うが、最後に個人的に一番の収穫を述べたい。観念論について常に持っていた疑問があった。 それは仏教の唯識論でもいえることだが、観念の世界だけの一元論に還元してしまうと、外から送りつけられるこの刺激、情報はどう捉えればいいのか?ということ。

この答えが本書に書いてある。

疑問点はこう。観念論で、私たちが知覚している日常的な物が、可感的な物であり、観念からなるということは理解するが、そうした可感的な物が心の中の観念であるとしても、それとは別にそれに似たものが心の外に物質として存在すると考える、そうしたタイプの物質肯定論。これをどうする?

バークリは否定する。そこで使うのが「似たもの原理」と呼ばれる考え方。
引用する。

観念に似ることができるのは観念でしかない。色や形に似ることができるのは別の色や形でしかない。自分の思考をほんのわずかでも調べてみれば、観念どうしを除いては似たものを考えることができないのがわかるだろう。

ようは、観念に似た「物質なるもの」を考えてみる。例えば、見えている花は観念だが、これに似たものがこの世界に物質として実在するとする。もしこの花(観念としての)に似た物質が考えられたとすると、それは、この花に似た、何か想像されたものだ。ところが観念という言葉の使い方からすると、想像されたものは観念だ。だから、観念に似たものを考えようとしても、その似たものはこれまた観念でしかないというわけだ。こうしてバークリは、観念に似ているが観念ではない物質があるという考え方が成り立たないと示す。

このようにかなり強引だが一元論に閉じ込めるやり方は斬新であった。かなりラジカルな考え方であるが、安易に物質肯定論に流れて中途半端に行き詰まるよりもより哲学的な方法である。

観念論の教室 (ちくま新書)
冨田 恭彦
筑摩書房
2015-09-07

 

クオリアの研究でお馴染みの茂木健一郎氏が昨年出された「記憶の森を育てる 意識と人工知能 」を読んだ。彼の提唱するオーバーフロー理論の説明が中心で、記憶や脳にまつわる自己の主観的な体験を文学的な記述もされている。

フッサール、ヘーゲル、カントとか結構哲学者の名まえを出していて教養ありげであるが、特に何も新しいことは書いておらず、個人的にはオーバーフロー理論以外は特に面白みを感じなかった。

オーバーフロー理論について見ていこう。以下、ちょくちょく引用する。

■クオリアと現象学的オーバーフロー
なぜクオリアは生まれるのか?要は、なぜ意識が物質から生まれるのか?

私たちは、一つひとつのクオリアを他と混同のしようがない明確な個別性を持つものとして感じているからこそ、それらを、自分が体験する世界の中で、同時並列的に感じることができるのである。(54)

ここで言われているのは、視覚、聴覚、触覚などの区分である。

見晴らしの良いところに立ち、広大な景色を眺めている時、視野の中には、すべてを認識し、記憶するのが不可能なほどのクオリアが並び立っている。しばらく眺めた後で目を閉じ、その状況で景色のあれこれについて説明を求められても、ほとんどのことは答えられないし、記憶もしていない。ところが、目を開いている「今、ここ」の意識の流れの中では、確かに、それらのクオリアが、圧倒的に並列な体験として、感じられていることも事実なのである。(55)
 
要は、「今、ここ」で現に感じられていることのほとんどすべてが認知や記憶にとらえられることなく、あふれ、消えてしまうという「オーバーフロー」。クオリアは、私たちの感じる世界が圧倒的なオーバーフローであるという成り立ちの根幹にかかわる。クオリアとして感じているからこそ、私たちの世界はオーバーフローを許容するほどに広いのだ。

要は、処理できる以上の環境に関する情報を常に得ている。

このような条件下、で環境に対して巧みに適応するために、さまざまな進化的模索が行われるうち、視覚において典型的に見られるような、クオリアが並び立つというかたちでの現象学的オーバーフローを含む「意識」が獲得されたと感がえられる。つまり、現象学的オーバーフローは、物理的オーバーフローに対する適応なのである。

■オーバーフローから概略認知へ

なぜ現象学的オーバーフローは必要か?

それは、ただ存在するに過ぎない「今、ここ」の「情報以前」を、人間の認知が利用可能な「情報」へと変換する。

同時に感じられる様々なクオリアのすべてが、たとえ明示的に認識されずまた、記憶されないとしても、世界についての感覚が現象学的オーバーフローとして存在するからこそ、私たちはさまざまな「概略認知」を立ち上げることができる。(58)

今、自分がいる環境が安全か、
捕食者がいるかかどうか、
食べ物があるかどうか、
繁殖相手が得られそうかどうか、
天候はどう変化しそうか、
自分が今取っている行動は環境から見て適切かどうか。

そのようなさまざまな概略認知は環境がクオリアに満ちた現象学的オーバーフローとして体験されて初めて可能になる。

私たちの脳の認知において、現象学的オーバーフローの存在は、環境に対するフレキシブルな概略認知が立ち上がるための前提条件になっている。生物としての適応度を上げている。

■オーバーフローとメタ認知
視覚の本質は、「メタ認知」にあると考えられる。メタ認知とは自分自身のことをあたかも外から観ているかのように観察することであり、意識の成立の根幹にかかわっている。

〜現象学的オーバーフローの中にとらえられるさまざまなクオリアは、大脳新皮質の感覚野の神経細胞の活動だけでは生まれない。いわば、それはクオリアの「素材」、「前クオリア」のようなものであって、そのような活動が、前頭葉を中心とする「志向性」のネットワークの活動とマッチングがとれないと、「私」がクオリアを感じる、という意識の構造が生まれないのである。(60)

「志向性intentionality」とは何か?

私たちの心が何ものかに向けられているという状態を指す。感覚野の神経細胞の活動を通して、クオリアの素材がつくられたとして、その素材に前頭葉を中心とする「志向性」のネットワークの活動がマッチングされて、初めて私たちはそのクオリアを感じることができる。(60)


さらに、

意識とは、メタ認知を通じて、私という主観性が宿る脳が、自分自身の一部である脳の感覚関連領域という自己の内部を観察するプロセスだということもできる。

このようなメタ認知のメカニズムは、人間の脳でいえば、前頭前野を中心とする志向性の神経ネットワークによって支えられているものと考えられる。感覚野の神経活動が、志向性のネットワークとマッチングされることで、クオリアが感じられる。(61)
 

ちょっとメタ認知と志向性の関係がわかりづらいが、志向性があるから、我々の心はなにかに向けられる(意識がいく)のであり、これが外部情報をインプットしただけの感覚関連領域を観測する(自分自身の一部を自分自身が観察)、これがメタ認知ということのようだ。

つまり、現象学的オーバーフローは、同時並列的に起こる志向性とクオリアのマッチングの結果、その形式である。(61)
さて、クオリアには2種類あるらしい。

  1. 感覚的クオリア:視覚でいえば、赤や青などのいろや、金属光沢、透明感など。それおれの感覚野から前頭葉の主観性を生み出す回路に向けてのボトムアップの回路によって生み出される。
  2. 志向性クオリア:世界についての解釈、モデルを含んでいる。視覚でいえば、自分が見ているものが薔薇であるとか犬であるとか分類に伴う感覚。前頭葉の主観性を生み出す回路から、感覚野に向かうトップダウンの回路によって生み出される。

現象学的オーバーフローは感覚的によって構成されている。その、圧倒的に並列な感覚的クオリアの奔流に、志向的クオリアがその一部に張り付けられる。 だからこそ、「今、ここ」では見えていたはずのことに認知や、記憶が成立しないということがありえる。

認識とは何か?

それは、現象学的オーバーフローを構成する感覚的クオリアに、世界についての解釈や意味を担う志向的クオリアが張り付けられるプロセスである。 

意識の本質的属性は現象学的オーバーフローにあり、そのオーバーフローを生み出すのがメタ認知であるなら、そのメタ認知のメカニズムを問う必要がある。

■統計的レイヤーと現象学的レイヤー
私たちの生存に適した行動につながり、支えるのは、結局、クオリアに満ちた現象学的オーバーフローではなく、その環境の特徴を本質においてとらえた概略認知のほうである。現象学的オーバーフローは、脳が概略認知を生み出し、環境を適切にとらえるための踏み台になっている。

ここで、一つの問い。

環境に関する情報が処理しきれないほど存在する物理的オーバーフローという与えられた条件から現象学的オーバーフローを経由しないでその環境に関する概略認知にいたるショートカットはあるのか?

環境に関する情報を、単に統計的に処理することで、現象学的オーバーフローのような意識の難問題にかかわるプロセスなしで概略認知を立ち上げてしまってもいいのではないか?意識を介在させることなしで概略認知に至る道もあるのではないかと思えてくる。まさに哲学的ゾンビだ。(実際、現在研究さrている人工知能は環境に関するビッグデータを統計的に処理し周囲の状況の概略認知を立ち上げるという形で構成されている。)

この問題に答えることは、そもそも意識の機能とは何なのかという本質的問題と関連している。
 
■概略認知と志向的クオリア  行動に結びつくためにクオリアが必要?
ここでは上記の問題の答えを探る。

脳の回路の働きから見ても、志向的クオリアを生み出す回路と、行動を選択し、実行する回路には密接な関係がある。志向的クオリアと行動の間の密接な関係を見てくると環境に関する概略認知が、志向的クオリアとして立ち上がっているからこそ、生存するのに適した行動をとることもできるのではないかという可能性が見えてくる。

すんわち、概略認知は、単に環境に関するデータを統計的に解析するだけでは足りない。さまざまな事象の持つ傾向を統計的に解析するだけでは柔軟な行動に結びつく「情報のフォーマット」にならない。概略認知は、志向的クオリアとして立ち上がってこそ行動に結びつくという可能性がある。

果たして、概略認知は、志向的クオリアである必要があるのか?これはまだ未解決の問題であるが、間違なく重要な論点である。(72)
ということで、謎で終わっている。

最後にまとめを引用する。
まず、単細胞生物から、人間の脳のような高度に発達した中枢神経系を持つ生物まで、共通の拘束条件として、「物理的オーバーフロー」があった。原理的に処理しきれないほどの環境に関する情報が、生物を取り囲んでいたのである。

これに対する適応として、長い時間をかけて、感覚的クオリアからなる現象学的オーバーフロー、さらに、その解釈としての志向的クオリアのかたちでの概略認知を生み出す機構が進化してきたものと考えられる。クオリアが生み出されるためには、自分自身をあたかも「外部」から見ているかのような、メタ認知(ないしは内部観測、自己言及性)の回路が必要である。

このような意識の進化の概略的見取り図は、現時点で私たちが手にしているさまざまなデータと整合性のある、ありえるシナリオである。(74)

さらに、
結論から言えば、オーバーフローモデルは現時点において、意識の難問題の解決を与えているわけではない。その一方で、意識のオーバーフロー理論は、現時点においても、意識研究にある一定の洞察をもたらすことも、また確かであるといえる。(75)
オーバーフローモデルについてのエッセンスは分かった(と思う)。このブログで一回書いたことがあるが、沢山ありすぎる情報をできるだけ取り込んで判断に生かしたい場合、こうした色とりどりの世界が現われて情報を統合する。エクセルの表で縦横には2つの情報しか置けないが、色をつければもう一個情報を足せるような感じ。

「さまざまな事象の持つ傾向を統計的に解析するだけでは柔軟な行動に結びつく「情報のフォーマット」にならない」というのは一つの新しい指摘であった。いろんな情報を統合しすぎているから、統計的なやり方が通用しない。もう一歩ここから先に進めれば興味深い。

結局は、ジュリオトノーニの統合情報理論と同じ感じで、モデルを作って実際に起きていることにどれだけ整合性があるかを見ていくやり方しかない。

まだまだこのあたりは知識が足りないので、学んでいこう。



 

超能力としてテレパシーを使っているというと摩訶不思議であるが、普段親しんでいる重力や磁力なぜ働いているのか、というのも実は同じもんだ。素粒子物理学では、電磁気力は光子というボゾンのやりとりで生じると想定されている。要は小さすぎて目に見えない、人間の五感では捉えられないもので力をやり取りしている。

これをふと思ったのは以下のユングの集合的無意識についての発展解釈を読んだときだ。

 この「集合的無意識」とは、ユングの元々の考えとしては、人間という生物種が生まれた時から共通して持っている「型」みたいな概念でした。これは、DNAに例えると解りやすいかもしれません。人間は誰しも、その身の細胞の一つ一つにDNAを持っていますが、それを認識することは無いものです。しかし、DNAは人間にとって、その生物としての在り方を決める根本的なものです。集合的無意識も同様に、普段は認識することは出来ないのですが、あらゆる人間に生まれながらに存在し、その意識の奥底で各個人の意識の在り方に影響を与えるものだとしたのです。
 
 そして、この集合的無意識という理論は神秘行界で更に発展解釈されました。神秘行界では、古くよりアニマ・ムンディやアストラル界、アカシックレコードという概念が提唱されてきましたが、それらと同様に、集合的無意識とは各個人達がその無意識の奥で「繋がっている領域」とされたのです。これは、神秘行界で起きる様々な不思議な事柄をよく説明できるものでしたので、多くの人達に受け入れられました。
http://anima-mystica.jpn.org/jung/psy02.html 

ユングの集合的無意識はお馴染みで、世界の童話などが同じ形式もっているので人間はだれでも深いところで同じような概念を持っているということ。これは間違いないだろう。というかこれは身体性が共通している限り根底に無意識的に共通概念がある、ということであっさり理解できる。僕はさらに発展させて、人間の身体全体に記憶が染みており、子孫に引き継がれたり、心臓移植すると移植した人に一部の記憶が宿ったり、分子生物学的に外部に放出された細胞が他人に入って記憶が移行することも想定している。

さて、上記の引用文は、それとはさらに違って、重力のボゾンのような感じで集合的無意識がやり取りされているという。これは斬新である。 個別に共通のものを持っている、のではなく、個々がやり取りして繋がっているから共通だ、というのだ。

たしかに蟻の集団をみると全体が一つの生き物のように統率されている。人間も目に見えない何かで繋がっているという発想もありえてしまう。

ただ、この領域に踏み出すと、全てが仮説になってしまう。人間では感知できないものが物理法則を司っている場合だ。クオリアとかもそういってしまえばおしまい。

難しい問題である。 

僕は1986年生まれであるので今年で30歳。

86生まれは世間的に86世代と呼ばれる。
この世代には大物揃いのようだ。

以下、1986年生まれの人のリストを見つけたので僕が知っている有名人をピックアップしてみた。


1986/01/05 小池 徹平 (こいけ・てっぺい) 【俳優】 〔大阪府〕
1986/01/12 イモト アヤコ (いもと・あやこ) 【タレント】 〔鳥取県〕
1986/01/20 竹内 由恵 (たけうち・よしえ) 【アナウンサー/テレビ朝日】 〔東京都〕
1986/01/23 川村 ゆきえ (かわむら・ゆきえ) 【タレント】 〔北海道〕
1986/02/23 亀梨 和也 (かめなし・かずや) 【歌手、俳優】 〔東京都〕 《KAT-TUN》
1986/02/26 クリスタル・ケイ (Crystal Kay) 【歌手】 〔アメリカ〕
1986/03/01 五郎丸 歩 (ごろうまる・あゆむ) 【ラグビー】 〔福岡県〕
1986/03/16 高橋 大輔 (たかはし・だいすけ) 【フィギュアスケート】 〔岡山県〕
1986/03/28 レディー=ガガ (Lady Gaga) 【歌手】 〔アメリカ〕
1986/04/08 沢尻 エリカ (さわじり・えりか) 【女優】 〔東京都〕
1986/05/19 澤部 佑 (さわべ・ゆう) 【タレント】 〔埼玉県〕 《ハライチ》
1986/05/24 イケダ ハヤト (いけだ・はやと) 【ITジャーナリスト、ブロガー】 〔神奈川県〕
1986/06/03 ラファエル=ナダル (Rafael Nadal) 【テニス】 〔スペイン〕
1986/06/13 本田 圭佑 (ほんだ・けいすけ) 【サッカー】 〔大阪府〕
1986/06/25 松浦 亜弥 (まつうら・あや) 【歌手】 〔兵庫県〕
1986/07/04 あびる 優 (あびる・ゆう) 【タレント】 〔東京都〕
1986/08/16 ダルビッシュ 有 (だるびっしゅ・ゆう) 【野球】 〔大阪府〕
1986/08/19 木村 沙織 (きむら・さおり) 【バレーボール】 〔東京都〕
1986/08/21 ウサイン=ボルト (Usain Bolt) 【陸上競技/短距離】 〔ジャマイカ〕
1986/08/22 北川 景子 (きたがわ・けいこ) 【女優】 〔兵庫県〕
1986/08/29 諫山 創 (いさやま・はじめ) 【漫画家】 〔大分県〕
1986/09/12 長友 佑都 (ながとも・ゆうと) 【サッカー】 〔愛媛県〕
1986/10/27 村上 太一 (むらかみ・たいち) 【経営者】 〔東京都〕 ※リブセンス 創業者・社長
1986/10/28 スザンヌ (Suzanne) 【タレント】 〔熊本県〕
1986/11/16 紗栄子 (さえこ) 【タレント】 〔宮崎県〕 ※旧名:サエコ
1986/11/17 亀田 興毅 (かめだ・こうき) 【ボクシング】 〔大阪府〕
1986/12/12 日高 光啓 (ひだか・みつひろ) 【歌手】 〔千葉県〕 《AAA (トリプルエー)》
1986/12/19 石井 慧 (いしい・さとし) 【柔道】 〔大阪府〕 
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/year/birth_1986.htm


なかなか大物揃いである。アスリートが目立つ。本田、長友、ボルト、ナダル、亀田、ダルビッシュ、石井、五郎丸。意外だったのは、進撃の巨人の作者、諫山創もおない年ということ。

この歳でまだ何も達成できていない自分に焦りを感じつつ、気ままに生きていこう。 

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