記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年04月

私はこれから哲学を学んでいる。ギリシャ哲学から始めて、東洋哲学や現代哲学まで幅広く学ぶ予定。同じく若くして哲学の道を歩まれている苫野一徳さんの哲学ブログから、彼の哲学に対する考えを見てみよう。

 哲学というと、一方で、たとえば世界の根源は何か、とか、生きる意味とは何か、とか、実生活に役にたたない、意味のないことを、ぐちゃぐちゃだらだらと言葉だけややこしく考えているだけのもの、というイメージが一般にはあることと思います。

 しかし実は、哲学の最も重要な本質は、あらゆる事柄を考える際の最も力強い「考え方」にある、と私は考えています。

 この「考え方」は、ゆっくりと、しかし確実に、優れた哲学者たちからまた次の哲学者たちへと受け継がれ、発展してきました。

 生き方や人間関係の問題から、社会的・世界的な難問にいたるまで、私たちはこれら問題を、何千年もの歴史を重ねて積み上げられ発展してきた哲学の「考え方」や「洞察」を活かしながら、なんとか解き明かすことはできないだろうか。

 本ブログでは、そうした現代の「哲学」を構想するための重要な思考の材料として、哲学の古典や名著を紹介・解説しています。

なんかすっきりしない。

「哲学の最も重要な本質は、あらゆる事柄を考える際の最も力強い考え方にある」というが、

で?

という感じだが、続けてみると、その哲学を以って、

「生き方や人間関係の問題から社会的・世界的な難問を解き明かす 」ことが目的のようだ。


苫野一徳さんのプロフィールを見てみるともう少し分かる。

紹介文
1980年2月28日生まれ。博士(教育学)
哲学・教育学徒です。熊本大学講師。多様で異質な人たちが、どうすれば互いに了解し承認しあうことができるか、探究しています。

著書に、『「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学』(NHKブックス)、『教育の力』(講談社現代新書)『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)、共著書に、『知識ゼロからの哲学入門』(幻冬舎)、『図解哲学がわかる本』(学研パブリッシング)など。 

 要は、「人々が互いに了解し承認しあえるようにしたい」というのが目的のようだ。

これは大きな課題だ。

要は、生き方や人間関係の問題から社会的・世界的な難問は、人が相互に了解し承認しえないことが基にあり、それを哲学で解決したいと苫野は考えているようだ。

たしかに、原理的に世界や人間はどうなっていることを探究し、もっとも深いところから考えないと、人間の意見の衝突は解決されることはないだろう。

これは、哲学者がそうした原理を見出し、市民に分からせるというよりは、市民各々がこうした根源的な問いを問い続けてこそ意義がある。

結局、根源的な原理というのも一つの確信に過ぎず、誰もが一斉になっとくできるわけではない。だから、それらをお互いに擦りあわせていく必要があり、そのために誰もが哲学者のような態度を持つ必要がある。

「宗教」とは何かと聞かれて、その本質を的確に言えるだろうか。

宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」でうまく定義している。

私の考えでは、宗教とは、「なぜ(他の村でなく)この村が疫病や飢饉に苦しむのか」「なぜ(他の家族でなく)一家が不幸なのか」「なぜ物理法則は(他ではなく)この法則なのか」「なぜ私は(他の世界でなく)こんな世界に生きるのか」「なぜ(他の人でなく)私の頭が悪いのか」という”世界の中の端的なもの”を、受け入れ可能なものに加工するメカニズムである。(33) 
ギリシャ哲学から近代、現代の哲学を学んでいると、やっぱりどんなに頑張っても原理的に分からないことがある。カントやウィトゲンシュタインが形而上学だとばっさり切り捨てた功績は大きいが、それでも未だにその解を求める動きがある。

僕自身もAIの発展などでだんだん人間の凄さとともにその「単純さ」や限界について理解してきた。(確信してきた、といったほうがいいか)

人間には明らかに”端的に”理解できないことがある。 

とういか、人間の実存「いま、ここ」というのは意味が開けるということとイコールである。その在り方自体の意味を問うことはできないのだ。


 

「倫理」と「道徳」の違いを言えるだろうか?

僕も中々うまくこれだと思えるものがなかったが、宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」でそれらの違いが触れられていて分かりやすい。

私たちの社会には、もともと一神教はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人にも指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もありえない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という抽象的な観念は、神のまなざしを前にした「倫理」と、共同体のまなざしを前にした「道徳」という、排他的な二つの類型に分割できる。 (64)

以下は本書と関係ないが、倫理と道徳について考察する。

 「倫理」というのは、アプリオリに決っている善悪、神が設定するもの、物理法則などのイメージで、絶対的にこの世界にある善悪の基準といったところだろうか。一方、「道徳」というのは、周囲の人間のまなざしにより形成される善悪の基準である。

現象学的にいうと、まず人は社会的な善悪を知らない状態で生まれる。そして、人間社会のなかで、自分が嬉しいこと悲しいこと、そして間主観的に他人が嬉しいこと悲しいことを学んでいく。こうして善悪の基準という道徳のリアリティが強まる。

それ故、昨今のように人間関係が希薄になっている状況において、人はなかなかこの内的にリアリティをもてる善悪の基準(道徳)を形成できていない。そうすると、何をすればいいのか分からなくパニックに陥る。

機会があれば書きたいが、そもそも人間はエントロピーへの反抗というようなベクトルしかもっていないので、クオリアレベルでの善悪というものにはっきりした答えはなく、記憶の形成のうちにリアリティを持てる基準を作っていくしかない。 


 

『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(The Imitation Game)を観た。人工知能とは直接関係ないが、チューリングマシンは現在のコンピュータの基礎になっているのでこの理解なしにAIの可能性は検討することはできない。

概要はこうだ。

2014年の歴史スリラー映画。アンドリュー・ホッジス(英語版)による伝記『Alan Turing: The Enigma』を基にグレアム・ムーア(英語版)が脚本を執筆し、モルテン・ティルドゥムが監督、ベネディクト・カンバーバッチが主演を務めた。映画は第二次世界大戦中にエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描く。
 
ムーアの脚本はハリウッドの優れた製作予定のない脚本を挙げる『ブラック・リスト(英語版)』2011年版の1位を飾り、映画は2014年2月、ワインスタイン・カンパニーによりヨーロピアン・フィルム・マーケットで支払われた米配給権購入額としては最高となる700万ドルで購入された。映画は2014年11月14日にイギリスで、11月28日にアメリカで、2015年3月13日に日本で公開された。
 
本作は批評的にも興行的にも成功を収めた。ナショナル・ボード・オブ・レビューおよびアメリカン・フィルム・インスティチュートの年間トップ10に入選し、第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞(ティルドゥム)、主演男優賞(カンバーバッチ)、助演女優賞(キーラ・ナイトレイ)を含めた8部門で候補に上がり、ムーアに脚色賞をもたらした。第72回ゴールデングローブ賞では5部門、第21回全米映画俳優組合賞では3部門、第68回英国アカデミー賞では9部門にノミネートされた。また本作の製作関係者はチューリングの功績を広く知らしめたことでLGBT権利の推進団体ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)によって表彰された。1400万ドルの予算に対し、映画の興行収入は2015年3月までに2億850万ドルに上り、2014年のインディペンデント映画としては最高の売り上げを収めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%81%A8%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86

ストーリーは以下。

1951年、数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の家が荒らされ、2人の警官が捜査に当たる。刑事に取り調べを受けたチューリングは、ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧する。
 
1927年、若きチューリング(アレックス・ローサー(英語版))は寄宿学校で不遇の日々を送っていた。チューリングは友人クリストファー・モーコム(ジャック・バノン)に触発され、暗号の世界にのめりこんでいく。チューリングは同性ながらモーコムに恋心を抱くが、告白しようとした矢先にモーコムは結核で死んでしまう。
 
イギリスがドイツに宣戦布告した1939年、チューリングはブレッチリー・パークを訪れ、アラステア・デニストン(英語版)中佐(チャールズ・ダンス)の指揮の下、ヒュー・アレグザンダー(マシュー・グッド)、ジョン・ケアンクロス(英語版)(アレン・リーチ)、ピーター・ヒルトン(マシュー・ビアード(英語版))、キース・ファーマン、チャールズ・リチャーズとともにナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成する。
 
同僚を見下すチューリングは協調性を欠き、ひとり暗号解読装置の設計に没頭する。デニストンが装置の組立資金拠出を拒否すると、チューリングはウィンストン・チャーチル首相に直訴する手紙を送る。チャーチルは拠出を許可し、チューリングをチームの責任者に任命する。チューリングはファーマンとリチャーズをチームから解任し、新聞に難解なクロスワードパズルを載せて後任を探す。ケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)はチューリングのテストに合格するが、男性と同じ職場で働くことを両親に反対される。チューリングは彼女が通信傍受係の女性職員と同じ場所で働けるよう手配し、彼女に解読装置の計画を教える。
 
「クリストファー」と名付けられたチューリングの装置は完成するものの、独軍が毎日暗号を変えるためエニグマの解読に至らない。デニストンは装置の破棄とチューリングの解雇を命じるが、チューリングの同僚たちは辞職をちらつかせてこれを阻止する。クラークが両親の意向に従って職場を去ろうとすると、チューリングは彼女に求婚し、彼女もこれを承諾する。酒場でチューリングが彼の性的指向を知らされたケアンクロスは、チューリングにそれを隠し続けるよう忠告する。チューリングは通信の傍受内容にまつわる女性職員の会話を耳にし、あることに気づく。通信内容に特定の言葉が含まれると分かっていれば、装置がそれを復号するようにプログラムすればよいのだ。彼が調整を施すと、装置は即座に暗号の解読に成功し、職員たちは祝福する。しかしチューリングは、解読された通信に逐一反応してしまっては、エニグマが破られたことが独軍にばれてしまうことに気づくのだった。
 
チューリングはケアンクロスがソ連のスパイであることを知る。チューリングが問いただすと、ケアンクロスは英ソは共通の目標を持った仲間だと主張し、身分を明かせば仕返しにチューリングの同性愛を暴露すると脅迫する。しかしMI6の諜報員スチュアート・ミンギス(マーク・ストロング)がチューリングにクラークの身の危険をほのめかすと、チューリングはケアンクロスがスパイであることをミンギスに告げる。ところがミンギスは既にこれを知っており、彼こそが英国の利益のためケアンクロスをチームに配属しソ連に情報を流すよう仕向けていたのだった。クラークに危険が迫っていることを予感したチューリングは、彼女に同性愛を明かしてブレッチリー・パークを去るように促す。終戦後、ミンギスは職員たちに自分たちの仕事の一切を破棄するよう指示し、仕事内容の口外や再び互いに会うことを禁じた。
 
1950年代、チューリングは淫らな行為を犯したとして有罪となり、服役か化学的去勢のどちらかの選択を迫られ、仕事を続けるために後者を選ぶ。クラークはチューリングの家を訪れ、彼の心身の衰えを目の当たりにする。彼女はチューリングに彼が多くの命を救ったことを思い出させ、かつてモーコムがチューリングに、チューリングが彼女に言った台詞を言って聞かせる。「時として誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」
なんやろか。事実ベースということで観ていて普通に歴史の勉強になり面白ろかった。本作を観てあまり思うところはないが一点だけ。

「時として誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」

この台詞が作中何度か出てくる。

これは、本作品の一つの軸である。チューリングは天才でプライドが高く協調性がない。人の心が理解できない。さらにゲイであるため、より集団から離れていく。みなから変な目でみられ、誰も彼が何かを成し遂げるなど想像しないであろう。

しかし、彼はエニグマを解読し、チューリングマシンを発明し英雄となる。

これは物事の表裏一体を見事に表現している。社会性に富み、人とのコミュニケーションがうまいと社会をよく理解した人間が出来上がる。その反面、社会に適合しすぎて、<世界>という本当の土台が見えなくなる。

逆に、<世界>に生きていれば、社会に入る必然性はない。そして社会から孤立して生きていればより<世界>に真っ向し、その本質を見出す。そうして<世界>に慣れた人間は社会からみたら異端児だが、<世界>とは調和の方向にいく。

こうして彼は人間社会では独創的となり、慣れ親しんだ<世界>から何かを掴み、人間社会で評価されている。

社会から外れて自己の道を行くプロスアンドコンズに目を向けさせるいい映画である。


 

改めてレイ・カーツワイルの「THE SINGULARITY IS NEAR シンギュラリティは近い」を読んだ。遺伝子、ナノテク、ロボットについて詳細がぎっしりつまっており、広いが深く記述されている。正直ここまでくると、まったくその信ぴょう性などを吟味することができないが、彼の描く未来はリアリティがある。この後に出された日本人著者による「エクサスケールの衝撃」も同じような構成で面白い。

最後のほうに、レイ・カーツワイルの世界観が見て取れる記述があるので幾つか引用しコメントしたい。


情報は知識ではない。世界には情報が溢れており、知能の役割は、その中から顕著なパターンを見つけだし、それに基づいて行動することだ。…保持されるのは、重要な認識と洞察に限られる。このように知能は、情報を選別的に破棄して知識を創造している。

これはコンピュータサインティスト的というか、比較的一般的な見方であろう。

わたしの考えでは、生命の目的ーそしてわれわれの人生の目的ーは、より偉大な知識を創造して評価し、そして、より素晴らしい「秩序」に近づくことである。

これも、実はシンプル。ビッグバンからの物理法則に従った延長で生命がうまれ、人間が意識をもったというような素朴な世界観だ。生命はパターンの保持、そしてさらに大きな秩序を求めるということだろう。
 
わたしの見るところでは、宇宙の目的にも、人生と同じ目的が反映される。すなわち、より素晴らしい知能と知識に近づくことである。人間の知能とテクノロジーが、この宇宙という拡大する知能の最先端を形成するのだ。

上記の生命の目的と同じ。ただ、これらはかなり客観的な捉え方になっている。より存在論的にいうなら、人間の生「いま、ここ」では、パターンがどうこうなど関係ない。ただ、ただ、主観的な体験が進行していくだけだ。これが意識をもっている私にはすべてなのだ。この視点から論じてほしかった。

アイデアとは、知能を具体化したものであり、その所産である。

これも定義として興味深い。
 
人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害ーー特に深刻な意識的経験の形でーーを及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている。

たしかに、社会は「意識」がどの人間にも備わっていて、それを基にルールを決めている。当たり前だが言われてみると斬新。
わたし個人の哲学は、相変わらずパターン主義ーー自分は基本的に、一定時間、持続するパターンだと考えるーーに基づいている。 
人間は常に細胞が入れ替わっているという話の流れでの記述。まあ、よく言われていること。

以上、レイ・カーツワイルは意外とシンプルな物質主義的な価値観を持っているようだ。




人間が物理的に身体でできることを考えてほしい。2秒いないに。大きくジャンプするとか、5Mくらいダッシュするとか、大声で叫ぶとか、じっとして動かないとか、コサックダンスするとか。いずれにせよせいぜい半径5M程度の円の中に収まる動きしかできない。

これってできることが自分の身体の周りに雲や霧のように可能性として漂っている感じがしないだろうか。量子論の素粒子のように。以下は電子の例。 

量子論では、原子核の周回軌道をとる電子の波は確率的に原子の周りを雲や霧の様に存在し観測してはじめて電子は粒になるとしている。 つまり電子は波動性を持っており正確な位置は確率的にしか言い表せないとしている。 
http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams04/quantum_1.html 
素粒子は、観測するまで雲のように一部の範囲に確率として存在する。これは冒頭の人がこれから自由意志で動ける範囲と似ている。もちろんスケールは違うが、基本的な原理は同じなのではないか。

意識のない石ころとかは、その可能性のうちランダムに選択がなされ、意識あるものはそこから選べる。

よくわからん。

人工知能が技術的特異点(singularity)を迎え、人類が滅亡に瀕するという危機が巷でよく言われている。以下、これに対する脳科学者の茂木健一郎さんの回答。

人工知能が技術的特異点(singularity)を迎え、人類が滅亡に瀕するという危機のシナリオには、主にふたつの可能性があると思います。
第一には、人工知能が人間の生命活動と結びついて(たとえば軍事など)不安定性をもたらすこと。
第二には、人工知能が自律的な活動を通して、不安定性をもたらすこと。
後者が起こるためには、単なる人工知能では足りず、一種の人工生命にならなくてはなりません。
いずれにせよ、自律的な生命活動が鍵で、人工知能と人工生命の間の関係は、さらに深く考えられるべきだと私は思います。 
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1917291.html  
これは確かに的を得た答えであるが、ちょっと浅い気がする。

実は人工知能の発展には、人工生命を取り入れないといけない。
どういうことか。

まず、今、重宝されている「人工知能」というのは、要するに人間では捉えることのできない多数の変数があるようなところからパターンを見出す能力。既にこれは実用化されており、ビッグデータに基づいたマーケティングや選挙活動などがある。Metapsや米国の選挙など。これらの領域では既に、AIが出した答えを鵜呑みにするしかなくなっている。なぜそうなのか、というのは人間では理解できない。

茂木さんはおそらく、これであれば人間がAIが出した答えを見て、使うか使わないか決めればいい、という状況で、人間が戦争とかで悪用しだしたらまずい、ということを第一のところで書いている。これで想定しているAIはただパターン認識するとか知性しかない。自分が人間のエロスのようなベクトルをもっていない。

逆に第二のほうは、ベクトルを持っているので危ない、としている。

さて、僕がいいたいのは、第一に関して、もしより高度な知性を得させるにはある程度自律型のAIでなくてはいけない。先ほどの例のマーケティングや選挙活動に使われているAIというのは「意味」を知らずにパターン分析しているだけである。もっと高度な世界認識をするには、物理空間の情報を直接とってきて概念(意味)を吸収していかなくてはいけない。

まあ、それなら実は、世界中にカメラセットしてAIの目にしてやればいい話だ。

でも問題は、人間とコミュニケーションする手段の確保である。

たしかに高度なAIで人間の外的行為のビッグデータを見ていれば人間をかなり深く理解できるだろう。しかし、自分に身体がなく、人間のような身体に制限された存在でないとその内側の体験を知らない。

だから、それらの概念は推測でしかなく持ち得ないのだ。いくら人間が蟻より高度でも蟻の生を理解できないのと同じ。

なので、結論としては、人工知能をより使えるようにするには人工生命も取り入れないと人間とコミュニケーションできないよ、ということ。人工生命に「快適にしてくれ」と頼んで、どんな解釈をするか、怖いでしょ。

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