記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年05月

僕らの「自我」は記憶により成り立つ。もし、ドラゴンボールに出てくる精神と時の部屋に入ったら、全てが「真っ白」の空間。ここには、自分の記憶を呼び起こす何ひとつのトリガーがない。

M.アルヴァックスは、著書「集合的記憶」の中で以下のように空間と記憶の関係について述べる。

「精神的均衡は、その大部分は第一に、われわれが日常的に接触する物的対象がまったく変わらないかほとんど変わらず、われわれに恒常性と安定性のイメージを提供しているという事実に基づいている、と。」(163)

 

「多くの心的不安には、われわれの思考と事物間に一種の接触の断絶が、つまり、なじみの対象を認識することができないことが伴うことは事実である。」(163)

 

「なじみのない不安定な環境の内に迷い込んだと気づき、まったく支点がないように感じるのである。」(163)

 

「われわれが新しい物的環境に移ることを余儀なくされた時、そこに適応できるようになるまでは、われわれはあたかも、自分の人格全体をうしろに残してきたような不安定な時期を過ごすのである。それほどもまでに、外的世界についての慣習的なイメージはわれわれの自我と不可分なのである。」(163−164)

精神と時の部屋に入れば、自我が崩壊するだろう。自分が何ものか想起させるものがどんどんなくなっていく。入ったばかりのときは、入る前のことからの持続した記憶があるが、それがなくなると、記憶の手がかりは自分の身体しかなくなる。しかも鏡もない。

僕はこれまで、最高のコンテンツとは何かを追求してきた。主観的な体験を与えるものはすべてコンテンツとみなす。映画や小説はもちろんそうだし、レストランでの体験、ゲーム、遊園地、スポーツ、ショッピングモール、性産業、街、もっといえば国、世界自体コンテンツだ。

これまでに僕が最も感動したコンテンツは何かといえば、それは上海の外灘である。あの空間だ。詳しくは以前の記事に書いてあるので見てほしいが、歴史ある西洋建築物や金融センターの高層ビルが川を挟んで立ち並び、重厚で厳かな空気を醸し出す。全てが一望できる吹き抜けの空間。国際的色豊かな観光客やレストランやホテル。ここで感じるエロスは未来へのロマンを人に抱かせる。

↓外灘(ザ・バンド)
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ここは奇跡的にいろんな文脈が重なりあい絶妙な空間となった。
こうした環境を作るのには興味があるが、 狙ってできるようなものでもないし、現代であれば採算性でこうしたダイナミックな空間はつくれないだろう。オフィスやショッピングモールなどの空間プロデュースとはわけが違う。ナイアガラの滝やヨセミテバレーのような圧倒的な体験である。さらに人間社会にとっての意味が充満しており感じるものが多いはずだ。

仮に国を挙げて何かを壮大な空間を作ろうとしても、それはモダンな最新の建築物が織りなす空間になってしまい、今の時点では意味性やエロスに欠ける。上海の昔の町並みとしてして残ったのは列強各国がこぞってアジア進出のために金融機関などの派手な建築物を建てた。その作りもさることながら、そこで繰り広げられたきな臭く華やかな歴史をも想像すると、空間から発せられる力は人を圧倒する。

こうした体験を作るのは現実的ではなく、深く味わうほうがいいのかもしれない。
それにしてもこうした場所って他にあるのかな。

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昔、なんかの番組で「用賀」と「豊洲」を間違えて、待ち合わせに失敗したと里田まいが話していたことをふと思い出した。番組内では笑い話で終わっていたが、実はこれ、非常に興味深い現象である。

ソシュールの言語観は、人は、物的環境から例えば、四足でワンと鳴いて小さい動くもの、を何度も見るとそれを一つの概念(シニフィエ)として獲得する。 その概念に貼ったラベルが名まえ(シニフィアン)である。

里田まいは、「用賀」と聞いて、用賀の概念(シニフィエ)を想起し、それがいつのまにか似ている豊洲の概念に変わってしまい、意識的にするときに「豊洲」と認識しなおしてしまい、結局「豊洲」に向かったのだろう。

実際、当時ぼくはこれをきいたときたしかに似てるなと思った。これは感性によるだろうが。

両方とも駅からでるときに地下部分から外に開いており、その周りにショッピングできる空間がある。そしてどちらも何か清潔な感じ。言葉にするのは難しいがたしかに概念として似ているのだ。その特徴を表すいい画像が見つからなかったがいちおう参考までに↓

↓用賀駅
youga

 
↓豊洲駅
toyosu
 

M.アルヴァックス 『集合的記憶』行路社 小関藤一郎訳を読んだ。

本書は、記憶について社会学的な立場で考察されている。普通、記憶というと心理学や生物学など自然科学的な扱いである印象だが、本書はそうした精密な方法にとらわれないもっと内省や直観に基づいた「記憶」の考察だといえる。

本書は体系的に書かれてなく、なかなか読みづらく著者の意を汲むのは難しいが、書かれているテーマ自体もはっきりしたものではないためしょうがない。

私の読みでは、本書の要諦は以下の一言に凝縮されている。本書からの抜粋。
われわれが自分たちの幼児期のことを想起することがないのは、実際、われわれの印象が何の支えも持てないからであり、言いかえれば、われわれがまだ社会的存在ではなかったからである。(24)

かなりラジカルな発想である。社会的な存在でないと記憶することができないのだ。社会的な存在とは、私なりに定義するなら「あらゆる経験が一つの主体に帰属している自我を持っており、他者も(自分と同じように)自己意識(自我)をもった存在であると認識し、そうした他者とともに世界を生きていると理解している状態」としよう。

例えば、目の前の「机」というものを後で想い出すことができるのは、机が社会的な存在(われわれが、ともいえる)だからである。

猿から進化したばかりの原始人がわれわれがいう「机(例えば木製の)」をみても、茶色い一定の大きさの対象を感覚するに過ぎない。僕らはそれを社会の中で「勉強のために使うもの」「工場で作られたもの」「椅子とセットであるもの」などいろいろな手がかりを背後にもった上で「机」という風に呼ぶ。

さて、そこでのキーワードが「集合的記憶」だが、これは何か?

一般的に言われている「集合的記憶」の定義はこうだ。
 
集合的記憶とは:
過去は無意識の状態で再生されるのではない。あらゆる事柄が示唆しているように思えるのは、過去は現在という 基盤から再構成される、ということである。 このように、アルヴァックスにとっての記憶とは、過去の想い出をそのまま再発見することではなく、集団の観点から過去を再構成 する営みにほかならない。このような過程を経て、集団内部の成員たちによって想い出が共有される営み が、集合的記憶なのである。

「集団内部の成員たちによって想い出が共有される営み」が、集合的記憶だという。

要は、先の机の例でいうと机の社会的な側面である「勉強のために使うもの」「工場で作られたもの」「椅子とセットであるもの」のような集団で社会的に共通的に記憶されているものが、集合的記憶である。

他の説明をみてみよう。

何かを思い出す時、他人やメディアに言及されて、「あぁ!」って想い出すことがよくありませんか。今日は、まずこの「想起(想い出すこと)」についてモーリス・アルヴァックスの『集合的記憶』という著作を手がかりに考えてみたいと思います。そして、人の想起のきっかけとなるものの一つであるメディアについても考えてみます。
 
アルヴァックスによると、全ての記憶というのは、社会的に編制されるものであり、純粋に個人的な記憶というのは存在しません。当たり前のようですが、人は常に様々な人やモノと関りながら生きているので、全ての想起される出来事(記憶)には、常に「他者」が関っています。
 
どの記憶も、その人がその時に属していた家族、友達、サークル、学校、地域社会、国家、SNS上のコミュニティなど様々な集団の中で行われた出来事の記憶です。もちろん、この集団は、現実に物理的実体だけでなく、読者共同体など観念上の集団(集合)であることもあります。
 
例えば、東大のキャンパスにある三四郎池を歩いていて、夏目漱石の『三四郎』の世界を想い出したとしましょう。その時、その人は、夏目漱石、引いては『三四郎』を読んでいる人々という集団に属しながら、その情景を想起していると考えられます。
 
さて、そうした記憶を想い出すためには、その出来事がなされた時にいた集団と、現在においても心理的(感情的)に繋がっている必要があるとアルヴァックスは言います。つまり、その集団においてなされた出来事やそこで感じたことが、現在も生き生きとしたものとして自らの中に存在していることが、想起の要件です。逆に、現在関心が離れてしまっている集団において行われた出来事は、想い出せません。
 
さっきの例でいうと、夏目漱石の『三四郎』を読んだ時の感情や思い(または読んだこと自体)を忘れているともはや、三四郎池を見ても、『三四郎』の世界は想起されません。すなわち、人の想い出というのは、現在もその集団に思いを馳せることができるということが大事なのです。よって、私たちが想い出す出来事は、現在において、私たちがもっとも密接に関わっている集団の記憶であることが多いと言えるでしょう。

http://media-journalism.org/blog/field-review/125-2012-05-21-12-46-56 


「集合的記憶」とは何か、さらに他の説明をみてみよう。


M.アルヴァックスは、心理学分野の記憶である“個人的記憶”は条件を整えた実験室(実験環境)の中でだけ確認される特殊な記憶であり、日常生活における記憶の多くは『他者と共に経験したことの記憶・他者との会話の中で思い出される記憶・写真や映像をトリガーにして思い出す記憶』などに示される“社会的記憶・集合的記憶”であるとした。アルヴァックスの社会学理論でいう『集合的記憶』とは、日常生活における集合的・社会的な行為や刺激を介在した記憶である。

アルヴァックスは、人間は集団の一員として過去を想起するという前提を立て、『人が思い出すのは、自分を一つないし多くの集団の観点に身を置き、そして一つないし多くの集合的思考の流れの中に自分を置き直してみるという条件においてである(Halbwachs, 1950)』と述べている。心理学分野における個人的記憶は、過去にまつわる記憶の内容は、他者にはアクセスすることができない『個人の心(脳)や無意識』に保存されていると考えるが、アルヴァックスは個人の内面にある『記憶の特定の保存場所』の存在を否定して、『自分が一員となっている集団からの刺激』によって集合的記憶が想起されやすくなると考えている。


アルヴァックスの集合的記憶論は『過去の現在性・影響力』について説いた理論でもあるが、過去は脳や心といったどこか特定の場所にありのままの事実として保存されているのではなく、過去は『現在の基盤・集団の共通認識』に基づいて絶えず『現在における過去の再構成』を繰り返している。過去の再構成と集団社会の自己正当化(個人の自己アイデンティティ強化)によって、その意味・価値がそれぞれの時期ごとに新たに判断され直しているのである。
 
アルヴァックスは過去の記憶が保存されている場所というか想起されるとっかかりとして、『現在の基盤・集団の共通認識・写真や映像(記録媒体の参照)』を上げたが、それ以外にも『物質・空間』と結びつく形で過去の出来事の記憶は保存されることが多いとしている。過去に大切な人と一緒に過ごした場所に赴けば、その時の出来事や相手の言動などがリアルに思い浮かんでくることがあり、特別な思い出のある香りや味覚、音楽などに触れることによって、過去の記憶が生き生きと想起されてくることもある。このように、人間の記憶は『物質(五感)・空間(思い入れのある場所)』と切り離して考えることが難しい。
 
モーリス・アルヴァックスは集合的記憶論として『記憶の現在主義(現在における過去の再構成)』と『記憶の物質性・空間性』を上げたが、この二つの特徴は過去の出来事を直接的に体験した当事者以外の人たちにも『過去の記憶の共有(過去の記憶による心理的・行動的な影響)』が起こり得るということを意味している。
 
集合的記憶の概念は『マスメディアの情報・体験者からの伝聞・記念式典・資料館・歴史的建造物・写真や映像・歴史教育』などによって再構成され続けており、『個人的記憶の直接体験の限界』を容易に超越していくのである。学校や書物で歴史の側面図(客観的な知識)として学んでいる歴史は『書かれた情報としての歴史』に過ぎない側面があるが、私たちの自意識や集団生活、国家の政策などに直接間接の影響を与えているのは、集合的記憶に基づく『生きている歴史』である。
 
歴史の正面図を描く『生きている歴史』はその感じ方や影響のされ方によっては、外国・異民族に対する怨恨・怒り・差別・復讐・劣等感などを刺激する恐れもあるものであり、『同じような歴史上の過ちを繰り返さないためにどうすれば良いのか』は、私たち人類に長年課されてきた集合的記憶(歴史認識・国家と結びつく自己アイデンティティ)を巡る非常に重たい課題だと言えるだろう。
 
M.アルヴァックスは『社会を構成する様々な集団は常に自分たちの過去を再構成することができるが、再構成を行う時、それらの集団は非常にしばしば過去を歪曲する』と警鐘を鳴らしてもいるが、『都合の悪い歴史的な事象の忘却・歪曲の誘惑』から逃れるにはどうすれば良いのか、自己正当化のための他者否定をどう克服できるのかを考えていかなければならない。
http://esdiscovery.jp/knowledge/basic/social01/socio013.html#theory2 

『集合的記憶』とは、「日常生活における集合的・社会的な行為や刺激を介在した記憶」と書いてある。先に述べたことと同じことだ。ただ、この場合少し観点が違う。

記憶とは、脳の中の巨大なデータベースに保存されており、いつでも個人的に取り出されるものと理解されやすいが、実はそうでもない。仮に保存されていても、ある刺激がないと取り出せない、所謂検索不能な記憶がある。その場合、それは完全に外的環境の刺激に依るわけで、「外的環境に記憶が保存されている」という言い方もできる。

例えば、僕はこの前あるデパートのトイレの小便器でTOTOと書いてあるのを見て、南京に住んでいたときのTOTOで働くおっさんのことを5年ぶりに思い出した。このトリガーがなかったらずっと頭の中に潜む、実質存在しないものになっていただろう。


さて、

「集合的記憶」とは何か、なんとなく言わんとしていることは分かるが、まだしっくりこないのではないか。
 
私なりにその本質をずばり言うと、

集合的記憶とは、「他人とコミュニケーション、共有可能な表象」である。伝達可能な

一人で生きていれば、世の中のものはすべてただの感覚だけ。せいぜい対象として感覚できるだけだ。先の例でいうと、机は「茶色い一定の大きさの対象」。もちろん、「茶色」「一定」などの語もなく、ただ質的な感覚の対象のこと。

実は、突き詰めればこれは「言語」に行き着く。
「言語」が集合的記憶の大元である。

複数人以上で何かを体験すれば、それを伝達する必要があり、名付ける必要がある。そして伝達で使う度に実際に五感で捉えた対象が想起され、より記憶に定着する。

そして、他者との関係が広まり社会的になると、さらにいろいろな観点から対象を捉える。机は「勉強のために使うもの」「工場で作られたもの」「椅子とセットであるもの」などいろんな他の記憶や経験と繋がり記憶が支えられる。

ということで集合的記憶とは、
「社会性を持っていないと記憶には残らない」という冒頭で引用した主張に行き着く。

『集合的記憶』とは、「日常生活における集合的・社会的な行為や刺激を介在した記憶」と定義されていたが、すべての記憶は集合的・社会的な行為や刺激を介在した記憶なのである。

本書から一つ例を紹介する。「価格」についてだ。

物の価格はその物的対象と何の関わりもないのは普通に考えれば分かる。でもなぜわれわれはこのペットボトルのお茶が150円だといわれて納得できるか。

それは150円という背後に社会の成り立ちや経緯の記憶が支えとしてあるからだ。人は社会を営み経済システム、株式会社の制度、諸々の法律などを作り上げた。貨幣制度も整えられた。中学生くらいで貨幣の3つの役割なども習っただろう。そしてコンビニでお茶を買う際には、そこはそうした経済システムの背景で商品を売る場所という記憶を想起させ、そこで売っているものはすべて貨幣制度にもとづく価格をもっていることが無意識に理解されている。

物に値段がついているという何気ないことでも、そしてあなたが会社や学校に毎日行くのも、すべていろんな集合的記憶が支えているのだ 

集合的記憶
M.アルヴァックス
行路社
1999-11

 

以下は、とある友人のフェイスブックでの投稿。(無許可で転載)

【「煮る」と「茹でる」の違いは⁉︎】
「パスタを茹でる」とは言うけど「煮る」とは言えない。
「魚を煮る」とは言うけど「茹でる」とは言わない。
でも、蛸は普通「茹でる」。
豆は「煮る」とも「茹でる」とも言うような気がする。
・時間の長さの違い?
・行為の継続にlimitがあるかないかの違い?
・味付けするかしないかの違い?
ちなみに、「煮込む」とは言うけど「茹で込む」とは言わなかったり、「茹で上がる」とは言うけど「煮上がる」とは言わなかったりすることも何か関係しているかもしれん。
この方は言語学を学びこういうことに興味を持っているようだ。

さて、みなさんはこれについてどう思うか。

いい人で僕は好感をもっているが、正直いってせっかく言語学やるならもっと深いところやろうよ、といいたくなる。

というか、これよりももっと細かいことを職業的に博士過程や研究機関で研究している人も多くいるだろう。そういう人にこそいいたい。

でも、僕はなぜそんなことを言えるか。
その背景を説明しよう。

デイヴィッド・ヒュームの『人性論』から観念連合 association of ideasという考え方から、考察したい。

連合とは、心の対象である観念間を支配する連想的な関連で,任意の観念が自然に他の観念をよびおこし,心に現前させる種類の結合。

ヒュームは「誇り」という言葉について分析している。

1、快いという印象が心に発生

2,この快いという印象を引き起こすものが私の美しい家という観念として特定

3,この私の美しい家という観念が連合により私という観念に関係づけられる

4,この私という観念を対象として、これに対応する何らかの印象(この場合は情念)が発生することになるが、これは私の美しい家という観念が引き起こした快いという印象に似たものでなくてはならない。そして印象のあいだの連合にもとづいて快いが「誇り」という印象を引きづりだす。私の美しい家を原因に持ち、私を対象に持つ誇りという印象が、快いという印象に似たものとして心に姿をあらわす。

 
ややこしいが要は、美しい家に快を感じ、それを所有している自分とそれが連合し、最初の美しい家が自分と繋がり、美しい家の快が自分にも繋がって「誇り」が生じるみたいな感じ。

何がいいたいかというとこういう連合が一日のうちにも無数に起きている。

そうして、いろんな体系により無数の対象の間に快不快などとのネットワークができる。網の目のように細かく複雑に。
 
人間はジョン・ロックのいうようなタブラ・ラーサ(白紙)状態で生まれてきて経験の中でたくさんの対象の観念を学びそれらが上述のように快不快とさらに他の観念と連合い網目が形成される。そして他者や社会との関係も加わるとカオス並に複雑になる。

冒頭の「茹でると煮るの違い」は、 こうしたカオスの中の一部の網の目がどうなっているか分析するようなもの。そんな具体的なカオスの網の目自体を分析しても、事実が浮かび上がってくるだけで終わりだ。もちろん、それが知的好奇心を満たすならいいが、それは社会的には、人間的には大した意義はない。決して国が支援したり、民間でも奨学金なり研究費出すのは間違っている。

現代の人間が研究すべきはこうした網の目を作り出すもととなる快不快を生むエロスや、事実学にしてもこの連合の法則など原理に関わる部分である。 

この世界のこの質感、色鮮やかなこの世界に驚愕している。

哲学をベースに自然科学の知識などいろいろ学び、人間とは何か世界とは何かについて
やっぱりこの世界の存在自体、そして私が私であるあり30年も体験しているこのこと自体が凄い。なんなんだろう、この彩り豊かなクオリアは。

もし他人と共通了解を形成するという目的なら、現象学が最も原理的でありこれ以上の方法はないだろう。異国民、異民族との相互了解のためなど世俗的に平和的な統一を目指す方向で。そんな大きな話でなくても個人レベルでも使える。

しかし、そうではなくこの世界はなんなのか、という原理を形而上学的に問う場合は現象学にこだわっていたら進まない。というか現象学はそれが無理だと結論してしまう。

だとすればどうすればいいか。

SF小説書くとか。

ひょんなことから陳 天璽  (著)の「無国籍 (新潮文庫) 」を読んだ。

内容はこう。
内容紹介
日中国交回復により、「台湾籍」が認められなくなった結果、「無国籍」という身分を選んだ人たちがいた。そんな家庭に生まれ、横浜中華街で育った著者は、ある日、台湾への入国も日本への帰国もできず、空港から出られない衝撃的な経験をする。国籍とは? 民族とは? アイデンティティの基盤とは何か? 国家と家族の歴史に向き合い、深く掘り下げた体験的ノンフィクション。

出版社からのコメント
パスポートは? 選挙権は? 愛国心は? はじめて明らかになる無国籍の実態。国籍のなかった私が、半生を綴りながら無国籍で生きるとは何かを問う。

恐らく多くの人は僕と同じように「無国籍」って何って感じだろう。

無国籍?おれには関係ない。もちろん、もしおれが無国籍だったら、それは人生の中でも重要なものになるだろう。でも、今それと関係ない自分がからすれば、無国籍だからいろいろ制限されて人生が狭められて悩んでいる人、そして無国籍の支援のために人生を捧げる人、には何ら共感できないのは事実だ。もちろんその行動力には敬服するが、私は全くその彼ら彼女が抱えている問題に共感できない。 

でもアイデンティティってなんなんだろう。

同じような環境で一定期間、同じようなインプットを浴びることにより、その環境特有の観念群が形成され定着していく。

WIKI「アイデンティティ」概要
青年期は、「自分とは何か」「これからどう生きていくのか」「どんな職業についたらよいのか」「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった問いを通して、自分自身を形成していく時期である。そして、「これこそが本当の自分だ」といった実感のことを自我同一性と呼ぶ。
エリクソンによる正確な定義は様々に存在しているが、アイデンティティ獲得の正反対の状態として、役割拡散や排除性が挙げられている。アイデンティティが正常に発達した場合に獲得される人間の根本的な性質としてエリクソンは「忠誠性」を挙げている。この忠誠性は様々な社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事の出来る性質である。これが正常に獲得されないと、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごしたり、逆に熱狂的なイデオロギーに傾いてしまうと考えられている。
自我同一性を獲得するために社会的な義務や責任を猶予されている準備期間をモラトリアムと言うが、これはアイデンティティが確立するまでの猶予と言う意味を表しているに過ぎず、エリクソン自身は青年が様々に葛藤したりする戦いの時期として捉えていた。そのためモラトリアムと言っても当事者自身はアイデンティティ獲得のために心の中で戦っているような様を思い浮かべるのが正しいであろう。この時期に青年はそれまでに獲得してきた様々な自己の部分を整理しなおす。その結果、青年には適切に選ばれた忠誠を誓えるような対象と自己の活動が残り、また否定的な部分は捨てられてアイデンティティとして確立する。
もし僕らが言葉をもたないほどの未開社会に生きる人間であれば、アイデンティティなどという概念はなかっただろう。
 

無国籍 (新潮文庫)
陳 天璽
新潮社
2011-08-28

 

脳科学者の茂木健一郎は博士だったりメディア露出多かったり、本たくさん出してたりと経歴はピカイチ。実際何かで凄い実績を出したのかはわからないが、脳科学を流行らせ、日本の各種制度はイノベーションのためにダメだということは国民の多くにインプットしたのではないか。1962年生まれの53歳だ。

茂木さんの動画はyoutubeに沢山あるが、どれも面白い。最初は何言っているか分からないがしゃべり方に慣れるとわかってくる。ただ、基本的には同じことしかいっていない。日本はイノベーション起こる風土がない、おれがいたケンブリッジはおかしいなやつほど尊敬されるというやつ。

茂木さんはある動画でこういってた。「おれみたいに50を過ぎてもこんな落ちつかないやついるのに、よく20何歳かで普通に就職して社会に入っていくやつがいるなあ」と。これには思わず笑ってしまったが、激しく同意する。僕も<世界>に生まれた人間として、人工的で恣意的な<社会>には違和感がある。たまに不安になるが、茂木さんを見ていると安心する。(つっても東大博士でソニーで研究員やって超保守的なキャリアだが)

みんな当然のように社会の流れに入っていく。いつ死ぬか分かんないんだし、もう少し自分で考えてもいいのではないだろうか。

↓14:10くらいのところ

 

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