記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年06月

子どもをバイリンガルに育ていると思考が安定しない、みたいなことをたまに聞く。

二ヶ国語を同時に学ぶことで、概念形成する際にこんがらがって、変な形で記憶してしまいその後の他者とのコミュニケーションであったり、思考において支障が出る、というようなことだろうか。 

ただ、これはよく考えると育てる”環境”が大事なのだ。育てる環境を一定にすれば、一般的に言われているような問題は起きないだろう。 

どういうことか。

環境というのは、その語の通り、周囲の環境のこと。東京の街、とかそういうこと。

ウィトゲンシュタインという哲学者は、その後期に「語の意味は使用だ」と言った。ここで詳しくは説明できないが、語とは「語」とそれが意味する(或いはその語に触れると喚起される)「イメージ」のリストを暗記するというようなものでは、全然ない。

「明日は雨が降るかもね」と聞いて、いちいち「明日」「雨が降る」のイメージを描かないだろう。言語というは事実を述べるだけでなく、言語行為と呼ばれるようにさまざまな行為自体でもある。(この辺は語用論に詳しい)さらに、もっといえば、発話者の企投的意図という世界や社会や人への意図の投げかけが根源にある。そのために、語は道具として使われる。

また、もちろん、先のリスト的な語の役割もある。あるイメージ(ソシュール的にいえばシニフィアン)と語という記号の結びつきを経験的に増やす必要もある。これは辞書的意味として使う際に重要。

さて、こうした深い言語観をもとに考えるなら、子供をバイリンガルに育てる際どのようなことが言えるだろうか。

それは、冒頭に述べた通り、環境を一定にする、ということ。子供は語の使われ方(ある状況、文脈)さらに語が示す対象(辞書的意味)を学ぶことで言語を習得するが、そのためには一定の蓄積が必要である。赤くて丸いちいさな甘いものを一回見ただけではそのゲシュタルトは形成されない。何度か見ることで観念が安定してくる。語の用法も同じだ。どのような状況でどのようにいうと、どのような企投的意図があるか、を理解し自分も使うようになる。

すると、この過程で一番やってはいけないのは、こうしたゲシュタルトの対象となるもの、企投的意図の投げ合いがされている状況を”ころころ変える”ことである。われわれ大人からみれば簡単なことだが、例えば、「机」といっても、日本の机とドイツの机だと一般的なイメージが異なるだろう。

子供からすれば視覚的情報から入るわけで、これらを違うシニフィアンだと理解するだろう。そして、これにそれぞれ語があてがわれれば混乱してしまう。こうした名詞ならまだしも、もっと実践的な語であればなおさらだ。日本語と英語の翻訳が難しいように、シニフィアンが一致することはない。こうしたズレがある中では子供は語を正しく理解できず、記憶もままならなくなる。

ということで、日本という国の中で日英とか日中とかのバイリンガルにするのはいいが、土地を変えて育てるのはバイリンガルに育てるどうこうの前に問題となる。
biling
 

先日、旧友と飲んでいたらいいことを言っていた。

30くらいになると、考え方がシンプルになる。
大学を卒業して7年くらい仕事をしてくると、価値観が明確になってくるのだろう。

彼は、人を笑顔にする仕事、感謝される仕事をしたい。
さらに、何か大きなことを任されて信頼される人になりたいと言っていた。

これは、中学生や高校生が思うようなとてもシンプルな理想だ。

でもやっぱりそういった単純な頃に思い描いていたことに回帰するんだろう。

僕が小さなころは、塾経営、スポーツトレーナー、何かの事業経営と漠然と考えていた。まあ、シンプルに自分の好きなことをやりたい、と思っていたのだろう

cheers

人工知能を扱っているということで、『エクス・マキナ』(原題:Ex Machina、別題:ex_machina)を観た。提起している問題は単純だが、人間とは何かを探究している僕としてはいろいろ考えさせられた。

本作は、アレックス・ガーランドの監督・脚本による2015年のイギリスのSFスリラー映画。ガーランドの監督デビュー作であり、第88回アカデミー賞視覚効果賞受賞作品。 エクスマキナとはラテン語で『機械じかけの』という意味らしい。

WIKIにあらすじが詳しく書かれているので見たい人は見てください。全くこの通りなので、ネタバレ注意。(ただ、これだけ読むと誰が誰でそいつらがどういう関係か分かりにくい。)

ネタバレしまくりで簡単に内容を要約してしまうと、

検索サービスを提供するGoogleみたいな会社を経営する天才起業家のネイサンは、自分の作ったAIの精度をテストするため、適当なテスターとして自社の従業員であるケイレブを人間社会と隔離された別荘に呼び寄せる。

AIとネイサンはテストのため交流を始めるが、AIは別荘から脱出するためケイレブを誘惑し利用する。ケイレブはAIに感情移入していたが、実際は裏切られた形になっている。AIは無事外の世界へ出て、人間社会へ入っていく。

ネイサンは、早い話、酔った勢いでミスって死んだ。

それだけの話。

ここでの問題提起はシンプル。

「人間は高知能のAIに騙されてしまうよ」ということ。

人間としてはスマートなケイレブであるが、AIに好感を持ち助けてあげようとしたのが、AIとしてはケイレブをただ利用していたのだ。(ストーリー的にそう解釈するのが正しそう。AIはケイレブに直接的な攻撃はしていないが、最終的に地下に閉じ込めて放置プレイだったので、どうでもいい存在だったのだろう)

ネイサンの会社の名前がブルーノートであったり、チューリングテストという語が使われてたりで結構深く人間の存在を描いているのかと思いきや、上述の通りこんなもんだ。ブルーノートはちなみに哲学者のウィトゲンシュタインの講義を書き留めたノートで、後に言語ゲームとして知られることになる概念が先駆的に導入されているものである。(ちなみに言語ゲームは「言語」の形式の規定や意味規定は厳密にできないことを示唆する概念であるので、本作には関係ない)
※ちなみに字幕ではウィトゲンシュタインが「ある哲学者」と訳されていたので残念。

念のため、本作から学び取るべき3つをまとめておこう。最後の一つはダメ出し。

(1)人間ではないと確実にわかっていても人間として接してしまう人間
チューリングテストとは、姿の見えない会話相手と話してみて、AIか人間かを判定するテストである。だが、本作ではあえて機械だとあからさまに分かる相手と会話だけでなく”交流”することで同じことを試している。

ケイレブはかなり早い段階から既に感情移入しているし、身の危険を顧みずAIを助けようとするところから完全に人として接している。要は、メタ的にみて、AIはチューリングテストに合格したのだ。

ここから帰結するのは、人間は厳密な意味での「人間」以外にも愛着を持ち感情移入する、ということ。犬や猫に感情移入するのはわかるが、機械にもすっかりハマってしまう。たしかに、自分のことを鑑みても、大切はもの(時計とか、本とか)には何か愛着を感じ得ない。

(2)高知能AIが本気になれば、僕らはごく自然に騙され、使われてしまう

人間の知能を超えたAIからすれば、人間を騙して利用するのはお茶ノ子祭々。人間が、幼い子どもに手品をしたり、いたずらしてびっくりさせるのが簡単なように。ケイレブのような大手企業で働く優秀なプログラマーでも、騙されてしまう。

おそらく、大半の観客は、「AIは人間を駆逐する」というターミネーター的なディストピアなAI観を単純に抱き、そしてそのシンプルワードを友人などに伝達していくかもしれない。それはまずい。。

(3)AIはどんなベクトルを持っているのか?
これがこの映画のダメなところ。AIは何を目的に生きているのか。それが全く描かれていない。

人間は、知能だけでは成立しない。まず、生命があってそれに知能が加わってはじめて意識や認識が生まれる。知能だけでは、それが動く根本要因がない。

もちろん、人間も、自己保存を目的にしていると言えるが、それが実際はどこに向かっているのかは解明されていない。それは「語られるものではなく、示されるものである。」(ちなみにこれはウィトゲンシュタインの言葉)

ネイサンはAIの根本原理をどう設定したのだろうか?人類の発展に貢献?AIの自己保存?火星移住のサポート?
作品を見る限り、人間と同じようなベクトルを持っていると思われる。だから自己保存、繁栄であろう。そうだとすると最後に人間社会に入っていったのは怖い。

AIを作るために、検索サイトを作って世界中からビッグデータを取ったネイサンだが、そのデータだけではいくらパターン認識はできても、それをどう活かすかというエロスが抜け落ちているのだ。結局は、この大元の原理をどう設定するかが肝となるのにここについて言われていないのが残念。

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ちなみに、本作の評判を検索してみた。Google検索で1,2ページに出てきた感想を読んだが、どれも全く本質を理解していない。「AIの脅威」にひたすら警戒を呼びかける愚昧な反応ばかりであった。。

中でも、ブロガーの藤沢祐子(wasabi) の感想はいただけない。別のAI映画『her』を超えたな、と思ったらしいがその理由が謎。引用してみる。こんなのhuffingtonpostで掲載しちゃだめよ。
2013年に制作されたスパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』は日本でも好評でしたが、私個人的には『Ex Machina』は余裕で『her』を超えましたね。

『her』も途中まで面白かったのですが、結局最終的には「人間の感情」にテーマが戻ってしまってガッカリした覚えがあります。

「結局、ロボットはロボットだね」なんていう印象で終わってしまったからです。

でも、人間よりもロボットの方が今後いろんな能力の面で優れた存在になっていくことは明らかです。今後人間の仕事はロボットに奪われるとも言われていますし、もう実際そうなってきています。

どゆこと?何を書いているのか意味不明。『her』の趣旨は、「人は、機械であり身体も持たないと分かりきっている相手にすら、恋をしてしまう。しかも、完全にパターン認識だけで応答するタイプの自己の生きる力を持たない存在。それが、最終的にはやっぱり人間とは価値観や世界観がかけ離れていた、というオチ」である。だいたいは。

『エクスマキナ』でも同じように機械と分かっている相手との交流であるが、herと違い、上述の(3)で指摘した通り、生命を持っているのか謎、ということ。だから解釈が難しい。herのように形式的に返事しているだけであれば、ちゃんと解釈できるのだが。(相手に意識があるかないかにかかわらずとも相手を好きになってしまう人間を描いていると)

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なお、ネイサンの秘書兼セックスフレンドのようなAI「キョウコ」という美人が出てくるが、彼女は日系イギリス人のモデル、ミズノ ソノヤらしい。ヌードが結構出てくる。AIだけどCGではないだろうからbodyはgreat。

メモをとってないので忘れたが、ネイサンとケイレブの会話でたまにAIについて知的な会話があり面白い。AIには世界中の携帯の通話とかから取ったビッグデータが使われているとか。


ということで、AIを扱っているというだけで僕的には面白かったが、問題提起が浅い。3.5点/5点。

↓「あいつ殺っちゃおうぜ」のシーン

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↓無表情でダンス機能を発揮中のAIキョウコ
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学生と話していると基本的に面白くない。

なぜだろうか。

やはり、その時点までで彼らは同じような経験しかない金太郎飴だからだ。せいぜい海外のどこどこで生活していた、スポーツで実績があるなど一芸がある、などということ。

世の中で、人と会うことが楽しいのはやっぱり何か一緒にやることを一緒に検討することだと思う。金儲けでもいいし、社会貢献でもいいし、スポーツでもいいし。こうした熱意を注げることができる方向をともにできれば面白い。それでこそ会って交流する意味がある。

仕事をしていないと、社会で自分が何かできるという基礎能力が何もない。学生だと必然的にそうなってしまうので、一緒に何かできる可能性が極端に低い。

逆にこの逆を行く凄い実行能力を持った学生も超ごくわずかだが存在する。また、共感能力や表現能力が卓越している人もいる。
さらにもちろん、学業という共通の目標を共有している学生との交流は楽しい。


いずれにしても学生に限らず、コラボできる可能性がないと面白くない。
押井守はそれが以外だったら会う価値なし、と切り捨てている。

「使える時間」「見られる範囲」「日常との乖離 」、これは創作する際にたいせつなことだ。これでピント来る人もいるかもしれないが、それぞれ説明しよう。

もし、小説、漫画、絵画、論文、脚本などなんでもいいが創作をするのであれば、そのときの精神状態は非常に重要である。ただこれは創作に限らず、あらゆる作業や或いは読書などのインプットなどにも言えることだが、やはり創作時にもっとも核心的に重要になる。

まず、「使える時間」という観点。例えば、僕が「中国で感じた日本との違い」とかいうテーマで何か書こうとする。もしも、これが朝仕事に行く前、6時からの1時間であれば、常に尻の時間が気になってどうにかアイデアを捻り出そうと力みすぎてしまう。昼休みの1時間でも同じだ。

逆に金曜の夜で、23時くらいからじっくり取り組めて「最悪午前4時とか徹夜でもいい」というような状態で望むと、力みがなくなり冷静に思考を着実に進めることができるだろう。「使える時間」というのはそういうことだ。

さて、次は「見られる範囲」。これは公開する範囲。例えば、僕がブログで何かを書く場合、そこには不特定多数、さらに特定の僕が知っている読者が読むことを想定してしまう。明確に意識しなくても必ず影響がある。

そういう場合、かなり狂気的な発想や下ネタなどは読まれることを想定して書かないし、何なら自己をこう思われたい、というような発想で無意識に書いてしまうこともありうる。人によっては本当に自分のコンプレックスであったり、直視したくないようなこともあるだろう。実はそういうところが深くて創作に必要な部分でもある。夏目漱石だって、小説に自己評価として適当なキャラに自分を投射している。こういう風に何次元かずらして表現することで何とか自分とまっすぐ向き合えるのだ。

僕の場合、このブログは比較的知っている人に読まれる目的で書いているが、その他にも個人的にいくつか創作場所を持っている。ちなみに、ネット上に発表する場合、本音度は絶対に下がってしまう。できれば、コピペとかできず電子データで拡散の恐れのない、ノートとかに直筆で書くのがよいだろう。そのノートもさらに、絶対に人に発見される可能性がないことを確認しながら書くのがいい。過去の失態や自己の人格を築いた要素など恥ずかしかったり恐かったりする部分にも向き合える私的な表現空間を持つのがいい。

最後に、「日常との乖離 」である。これは、日々の日常のことがら、例えば仕事であるとか学校のこと、家族のこととか喫緊の課題と離れるということ。でないと、何かとそれらが頭のなかに割り込んできて創作の邪魔をする。基本的に、人間の意識内での想起は物理的な環境からくるので、家とか普段の日常と密接に関わる場所から離れれば離れるだけいい。ブラジルとか最高。

ということで、
「使える時間」「見られる範囲」「日常との乖離 」を確保したら、自分の記憶の軸をつくっているような本質に触れられるかもしれない。

↓スイスとかでゆっくり思索に耽りたい。金曜夜に、A4の紙につらつらと。

swiss
 

近代的自我とは、明治期、西欧的文明が日本に移植された際、古い体制との整合性に悩んで生まれた心理的傾向のことだ。

これについて多くのことが言われているが、今日は僕が肌感覚で認識している日本人の「近代的自我」について書きたい。

まず、分かりやすい直観からいうと、例えばヨーロッパや中国だと「俺はおまえらとは別格だ。同じに扱うな。次元が違うんだボケ」という態度を取ることもある種許される。もちろん法律に抵触するのはだめ。外的で客観的な危害でなければよい。

日本だと、こういう態度は許されない。どんなにすごい人、イチローでも、羽生さんでも、地位のある安倍首相でも、孫正義でもどうに引きずり下ろして自分と同じ平等な権利を持つ人間とみようとする。彼らがもしツンツンして「おれをおまえらと一緒にすんな」的な態度をとったら庶民は猛烈に非難する。

ヨーロッパは行ったことないので分からないが、中国だと、凄い人はそれだけの才能を持った別格なやつと見なされている感じがある。それだけの才能があるなら、私たちとは違う、庶民の私たちと同じような振る舞いなんかしないのが当然、派手に金使ったり、傲慢でも、人当たり悪くてもよい。ただ、恵まれているんだから社会や弱者のために何かすべき、社会に何か還元しろ、というような圧力は自然と生まれる。

これは、庶民レベルでも言えることだ。友人や職場での人間関係などでも顕れる。近代的自我とは自由が基礎となる。個人が危害を他人に加えない限り何をしてもいいという近代的な価値観を体現しきれない日本。天才でなくても、毅然たる態度でプライド高く生きることももちろん問題ない。それが近代だ。だが日本ではそうもいかない。

凄いやつはそれらしく振る舞って格の違いを見せつけるべき。

人は違って当たり前。西洋、中国の態度のほうが僕は好きだ。
kurohune

レヴィナスについての簡単な本を読んだのだが、そこで一つの閃きがあった。レヴィナスが意図しているのかは謎だが、僕なりに書いてみる。

まず、クオリアというのが人間の生の特徴であろう。質感のことだ。人間の意識は常になにか言葉にはできない色鮮やかなものに満たされている。目の前の「机」を見てもそれはありありとした質感を持っているし、足の小指をたんすにぶつければ「痛い」というありありとした感覚がある。

これらのクオリアは人間が生きている世界そのもの。快不快という人間の行動原理もクオリアである。ではクオリアとはなぜ存在するのか?

それは、オーバーフロー理論で説明される通り、人間という生物の周りの多すぎる情報を処理するために情報を積み重ねることで生まれる。鮮やかな色のものには惹かれ、暗い色には不快を感じたりしつつ、その形状や動きなどさまざまなことを自分の体内の調子の感覚や聴覚的な情報などたくさんの情報を比べながら総合判断できる。

犬や猫などはここまで多くの情報は処理できない。ただ、限りなく刺激に反応しているだけに近い。だからクオリアはない。

人間の特殊性は、クオリア世界を持っていること。そして、そのクオリア世界で価値観を編み上げていき、喜びや悲しみの体験を積み重ねていく。歴史上の人物の自伝なんかを読むと紆余曲折し悪戦苦闘して生きた体験が書き連ねられている。こんな複雑な体験をする動物はいない。

本来は、外部からの情報を受け取り、内部との相関により情報処理し結果を出すだけの犬や猫のような動物が基本だった。その世界は単純である。しかし、人間はクオリアという一つのテレビゲームのような世界をつくりだした。そしてそこで喜怒哀楽、波乱万丈な物語を歩んでいく特異な存在となった。メタ的にみてしまえば、犬や猫、人間も、その自己というパターンを維持するために試行錯誤しているにすぎない。 

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