記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年07月

ポケモンGO(『Pokémon GO』)が大流行している。世界中で7500万ダウンロードを達成したらしい。街を歩けば、半笑いでスマホを見ながら歩く人が多数目につく。僕はまだそこそこおもしろいと思ったが、今のところたいしてコミットしていない。

さて、このゲーム、ゲームに革新をもたらしたと言えるのだろうか?

このタイプのゲームが出てきたことは社会的に大きな意義がある。これはまさしくAR、拡張現実である。

WIKIによると、
拡張現実(かくちょうげんじつ、英: Augmented Reality、AR)とは、人が知覚する現実環境をコンピュータにより拡張する技術、およびコンピュータにより拡張された現実環境そのものを指す言葉。 

ポケモンGOは、現実の物理的な空間にポケモンが生息という幻想をプレイヤーに抱かせる。現実が拡張されているのだ。終わりなき日常から、一歩進んでいる。

もちろん、まだそのリアリティは弱い。それがサーバーにある情報であり、GPSと地図情報で造られたデジタルデータであることがはっきり分かる。でもしかし、「あそこにポケモンがいるかも」と、現実世界に可能性を見いだす。さらに、実際にその場所にいかないとポケモンをゲットできないとなると、その拡張現実にリアリティも出てくる。

終わりなき日常から、拡張現実は「非日常」を生むことで外へ連れ出す。

終わりなき日常とは何か。それは現代に蔓延した空気感。
2016年の今、世界はどうなっているのか。どういう時代といえるか。

封建制から近代へ以降したときととは比べ物にならないほど多様化した生き方が展開される。そして、そうした他人の生き方を含め社会や世界のあらゆる情報が入手可能な環境。こうした中で、人は何かに強いコミットをすることはできない。仕事や宗教などだけでなく、人への接し方でもそうだ。 ポストモダンである。相対主義である。絶対的までいかずとも、強い善悪というものが社会に存在しない。だから、何かに強くコミットしずらい。

大した感情の起伏も生じさせない当たり前の毎日。日常の連続。ポストモダンが全世界的に共有されている今、ポケモンGOという拡張現実はわれわれにとって希望の光りである。
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相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が死亡するなどし、植松聖容疑者(26)が殺人未遂容疑などで逮捕された事件。戦後最悪の殺人事件とも言われているが、この事件について思うところを述べよう。

まず、肉体的にも精神的にも被害を受けた施設関係者の皆さまに、心よりお見舞いを申し上げます。 お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまにお悔やみを申し上げます。

さて、今回の事件についてどう思うか。

ここ1ヶ月くらいでもアメリカのフロリダでの銃乱射、フランス・ニースのテロ事件、ドイツ・ミュンヘンでの銃乱射、さらに本日もフランスの教会でテロと思われる人質事件。世界がおかしくなっている。

これらのほとんどにはISが関与していると見られているが、実際は表面的なものである。こうした無差別テロの最も根源的にあるのは経済的、精神的な困窮がある。社会に包摂されずに未来に希望も持てず絶望。このやるせなさを誰か特定の対象に帰すことはできず、社会一般にぶつけて自分の人生を終わらせる。もちろん、その間にもさまざまな要因があるのは間違いないが、基本的な構造はこうだ。

今回の相模原の事件は、経済と精神的な困窮の「社会的包摂の失敗」という世界的なテロの流れとは違う流れにある。もちろん、そのマクロ的な傾向の影響も含め、要因は以下の3つなのではないか。
  1. 大麻で判断能力が著しく低下
  2. 注目され承認を得たいという欲求
  3. 世界中で多発するテロにより大量殺人の模倣欲
まず、 第一にこの事件は大麻の影響が強いのではないか。どれだけの使用があったかは分からないが、かなり判断能力に問題があり、社会常識と大きくかけ離れた理性能力の低下があったはず。そして、教員になれなかったり低賃金で働いていた鬱憤があったのだろうが、そこから飛び出し社会的承認を得たいという欲求があったのだろう。

しかし、それが大麻の影響か、常識的には考えられない独自の正義で実行されてしまった。報道を見ると、今年の2月から「障害者の安楽死」について大義をリアルに感じていたようで、そう考えると薬物使用が決定的な要因といえる。さらに、世界中で日常的に起きつつあるテロによる大量殺人。こうしたニュースが潜在的に模倣欲をくすぶり、また実行までの規範的障害を低減させた可能性は高い。

とはいえ、まだまだ情報が少ないので分からないことが多い。

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ビデオニュース・ドットコムの「マル激トーク800回記念」のイベント@LOFT9渋谷で宮台真司のトークを初めて生で観たが、やっぱりライブだと色々感じるものがあった。実際の現場の空気という状況コンテクストの中で人を見るのはテレビや書籍を通じてコンテクストがカットされたものとは違った印象を受ける。
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感想を一つに絞ると、宮台真司のような存在の”稀有さ”である。政治や社会について広い知見を持ち、ユーモアを交えつつ一般人を啓蒙しつつ草の根的に交流することのできる存在の大切さ、である。

少し話が逸れるが、
脳科学者の茂木健一郎がyoutubeの動画(以下の動画1:50あたり)で日本のお笑い芸人について批判していたのを思い出した。松本人志、明石家さんま、ビートたけしなどは、「政治的な風刺をする」というグローバルな定義の下ではコメディアンとはみなされない、そう主張している。この定義がどこまで正しいのかは不明だが、たしかに日本のお笑い芸人はその影響力と反比例して社会的、政治的なコミットが著しく低い。

茂木の「政治的な風刺をする」という定義は、要するに日本という社会、引いてはグローバルな社会、人類という視点で責任を引き受けているか、という趣旨であろう。この世に生まれ社会で育てられたのであれば、その成員としての自覚が必要。実際、欧米であれば影響力が増すにつれ社会的な責任も比例して増していく。日本の場合、仮に影響力を身につけても社会的な責任を負うための教養がない場合がほとんど。基本的な政治経済の知識や、社会がどのように回っているのかを経験的に知らないどころか知識的にも持ち合わせていない場合が多い。何億も稼ぐお笑い芸人や俳優、タレントでもこうした責任を果たす人は少ないし、それが社会的にも求められていないのが現状だ。

だからといって、即刻日本のお笑い芸人も政治的な風刺をしろ、というのはおかしい。僕ら日本人にはそういう風土がなかったのであり、しかもそれでいてうまく社会が回ってきたのだ。そうしたエートスが長い歴史をかけて築かれてきた。

しかし、日本はグローバル化に弱い立場で巻き込まれ、グローバルスタンダードに従わざるをえない状況になっている。そうなると、日本人のあり方を変えていかないと日本はグローバルな戦いの勝者の餌食となってしまうだろう。西洋的な思想や制度は取り込もうとしてきたが、一般的な国民レベルまでは全く浸透していない。なので、グローバル資本主義を日本も採用する以上、変えていかなくてはいけない。特に外国人労働者を受け入れより多様化するようなこれからにおいてはなおさら。

そういえば、僕も昔はダウンタウンやさまぁ〜ずなど好きでよく観ていたが、大学卒業後くらいからほとんど観なくなった。宮台もそうだが、比較的メディア(インターネット)に出ている知識人の話を聴くほうが面白いし、ときにはそっちのほうが笑える。youtubeには一昔前の小林秀雄、鶴見俊輔、三島由紀夫など聴くだけ価値あるコンテンツが沢山ある。もちろん彼らはお笑い芸人ではないが、社会の中で自分がどういう位置づけでどうやって社会をよくしようかを常に考え行動している。(もちろん、彼らの仕事でもあるのだが)そういう人の知的な風刺のほうがノリだけの芸よりも断然笑える。

一般のサラリーパーソンなどは目の前の仕事が手一杯で必然的に視野が狭くなるだろう。しかし、サラリーパーソンといえど、自分の企業の歴史や企業が属する産業や制度、さらに資本主義社会、世界に向けて人類的な視座で自分を位置づけることが望ましい。

視野の狭い一般人にとって、日本について、社会について、普段の生活について、こうした誰もが抱く問題について話し合いができる場は重要だ。そして、いろんな意見が出る中でそれらをうまく取捨選択し、まとめたり、道を示すファシリテーター、というか先生的な役割が不可欠。

今回のイベントでは質疑応答やインタラクションは少なかったが、宮台は、参議院選について、表現の自由について、都知事選について、子育てについてなど幅広い質問について適切に意見を述べ対応していた。いろんな発言を見ていると結構同じことをいっているが、あらゆることを網羅的に説明できる枠組みや知識を持っていることが分かる。そして何より、こういうアドリブ的な場で素を晒すことを厭わない態度。綜合的にいって、かっこいい大人、である。

こういう存在に憧れ勉強し、自己を磨いていく人が増えることは社会にとっての意義は絶大だ。技術の進歩などより多くの人が感染(ミメーシス)し、人類社会をよくしたいと思うことのほうが圧倒的に人類にとっての影響は大きい。日本にも沢山の所謂知識人は多いが、実際に大衆に向けて発信し交流している人はどれだけいるだろうか。冒頭で述べた通り、宮台真司は非常に稀有な存在である。個人的にこれからもウォッチしていきたい。(なお、ビデオニュース・ドットコムの創業者神保さんもそういう人の中の一人だ)

もちろん、スポーツ選手とか、アーティストとか、会社の上司とか、先輩とか身近なところで人に憧れ、ヘーゲル的に「ほんもの」を目指すことも良い。ただし、少なくとも自分も人類のある社会の成員であり、世界中で起きていることに全くの無関心ではいられない、ということは気に止めておくべきだ。普段こういう政治や社会に疎い人にこそ一度、ライブでこういう話を聴いてみてほしい。

日本のテレビでも、こういう人が人気になれば人びとのエートスが変わり、社会も良くなるだろう。


宮台真司は、社会的包摂を最重要課題としている。彼の議論を敷衍してみる。結局、われわれに必要な生命的な、或いは精神的なセーフティーネットは社会的包摂なのである。結局いま世間を騒がさているISにしろ、身近な物騒な殺人事件なども経済的困窮や精神的な孤独が原因となっている。宗教やら憎悪やらはその後付、きっかけに過ぎない。

誰かしっかり話を聞いてくれるやつ。真剣に話してくれるやつ。そばにいてくれるやつ。こういう存在がなく、むき出しでこの社会の荒野に投げ出されればそりゃ経済的にも精神的にも苛酷なものだ。

結局宮台は、恋愛学やナンパ術などを通じてこうした孤独に陥りやすいコミュニケーション下手な若者などを啓蒙しようとしてきたが、それに限界を感じた。そして、その原因を彼らを育てた親に辿る。幼少期の体験はその人の人格を形成する。親の育て方次第で、人を信じ頼れる心を持つかなど重要な対人関係の土台ができる。

ここからは個人的な考えだが、その「親」というのも結局は環境の生成物に過ぎない。簡単にいえば、時代は変わったのである。

どう変わったか。

封建制から近代へ以降したときととは比べ物にならないほど多様化した生き方が展開される。そして、そうした他人の生き方を含め社会や世界のあらゆる情報が入手可能な環境。こうした中で、人は何かに強いコミットをすることはできない。仕事や宗教などだけでなく、人への接し方でもそうだ。

では、こうした環境の変化はなぜ起きたか?

それは技術の発展と生産性の向上であろう。それらによりこうした多様な個人があらゆる情報にアクセスできる社会ができあがり、人間関係が希薄化した。それは表裏一体なのである。

だから、昔のような社会的包摂をもとめるのには無理がある。私は技術や生産性がこの問題を解決してくれるだろうと思う。もちろん、経済的のも精神的にも個人を支えてくれる社会を技術がどう作るのか、それはエクサスケールの衝撃で言われているような世界を待つ必要があるのか、具体的には分からない。しかし、環境が変わった今、経済と精神の安定を社会的包摂に求めるのは過去への回帰に過ぎない。

過度期というのは辛いものである。でも、社会的包摂をどうやって実現するのか、誰も案を出せない。方向がそもそも間違っている。僕らはより進歩が分かりやすい技術を発展させることにもっと力を入れたほうがいいのではないか。これについては改めて詳細に検討したい。

ハイデガーの「現」の本質契機である情状性・了解・語りについての考察は、人間各人の「生」である「いま、ここ」という意識の構造の卓越した深い洞察で描いている。山竹氏のサイトでうまくまとめてあるのでこれを見てみよう。
現存在が世界の内を生きる存在仕方の本質(内存在)について、「現」の本質契機である「情状性」「了解」「語り」の順に検討してみよう。

まず「情状性」だが、これは人間の存在仕方の最も基礎にある「気分」のことだ。気分は人間が被投性として存在することを開示しており、周りの世界の何であるか、自分がどんな状態かを告げ知らせている。例えばイライラした気分になっていれば、それは周りが気に入らない状況であることや、苛立っている自分がいることに気づくだろう。そして、そのイライラした気分は、イライラしようと思ってなったわけではなく、気がついたらすでにそうなっているのだ。つまり、気分は人間の意志や自由を超えて、自分がすでにある状況に投げ出されていること(被投性)を示している。気分は判断や行為に先だってそれを規定し、人間の実存の根拠となっているのである。

ところで、気分を感じ取るだけでなく、それを(等根源的に)受け取ることを「了解」という。気分には必ずある了解がともなっているが、了解は意識的な認識や理解ではなく、それらの根底にある気分を受け取ることで、新たな可能性を指し示すものだ。その意味では、情状性が被投性を示しているとすれば、了解は企投(可能性をめがけること)を示していると言える。

例えば、休日に旅行に行くことが決まって嬉しくなる場合、そこには嬉しい気分(情状性)があると同時に、無自覚のうちに楽しい休日という可能性をめがけていることになる(了解)。そして、これを「楽しい休日の可能性」として了解すれば、それは「解釈」となる。解釈とは、了解において企投された諸可能性を仕上げることなのだ。暴漢に襲われそうな人がいて、追い払うために周りを見回しながら棒きれを探しているとしよう。この場合、無意識のうちに周りを見ている時点では了解(予視)だが、棒きれが暴漢を追い払うもの「として」意識されれば、それはもう解釈である。

解釈を規定し、提示し、伝達すれば、それは「陳述」と呼ばれることになる。例えば、(水を飲みたいなあ)という了解を言葉にすれば、「水(主語)を 飲みたい(述語)」というように、主語は述語によって規定されることになる。そのため、「水」は「飲むためのもの」として一般化、事物化されるのであり、陳述において、道具的存在者は客観的事物として一般化されるのである。

情状性を受け止めるのが了解で、了解には解釈と陳述が含まれている。そして、これをさらにはっきりと他者に向けて話すことが「語り」である。語りは、ある感じや了解があって、それが言葉で表現されるということだけを意味するのではない。それは、聞くこと・沈黙することも含んでおり、私たちが他者とともにあるような存在(共存在)であることを示しているのだ。また、了解の可能性自体がすでに言葉によって分節されており、気分や了解も言語によって秩序づけられている。その意味では、語りも情状性や了解と等根源的だと言えるのである。

以上が「情状性」「了解」「語り」という現の構成契機の概略だが、これを一つの例でまとめてみよう。まず、重いハンマーを使っていて、その重さにちょっとイライラした気分(情状性)になっているとする。(何だか使いにくいなあ)というぼんやりした了解から、もう少し軽いほうがいいような気がしてくるとすれば、そこに解釈がある。重すぎるハンマー「として」了解されたからだ。そして「このハンマーは重すぎる」と言ってみる(陳述)なら、それはハンマーを「重すぎるハンマー」として規定し、誰もが「重すぎるハンマー」と見なすかのように、一般的な事物として他者に指し示すことになる。そうした解釈を他者に語ることによって、その了解の規定を他者と共有するのである(語り)。

平易な言い方で説明するなら、
まず、気分(いらいら、楽しい、むらむら)などが降ってくる。その気分をどうにかするため可能性を世界に見いだし、実際にその世界に企投し関係していき、気分やそれに連動する世界を刷新していく。これが僕らが生きる実存である。

先日も、東浩紀「弱いつながり」の感想としても書いたが、僕は最近人間というものがほとんど自由意志がない存在だと思ってきている。僕という人間は、僕が所属したいろんな共同体から造られた属性の束。別にそれが悪いことではない。ただ、そういう風に洞察しただけで、実際は自由意志を日々感じながら生きている。

さて、社会はなぜ良くならないか?なぜ評論家が批判することを全てクリアするようなスーパーマンが現れないのか。

結局、人間はハイデガーの考察したような内存在なのである。すべては被投性としての情状性から始まる。そして、これは哲学的なことを超えていうなら、生物の特性であり自己と種の保存である。

今の世の中で田中角栄のようなずば抜けた存在がいないのは、社会がよくなったからだ。何か飛び抜けたことやるような人間は、現代のように均質化された社会ではほぼ生まれる可能性はない。

民主主義はみんなで頭がよくなることが大事だというが、それはただ歴史や政治制度というエピステーメーを学ぶだけではな意味がない。そうしたいというエートスが身についてなければそれは出汁のない味噌汁みたいなもんだ。

ヒーローが出てくるには悪い社会が必要なのである。

或いは、社会を本当によくしたいというエートスを持つロボット。

 

昨日、ドワンゴ川上会長の「コンテンツの秘密」という本を紹介したが、その中で鈴木敏夫の作品を評価する視点が紹介されていた。

作品を見るときにはないを見ればいいか、それはつくった人が何をやろうとしたのか、それを見ればいい。そしてそれがうまく行ったのかいかなかったのか。それだけだ。

これは深い洞察だ。ニーチェ的。ただ、もう少し掘り下げたい。

というのも、クリエイターは大体のおいて、自分が何を創作したいか明確にわかっていない。村上龍はインタビューで「この小説で何を伝えたかったか」と問われ「そんなこと言えたら小説書きませんよ」と述べていたが、作品とはそういうものだ。特にストーリーやキャラクターなどが複雑に絡むもの。

ただし、ハイデガー的にいえば、人間は必ず何かの「気分」が契機となり未来へ向けて行動する。それは奇想天外なストーリーで受け手をあっと驚かせたいのか、キャラクターの動きの主観的な面白さを見てほしいのか、自分のよく分からない生きることへの不安を感じ取ってほしいのか、などあまり具体的に明確には言語化できないがたしかに根底にはどのクリエイターにもその動機があるはずだ。

簡素であるが、至極的を得た評価の仕方である。



 

川上量生「コンテンツの秘密  ぼくがジブリで考えたこと」を読んだ。ドワンゴの会長である彼の作品は平易な言葉で書かれているので読みやすいが、その内容は結構深い。それに、実際にコンテンツ作りという分野で世界的に成功している宮﨑駿を中心に沢山のクリエイターの側で実際に仕事を見たり話したりして得られたものをまとめた形になっているので信頼性も高い。

では、結局、川上にとってコンテンツとは何だったのか。

以下、ほぼ引用で書きだしてみる。

  • コンテンツの定義:コンテンツとは現実の模倣=シュミレーション
  • コンテンツが進化するというのはよりリアルになりどんどん情報量が増えていくことでありコンテンツの発展の歴史とは情報量が増えていく過程と考えることもできる  現実世界を模倣したコンテンツをつくることを好む本能を持つことが、人類という種の生存に有利だったということ
  • コンテンツの本質とは、現実世界を特徴だけで単純化してコピーした脳のなかのイメージの再現である 
  • コンテンツが現実の模倣であるなら、客観的情報量を多くすればより現実に近づいていくはずだが、人間が認識している現実とは実は主観的情報で見た現実。だから客観的情報量を増やしても必ずしも主観的情報量は増えない。むしろ人間が現実を学ぶ教材として現実の代替を務めるのがコンテンツであると考えるなら、少ない客観的情報で多くの主観的情報を提供するのがコンテンツであるということになるのではないか        
  • オリジナリティとは何か?すべての創作物はクリエイターの過去の経験が元になっている。そして過去の経験とは人生経験だけでなくクリエイターが過去に摂取したコンテンツすべてを含む 

これだけだとわかりづらいか。

要は、脳内に澑められた対象の概念というのは主観的なもので、それを作品などに客観的な形にしたものがコンテンツ、ということ。似顔絵というのがわかりやすい。似顔絵というのはその人をよく知っている人、言い換えれば本質を知っている人がかくと、客観的にはあまり絵が一致しないが、見る人が見ると客観的な写真よりもしっくりくる。

ここで、「しっくりくる」というのが、だから何なのか。と思う。ただ主観的なリアリティが上がるとうことではないのか?(ちなみに本書では「しっくりくる」という表現ではない)


それは本書内では「なぜ再現(模倣)するのか」という疑問で答えが与えられている。
 

  • まず再現(模倣)することは子供の頃から人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間はもっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で他の動物と異なる 
  • コンテンツとは現実世界の模倣であり、人間は現実世界のシュミレーションとして最初にコンテンツから学ぶと指摘
  • 人間が成長していく過程で現実社会を学ぶための教材がコンテンツ 

やはり、そっけいない言い方になるが、「自己保存」のために世界を学ぶための「道具」としてコンテンツが位置づけられている。それを主観的に理解しやすい形で提供すればするほどよいコンテンツであることだという。

それは、世界をより深く認識し、自分が強くなることへの確信である。ニーチェのいう力への意思が満たされたとでもいえるだろう。

さらに川上は別の本で以下のようにも書いている。

「コンテンツの価値は、誰かの人生を変えられるかどうかで決められる」

と。これは、言い換えれば誰かの認識を大幅に変化(深める)させた、ということと等しい。

ヘーゲル的な世界観でいえば、認識が深まるのは成長でありより強い生だと言える。

本書の中身は非常に濃いが、もっと人類的な視点でまとめ直すと、誰かの人生を変えられるようなコンテンツになりうる。

時間があれば僕が取り組もう。


 

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