記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年08月

私は人間と動物の最大の違いは「記憶」にあると思う。もちろん、二足歩行だとか内側の構造なり沢山の違いはあるが記憶できることが言語を生み「意識」を生み、人間の独自のクオリアの世界を開いた。記憶できることで、動物だったらつどつど対象を認識し判断するが、人間は似たようなものを同類の対象として観念を持ち快不快に結びつけて記憶する。

そして他人を見たり、水に映った自分を見たりして経験の基体としての自我を獲得し、それに結ぶ付けて世界像を形成していく。そして、何年か世界や他者と接することでわれわれが持っているような自然的な価値観や世界観が複雑に編み上げられていく。もちろん個人間でだいぶ違うものになるが、宇宙と身体は基本的には共通しているので各自の世界像には基本的な共通がある。しかし、細かいところは育った風土や社会関係で多様性がある。

ここでいいたいのは、われわれはこんなに色とりどりで多様な世界を持っているが、「根」は動物と同じ個体の保存、種の繁栄に衝き動かされる動物である。そこに記憶が加わり、時間軸で物事を考え、他者に憐れみを抱きつつ利己的に社会契約を結び人間社会ができ複雑に発展してきた。

前回、「人間らしさ=人間性」とは何なのかについて書いた。それはまさに上述の文脈でいえば、「記憶」があることで発展した人間社会の中にある。個々の違いを認めつつまとまるためのコミュニケーション、これが人間性なのである。僕なりひとことでいうなら、「人間性」とは、一人ひとりの人間が集まって「みんなで繁栄するため」の「あらゆる営み」である。

さて、
日本人は特に「本音」が大好きである。日本人は精神的な面では近代化されていないと言われるが、ルソー的な自然主義だけはよく根付いている。国家や国民のためだと称して「公」性を装っている政治家や役人や、真理探究のためだと高尚なことをいう学者より、本音で生きる「一般庶民の言葉」の方が心に響く、という。

しかし、「仮面」を脱いで「本音」を生きるのはそんなに素晴らしいことだろうか。

上述の通り、われわれ人間は基本的に動物と同じである。どこに向かっているかは分からないがとりあえず種の繁栄を目指している。個人個人は性欲と食欲に衝き動かされる存在である。人間はそれに記憶とそれに付随する理性があるだけだ。もし本音で語るなら、「あいつを殺したい」とか「強姦したい」とかそういうことを引き出したいのか。こんな野蛮な動物的なところは掘り返す必要はない。

われわれ人間は、この衝動を土台としつつも、個人の利益を留保して人間社会を築くという動物とは一線を画する選択をし繁栄を続けている。人間らしさとはこの社会をよりよく維持するためのコミュニケーションであるのだから、衝動を発露しては逆コースである。だれもが衝動を抑えているのだ。それが人間である。嘘でもいいから高い倫理観に満ちたドーンでっかい話をしたほうが遥かに実りがある。

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われわれはよく仕事ばかりで社会の歯車状態になっているときや、将来に漠然とした不安を抱いたり、どう生きていくのがいいか考えるときに「人間らしさ」=「人間性」を求める。

しかし、人間らしさとは一体何なのか。そんなものがあるのか?

ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で「人間性」 が古代ギリシアのポリスという極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。「人間性」とは人類が誕生したときから自然にあったものではなく人為的に作り出されたものである。以下のアーレントについての考察は金沢大学教授の仲正昌樹氏『「不自由論」−「何でも自己決定」の限界』を参考にさせていただいている。






アーレントは「活動」が最も人間らしい営みであるとする。それは、物理的な暴力ではなく、言論や説得によって「他者」に対して働きかける能力である。言語を使うこと時代は別に古代ギリシア以前からあったが、ポイントは言語による「活動」が暫定的・一時的なものではなく人々の生活の中心に位置し、人と人を結ぶ最も本質的な媒体になること。いつも暴力でぶつかり合っている者同志がたまに言葉を発するだけでは活動とはいえない。 

ここで重要なのは、衣食住や生殖などの私的領域と完全に分離した公的領域があることだ。ここでは人々が自分の思っていることや感じていることを「活動」という形で他者の前で明らかにする領域、いわば全てが公開されている光の領域である。ポリスにとっての共通の関心をめぐって自由に討論する。

要は、人間の生活の動物的な部分をすべて私的領域という闇の中に押し込んで隠すことで、市民は他の人々の前で「人間らしさ」を演じることができる。「私的領域」を犠牲にした「人間らしさ」のお芝居=活動を通して、われわれの「人間性」が培われてきた、というのがアーレントの人間性論の中心的テーマ。

そうすると、アーレントが言いたかったのは、何も古代ギリシアがよかったのでそのころの人間性を取り戻そう、ということではなく、我々、西洋人及びその文明的影響下にある人間は、古代のポリスによって生み出された人間性に規定され続けているということである。ポリスが「人間」としての「我々」の起源になっている、という歴史問題を掘り下げて論じているのである。

そして、資本主義の下、経済的利害(私的領域)が人々の中心的関心事である限り、われわれは「人間」になりきれないのである。

アーレントはポリスでの「活動」を通宇治て生じてきた「人間性」の最大の特性「多元性」pluralityであるとしている。「多元性」は「市民」たちが公的領域において「他者」に対して「自己」の「意見」を表明することで、自らの個性を際立たせることを通じて生じてくる。一人ひとりが異なった世界観を持っているので、自分の立場を理解してもらおうとすれば、たとえ極めて親しい人間でも言語によって説得していくしかない、という認識のもとにポリス的な共同体が成立しているということ。人々の多元的な「語り」が公的領域で行き交うことにより我々の「人間性=人類」は次第に豊かになっていく。

近代社会はそうした「多元性」を確保するために自由と平等の理念を拡大しようとしたが、皮肉なことに結果的には「経済」上の利害関係が前面に出てきたため、多元的に語り合う「余裕」がなくなってしまった。

「人間が人間であること」を可能ならしめているものは「多元性」である。われわれの「世界」が「人間らしい」のは同質的で同じような考えを持っている人たちだけでなく、多様な人々がいて、「他者」相互の対話が信仰し、いろいろな物語が絡み合っているからである。ナチスはそうした多元性を構成している一つの要因である「ユダヤ人」を絶滅させ、アーリア人の支配する単元的な”世界”を創出しようとしたという意味で、「多元性=人間性」の破壊者なのである。彼らの一番の問題は大虐殺という非道的な手段ではなく、単一的な「人間」を作り出そうとしたことである。

アーレントは「人間性」なるものが予め実体的に決まっているかのうような考え方を拒絶する。多元的な人々が相互に「語り合い」を続け、一つの「本性」へと一義的に収斂していくことがないのが、古代ギリシアのポリスで生まれてきた「人間性」である。 

さて、アーレントの政治哲学的考察から我々が導き出すことのできる最大の教訓は、「人間性」というのは各人に自然に備わっているものではなく、特定の制度の中で人為的に作り出されたものなので、非常に不安定で脆いということである。それを生み出したポリス的な制度が既に崩壊している以上、そのままの形で「人間性」を復活させることはできない。それでも人間的でありたいのであれば、ギリシアとは異なる新たな「人間性」 を創造するか、或いは労働、仕事といった活動以外の営みをゼロにする方向に進むしか無い。

既に数千年の人類史を持っているわれわれは今更みなで新しい「人間性」を打ち立てることなどできない。人間の進むべく道は後者しかない。そして、それは可能性がある。以前、このブログで『エクサスケールの衝撃』という本を紹介し、人間の不老、不労の達成の道筋が存在することを書いた。現在では、既得権益や政治の問題で、食料など生活を営む最低限の物資が既に世界中の人口全体をカバーするほど足りているのにもかかわらず、それが上手く配分されていない。これを乗り越えるには、抜本的な技術革新と生産性の向上である。全人口を悠々カバーできるほどのゼロコストの資源やバイオテクノロジーが実用化すれば政治や配分の問題も解決されるだろう。この方向に進んでいくしかわれわれが人間らしく幸せに生きる道はないのではないか。

エクサスケールの衝撃
齊藤 元章
PHP研究所
2014-12-18

 

今日は安倍マリオの話題がSNS上を賑わせた。みなどのように受け止めたのか。或いは、ただ流しただけか。しかし、これをどう受け取るかは難しい。

元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞はツイッターで以下のようにつぶやく。

「アベマリオを面白がるか、嫌悪するか。まさに個人もメディアも試金石」
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「なにやってんだよアベ〜」
「超盛り上がった!アベ最高〜」

というのは簡単だが、これは世界が注目している場であり、出ているのは世界第三の経済大国日本の首相である。しっかしりと自分の価値観に照らしあわせ受け止めるべきである。

SNS上の著名人たちはどのように反応しているか。正反対の2つを紹介しよう。

まずは、ポジティブなのはビジネス界、ベンチャー業界では知らぬ人はいないYahooの執行役員の小澤隆生氏。

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実際に作る側であり、生で演出を観たことのある立場からのコメント。これはオリンピックに直接関わっているような人に多そうな意見。

一方、ネガティブサイドは知能情報学が専門の筑波大学教授の北川高嗣氏。

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リオの感動を全て吹き飛ばしてしまったようだ。小澤氏とは真逆。特に根拠は書かれていない。

オリンピックの開会式や閉会式では世界的な超VIPが登場することが慣わしになっている。北京でのプロサッカー選手デイヴィッド・ベッカムやロンドンでのエリザベス女王など。といっても普通の人はそんなに過去の五輪の開会式と閉会式の歴史を知らないので、ここでは一般的に、今回のリオオリンピックに安倍首相が出てきたことだけに絞って検討しよう。

個人的な感想は、世俗の人間がこのような祭典で目立ち過ぎるのはよくない。安倍首相の政治手腕や人柄がどうこうというわけではなく、日々のきな臭い政治を彷彿とさせるシンボルはよくない。もちろん、式に参加するのは全く問題ないし、逆に積極的に来るべきだ。北島康介では世界的にはちょっと知名度が低かったりイチローだとオリンピックに野球がないなど他に絶妙な選択がなかったのだろう。

オリンピック憲章の2に以下のようにある。
オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。
ここでも人間が真善美をもとめるような哲学的な存在としてオリンピックを位置しているのが分かる。政治体制とはただ、こうした人間の自由の文化の営みの背後にある流動的なものであり、現在の一国家の首相とは世俗的でこの領域ではシンボルとしてふさわしくない。たとえインパクトに欠けても、日本のお家芸の柔道とかレスリングの世界チャンピオンでよかったのではないだろうか。 

とまあ、あえて何か書いてみたが結局はその場で個人個人があのパフォーマンスをどう体験するかのほうが大きい。内容はなんといっても東京オリンピックを期待させたし、人々を高揚させた。私自身そうであった。日本すげ〜と率直に思ったし、実在の人ではなくキャラクター中心のPVも日本の創造性や特殊性を演出していた。何より、一番冷ややかそうな「中国」、の友人二人がわざわざこの演出を見て「最後の演出活かしてたぜ、東京五輪楽しみ」とメッセージを私に送ってくれた。

みなさんはどのように安倍マリオを観たのだろうか。 

僕は思い出話があまり好きではなかった。過去のことを振り返ってああだこうだいうのは何か後ろ向きだし、何の生産性もないから。

ただ、最近はそれは非常に重要なことだと思っている。ポストモダンな相対主義な現代。大きな物語だけでなく、小さな物語もない何でもありの個人主義。そして、共通の利害関係のない友人とはやっぱり想い出話が一番楽しいのだ。政治経済や将来の夢とかぜんぜん違う生き方している人間の集まりだと、さすがに共感がお互いしずらい。(もちろん、全く違う人どうして一つのテーマについて語るのは面白いが)

僕達は、ある地域で育ち、ある人々と出会い、価値観や記憶を形成してきた。これ以外には僕らの実存がよりどころにするものはない。過去に経験したことが今の実存を作っている。思想的な学問的な大きな物語はポストモダン社会では存在しないが、もちろん過去の経験の中をみれば極めてリアリティのある善悪がある。

マネックスの社長の松本大の本で昔読んだ記憶がある。彼は以前は、いろんな業界に精通していろんな分野にまたがり世界全体に影響のあるような仕事をしたい、と。でも、仕事をしている内に自分のできる範囲の狭さを実感し、自分の分野を築いて他の分野は他人に任せるようにした、と。

僕も、今同じような境地。積極的に”普通に”生きたくなってきた。自分の過去を確かめつつ、善悪についてどんな確信を持っているのか。少しでも学んだことを社会や他人や自分に還元していこう。想い出話は、過去を固め、未来に道筋を描く。

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先日、振る舞いの重要性について書いたが、やはりそれは重要だ。振る舞いというのは、他人に「自分」を見せるもの。どういう人間であるかを示すことである。毎日仕事で忙しく、多くの人と会う多くの人々は、2,3の振る舞いを見て人を判断する。

そんなに力む必要はないが、常に一貫した能動的態度が必要である。やられてやり返さないのは、それを認めたことになる。黙って話を聞いていれば、何も意見がないつまらないやつとなる。

何かしら自分の価値観と絡めてリアクションを取らなくてはならない。 そして、実は、そうして自分の考えをもとにあらゆることに反応していくことはなんともやりがいのある楽しいことなのだ。世界と自分の関係をどんどん開示していく。これは人間的なことだ。

衝撃的な映画であった。

映画とはあのたかだか2時間くらいで鑑賞後にいろいろなことを考えさせてくれる、そういうものだと僕は捉えているが、この映画はまさにそういう作品でいろいろなこと見つめなおす機会を与える。 

『ドッグヴィル』(Dogville)は2003年にデンマークで製作(撮影はスウェーデン)された映画である。監督・脚本はラース・フォン・トリアー、主演はニコール・キッドマン。人間の「本性」を無視した観念的な道徳の無意味さを描く。続編の『マンダレイ』(2005)、『Washington』(2009予定 → 無期限延期)とあわせて「機会の土地-アメリカ」三部作をなすとされている。2003年のカンヌ国際映画祭コンペティションにトリアー監督作としては六本目のノミネートを果たした。 

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]
ニコール・キッドマン
ジェネオン エンタテインメント
2004-07-23

 
WIKIによるストーリー概要はこうだ。
舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。
以下、【ネタばれ注意】、さらに読者は本作の内容を熟知している前提で書く。

鑑賞後、タイトルのドッグヴィルというのは犬がいる町というより、まさに犬のような「本能むき出しの人間の町」という人間の「性質」 を表していたことが分かる。また、おそらく本作と共通のテーマを論じる19世紀フランスの政治思想家アレクシス・ド・トックヴィルの名前に掛けているのだろう。

まず、世俗的な普通な見終わった感想として、最後のカタルシスが爽快であった。本作は、基本的にグレース(キッドマン)目線で話が進んでいくので彼女へ感情移入していくのはしょうがない。もちろん、町人の立場であれば、見知らぬ怪しいやつが来て疑心暗鬼になっているし、貧しくつまらない日々が続いていれば、鬱憤晴らしの対象として可能性を見出すこともありうる。

以下、ちょっと深めて、
人間の本質についてと社会建設についての2つの点で感想を書く。

結局、みんな自分たちのことしか考えていないのだ。善人に見える人も、結局は自分のことしか考えていないで、その未来予想の見方が異なるだけということ。ただ、人間は記憶を持ち社会を形成し、さらに感情移入もするので未来予想が複雑になり、利他的行動をしたりして自己中心的なものが見えづらくなっている。別の言い方をすれば、人間はあるベクトル(自己保存)に突き動かされ、時間軸を考慮しながら行動している。(これについては前回の記事で書いているので参考までに)

子供やおばちゃんや老人たちの卑しさも多々描かれているが、やはりいちばん印象に残るのは男の性欲の描写である。物議を醸しだしたようだが、本作ではグレース(ニコール・キッドマン)の強姦シーンがけっこうある。物静かなで地味な町人までも立場を利用してグレースを性欲のはけ口にする。町人の男たちは確実に突如現れたべっぴんさんのあんなことやこんなことを想像したであろう。おそらく初日に。男とはそういうものだ。そうでない人もいるかもしれないが少数派。

ただ、それよりも欲について考えさせられるところがあった。道徳を研究しているトムである。彼は、もちろん善人であることを目指しているが、結局自分のあらゆる動機の根底には肉欲などをベースにする本能があることを悟り苦しむ。 

トムとグレースはいちおう恋人同志であったが、トムは肉体関係を持てなかった。何度も機会はあったが、うまく躱され衝動を抑えこむのに苦労していた。トムはずっとグレースを自分のものにし、交わりたいと思っていたのだ。トムの動機を裸にしてしまえば、それは道徳を追求することで承認を得て、自尊心を得たい。その根っこは動物と同じ自己保存なのだ。他者を思うやっているつもりでも、承認を得られればそれだけその個体の生存は社会に助けられ安定する。承認欲も根は自己保存である。

さて、次に「では、社会をどう築いていいけばいいのか」という視点で考える。

最終章のグレースと父親の会話は、キリストと神のそれに他ならない。本来のキリスト教の神(ヤハウェ)は、天地創造の神であり罰する神である。キリストが人間の罪を全て被ったからこそ、慈悲深く、許しを与えるようになったのである。何でも許すべきだとするグレースと、罰が必要だとする父との会話の要点をまとめたの見てみよう。

グレース:貧しい子供時代など恵まれない「環境」が責められるべきで、人殺しも強姦魔も環境の「被害者」である
父:だがわしにとって奴らは犬。それを防ぐにはムチしかない
グレース:犬は本能に従っているだけ、なぜ許してやれないの?
父:犬は役に立つことを仕込める。だが本能に従うことを許せば何も覚えない。お前は他人を許すことができても自分を許せない。情け深いこともあるときには大切だ。だが規範も大切なんだ。どんな人間もその行動に責任がある

なんとも示唆に富むやり取りであろうか。ここに僕が最近ずっと関心をもっていた問題が凝縮されている。それは「自己決定」についてである。たしかに僕らは自由意志を持ち自分で好きにあれこれ選択しているように感じる。

でも本当にそうなのか?

ハイデガーの内存在の分析によれば、僕らは気分という情状性に押され、世界に可能性を見出し自分を企投する。 気分は降ってくる所与のものであり、僕らにはどうこうできるものではない。これは本能である。では、そのあとの可能性はどうか。その気分によって色付けされた世界はあらゆる可能性の拡がりとして意味を持つ。そこで出会う存在者は道具的連関に位置づけられ、最終的には自分の存在へとつながっている。そう、たしかに僕たちは得体のしれない気分に突き動かされるが、可能性を選びとる自由がある。

それが人間である。

であれば、可能性が見いだされる構造を解き明かし、社会性に富んだ可能性が見いだされるように人間を作っていくしか方法はない。日本人はあまりそういうことは考えたことはないだろうが、本作で描かれている醜い人間像は西洋であれば一般的に誰もが了解していることだ。徹底的に性悪説で制度を作る。それは、近代社会の哲学を作ったホッブズ、ジョン・ロック、ルソーなどを始めあらゆる西洋哲学者の著作を見れば分かる。どうやったらこの自己中心的な人間をまとめて、集団として平和を実現できるかというのを緻密な論理の積み重ねで思想を作っていく姿勢。

最後に、一つの提案をしてみる。

現象学という認識論の考え方は、主観ー客観の構図は主観で作り出されるとする。りんごの赤いつやつやしたのが見えている、だから「りんごがある」と判断するという普段の素朴な考えの逆転である。それと似たようなかたちで、あらゆる動機を自己保存に還元して考えれば、積み上げ方式で議論ができるのではないか。あまり直視したいことではないが、「わたしがやりたいことの動機はすべて自己保存です」から議論をスタートしていけば共通了解が作り出せるのではないだろうか。

われわれは「無意識」に操られることを土台に、「意識」で自由に選択しながら生きているように思える。無意識は、ほぼ反射的なもので因果関係に貫かれていると思える。では、「意識」は何をやっているのか。

これまで古今東西あらゆる哲学者たちが人間について考察してきた。人間の本質についてだ。

今日は機能的にその本質について考えたい。人間が自己保存や種の保存、ひいてはそれらの背後にある何かのベクトルに突き動かされているとしよう。これをに「神ベクトル」と呼ぼう。もちろん、物理法則やこの宇宙全体を貫く法則というものはすべて「神ベクトル」に含まれる。

これは誰もが持っている見方であろう。であれば、動物のように無意識(のようにみえる)に自動操縦させておけばいいのではないか。

「意識」の役割は何か?

それは時間軸の調整である。「神ベクトル」の方向性に進むことが目的だとすると、その実現のために目の前の利を取るか、将来の利、さらに周囲の仲間や環境のためなど長期的に考えるかを「意識」がまさにあの質感(クオリア)の世界でいろいろ考えながら文字通り意識的に選ぶのである。なぜ無意識でそれができないか?溢れるようなおびただしい情報量の世界からできるだけ沢山の情報をとって判断しようとした「神ベクトル」の意図のためだ。脳科学でいわれるオーバーフロー理論みたいなもの。

ここで重要なことは、「神ベクトル」が何なのか、どういうものか、われわれは分からないということ。われわれは自己保存とか種の保存のために生きていると思っているが、そんなことは氷山の一角にすぎない。「神ベクトル」が何をしているのか、また「何」とか「どのように」とかいう言語で表せるものなのかも不明である。 

とりあえず、「意識」は種の保存とかのために、いろんな情報を検討して時間軸を考えて今の行動を選ぶ。短期の利益を追えば、最悪犯罪者となり、長期の利益を求めれば人々から崇められる人間となる。

といっても、結局「神ベクトル」が謎だからこの議論も宙吊り状態。

残念! 

ということで、最終的には「意識」のリアリティ、確信がどのように作られているか、実存の構造を考えるのが一番生産的。社会や宇宙のことは物自体なので分からないし、語りえない。

↓そんなことどうでもいいからこんなところで生きたい
swiss

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