記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年08月

われわれ人類はどこに向かうべきだろうか。

いや、そんな人類のことより私自身、各人の実存はどう生きるべきなのか、というほうが多くの人が抱える問いかもしれない。個別の実存がどう進むべき(べき、というか無意識にでも進んでしまう)かはマズローの欲求5段階説で説明はつく。だが、事実がそうなっているということは理解できるが、いまいち原理が分からない。これは人類や全宇宙、世界についての根源から考える必要がある。

ここでは、われわれ人類、一人間がどう生きるべきかを原理的に考える。もちろん、目の前の仕事に精一杯生きるのもいいし、趣味に没頭するのもいいが、それだと世界と自分について漠然とした不理解があり常に存在不安が実存の背景に漂うことになる。

自らをこの世界に位置づけるためにも、カントのいう「統整的理念」が必要である。この理念は、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなもの。すぐに達成できたり、あるいは何かあればすぐに変更の必要のあるような目標や目的はこの理念とはいえない。そのようなものであれば、人類や個人の実存を支えることはできない。

さて、
本題に入る。ここでの主題はひとことで言うと「人間はどう生きるべきか」である。

ここでは、竹田青嗣『人間の未来』で描かれるヘーゲルとアーレントを軸に「人間の本質」「人間らしさ」の観点から考える。





デカルト的な「われ」は、主観的な自己。キルケゴール的な「自己」は関係的な自己。ヘーゲルはこの「関係としての自己」の運動原理を「自己意識の自由」として描いた。要は、人間の本質を深く洞察し、それが進むべき道を示した。

ヘーゲルは人間を自己価値を高める存在であると見る。自己保存や種の繁栄に衝き動かされるというのが土台にある。しかし、他者を殺してその実現をすることはできない。社会を築いてそれに向かう。人間社会が大規模になり安定すると、社会の慣習ができる。実存は、他者の承認を得て自己保存への確信を深めるような回路ができる。こうして、人間は各人の「自由」を求めるとは、単にある欲望への可能性を求めること、自立存在となることではなく、本質的に、「他者関係の中で自己価値の承認を獲得する営み」となる。 

ヘーゲルは人間の実存「意識」の成長の最後に「事そのもの」という概念を置く。これは何か。それは、近代社会において人間の生の欲望にとっての新しい「ほんとう」、つまり「表現行為」としての「ほんもの」「ほんとうのもの」を意味している。さらに、「恋愛」「正義」「成功」といったいわば承認を欠いた形式を超えて開かれた普遍的承認ゲームとなる可能性を持つ。

作品や営みとしての「ほんもの」性を意味するだけでなく、近代社会においてはじめて可能となるこの「文化表現の普遍承認ゲーム」それ自体をも意味するである。ヘーゲルの「事そのもの」の「事」とはつまり人々の関係しあう行為のうちに生み出される「自由」の本質それ自体を指している。またそのような関係のありようの中で人間の自由の本質の現実性が創りだされる。

一方、アレントは人間をどう捉えるか。ギリシャのポリスでは労働と仕事から解放された自由な市民が活動において、つまり公的な政治についての言論の活動において、自己の自由の本質を本来的な仕方で解放する。これがアレントにおける人間の「自由」の基本イメージである。

ギリシャのポリスの「公共のテーブル」に人間的自由の可能性を見ている。「公共のテーブル」が共生のために人々を結びつけるだけでなく、同時に人々をその多様な生活へと分離する。欲望と価値が多様かつ多様性をもつこと、その多様な欲望と価値をもった人々が互いに許容しあい調停しあおうとする中で、はじめて人間は、共同体的な生の原理とは異なった生の本質を、すなわち「自由」という人間の生活の本質を見出すのである。

両者はどう繋がるか。重要なのは、ヘーゲルの文化ゲームとしての「事そのもの」とアレントの自由な活動の空間としての「公共のテーブル」の概念がむしろ「自由」の本質条件として深く一致している。
 
それらはともに、一定の条件に支えられて可能となる人間間の開かれた「自由のゲーム」を意味する。どちらも、この「自由のゲーム」においてどこかに隠れていた「自由」の本質が「活動」や「表現」の営みの中で、“現れ出る”というのではなく、むしろこのゲームの関係の中で人間的「自由」の本質がはじめて創りだされる、という自覚が存在している点がある。

社会が一つの大きな目的をもち、そのことで人間の欲望と価値が均一化され、生の目標と意味が単一化するなら、人間の「自由」の本質はかぎりなく希薄になり、それは単なる役割承認と個別的な欲望充足の可能性という場面にまで縮小されるだろう。これに対して、多様な欲望と価値が存在し、したがって相互の調整と承認の努力があり、その努力が新しい人間的価値を作り、またそれが自由な文化と言論のゲームとして成立する場面において、はじめて人間的自由の新しい本質が展開する。

ヘーゲルは「近代」を擁護し、アレントは批判する。しかし、むしろヘーゲルの「事そのもの」とアレントの「公共のテーブル」の概念はともに近代社会がはらむ「自由の条件」の危機へのもっとも本質的な異議申し立てを意味している。

もう少し掘り下げよう。

「事そのもの」ゲームの構造を象徴的に表現するのは「芸術表現」であるが、そこでもっとも本質的なのは創造する「天才」ではなくむしろ「批評」の存在である。一般的には天才の創造力が美の模範、美の秩序の基準を作り出すと考えられているが、しかしじつは不特定の人びとの美的感受性による批評こそが天才とそうでないものの秩序を作り出す。

ギリシャのポリスでは人間的行為の本質は「作品」(業績)にではなくその「徳」(人間の行為)そのものにある、という考えがあることをアレントは強調。ある人間の「徳」とは特定の「正しさ」に同一化することではなく、何が「正しく」「ほんとう」であるかを求めるその「言葉や行為」のうちに“開示”される。またこの開示は、相互関係の中での人間的承認であり、同時に人間の相互的な了解を意味する。

もし優れた「作品」や「天才」が問題であるなら、事そのものゲームはかぎりなく文化的な「サクセスゲーム」(名を挙げることを目指すゲーム)に近づく。肝心なのは「事そのもの」ゲームが生み出す成果ではなく、この概念が人間が互いに了解しあう関係の本質的な「範例」をなしているということそれ自体である。
 
近代の「文化ゲーム」の本質的な意味は、そこで「作品」や「仕事」の優劣を競いあうゲームが成立するということではなく、近代社会においてはじめて、欲望や価値の差異性と複数性から、「ほんとう」を求め合う多くの「自由のゲーム」が成立可能となる、ということにほかならない。

まとめると、「事そのもの」あるいは「公共のテーブル」で競われているのは、個人の内的資質を通した何か普遍的な「ほんとう」の「表現と探究の努力」である。真善美の探究と表現の努力と総括できる。この活動が、人間の自由の条件であり、人間らしさを生む。多様な人々が異なることを前提に普遍的な「ほんとう」の共通了解を形成する努力、営みが最も価値あること。その実現のための政治経済の制度や運営が課題。

人類はどこに向かうべきか。それは不老や不労を実現することではない。人間という生き物は、真善美という普遍を探求し、それを表現してみて他者と共通了解を作っていく、というそういう永遠の過程に本質がある。もちろん、ギリシア時代のように労働、仕事からわれわれは解放されていない。それらをまずは如何に減らすかを考え、真善美を求めて生きる。この「統整的理念」を抱き、一歩でも前に進めていこう。
idea

竹田青嗣は著書『エロスの世界像』で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を見出している。以下、該当箇所をまとめる。



 

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

 

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

 

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

 

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)


「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、ということである。

逆にいうと、述べられている通り、すべてが意図したとおりにスムーズに進行していくなら何かが「意識」される程度は少なくより「無意識」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態になればなるほど「気持ちいい」「爽快」「自由」のようなわれわれの「理想」の状態なのではないか?

同じような議論が下條信輔『意識とは何か』の「自由意志について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。
どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。
  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。
  3. 他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。
自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

ということで、「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。「無意識」状態になることが人間の「理想」であるのか。

これをどう解釈すべきか。

一つの考えは、スピノザにある。スピノザはこの世界の実体は「神」のみにあるという。「神」とはユダヤ教などの一神教的な神ではなく、この世界全ての実体を担うものであり、全存在を貫く原理のようなものをイメージすればいい。物理法則やそれが生じる場や時間のようなものも「神」の一部分であり、派生物にすぎない。われわれ人間の意識もその神の一つの属性である。

人間は、自己保存や種の繁栄のために衝き動かされる。これは物理法則やその背後の大元「神」のベクトルの枝分かれの小さな一つの流れだと考えることができる。特に人間のこのベクトルをコナトゥスと呼ばれている。

人間は「神」の属性であり、それ自体ではない。「神」は必然性に貫かれているが、人間はなぜか偶然性を持っていると感じる。これはなぜだろうか。

私なりに無理やり考えてみる。おそらく、「神」の実体は「ランダム」な何かなのだろう。素粒子のような小さな単位が物理法則など一定の規則も”何もない”状態である。そういう無秩序。それが実体である。では今の人間が体験する世界は何か。ランダムはどこかで規則を生み出す。素粒子が無数にランダムに動いていれば偶然で何か小さな流れができ、さらにその内のどれかは偶然に偶然でできた他の流れと合わさり大きくなる。ランダムに1から9を並べればどこかで同じ数字が10回くらい続くようなイメージである。こうすると無秩序の中に、大きなスケールでみると法則が形成される。この統計的な規則の記述が物理法則である。もちろん、他にも同じレベルかそれよりもメタなレベルの規則があるだろう。そして忘れてはならないのは、その根源には(その背景には)「神」としての無秩序な実体がある。

人間はこの派生的な物理法則のさらに派生として自己保存をするというエントロピーに逆流した規則を持つ存在である。この人間を貫くのがコナトゥス。

人間はどういうわけか「神」という無秩序の原理の中で自己保存(無秩序とは逆)しようとするベクトルを手に入れた。そうしようと努力をするが、世界は基本的には無秩序である。(いうなれば、人間よりも遥かにミクロな世界では)

さて、なぜスピノザの世界観を持ちだしたのかといえば、「無意識」は人間の「理想」であるのか、という問いに答えるためであった。人間は「規則性を持つ」という方へ向かうため世界の原理に背いている。しかし、無意識状態では世界の原理「神」と一体化し、全てが必然で貫かれた状態になるのではないか。それは冒頭でも書いたように、意図が全てその通りになる全能な感覚。自己保存という反無秩序も、その土台には無秩序「神」がある。 

無秩序の中で、秩序を見出す「道」を見出す、そこで「神」と一体化し全てが必然となり「無意識」となるのである。秩序ある人間が無秩序を媒介し、さらなる秩序へと進む、これが人間のもとめる幸福なのではないだろうか。

エティカ (中公クラシックス)
スピノザ
中央公論新社
2007-01

私は人間と動物の最大の違いは「記憶」にあると思う。もちろん、二足歩行だとか内側の構造なり沢山の違いはあるが記憶できることが言語を生み「意識」を生み、人間の独自のクオリアの世界を開いた。記憶できることで、動物だったらつどつど対象を認識し判断するが、人間は似たようなものを同類の対象として観念を持ち快不快に結びつけて記憶する。

そして他人を見たり、水に映った自分を見たりして経験の基体としての自我を獲得し、それに結ぶ付けて世界像を形成していく。そして、何年か世界や他者と接することでわれわれが持っているような自然的な価値観や世界観が複雑に編み上げられていく。もちろん個人間でだいぶ違うものになるが、宇宙と身体は基本的には共通しているので各自の世界像には基本的な共通がある。しかし、細かいところは育った風土や社会関係で多様性がある。

ここでいいたいのは、われわれはこんなに色とりどりで多様な世界を持っているが、「根」は動物と同じ個体の保存、種の繁栄に衝き動かされる動物である。そこに記憶が加わり、時間軸で物事を考え、他者に憐れみを抱きつつ利己的に社会契約を結び人間社会ができ複雑に発展してきた。

前回、「人間らしさ=人間性」とは何なのかについて書いた。それはまさに上述の文脈でいえば、「記憶」があることで発展した人間社会の中にある。個々の違いを認めつつまとまるためのコミュニケーション、これが人間性なのである。僕なりひとことでいうなら、「人間性」とは、一人ひとりの人間が集まって「みんなで繁栄するため」の「あらゆる営み」である。

さて、
日本人は特に「本音」が大好きである。日本人は精神的な面では近代化されていないと言われるが、ルソー的な自然主義だけはよく根付いている。国家や国民のためだと称して「公」性を装っている政治家や役人や、真理探究のためだと高尚なことをいう学者より、本音で生きる「一般庶民の言葉」の方が心に響く、という。

しかし、「仮面」を脱いで「本音」を生きるのはそんなに素晴らしいことだろうか。

上述の通り、われわれ人間は基本的に動物と同じである。どこに向かっているかは分からないがとりあえず種の繁栄を目指している。個人個人は性欲と食欲に衝き動かされる存在である。人間はそれに記憶とそれに付随する理性があるだけだ。もし本音で語るなら、「あいつを殺したい」とか「強姦したい」とかそういうことを引き出したいのか。こんな野蛮な動物的なところは掘り返す必要はない。

われわれ人間は、この衝動を土台としつつも、個人の利益を留保して人間社会を築くという動物とは一線を画する選択をし繁栄を続けている。人間らしさとはこの社会をよりよく維持するためのコミュニケーションであるのだから、衝動を発露しては逆コースである。だれもが衝動を抑えているのだ。それが人間である。嘘でもいいから高い倫理観に満ちたドーンでっかい話をしたほうが遥かに実りがある。

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われわれはよく仕事ばかりで社会の歯車状態になっているときや、将来に漠然とした不安を抱いたり、どう生きていくのがいいか考えるときに「人間らしさ」=「人間性」を求める。

しかし、人間らしさとは一体何なのか。そんなものがあるのか?

ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で「人間性」 が古代ギリシアのポリスという極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。「人間性」とは人類が誕生したときから自然にあったものではなく人為的に作り出されたものである。以下のアーレントについての考察は金沢大学教授の仲正昌樹氏『「不自由論」−「何でも自己決定」の限界』を参考にさせていただいている。






アーレントは「活動」が最も人間らしい営みであるとする。それは、物理的な暴力ではなく、言論や説得によって「他者」に対して働きかける能力である。言語を使うこと時代は別に古代ギリシア以前からあったが、ポイントは言語による「活動」が暫定的・一時的なものではなく人々の生活の中心に位置し、人と人を結ぶ最も本質的な媒体になること。いつも暴力でぶつかり合っている者同志がたまに言葉を発するだけでは活動とはいえない。 

ここで重要なのは、衣食住や生殖などの私的領域と完全に分離した公的領域があることだ。ここでは人々が自分の思っていることや感じていることを「活動」という形で他者の前で明らかにする領域、いわば全てが公開されている光の領域である。ポリスにとっての共通の関心をめぐって自由に討論する。

要は、人間の生活の動物的な部分をすべて私的領域という闇の中に押し込んで隠すことで、市民は他の人々の前で「人間らしさ」を演じることができる。「私的領域」を犠牲にした「人間らしさ」のお芝居=活動を通して、われわれの「人間性」が培われてきた、というのがアーレントの人間性論の中心的テーマ。

そうすると、アーレントが言いたかったのは、何も古代ギリシアがよかったのでそのころの人間性を取り戻そう、ということではなく、我々、西洋人及びその文明的影響下にある人間は、古代のポリスによって生み出された人間性に規定され続けているということである。ポリスが「人間」としての「我々」の起源になっている、という歴史問題を掘り下げて論じているのである。

そして、資本主義の下、経済的利害(私的領域)が人々の中心的関心事である限り、われわれは「人間」になりきれないのである。

アーレントはポリスでの「活動」を通宇治て生じてきた「人間性」の最大の特性「多元性」pluralityであるとしている。「多元性」は「市民」たちが公的領域において「他者」に対して「自己」の「意見」を表明することで、自らの個性を際立たせることを通じて生じてくる。一人ひとりが異なった世界観を持っているので、自分の立場を理解してもらおうとすれば、たとえ極めて親しい人間でも言語によって説得していくしかない、という認識のもとにポリス的な共同体が成立しているということ。人々の多元的な「語り」が公的領域で行き交うことにより我々の「人間性=人類」は次第に豊かになっていく。

近代社会はそうした「多元性」を確保するために自由と平等の理念を拡大しようとしたが、皮肉なことに結果的には「経済」上の利害関係が前面に出てきたため、多元的に語り合う「余裕」がなくなってしまった。

「人間が人間であること」を可能ならしめているものは「多元性」である。われわれの「世界」が「人間らしい」のは同質的で同じような考えを持っている人たちだけでなく、多様な人々がいて、「他者」相互の対話が信仰し、いろいろな物語が絡み合っているからである。ナチスはそうした多元性を構成している一つの要因である「ユダヤ人」を絶滅させ、アーリア人の支配する単元的な”世界”を創出しようとしたという意味で、「多元性=人間性」の破壊者なのである。彼らの一番の問題は大虐殺という非道的な手段ではなく、単一的な「人間」を作り出そうとしたことである。

アーレントは「人間性」なるものが予め実体的に決まっているかのうような考え方を拒絶する。多元的な人々が相互に「語り合い」を続け、一つの「本性」へと一義的に収斂していくことがないのが、古代ギリシアのポリスで生まれてきた「人間性」である。 

さて、アーレントの政治哲学的考察から我々が導き出すことのできる最大の教訓は、「人間性」というのは各人に自然に備わっているものではなく、特定の制度の中で人為的に作り出されたものなので、非常に不安定で脆いということである。それを生み出したポリス的な制度が既に崩壊している以上、そのままの形で「人間性」を復活させることはできない。それでも人間的でありたいのであれば、ギリシアとは異なる新たな「人間性」 を創造するか、或いは労働、仕事といった活動以外の営みをゼロにする方向に進むしか無い。

既に数千年の人類史を持っているわれわれは今更みなで新しい「人間性」を打ち立てることなどできない。人間の進むべく道は後者しかない。そして、それは可能性がある。以前、このブログで『エクサスケールの衝撃』という本を紹介し、人間の不老、不労の達成の道筋が存在することを書いた。現在では、既得権益や政治の問題で、食料など生活を営む最低限の物資が既に世界中の人口全体をカバーするほど足りているのにもかかわらず、それが上手く配分されていない。これを乗り越えるには、抜本的な技術革新と生産性の向上である。全人口を悠々カバーできるほどのゼロコストの資源やバイオテクノロジーが実用化すれば政治や配分の問題も解決されるだろう。この方向に進んでいくしかわれわれが人間らしく幸せに生きる道はないのではないか。

エクサスケールの衝撃
齊藤 元章
PHP研究所
2014-12-18

 

今日は安倍マリオの話題がSNS上を賑わせた。みなどのように受け止めたのか。或いは、ただ流しただけか。しかし、これをどう受け取るかは難しい。

元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞はツイッターで以下のようにつぶやく。

「アベマリオを面白がるか、嫌悪するか。まさに個人もメディアも試金石」
1

「なにやってんだよアベ〜」
「超盛り上がった!アベ最高〜」

というのは簡単だが、これは世界が注目している場であり、出ているのは世界第三の経済大国日本の首相である。しっかしりと自分の価値観に照らしあわせ受け止めるべきである。

SNS上の著名人たちはどのように反応しているか。正反対の2つを紹介しよう。

まずは、ポジティブなのはビジネス界、ベンチャー業界では知らぬ人はいないYahooの執行役員の小澤隆生氏。

2

実際に作る側であり、生で演出を観たことのある立場からのコメント。これはオリンピックに直接関わっているような人に多そうな意見。

一方、ネガティブサイドは知能情報学が専門の筑波大学教授の北川高嗣氏。

3

リオの感動を全て吹き飛ばしてしまったようだ。小澤氏とは真逆。特に根拠は書かれていない。

オリンピックの開会式や閉会式では世界的な超VIPが登場することが慣わしになっている。北京でのプロサッカー選手デイヴィッド・ベッカムやロンドンでのエリザベス女王など。といっても普通の人はそんなに過去の五輪の開会式と閉会式の歴史を知らないので、ここでは一般的に、今回のリオオリンピックに安倍首相が出てきたことだけに絞って検討しよう。

個人的な感想は、世俗の人間がこのような祭典で目立ち過ぎるのはよくない。安倍首相の政治手腕や人柄がどうこうというわけではなく、日々のきな臭い政治を彷彿とさせるシンボルはよくない。もちろん、式に参加するのは全く問題ないし、逆に積極的に来るべきだ。北島康介では世界的にはちょっと知名度が低かったりイチローだとオリンピックに野球がないなど他に絶妙な選択がなかったのだろう。

オリンピック憲章の2に以下のようにある。
オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。
ここでも人間が真善美をもとめるような哲学的な存在としてオリンピックを位置しているのが分かる。政治体制とはただ、こうした人間の自由の文化の営みの背後にある流動的なものであり、現在の一国家の首相とは世俗的でこの領域ではシンボルとしてふさわしくない。たとえインパクトに欠けても、日本のお家芸の柔道とかレスリングの世界チャンピオンでよかったのではないだろうか。 

とまあ、あえて何か書いてみたが結局はその場で個人個人があのパフォーマンスをどう体験するかのほうが大きい。内容はなんといっても東京オリンピックを期待させたし、人々を高揚させた。私自身そうであった。日本すげ〜と率直に思ったし、実在の人ではなくキャラクター中心のPVも日本の創造性や特殊性を演出していた。何より、一番冷ややかそうな「中国」、の友人二人がわざわざこの演出を見て「最後の演出活かしてたぜ、東京五輪楽しみ」とメッセージを私に送ってくれた。

みなさんはどのように安倍マリオを観たのだろうか。 

僕は思い出話があまり好きではなかった。過去のことを振り返ってああだこうだいうのは何か後ろ向きだし、何の生産性もないから。

ただ、最近はそれは非常に重要なことだと思っている。ポストモダンな相対主義な現代。大きな物語だけでなく、小さな物語もない何でもありの個人主義。そして、共通の利害関係のない友人とはやっぱり想い出話が一番楽しいのだ。政治経済や将来の夢とかぜんぜん違う生き方している人間の集まりだと、さすがに共感がお互いしずらい。(もちろん、全く違う人どうして一つのテーマについて語るのは面白いが)

僕達は、ある地域で育ち、ある人々と出会い、価値観や記憶を形成してきた。これ以外には僕らの実存がよりどころにするものはない。過去に経験したことが今の実存を作っている。思想的な学問的な大きな物語はポストモダン社会では存在しないが、もちろん過去の経験の中をみれば極めてリアリティのある善悪がある。

マネックスの社長の松本大の本で昔読んだ記憶がある。彼は以前は、いろんな業界に精通していろんな分野にまたがり世界全体に影響のあるような仕事をしたい、と。でも、仕事をしている内に自分のできる範囲の狭さを実感し、自分の分野を築いて他の分野は他人に任せるようにした、と。

僕も、今同じような境地。積極的に”普通に”生きたくなってきた。自分の過去を確かめつつ、善悪についてどんな確信を持っているのか。少しでも学んだことを社会や他人や自分に還元していこう。想い出話は、過去を固め、未来に道筋を描く。

omoide
 

先日、振る舞いの重要性について書いたが、やはりそれは重要だ。振る舞いというのは、他人に「自分」を見せるもの。どういう人間であるかを示すことである。毎日仕事で忙しく、多くの人と会う多くの人々は、2,3の振る舞いを見て人を判断する。

そんなに力む必要はないが、常に一貫した能動的態度が必要である。やられてやり返さないのは、それを認めたことになる。黙って話を聞いていれば、何も意見がないつまらないやつとなる。

何かしら自分の価値観と絡めてリアクションを取らなくてはならない。 そして、実は、そうして自分の考えをもとにあらゆることに反応していくことはなんともやりがいのある楽しいことなのだ。世界と自分の関係をどんどん開示していく。これは人間的なことだ。

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