記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年09月

杭州から上海への高速鉄道での移動中、隣に老夫婦が座っていた。

荷物を上の棚に置いて、椅子に座りこれから一息つくところ。2人は外で買っていたフレッシュオレンジジュースをテーブルに置き、飲み始めた。

どうでもいいことなのだが、 個人的にこれが面白い。高速鉄道内でゆっくり飲むためにフレッシュオレンジジュースを事前に買っていて、実際にこれから飲み始める感じ、これが何故か僕には”つぼ”なのだ。それが老夫婦でも強面のおっさんでも若者だろうと、なにか「可愛らしさ」を感じてしまう。

なんで面白いのだろうか。少しさきの未来の楽しみを想定して、準備する感じ。これがなぜか面白い。それは言葉にできない。なぜかかわいい。

そして、悲劇は起こった。

その隣のおじいちゃんは立ち上がるときにテーブルにあたり、オレンジジュースが落ちてしまい床にぶちまけられた。

しょんぼりするおじいちゃんは5歳の子供のそれと何一つ変わらなかった。 

清水 真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで』でデイヴィッド・ヒュームの感情論がまとめられているので、私なりに敷衍してみたい。
ヒュームは感情を情念というのでこれに統一する。主張は、
道徳は情念に基礎を持つ!情念は合理的な基礎を持たない。合理的な推論は行動に結びつかない、行動に結びつくのは情念だ!

という感じ。

順を追って見ていこう。
  1. 理性だけでは何の意志作用も生み出さない。合理的な推論は行動(選択、意思決定)とは結びつかない。行動に結びつくのは「情念」である
  2. 道徳的判断は私たちを行動に導く
  3. ゆえに、道徳的判断は「情念」を基礎とするものである
  4. 理性の力を用いて情念を修正することはできない。
  5. 理性が情念を制御しうるのは情念が発生するきっかけとなった観察に誤りが認められる場合、具体的には、事実の有無をめぐる誤認または「原因と結果の誤った組み合わせ」だけ

ヒュームが情動主義の立場を引き受け、感情が価値判断に先立つものであることを主張するかぎり、感情が合理的な思考の結果として導かれたものではないことを明らかにしたが、それだから何が言えるか?まだ不十分。

ここで疑問。感情に支えられた価値判断が恣意的でなく、「私たちが規範や道徳というものを共有しうる理由」を説明する作業こそ、課題ではないか。要は、どうやったら受動的な情念をもとに社会をよくしていくための合意を形成できるのか、ということ。

ヒュームの試みは一つの回答を与える。道徳的判断を支え、「よい悪い」を直感的に区別する情念としての道徳的感情、そしてこのチャンネルを具えた人間本性による社会的合意という枠組みに訴えるという解決方法を提示しているようだ。

ただ詳細がない。では、どうやって受動的な情念で社会的合意を形成していくのか。そこで、昨日のアーレントの感情論が役に立つ。たしかに、ヒュームの言うとおり、わわわれは合理的な推論ではなく「情動」に押されて「行動」をする。では「情動」を認識するにはどうすればいいのか。

詳しいことは昨日の投稿で書いたが、アーレントによると「公共性にコミット」することである。社会と深く交わり多様な人びとと交流する、これが大切。こうすると情動が強くなり、行動が取れる。

でも、そもそも「行動」する必要あるの?と問われればよくわからない。しかし、現代において人間は社会で生きるしかない。そこから離れていきるならまだしもそんなことは非現実的である。複雑な社会で生きることを決めたらなら、そこにしっかりと入っていき感情を明確化し、世界と自分の関係を明晰に理解し生きていくのがいい。

ちなみに、エイヤーの批判にも少し触れたい。エイヤーは情動に道徳的判断の基礎を置くことを批判。好き嫌いには真偽もない、感情にも真偽はない、だから価値判断にも真偽の区別はない、これが情動主義の基本的な考え方である、と。

しかし、われわれの実存を反省するなら、情動に押されて「いま・ここ」の経験が進行していることが分かる。ハイデガー的図式でいえば、情状性(情動)があり、それに基づいて世界に意味が開示される。肩がこっていれば目の前のハンマーは肩たたき道具になるし、犯罪者がいれば武器になるし、釘があれば打つ道具である。情動に押されて行動(企投)がある。価値判断という言葉が不適切だとしても、情動によりわれわれの行動は方向付けられていることは確かなこと。

清水 真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで』でアーレントの感情論がまとめられているので、私なりに敷衍してみたい。
好き嫌いや真善美に関するものを「趣味判断」というなら、趣味判断は概念にもとづく合理的な判断ではなく主観的なもの。それは「感情」に基礎を持つ、とアーレントはいう。
 
さらに、趣味判断の基礎に見いだせるのが「個人的感情」ではなく「共通の共同体の感情(共通感覚)」であることを主張する。どういうことか?他人が趣味に関し私と異なる判断を持つことに私が抵抗を覚えるが、それは共通感覚が理想的規範であり、「判例的妥当性」を具えているからである。

感情は「伝達可能」であるかぎりにおいて、公的であるかぎりにおいて感情として受け止めることが可能となる。感情は単なる内面的、個人的、私的な現象なのではなく、むしろこれが有意味な経験となるためには、何よりもまず、他人からの承認を“想定して”何らかの仕方で言葉へと置き換えられるプロセスが必要。このかぎりにおいて私の感情はその都度あらかじめある特別な仕方で普遍性を備えていると考えなければならない。

さらに、アーレントはこういう。感情は公共性への意志から生まれる、と。

私がみずからの感情を感情として受け止めることが可能になるためには、これを「言葉に置き換える作業」が必要であること、「言葉によって置き換える作業」が「他人による承認、他人との共有」を想定して遂行されるものであること、また、他人による感情の承認の基準が「共通感覚」あるいは「趣味」と呼ばれるものであること、さらに、このような基準の正体が「共同体感覚」であり、公的領域に由来するものであること、アーレントはこう教える。

「言葉にする」というのは言葉という「普遍なもの」で語ることで、共感されるものであると確信をリアリティを得る、ということに等しい。

感情の経験が共通感覚に依存するものであるかぎり、感情は、意見を異にする者たちのあいだにオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲、「公共性への意志」のような意欲を基礎とするものである。

したがって反対に、このような意欲を持たないものには本当の意味における感情に与る可能性が閉ざされている。自分が何者であるか、自分が身を置いている世界がどのようなものか、このような点に関する真理に与る可能性もまた閉ざされている。

公的領域に関わっていく姿勢がないと、公的感覚にリアリティを持てないので、共感されているリアリティを持てなくて感情に与れない。そうすると世界と自分の関係などの真理にも辿りつけない。でも、公共性への意志ないからってその道とざされるのか?要は感情がそもそも人間関係など言葉による関係世界でうまれるから、そこに深くコミットしていないと、感じられないということだろう。

感情を感情として受け止めることは、それ自体として稀な経験である 感情は誰にとっても馴染みのあるもの、平凡なものであるわけではないばかりではなくむしろ虚偽意識から区別された本当の感情なるものはときには日常生活においてときには芸術作品の力を借り、特別な努力によって奪い取ることの必要なものなのである。

最後に、私なりに展開する。

「感情」とは「関係世界」の出来事である。人間は生物の本能として自己保存のため性欲や食欲に快不快を感じる。動物の基本である。しかし、人間は記憶ができ、言語を使う。こうすると、世界が身体的な世界(快不快)から幻想的な社会的な世界となる。いろいろな経験により対象同士やエロス性が連合し、複雑な系列を結び網の目のように発展していく。これが「関係世界」である。網の目上のどこかが刺激されれば、そのこ起点に刺激が広がる。これが、「感情」である。快不快のように一義的なものではない。各個人の経験により編み上げられた網の目は千差万別。

アーレントは、以下の二点を強調している。
感情の基準は共通感覚にある
感情は公共性への意志から生まれる

では、だからどうすればいいのか。

なぜ「感情」を理解できることがいいのか?

感情がはっきりすれば趣味判断もはっきりするのである。この複雑な関係世界で、何をすべきか導いてくれるだろう。よくわからないふわふわした状態では仕方がない。自分が何者であるか、自分が身を置いている世界がどのようなものか、このような点に関する真理に与れる。

だからそのためには、公共性へコミットし共通感覚を磨き、感情をはっきりしたものにする。そうすれば世界が見えてくる、というわけだ。  

昨日堂目 卓生氏の著書を通じてアダム・スミスを「実存」を軸に紹介したが、スミスは「愛国心」についても極めて深い洞察をしている。これはナショナリズムや国とはそもそも何かを考える上で大変意義ある内容である。




祖国への愛は、人類全体に対する愛でも、祖国が地球の一部であるからではない。日本人が日本人であることに愛着をもつのは日本人が人類の一部であるからではない。

日本という国の中に、あるいは日本人という集団の中に、「自分と家族、そして自分が愛する人々」のほとんどが含まれてるからであり、自分たちの安全と繁栄が、”日本の安全と繁栄”に依存すると思うからである。そして、自分の行為が実際に影響しうる最大の社会が日本社会であると考えるからである。このように祖国への愛は、普遍的仁愛からではなく、”私的な愛着”から導かれる

祖国に対する愛は近隣諸国民に対する国民的偏見を生み、近隣諸国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。結果自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。国際法がしばしば蹂躙されるのはこのためである

国際問題に対する私たちの道徳的腐敗は、他国民への国民的偏見によって、そして中立的な観察者が存在しないことによって生じる

国民的偏見は諸個人が他国の人々と交流し、同感しあうことを繰り返すことによって弱めることができるであろう。他国の人々との交際を進め、同感しあうことによって異なった慣習や文化を理解するとともに生命、身体、財産、名誉が侵害されること、つまり正義については他国の人々も自分たちとほとんど同じ感覚をもっていることを知ることができるからである。

僕は、こうした取り組みを増やして世界に貢献したい。語学の事業をやるか、学生に留学をさせるか、外国人を呼びこむか、どういうやり方がいいのだろうか。 

アダム・スミス(1723−1790)の名著『道徳感情論』と『国富論』を解説している堂目卓生の著書を拝読した。正直いって、アダム・スミスの深さを存分に堪能できる素晴らしい内容となっている。



アダム・スミスの2つの著書。『道徳感情論』と『国富論』。前者は倫理学、後者は経済学である。スミスは個人の利益追求行動が社会全体の利益を無条件にもたらすと考えていたのだろうか?本書は道徳感情論におけるスミスの人間観と社会観を考察し、その考察の上に立って国富論を検討することでこれまでとは異なったスミスのイメージを示している。

スコットランド出身のスミス。当時スコットランドは、政治的独立を失い自分たちのアイデンティティを学芸と科学の世界で復興し、維持しようとする心情的背景をもっていた。

そこで、アダム・スミスは、社会を秩序づけ繁栄させる人間の本性は何か、また社会は文明の発展とともにどのように変化していくものなのかという人間と社会に関する根本的な問題−道徳哲学の問題−に力が注がれたのも、スコティッシュアイデンティティの復興運動と無関係ではない。

もう一度いうと、アダム・スミスの問題意識は、

社会の秩序と繁栄を成り立たせる普遍的な原理は何か。またそれを妨げる要因は何か。これらの問題を人間本性の考察にまで立ち返って検討すること。

スミスは2つの著作によりこの課題に立ち向かった。

最も大事なキーワードは「同感」であろう。

ここでいう同感とは何か?
 
人間は自分の利益を考える存在だが、別の原理もある。他人に関心をもつこと。人間は自分の利害に関係なくても、他人の運不運、あるいは境遇に冠詞をもち、それを観察することによって自分も何らかの感情を引き起こす存在なのである。

他人の感情や行為の適切性を判断する心の作用をスミスは同感sympathyと呼んだ。同感は他人の喜びや悲しみ、怒りなどの諸感情を自分の心のなかに写しとり創造力を使って、それらと同様の感情を引き出そうとするあるいは検討する人間の情動的な能力。

本書やアダム・スミスはそこまで掘り下げていないが、なぜ他人に共感するのかももっと考察されるべきだろう。おそらくそれは自我形成期に関わる。赤ちゃんはいろんな感覚などの経験が収束する基体として、さらに鏡や他人を見ることで「人」の概念を獲得し、「自我」を得る。自我形成期には他者の身体も関与しているため、それにも自己移入する。また、理性的に同じ容姿をした生物だから各主体も自分と同じような意識を持つとも考える。こうして無意識、意識的に他者と同感するのだろう。

さらに、本書によると、他人の目を気にするようになるという。自分の感情や行為に対する他人の判断である。 私たちは自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認されたい、あるいは他人から否認されたくないと願うようになる。この願望は人類共通のものでありしかも個人の中で最大級の重要性をもつという。

ただ、これも私なりに根源的に問うてみたい。
なぜ他者承認を欲求するのか?順をおってみよう。
    1. 生まれる
    2. 人を見て「人」の概念を獲得する
    3. 鏡などで自分を「経験の基体」としの自我を得て、自分も「人」だと認識
    4. 空間に「人」を含めたいろんな生物が住んでいるという世界観を持つ
    5. ある「人」に「強さ」「美」など好意を持つ
    6. 自分もそういう「人」から好かれる「人」になりたくなる 
    7. これが承認欲求
さて、次に出てくる重要なキーワードは「胸中の公平な観察者」である。これがどう形成されるか見てみよう。以下、その発生過程。1〜3は上で根源的に見てきた。
 
1 私は他人の感情や行為に関心がある
2 他人も私の感情や行為に関心をもつだろう
3 私はできるだけ多くの人から是認されたいと思う
4 経験によって、私は、諸感情や諸行為のうち、同胞の多くが、あるものを是認し、他のものを否認することを知る
5 また、経験によって、私は、ある感情または行為がすべての同胞の是認を得ることはないことを知る
6 そこでわたしは経験をもとに「公平な観察者」を胸中に形成し、その是認・否認にしたがって自分の感情や行為を判断する
7 同時に私は「胸中の公平な観察者」の是認、否認にしたがって他人の感情や行為を判断するようになる
8 こうして、私は当事者としても観察者としても自分の感情や行為を「胸中の公平な観察者」が是認できるものに合わせようと努力する
 

次に「一般的諸規則」がどう作られるか見てみよう。

1 胸中の公平な観察者が非難に値すると判断するであろう全ての行為は回避されなければならない
2 胸中の公平な観察者が称賛に値すると判断するであろう全ての行為は推進されなければならない

最初は「実際の観察者」から、そして後には「胸中の公平な観察者」から非難されることを畏れ称賛されることを望んで一般的規則を形成する。周囲のリアルな人の反応が「実際の観察者」であり、例えば彼らはお金持ちや地位の高い人に感心し羨望の目で見てくる。これは自分としては一瞬嬉しいが、よくよく「胸中の公平な観察者」で見てみると、いろいろ突っ込みどころが出てくる。社会貢献しているのか、誰にでもやさしく接しているのかなど。

そして、次にさらに重要な「義務の感覚」の発生を見よう。
 
自分の行為の基準として一般的諸規則を顧慮しなければならないと思う感覚を「義務の感覚」と呼び「人間世界活において最大の重要性をもつ原理であり、人類のうちの多数がそれによって自分の行為を方向づけることができる唯一の原則」であるとアダム・スミスは考えた。

利己心や自愛心は義務の感覚のもとに制御されなければならないし、通常は制御されるはずであるとスミスは考える。このことを理解しておくことは国富論において、スミスが利己心にもとづいた自由な経済活動を容認したことの意味を正しく捉える上で非常に重要である。無制限の利己心が放任されるべきだという考え方はスミスの思想からは出てこない
 
では「義務の感覚」にもとづいて情念、欲望、自愛心を抑制することによって何を得るか

私たちは常に「胸中の公平な観察者」に非難や称賛を受ける。結局、「義務の感覚」にしたがうことによって私たちがえるものは「心の平静」である。

さて、アダム・スミスはこのように人間の本質を描いているが、それはもちろん冒頭で述べたとおり社会をよくするためである。ただ、私はもっとアダム・スミスの実存の分析に集中したい。ということで、最後にアダム・スミスが考える「幸福とは何か」について。

幸福は平静tranquilityと享楽enjoymentにある、という。平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。スミスにとって幸福とは「心が平静なこと」である。貧乏な人の息子は、富と地位を獲得するために、「いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静」を犠牲にする。

では心の平静を保つために必要十分なものは何だとスミスは考えたか?

それは、「健康で負債がなく良心にやましいところがない」ことが必要であると考える。貧乏であってよい、ということではない。最低水準の富は必要であることがわかる。

これを現代社会でどう実現するか?ある程度良い企業にはいる必要があるかもしれない。ただ、政治家や起業家になって奢侈な生活を目指す終わりなきゲームに参加するべきではない。スポーツ選手やエリートサラリーマン、作家やアーティストも不要だ。そんなことをいうとつまらない人間だ、と言われるだろう。欲望を爆発させないなよなよしさに、ニーチェも激怒するかもしれない。

でも、「心の平静」が大切だとすればやはり何か一つの偏り過ぎるのはよくない。中庸。

さて、ここからはわたしの解釈だが、「心の平静」には「心の強さ」が必要である。それは、「胸中の公平な観察者」がはっきりとした規範を持ち、さらにそれを実行できるような心。なぜなら、何が善悪であるかはっきり理解できず、さらにわかってもそれを実行できなければ永遠に「心の平静」は訪れない。

では、どうすれば「胸中の公平な観察者」を養い、強い意志を持てるか。それは上で「胸中の公平な観察者」の発生過程1から8を見れば分かる。4,5,6が決定的に重要。要するに、多様な人々と実際に対面して交流しろ、ということ。テキストで読んだり、人から聞いた規範などは無意味。リアルな人とのコミュニケーションである。そうすれば、「なにが称賛されなにが非難されるか」が分かるし、自分がどれだけそれができているか分かる。さらに、それらがはっきり分かれば自ずと善くありたいという意志も強まるだろう。

ということで、「幸せ」とは「心の平静」であり、それは「多様な人々との深い交流」である。

以上、アダム・スミスは社会について考えたが個人が「社会」の中でどう生きるべきかの指針を与えてくれる。そして、本旨である社会論も実存を考える上で不可欠である(ここでは紹介しないが)。なぜなら、人間の本質(実存)は社会的なものであるから。

早速、原典『道徳感情論』を取り寄せたので読んでみる。 

個人の時代である現代、それは違和感に満ちている。本当にデカルト的な主体というものはあるか。いや、それは確かめようがない。

ただ、もちろん肉体的に一つにまとまっていることは確かである。では、意識と身体の関係は何か。それは自分で動かせるという経験と感覚の基体としての経験が、「身体」さらには「自我」というものを生み出す。身体があるから自我がある。当たり前といえば当たり前。

個性とは何か。

それはその人が感覚した世界に相関する。それは、もちろん1ミリよりもずっと小さい単位での体験に依拠する。1ミリでも経験が違えば個性も変わる。そして身体の違いもあるから体験も変わる。さらに過去の記憶という蓄積も2人の同じ体験を違うものにする。こうして複雑な意味や価値の網の目が形成され個性が形作られる。

ある人が感覚した世界、それは捉えきれないほどの情報量である。でも、人間社会において、いくつか大事なカテゴリーを見いだせる。物理的な環境、社会的な環境、身体、である。環境といえば、大自然に囲まれた田舎で育つか、ビルの密集地で育つかによって世界の見え方は変わる。暑いか寒いか、太陽の見え方などあらゆる物理環境。社会的な環境とはど田舎の人間関係の濃い社会なのか、或いは都会のよそよそしい社会なのか、親に温かく育てられたか虐待されたのか、など。身体、はその人が社会的にみてどういう意味の身体を持つかが重要。かっこいいのか美人なのか、背が高いのか低いのか、太っているのか、健常なのか、など。

結局こうしたある環境、社会、身体などの情報群によって個性はできている。個性とはその人が触れたものが身体と相互作用しながら作られたもの。

「個性」とはある情報群の代議員みたいなものだ。

もし普遍的な共通了解を作り出したいなら、多くの場所を訪れ多様な人びとと接し、自分の身体の意味を考えるべきである。
kosei

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