記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年11月

「経験がある」ことはどんな文脈でもよいことだとされるだろう。

しかし、改めて「経験がある」とは一体どういうことなのだろうか?

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例えば、ビジネスパーソンであれば、特に経営者に近ければ近いほど日々多くの人と会い、多くのコミュニケーションを行うだろう。そういうときに、「この人は信頼していいのか」或いは何か問題があったときに「どういう対処をしたらいいのか」など色々な意思決定を行う必要がある。

愛想がよくて、人懐っこい感じの人なら「信頼」していいのか?あとでとんでもない問題を起こすかもしれない。無愛想で、話が噛み合わないやつでは「切り捨てて」いいのか?もしかしたら、とんでもない成功をもたらすかもしれない。

また、企業などの組織の人事部では毎日多くの面接者と会い、どれくらい頑張ってくれるか、裏切られる可能性はあるか、などを判断してなくてはならない。長い時間をかけて、どういう規準で判断して入社した人が実際どの程度活躍したかなどを偏見なしに調べてノウハウを蓄積する。結果的に、平均よりかなりいい人材を多く採用できるが、とんでもない成功者や平均より悪いやつを弾くようなフィルターになるだろう。

こうしたフィルターは、「経験」によってしか得られない。しかし、それは言語的に知識化して応用することができる。それが科学的な知識である。人事部であれば面接中に「視線を上に逸したらNG」などばっさりと型にはめることでこれを実現する。経験がなくても知識に従えばいい。

こうした過去の知識をマスターした人に、素人は太刀打ちできない。例えば、どういう状態にあれば人の心はこう動く、と沢山の事例を通じて知識化されたものをマスターした催眠術師がいれば、あなたのような素人はちころでやられてしまう。もっと簡単な例でいえば、いくら室伏広治のような身体能力が優れた人間でも、例えば、テニスのようなある程度の技術(知識)を学ぶ必要のあるフィールドではいちころに負けてしまう。(室伏広治がすごすぎて勝つ場合もあるかもしれないが(笑))

ということで、言いたいことは、
過去にしっかりと知識化されたことは謙虚にまる覚えして使っていこう、
ということ。

もちろん、何を鵜呑みにするかの吟味はしっかり行わなければならない。

われわれの全ての営みは、もとを辿れば一つのことに行き着く。

「世界があるという驚き」

である。

これについてはこの前、この驚きを見事な表情で体現している赤ん坊の写真とともに解説した

われわれの生は現存在である。

「民主主義がいい」「自由貿易でグローバリゼーションを進める」などの主張や、純粋理性批判でわれわれの認識について説いたカントも、ビジネスで規模をどんどん拡大していくジャック・マーもすべて、現存在による自己の気遣いなのである。

哲学者の内田樹は著書『寝ながら学べる構造主義』のあとがきにこう書いている。

「レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っておりフーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。」
 
構造主義という一般の方は聞き慣れないような哲学の分野の巨匠、レヴィ=ストロース、バルトやラカンは複雑で詳細な哲学や思想を作り上げ、世界を斬新的な仕方で説明した。でも、この「説明」自体は、ただの過程でしかない。一番重要なのは、その説明の「動機」だ。なぜ彼らがそんな難しいことを言おうとしたのかそれはシンプルなものだ。

彼らの描いた哲学的な世界観も、結局は一言に集約された動機となる。さらにそれをもっと概念的にいってしまえば、自己への気遣いということになる。

科学技術がいくら進歩してもそれは変わらない。 
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先日、私が哲学をしているという話をとある先輩に話たところ、哲学に対して以下のような考えをもっていることを教えていただいた。

「哲学は、生きる意味について考える学問だ」と思っている。でも、そんなもの答えのない問いだ。だから、哲学をやってそれを「考えても」仕方がないと思う。

これは、一般的に多くの人が哲学に対して持っているイメージではないだろうか。

哲学をやっているものとしてこれに”哲学的に”真摯にマジレスさせていただきたい。

先の先輩の命題は、「生きるということの目的は何か?」という風に言い換えられるが、まず、「生きる」と「目的」という語の意味をしっかりさせたほうがいい。

まず、簡単な「目的」のほうから。 

「目的」とは、
大学合格の目的のために受験勉強する
彼女が幸せになるために(目的)頑張る
お金を稼ぐために仕事する
などが代表的な「目的」の用法だろう。

僕らは基本的に何かをいているのは上記の例のような目的のためだ。普段の生活は、学校、仕事、レジャーなどだろうが、それぞれ「いい仕事を得るため」「お金を稼いで生活するため」「楽しむため」など目的がある。

「目的」とはそういうものだ。

では、その「目的」が問われている「生きる」とは何か?

これは深く考えるべきだ。
生きるとは、自分の主観である。「いま、ここ」という五感や情動などからなる意識領野の持続、流れとでも言おうか。根源的に考えるなら、それは「直接経験の持続」とでも言えるだろう。

補助線に、物理学者であり哲学者のマッハの「直接経験」という概念を見てみよう。谷徹『これが現象学だ』より引用。(44−47)

まず、学問/科学の基礎は直接経験にあるという着想である。当たり前だと思われるかもしれないが、しかし、この直接経験が見失われてしまっている。私たちはその実態を理解し損ねている。この着想に深くかかわっているのが、マッハである。
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ふつう経験というと、経験科学的(心理学的)に考えるならば、例えば図1のように、外部から物理的刺激が到来して、それを私が受け取る(見る)ことによって、知覚経験が成立するといったイメージであろう。
 
ところが、マッハは図2のような絵を描いて見せた。これは右目を閉じて左目だけで見たときの光景である。絵の右側に見えるのは、マッハの鼻であり、その上の方に伸びているのは彼の眼孔である。そして、前方には鉛筆をもった右手と、両脚が伸びている(マッハは長椅子に座っている)。もちろん左手も描かれている。下の方に見えるのはマッハの髭である。これがマッハにとっての直接経験だった。

図2は、図1とは大きく違っている。図1では、対象(花)も私も同じように図の中に描かれているが、図2では私(とりわけ顔)は描かれていない。図1は客観的だと思い込まれているが、しかし、実は図2のような直接経験から出発して事後的に形成されるイメージである。言い換えれば、図2のような経験こそが根源的であり、図1のイメージは派生的である。あるいは、図2のような経験は、「主観的」だが、単に主観的というのではなく、まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである。

「直接経験」の概念が理解できただろうか?要は、今自分の主観である「いま、ここ」のことである。私であれば、今パソコンに向かってタイピングしている「いま、ここ」のありありとした質感。もちろん、マッハの絵は視覚で得られる質感しか描かれていないが、そこには五感で得られるその他の質感(クオリア)や所謂心的なもの、内的な感覚も含まれる。「いま、ここ」で”直接”に経験されているもの全て、それが「直接経験」である。

「生きる」というのはこの「直接経験」の持続、流れ、或いは更新とも言えるだろうか。ここではとりあえずそれを「直接経験の持続」としておこう。「生きる」こととは「直接経験の持続」である。そこでは五感の感覚だけでなく喜怒哀楽や波乱万丈がある。それが「生きる」こと。

では、もとの問いに戻ろう。「生きることの意味」、それは「直接経験の持続の目的」といえる。

「生きること」が「直接経験の持続」だとすると、この「直接経験の持続」の「目的」を問うのはおかしい。レベルが違う話だ。問われるものである「直接経験の持続」を、「部活動の練習」の「目的」を問うようには扱えない。 

「生きる」ということ、要するに「いま、ここ」とはそもそも全ての根拠がある場所。先の「目的」という語もここに根拠を持つ。「生きる」中でいろいろな経験を積んでいろいろな「概念=語」を学ぶ。「目的」とは何か自分にとってよいことを終着点として置き、そのために何かする、という感じ。

なので、 「生きる」ということの「目的」を問うことはできない。これは、この「赤い」は「早い」という文がおかしいように語のレベルが違う。「生きる」とは、「目的」という語だけでなく、「赤い」「机」「走る」「眠い」「美しい」などあらゆる概念や語の根拠となるものである。

「生きる」というこの「いま、ここ」は、まったく謎で驚嘆することだ。すべてはここから始まっている。なので、これについて「目的」や「原因」を知りたくなるが、それとは別の次元のことなのだ。世界が存在している、この「生」というものの驚きと謎に全てが集約される。

ということで、「生きることの目的」を問うことで、答えを得ることはできない。


**

ということで、その観点ではその先輩は正しいことになる。

でも、哲学とは「生きる意味を問う」ことに限定されるものではない。それは一言で定義するなら「概念を使って根源的に考え抜く方法と態度」であると言える。

先の例でいえば、「生きる意味について考える」と言っても、「生きる」という語の意味は?「考える」という語の意味は?そもそも「意味」の意味とは何なのか?というように、もっと深く根源的に問うことができた。(分析哲学と言われるアメリカの主流の哲学ではまさにこういう言語の問題が哲学の主題)

ではなぜ「根源的に考える」必要があるのか?といえば、
  1. 誰もが納得できる考えに到達する営み→他者と共通了解を作る
  2. 自分と世界や他者との関係を見直して納得する→自己了解を得る
 そして、それも突き詰めれば結局は「自己への配慮」となるのかもしれない。

20世紀最大の哲学者ハイデガーは、こうした質問の中でも最もラジカルな「何故なにもないではないのか?なぜ無ではなく何かがあるのか?」という問いに生涯挑み続けた。

他者と十分な共通了解は既にできているだろうか?
また、自分と他者や世界との関係にあなたは十分な自己了解を得ているだろうか?

これが満たされるまでは「哲学」は意義ある営みであり続ける。
 

下の赤ん坊の表情を見てほしい。

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ただただ、ひたすらに「世界がある」ことへの驚嘆である。

これがわれわれが失ってしまった「自然的思考」というものである。

では、「自然的思考」とは何か?木田元『反哲学入門』の議論を軸に考えてみよう。

反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社
2010-05-28


それを説明する前に、まず「哲学」とは何かを理解する必要がある。

哲学とは、
「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういう在り方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいい。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。自分が自然のなかにすっぽり包み込まれて生きていると信じ切っていた日本人にはそんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理(イデア、純粋形相、神、理性、精神など)によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
(著者は哲学は「自然に生きたり考えたりすること」を否定するものだとし、日本に哲学がなかったことを恥じる必要などない、日本人のものの考え方のほうがずっと自然だという)

ニーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がいきづまりにきていると見て、その原因をさぐった。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方にあることを見抜く。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれ生き、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうだ。著者が「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなのだ。

「反哲学」或いは「自然的思考」は、ソクラテス以前に見出されたとされるが、近代の哲学者でも、ライプニッツなどは「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」と問いかけ、<存在する>というのはどういうことなのかを問題にしているし、20世紀のウィトゲンシュタインでさえ「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」という。ハイデガーはもっとはっきりと「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」と行っている。

「生きる意味は何なのか」「どう生きればいいのか」「よりよい社会とは何か」などの問題も全てこの上に成り立っている。そもそもわれわれが被投されているこの「世界」があることが驚きなのである。

科学技術の発展により、自然をメタ的に完全に解明しようとする人類は躍起になっているが、この赤ん坊のように素直に「自然」と向き合うことが自然なのではないだろうか。

2016-08-28-12-19-16

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わたしはたまにこの過剰な意味を持ち、競争し前進し続ける社会から離れたいと思うことがある。レヴィ=ストロースではないが未開社会に入り生活してみたいとすら思う。研究としてではなく、ガチの生活として。でも、おそらく最初の数日で生活が不便過ぎ、さらに刺激がなさすぎて嫌になることは目に見える。いや、でもそれを乗り越えて数ヶ月くらい過ごしたら実存的に安定した楽しい日々を送れるのではないか、とも思う。

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いずれにせよ、現代人は「自然に還れ」的な憧れを抱く。競争に揉まれ社会に疲れた人は、自給自足で自然と調和したような生き方が理想的な人間のあり方だという考えを抱く。未開社会や原始共同体的な村の生活まで戻らなくてもスローライフ(※)や田舎での半自給自足的な生活を実行している人もいるようだ。

※スローライフ(Slow Life)とは、生活様式に関する思想の一つである。ファストフードに対して唱えられたスローフードから派生した考え方で、大量生産・高速型のライフスタイルに対して、ゆっくりした暮らしを提案するもの。Slow livingに相当する和製英語である。明確な定義はないが、地産地消や歩行型社会を目指す生活様式などを指すことが多い。日本の高度成長期以前の生活はスローライフであったとも言える。

偶然見つけた「僕がアクセンチュアを辞めた理由」という記事。このブロガーはアクセンチュアという大手外資系コンサルティングファームで12年間勤務した後、鎌倉を軸にした自給自足的な生活へシフトしたようだ。それまでに激務や女遊びなど色々体験した結果、「自然に還れ」に至ったようだ。こういう人は結構多くいて、最近田舎に移住する若者も増えている。

東京の大企業などで日々激しくブラックに働いていると、「自然に還れ」的発想が強くなる。別に激務でなくても都会だと溢れる情報やこのゴミゴミした空間に嫌気が差し、シンプルさを求めるのかもしれない。

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さて、前置きが長くなったが、「自然に還れ」は現代人にとって有効なのか?

具体的に言うと、都会の生活に疲れた人がアーミッシュ的生活、もっといえばアマゾン奥地の未開社会のような生活に戻ることで「人間社会にまつわる面倒くささ」から解放され生き生きとして生を享受することができるのか?幸せになれるのか?

これが主題である。

この問いについて私は長いこと考えてきた。自分も機会があればこういう未開の社会に行って、欲望に囚われすぎる都会の生活から離れてみたいと思っていたからだ。ずっと納得できる答えはなかったが、ついに岸田秀の唯幻論の考え方で、理解することができた。(ラカンでも理解できそうになったが、ラカンの言ってる事自体が結局理解できなかった)

結論から言うと、現代社会で生まれ育ってしまった人間は、未開社会など原始的な生活に戻っていっても適応できず(=岸田的に言うと自我を安定させることができず)幸せを掴むことはできないだろう、というのが私の結論。

では、岸田秀『幻想の未来』で詳しく書かれている唯幻論をベースに説明していく。




先に要点を言うなら、人間は「自我を安定させること」が生の軸となる。そして現代社会で生まれ育った人間は、自我をその社会の文化や他者との接触を通じて築き上げてきた。どうにか自我を安定させるように社会や他人と調和するように自我を形成してきた。そうしてできた現代社会用の自我は、現代社会とあまりにもかけ離れた未開社会では、環境が違いすぎて自我を安定させることはできない(だろう)。そして自我が崩壊し、自然に適応できなくなり死んでしまうだろう。

一言でいうなら、とってもありきたりな答えだ。現代社会で育った人は、未開社会に適応できない。以上。これを「自我」を軸に詳しくみていく。

さて、順を追って説明しよう。

人間の生は自我を安定させることだ、とはどういうことか?われわれは「いま、ここ」という主観的な体験を更新しながら生きている。この実存的な生はどのような構造になっているのか。そこには欲望やら感情やら五官の作用から受ける感覚などさまざまなものが入り乱れている。しかし、根本的には外界という自然環境に生きる動物である、という路線で考えればよい。要は、外界の刺激に反応する機械のようなものだ。犬も猫も、もっといえばアメーバやミドリムシなどはとっても単純な機械のようだろう。

人間は、どう違うのか?それは「本能が壊れた」動物である、ということだ。

本能というのには2つの側面がある。一つは生命エネルギーであり、個体保存や種の保存のために個体を突き動かすベクトルのようなもの。もう一つは行動規範であり、ある外部刺激があればこう反応するというような決まりである。

人間は行動規範としての「本能」が壊れてしまった動物である。この本能の代用品として「自我」という「行動規範」を発明したのだ。人間は、自分はかくかくの身分であるとか、かくかくの役割をもっているとか、かくかくの立場にあるとかにもどついてはじめて自分の行動を決定できる。

他者が「おまえは由緒ある我が家の跡取り息子だ」「おまえは女の子だからこうしなければならない」「おまえは日本人だ」などと個人の自我を規定するとき、その規定は伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去においてすでに形成されて伝わってきているもんいもとづいており、この意味において過去が自我を形作るといえる。さらに、基本的には言語的に規定されるのですでに社会性や他者性を帯びている。

もし自我という規範がなければ、人間は何をどうしていいかわからず支離滅裂になってしまい、しまいには死んでしまうだろう。自我とは本能が壊れた人間が本能の代わりにエネルギーを方向づけ、秩序づけるために作り出したある形ともいえる。欲望が実存の根源のように見えるが、欲望とは不安定な自我を安定させようとする企てである。

■エス
ここで、「エス」という概念も理解してほしい。自我=当人がこれが自分というものだと思っているところのものであるなら、エス=当人の生命存在全体のなかの自我から排除されたもの、であるといえる。当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。ある衝動も当人がこの衝動はたしかに自分のもっている衝動であると思っていれば自我の一部となるが、当人がそう思っていなければすなわちその衝動を抑圧していればエスの一部である。
■根本的倒錯
ここで、人間の生に「根本的倒錯」が起きる。人間は自我こそが自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚。自分に属さないものとして自我から排除しているのである。自我を他者からのコピーでつくるが、それはそのままだと現実(他者など)とぶつかるからエスへ抑圧される。「お前は優秀だ」と親からいわれても他者は認めないかもしれない。こうして「優秀な自分」は抑圧され、「だめな自分」という自我になる。

ここに人間という存在の根本的倒錯がある。人間の生命はエスのうちにあるのだから、生命として生きるためにはエスを解放し、表現し、エスを生きなければならない。われわれ人間はおのおのの自我を起点として他の人々の自我とかかわり、おたがいの自我にもとづいて日常性を築いているが、人間が日常性だけで生きることができない理由はここにある。

人間は、自我だけでは、日常性だけでは「過去と他者に規定された道」をあるかされているに過ぎず、まさに生ける屍であって、肉体としては生きて行けるかもしれないが、生命としては生きることができないのである。

人間の生命はエスのうちにあるのだから、生命として生きるためにはエスを解放し、表現し、エスを生きなければならない。しかし、エスを解放することは、自我、日常性を崩し、擬似現実への適応、肉体的生存を危うくする。人間は自我を守らなければ(擬似)現実に適応して肉体として生きてゆくことができないし、自我を崩さなければ生命として生きることができないというディレンマを抱えている。

■日常性と非日常性
何はともあれ、肉体的生存を確保できず、肉体的に死んでしまえば元も子もなく、エスの解放も何もあったものではないから、いかなる文化、いかなる社会も、基本的には自我を支え、日常性を保つことに主眼をおき、そのかたわらに非日常的な時間または空間を設け、そこでエスの解放を許し、このディレンマに何とか対処している。

これは生命として生きる立場からすると本末転倒(疎外)であるが、人間は本能が壊れ、人間の生命そのものが狂っている以上、やむを得ないだろう。人間の本能が壊れておらず、肉体として生きることと生命として生きることが矛盾していなかったとすれば、そもそも自我なんかつくる必要はなかったのだから。

■原始共同体
さて、自我が生まれた人間は、最初原始共同体で生活を始める。原始共同体においては、一年に一回か何回かの定期または不定期の非日常的時間が祝祭として設けられていた。この期間中は、日常的には禁じられているタブーを破り、財を蕩尽し、エスを解放することが許されていた。それ以外の日常的時間はタブーを守って地道に生活し、労働し、財を蓄積する時間であった。つまり日常性と非日常性とが時間的に分けられていた。
 
原始共同体における個人は単一の集団に所属しており、個人の自我はこの共同体によって支えられ、そしてこの共同体は共同体のメンバーの共通の祖先と見なされている何らかの超越的存在(トーテム神、祖先神、氏神など)に支えられていた。

いわば、個人は集団的自我をおのおの分有しているようなもので、共同体のメンバー全員のおのおのの自我はおたがいに大して違っておらずしたがって当然のことながら各人のエスも共通していた。エスが共通していたから、全員共同の非日常的時間を設け、そこで全員が一緒におのおののエスを解放できたわけである。

日常的時間と非日常的時間を交互に繰り返し、日常的時間において自我を守り、非日常的時間においてエスを解放する原始共同体のシステムはバランスのとれた、かなり安定したシステムであって、各人の自我およびエスがお互いにたいして違ってないから個人と個人を区別する必要なく、いわゆる近代的個人が出現する余地はなかった。いわゆる未開社会はこのような安定した状態で長い間続いてきた社会であるように思われる。

 ■近代社会
では、現代のわれわれの社会ではどうか?原始共同体であろうが、近代社会であろうが、どのような社会であろうが、人間は自我とエスとに分裂しており、一方では自我を守り、他方ではエスを解放しなければならないことに変わりはない。
 
原始共同体では、自我を守る日常性とエスを解放する非日常性を時間的にわけていたが、近代社会のように各人の自我およびエスがおのおの互いに異なるようになれば、そのような分け方はもはやできない。別の分け方をしなければならない。
 
身分によってわける分け方というのもありえる。さらに、貴族なら貴族という一部の特定階層をつくり一般の人たちには許されないことを彼らに許し、彼らに非日常性を代表させて、代理的にエスを解放させる。現代の芸能人と同じである。そして、現代の主流は「貨幣」。カネをかせぐために働くことが日常性、カネを使って遊ぶのが非日常性である。

***

さて、これでわれわれの「現代人は自然に還れで幸せになれるのか」という問いに答える準備ができた。

われわれの生は自我を安定させることが目的となっている。そして、自我はエスと分かれ、自分であるエスを解放させる必要があり、日常性の他に非日常性が必要となる。未開社会などの原始共同体であれば、みな同じような自我とエスをもっているので一緒に祝祭という非日常性でエスを解放する。

しかし、現代人は個々人がバラバラの経験をし、自我とエスが各人でバラバラ。(むしろそのバラバラがオリジナリティとして推奨される時代)そこでわれわれは貨幣という日常性と非日常性でエスを解放させる社会にした。もちろんそれ以外にも芸能人に代理的に解放させたりなどマイナーなはけ口もある。

こうした固有の自我とエスを持った現代人が、祝祭しか非日常性がない原始共同体へ行ったらどうなるか。まず、祝祭でエスを解放できない。ハイテンションで祭りで踊ったところで、現代社会で築かれたエス、例えば、「グローバル市場で活躍するビジネスマン」「テニスプレイヤー」などの自己規定が解放できるわけがない。こうしてエスが行き詰まり、生は枯れ果てていくだろう。

原始共同体の人間も、現代社会の人間もどちらも不安定な自我に悩まされ続ける。しかし、自我を安定させるためのエスの解放の仕方が決定的に異なる。こうした非日常性のはけ口が機能しなくなれば、自我を保つことができなくなり、the endとなる。

納得いただけただろうか?

自然に還れ、といっても程度の問題もある。東京でばりばり働いていていきなりアマゾン奥地にいけば、自我は崩壊するだろうが、軽いスローライフのノリで四国とか北海道に移住、くらいであれば自我を保つ手段は多々あるだろう。国際的な大都市であれば問題ないかもしれないが、これが外国となると、社会や文化が違うので自我を保つのは難しくなるかもしれない。

以下、「光と風の四季」を聴いてみなさんも自然に還ってみてはどうだろうか。 

  

昨日、土曜深夜のAbemaTV 『ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT』ゲスト:水道橋博士、宮台真司を観たが、水道橋博士が意図したとおり、あらゆる概念や事例を駆使して表現する社会学者の宮台氏と、生活世界という現実から本質を掴んできた芸人の村上氏の絡みは、空談に終わらず本質を探ろうとしていてよかった。正直、宮台の使う概念が多少難しく、ところどころつっかえてしまってもう少し深められた感はあるが、人間や社会の本質がテーマだったので有意義な内容で最後まで観てしまった。

一つだけ、感想を書こう。宮台氏自身の結婚に関する話が、パートナーをどう選ぶべきかについて大変参考になるので、それについて。

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僕は今年で30歳なのでそろそろ結婚も考える時期である。といっても、特に必要もないので真剣に考えておらず、ただ周りが結婚して子供もって精神的に安定しだしたのを見て少し検討していた。(語弊があるので説明すると、付き合っている彼女は大事でも、「結婚」という縛りの上でその関係を続かせること、には疑問がある)

結婚とはそもそも「無理のある制度」である。情報が溢れ多様な人間とコミュニケーションできる現代において、特定の一人のパートナーと一生パートナー関係を続けるのは無理がある。確実に他の異性と浮気したりセックスしたいと思うだろうし実行するだろう。普通は。欲望は他者の欲望であるとラカンが言ったり、ボードリヤールの消費社会でも言われている通り、現代社会において欲望とは限りのないものである。

とはいっても、結婚しているといいこともある。多少理想的だが、愛しあっている(少なくとも形だけでも)パートナーがいるということは自我や心の安定になる。さらに、もっと現実的に「社会という荒野」を生きる上での戦略的なパートナーとなる。病気になれば助けてくれるし、経済的にも何かをシェアしたり共働きできる。

最近はシェアハウスとか、緩いネットワークとかでこういったセーフティネットを代用するような考えもあるようだが、それは一人の絶対の結婚相手としてのパートナーには遥かに及ばないだろう。

上記のような「現代社会の欲望の在り方」と、「結婚のメリット」は何も矛盾することではない。

宮台氏の妻は、宮台氏との結婚を決めた理由が、浮気するかしないかという0か1かの判断ではなく、「家庭を守り自分を大事にしてくれそうだから」というものだったそうだ。これは宮台氏の彼女への評価が一気に高まるほどの本質を突いている世界観である。(宮台氏の自己評価が高すぎるのは措いておいて)

要するに、「結婚のメリットを十分理解してそこにコミットしてくれるパートナー」であると認識したのだ。その背後には現代社会における人間の本質「限りない欲望」があることも承知している。でも、その上で、幸せにいきるためには結婚相手と家庭を最優先することが深く了解されている、ということだ。

結婚するにはどういうパートナーがいいか?

その答えは結婚する2人が共に、社会や人間の本質を理解した上で、一人のパートナーにコミットすることが幸せに生きるための方法だと深く了解している、ということだろう。

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アメリカは普通の先進国になるのかしら?」と、4年前にちきりんが自身の社会派ブログに綴っていた。

世界の流れとして先進国はどこもお先真っ暗状態。なのでどこも自然と「大きな政府」志向となり、これがうまくいかないと巨額の財政赤字となりギリシャのようになってしまう。この流れに抗うことができるのは、特殊なシンガポールなどを除き、生まれた時から「市場原理と自己責任DNA」を持っているアメリカだけだ、という。

このアメリカが大きな政府を志向するオバマで8年間やってきた。リーマンショックでは巨大な金融機関を潰さず、さらにその後格差反対デモも起きている。アメリカは他の先進国と同じ方向に歩み始めているかに見えた。この8年間でアメリカの「誰でも平等に頑張ったものがその分だけ報われる」という最も大切な価値観が失われつつあったのだ。

過去に遡ると、民主党と共和党が基本交互に政権交代するのがアメリカであった。
 
オバマ(民主党)
ブッシュ(共和党)
クリントン(民主党)
プッシュパパ(共和党)
レーガン(共和党)
カーター(民主党)

そういう意味で今回の大統領選挙は、「アメリカがアメリカであり続けるか」が問われていたのだ。(というのがちきりんのブログの趣旨)

さて、
結果的に、
この価値観を守るため、誰もが「認めない」あの男が選ばれた。

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2016年の大統領選挙での注目は、アメリカが「トランプ(共和党)」を選んだことで「やっぱりアメリカ」だった、という点である。

グローバルエリートの代名詞、田村耕太郎氏が「ある白人スーパーエリートの中の隠れトランプの言い訳」と題してfacebookで彼の友人の意見を「興味深い一つの意見」としてシェアしていた。

会ったことはないが、ヤツは最低の男だ。でも今回は個人の人間性は関係なかった。注目すべきは、大統領だけでなく議会も知事も全て共和党が獲ったということだ。大統領選挙ばかり注目されていたが、実は、アメリカの価値観が揺り戻る側面もあったのだ。
 
オバマ氏の8年間でアメリカは、アメリカの最も大切な価値観である、『誰でも平等に、頑張ったものが、頑張った分だけ報われる』という価値観を失いつつあった。
小さな政府、最低限の規制、差別も逆差別もダメ、思ったことは言える言論の自由。このためにあの、ヘドが出そうな男に入れたのだ。
 
民主党政権下で、ポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションが行き過ぎていたのだ。白人として恵まれた学歴や仕事にありついていることがまるで罪のように思われる時もあった。本当に窮屈な世の中だと思う。アメリカは、ヨーロッパのようになりそうだった。後8年民主党政権が続けば、アメリカはヨーロッパのようになり、活力を失っていただろう。いや、頑張らない人を助けるために頑張った人を責めて、30年前の中国のようになったかも。
 
私たちは差別主義者ではない。ピュアに実力や努力の成果をもっとフェアに判断すべきで、そこに人種や性的志向によるジャジメントを入れるべきではないと言っているだけだ。
富裕層に有利な税制で、隠れトランプだったわけじゃない。私のように、アメリカのあるべき価値観のために動いた『勝ち組隠れトランプ』はたくさんいたよ。
 「隠れ勝ち組トランプ」がアメリカのアメリカたる価値観を支えている。今回の大統領選挙で、世界的なトレンドに抗うこの「誰でも頑張ったものが頑張った分だけ報われる」というエートスがアメリカ国民に深く根付いていることが証された。トランプは大統領選を終え、オバマケアの撤廃を撤回など既に、大きな流れに完全には抗えないことを露呈しているが、今後もアメリカからのイノベーションに期待せずにはいられない。

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