記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2016年12月

「マル激放送800回記念トークライブ」から「言語の暴走」についてまとめたい。ここではある意味「言語の本質」について述べられている。最後にyoutubeがあるので40分過ぎあたりのところからこの話をしているので要チェック。

人類が言語を獲得したのが、4万年前。定住が1万年前、文字言語は3000年。初期の言語は歌に近かった。悲しい歌を聴けば悲しくなるし、楽しい歌を聴けば楽しくなる。そういう文脈に密接した言語がもともとの在り方。

しかし、われわれが今使っている概念言語は、文脈を捨象している。 ストリーミングだった歌をぶつ切りにした。悲しいという文字を見ても悲しくないし、楽しいという文字を見ても楽しくない。概念言語は目の前のありありとした「いま、ここ」を切り捨て、暴走する。そして文明は滅びる。だから、宇宙に無数に存在する生命体は出会うことはない。遠くにいすぎるのではなく、文明が短かすぎるのだ。

もっと昔の社会ではこの危険性を理解していた。概念言語が暴走してしまわないよう、コンテクストの中で言語を使う。ありありとした「いま、ここ」を保とうと努力するのだ。踊りとか祭りとかと表裏一体の形で言葉を使えば、他人を思いやり共同体のために生きることを身にしみて理解できる。概念言語だけの理解では行動に結びつかない。

言語は文脈を削除する。文脈から自由な言語は暴走する。大規模な定住社会の文明は言語によって支えられている。税金取られるのも社会貢献するのも、社会契約論なり何かしらの論理によって行われる。知らない人を仲間だと思うのは無理。有事のときは言語で理解した関係など役に立たない。

この図式はラカン的だ。ラカンの概念系をルーマンを用いて確認する。我々には<世界>(現実界)は直接与えられない。与えられるのは<世界体験>(想像界)に過ぎない。但し言語(うたと区別された概念言語)を獲得して以降、我々の<世界体験>は言語プログラム(象徴界)に媒介されている。 

宮台曰く、
「社会は概念言語だけでできていない。その外側に音楽や歌もある。概念言語は部分を問題にできるだけ。でも、音楽では世界のムードやモードがすべて一瞬に変わるということが起こる。概念言語ではないものに開かれた態度で生きることと、超越への感受性には親和性がある。言語外の部分でつながって言語を使う、という経験に乏しいやつらが、言語だけで物事が解決できると思い込んで社会を生き始める。そうすると性的な忌避が起こるし、退却が起こるのも当然」。

言語化されるまえのありありとした世界がわわれの生きる<世界>である。誰もがもう一度、言語の本質を見直すべきではないだろうか。

 

哲学などなくても生きていけるのは間違いない。でも、哲学が役に立つこともある。

戸田山 和久
哲学入門』より、抜粋。 
唯物論的世界観を背景にした一枚の絵の中に存在もどきを収める、これをやるのは誰だ、という話だ。簡単に創造がつくようにこれは哲学者の専売特許ではない。なぜなら、この作業には進化の歴史についての仮説が含まれるからだ。本当に、ここに書いたようなシナリオに沿って、表象、自由、道徳などなどが進化したのか。これを最終的に決着をつけるのは科学だ。しかし、いまの段階では、直接にこのシナリオを検証・反証するだけの科学的知見はまだ十分ではない。

また、すでに進化学、動物行動学、霊長類学などが、表象、自由、道徳の進化に関係する知見を積み重ねてくれるのは確かだが、これらの知見を組み合わせて、統合された一枚の絵にしていくためには、全体の大まかなスケッチが必要だ。哲学者はそのスケッチを描く仕事をする。それ自体は、実証的裏付けの欠けた思弁にすぎないかもしれない。しかし、そのラフスケッチに細部を描き込み、経験的検証に耐える世界像に仕上げていく科学者の仕事はそれなしにはできない。太陽系の起源についての科学的モデルも、ラプラスやカントの思弁からスタートしたことを忘れてもらっては困る。これは逆に本書に描いたようなシナリオが科学的知見によって反証されるかもしれないということを認めることでもある、(33)
 
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
筑摩書房
2014-03-05

 
さらに、黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』でも哲学の意義を述べている。
 人間ははたしてデジタルコンピュータのようにある定められた規則に従って記号を処理している機械であるのかどうか。
このような問題は心理学や大脳生理学などさまざまな自然科学の成果を待って決定される問題だと思われるかもしれない。確かにそれは心理のいち面ではある。だが、人間の知識とはどのように成立しているのかということを知ろうとして、自然科学的な実験を人間について始める時、実験をそもそも始める視点というものをどこから科学者たちは得てくるのだろうか。例えば、天文学のディコブラーエを、生理学のヴェサリウスを思い浮かべるまでもなく、精密な観察があらたな理論を生むわけではない。脳みそをじっと見つめていればおのずと人間の知能についての理論が湧いてくる、といった素朴な意見の持ち主は今日ではおそらくごく少数であろう。つまり、ある種の人間理解が先行していなければそもそも人工知能についての実験も不可能である。だとすれば、人間の知識とはなにか、認識とは何かという問題を主題としてきた哲学、特に近世の西洋哲学の歴史はそのままでAI研究にとって不可欠なさまざまな観点を提供してくれる宝庫ともいうべきものである。(21) 
 科学的な実験しかり、普段の何気ない行動しかり、ある世界観や人間観を前提にしている。哲学はこれらを見直したり、変更したりできる。
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最近僕は読書を中心にして自身の感受性を編み変えている。

難しい古典などを含め色々呼んでいるが、結局今はシンプルな世界観に確信を持っている。

え、そんなこと誰でもわかってるよ、と言われそうだが、いろいろ巡り巡って来たからおそらく普通の人より根をしっかりとおろしているので視界良好。

われわれの各個人の生を、ここでは現存在といいたい。いろいろ理由はあるが、「現存在」という語は「意識」とか「自我」とかよりも中立的にクリーンに「いま、ここ」の持続である個人の実存を表せるから。

まず、最重要事項。

現存在の本質は被投性である。

われわれはこの現に存在している状態にわけも分からなく投げ込まれているのだ。「なぜ何も無いのではないのか」「なぜ私は私なのか」「このありありした彩りある世界はなんなのか」というような類の問いの大元である。この現存在という生は、既に気づいたら始まっていたのだ。

そして現存在の存在には三つの契機がある。これは仮説の域を出ることはないが、自身の経験に照らし合わせれば確信を深めていけるはず。

1,同一化能力
外から内からの刺激をパターン化(同一化)し、一般化した対象するのだ。モジャモジャしたちいさなものを何度か見たらそれを「犬」として一般化する。さらにそうしたものを高度に構造化すること。次第に、自分自身も対象化し、世界内存在となる。詳しくは前の記事を見てほしい。

現象学的にいえば、事実には本質が必ず含まれていることから分かる。 

2,記憶
こうした同一化したものを記憶すること。記憶しているから新しく世界というカオスに接したときは既にもっている概念で世界を認識する。世界内存在となった現存在はあらゆるものを世界内存在の中に位置づけて理解する。

そして、あらゆる経験した意味は記憶に残る。仏教の阿頼耶識と同じ。だからどんな些細なできごとも自我の形成に繋がるので、もし誠実な人間という理想を持つなら、些細な不正が自我を崩す。 

3,身体性
われわれは生命なので、自己保存や種の保存に突き動かされている。本当にそうなのか分からないが、現存在は常に何かを気遣っていることは内省すれば分かる。これを生のベクトルといおう。1の一般化能力もこの生のベクトルのために行われている。

この世界観をもとにすると、どう生きるべきかははっきりするのだ。2つの方向性がある。

1,自我の安定
われわれは世界内存在として存在している。宇宙、地球という客観的な世界に主観を持った人間が存在し、私はその中の一人としてこの質感ありありとした生を持っていると。だから、この一般性が意義、意味を持ち得る。「パソコン」というのも、そういった世界内存在の自我という土台がないと現存在と紐付きがなくなり了解されないだろう。 

われわれは本能として「ふぐの毒」を避けることはできない。言語(一般性)の世界=世界内存在の現存在として「食べられないもの」としてでないと「生きていけない」のである。だから、自我が必要。すべての刺激は世界内存在の自我のストーリーの中で位置づけられる。

自我は自分だけで勝手に決めることはできない。他者にも認められた部分だけがリアリティを持つ。だから安定させるためには頑張って自分の理想の自我を他人に認めてもらうか、満足いかない自我に向き合うしかない。

2,固定化した世界観の流動化
世界内存在の自我はあくまでも経験の蓄積によって作られたものであり実体ではなくネガティブなもの。もし何かに悩んでいたり囚われていたら、現存在の構造を思い出し実際に行動することでこの凝り固まった幻想を解放してやればいい。

ということで、基本的な生き方はこうだ。自我のストーリーをブラッシュアップしてよくしていく。自分の歴史を押さえつつそれでいてかっこいいものにしていけばいい。ときには現実に目を向けて自我と世界のバランスを取る。そして何かに行き詰まったら幻想性を自覚する。基本的にはこれの繰り返しになるだろう。

これは何も無味乾燥な世界観ではない。あまりにもわくわくできる現存在のゲームである。

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人間の本質は、「同一化」である。

一つのまとまりである生物としての人間が対峙するのは、連続体としてのカオスである。 全てが異なる。そこに同じものなどない。
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混沌としているのだ。

しかし、人間は、こうしたばらばらでぐちゃぐちゃのカオスからあるパターンを見出し、それを一つの対象として同一化する。例えば上の画像でいうと右の方のぐちゃぐちゃと左の方のぐちゃぐちゃが、あるぐちゃぐちゃのパターンとして似ているので「A」と呼んで同一として扱おう、というのが「同一化」である。もっと右にいくと他の「A」に出会い、人間は「A」だと認識できるようになる。もちろん、その「A」も私が「同一化」した上で「A」なのであり、カオスのぐちゃぐちゃでいえば、違う部分のぐちゃぐちゃである。

こうして、「A」のようなものを経験により増やしていく。2つ3つと増やし、今では何千何万という語を持つに至っている。

■生のベクトル
なぜ増えるのか?なぜ同一ととらえる対象を増やすのか?

人間は、何かしらの方向へ衝動を持っているからだ。自己保存や種の保存といわれているものを包括するがそれに限定されないようなベクトルがある。われわれは経験上何かに惹かれるのを知っている。美味しそうな食べ物、強く美しい異性など。同一化された対象は、このベクトルに合わせて色を帯びる。「車」「コップ」「汚物」「家」など中立的な一般的な語も何かしらこのベクトルに沿って了解されているのだ。

もう一回、同一化について詳しくみてみよう。

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ここに金太郎飴が沢山ある。どれも「同じ」だと一般的には考えられる。でも、細かく見れば違いはある。顔の形や丸の形、飴の厚さ、表面の切れ方などなど無数に違うところはある。そして仮に百万分の1センチレベルで同じ構造をした二つの金太郎飴があったとしても、それは存在している場所が違うから、「同じ」ではない。でも、一般的にはこの写真の中の飴は全部「同じ」とされる。1年前にあった君と昨日あった君を「同じ」とするのも同じ「同一化」の話だ。

■「同一化」の「適度な基準」
人間は、それを「適度な基準」で「同一化」する。
「同一化能力」これが人間の本質。それは、人工知能の語でいえば「パターン認識能力」、哲学的に言えば一般化とでもいうのだろうか。それは決して最大公約数的なものではなく、家族的類似性と言われるものであり、状況に依ってその規準も変わる。

興味深いのはこの適度な規準だろう。われわれは山田くんと手塚くんを区別するが、豚は人間はどれも同じだろうし、宇宙人からうれば豚も人間も全部同じかもしれない。人間は人間独自の細部を気にかけた規準で同一性を認める。

■認識における「同一性」
人のあらゆる認識は既に「同一化」された対象群が関与している。

いま、あなたが経験している「いま、ここ」という質感。私は今、パソコンをタイピングしているが、そのパソコンも「パソコン」として、「画面」「キーボード」という一般性を基に了解している。 これを「私の」「固有の」「MacBook」だという認識も、もちろん一般性を帯びている。

■世界内存在
こうした一般性の語の背景には、「世界内存在」としての「自我」が前提となっている。宇宙、地球という客観的な世界に主観を持った人間が存在し、私はその中の一人としてこの質感ありありとした生を持っていると。だから、この一般性が意義、意味を持ち得る。「パソコン」というのも、そういった世界内存在の自我という土台がないと現存在と紐付きがなくなり了解されないだろう。 


■発生
赤ん坊は母親から生まれ、楽園から離脱する。しかし、まだまだ弱い楽園は続く。全て母親が面倒を見てくれる。さもなければ人間の赤ん坊は死んでしまう。欲求はすぐに満たされる。しかし、徐々に母親も全ての欲求を満たしてくれなくなる。そこで母親がまず生のベクトルにとって最重要な対象として捉えられる。そのときに五官の作用などで家族的類似性として母親を同一化するゲシュタルトを得る。その後、食べ物や服、父親、人など生のベクトルの重要度の高いものを次々に一般化していきゲシュタルトを蓄積し、世界を分節していく。

以下のマッハの絵を見てみよう。

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赤ん坊だったら、この視点で見ても対象化できるのはぼんやりとした「世界がある」というようなことだろう。われわれであれば「窓」「髭」「左手」「ズボン」「椅子」「床」…などなど無数に一般性を見出すことができるし、ぼーっとしていても無意識的にそれらを了解していていつでも注意を向ければ「窓」「髭」など「として」解釈することができる。

■経験
同一化したパターンをどれだけもっているかはどれだけ経験したかによる。狭い範囲で同じようなカオスにしか出会ってなければ蓄積パターンは少なくなる。ただ、多くの一般性を持っていればいいというものでもない。多すぎれば、一つの状況が過剰な意味をもたらし疲れ果ててしまうだろう。

動物は同一化することはなく、すべて新たなフレッシュな対象として外部から刺激を受けている。
 
ということで、人間の最も重要な本質である「同一化能力」 について述べた。 

iPhone6の電池が持たなくなったので、池袋の「iPhone修理工房」で直してきた。税込み価格5594円、時間は30分程度。ここ半年くらいは常にボータブル充電器を携帯し、一日一回は必ず使っていたので、これがなくなり大分楽になった。といってもそこまで重要なことをスマホでやっているわけではないのだが。。。

昨年の3月からのスマホのバッテリーの減り具合を時系列で見ると、
  • 2015年3月2日に中国(上海)でシムフリー版のiPhone6を購入
  • 2016年3月10日に12%の残量から一気に電源が落ちる症状が出る
  • それ以後、次第に一気に落ちるときの残量が12%より多くなる
  • 2016年12月には80−90%の残量から一気に電源が落ちる。数回メールやフェイスブックを見たりすると1時間〜2時間で電源がなくなる
  • 2016年12月9日 、購入から1年9ヶ月経ち、電池を交換
1年経った時点で既に不便は出ていたので、6000円弱だったらそのときにやっておけばよかった。
 
本当かどうか裏をとってないが、ポータブルのバッテリーチャージャーを使うとアンペアが違うらしくiPhoneの基盤を損傷するとか店員が言ってたのでできるだけ正規品の充電器だけで充電するようにしよう。

ちなみに、店の店員から客まで全てがマイルドヤンキーであった。
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「君の名は」が大ヒットしている。

興行収入は200億円を超え日本では歴代二位となり、さらに中国ではそれをも上回る勢いである。

ちょっと遅いが今回、この作品について個人的にどこに感動したのかを述べたい。それはイコール、なぜ大ヒットしたのかを説明することにもなるだろう。

三つ挙げる。

まず、第一に最も重要でシンプルなもの。人の名前って重要であること。鈴木敏夫はとなりのトトロのヒット要因を「ふわふわして気持ちよさそうだから」と言っていたが、「君の名は」の超大ヒットの理由もシンプルで「人って名前覚えてもらったり呼んでもらうと嬉しい」からじゃないだろうか。君の名を思い出そうとしたり呼ぼうとするシーンが強く心に残っている。

二つ目、忘れないようにもがいている姿への共感だ。僕らは今、あまりにも過剰な情報社会にいる。仕事で忙しいところに、インターネット上にはいろんな生き方の選択肢が溢れ、SNSでは他者の情報が次々と入ってくる。一回きりの出会いなど重要で感動したことも忘れてしまいがちなのだ。主人公の瀧と三葉は平凡な高校生活で、非日常的な経験をしたことをどうにか保持しようとするが、過去を変えてしまったがゆえに記憶はどんどん消えていく。最後に残る名前に必死に固執する姿は感動的であるとともに、自分の感動を自我に据えておきたい人間の本質を描いている。

最後は、強い絆への憧れだろう。瀧と三葉は入れ替わったことにより、互いに愛情を抱く。普通、相手になってみてその人の生活を体験することなどできない。でもそうすることができたなら、どんなに長く接している彼氏彼女よりも、その人のことが分かるだろう。その人の苦労や生きがいなどが見えてくる。異性のパートナーが自分をそこまで分かってくれたり、逆に自分が異性のパートナーをそこまで深く理解できていれば、もうその二人の心は結ばれたも同然。昨今の、ポストモダン、情報の超過剰性によりこういう濃い関係はほとんどなくなっている。そうしたものへのあこがれがあるのではないか。

ちなみに、男子目線からプラスアルファ。三葉に制服の着こなしや純なところに萌える。そしてそれに入れ替われることのエロス。これも実は相当興行収入に寄与しているのではないか。

いずれにせよ、ジブリ作品と同じくよくわからないけどよかった、というのが実は本音。

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文脈に埋め込まれていない対象はない。ようは世界はカオスであり、混沌としていて、同じ部分などないただの星雲なのである。右を向いたらりんごがあって、ひだりを向いてもそこにりんごがあるというのは、「りんご」ということでカオスを一般化した記号で切り取ったから。本当は違う左右の対象を、「えいや」で「りんご」という一般性を持ったものとして同一視している。

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仮に今、目をつぶって「りんご」をイメージしてみると、それはニュートラルなイデア的な「りんご」だと思うだろうが、そうではない。ちゃんと真っ白な背景のど真ん中にある「りんご」という文脈の中にある。

われわれは言葉にできないがとにかく経験により「りんご」が持つべき特徴は知っている。でも経験は人によって違うから、持つべきとされる特徴も人それぞれ。

われわれは世界に対峙しているとき、常に一般性のフィルターを沢山使いながら世界内存在している。

動物は、外部からの刺激にそのまま反応する。

人間は、外部からの刺激に一般性を通じて反応する。言いかえれば、言語的な意味が「いま、ここ」に含まれてくる。

われわれはたしかに、カオスから何かしらの本質的な特徴をもったものを刺激として受け取る。それは人間であればその刺激の本質に規定され了解される範囲はある一定範囲に収まるだろう。しかし逆にいえば、その人の経験の蓄積や身体性によって了解の内容は各人異なる。種の違う動物であれば根本的に違った了解になるだろう。しかし、重要なのはカオスの刺激はある「本質」を持っているという点だ。

ポストモダンな空気では、「本質」という言葉は忌み嫌われる。絶対的な根拠などない、というのが絶対的になっている。でも、よく懐疑論者への批判として言われるように「走ってくるトラックに突っ込んでいく懐疑論者はいない」のである。われわれは何かしらにリアリティ、確信を持って常に生きている。その根拠は、カオスというものがたしかに実在しているからだろう。もちろん、実存的にみればそれは措定されたものに過ぎないが、人間や動物を地球で生きる認識装置としてみれば、そのように想定せざるをえない。

何かしらの実体的な世界があることは認めざる負えない。でもそれは常に変わりゆくカオス。そして、それは観測者と表裏一体。

世界内存在として生を経験しているから、家に帰ったり、仕事場に行き仕事してお金を稼いで物を買い、衣食住できるのだ。

そもそも同一性がなければ、過去も未来もないだろう。今接している対象を過去や未来のものと比べるには何かしらの一般的な要素の手がかりが必要だからである。

文章を読むことだってそうだ。大前提には、世界の中で地球上の日本のとある図書館で本を読んでいるという前提がそこにはある。世界内存在している前提だ。

例えば、道を歩いていて歩道に植えてある木の葉の「緑」。これを見て何が僕の意識内に生じるか。列挙してみる。

なんとなく安らぐ、自然、葉、エクセル、ピッコロ大魔王、森林、深緑などなどが思いつくが、実際にその「緑」を見たときにはそれらを想起する潜在的な可能性が集約されたなんとなくぼんやりしたイメージがあるだけであろう。 ちなみに、今列挙したものは、「緑」というクオリアからではなく、むしろ言語としての「緑」から発想したものといえる。ここでいいたいことは、「緑」というクオリアだけを純粋に知覚していない、ということ。その他の可能性やら意味連関が付随している。

さらに、考えてみよう。純粋な知覚などそもそもないのでは?

そもそも純粋な「緑」のモデル(見本)みたいなものはどこにあるのか?仮にドラゴンボールでいう精神と時の部屋みたいな真っ白な空間の中で、その「白」が一気に「緑」に変わった場合は、純粋な「緑」を知覚していることになるか?いや、そこには既にさまざまな意味を含んでしまっている。なぜなら、精神と時の部屋にいるわけだから、そこの全体の背景の色、としての意味など、或いはその時無性に腹が減っていればその影響もあるだろう。

では、今私は机の前に座ってパソコンでこれを書いているが、ここで目をつむって「緑」を想像したらどうか。この場合はも、そういう特殊な状況で思いを巡らしている「緑」なのだ。

結局、われわれは毛むくじゃらのカオスの世界を順々に新しい体験として突き進む、無意識な生ではなく、それらの中から小さなパターンから大きなパターンまでを見いだし世界の中の自分としてカオスを秩序付け生きている。 

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