記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年01月

僕は、ベンチャー志向だから商品やサービスを創造するならもちろん「価値あるもの」を、と思っていた。では「価値ある」とは何か。それは各個人が生きている一人一宇宙の主観的世界、これを実存というが、実存をよいものにする、ということ。一般的な「幸せ」と同じだと考えてもらえばいい。

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では、どうすればいいか。まず、そもそも「幸せになりたい」とかそういう現実に不満がなかったり、それどころではなく(いい意味でも悪い意味でも)何かに熱中しているならそれはそれでいい。そうではなく現実に不満があるなら「どう生きるべきか」の指針がほしいであろう。ちなみに、お金がないとかそういう現実的に解決方法が明確な場合は、それに向けて頑張ればいい。

人間は実存の軸は、自我の安定である。動物は刺激に対して一義的な反応が決まっており、本能的に生きているといえる。しかし、われわれは「シンボル化能力」=所謂ソシュールでいうランガージュという言語能力をもっている。何かをゲシュタルト化し一般化する。対象化ともいえる。こうした対象化が連合したり、さらに対象化され、さらに対象する側も対象化されると「世界内存在」という世界の中でいきる自我というような生の在り方となる。

木田元はこのようなシンボル機能と呼んでおり、そこからシンボル機能からシンボル体系という<世界>が構成されることを説明している。
メルロ=ポンティはこういう。シンボルとは、さまざまな関係相互の関係として成り立つ高次の関係、さまざまな構造をさらに構造化する高次の構造、つまり「関係の関係」「構造の構造」あるいは「自乗された構造」のことであり、それを構成する働きが「シンボル機能」である。

人間はこれにより、現に与えられている「限られた環境に対してではなく、可能的なもの、間接的なものに対しても向きを定め」、「現実的環境の向こうに各自が多くの局面から見ることのできる一つの<物の世界>を認めること」、つまりは生物学的<環境世界>に閉じ込められることなく<世界>へ開かれてあることができるのである。してみれば、<世界>とは、このようにして構成される高次のシンボル体系だということになろう。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きる生き方<世界内存在>だということになる。 
われわれが体験する<世界>とは全て言語的なものを土台にしている。そのために一貫した物語が必要となる。そうしてどうにかしてありもしないシンボル体系に流れ(物語)を使って現実に適応しようとしている。だから、基本的に人間は物語を軸に生きている。そのためこの物語がなくなれば、現実を生きるすべを失う。自我を安定させてこの「世界内存在」というあり方を保つことが人間には必要なのである。安定したから幸せというような話ではない。ただ単に人間はそういうあり方をしているので、そうするしかないのだ。

物語とはどのようなものか?自分の経験から地球という外に宇宙の拡がった客観的世界に主観を持った人間たちが生きていて自分はその一人である、と。そこで、例えば僕なら「日本人」「北区育ち」「インターネット業界」「ベンチャーで創造性ある人間」「三ヶ国語しゃべれる」などなど自分で勝手におれはこういう人間だと前提している。
 

そしてそうした前提に基づいて日々生きている。例えば会社にいったり、人と話すときも、あるいはご飯を食べるときも全部この物語(世界観)に位置づけて理解している。会社に毎日通勤するのは「自分はそこで働いている」という物語からおこる行動であり、動物のように本能で一義的に動いているわけではない。ソシュール研究者の丸山圭三郎が言うように、われわれは本能としてフグを食べていいかだめか分からない。言語的に「食べられる」「食べられない」を言分けて生きている。これは物語で生きているというのと同じこと。

さて、「幸せ」とは何か?結局、これもこの物語の中の一つの概念でしかない。一番重要な考えるべきことは、「物語を安定させる」ことなのである。この物語を通じてわれわれは現実に適合している。いいかえれば「自我を安定」させること。

さて、少し視点を変えてみる。

数年前に発表されたハーバード大の75年にわたる研究で分かったことは、「幸せ」ともっとも相関の高い条件は「周囲の人たちのよい人間関係を築く」ということだった。(上記で「幸せ」はただの物語の概念にすぎないと書いたが、実存にとってよいものと読み替えてほしい。最終目的は「幸せ」ではない。ただ、内在的視点に戻って確かめているだけ)これは自我を安定させるという視点で説明できる。自我は「他者」に認められることで安定する。そもそも、こうした世界内存在という在り方自体が「他者」から植え付けられたことである。

実際の直接経験として人と接することが実存に与える影響は大きい。他者が認めたあなたが、あなたの物語となる。自分でいくら勝手に物語を作り上げ自分をそこに位置づけても、他者が認めないと自分もそれに確信を持つことはできない。言語だけの空想では人はその物語を生きていることを信じることはできない。

さて、実存の構造がわかったいま、それをいいものにしたいなら自我を安定させることが重要だとわかった。つまり、自分を位置づけたい物語に確信を持てるよう他者に認めてもらうことだ。逆にいえば、他者が認めているあなたの物語を、あなたが認めるのでもいい。極悪非道な物語でもいいのだ。ベジータがそうじゃないか。だから、バビディに故意に引っかかり一貫した悪党になった。それまでは地球に適合するという違う物語を持とうとしてしまい、自我が安定していなかったのだ。

あなたがもし、暗い人間で、楽しむことをしらない、人の幸せを妬むクソみたいな人間、であることを本当に認めるなら、それでもいちおう自我は安定する。他者があなたの物語を認めるとは、他者の中にあなたはそういう物語をもった人間だと確信をもたせること。だからそれは、悪い人間「として」の物語もありうるし、むしろ人にそう思ってもらうことほど楽なことはない。ただ勝手気ままにそして無愛想に振る舞っていればいいのだから。世の中にこういう人が多いのは、これでしっかりと自我が安定するからだ。

しかし、結局は親に育てられた人間は、少しは「いい人間である」という物語を持ちたいと思っている。というか、最初の物語は基本的に親から与えられるわけであるからほぼほぼそうなる。完全な極悪非道では、理想の自我とのギャップが生まれてしまうわけだ。

このあたりは私の自我論の大部分を負うフロイト研究者の岸田秀(1933−)が詳しく説明している。(『幻想の未来』)ちなみにどの人間にも同じような土台としての自我がある。人間は、ほぼ必ずといっていいほど親に育てられる。母親にご飯を食べさせてもらい、抱っこしてもらい、やさしくされる。そうすると、生まれてからは全知全能という自我を持つ。それが父親や他者の介入で崩される。そこまでは誰もが経験すること。それゆえ人は、全知全能に戻るべく母親に自己を預け依存しようとする。これが自己放棄的、依存的自我である。

そしてそう願っても現実には母親は全知全能を与えてくれるわけではなく挫折し、その屈辱や怒りをバネに依存をやめ、全知全能を自ら取り戻し実現しようとする。ここで自己拡大衝動が確立する。それから後は、「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」との正反対の二つの基本的衝動の間に引き裂かれることになる。この二つの衝動は本能ではない。動物には存在しない。いずれも未熟な状態で生まれ、長い間他者の世話にならなければならにという人間特有の条件から生じる人間特有の衝動である。

さらに、岸田秀を引用してみよう。今書いたようなモデルの具体例。『唯幻論大全』の105−106ページ。
 
わたしは、要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。強迫観念は、脳のどこかが破損したとか、神経系のどこかが狂ったとかの症状ではなく、原理としては、その構造というか、原因は実に簡単なのである。
 
原理としては実に簡単であるが、実際問題としては、偽りとは言え、それまでの自我の安定を捨てることはきわめて難しい。十代の中頃、神経症に囚われ、精神分析を知って、いろいろ考え始めてから、どうも神経症の根底に母との関係の問題があるらしいことは理論的にはまもなくわかった。それまでわたしを献身的に愛してくれていると思っていた母の愛情が疑わしいことに気づくのはそれほど難しいことではなかった。

しかし母は事実上、母ではなくわたしのことなど何も考えていない無慈悲な赤の他人で、わたしを虐待し続けていたのだという事実をはっきりと認めるには大変な抵抗があった。そう認めると、わたしの自我の安定、存在価値の根拠が失われ、わたしの過去は全否定され、わたしは強烈な不安と恐怖に突き落とされる。

それに絶えられず、不安と恐怖から逃れようとして、偽りの自我の安定にまたしがみつく。母はそんなに悪い人ではなかった、愛情深いところもあった、ああもしてくれた、こうもしてくらたと考える。すると、また強迫観念をはじめ、人格障害、対人関係障害など一種の神経症的症状がぶり返してくる。この葛藤というか、往復運動を何回となく繰り返した。
 
要するに、神経症が治るか治らないかの問題は、原理としては実に簡単明瞭である。一服飲めばピタリと治る薬があるわけではなく、どこかに救いの神がいて助けてくれるわけでもない。誰でも幼いときから親子関係のなかで築いてきた自分の物語に支えられて自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ、何ら問題は起こらない。

この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧するとき、神経症的症状が発生する。したがって、神経症を直すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することを止めて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただ、それだけなのである。しかし、そのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするかしないかの問題である。そのあとは、新しい真実の自分の物語を構築してゆけばいいのである。それも容易ではないが…。
唯幻論大全
岸田秀
飛鳥新社
2013-01-25


なかなか分かりにくい。岸田の本を読んでいるとたまに一貫性がないことがある。この例も彼の理論がどうやってあてはまるのか。

まず、岸田の母親は岸田に愛情を注いでおらず利己的に育てたようだ。それが最初にあり、岸田も幼少期なりにそのような自我を持った。要は、母親に愛さていないという物語。しかし、成長するにつれ「母親とは子供を愛情を持って育てるものだ」というような常識を知り、母親と接したり他者と接する中でそちらのほうが現実に適応し、もともとの自己的な母親の物語は抑圧された。社会の常識は重要だ。なぜなら、物語は他者に認められなければならないので、社会的な傾向に沿ったものでないと認められにくいからだ。逆に常識はずれな岸田のような自我は社会に合わせるために自分の自我を抑圧しなくてはいけなくなる。

その後ずっと大人になっても「どの母親も子供を愛している。自分の母親もそうだ」という物語を持って生きていたが、その下の自我の核心には「利己的な母親」の物語があったのである。これを認めると今まで何十年という安定してきた自我を放棄することになる。(安定しているとはいえ下に抑圧されていたものが時々病を生じさせていたのだが)もしそうするのであれば、それに伴いあらゆる今の物語も書き換える必要がある。世間的には「母親は子を愛するものだ」と言ってきたり、「私は愛情を持って育てられた」という認識を持つものに新たな認識を書き込まなければ解決しない。しかし、そうすることでもう抑圧された欺瞞に突かれることはなくなる。

このように幼少期に作られた自我が、その後大きく異なる自我で覆いかぶされると岸田のように自我の安定に問題が生じることが分かる。ここでの要点は、「個人の特殊な自我」と「社会の常識」の対立である。誰でも特殊な体験を持っているものだが、それを物語に組み入れるには程度の差はあれ社会の常識から外れなければならない。

そして上述の通り根本的に誰もが母親から育てられる経験をしていることから「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」を持ち、その後社会という人間の相互関係に置かれるため、自我は安定しない。そう、基本的に自我は安定しないのだ。でも、それをいちおう分かりながら行動していけば、生は必ずよくなるだろう。まずは自分がどのような物語を生きているかを理解し、さらにそれが社会や周囲の人間に認められているのかを考えてみよう。これがあなたが求める「幸せ」の第一歩なのだ。

自我=物語を知るために、心理学者の榎本博明氏がいろいろ行っている。

以下の本から自己物語を知るための方法を参考にされたい。ありがとうございます。


自己を語ってもらうことにより個人の人生に迫ろうという方法を「自己物語法」と名付け、面接法、記述法、図示法といった3つの方法を考察し、実践の場で用いています。面接法は、幼児期から現在に至る人生の各時期の主なエピソードとそれが本人にとってもつ意味を語ってもら半構造化面接であり、とくに思い出されるエピソードや転機となったエピソードについて時間軸にそうのを原則としつつ自由に語ってもらう。語る代わりに記述してもらうのが記述法。図示法では、人生の各時期に与える評価をもとに人生の起伏、すなわち上昇部分や下降部分、上昇、下降の転換点について記述してもらう。

自己物語法では表のように一連の問いかけに対して思い浮かぶことを自由に語ったり記述してもらう。語られた内容をもとに自己物語の文脈を抽出する際には以下のようなことを心がける。

1,      想起されるエピソードを事実と意味づけ(テーマ)の相互作用の産物として理解する

(ア) 出来事のとそれに対する気持ちや意味付けを区別して整理する

(イ) エピソード群に、何らかの共通点がないかどうか検討する

(ウ) 繰り返し現れるテーマや基調として流れているテーマを読み取る

2,      とくにターニングポイントとなったエピソードの現在における意味付けに注目する

(ア) 出来事、それに対する当時の気持ちの解釈、現在の気持ちや解釈、その後の自分に対する影響などを整理

(イ) 今現在生きられている自己物語の鍵をにぎると思われる文脈を読み取る

自己物語法の手順

1,      今の自分自身について

2,      今の自分にとって大事だと思うエピソード

3,      懐かしく思い出される人、モノ、出来事、場所

4,      最初の記憶

5,      最初の記憶より順を追って想起される主なエピソード

(ア) 幼児期のエピソード

(イ) 移行期

(ウ) 小学校時代のエピソード

(エ) 移行期

(オ) 中学校時代のエピソード

(カ) 移行期

(キ) 高校時代のエピソード

(ク) 移行期

(ケ) 大学時代のエピソード

6,      転機ターニングポイントとなったエピソード

7,      自分の人生史の中でやり直したい、書き換えてしまいたいところ

8,      今の自分自身について

9,      語りの前後での自分自身に関する見方に生じた変化

10,感想

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

宮台真司は社会学の入門書『14歳からの社会学』で<世界>と<社会>について以下のようなことを書いている。



<世界>という概念と<社会>という概念がある。<世界>というのは「ありとあらゆるものの全体」。それに対して<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。今日では<社会>とは人間界のことだ。…部族段階の古い社会に生きる人々や、ハイハイしてなんでも口に入れる赤ん坊にとって、<社会>は人間界に限られない。<世界>がまるごと<社会>だ。あらゆるものとコミュニケーションできる。犬とも、猫とも、木とも、雲とも、お話ができる。
でも、時代が進んでいくについれ、あるいは、赤ん坊が成長していくにつれ、人は、<社会>の外にも<世界>が広がっていることに気づく。<世界>にはコミュニケーションできないものがあるのを知る。コミュニケーションできるのは人間だけだと知る。
<社会>の中では「承認」が問題になる。<世界>の中では「承認」どころかアリンコみたいな存在だ。「承認」を気にしている自分など 、とてもとても小さい。

宮台の理解と若干ことなるが、私なりに解釈したい。

社会とは要は「言語」の世界である。つまり、一般性をもった概念(言語)を通じて世界と接している。言語で分り切れないものは、存在しないに等しい。でも、<世界>という連続体のカオスは想定できる。もちろん、社会的な人間は言語を使うことで、その<世界>が背理的に出てくるのだが。

さて、いきなりだが、メジャーリーグのイチローは凄い。
いやそこまでいかなくてもどんな分野でもその分野で豊富な経験を持ち実績を出している人は凄い。こういう人は、言語的思考をしなくても無意識に何かをできる。もちろん少しは言語的思考が入るだろうが、熟練するほど無意識になる。要は、チクセントミハイのいうフロー体験。

フロー体験とは、要するに<世界>に接している状態なのだ。言語的思考のタガが外れ、<世界>に向き合う。

もちろん、イチローといえども、そのような状態は極限られた時間である。でも、そういう体験を何度もしてるはず。それこそ、生命の本能的な在り方。もちろん、良い悪いの話ではないが、人間は言語を持ち一般性を通じた言分けられる社会としか接しなくなった。でも、原理的にはやっぱり<世界>ありきで、動物や植物はそこに生きている。人間もそっちが原初的自然である。

<世界>を知る人間は、<社会>で幸せな人が多い。なぜなら、言葉の世界を信頼していないから。それを包括するもっとありありしたありのままの<世界>を知っているから。われわれはその存在に確信を得たとき、言語の世界に過剰反応しなくなり、のほほんと気楽に生きていける。言語で理解してもだめだ。無意識に何かができるくらいの熟練が必要。座禅で目指すのもそういう<世界>だ。 
 fs

現象学的な「本質」。それはどんなものか?今日はそれを説明する。

最初に答えだけ簡潔にいうと、

本質とは意味。実存(現存在)にとってどういうものか、直観(受動的なもの)を土台にして明らかにされたもの

ということだ。

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何がなんだか分からないだろう。以下の現象学の考え方を一通り読んでいただければ「分かる」かもしれない。竹田青嗣『現象学入門』から引用している。

それでは見ていこう。

まず、次の文章はフッサールの現象学の核心を述べている。
主観は外に出られないし、また「神」のような保証人を立てて外側からその認識の正しさ、確実性を保証してもらうわけにもいかない。言いかえれば、<主観>は自己の外側にあるものの実在の「確実性」を主−客の「一致」という仕方で得ているのでは全くない。
<主観>」はそれをただ自分の内部からのみなんらかの対象存在の「不可疑性」(=妥当)という仕方でだけ得ている。そして<主観>にそういう不可疑性を与える根本の条件は<知覚>という、<主観>にとって自由にならないものの存在にほかならない、と。ここに現象学による主客の謎解きのもっとも核心部がある。(57)

(1)事実と本質、個的直観と本質直観
現象学を理解する上で、まず「事実」と「本質」という語の定義を理解しよう。

フッサールは、「事実」と「本質」ということをつぎのように区別している。
「或る個的対象は、ただ単に一般に、一つの個的対象、一つのここにあるこのもの!、一つの一回かぎりの対象であるだけではなくて、それは、「それ自身において」これこれの性状においてある対象として、その特性を持ち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させているものである。この本質的な述語要素は、その対象に、(略)帰属しなければならず、そうしてこそ、その対象に、他の二次的で偶然的な諸規定が帰属するようになれるのである。そういうわけで、例えば、どんな音もみな、それ自体として、或る本質をもち、そしてその最上位に、音一般もしくはむしろ聴覚的なもの一般という普遍的な本質をもつのである。」                (『イデーン1』「二節、事実と本質の不可分離性」)
 
■  「事実」とは、それぞれの「個的存在」にかかわり、しあがって「偶然的」なものだ。ところが「本質」とはその個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面である ■  だからどんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される ■  <私>がいま聴いているこの音は、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、この同じこの音は、「音響」とか「音」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。■  要するに現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい。(59)
「本質」としての意味がなければ、個的なものが捉えられない、ともいえる。必ずわれわれの知覚には本質(意味)が媒介している。
 
事実(個物)と本質の区別において大事な点を3つ引用。
1.       個的直観→本質直観どんな経験的もしくは個的直観も本質直観(理念を観て取る働き)へと転化させられる。つまりどんな事実も「言葉の意味」へ置き直せるということ。またこの意味への置き換えは必ずしも十全なものとは限らない。言葉によって言い尽せてしまうような事実と言い尽くせない事実がある 
 
2.       本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立どんな個的直観も本質直観へ転化されるのだが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立すること。これは今<私>が現にある音を聴いてなくても任意にピアノの音を想像的に喚起し、その音は「音響だ」とか「楽器の音だ」とか考えることができるということ 
 
3.       本質直観は、原理的に固有のまた新しい種類の直観本質直観は、原理的に固有のまた新しい種類の直観なのだ。この命題が本質直観もまた個的直観と並んで原的な直観であるとみなされる所以である【コメント→】知覚は原的なのは一般的に理解されるだろうが、意味の観取も「直観」であり原的であり不可抗力なものと扱っているのは新鮮(59)
要は、意味を観取する本質直観も、知覚と同じように受動的、彼岸的なものでありわれわれにとってコントロールできないものである、ということ。なので、どちらも等しく確信の根拠となる。以下の説明は上の3つ目の「本質直観も直観(受動的なもの)」であることの補足。
物の<知覚>と物の<意味>は兄弟だった 常識的な考えでは、物の<知覚>は、物が実在物であるがゆえに<意識>のありようとは関係なく<意識>に現われ、物の<意味>(=知、概念)は実在物ではなく抽象物であるがゆえに<意識>によって事物に賦与されたものだ、と考えてしまう。 本質観取は「感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではない」つまり、本質観取は頭の中でものごとを考え出す観念の働きというよりむしろ、物の知覚に似たものだ、とフッサールは言うのである。 2x2=4という理念的なものはひとがその計算を納得してなるほどたしかにこうなると学習した瞬間から、彼にとって確かな存在者(存在する事物)となるのだ。 理念物の場合は、頭の中で考えられた理念対象を基体として、そこで疑い得ないものとして存在が確証されればその条件を満たしているのである  物の知覚と意味は普通に考えられているような実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられない。いずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑いないものの確信を与える働きをする。だから知覚直観と本質直観は独我論的に自我という主にとって、意のままにならないやっかいな双子の兄弟だといっていい。 現象学的な見方からは、ひとが「実在物とみなしているもの」も、また「ある種の理念物」も、ただある構造によって人間にとって「不可疑的なもの」として現れてくるというにすぎない。つまりたしかにあるという「妥当」を与えられているだけであり、したがってまた、この妥当(=確信)は壊れることもありうるのだ。(69−72)
現象学の場合、このような定義または規定は必ず例の独我論的主観から出発し、主観そのものへの内省によって考えを進めるという方法から帰納されたものだという点に特徴がある。要は降ってくるものとして「個的直観」と「本質直観」に確信の根拠を見出す。でもそれは、「不可疑的なもの」として現れてくるというにすぎない。

カントの理論は一種の物語だが、フッサールの理論はただ内省によって得られた自己記述。カントの超越論的視点というのは要はフィクション、物語である。現象学は、内省から導かれるので「平等な議論の場」であれば最強の方法となる。

次に以下の引用を見てみよう。
知覚直観は本質直観なしにはやっていけない 赤いリンゴを見ているという個的経験において何度確かめてもそれはひとつの赤いリンゴであるという「確信が成立するために」はある前提条件が必要である。この条件で最も重要なのは、そこに「あるレベルでの概念知がすでに入り込んでいる」こと  リンゴがなんであるかをまだ知らない幼児と大人とでは、また普通の人とリンゴ作りとでは、赤いリンゴを見たときの直観のありようはひどく違っている。 人間の「個的経験の明証性」の基礎として、単なる知覚直観のほかに、どうしても本質直観、つまりものごとに含まれる知=概念を直観する働きを考えざるをえない。(67)
 「確信が成立するために」「あるレベルでの概念知がすでに入り込んでいる」とはどういうことか。われわれが何かを知覚しているときには、それは言語的にいえる(本質=意味を含んでいる)ということなのだろうか。たしかに、感覚だけでは「意識」自体が意識されないかもしれない。意識が覚醒しているなら、それは言語的な認識が既に働いているのかもしれない。ただ、ここでの趣旨では、本質直観は何らかの意味で意識の恣意的な意味付与を含んでいるのではないか、という疑問を提起し、その直感性、受動性を説明しているだけだ。
最後に、とっても重要なところ。
人間が現に生きているありありとした「実在」の世界、それは「意味の統一」である。 現象学的な自我という極をもはやそれをどこにでも還元できない極であるという意味でひとつの絶対的体験と呼ぶことができる。この絶対的体験こそは経験的体験の意味を成立させる前提にほかならない 「実在的統一は意味の統一である。」 人間が現に生きているありありとした「実在」の世界、それは「意味の統一」である。 「これは机だ」「これは私の家だ」「私は東京に住んでいる」これらの確定はすべ超越である。こうした現実の認識はしかし普段は自明のもの。疑う必要あるときにはいつも必ず内在に立ち戻ってこれを確かめうる可能性がある これらの感覚はさまざまな知覚の体験流から、そのつど意識の志向的統一によって与えられているものである。フッサールはこの志向的統一を意味統一とか意味付与と呼ぶ  例えば<意識>がある痛さを表象したとき、それがたとえば父親に叱られて頭をゴツンとたたかれたという「意味の了解」を伴わなければ、この痛覚は、くやしいとか情けないとかいう感覚を伴った日常のありありとした事象(実在)として経験されない。

■ 疑問:こうしたことから、現象学的には、わたしたちの生のありありとした経験世界(事象の実在)はすでに絶対的に与えられている<意識>の体験からなんらかの「変容」をこうむったものだとみなされうる。
フッサールは諸表象(知覚、想起、記憶、想像等)の「体験流」が<意識>の絶対的与件といっているが、わたしたちの<意識>につねにすでに志向的統一という契機が働いているとすれば純粋な諸表象の「体験流」などというものは実際には誰も体験していないことになるのでは?=常に志向的統一されているのでその前の原的状態は体験できないのでは?
 
回答:経験がその前段に「体験流」という絶対体験を持っているというのは、次のことをいうための説明にすぎない。「机がある」というありありとした経験世界は原理的にはじつはそうではなかったという可疑性を持っているということ。ここで生じた「可疑性」は反省され、そのことで<自我>の<内在>体験によって確かめられ、しかもそれい以上はけっして確かめられないこと。これでこの批判は反論されている。(102)
結局、われわれは「意味」の世界を生きている。「意味」がないときは「無意識」であり、気づいたら時間が経っていた、ということになる。ぼーっとしていたときや、ゾーンに入った集中のときみたいに。

以上、「本質」について分かっていただけただろうか。

こう考えると、現象学は、共通了解を作るためには最高の道具だが、実際に人間とのコミュニケーションで運用しようと思うと、弱い。みんなが友好的で話し合いに前向きなら、本質を語れば議論は収束するだろうが、現実はそうではない。「本質直観」がどうのとか言い出したらもうみんないなくなっているかもしれない。もっとキャッチーで嘘でも人の心を掴むものが選ばれるだろう。

また、何か人間が「意識的に」作ったものであれば本質を探究できるが、事実的なものを深く理解するのには関係ない。 

現象学入門 (NHKブックス)
竹田 青嗣
日本放送出版協会
1989-06

哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
 kdukai

僕が基本的にずっと関心を寄せているのは、「どんなことをすれば人のためになるか」ということ。あらゆる企業は最終的にはこれを考えてユーザーに商品やサービスを提供している。しかし、彼らの人間観は甘すぎる。

「人のためになる」ものとして安心・安全・便利・快適のようなものや快楽くらいしか考えていない。でもこれでは答えになっていない。仮にインターネットという技術が普及してコミュニケーション手段が増えて「便利になった」と思っても、それにより直接的なコミュニケーションが減り人間関係がどんどん薄くなり、人と共感するという幸せの根本が失われる、というような見方もできる。(人との共感が幸せになるということの正しさはここでは問わず、ただ1つの見方の例)

さて、
実証の世界では、もっとも人に価値のあることはどんなことだと言っているか?
価値=個人の実存がよい状態である=「幸せ」 
ということで、「価値がある」とは「幸せ或いは幸せに繋がる」と等しい。

では人はどうやったら幸せになるのか?

これに最も適切に答えているのは以前話題になったハーバード大学の75年間に渡る壮大な研究である。いろんなメディアで取り上げられているが趣旨がばらばらなので、原文をそのままのせているこちらを参照、引用させてもらう。この研究の現在の責任者心理学者ロバート・ウォールディンガーのスピーチからだ。

史上最も長期間にわたって人を追跡しているハーバード成人発達研究(Harvard Study of Adult Development)を行うハーバード・メディカル・スクールのロバート・ウォールディンガー教授(臨床精神医学)が2015年11月、研究で明らかになった「人生を幸せにする教訓」についてTEDトークで語りました。

1938年に始まったこの研究では、当時ハーバード大学2年生の男子学生とボストンの極貧環境で育った少年たちを追跡調査しています。調査開始時は724人いた被験者のうち、現在でも約60人が健在で調査に参加しています。そのほとんどが90歳代です。開始時に聞き取り調査と健康診断を行い、その後、1年おきに本人への質問票調査、本人や家族への聞き取り調査、医療記録の確認、血液検査等を行ってきました。

4代目の研究責任者である同教授によると、人を幸福にし、健康にするのは何よりも良い人間関係であり、その人間関係について大きな教訓が3つあることが明らかになりました。

それは、(1)家族、友人、コミュニテイ等、周りとのつながりを持っている人はそうでない人よりも幸せで健康で長生きする、(2)身近な人たちとの関係の質が重要である、(3)良い関係は脳も守る、というものです。(3)は、いざという時に本当に頼れると感じている人と80代までしっかりした関係を持ち続けている人は記憶がずっと明瞭で、逆に、パートナーは全く頼れないと感じている人に記憶障害が早期に出現したことから、結論付けられました。

要諦は、「近い周囲の人間関係が良好なら幸せ」ということ。幸せとは何かとか深く考える必要はない。彼らは自分の「いま、ここ」の生をいいものと感じているから、幸せだというのだ。そして、それを創り出すのは身近な人達と良い関係にあるということだ。

これは正直、実証研究どうこうではなく、個人的な経験からも支持できる。むしろ、だから取り上げた。実際、実証といってもこれだけでは納得できない側面もあるしツッコミどころもあるだろう。でも、僕は個人的な体験で分かる。やっぱり家族や普段接する身近な人達との関係が悪いときは何をやってもだめ。政治や国際情勢をとやかく言いたくなるのも、他のいろんな人に悪く接してしまうのも、根源は周囲の人間関係である。報道で見る犯罪者はみんな何かしら身近な人間関係をこじらせているケースが多い。

ということで、「近い周囲の人間関係が良好が幸せに繋がる」ということを僕の世界観の根底に置く。なので、今後の僕の行動、例えば仕事とかの行動指針はこれにどう繋がるか?という観点で全て見ていく。こうなると冒頭に書いた、価値ある商品やサービスの方向性も分かってくる。人間関係の薄い人にそうした機会やスキルを身に着けさせる、或いはもうそういうのが無理なら強制的に結婚させる、とかいろいろなアイデアが生まれてくる。ここはもっと考えていこう。

また、引き続き、この弱い根拠をもっと客観的な調査や研究結果を探して補強していきたい。さらに、身近な人達と良い関係にあることが、なぜ幸せに繋がるのか?これについても別途哲学的に考えていきたい。

以下、できれば英語の原文スピーチをご覧ください。



 TEDの字幕付きの動画はこちらから観れる。
英語で報道された記事はこちら

僕はある時期、週に1回ほど「油麺にこにこ」に通っていた。場所は早稲田大学にほぼ隣接している。都電荒川線の早稲田駅から徒歩3分。東京メトロ東西線の早稲田駅からなら10分程度。

ここでの油麺を食べる時間は、僕にとって、ある一つの体験なのである。ただ食べるのではなく、一つのエンターテイメントとしての時間が楽しめる。

それが「体験」であることは、ふとしたきっかけで気づいた。

少し経緯を書くと、
基本的には、「油麺」か「にこにこ」の2種類の油麺がある。
前者はシンプルな油麺で、後者はマヨネーズなどプラスαがちょっとある。

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これは「油麺」の写真である。左に漬物と右にコンソメスープがあるが、これが油麺を食すときに輝かしい体験を演出する。この組み合わせを考えた店主(以下、親父)に座布団三枚あげたい。

さて、
僕はある日いつものように油麺を食べていたところ、途中で漬物がないことに気づいた。親父に一言いうと、親父はすかさず漬物を提供してくれたのだが、そのときの一言が今でも忘れられない。


「もう終わっちゃった?」



な、なに!?
なんといった?

僕は自分の耳を疑った。

普通、同じ意味を表わすなら「もう食べ終わった?」「まだ残っている?」などと聞くのが普通だ。しかし、親父は違った。

親父はこの油麺の食を、完全に「一つの体験」として、エンターテイメントとして提供しているのだ。それに気づいてしまったのだ。僕は。だから、その体験が「もう終わっちゃった?」、なのだ。

そう、これはただの栄養補給でも団欒の場でもなく、娯楽としての体験。

店主の趣味のヘビメタかなんかよくわからないが、クラブでかかっていそうな音楽がミスマッチで逆にいい。 

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まずは、お酢を3周ほどかけ、ラー油を2周かける。
下のにんにくや醤油風味のタレと全体をかき混ぜる。細かく混ぜないと全体に行き渡らずムラができてしまう。

準備ができたら一気に食う。

4分の1程度くったら漬物とスープ。毎クォーターにこれを行う。
まだまだ続く体験に興奮は冷めない。

半分くらいになれば、酢を足す。

また混ぜる。

そしてラストのクォーターになる頃にはこのエンターテイメントの終焉に思いが到り少しさびしくなる。

最後は、どんぶりが空になる。

親父を呼んで650円を支払う。

いい体験であった。

今日も生き抜こう。 

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