記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年01月

僕は、ベンチャー志向だから商品やサービスを創造するならもちろん「価値あるもの」を、と思っていた。では「価値ある」とは何か。それは各個人が生きている一人一宇宙の主観的世界、これを実存というが、実存をよいものにする、ということ。一般的な「幸せ」と同じだと考えてもらえばいい。

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では、どうすればいいか。まず、そもそも「幸せになりたい」とかそういう現実に不満がなかったり、それどころではなく(いい意味でも悪い意味でも)何かに熱中しているならそれはそれでいい。そうではなく現実に不満があるなら「どう生きるべきか」の指針がほしいであろう。ちなみに、お金がないとかそういう現実的に解決方法が明確な場合は、それに向けて頑張ればいい。

人間は実存の軸は、自我の安定である。動物は刺激に対して一義的な反応が決まっており、本能的に生きているといえる。しかし、われわれは「シンボル化能力」=所謂ソシュールでいうランガージュという言語能力をもっている。何かをゲシュタルト化し一般化する。対象化ともいえる。こうした対象化が連合したり、さらに対象化され、さらに対象する側も対象化されると「世界内存在」という世界の中でいきる自我というような生の在り方となる。

木田元はこのようなシンボル機能と呼んでおり、そこからシンボル機能からシンボル体系という<世界>が構成されることを説明している。
メルロ=ポンティはこういう。シンボルとは、さまざまな関係相互の関係として成り立つ高次の関係、さまざまな構造をさらに構造化する高次の構造、つまり「関係の関係」「構造の構造」あるいは「自乗された構造」のことであり、それを構成する働きが「シンボル機能」である。

人間はこれにより、現に与えられている「限られた環境に対してではなく、可能的なもの、間接的なものに対しても向きを定め」、「現実的環境の向こうに各自が多くの局面から見ることのできる一つの<物の世界>を認めること」、つまりは生物学的<環境世界>に閉じ込められることなく<世界>へ開かれてあることができるのである。してみれば、<世界>とは、このようにして構成される高次のシンボル体系だということになろう。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きる生き方<世界内存在>だということになる。 
われわれが体験する<世界>とは全て言語的なものを土台にしている。そのために一貫した物語が必要となる。そうしてどうにかしてありもしないシンボル体系に流れ(物語)を使って現実に適応しようとしている。だから、基本的に人間は物語を軸に生きている。そのためこの物語がなくなれば、現実を生きるすべを失う。自我を安定させてこの「世界内存在」というあり方を保つことが人間には必要なのである。安定したから幸せというような話ではない。ただ単に人間はそういうあり方をしているので、そうするしかないのだ。

物語とはどのようなものか?自分の経験から地球という外に宇宙の拡がった客観的世界に主観を持った人間たちが生きていて自分はその一人である、と。そこで、例えば僕なら「日本人」「北区育ち」「インターネット業界」「ベンチャーで創造性ある人間」「三ヶ国語しゃべれる」などなど自分で勝手におれはこういう人間だと前提している。
 

そしてそうした前提に基づいて日々生きている。例えば会社にいったり、人と話すときも、あるいはご飯を食べるときも全部この物語(世界観)に位置づけて理解している。会社に毎日通勤するのは「自分はそこで働いている」という物語からおこる行動であり、動物のように本能で一義的に動いているわけではない。ソシュール研究者の丸山圭三郎が言うように、われわれは本能としてフグを食べていいかだめか分からない。言語的に「食べられる」「食べられない」を言分けて生きている。これは物語で生きているというのと同じこと。

さて、「幸せ」とは何か?結局、これもこの物語の中の一つの概念でしかない。一番重要な考えるべきことは、「物語を安定させる」ことなのである。この物語を通じてわれわれは現実に適合している。いいかえれば「自我を安定」させること。

さて、少し視点を変えてみる。

数年前に発表されたハーバード大の75年にわたる研究で分かったことは、「幸せ」ともっとも相関の高い条件は「周囲の人たちのよい人間関係を築く」ということだった。(上記で「幸せ」はただの物語の概念にすぎないと書いたが、実存にとってよいものと読み替えてほしい。最終目的は「幸せ」ではない。ただ、内在的視点に戻って確かめているだけ)これは自我を安定させるという視点で説明できる。自我は「他者」に認められることで安定する。そもそも、こうした世界内存在という在り方自体が「他者」から植え付けられたことである。

実際の直接経験として人と接することが実存に与える影響は大きい。他者が認めたあなたが、あなたの物語となる。自分でいくら勝手に物語を作り上げ自分をそこに位置づけても、他者が認めないと自分もそれに確信を持つことはできない。言語だけの空想では人はその物語を生きていることを信じることはできない。

さて、実存の構造がわかったいま、それをいいものにしたいなら自我を安定させることが重要だとわかった。つまり、自分を位置づけたい物語に確信を持てるよう他者に認めてもらうことだ。逆にいえば、他者が認めているあなたの物語を、あなたが認めるのでもいい。極悪非道な物語でもいいのだ。ベジータがそうじゃないか。だから、バビディに故意に引っかかり一貫した悪党になった。それまでは地球に適合するという違う物語を持とうとしてしまい、自我が安定していなかったのだ。

あなたがもし、暗い人間で、楽しむことをしらない、人の幸せを妬むクソみたいな人間、であることを本当に認めるなら、それでもいちおう自我は安定する。他者があなたの物語を認めるとは、他者の中にあなたはそういう物語をもった人間だと確信をもたせること。だからそれは、悪い人間「として」の物語もありうるし、むしろ人にそう思ってもらうことほど楽なことはない。ただ勝手気ままにそして無愛想に振る舞っていればいいのだから。世の中にこういう人が多いのは、これでしっかりと自我が安定するからだ。

しかし、結局は親に育てられた人間は、少しは「いい人間である」という物語を持ちたいと思っている。というか、最初の物語は基本的に親から与えられるわけであるからほぼほぼそうなる。完全な極悪非道では、理想の自我とのギャップが生まれてしまうわけだ。

このあたりは私の自我論の大部分を負うフロイト研究者の岸田秀(1933−)が詳しく説明している。(『幻想の未来』)ちなみにどの人間にも同じような土台としての自我がある。人間は、ほぼ必ずといっていいほど親に育てられる。母親にご飯を食べさせてもらい、抱っこしてもらい、やさしくされる。そうすると、生まれてからは全知全能という自我を持つ。それが父親や他者の介入で崩される。そこまでは誰もが経験すること。それゆえ人は、全知全能に戻るべく母親に自己を預け依存しようとする。これが自己放棄的、依存的自我である。

そしてそう願っても現実には母親は全知全能を与えてくれるわけではなく挫折し、その屈辱や怒りをバネに依存をやめ、全知全能を自ら取り戻し実現しようとする。ここで自己拡大衝動が確立する。それから後は、「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」との正反対の二つの基本的衝動の間に引き裂かれることになる。この二つの衝動は本能ではない。動物には存在しない。いずれも未熟な状態で生まれ、長い間他者の世話にならなければならにという人間特有の条件から生じる人間特有の衝動である。

さらに、岸田秀を引用してみよう。今書いたようなモデルの具体例。『唯幻論大全』の105−106ページ。
 
わたしは、要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。強迫観念は、脳のどこかが破損したとか、神経系のどこかが狂ったとかの症状ではなく、原理としては、その構造というか、原因は実に簡単なのである。
 
原理としては実に簡単であるが、実際問題としては、偽りとは言え、それまでの自我の安定を捨てることはきわめて難しい。十代の中頃、神経症に囚われ、精神分析を知って、いろいろ考え始めてから、どうも神経症の根底に母との関係の問題があるらしいことは理論的にはまもなくわかった。それまでわたしを献身的に愛してくれていると思っていた母の愛情が疑わしいことに気づくのはそれほど難しいことではなかった。

しかし母は事実上、母ではなくわたしのことなど何も考えていない無慈悲な赤の他人で、わたしを虐待し続けていたのだという事実をはっきりと認めるには大変な抵抗があった。そう認めると、わたしの自我の安定、存在価値の根拠が失われ、わたしの過去は全否定され、わたしは強烈な不安と恐怖に突き落とされる。

それに絶えられず、不安と恐怖から逃れようとして、偽りの自我の安定にまたしがみつく。母はそんなに悪い人ではなかった、愛情深いところもあった、ああもしてくれた、こうもしてくらたと考える。すると、また強迫観念をはじめ、人格障害、対人関係障害など一種の神経症的症状がぶり返してくる。この葛藤というか、往復運動を何回となく繰り返した。
 
要するに、神経症が治るか治らないかの問題は、原理としては実に簡単明瞭である。一服飲めばピタリと治る薬があるわけではなく、どこかに救いの神がいて助けてくれるわけでもない。誰でも幼いときから親子関係のなかで築いてきた自分の物語に支えられて自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ、何ら問題は起こらない。

この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧するとき、神経症的症状が発生する。したがって、神経症を直すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することを止めて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただ、それだけなのである。しかし、そのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするかしないかの問題である。そのあとは、新しい真実の自分の物語を構築してゆけばいいのである。それも容易ではないが…。
唯幻論大全
岸田秀
飛鳥新社
2013-01-25


なかなか分かりにくい。岸田の本を読んでいるとたまに一貫性がないことがある。この例も彼の理論がどうやってあてはまるのか。

まず、岸田の母親は岸田に愛情を注いでおらず利己的に育てたようだ。それが最初にあり、岸田も幼少期なりにそのような自我を持った。要は、母親に愛さていないという物語。しかし、成長するにつれ「母親とは子供を愛情を持って育てるものだ」というような常識を知り、母親と接したり他者と接する中でそちらのほうが現実に適応し、もともとの自己的な母親の物語は抑圧された。社会の常識は重要だ。なぜなら、物語は他者に認められなければならないので、社会的な傾向に沿ったものでないと認められにくいからだ。逆に常識はずれな岸田のような自我は社会に合わせるために自分の自我を抑圧しなくてはいけなくなる。

その後ずっと大人になっても「どの母親も子供を愛している。自分の母親もそうだ」という物語を持って生きていたが、その下の自我の核心には「利己的な母親」の物語があったのである。これを認めると今まで何十年という安定してきた自我を放棄することになる。(安定しているとはいえ下に抑圧されていたものが時々病を生じさせていたのだが)もしそうするのであれば、それに伴いあらゆる今の物語も書き換える必要がある。世間的には「母親は子を愛するものだ」と言ってきたり、「私は愛情を持って育てられた」という認識を持つものに新たな認識を書き込まなければ解決しない。しかし、そうすることでもう抑圧された欺瞞に突かれることはなくなる。

このように幼少期に作られた自我が、その後大きく異なる自我で覆いかぶされると岸田のように自我の安定に問題が生じることが分かる。ここでの要点は、「個人の特殊な自我」と「社会の常識」の対立である。誰でも特殊な体験を持っているものだが、それを物語に組み入れるには程度の差はあれ社会の常識から外れなければならない。

そして上述の通り根本的に誰もが母親から育てられる経験をしていることから「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」を持ち、その後社会という人間の相互関係に置かれるため、自我は安定しない。そう、基本的に自我は安定しないのだ。でも、それをいちおう分かりながら行動していけば、生は必ずよくなるだろう。まずは自分がどのような物語を生きているかを理解し、さらにそれが社会や周囲の人間に認められているのかを考えてみよう。これがあなたが求める「幸せ」の第一歩なのだ。

自我=物語を知るために、心理学者の榎本博明氏がいろいろ行っている。

以下の本から自己物語を知るための方法を参考にされたい。ありがとうございます。


自己を語ってもらうことにより個人の人生に迫ろうという方法を「自己物語法」と名付け、面接法、記述法、図示法といった3つの方法を考察し、実践の場で用いています。面接法は、幼児期から現在に至る人生の各時期の主なエピソードとそれが本人にとってもつ意味を語ってもら半構造化面接であり、とくに思い出されるエピソードや転機となったエピソードについて時間軸にそうのを原則としつつ自由に語ってもらう。語る代わりに記述してもらうのが記述法。図示法では、人生の各時期に与える評価をもとに人生の起伏、すなわち上昇部分や下降部分、上昇、下降の転換点について記述してもらう。

自己物語法では表のように一連の問いかけに対して思い浮かぶことを自由に語ったり記述してもらう。語られた内容をもとに自己物語の文脈を抽出する際には以下のようなことを心がける。

1,      想起されるエピソードを事実と意味づけ(テーマ)の相互作用の産物として理解する

(ア) 出来事のとそれに対する気持ちや意味付けを区別して整理する

(イ) エピソード群に、何らかの共通点がないかどうか検討する

(ウ) 繰り返し現れるテーマや基調として流れているテーマを読み取る

2,      とくにターニングポイントとなったエピソードの現在における意味付けに注目する

(ア) 出来事、それに対する当時の気持ちの解釈、現在の気持ちや解釈、その後の自分に対する影響などを整理

(イ) 今現在生きられている自己物語の鍵をにぎると思われる文脈を読み取る

自己物語法の手順

1,      今の自分自身について

2,      今の自分にとって大事だと思うエピソード

3,      懐かしく思い出される人、モノ、出来事、場所

4,      最初の記憶

5,      最初の記憶より順を追って想起される主なエピソード

(ア) 幼児期のエピソード

(イ) 移行期

(ウ) 小学校時代のエピソード

(エ) 移行期

(オ) 中学校時代のエピソード

(カ) 移行期

(キ) 高校時代のエピソード

(ク) 移行期

(ケ) 大学時代のエピソード

6,      転機ターニングポイントとなったエピソード

7,      自分の人生史の中でやり直したい、書き換えてしまいたいところ

8,      今の自分自身について

9,      語りの前後での自分自身に関する見方に生じた変化

10,感想

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

新年快楽〜!

明けましておめでとうございます。

昨日は中国の大晦日、除夕でしたね。

多くの中国人は日本でいう紅白歌合戦みたいな番組「春节联欢晚会」(通称:春晩)を観て過ごしたのではないでしょうか。

毎年日本ではニコニコ動画がライブ放送をしているようですが、今年はYouTubeでもやってましたね!(以前からかも)私も少し観てましたが、ひたすら派手な演出で歌っているだけだったのですぐあきました。子供の頃の思い出とかもないですし。。

中国人の友人に連絡してみたら、聞いた3人は誰も「春节联欢晚会」を観てませんでした(笑)既に寝ている人もw

みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。

以下、6時間近くの「春节联欢晚会」が観れますよ〜(^^)

 

宮台真司は社会学の入門書『14歳からの社会学』で<世界>と<社会>について以下のようなことを書いている。



<世界>という概念と<社会>という概念がある。<世界>というのは「ありとあらゆるものの全体」。それに対して<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。今日では<社会>とは人間界のことだ。…部族段階の古い社会に生きる人々や、ハイハイしてなんでも口に入れる赤ん坊にとって、<社会>は人間界に限られない。<世界>がまるごと<社会>だ。あらゆるものとコミュニケーションできる。犬とも、猫とも、木とも、雲とも、お話ができる。
でも、時代が進んでいくについれ、あるいは、赤ん坊が成長していくにつれ、人は、<社会>の外にも<世界>が広がっていることに気づく。<世界>にはコミュニケーションできないものがあるのを知る。コミュニケーションできるのは人間だけだと知る。
<社会>の中では「承認」が問題になる。<世界>の中では「承認」どころかアリンコみたいな存在だ。「承認」を気にしている自分など 、とてもとても小さい。

宮台の理解と若干ことなるが、私なりに解釈したい。

社会とは要は「言語」の世界である。つまり、一般性をもった概念(言語)を通じて世界と接している。言語で分り切れないものは、存在しないに等しい。でも、<世界>という連続体のカオスは想定できる。もちろん、社会的な人間は言語を使うことで、その<世界>が背理的に出てくるのだが。

さて、いきなりだが、メジャーリーグのイチローは凄い。
いやそこまでいかなくてもどんな分野でもその分野で豊富な経験を持ち実績を出している人は凄い。こういう人は、言語的思考をしなくても無意識に何かをできる。もちろん少しは言語的思考が入るだろうが、熟練するほど無意識になる。要は、チクセントミハイのいうフロー体験。

フロー体験とは、要するに<世界>に接している状態なのだ。言語的思考のタガが外れ、<世界>に向き合う。

もちろん、イチローといえども、そのような状態は極限られた時間である。でも、そういう体験を何度もしてるはず。それこそ、生命の本能的な在り方。もちろん、良い悪いの話ではないが、人間は言語を持ち一般性を通じた言分けられる社会としか接しなくなった。でも、原理的にはやっぱり<世界>ありきで、動物や植物はそこに生きている。人間もそっちが原初的自然である。

<世界>を知る人間は、<社会>で幸せな人が多い。なぜなら、言葉の世界を信頼していないから。それを包括するもっとありありしたありのままの<世界>を知っているから。われわれはその存在に確信を得たとき、言語の世界に過剰反応しなくなり、のほほんと気楽に生きていける。言語で理解してもだめだ。無意識に何かができるくらいの熟練が必要。座禅で目指すのもそういう<世界>だ。 
 fs

アパ(APA)ホテルについて「同ホテルグループ代表が執筆した、南京大虐殺や慰安婦を否定する内容の本が全客室に置かれている」と、アメリカ人女性と中国人男性の大学生2人が1月15日に中国のSNS「微博」に動画を投稿、中国のネットユーザーを中心に批判が広がった。

正直、こうした歴史問題には詳しくないが、南京に半年以上住んでいたものとしてこれについては一言申し上げたい。

報道やSNSではアパグループが「南京大虐殺は存在しなかった」と主張したという20文字くらいに情報が圧縮され文脈から切り取られ社会全体に拡散されている。それだけ見たなら誰でも、「けしからん」となるだろう。

さて、新聞や雑誌やネットの記事でどれだけの媒体が、実際の本の内容を忠実に掲載したのだろうか?原本を見ることができないので、アパグループが自ら1月17日、サイトに見解を発表した内容に掲載されているところから主要部分を引用しよう。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。したがって、異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます。なお、末尾に本書籍P6に記載しています、南京大虐殺に関する見解を掲載いたしますので、事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています。  

『本当の日本の歴史 理論近現代史学』P6
二、南京三十万人大虐殺

 中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。 

文末の赤字が彼らが「南京大虐殺はなかった」という主張を支持する根拠である。まず、これ自体ほとんど報道されていない。

ハフィントンポストは一部を次のようにまとめている。

本ではホテルや観光の話に加え、南京大虐殺について虐殺された人数の「計算が合わない」、また慰安婦については抗議記録が「全く存在しない」ことから、「中国も韓国も自分たちの行動を棚に上げて、これらの虚構に基づく日本への非難を繰り返す」などと記している。

これでも結構要約されており、「無根拠に近い」感じを演出しているようにみえる。では、実際はどうか?上記の赤字をまとめると「中国が主張するような30万人を大虐殺したという南京大虐殺はなかった」ということの主張として、以下3つを挙げている。
  1. 南京市の当時の人口のデータから考えるとおかしい
  2. 国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもない
  3. 上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていない 

これは検証可能性を提供しているので根拠としてはふさわしい。要は、関心がある人はそれぞれについて反証できるのである。さらに、もっと下の方により詳しく根拠が10つも列挙さている。文末に引用しておく。

彼らがこのように根拠を提示して主張しているのであれば、反論する側はこれらの根拠について攻撃すべきである。南京市の人口のデータとはどこが出していて、今どこにあるのか?ほんとうに雇われた二人以外に第三国の情報はないのか?教授が論文により辞職させられていないのが、南京大虐殺がなかったことにどう論理的に繋がるのか?などと問うべきである。

もちろん、ある程度定説化しつつある証拠がこの論争にはあるのだろう。それについては私は詳しくない。ただ、いちおう上記引用の最初の赤字の通りアパグループは理を入れている。それに、こうした歴史的な問題というのは真実はどうやっても分からないのだから、不断に真実を問う姿勢が必要なのである。

以下に、問題の発端となった動画があるが、このリポーターみたいな女性は原本を読み上げてはいるが、この根拠部分を読み上げた後、何もコメントしていない。そして、まとめとして「南京大虐殺はなかった」と主張していると一言に集約している。

さて、問題があるのは一体誰なのでしょうか?

 

以下、引用元 https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325

理論 近現代史学 

数々の事実を付き合わせ、あり得ることかあり得ないことか考えて、矛盾なく、理論的に説明ができる近現代史が、理論近現代史である

「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々

1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。) 

2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人~三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。 

3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。 

4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか?  東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。 

5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。 

6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。 

7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。 

8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。 

その他、多々ある。

みなさん、こんにちは!

今日は「中国人富裕層」がどれくらいいるのかについて調べてみました。中国語ぺらぺらなわれわれにとってその実践として是非ともこれらの大量の富裕層中国人に商品やサービスを購入してもらいたいものです!

Wikiによると、「中国人富裕層」とは、次のどちらかを指すようです。
  1. 「年収」200万元(約2900万円)以上の中国人
  2. 「投資可能な資産」が1000万元(約1億3000万円)以上ある中国人
なかなかのハイレベルな規準ですなぁ。普通は周りにこんなレベルの人はいないのではないでしょうか。
 
気になる資産や収入クラス別の人数はどうなっているのか?
 
中国において2008年に投資可能な資産が1000万元(約1億2千万円)以上ある富裕層は約30万人おり、投資可能な資産の総額は8兆8000億元に上る。一方、招商銀行とベイン・アンド・カンパニーが発表した「2009年 中国個人財産報告」によると、2009年末までに、1000万元以上の投資可能資産がある個人は、前年同期比6%増の32万人になり、投資可能資産額も前年同期比7%増の9兆元を超えるとしている。

 う〜ん、Wiki情報は大分古いので百度baidu先生に聞いてみましょう。
(ちなみに以下、2017年1月のおおよその為替レート、中国元=17円、米ドル=115円で計算)

「天涯」という中国版2ちゃんねるみたいなのの1つのスレッドに1つのまとめデータがありました。2015年のもの。他の統計データと較べると結構信憑性はあるかもです。

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 一番左の列は上から、「分類(カテゴリ)」「小カテゴリ」「家庭収入」「人数」となっています。
「分類」を見ると10つほどに分かれていますが、それぞれ以下のように定義され、それぞれに属す人数は以下のようになっています。あえて、カテゴリー名は中国語のまま。だいたい漢字で感じが分かるでしょう。
  1. 贫困人口:一人あたり年収2800元(47,600円)未満,全国に8200万人ほど。
  2. 穷人:家庭年收が3万元(51万円)未満。⇛2億人。
  3. 低收入:家庭年收3-8万元(51万〜136万円)⇛4億人
  4. 小康:家庭年收入8-30万元(136万〜510万円)⇛1.8億人
  5. 中高收入者:家庭年收入30-100万。(510万円〜1700万円)⇛1.5億人
  6. 富人:家庭年收100万以上(1700万円以上)⇛3500万人
  7. 富翁:(ここから資産で見る)資産1000万元(1億7千万円)以上⇛200万人
  8. 富豪:資産1億元(17億円)以上 ⇛6.3万人@2014年
  9. 大富豪:資産10億元(170億円)以上 ⇛1800人@2014年
  10. 超级富豪:資産100億元(1700億円)以上 ⇛90人@2014年
参考:http://bbs.tianya.cn/post-develop-1999388-1.shtml

このデータちょっとあやしいかもしれないですね。信頼できる(そもそも中国の統計は信頼できないが)新浪ニュースの記事では、2016年5月の時点で、資産1000万元(1億7千万円)以上の「富翁(ふおう)」は昨年より13万人増えて134万人とのことです。(上データでは200万)要は中国で1000人に一人が資産1000万元(1億7千万円)以上の「富翁」ということです。

参考:中国拥有约134万千万富翁 每千人有1个千万富翁
http://forex.cngold.com.cn/gnrd/20161108d11024n98190786.html 

日本だと一般的に、ほぼここの富翁レベル、すなわち純資産1億円以上を富裕層といいますが、2015年では114万世帯にも上ります。中国だと1億7000万以上が既に134万ですし、これは世帯ではなく個人ですから圧倒的に中国の方が多いですね。

さらに日本では5億円以上の超富裕層は7.3万世帯ですが、中国ではその前年2014年のデータで、17億円以上が6.3万人(個人)ですのでこれまた中国が圧倒。そりゃ爆買しますわな!
 

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参考:資産1億円超の「富裕層」が増加中、なぜ?―NRI調べ

中国の富裕層に戻りましょう。

以下の2016年のデータでは、
  1. 10億ドル(1150億円)以上の資産 ⇛594人 (五年後予測⇛1400人)
  2. 20億元(340億円)以上の資産 ⇛2056人 (五年後予測⇛5800人)
  3. 10億元(170億円)以上の資産 ⇛9500人 (五年後予測⇛17000人)
  4. 1億元(17億円)以上の資産 ⇛89000人 (五年後予測⇛110000人)
統計のとり方の違いもあると思われますが、それにしても1年で一気に超富裕層が増えている。。さらに5年後の2021年の予測も衝撃的。

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参考:http://blog.sina.com.cn/u/3996357961

ちなみに、2015年の保有資産TOP10はこちら。。。
どんだけ~

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結論、中国人富裕層多すぎ。

そして日本でハイエンドと言われているものの供給が追いつかないくらいの富裕層がこんな近くにいるのに、なぜそうなっていないのでしょうか。。。

加油!!!! 

哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
 kdukai

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