記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年01月

中国語にしろ英語にしろ語学をやるときに一番困るのが、目標。
もちろん、その外国語の能力を高めることが目的なのだが、そもそも外国語能力とは何か?

一般的には、
  1. 会話: Conversation 
  2. 作文: Writing 
  3. 読解: Reading
  4. 聴解: Listening 
  5. 文法: Grammar 
  6. 発音: Pronunciation
  7. プレゼンテーション: Presentation

などが言われる。

外国語と母国語を問わず、言語力という視点で考えてみたらどうか。そうすると、「言語とは何か」というバカロレアの試験みたいな哲学的な問いに答える必要性が出てきます。それに、作文やプレゼンテーションなどは「母国語力」或いはその人の「言語能力」全般と関連するため、その境界線があいまい。母国語でも何言っているかわからない人が外国語習っても伝わらない。

やはり具体的な目標から考えるのが良さそう。少し具体的な目標をブレストしてみましょう。
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1,中国市場向けの商社ビジネスをしている大企業に入りたい

→これであれば、まず自分は中国語を使えることをアピールしなくてはいけないので、客観的な指標が必要。中国語検定やHSKなどで最上級目指すなど明確に目標ができる。試験であれば、何をやればいいかもすぐに見えてくる。

2,中国市場向けに自分で事業を興したい

→これだと中国人とかなり対等にコミュニケーションとれないとだめです。仕事で関わるのに相手はいちいち繰り返し丁寧に説明してくれません。「あ、こいつ話せないな」と思われたら終わりです。スピーキングとリスニングを中心に相当頑張る必要あります。もちろん愛嬌や態度でカバーできるところもありますが限界があります。

3,とりあえずスキルアップして労働市場での自分の価値を高めたい

→これだと、1と同じですが、具体性が乏しいのでモチベーションに欠けるでしょう。とりあえず資格の◯級とかを目指す感じになるでしょう。

4,初対面の中国人に「あ、この人は日本人と同じように話しても問題ないな」と思わせる。

→これは結構具体的です。総合的な外国力とさらにある程度の知識セットも必要となるでしょう。どのような場面でそうしたいのかを明確にするともっといいでしょう。なぜなら、普段一般的な生活では中国人とそこまで接しないでしょうから。

5,通訳として働きたい

→これも明確ですね。まずは通訳の試験に合格することですから、その試験に向けて準備する。

6,会議などの場で多人数で討論、ディスカッションできるようになりたい(朝ナマみたいに)

→これはかなり難しいですがいい目標です。カリキュラムは組めるでしょう。

7,講演できるようになりたい。質疑応答まで。

→これも同様に明確です。そこで必要な能力を定義してカリキュラムを組めば良い。

8,スポーツを一緒に楽しむ中国の友達とのコミュニケーションのため

→これも同様に明確です。そこで必要な能力を定義してカリキュラムを組めば良い。スポーツ中心ならそこまでのレベルは必要ないですね。

9,アニメが好きな中国の友達とコミュニケーションするため

→これも同様に明確です。そこで必要な能力を定義してカリキュラムを組めば良い。アニメの内容について議論したりすることを想定すればけっこうなレベルが求められれます。

具体的に使われている「場面」が想像しやすければ、そのときに発生するコミュニケーションを列挙し、必要な能力とレベルを定義し、今のレベルからのそこに到達するまでのCurriculumを組めばよい。

まずは 具体的にどういう「場面」で使うかをありありと想像しましょう!!具体的で細部があればあるほどいいです。そうすれば上述のように「今日何をすべきか」までの落とし込みが明確になります。さらに、成長実感や目標達成への執着も高まっていくのでいいことばかりです。

もう一度いいます。

まずは 具体的にどういう「場面」で使うかをありありと想像しましょう!!

この前、中国語を学ぶ人の理由が浅すぎることを軽く批判しました。「英語との差別化」とか「巨大マーケット」のためとかそれでその後どうするの?と言われたら即効黙り込んでしまいそうな浅ましくさもしい理由のオンパレードです。

ではなぜ中国語をやるのか?

それは「時代に乗る」ためです。
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え?どゆこと?そんなありきたり?めっちゃ浅いじゃん!「巨大マーケット」と同じようなもんじゃん

と思ったあなた。

説明しましょう。

これから中国が世界で最も影響力のある国になるのは間違いありません。まだまだアメリカも強いですし、インドもそのうち中国を抜くかもなどと言われていますが、その成長速度や人口、歴史や文化、食、世界中でのネットワークなどあらゆるものを総合的にみればこれからの数十年は中国の時代になるでしょう。

だからといって「中国に関係する仕事に就く」「中国市場向けに起業する」「インバウンドのため」とか実利的なことばかり言っても切りがありません。

本当に重要なことはなんですか?

あなたの実存でしょう。


実存とは、あなたの主観的な生、だと思っていただいて結構です。
これが一番大事でしょう。

だったら、この実存の仕組みをまず理解せねばなりません。

実存の仕組みから、どうやったら所謂「幸せ」になれるのか、という疑問に根源的に答えている記事がこちらにあります。長く読みにくいので頑張って読んでください。

読んだ人と理由はいいから、結論だけ知りたいという人のために続けます。結論は「私たちは自我という物語を持ちながらあらゆるものを認識し生きている」ということで、われわれの実存を突き動かす大元は「自我の安定」なのです。いいかれば、物語の安定。そして物語の安定で手っ取り早いのは「社会(時代)の波に乗る」ということなのです。社会的に必要とされること、価値あるものと見なされていることをすれば人に認められやすいのです。何かいちゃもんつけられてもその理由は調べればすぐに答えられるはずです。

もちろん、「中国語学習」はそのための1つの契機に過ぎません。時代に乗るためには他にも方法はるでしょう。ただし、これだけ効果抜群の費用対効果大の物語は他にはないのではないかとも思ってしまいます。

多くの人が中国語を学び、中国を知り、時代に乗り、自分の物語をはっきりと創造していく。そんな物語の一部になりたい、われわれはそう思っております。 

僕は、ベンチャー志向だから商品やサービスを創造するならもちろん「価値あるもの」を、と思っていた。では「価値ある」とは何か。それは各個人が生きている一人一宇宙の主観的世界、これを実存というが、実存をよいものにする、ということ。一般的な「幸せ」と同じだと考えてもらえばいい。

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では、どうすればいいか。まず、そもそも「幸せになりたい」とかそういう現実に不満がなかったり、それどころではなく(いい意味でも悪い意味でも)何かに熱中しているならそれはそれでいい。そうではなく現実に不満があるなら「どう生きるべきか」の指針がほしいであろう。ちなみに、お金がないとかそういう現実的に解決方法が明確な場合は、それに向けて頑張ればいい。

人間は実存の軸は、自我の安定である。動物は刺激に対して一義的な反応が決まっており、本能的に生きているといえる。しかし、われわれは「シンボル化能力」=所謂ソシュールでいうランガージュという言語能力をもっている。何かをゲシュタルト化し一般化する。対象化ともいえる。こうした対象化が連合したり、さらに対象化され、さらに対象する側も対象化されると「世界内存在」という世界の中でいきる自我というような生の在り方となる。

木田元はこのようなシンボル機能と呼んでおり、そこからシンボル機能からシンボル体系という<世界>が構成されることを説明している。
メルロ=ポンティはこういう。シンボルとは、さまざまな関係相互の関係として成り立つ高次の関係、さまざまな構造をさらに構造化する高次の構造、つまり「関係の関係」「構造の構造」あるいは「自乗された構造」のことであり、それを構成する働きが「シンボル機能」である。

人間はこれにより、現に与えられている「限られた環境に対してではなく、可能的なもの、間接的なものに対しても向きを定め」、「現実的環境の向こうに各自が多くの局面から見ることのできる一つの<物の世界>を認めること」、つまりは生物学的<環境世界>に閉じ込められることなく<世界>へ開かれてあることができるのである。してみれば、<世界>とは、このようにして構成される高次のシンボル体系だということになろう。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きる生き方<世界内存在>だということになる。 
われわれが体験する<世界>とは全て言語的なものを土台にしている。そのために一貫した物語が必要となる。そうしてどうにかしてありもしないシンボル体系に流れ(物語)を使って現実に適応しようとしている。だから、基本的に人間は物語を軸に生きている。そのためこの物語がなくなれば、現実を生きるすべを失う。自我を安定させてこの「世界内存在」というあり方を保つことが人間には必要なのである。安定したから幸せというような話ではない。ただ単に人間はそういうあり方をしているので、そうするしかないのだ。

物語とはどのようなものか?自分の経験から地球という外に宇宙の拡がった客観的世界に主観を持った人間たちが生きていて自分はその一人である、と。そこで、例えば僕なら「日本人」「北区育ち」「インターネット業界」「ベンチャーで創造性ある人間」「三ヶ国語しゃべれる」などなど自分で勝手におれはこういう人間だと前提している。
 

そしてそうした前提に基づいて日々生きている。例えば会社にいったり、人と話すときも、あるいはご飯を食べるときも全部この物語(世界観)に位置づけて理解している。会社に毎日通勤するのは「自分はそこで働いている」という物語からおこる行動であり、動物のように本能で一義的に動いているわけではない。ソシュール研究者の丸山圭三郎が言うように、われわれは本能としてフグを食べていいかだめか分からない。言語的に「食べられる」「食べられない」を言分けて生きている。これは物語で生きているというのと同じこと。

さて、「幸せ」とは何か?結局、これもこの物語の中の一つの概念でしかない。一番重要な考えるべきことは、「物語を安定させる」ことなのである。この物語を通じてわれわれは現実に適合している。いいかえれば「自我を安定」させること。

さて、少し視点を変えてみる。

数年前に発表されたハーバード大の75年にわたる研究で分かったことは、「幸せ」ともっとも相関の高い条件は「周囲の人たちのよい人間関係を築く」ということだった。(上記で「幸せ」はただの物語の概念にすぎないと書いたが、実存にとってよいものと読み替えてほしい。最終目的は「幸せ」ではない。ただ、内在的視点に戻って確かめているだけ)これは自我を安定させるという視点で説明できる。自我は「他者」に認められることで安定する。そもそも、こうした世界内存在という在り方自体が「他者」から植え付けられたことである。

実際の直接経験として人と接することが実存に与える影響は大きい。他者が認めたあなたが、あなたの物語となる。自分でいくら勝手に物語を作り上げ自分をそこに位置づけても、他者が認めないと自分もそれに確信を持つことはできない。言語だけの空想では人はその物語を生きていることを信じることはできない。

さて、実存の構造がわかったいま、それをいいものにしたいなら自我を安定させることが重要だとわかった。つまり、自分を位置づけたい物語に確信を持てるよう他者に認めてもらうことだ。逆にいえば、他者が認めているあなたの物語を、あなたが認めるのでもいい。極悪非道な物語でもいいのだ。ベジータがそうじゃないか。だから、バビディに故意に引っかかり一貫した悪党になった。それまでは地球に適合するという違う物語を持とうとしてしまい、自我が安定していなかったのだ。

あなたがもし、暗い人間で、楽しむことをしらない、人の幸せを妬むクソみたいな人間、であることを本当に認めるなら、それでもいちおう自我は安定する。他者があなたの物語を認めるとは、他者の中にあなたはそういう物語をもった人間だと確信をもたせること。だからそれは、悪い人間「として」の物語もありうるし、むしろ人にそう思ってもらうことほど楽なことはない。ただ勝手気ままにそして無愛想に振る舞っていればいいのだから。世の中にこういう人が多いのは、これでしっかりと自我が安定するからだ。

しかし、結局は親に育てられた人間は、少しは「いい人間である」という物語を持ちたいと思っている。というか、最初の物語は基本的に親から与えられるわけであるからほぼほぼそうなる。完全な極悪非道では、理想の自我とのギャップが生まれてしまうわけだ。

このあたりは私の自我論の大部分を負うフロイト研究者の岸田秀(1933−)が詳しく説明している。(『幻想の未来』)ちなみにどの人間にも同じような土台としての自我がある。人間は、ほぼ必ずといっていいほど親に育てられる。母親にご飯を食べさせてもらい、抱っこしてもらい、やさしくされる。そうすると、生まれてからは全知全能という自我を持つ。それが父親や他者の介入で崩される。そこまでは誰もが経験すること。それゆえ人は、全知全能に戻るべく母親に自己を預け依存しようとする。これが自己放棄的、依存的自我である。

そしてそう願っても現実には母親は全知全能を与えてくれるわけではなく挫折し、その屈辱や怒りをバネに依存をやめ、全知全能を自ら取り戻し実現しようとする。ここで自己拡大衝動が確立する。それから後は、「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」との正反対の二つの基本的衝動の間に引き裂かれることになる。この二つの衝動は本能ではない。動物には存在しない。いずれも未熟な状態で生まれ、長い間他者の世話にならなければならにという人間特有の条件から生じる人間特有の衝動である。

さらに、岸田秀を引用してみよう。今書いたようなモデルの具体例。『唯幻論大全』の105−106ページ。
 
わたしは、要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。強迫観念は、脳のどこかが破損したとか、神経系のどこかが狂ったとかの症状ではなく、原理としては、その構造というか、原因は実に簡単なのである。
 
原理としては実に簡単であるが、実際問題としては、偽りとは言え、それまでの自我の安定を捨てることはきわめて難しい。十代の中頃、神経症に囚われ、精神分析を知って、いろいろ考え始めてから、どうも神経症の根底に母との関係の問題があるらしいことは理論的にはまもなくわかった。それまでわたしを献身的に愛してくれていると思っていた母の愛情が疑わしいことに気づくのはそれほど難しいことではなかった。

しかし母は事実上、母ではなくわたしのことなど何も考えていない無慈悲な赤の他人で、わたしを虐待し続けていたのだという事実をはっきりと認めるには大変な抵抗があった。そう認めると、わたしの自我の安定、存在価値の根拠が失われ、わたしの過去は全否定され、わたしは強烈な不安と恐怖に突き落とされる。

それに絶えられず、不安と恐怖から逃れようとして、偽りの自我の安定にまたしがみつく。母はそんなに悪い人ではなかった、愛情深いところもあった、ああもしてくれた、こうもしてくらたと考える。すると、また強迫観念をはじめ、人格障害、対人関係障害など一種の神経症的症状がぶり返してくる。この葛藤というか、往復運動を何回となく繰り返した。
 
要するに、神経症が治るか治らないかの問題は、原理としては実に簡単明瞭である。一服飲めばピタリと治る薬があるわけではなく、どこかに救いの神がいて助けてくれるわけでもない。誰でも幼いときから親子関係のなかで築いてきた自分の物語に支えられて自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ、何ら問題は起こらない。

この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧するとき、神経症的症状が発生する。したがって、神経症を直すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することを止めて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただ、それだけなのである。しかし、そのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするかしないかの問題である。そのあとは、新しい真実の自分の物語を構築してゆけばいいのである。それも容易ではないが…。
唯幻論大全
岸田秀
飛鳥新社
2013-01-25


なかなか分かりにくい。岸田の本を読んでいるとたまに一貫性がないことがある。この例も彼の理論がどうやってあてはまるのか。

まず、岸田の母親は岸田に愛情を注いでおらず利己的に育てたようだ。それが最初にあり、岸田も幼少期なりにそのような自我を持った。要は、母親に愛さていないという物語。しかし、成長するにつれ「母親とは子供を愛情を持って育てるものだ」というような常識を知り、母親と接したり他者と接する中でそちらのほうが現実に適応し、もともとの自己的な母親の物語は抑圧された。社会の常識は重要だ。なぜなら、物語は他者に認められなければならないので、社会的な傾向に沿ったものでないと認められにくいからだ。逆に常識はずれな岸田のような自我は社会に合わせるために自分の自我を抑圧しなくてはいけなくなる。

その後ずっと大人になっても「どの母親も子供を愛している。自分の母親もそうだ」という物語を持って生きていたが、その下の自我の核心には「利己的な母親」の物語があったのである。これを認めると今まで何十年という安定してきた自我を放棄することになる。(安定しているとはいえ下に抑圧されていたものが時々病を生じさせていたのだが)もしそうするのであれば、それに伴いあらゆる今の物語も書き換える必要がある。世間的には「母親は子を愛するものだ」と言ってきたり、「私は愛情を持って育てられた」という認識を持つものに新たな認識を書き込まなければ解決しない。しかし、そうすることでもう抑圧された欺瞞に突かれることはなくなる。

このように幼少期に作られた自我が、その後大きく異なる自我で覆いかぶされると岸田のように自我の安定に問題が生じることが分かる。ここでの要点は、「個人の特殊な自我」と「社会の常識」の対立である。誰でも特殊な体験を持っているものだが、それを物語に組み入れるには程度の差はあれ社会の常識から外れなければならない。

そして上述の通り根本的に誰もが母親から育てられる経験をしていることから「自己放棄衝動」と「自己拡大衝動」を持ち、その後社会という人間の相互関係に置かれるため、自我は安定しない。そう、基本的に自我は安定しないのだ。でも、それをいちおう分かりながら行動していけば、生は必ずよくなるだろう。まずは自分がどのような物語を生きているかを理解し、さらにそれが社会や周囲の人間に認められているのかを考えてみよう。これがあなたが求める「幸せ」の第一歩なのだ。

自我=物語を知るために、心理学者の榎本博明氏がいろいろ行っている。

以下の本から自己物語を知るための方法を参考にされたい。ありがとうございます。


自己を語ってもらうことにより個人の人生に迫ろうという方法を「自己物語法」と名付け、面接法、記述法、図示法といった3つの方法を考察し、実践の場で用いています。面接法は、幼児期から現在に至る人生の各時期の主なエピソードとそれが本人にとってもつ意味を語ってもら半構造化面接であり、とくに思い出されるエピソードや転機となったエピソードについて時間軸にそうのを原則としつつ自由に語ってもらう。語る代わりに記述してもらうのが記述法。図示法では、人生の各時期に与える評価をもとに人生の起伏、すなわち上昇部分や下降部分、上昇、下降の転換点について記述してもらう。

自己物語法では表のように一連の問いかけに対して思い浮かぶことを自由に語ったり記述してもらう。語られた内容をもとに自己物語の文脈を抽出する際には以下のようなことを心がける。

1,      想起されるエピソードを事実と意味づけ(テーマ)の相互作用の産物として理解する

(ア) 出来事のとそれに対する気持ちや意味付けを区別して整理する

(イ) エピソード群に、何らかの共通点がないかどうか検討する

(ウ) 繰り返し現れるテーマや基調として流れているテーマを読み取る

2,      とくにターニングポイントとなったエピソードの現在における意味付けに注目する

(ア) 出来事、それに対する当時の気持ちの解釈、現在の気持ちや解釈、その後の自分に対する影響などを整理

(イ) 今現在生きられている自己物語の鍵をにぎると思われる文脈を読み取る

自己物語法の手順

1,      今の自分自身について

2,      今の自分にとって大事だと思うエピソード

3,      懐かしく思い出される人、モノ、出来事、場所

4,      最初の記憶

5,      最初の記憶より順を追って想起される主なエピソード

(ア) 幼児期のエピソード

(イ) 移行期

(ウ) 小学校時代のエピソード

(エ) 移行期

(オ) 中学校時代のエピソード

(カ) 移行期

(キ) 高校時代のエピソード

(ク) 移行期

(ケ) 大学時代のエピソード

6,      転機ターニングポイントとなったエピソード

7,      自分の人生史の中でやり直したい、書き換えてしまいたいところ

8,      今の自分自身について

9,      語りの前後での自分自身に関する見方に生じた変化

10,感想

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
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日本語に限らず起きる難しい問題があります。

「音読」の評価です。
「発音」の評価といっても同じです。


ここでは特に「日本語学習者」が先生に「音読」を発表したり録音を提出する場合、どのように評価すればいいのかについて考えたいと思います。さらに限定して生徒は中国人であることを想定。

インターネットで「スピーチコンテスト」「発音」「音読」「審査基準」「評価基準」とか混ぜて検索してみるとこの領域はかなり議論されており、さらに決まった王道的な評価基準はないようです。

ある論文に評価基準がまとめられているので引用させていただきましょう。

 音読評価に関しては、コンピュータソフトによる測定方法(Pendergast,1985;Coniam1999;Beck & Mostow,2004;鈴木・阿久津・飯野,2009)と、人間が音声を聞いて評価する方法に分けることができる。そのうち評価者が評価する方法に関する先行研究や文献の中には、評価基準を示したものが散見できる。
小川編(1982:421-423)は音読の際の態度や姿勢に関するものを含め、16に及ぶ評価項目を提起している。これらすべてについて評価をするのは教育現場においては現実的ではなく、実際の授業では、音読指導の目的に沿って個々の教員が項目を抽出して評価することになろう。その他評価項目を提示しているものに、京堂(1989)、Coniam(1990)、宮迫(2002)がある。これらの研究で示された評価項目を表1にまとめる。その他評価方法について提案した鈴木(2009)もあるが、測定の精度を確保するため個々の評価項目に関してさらに具体的な基準を示しすことが求められる。
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海外のリーディングにおけるFluency(流暢さ)や Repeated reading(繰り返し読み)指導の領域には、基準を示した研究が散見できる。単語の発音(語認識精度)に関しては Rasinski(2003:159-160)が 次 の ような基準を提示している。
 

1.明らかな発音の間違い、他の単語への置き
換えや発音の反転、読み飛ばしは読み間違
いとする
2.3秒以上経っても発音をしない場合は読み
間違いとする
3.同一単語の繰り返しおよび、自分で読み間
違いを修正した場合は、読み間違いとしな
 
こうした研究は、児童生徒に対する母語のリメディアル教育や読みの苦手な児童生徒を対象とする、いわゆるボトム・アップの視点からアプローチしたものであり、これらの研究も学習者の音読能力がリーディング能力を予測することが可能であるという立場を取っている。Kuhn & Stahl(2003)、Klauda & Guthrie(2008)が過去の研究を概観し、評価項目を概観しているが、その中で国内の研究と共通して
いると思われる評価項目を整理すると次のようになろう。
1.語認識精度(word recognition accuracy)
2.音読速度(fluency, speed)
3.プロソディーに関わる要素(Appropriate expression : pitch, pause, phrasing, the tonal and rhythmic characteristics)

これらの項目の習得には順次性があり、まず個々の単語がすばやくかつ正しく発音できるようになり(語認識精度の向上)、単語が流暢に読めるようになるにつれて音読速度も向上し、その後さらに理解、解釈や表現に関わるプロソディー(ポーズ・ストレス・イントネーション)の能力が向上する。熟達度の向上がこうした評価項目に反映されると考えられる。プロソディーに関する項目は、speed と fluency、expressionと prosodic features、pause と phrasingなど異なる用語を使用しているが、本研究では国内で一般的となっている用語(ストレス・ポーズ・イントネーション)を採用する。
本研究は、上記の音読能力の発展過程にもとづき図1のようなモデルを想定しプロソディーに関わる音読評価項目が熟達度にどのような影響を与えているのかを分析することを目的とする。

う〜ん、なかなか詳しくありがとうございました、って感じですね。

私の経験と以上を参考にとっても4つの分かりやすい基準を作ってみました。

(1)発音
「発音」とは「に」「ほ」「ん」などの音がしっかりと合っていること。アルファベット表記だと分かりやすいですかね、ni ho nをhi o n などといったら間違いです。0かミスありかとどちらかの二択の評価。

(2)イントネーション
イントネーションは「橋」と「端」みたいなものです。1の発音が合っていても極度にイントネーションが悪い場合、聴き手は理解できません。また極度に不快な場合もです。その場合はミスとします。これも0かミスありかとどちらかの二択の評価。理解でき不快感もそこまでないイントネーションはOKとします。

(3)なめらかさ(ポーズ、ピッチ、フレージング)
どこで文章を区切るか、スピードによどみがないか、フレーズごとにリズムよく発音しているか、などです。これらは独立的に区切るのが難しいので「なめらかさ」として一つにしています。


(4)音読速度
1分間で300文字の日本語の速度が合否ライン。

その他注意事項として、
  • 明らかな発音の間違い、他の単語への置き換えや発音の反転、読み飛ばしは読み間違いとする
  • 3秒以上経っても進まない場合は読み間違いとする
  • 同一単語の繰り返しおよび、自分で読み間違いを修正した場合は、読み間違いとしない
以上です。

是非とも参考にしてください。よろしくお願いします。\(^o^)/ 

新年快楽〜!

明けましておめでとうございます。

昨日は中国の大晦日、除夕でしたね。

多くの中国人は日本でいう紅白歌合戦みたいな番組「春节联欢晚会」(通称:春晩)を観て過ごしたのではないでしょうか。

毎年日本ではニコニコ動画がライブ放送をしているようですが、今年はYouTubeでもやってましたね!(以前からかも)私も少し観てましたが、ひたすら派手な演出で歌っているだけだったのですぐあきました。子供の頃の思い出とかもないですし。。

中国人の友人に連絡してみたら、聞いた3人は誰も「春节联欢晚会」を観てませんでした(笑)既に寝ている人もw

みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。

以下、6時間近くの「春节联欢晚会」が観れますよ〜(^^)

 

先日紹介したストイックな中国語学習を提供する「中国語を話そう エビ先生の中国語講座」ですが、そこで一つ興味深い文章を見つけました。

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「発音できない音は聴き取れない」というのは、うすうす誰もが知っていると思いますが、エビ先生は具体的に以下のように述べています。聴写というのはディクテーションで、リスニングしたものを書きとるということです。

聴写と発音は密接な関係があり、正しく発音できない音は聞き間違います。
私は何年も赤ペンを入れていく内に、聴写の答案を見ただけ
その人にどのような発音の問題があるか分かるようになりました。
 
例えば、いつも有気音と無気音を間違えていたり、
巻舌音(zhi-chi-shi)と舌面音(ji-qi-xi)を混同して聴写する学習者は
実際に発音がそのように間違っている可能性が非常に高いので、
「聴写+和訳」と同時にオンラインレッスンを受講して
発音を矯正することをオススメします。それにより、聞き取りが楽になります。
 
聴写して、和訳して、更にオンラインレッスンで音読や復唱、暗唱すれば、
听说读写译の5分野を満遍なく鍛えることができ、加速度的に上達します。
聴写は決してパズルのようなものではなく、耳から入ってきた音声を
頭で組み立てて文にする「作文」ですので、作文力も向上します。
リスニングしないと何を発音していいか分からないので聴くことも重要ですが、発音と聴解は卵と鶏の関係です。どちらかというと、大人になったわれわれは子供のように何も考えずに言葉を学ぶことはできないので、発音を意図的に練習して聴き取れる音を増やしていく必要があります。

われわれの方法では250字程度の文章を正しい発音で暗誦します。1分の音読です。5つ、10つ、30と1分音読できる文章を増やしていけばほとんどの音はカバーできます。
 
音読、やっぱりこれを軸に学ぶのが語学の最短ルートです!!

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