記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年04月

人間の生を、カオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、と捉えるのはポストモダンの基本的な図式である。人間は環境世界との適合関係が壊れているので、そのカオス的な状況から逃れるために、文化の秩序(象徴秩序)が必要になる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』の中で、人間の生は「絶えず習慣を更新しながら、サリエンシーに慣れ続ける過程」と書かれている。


 
どういうことか。サリエンシーとは「精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激」のことであり、それゆえ、人間は生まれたときは、世界に存在するいかなる事物にもいかなる出来事にも慣れていないので、この世に存在するすべてはサリエンシーであると考えることができる。

「世界はサリエンシーなのだから、それに対する慣れを構成する過程には終わりがない」ので「生きるとは、したがって、相対的に安定した予測モデルを作り続ける過程」であるという。これはヘーゲルの『精神現象学』でいうところの意識が絶対知へ成長する過程と似ている。

いかなる経験もサリエントであるので、傷跡として残る。阿頼耶識のようなものだ。そしてその程度により、容易には慣れることのできないサリエンシーを経験した場合、トラウマとなる可能性をもっている。われわれは絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている。言いかえれば、新たなサリエンシーをパターン化してパターンをより多く持ちどんなサリエンシーも容易にパターン化できることを目指しているともいえる。

さて、これを基に「僕らはどう生きるべきか?」について考えてみよう。

まず再確認すると、僕らの目指すべきは「安定した予測モデルを作る」ことだ。そしてこれには果てがないから、人生とはそのようなモデルを作り続ける過程、だとされる。

ただ、これでは人間の「知性」の話しかしていない。人間は何かに惹かれるというエロス性を持つ。それは、フロイト的に言えば、最初に作られた自我=物語である全知全能に回帰したいというベクトルである。

そうすると、改めわれわれがどこへ向かっているのか確認しよう。

  1. 多様な刺激を自分に容易に取り込めるようなモデル作り
  2. 全知全能への回帰
人は誰でも全知全能になりたい。基本的には強い生きるベクトルがある。しかし、全知全能へ回帰するには人間社会において他者から承認を得る必要がある。自由気ままに振る舞っても何も咎められたり、後ろめたさを感じないような状態。往々にして、僕らは幼少期に他者とぶつかる。そして、好きなことをやると仲間はずれにされたりいじめられたりする。ここで僕らの予測モデルの原型が作られてしまう。人と違うと叩かれるというようなことが怖くなる。

そして、(自分が行く可能性のある)どんな環境に行き、どんな人と会っても「いつもと同じように」行動できるような予測モデルを作る。それは、幼少期に作られた原型をより強固にするということ。こうなってくると、全知全能へのベクトルは抑え込まれしまう。今の日本の多くの人はそういう状態。いや、世界的に人間社会で他者と接する必要のある環境ではどこでもそうだ。

では、今何が求められているのか?

それは、
個人をエンパワーメントすることだ。

全知全能へ近づかせる、あるいはその可能性を見させる
相互承認を根付かせる

これらに関することが今の時代において求められている。
 

われわれはたしかに無意識的に制御され、数多くの行動をしている。しかし、意識があるときは文字通り意識があるわけで、何かしたらを言語的に志向しながら行為をしている。

だれもが意識上では、自分の物語を暗黙的に了解している。どこの出身で、どういう親に育てられてどういう学校に行ってどういう職業について、どういう趣味がある、とか。

そして、自分が行為を行う上でも前提となる方向性があるはずである。何か行為をする際の基準というか、善の了解と言ってもいい。

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人は種の保存と個体保存に衝き動かされた動物なので、突き詰めれば何ごとも「自分」のためだが、社会のなかで生きる「人間」であるわれわれはその上に幻想を築いている。

人それぞれどこに力点があるかは異なる。
大きく分けて4つ。
  1. 「自分」が気持ちいいこと、ポジティブな感情を抱けることに重点があるもの。
  2. 周囲の顔見知りレベルのため、彼らを幸せにしたい、承認されたい、ということに重点があるもの。
  3. もう少し広く、顔が見えなくても組織や業界などの仲間に重点があるもの。
  4. 国民全体、さらには広い地域や地球規模の人類の未来に重点があるもの。
あなたはどこに力点があるだろうか?

この重点が違う人とは基本的に話が噛み合いずらいので要注意。そして共通了解できなくてもめげずに頑張ってほしい。

ちなみに僕は、4である。 

なぜfacebookやInstagramにしょっちゅうリア充写真を投稿している人を見ると「ムカつく」のか?自分の赤ちゃんの写真を毎日アップするもの、仕事での集いの写真をアップするもの、業界の重鎮との写真をアップするもの、昇進や褒められたことをいちいちアップするもの。

一般的には、「他人のことはどうだっていいじゃん」「それをうざがっている君自身に問題あるんじゃない?」などジェントルマンな返し来そうだが、深く考えてみたい。

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それは、一言で言えば「浅ましい人間に自分を重ね合わせる苛立ち」。或いは、「各自が自我の安定のために承認という椅子取りゲームをしているから」である。だから、限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは自分の物語の安定を邪魔するものとして「うざい」のである。

詳しく説明しよう。

まず、そもそも「なぜ、SNSにリア充自慢をするのか」?

前に書いた記事を引用する。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?


一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。  

人は、自我を安定させることを至上目的としているので、その安定のために人の承認が必要。SNSは手っ取り早く他者からの承認を得ることができる道具だ。同僚とみんなで楽しくわいわいしている写真をアップすれば「楽しく仕事をしてる良い人生」という物語を他者に共有し、「いいね」を貰えればそれが他者からも認められ、物語は強められる。自分はこの物語を生きているという確信が強まり、自我が安定し現実に密着する。

では何故、こうして横目で他人が自我=物語を安定させているところを見ると、ムカつくのか?

二つ考えられる。まずは、その人への憐れみの共感である。結局、SNS上での「いいね」承認は脆い。みんな適当に「いいね」しているので、物語は大して強化されない。物語は、直接的なリアルな人々との交流、深い語りの中での交わりで強化されるものなのである。にも関わらず安易にSNSで承認を求める浅はかな人間に、むなしいことだと分かっていてもそのように簡単に物語を固めたい自分を重ねて苛立ってしまうのであろう。

もう一つは、限られた承認の椅子取りゲームで厚かましく椅子をどんどん取っていく他者への憤りなのかもしれない。誰もが認められたと思っていても、人々が与える承認には限りがあると思われる。限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは「自分の物語の安定」の機会奪い、邪魔するものとして「うざい」と感じてしまう。

というわけで、何故SNSのリア充自慢がうざいのかを考察してきた。しかし、この行為自体、その人にとっては合理的なものなのである。本当に自分の物語の中で重要なものであればSNSで共有し、直接は会えない人々にも知ってもらい自分の物語への確信を強めていくことは実存的に価値あることだ。

われわれは一人ひとり自分の世界を生きている。歴史や社会という文脈の中に生まれ、他者と共同する価値観や感受性はあるが、それでも固有性を持つ。フェティシズムや世界像は誰ひとりとして同じではない。

今の時代はまだ、こうした一人ひとりの個性が十分に発揮できない。人それぞれ何かしらその人だけの固有があるということは、他の人が知らないということだ。他の人が知らない世界について知っている。外国語の翻訳のような高度なことでなくてよい。地元のラーメン屋について詳しいとか、ニート生活5年がどういうものか、とかどんなに小さなこと、無価値に見えることでもいいのだ。

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さて、以下、筑波大学助教授の落合陽一さんとホリエモンの対談内容。いずれみんなが好きなことをして生きるという未来の話。

落合:いずれ、みんながエンターテイナーやアーティストになる。「そんなの自分には無理だ、エンターテイナーにはなれないよ」と思う人も多いだろうけど……。

堀江:絶対なれる! 俺、ヒモデブニート(※注)に「芸人を名乗れ」というミッションを与えたの。彼はいま「ヒモデブニート芸人」と名乗っている。そうしただけで、なんかバリューが上がった気がするでしょ?

【※注:堀江氏が運営するているHIU(堀江貴文イノベーション大学校。会員制のコミュニケーションサロン)の会員の通称“彷徨うヒモデブニート”氏のこと。仕事もなくてぶらぶらしてた不器用な若者】

落合:いつでもテレビに出られますね(笑)。 たしかに、誰にでも何か才能があるはずなんですよ。大学で学生と話していても、最初は何もやりたいことがないと言うんですが、半年ぐらいすると「実は音楽が好きで」とか言い出す。そこから独自のテーマが見つかったりするんです。自分ひとりぐらいならそれで食っていける。

堀江:知り合いに「アイスマン福留」という人がいます。40歳近くまで職を転々としてきたんだけど、最終的に落ち着いた仕事は「コンビニアイス評論家」。アイスマニアというだけなんだけど、けっこうテレビに出ているからね。

落合:たとえば商社などに勤めていたら、「芸人」になれる人は大勢いると思いますよ。接着剤の営業だけ10年やっていたという人もいる。そんな人は「接着剤芸人」になれますよね。

堀江:ミニマムな暮らしさえ受け入れれば、それでやっていける社会に変わったんです。肉を焼くのがものすごく得意なら「バーベキュー芸人」でいい。100人のコミュニティに1人くらいなら、たぶん成り立ちますよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/12856473/

一人一宇宙であることを誇りに、自分だけが詳しいこと語ろう。

羽生名人、イチロー、錦織圭はみんな分かりやすい1つの領域にコミットできた。もちろんそこには悪戦苦闘があったはずで、継続した意志には敬服せざるをえない。でも、みんながみんなそういう登る山にコミットできるわけではない。

社会的にみれば何もできなかった人々は無数にいる。こういう人たちに何とか価値を見出すことは社会的に重要である。もちろん、僕らはみんな生存するために努力がまだ必要な時代にいる。社会的に無能な人間は、積極的に自分の経験が何か社会に貢献できるかを見出し、発信していくべきだ。

これからは、自分の好きなことをやるだけで、それが社会的に認められ、物語として承認される時代になる。今までは、業界や職種により一般的な世の中の「視点」が存在していた。しかし、これからは技術革新など環境の変化で誰もがWINWINになれる。

人はみな固有の経験をして育ち、自分だけの感受性を磨き、世界像を作る。これまではその物語を妥協して、社会一般に合わせる必要があった。それが就職である。しかし、これからはその物語をそのまま発展させて自分独自の物語を歩むことができる。これまでであれば誰からも承認されず、自我(物語)は安定する機会がなかったが、これからは今だに残る大きな物語(先の世間の視点)が解体され、個々の物語に重心が移っていく。

フロイト的に言えば、われわれはみな、幼少期の全知全能に回帰したいと願う。しかし、現実世界では同じようにそうしたベクトルを持つ他者と利害調整をし、現実法則に従う必要がある。今後は、こうした調整がもっと寛容になる。互いに承認の椅子取りゲームをしなくても、本来持つ感受性に沿って人を評価し、自分を発揮しているだけで、全知全能への回帰への欲望をまとめることができる。

こういう時代への移行には何をすればいいか?

一人ひとりが、包み隠さず自分を表現し発信することが大切だ。ニートだろうが、犯罪者だろうが何でもいい。自分の固有の経験をもっと発信すべき。僕らは同じ人間という生物の身体を共有しているのだ。誰かしらの共感を得るはず、徐々にそこから物語を固めていけばいいのだ。

youtubeやブログからはじまり、今ではライブ中継やオンライン決済も簡単にできる。 どんどん個人がエンパワーメントされている。自分固有の能力を提供し、それを糧に生きていけるのだ。全世界で個人レベルでのクラウドソーシングは増々増えていくであろう。繰り返しになるが、われわれがすべきは自分の固有の経験や能力を明確化し、発信することである。

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