記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年05月

みなさんは、何かやりたいことを5つ挙げろと言われたらすぐに答えられるでしょうか?子供の頃には生き生きと将来に漠然とした希望を持っていたのではないでしょうか。しかし、人間社会、特に日本においてはそうしたモチベーションが削ぎ落とされる教育が行われ、そのような教育を受けた人たちに囲まれ生活する中で、モチベーションが抑圧されてしまっています。

私自身はモチベーションがかなりあるほうですが、周囲を見ているとみんなやりたいことがなかったり、完全に社会によってモチベーションが削ぎ落とされている人々を多々見かけます。

本来、人はやりたいことがあってそれに向かっていろんな困難を乗り超え生きていくものです。それが本来的な在り方です。「幸せ」を求めるのが生ではないです。もちろん、やりたいことがあって生き生きするなら「幸せ」も訪れますがそれが生の本質ではないです。

これらの前提を基に、今われわれの社会には何が必要か考えてみましょう。

n   前提1:われわれは人とぶつからないように教育された

Ø  人と協力して協調するようなしつけ。ドリル教育。周りと同じやり方で同じようにやる。

n   前提2:人とぶつかるのを恐れるエートス。欲望が抑圧される

Ø  そのような教育で育ったわれわれは何かする際に人に頼んだり命令したりするのを恐れるようになっている。

n  結論: 今必要なことは、

1.        こうした大人たちの欲望を解放してあげること。

2.        子供たちへの教育をモチベーションを殺さずにしてみんななかよくできるような教育をする


 であります。

僕は、特に1番目、既にモチベーションを抑圧されてしまっている大人たちの欲望を解放し、方向づけし生き生きとしてほしいと思っています。みんなが生き生きとすれば世の中もよくなるでしょう。 

ある天才エンジニアな若手(つまり理系)に哲学の話をした。彼は、死んだ後どうなるかについての哲学に興味があったが、僕は哲学はその問題を扱わず、死後を扱えるのは宗教だ、と言った。彼はそれは思考停止ではないかと言うので、哲学は「誰もが納得できる概念を使って組み上げていくものだ」と返すが不満そうであった。

そもそも暗黒時代の中世からデカルトの近代になり、物語的に世界を説明した恣意的な世界観は否定され始める。誰も調べようのないことを使って人に何かを強制するのは無理がある。そこで、みんなが納得できるような世界や生の説明をするようになる。それが近代以後、現代にも続く哲学の流れである。

まあ、これはこれでいいとして、

さて、僕はなぜ哲学をしているかというと「善い生」を生きたいし、みんなにもそうなってほしいからだ。しかしその理系の若手は結局は「 脳内の状態」がすべてなんだからそこを起点に科学的にやらないとだめだという。麻薬でも何でもいいから「気持ちいい」「幸せ」と思う状態を突き止めて、それを再現すればいい、という考え。

これについてはどうだろうか? 

たしかに、麻薬はやったことがないが気持ちいいのだろう。或いはセックスでもいい。こういうのは短期的に数時間なりパラダイスを味わえる。その時の脳内状態を測定できるとして、これを再現すればいいということになる。別の方法で、というよりはずっと麻薬やセックス、ということになるだろう。

これだと、身体が持たない。とまず反論できる。麻薬は身体を破壊するし、セックスはたしかに体力的に厳しい。しかし、彼がいうのは「このような快楽を身体に負荷のない形で再現する」ということ。 でも、それは科学の発展を待つというシンプルな道をまっすぐ突き進むしかない。仮にそうしたものができても、まずは贅沢品として一部の人しか利用できない。それにそうした快楽のために働く構図は生き残ることになる。

なので、僕が言っているのは「生」全体の話だ。短期的なことではなく、僕らは80年くらい生きるわけで、それをうまくマネージしなければならない。一番よいのは常に幸せな状態。麻薬のような快楽状態が80年続いてもいいが、それは上述の科学の発展の道筋である。そのためには、まずは地球上の人類全てが働かなくても衣食住が提供され、そうした快楽も無尽蔵に与えられることが前提となる。

達成できるかの問題は置いておいて、そこには2つの疑問がある。まず、衣食住が無償になればわれわれの感受性は大きく変わるはずだ。人と付き合う必要がないため、幼少期の経験も変わり他者の実存における位置づけが変わる。麻薬などの快楽も、現代のようなストレス社会を前提にしての快楽なので、そもそも日々自由であれば、それが必要かも分からない。二つ目に、そういう快楽があったとしても慣れてしまえば人間はさらなる快楽を求めるだろう。麻薬の奪い合いや、もっと刺激の強いものを求める。であれば今と構図は同じ。

なので、もっと本質的なことを哲学したいのだ。

では、われわれの「生」はどういう構造をしているのか。これは科学では分からない。いくら脳の素粒子状態が分かっても、それは事実的なことであり、それがどういう「意味」や「価値」を持つかは主観的に語られる以外にはない。

仮に全素粒子状態が24/7で捉えられるようになったとしても、主観で何が起きているかは私しか語れない。行動主義的にわたしが嬉しそう、幸せそうにしていれば「幸せ」とみなすことはできるだろう。さらに私の意識状態をシミュレーションしようとするなら、全宇宙の素粒子状態を把握しなければならないだろう。私は宇宙の繋がって「いま、ここ」の経験をしているのだから。

麻薬やセックスのようなただの「脳内の物理的な化学反応」的な快楽ではなく、幸せという人間独自の感情は、より高度なものだ。ただ、化学反応を起こせばいいわけではなく、外部世界や他者とも繋がった経験なのである。われわれの過去の全記憶が身体に保有され、それと外部からの刺激で意識が生じるので、それは全宇宙的な現象なのである。そんな計算まずできないだろう。猫の画像からの概念獲得にスパコン何台も使っているのに。なので、全素粒子状態からシミュレーションするやり方は不可能と結論。

そもそもそういう人間的な経験自体をなくしてしまえ!マトリックスみたくカプセルに入っとけばいいよ!みたいな世界を目指すのであれば、それはそれで確かに筋が通っている。どういうことか。要は、不労不老が達成されたら、今の「人間」の定義がなくなるだろう。人と接しながら他者関係をいきる人「間」が終焉する。これはフーコーが1960年代くらいから言っているが、まだまだ終わりが見えない。そして、もし人間が終わるのであればわれわれ「人間」はその先の実存的な在り方について原理的に語ることはできない。人とうまくやっていく必要のない状態で育ったヒトの在り方など想像もできないからだ。

だから僕は人間が人間である限り、まずは、物語的な動物としての生を前提にして考えていきたい。

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